ブルーインパルス ― 2025年04月10日

大阪・関西万博の開幕を前に、航空自衛隊のアクロバット飛行チーム「ブルーインパルス」が予行飛行を行った。大阪の空に彼らの姿が舞うのは、平成2年の国際花と緑の博覧会以来、実に35年ぶりのことらしい。午前11時40分ごろ、関西国際空港を飛び立ち、府南部を経由して大阪城や万博公園の太陽の塔といった、街の象徴をなぞるように飛行していった。展示飛行は正午から15分間。今回の万博会場である夢洲(ゆめしま)の上空に、白いスモークが描く軌跡が広がった。すべては、万博の開幕を華やかに彩る一幕として企画されたものだ。ちょうど私は太陽の塔の近くのショッピングモールに立ち寄った。いつもは閑散としている立体駐車場が満車で、「何かあるのかな?」と不思議に思いながら屋上階へ上がると、たくさんの人が空を見上げていた。その視線の先に、思い出した。ああ、今日はブルーインパルスが飛ぶ日だった。爆音とともに、6機の編隊がスモークを吐きながら空を駆け抜けていく。わずか5秒ほどの出来事だったけれど、その一瞬に目を奪われた。飛行機雲の向こうに、万博のはじまりの気配が見えたような気がした。
思えば数年前、コロナ禍のさなかに、ブルーインパルスが医療従事者への感謝と励ましを込めて飛んだことがあった。あの時は涙が出た。空に浮かぶその姿が、人と人とが支え合う象徴のように感じられて。今回もまた、「大阪万博、がんばれよ」とエールを送るような飛行だったのだろう。きっとあの空を見上げた多くの人が、その想いに応え、会場へと足を運ぶのだと思う。それにしても、ひととおり空を眺め終えた人たちが、誰も彼もぞろぞろと帰っていくのがちょっと可笑しかった。「あれ、買い物はしないの?」と、心の中でツッコミを入れる。スーパーの棚には、5キロ4300円の米がずらりと並んでいた。備蓄米を放出しても全然安くならないなあ、と思いつつ、ふと思い浮かんだ。いっそ「米をもっと作ろう!」というメッセージで、ブルーインパルスがまた空を飛んでくれたら面白いのに。そんな突拍子もないことを考えながら空を見上げた。
思えば数年前、コロナ禍のさなかに、ブルーインパルスが医療従事者への感謝と励ましを込めて飛んだことがあった。あの時は涙が出た。空に浮かぶその姿が、人と人とが支え合う象徴のように感じられて。今回もまた、「大阪万博、がんばれよ」とエールを送るような飛行だったのだろう。きっとあの空を見上げた多くの人が、その想いに応え、会場へと足を運ぶのだと思う。それにしても、ひととおり空を眺め終えた人たちが、誰も彼もぞろぞろと帰っていくのがちょっと可笑しかった。「あれ、買い物はしないの?」と、心の中でツッコミを入れる。スーパーの棚には、5キロ4300円の米がずらりと並んでいた。備蓄米を放出しても全然安くならないなあ、と思いつつ、ふと思い浮かんだ。いっそ「米をもっと作ろう!」というメッセージで、ブルーインパルスがまた空を飛んでくれたら面白いのに。そんな突拍子もないことを考えながら空を見上げた。
浪人会 ― 2025年04月05日

大学時代、「浪人会」と名乗って仲間を作っていた。受験浪人や就職浪人ではない。主君に仕えることなく、自らの信念で生きる武士、すなわち“浪人”の精神をなぞらえてのネーミングだった。自由で自主独立を良しとする、そんな生き方を志すというまことに青臭いネーミングだ。あれから四十五年。その仲間たちと久々に泊まりがけの集まりを開いた。といっても、特別な目的があるわけではない。ただ同じ思い出話を何度も繰り返しながら、酒を酌み交わすだけの会だ。「俺たち、もう“老人会”になっちゃったな」と笑い合う。そう、今や“浪人”から“老仁”への移行期である。仲間の多くは、故郷に戻って田畑を引き継ぎ、プロの百姓としてのシニアライフを楽しんでいる。田舎では、地域の檀家制度や近所づきあい、行事ごとなど、あれこれと役回りが多い。その分、都会では味わえない“濃い”人間関係がある。正直、うらやましいと思うこともある。年を重ね、引きこもりがちになる都会暮らしと、何かと忙しく人と関わらざるを得ない田舎暮らし。どちらが良いかは人それぞれだが、少なくとも後者の方が自然な形で社会とつながり続けられるのかもしれない。
都会に残った仲間のひとりは、平和運動に取り組んでいると話してくれた。都市生活では、自ら関わる理由を作らなければ人との接点はなかなか生まれない。けれど、田舎ではそうした理屈は不要だ。人と人との関係が、暮らしの一部として当たり前に続いていく。女性は場所に関係なく関係性を育むのが上手だが、役割や理屈がなければ関係を作りにくい男性にとって、年をとってからの田舎暮らしは案外、生きやすいのかもしれない。今回の宿は、京都から百キロほど離れた山里にあった。帰りの車窓から見えた満開の桜は、まるで過去と現在をやさしくつないでくれるようで、しばし見惚れた。今日は町内イベント団体の花見が近所の公園で開かれる。二日連続の飲み会はやや堪える年齢になったが、顔を出して、細くとも人との絆をつないでおこうと思いながら、ふたたび街へと戻っていく。
