小学校 それは小さな社会2025年04月17日

小学校 それは小さな社会
日本の公立小学校に通う1年生と6年生の学校生活を、春夏秋冬の四季を通して追ったドキュメンタリー映画。新入生が4月に挙手の仕方、廊下の歩き方、給食当番のやり方などを学ぶ姿が映し出される一方で、6年生はその補助役として行動しながら、自覚と責任を育んでいく。教師たちはコロナ禍の中、行事の実施を巡って悩み、議論を重ねる。そのすべてが丁寧に記録され、3学期には1年生が新入生のために音楽演奏に挑む場面までが描かれている。監督は、イギリス人の父と日本人の母を持つ山崎エマ氏。150日間、のべ4000時間にわたる長期取材を行い、「特活(TOKKATSU=特別活動)」を通じて、日本の子どもたちが協調性を身につけていく様子をカメラに収めた。フィンランドでは4カ月にわたるロングラン上映を記録するなど、海外でも大きな反響を呼んだ。

だが、なぜ今、日本の教育に国際的な注目が集まるのだろうか。おそらく礼儀や協調性の育成、裏返せば管理教育の弊害である没個性や同調圧力の構造への興味なのだろうか。個人的には、自分が教員をしていた時代から、教育現場が一歩も前に進んでいないという印象を受けた。印象的だったのは、合奏練習でシンバルが叩けなかった1年生の女子を、教師が全体の前で厳しく「指導」する場面。現代ではパワハラだと批判されてもおかしくない。誰よりも早く出勤し、教室の机を並べていた6年生担任には、ワーカホリックという言葉が投げかけられるかもしれない。縄跳びダンスがうまくできない子に、ペアの子が「ここが下手」と指摘する姿や、徒競走で3着だった子に「来年は1等賞が取れたらいいね」と励ます母親にも、「跳べなくてもいい」「3着でも十分」という声が上がるのだろう。そして、多くの人がこう言うはずだ――「先進国ではもっと個性が尊重されている」と。その延長線上で、「だから不登校が増え、教職が敬遠されるのだ」と、日本の教育の課題を説明しようとするかもしれない。

だが、子どもが映る映像というのは、どんなテーマであれ、その純真さゆえに無批判に受け入れられやすい。40年前に教壇に立っていた私にとっては、こうした学校の光景は当たり前のものだ。教師は子どもを鍛え、子どもはその期待に応えようと努力する。それのどこが悪いのかと、つい思ってしまう。もし教師が子どもに期待をかけず、「サボるのも個性」と許容し始めたら、学校は何を教える場所なのかと疑問にすらなる。日本人の心を持ちながら外国人の視点を理解する山崎エマ監督は、こうした問いを私たちに投げかけたかったのかもしれない。つまり、この作品の目的は確かに達成されたのだ。ただ、卒業式後の教員反省会で、6年生担任が「もういっぱいいっぱいで、ダメかと思った時もあった。でも皆の支えで乗り切れた」と涙ながらに語ったとき、私はふと、自分がかつてどれだけ教職の過酷さに無自覚だったかを振り返った。教育とは、そして学校とは何なのか――この映画はその本質を、静かに、しかし鋭く問いかけてくる。

特別支援の「調整額」2025年04月12日

特別支援の「調整額」
文部科学省は、障害のある児童・生徒を担当する教員に支給されている特別支援の「調整額」を、2027年から段階的に引き下げる方針を明らかにした。現在は月給の3%相当が支給されているが、2027年と2028年の2年にわたりそれぞれ0.75%ずつ削減し、最終的に1.5%とする予定だ。背景には、「通常学級で学ぶ障害児が増え、特別支援教員の“特殊性”が薄れた」との認識と、教員全体の給与引き上げに向けた財源の確保がある。一方、特別支援調整額とは別に、教員全体を対象とした「教職調整額」の引き上げも国会で審議中だ。これは2026年から段階的に10%まで引き上げる法案が検討されており、この分で特別支援教員の減額分は相殺される。とはいえ、他の教員に比べて増額幅は相対的に小さくなる。文科省は「結果的に手取りは増える」と説明する。

加えて、義務教育教員特別手当も2026年から、従来の1.5%から1.0%に引き下げられる予定だ。教員の給与を上げなければ人材確保が難しいという議論が進んでいたが、財務省の意向もあり、文科省は“痛み分け”のように少数派である特別支援教員の手当てを削ることで帳尻を合わせようとしている。すでに小中学校と特別支援学校の教員手当も、しれっと0.5%減らされようとしている。つまり、これまで特別支援学校や特別支援学級、通級指導教室の教員には、基本給に最大14%近い手当がついていたが、3年後には12%に下がる。一方で教職調整額が6%引き上げられて18%になるから、「差し引き4%増えてるでしょ、文句は言えないよね」という論理だ。そして、一般教員との差額、つまり「ご苦労さん料」は最終的に1.5%で我慢しろ、という話である。

