ゴールポストをずらすな ― 2026年06月02日
沖縄・辺野古の海で、抗議活動団体の船に生徒が乗り込み事故が起きた。文科省は、フィールドワークを行った同志社国際高校に対し「政治的活動と一体化」し教育基本法に違反していると発表した。すると、これに真っ先に反発したのが共産党である。「教育への介入だ」「フィールドワークの自由を守れ」と、立派な言葉を次々と繰り出す。だが、その言葉の勢いとは裏腹に、肝心の現場の話になると急に口が重くなる。料理番組で「味付けが命です」と言いながら、鍋の中身だけは絶対に見せない、あのもどかしさである。
事実はそう複雑ではない。抗議活動が続く海域に出向き、その活動に関わる団体の船に乗り、講師は「自分たちは違法なこともしている」と語った。教師もそれを聞いていた。それでも学習を続けた。ここまで並べれば、議論の半分は終わっている。残るのは「その判断は適切だったのか」という一点だけだ。ところが、この“簡単な問い”ほど、共産党はなぜか遠回りしたがる。真っすぐ歩けば五分で着くのに、わざわざ峠道に入り、尾根を三つ越えて、道に迷い、気づけば元の場所に戻って目的地には到着しない。
案の定、話は妙な方向へ曲がる。「政党支持ではないから問題ない」「教育の自由が大事だ」「平和教育を委縮させるな」。どれも耳ざわりはいい。だが、それは鍋の“味付け”の話であって、“材料”の話ではない。文科省が問うているのは「政治的活動と一体化して偏向していないか」という一点なのに、その問いに正面から答えず、別の話にすり替える。材料を見せずに「この料理は自由の味がします」と言われても、こちらは困る。自由の味とは何か。塩なのか、砂糖なのか、それともただの言い訳なのか。
さらに厄介なのは、共産党の側も理屈に逃げたくなることだ。「中立性がどうだ」「法解釈がどうだ」と積み上げれば、それらしくは見える。だが、事実を見ずに論理だけ積むのは、砂の上に城を建てるようなものだ。形は立派でも、波が来れば一瞬で崩れる。しかも、その砂の城を前にして「これは平和と自由の象徴である」と言い出す人まで現れる。そこまで来ると、もう議論ではなく、砂遊びである。
本質はもっと単純だ。違法行為を含むと自ら語る主体の現場に、生徒を置いた。その判断は適切だったのか。ここに尽きる。違法性の細部を大仰に論じるまでもなく、その時点で教育としての線を越えている、と考えるのが自然だろう。ところが、この「自然」がまた気に食わないらしい。どれだけ大雨が降っていても「俺は風邪ひかない」と言い張って傘をささない人のように、当たり前のことでも認めようとしない。
結局のところ、議論とは難しい言葉を並べることではない。まず事実を拾い、その上で判断する。それだけの話である。当たり前のことを当たり前にやる。それができないとき、人は抽象論という季節外れの厚着をしてしまう。真夏にコートを着込んで汗だくになりながら、「これで理屈は通る」と妙に安心している姿である。今回の一件は、その姿をいやに鮮明に映し出している。議論の道は本来まっすぐなのに、わざわざ曲がり角を探しに行く。その癖が、今回も見事に顔を出したのである。
事実はそう複雑ではない。抗議活動が続く海域に出向き、その活動に関わる団体の船に乗り、講師は「自分たちは違法なこともしている」と語った。教師もそれを聞いていた。それでも学習を続けた。ここまで並べれば、議論の半分は終わっている。残るのは「その判断は適切だったのか」という一点だけだ。ところが、この“簡単な問い”ほど、共産党はなぜか遠回りしたがる。真っすぐ歩けば五分で着くのに、わざわざ峠道に入り、尾根を三つ越えて、道に迷い、気づけば元の場所に戻って目的地には到着しない。
案の定、話は妙な方向へ曲がる。「政党支持ではないから問題ない」「教育の自由が大事だ」「平和教育を委縮させるな」。どれも耳ざわりはいい。だが、それは鍋の“味付け”の話であって、“材料”の話ではない。文科省が問うているのは「政治的活動と一体化して偏向していないか」という一点なのに、その問いに正面から答えず、別の話にすり替える。材料を見せずに「この料理は自由の味がします」と言われても、こちらは困る。自由の味とは何か。塩なのか、砂糖なのか、それともただの言い訳なのか。
さらに厄介なのは、共産党の側も理屈に逃げたくなることだ。「中立性がどうだ」「法解釈がどうだ」と積み上げれば、それらしくは見える。だが、事実を見ずに論理だけ積むのは、砂の上に城を建てるようなものだ。形は立派でも、波が来れば一瞬で崩れる。しかも、その砂の城を前にして「これは平和と自由の象徴である」と言い出す人まで現れる。そこまで来ると、もう議論ではなく、砂遊びである。
本質はもっと単純だ。違法行為を含むと自ら語る主体の現場に、生徒を置いた。その判断は適切だったのか。ここに尽きる。違法性の細部を大仰に論じるまでもなく、その時点で教育としての線を越えている、と考えるのが自然だろう。ところが、この「自然」がまた気に食わないらしい。どれだけ大雨が降っていても「俺は風邪ひかない」と言い張って傘をささない人のように、当たり前のことでも認めようとしない。
結局のところ、議論とは難しい言葉を並べることではない。まず事実を拾い、その上で判断する。それだけの話である。当たり前のことを当たり前にやる。それができないとき、人は抽象論という季節外れの厚着をしてしまう。真夏にコートを着込んで汗だくになりながら、「これで理屈は通る」と妙に安心している姿である。今回の一件は、その姿をいやに鮮明に映し出している。議論の道は本来まっすぐなのに、わざわざ曲がり角を探しに行く。その癖が、今回も見事に顔を出したのである。