都会に残った仲間のひとりは、平和運動に取り組んでいると話してくれた。都市生活では、自ら関わる理由を作らなければ人との接点はなかなか生まれない。けれど、田舎ではそうした理屈は不要だ。人と人との関係が、暮らしの一部として当たり前に続いていく。女性は場所に関係なく関係性を育むのが上手だが、役割や理屈がなければ関係を作りにくい男性にとって、年をとってからの田舎暮らしは案外、生きやすいのかもしれない。今回の宿は、京都から百キロほど離れた山里にあった。帰りの車窓から見えた満開の桜は、まるで過去と現在をやさしくつないでくれるようで、しばし見惚れた。今日は町内イベント団体の花見が近所の公園で開かれる。二日連続の飲み会はやや堪える年齢になったが、顔を出して、細くとも人との絆をつないでおこうと思いながら、ふたたび街へと戻っていく。
子育て まち育て 石見銀山物語 ― 2025年04月01日

教室監視カメラ導入の是非について、「希望と信頼のあるところに教育は醸成する」と書いたものの、ずっとモヤモヤしていた。たまたまこのドキュメンタリー番組を見て気持ちが晴れた。『子育て まち育て 石見銀山物語』は、世界遺産・石見銀山を抱える島根県大田市大森町を舞台に、かつて世界屈指の銀山の下町だったこの地域が、閉山後に限界集落へと衰退したものの、地域全体で子どもを育て、町を活性化させる取り組みを描いたNHKのドキュメンタリー番組である。番組では、四季折々の町の風景とともに、移住者や地元住民約400人が協力しながら子育てを行う姿が映し出される。本作は2022年から2023年にかけて春・夏・秋・冬の4回にわたって放送され、2023年1月には全話一挙再放送も実施。その後、2024年6月には特別編が放送され、2025年2月に再放送された。特別編では、大森町がどのようにして過疎地域から子どもの笑顔あふれる町へと変化したのかが改めて紹介された。制作にあたり、制作者が具体的に何からインスピレーションを受けたかは明言されていないが、大森町での地域ぐるみの子育てや移住支援、仕事と生活の一体化などの情報が影響を与えたと考えられる。例えば、町の活性化に関する書籍『過疎再生 奇跡を起こすまちづくり』(松場登美著)では、大森町の事例を通じて地方創生の可能性が示されており、本番組の背景とも共鳴する内容となっている。『子育て まち育て 石見銀山物語』は、地域コミュニティの力や移住者と地元住民の協働による町おこしの成功例を広く伝え、多くの視聴者に感動を与えた作品だ。
圧巻は、たった一人で小学校を卒業していく男子が答辞でお礼を述べる際、集落の人々への感謝を語りながら涙ぐむシーンだ。全校20数人の児童たちは、低学年までもらい泣きをする。帰り道では、集落の人たちが皆「おめでとう」と声をかけ、「泣かんかったか?」「泣いてしまいました」と正直に語るシーンも温かい。こんな地域の学校には、監視カメラは必要がない。「学校づくりは地域づくり」。かつて与謝の海養護学校の初代校長となった青木嗣夫氏の言葉を思い出す。この言葉は、障害児のための地域づくりを念頭に置いたものだが、大切なのは、教育と地域づくりは切り離してはならないという思想だ。確かに、小さな集落の学校だからといって、いじめや体罰がまったくないとは言えない。しかし、地域全体が文字通り子どもを見守り、学校を支えていれば、深刻な事態は避けられる。もちろん、その反面、集落の同調圧力は強いのかもしれないが、大森町に志を持って移り住む若い世代が、それを柔らかなものに変えていく可能性も感じる。コンビニはないが、持ち寄りの食事会がメンバーを変えて家々で開かれ、僻地のプロパンガス代は都会の3倍の値段だが、地域はさらに温かい。新入生は昨年度8名に増え、保育所の園児数も一桁増えた。その理由は、大森町の人的環境にあるのだろう。自分も子育て時代、「親子共育ち」として民間学童保育を支援してきたが、地域づくりには足がかりがなかった。大森町の幸運は、2つの中規模企業が集落への貢献も意識して存続していること、そして2007年に石見銀山が世界遺産に登録され、町ぐるみで穏やかな街を目指す地域づくりの経験を積んできたことだ。どこの地域でも同じ条件があるとはいえないが、地域の絆を深めるための努力が、子どもを育てる環境をつくるのだと言える。
圧巻は、たった一人で小学校を卒業していく男子が答辞でお礼を述べる際、集落の人々への感謝を語りながら涙ぐむシーンだ。全校20数人の児童たちは、低学年までもらい泣きをする。帰り道では、集落の人たちが皆「おめでとう」と声をかけ、「泣かんかったか?」「泣いてしまいました」と正直に語るシーンも温かい。こんな地域の学校には、監視カメラは必要がない。「学校づくりは地域づくり」。かつて与謝の海養護学校の初代校長となった青木嗣夫氏の言葉を思い出す。この言葉は、障害児のための地域づくりを念頭に置いたものだが、大切なのは、教育と地域づくりは切り離してはならないという思想だ。確かに、小さな集落の学校だからといって、いじめや体罰がまったくないとは言えない。しかし、地域全体が文字通り子どもを見守り、学校を支えていれば、深刻な事態は避けられる。もちろん、その反面、集落の同調圧力は強いのかもしれないが、大森町に志を持って移り住む若い世代が、それを柔らかなものに変えていく可能性も感じる。コンビニはないが、持ち寄りの食事会がメンバーを変えて家々で開かれ、僻地のプロパンガス代は都会の3倍の値段だが、地域はさらに温かい。新入生は昨年度8名に増え、保育所の園児数も一桁増えた。その理由は、大森町の人的環境にあるのだろう。自分も子育て時代、「親子共育ち」として民間学童保育を支援してきたが、地域づくりには足がかりがなかった。大森町の幸運は、2つの中規模企業が集落への貢献も意識して存続していること、そして2007年に石見銀山が世界遺産に登録され、町ぐるみで穏やかな街を目指す地域づくりの経験を積んできたことだ。どこの地域でも同じ条件があるとはいえないが、地域の絆を深めるための努力が、子どもを育てる環境をつくるのだと言える。
「D加群」理論アーベル賞 ― 2025年03月31日

京都大学の柏原正樹特任教授が、数学の最高権威「アーベル賞」を日本人として初めて受賞した。柏原氏は代数解析学の発展に寄与する「D加群」理論を構築した功績を評価され、「共同研究者の助けが受賞につながった」と喜びを語った。東京大学在学中に佐藤幹夫氏に師事し、50年以上数学の難題に取り組んできた柏原氏は、「創造的であることの重要性」を佐藤氏から学んだという。研究成果は物理学などにも応用され、今回の受賞が研究全体への評価となったことに満足感を示した。会見では京大関係者からも賞賛され、柏原氏の業績が次世代の研究者を鼓舞すると期待された。アーベル賞は2002年の創設以来、毎年数学の発展に寄与する研究者に贈られている。これだけでは内容がよく分からないので、「D加群」理論とは何かとAIに聞いてみた。『微分方程式は、自然現象や工学的システムを記述する上で欠かせないが、その解を求めるのは非常に難しい。まるで巨大なジグソーパズルを解くようなもので、ピース(解)が揃っていないと全体像が見えず、どこに何があるのかすら分からない。さらに、似たようなピースが多すぎて(無数の解があり得る場合)、本当に正しい解を見つけられるのかすら不明なこともある。ここで登場するのがD加群(D-Module)という数学的な枠組みである。これは「微分を文字のように扱う」という発想を導入し、微分方程式を代数的に整理することで、解の存在や性質を計算せずに把握するための強力なツールとなる。たとえば、楽譜(D加群)があれば、実際に演奏しなくても曲の特徴(リズム・メロディ・和音など)が分かるように、D加群を使うことで微分方程式を解かなくても、その本質が分かるのだ。普通の方程式なら、因数分解すれば、解がすぐに分かる。しかし、微分方程式はそうはいかない。D加群では、微分を操作できる「数」とみなすことで、方程式の持つ性質をより深く理解できるようにする。これは、楽譜を解析して曲の特徴を把握することに似ている。柏原正樹氏は、このD加群の理論を発展させ、微分方程式の「見えない情報」まで分析できるようにした。特に「超局所解析」という手法を使い、特異点の詳細な構造を解明し、代数幾何・表現論・物理学に応用できるようにした。たとえば、これはまるで、楽譜の細かい音符の配置から「どんな楽器で演奏されるのか」「どの部分が特に難しいのか」まで推測できるようなものである。』
この説明を読んでも、なんとなく理解できたが、深くは分からなかった。そもそも微積分は高校数学でギブアップしたままで、解があるのかないのか以前に「分からない」という壁が立ちはだかっている。楽譜の例えを聞いても、知らない曲を楽譜で想像するのは分かるが、知らない曲と微積分の例えがいまいちつながらず「ふーん」としか思えなかったのが正直なところだ。柏原氏の理論によって、数学のみならず、物理学や工学でも微分方程式の解析が劇的に進歩し、彼の業績は数学界に計り知れない影響を与え、アーベル賞という最高峰の賞を受賞するに至ったのだということしか理解できなかった自分が悲しい。もっと数学をまじめに勉強しておけばよかったと、今さらながら後悔している。
この説明を読んでも、なんとなく理解できたが、深くは分からなかった。そもそも微積分は高校数学でギブアップしたままで、解があるのかないのか以前に「分からない」という壁が立ちはだかっている。楽譜の例えを聞いても、知らない曲を楽譜で想像するのは分かるが、知らない曲と微積分の例えがいまいちつながらず「ふーん」としか思えなかったのが正直なところだ。柏原氏の理論によって、数学のみならず、物理学や工学でも微分方程式の解析が劇的に進歩し、彼の業績は数学界に計り知れない影響を与え、アーベル賞という最高峰の賞を受賞するに至ったのだということしか理解できなかった自分が悲しい。もっと数学をまじめに勉強しておけばよかったと、今さらながら後悔している。
議会行政の懇親会廃止 ― 2025年03月24日

長野県山ノ内町は、町議会3月定例会後に毎年開催してきた町幹部と町議の懇親会を本年度から廃止した。懇親会は町側が新年度予算案を可決した議会側に感謝し、議会側が退職する町幹部職員を慰労する目的で長年続いてきた。しかし、町職員にとっては勤務時間外に自費で参加する半ば公務のような負担が生じており、「時代に合わない慣例」として見直しが求められていた。懇親会は3月の定例会に加え、議会の決算認定後の9月定例会後にも町内の温泉旅館で開催されていた。町長や課長級職員、町議が参加し、1人あたり5千円から6千円を自己負担していた。参加は任意とはいえ、事実上「全員出席が原則」とされ、負担に感じる職員も少なくなかった。町長はこうした背景から「懇親会を否定するわけではないが、働き方改革が進む中、慣例だからといって続けるのはいかがなものか」と述べ、議会側に中止を提案した。町議会議長は「町主催のため開催の判断は町に委ねるしかないが、町議の中には率直に話せる場がなくなることを惜しむ声もある」とコメントした。廃止の趣旨は働き方改革だが、石破首相の新人議員懇親会での商品券渡しの問題に便乗した廃止かもしれない。行政と議会には適度な緊張関係が必要だ。たとえ自腹であっても、公務外に仕事の関係性を持ち込む必要はない。また、その関係性は「センセイ」や「与党」が優越的なので対等ではない。その優越的な関係性で半ば強制となる懇親会を廃止した町長の判断は適切だったと思う。
飲み会は本来の懇親の意味では嫌いではないが、公務の上下関係が丸出しになるような懇親会は好まない。昔は何度か抵抗してきたが、同調圧力に負けて諦めた苦い記憶がある。こうした懇親会は支配と服従の下心が透けて見えてしまう。もちろん、参加して話してみれば人それぞれの人となりが見えて、その後の公務がスムーズになるという意見は理解できなくもない。しかし、結局は自分の仕事のために有益なのだから気にするなという発想には馴染めない。一堂に会する懇親会をなくすと、個別の誘い合いが横行したり、招待が不公平だと言われたりしてかえって面倒だというのは強者の理屈だ。私的な時間に自ら懇親会を開催し、気に入った人を呼ぶのは一向に問題がない。その際の経費が主催者持ちだろうが割り勘だろうが構わない。誘われた人の判断で参加すればよいだけだ。プライベートな関わりにも上下関係はあるが、それは双方が個人的に了解した契約だ。公私を混同するなと言うが、社会生活においてはなかなか難しい問題だ。しかし、同調圧力を用いた懇親会が公務に良い成果を生み出すというのは昭和の幻想でしかない。
飲み会は本来の懇親の意味では嫌いではないが、公務の上下関係が丸出しになるような懇親会は好まない。昔は何度か抵抗してきたが、同調圧力に負けて諦めた苦い記憶がある。こうした懇親会は支配と服従の下心が透けて見えてしまう。もちろん、参加して話してみれば人それぞれの人となりが見えて、その後の公務がスムーズになるという意見は理解できなくもない。しかし、結局は自分の仕事のために有益なのだから気にするなという発想には馴染めない。一堂に会する懇親会をなくすと、個別の誘い合いが横行したり、招待が不公平だと言われたりしてかえって面倒だというのは強者の理屈だ。私的な時間に自ら懇親会を開催し、気に入った人を呼ぶのは一向に問題がない。その際の経費が主催者持ちだろうが割り勘だろうが構わない。誘われた人の判断で参加すればよいだけだ。プライベートな関わりにも上下関係はあるが、それは双方が個人的に了解した契約だ。公私を混同するなと言うが、社会生活においてはなかなか難しい問題だ。しかし、同調圧力を用いた懇親会が公務に良い成果を生み出すというのは昭和の幻想でしかない。
再エネ賦課金値上げ ― 2025年03月22日

経済産業省は、令和7年度の再生可能エネルギー普及のための「再エネ賦課金」を1キロワット時当たり3.98円に設定したと発表した。これにより、標準家庭の電気料金には月額1,592円、年額19,104円が上乗せされ、国民全体の負担は年間3兆634億円に達し、初めて3兆円を超える。この金額は令和6年度の3.49円から0.49円の上昇となり、標準家庭では月額196円、年額2,352円の増加となる。この賦課金は平成24年度に導入されたものであり、再エネの普及状況や市場価格を踏まえて毎年度経済産業相が設定している。令和5年度には、ウクライナ侵攻に伴う資源価格高騰の影響で一時的に単価が1.40円に下がったが、その後、令和6年度には元の水準へと引き上げられた。再エネ賦課金の増加は継続しており、負担増加が国民生活に影響を与えている。この制度は再生可能エネルギーの普及を促進するための政策の一環とされているが、今後の負担軽減策についても議論の余地がある。我が家では、月平均700kWhの電力を使用しており、月額約3,000円、年額3万円を超える賦課金を支払うことになる。賦課金は電気使用量そのものではなく、太陽光パネルを設置する企業のために国民全体が支払う「税金」のようなものである。この制度を決定したのは、立憲民主党の前身である民主党の菅直人政権である。当時、原発は放射能事故の危険性、火力発電は二酸化炭素排出による環境への影響が懸念され、再エネへの転換を図るため、政府が財政出動するのではなく、この賦課金制度が導入された。その結果、日本中に太陽光パネルが設置されたが、これにより二酸化炭素排出量がどれだけ減少したのかは、製造過程や処分過程を考慮すると明確ではない。一方で、高効率の石炭発電の新技術の方が削減効果が明確であるとされる。さらに自然任せの発電では発電低下した全域を賄う電力を蓄電するインフラがないので、同じ発電量の火力発電所を待機させておくことになり非効率この上ない。
2012年当初、再エネ賦課金は1kWhあたり0.2円で、「月額コーヒー一杯程度の負担」と説明されていたが、現在ではその18倍を支払う状況となっている。消費電力は横ばい、もしくは減少傾向にあるにもかかわらず、賦課金の増加は止まらない。燃料代高騰といっても、2012年と比較して電気代は約1.5倍程度の増加にとどまっているが、賦課金の上昇は天井知らずである。先日、OECDから日本の石炭消費削減を求める報告があったが、化石燃料の消費が減少すれば、再エネ発電の需要がさらに増加する可能性がある。二酸化炭素排出量が減少しても、国民生活が破綻しては意味がない。日本と他の先進国の違いは、所得の伸びにある。日本の実質賃金はマイナス成長である一方、先進国の平均所得は軒並み増加している。つまり、支払える可処分所得に大きな差がある。電気料金が高ければ、産業も国際競争に勝てない。このような負のスパイラルを生む制度は、即刻廃止されるべきである。
2012年当初、再エネ賦課金は1kWhあたり0.2円で、「月額コーヒー一杯程度の負担」と説明されていたが、現在ではその18倍を支払う状況となっている。消費電力は横ばい、もしくは減少傾向にあるにもかかわらず、賦課金の増加は止まらない。燃料代高騰といっても、2012年と比較して電気代は約1.5倍程度の増加にとどまっているが、賦課金の上昇は天井知らずである。先日、OECDから日本の石炭消費削減を求める報告があったが、化石燃料の消費が減少すれば、再エネ発電の需要がさらに増加する可能性がある。二酸化炭素排出量が減少しても、国民生活が破綻しては意味がない。日本と他の先進国の違いは、所得の伸びにある。日本の実質賃金はマイナス成長である一方、先進国の平均所得は軒並み増加している。つまり、支払える可処分所得に大きな差がある。電気料金が高ければ、産業も国際競争に勝てない。このような負のスパイラルを生む制度は、即刻廃止されるべきである。
35年目のラブレター ― 2025年03月20日

久しぶりに、上映中に観客のすすり泣く声が聞こえた映画だった。今日は祝日ということもあり、そこそこの込み具合だった。戦時中に生まれ、十分な教育を受けられず文字の読み書きができない65歳の西畑保(鶴瓶、重岡大毅)は、貧しい家庭に育ち、生きづらさを抱えてきた。運命的に出会った皎子(原田知世、上白石萌音)と結婚するが、文字が読めないことを隠していた。半年後、事実が明らかになり別れを覚悟するが、皎子は「私があなたの手になる」と支え続けることを誓う。彼女への感謝を込めたラブレターを書きたいと願った保は、定年後に夜間中学に通い始め、学ぶ決意をする。『35年目のラブレター』は、西畑保が実際に体験した出来事に基づいている。西畑氏は2003年、住友信託銀行主催の「60歳のラブレター」に応募し、金賞を受賞した。そのエピソードはテレビ番組『ザ!世界仰天ニュース』でも取り上げられ、司会者の笑福亭鶴瓶が感銘を受ける。鶴瓶の弟子である笑福亭鉄瓶がこれを基に創作したノンフィクション落語『生きた先に』が披露され、その記事を目にした毎日新聞論説委員の小倉孝保が西畑夫妻に取材を開始。夫妻の深い絆や感謝の思いを描いた物語として2024年に執筆し映画化された。主人公は戦後の貧困から公教育を受けられず、読み書きができなかったというストーリーだ。映画では、夜間中学校での多様な人との学びの楽しさが描かれるが、主人公の学びの困難さには深く切り込んではいない。
主人公は「誰でもやればできる」という答辞を昼間・夜間中学校の合同卒業式で語るが、やや違和感を覚えた。この作品を監修する読み書き障害の専門家がいなかったのだろう。主人公はディスレクシアであると思われる。実話でも、主人公は7年かかって読み書きを獲得し、ラブレターを書き上げたとされるが、映画での文字の練習場面は、マスの中に何度も字を書き続けるドリル学習ばかりだ。もちろん40年前の教育界には、読み書き障害の知見や指導法がなく、「良い指導者」は根気強くドリル学習に付き合う教員だった。今なら、7年間もディスレクシア者に書字のドリル指導を繰り返す指導者はあり得ない。7年かかっても読み書きを獲得したことは事実なのだから、ケチをつけるなという意見もあるかもしれない。しかし、話が感動的であればあるほど、「感動ポルノ」という言葉が頭をよぎってしまう。とはいえ、原田知世の演技は美しかったし、結婚当時を演じた重岡大毅と上白石萌音も見事な演技を見せた。この手の作品では、関西アクセントが不自然だと作品そのものが台無しになるが、原田と上白石は関西アクセントをかなり練習したことがうかがえる。良い映画であったことは間違いない。
主人公は「誰でもやればできる」という答辞を昼間・夜間中学校の合同卒業式で語るが、やや違和感を覚えた。この作品を監修する読み書き障害の専門家がいなかったのだろう。主人公はディスレクシアであると思われる。実話でも、主人公は7年かかって読み書きを獲得し、ラブレターを書き上げたとされるが、映画での文字の練習場面は、マスの中に何度も字を書き続けるドリル学習ばかりだ。もちろん40年前の教育界には、読み書き障害の知見や指導法がなく、「良い指導者」は根気強くドリル学習に付き合う教員だった。今なら、7年間もディスレクシア者に書字のドリル指導を繰り返す指導者はあり得ない。7年かかっても読み書きを獲得したことは事実なのだから、ケチをつけるなという意見もあるかもしれない。しかし、話が感動的であればあるほど、「感動ポルノ」という言葉が頭をよぎってしまう。とはいえ、原田知世の演技は美しかったし、結婚当時を演じた重岡大毅と上白石萌音も見事な演技を見せた。この手の作品では、関西アクセントが不自然だと作品そのものが台無しになるが、原田と上白石は関西アクセントをかなり練習したことがうかがえる。良い映画であったことは間違いない。
ジェット風船ポンプ付きで復活 ― 2025年03月18日

阪神の応援名物「ジェット風船」飛ばしの完全復活が模索されている。甲子園球場での巨人とのオープン戦で、七回裏の攻撃前にファンが風船を飛ばす実証実験が行われた。新型コロナの影響で2020年から中止されていたが、今回の実験を踏まえ、再開の可否が検討される。約4万2千人の観客が詰めかけた試合では、来場者に風船2個と専用の手動空気入れポンプが無料配布され、飛沫防止策が講じられた。七回表終了後に膨らませるよう案内されたが、五回頃からすでにポンプの音が響き、一部のファンの興奮が抑えきれない様子も見られた。風船飛ばしはDeNA、広島、楽天、西武、ソフトバンクではすでに再開されており、阪神でも伝統の応援スタイルとして復活が模索されてきた。風船の回収作業も課題とされたが、多くのファンが自主的に拾い集め、スタッフの作業を手伝う姿もあった。一方で、無料配布された風船と専用ポンプがネットで高額転売される事態が発生し、球団関係者は「残念」とコメント。また、「観戦の妨げになる」「ルールを守らない人がいる」といった反対意見も寄せられた。4月13日の中日戦でも実証実験を行い、アンケート結果をもとに再開の可否が決定される予定だ。ジェット風船は、1985年の阪神タイガース優勝時に甲子園球場を埋め尽くした風船が話題となり、以降、各球場で飛ばされるようになった。プロ野球では、7回の攻撃前(ラッキー7)や試合勝利時に飛ばすのが定番となり、応援文化の一部として定着している。
かつて阪神ファンは、ジェット風船を購入してからスタンドに入るのが当たり前だった。しかし、新型コロナの流行により「風船を飛ばすな」「応援もするな」「マスクをつけろ」といった飛沫感染防止策が徹底された。日本でマスクの着用義務が緩和されたのは2023年3月だが、大リーグでは2021年5月頃、ワクチン接種の進展に伴い規制が緩和され、通常の観戦スタイルに戻っていた。テレビでマスクなしの観戦を目にし、日本の対応にもどかしさを感じた人も多かったのではないか。日本人は、一度決めたルールをなかなか撤廃できない国民性がある。その名残がジェット風船専用ポンプの義務付けともいえる。応援や歓声でも飛沫は飛ぶのだから、ポンプ使用をマナーとすることには疑問も残る。しかし、子どもや高齢者でも難なく膨らませられるため、利便性の面では受け入れやすいかもしれない。
かつて阪神ファンは、ジェット風船を購入してからスタンドに入るのが当たり前だった。しかし、新型コロナの流行により「風船を飛ばすな」「応援もするな」「マスクをつけろ」といった飛沫感染防止策が徹底された。日本でマスクの着用義務が緩和されたのは2023年3月だが、大リーグでは2021年5月頃、ワクチン接種の進展に伴い規制が緩和され、通常の観戦スタイルに戻っていた。テレビでマスクなしの観戦を目にし、日本の対応にもどかしさを感じた人も多かったのではないか。日本人は、一度決めたルールをなかなか撤廃できない国民性がある。その名残がジェット風船専用ポンプの義務付けともいえる。応援や歓声でも飛沫は飛ぶのだから、ポンプ使用をマナーとすることには疑問も残る。しかし、子どもや高齢者でも難なく膨らませられるため、利便性の面では受け入れやすいかもしれない。
万博チケットの購入手順 ― 2025年03月15日

大阪・関西万博は混雑緩和を目的に予約制チケットを基本としていたが、前売り券の販売が目標の1,400万枚に届かず、3月12日時点で約820万枚と6割未満にとどまった。これを受け、開幕47日前に入場ゲート前で購入できる当日券の導入を決定。しかし、急な方針転換に「利用者目線の欠如」が指摘されている。当初の販売方式は、万博ID登録と入場日時予約を経てQRコードを取得する電子チケットが主流だったが、コンビニや旅行代理店での引き換えも可能だった。しかし、選択肢が多すぎて消費者の混乱を招き、前売り券購入のハードルが高くなった。また、前売り券のみの販売は、消費者に選択肢を与えない印象を与えた。さらに、混雑時に価格を上げ、閑散時に下げる「ダイナミックプライシング」の導入が有効だったとされる。券種も多すぎるため、3種類程度に絞る方が分かりやすかったと考えられる。また、万博の魅力が十分に伝わっておらず、事前予約の煩雑さが消費者の負担となった。実際、私も3カ月前にID登録をしたものの、いつどのパビリオンを選べばよいのか、混雑状況の見通しがつかず、未だにチケット購入に至っていない。ホームページの情報が少なく、広大な会場の回り方がイメージできない。AIを活用して調べても全容がつかめなかった。そのため、どの券種が自分に適しているのか判断できず、購入をためらっている。
先日、老人会の陶芸サークルの方々から「チケットをネットで購入できないので教えてほしい」と頼まれ付き合った。万博チケットの購入手順は公式サイトでまず万博IDを作成しなければならない。ネット予約に慣れている人には問題ないが、メールアドレスの入力経験すら少ない人には大仕事となる。仮登録後、本登録用のURLがメールで届くが、アドレスを打ち間違えると届かず、ここでつまずく人も多い。さらに、パスワード設定では「大文字・小文字・数字の組み合わせ」を求められるが、これがハードルとなり、正しいパスワードが作れず次の画面に進めない人もいる。ようやく登録しても、ログイン画面ではスマホの自動入力が使えず、パスワードの入力ミスが続くと一定時間ログインできなくなる。この登録段階で脱落する人も少なくない。やっとの思いで登録しチケットを購入しても次の手続きがある。来場日時を事前予約し、入場ゲートを選択。さらに、パビリオンやイベントは抽選制で、第1~5希望を選び、当選結果を確認する必要がある。抽選に外れた場合は、当日枠や予約不要エリアを利用する計画を立てなければならない。全ては混雑をできるだけ抑えようとする意図なのだが、利用者には伝わらない。登録に付き合って思ったのは、ネット予約に慣れていない人向けにはAI等の「リアルガイド」が必要だということだ。付き合った方にはお世話になったと恐縮され、お礼にビールまでいただいた。慣れたものには何でもないのだが、お礼をしなければと思うほど操作が困難に感じられたのだろう。万博の成功には、ホームページを含めた「利用者目線」の強化が欠かせないと痛感した。
先日、老人会の陶芸サークルの方々から「チケットをネットで購入できないので教えてほしい」と頼まれ付き合った。万博チケットの購入手順は公式サイトでまず万博IDを作成しなければならない。ネット予約に慣れている人には問題ないが、メールアドレスの入力経験すら少ない人には大仕事となる。仮登録後、本登録用のURLがメールで届くが、アドレスを打ち間違えると届かず、ここでつまずく人も多い。さらに、パスワード設定では「大文字・小文字・数字の組み合わせ」を求められるが、これがハードルとなり、正しいパスワードが作れず次の画面に進めない人もいる。ようやく登録しても、ログイン画面ではスマホの自動入力が使えず、パスワードの入力ミスが続くと一定時間ログインできなくなる。この登録段階で脱落する人も少なくない。やっとの思いで登録しチケットを購入しても次の手続きがある。来場日時を事前予約し、入場ゲートを選択。さらに、パビリオンやイベントは抽選制で、第1~5希望を選び、当選結果を確認する必要がある。抽選に外れた場合は、当日枠や予約不要エリアを利用する計画を立てなければならない。全ては混雑をできるだけ抑えようとする意図なのだが、利用者には伝わらない。登録に付き合って思ったのは、ネット予約に慣れていない人向けにはAI等の「リアルガイド」が必要だということだ。付き合った方にはお世話になったと恐縮され、お礼にビールまでいただいた。慣れたものには何でもないのだが、お礼をしなければと思うほど操作が困難に感じられたのだろう。万博の成功には、ホームページを含めた「利用者目線」の強化が欠かせないと痛感した。
ライバー刺殺事件 ― 2025年03月13日

東京・高田馬場で動画配信中だった女性ライバーが刺殺された事件で、逮捕された高野健一容疑者は、ライブ配信を見て居場所を特定したと供述した。高野容疑者は4年前に動画配信を通じて被害者を知り、勤務先の飲食店に通うようになった。「生活費や携帯料金などで200万円以上を貸した」とも語っている。スマートフォンや専用アプリの普及により、誰でも手軽にライブ配信が可能になったが、今回の事件はその危険性を改めて浮き彫りにした。被害者は動画配信サービス「ふわっち」で「最上あい」として活動し、事件当日は「山手線徒歩1周」の企画を生配信していた。高野容疑者は前日に配信予告を確認し、事件当日の朝に栃木県から東京都へ移動していたという。ライブ配信はリアルタイムで視聴者とつながる特徴があり、YouTubeやTikTokなどでも利用され、投げ銭による収益化も進んでいる。専門家は、技術の進歩とマネタイズ(収益化)が普及を後押ししたと指摘し、配信者は自身の居場所が特定されないよう、背景の映り込みを防ぐなどリスク管理を徹底すべきだと警鐘を鳴らしている。
生配信中に殺害されるという衝撃的な事件だったが、同日夜に放送された波瑠主演のドラマ『アイシー~瞬間記憶捜査・柊班』(フジテレビ系)でも、同様のテーマが扱われていた。劇中では、ライブ配信者の女性が殺害され、「サッドハッター」と名乗る高額課金リスナーが捜査線上に浮上するというストーリーが展開され、今回の事件と酷似している。奇しくも、フジテレビは別の性被害疑惑によりスポンサーが離れていたため、ドラマを放送できたのではないかという見方もある。ドラマの中でも、ライブ配信サービスの危険性が指摘されていた。ライブ配信は「ライバーとの疑似恋愛を楽しむ場」として機能することがあり、高額課金リスナーの中には、配信者とのオフラインでの交流を求める者もいる。リスナーが恋愛感情を抱き、デートを条件に大金をつぎ込むケースもあるという。従来の接客業では、トラブルを防ぐために店側の管理体制が機能するが、ライブ配信にはそうした安全保障がない。人気ライバーには大勢のリスナーが群がり、多額の投げ銭を受け取ることで、これを生業とする者も増えている。その背景には、ライバーとリスナー双方の自己承認欲求を満たしたいという現代社会の孤独も関係しているのだろう。高野容疑者が貸した金については、裁判所が支払い命令を出していたとされるが、強制執行の申立ての有無や経緯は不明だ。愛情が憎しみに変わった末の犯行とも考えられるが、個人の責任の範疇に収めるには、あまりにも悲しい事件である。
生配信中に殺害されるという衝撃的な事件だったが、同日夜に放送された波瑠主演のドラマ『アイシー~瞬間記憶捜査・柊班』(フジテレビ系)でも、同様のテーマが扱われていた。劇中では、ライブ配信者の女性が殺害され、「サッドハッター」と名乗る高額課金リスナーが捜査線上に浮上するというストーリーが展開され、今回の事件と酷似している。奇しくも、フジテレビは別の性被害疑惑によりスポンサーが離れていたため、ドラマを放送できたのではないかという見方もある。ドラマの中でも、ライブ配信サービスの危険性が指摘されていた。ライブ配信は「ライバーとの疑似恋愛を楽しむ場」として機能することがあり、高額課金リスナーの中には、配信者とのオフラインでの交流を求める者もいる。リスナーが恋愛感情を抱き、デートを条件に大金をつぎ込むケースもあるという。従来の接客業では、トラブルを防ぐために店側の管理体制が機能するが、ライブ配信にはそうした安全保障がない。人気ライバーには大勢のリスナーが群がり、多額の投げ銭を受け取ることで、これを生業とする者も増えている。その背景には、ライバーとリスナー双方の自己承認欲求を満たしたいという現代社会の孤独も関係しているのだろう。高野容疑者が貸した金については、裁判所が支払い命令を出していたとされるが、強制執行の申立ての有無や経緯は不明だ。愛情が憎しみに変わった末の犯行とも考えられるが、個人の責任の範疇に収めるには、あまりにも悲しい事件である。