だがその根拠とされた「通常学級で学ぶ障害児が増え、特別支援の特殊性が薄れた」という説明には大きな疑問が残る。およそ20年前まで、特別支援学級の対象は主に身体・知的障害のある子どもだった。だが次第に、知的な遅れのない発達障害のある子どもたち、特に行動面・対人関係・学習面で困難を抱える子どもたちが支援学級に受け入れられてきた。文科省は本来、こうした子どもへの対応は通常学級で行うべきだとしていたが、現実には都市部を中心に支援学級は増加の一途をたどっている。つまり支援学級の教員には、発達障害への対応スキルが新たに求められるようになってきたのだ。通常学級の担任や管理職が、学級運営が難しい子どもの保護者に「支援学級」を勧めてきた経緯もある。背景には、働き方改革の中でこれ以上担任の業務を増やせないという事情もあるだろう。文科省が「インクルーシブ教育」を唱えても、実際の現場ではむしろ逆行する「エクスクルーシブ化」が進んでいるのが実情だ。

数字を見ても明らかだ。過去10年で都市部の通常学級は少子化の影響で約1万4千学級(約18%)減少したが、特別支援学級は1000学級増え、約10%の増加となっている。このデータのどこを見て、「通常学級で学ぶ障害児が増えた」と言えるのか。通常学級にすでに在籍していた発達障害の子どもを、今になって「増えた」とカウントするのであれば、それは“統計マジック”によるごまかしでしかない。もちろん、担任する子どもの人数だけで見れば、通常学級の教員の方が4倍近い子どもを受け持っている分、業務負担が大きいのは確かだ。中には、通常学級でうまく対応できなかった教員が、特別支援に異動してきたケースもある。だが、大多数の特別支援教育担当者は、多様な学力・学習スタイルに対応し、子ども一人ひとりに合わせた教材と指導を提供している。子どもだけでなく保護者への対応も多く、精神的な負荷は計り知れない。これが1.5%、約5000円の「ご苦労さん料」で済む話だろうか。「通常学級で学ぶ障害児が増えた」なら全教職員に3%の手当てをするのが筋ではないか。

通信制高校約29万人2025年04月09日

通信制高校約29万人
令和6年度の通信制高校の生徒数は約29万人に達し、この10年間で約1.6倍に増加した。現在では高校生のおよそ10人に1人が通信制に在籍している。この背景には、コロナ禍を契機とした不登校の増加がある。近年では、角川ドワンゴ学園の「N高」など、多様なコースを提供する通信制高校が増加し、オンライン学習や個別指導といった新たな教育スタイルが広がっている。これにより、難関大学への進学実績やスポーツ分野での成果も注目されるようになった。文部科学省の統計によれば、令和5年度の不登校高校生は過去最多の6万8,770人に達しており、不登校の拡大とともに通信制高校の認知度も上昇している。一方、全日制高校の生徒数は減少傾向にあり、通信制高校の存在感はますます高まっている。通信制高校では、オンライン学習の活用により、生徒が自分のペースで学習を進められる柔軟性が評価されている。これにより、受験勉強やアルバイトなどとの両立も可能となり、多様なニーズに応える教育形態として注目を集めている。大学進学率については、通信制高校では21.2%と全日制に比べて依然として低いものの、近年は上昇傾向にある。なお、通信制高校は必ずしも不登校生の受け皿に限られたものではなく、多様な背景を持つ生徒が在籍している。ここで、中学校卒業生の進路全体を見てみると、年間約105万人の中学卒業生に対して、単純計算で生徒数は約315万人(3学年分)とされる。しかし、高校在籍者数は約290万人であり、約25万人が高校教育からこぼれ落ちている計算になる。

この25万人のうち、専門学校や特別支援学校などに進学した生徒も一部含まれると推定されるが、それでも進学しなかった生徒は約18万人、全体の6%程度に上る。この6%の子どもたちの進路実態はほとんど把握されておらず、今後の大きな課題である。また、中学校で不登校だった生徒のうち、高校進学後も安定した就労に至らないケースが多い。統計的推計によれば、高校進学から漏れた約6万人のうち5割、つまり3万人が就労に至らない可能性がある。これが毎年続けば、40年間で約120万人が就労できないまま過ごすことになる。これは、日本の40年後の就労人口約5300万人に対して約2%が恒常的に非就労者となる計算であり、3880万人に達する高齢者人口と合わせると、就労世代と非就労・高齢世代がほぼ近づいていくことを意味する。したがって、不登校の子どもたちに適切な後期中等教育(高校教育や職業教育)を保障することは、単なる教育福祉の問題にとどまらず、国全体の総生産額・総消費額、ひいては「国力」の維持に直結する重要課題である。授業料一律無償化は通信高校生も恩恵は被るが、教育機会からこぼれ落ちた子供には届かない。私学や通信制高校の増加は逆に言えば、公教育への失望が増えているとも言える。義務制の小中学校の段階や公立高校に向け、柔軟な教育機会の保障と進路保障ができるように、重点的に投資をすることが、今後の教育政策の要となるべきである。

子育て まち育て 石見銀山物語2025年04月01日

石見銀山物語
教室監視カメラ導入の是非について、「希望と信頼のあるところに教育は醸成する」と書いたものの、ずっとモヤモヤしていた。たまたまこのドキュメンタリー番組を見て気持ちが晴れた。『子育て まち育て 石見銀山物語』は、世界遺産・石見銀山を抱える島根県大田市大森町を舞台に、かつて世界屈指の銀山の下町だったこの地域が、閉山後に限界集落へと衰退したものの、地域全体で子どもを育て、町を活性化させる取り組みを描いたNHKのドキュメンタリー番組である。番組では、四季折々の町の風景とともに、移住者や地元住民約400人が協力しながら子育てを行う姿が映し出される。本作は2022年から2023年にかけて春・夏・秋・冬の4回にわたって放送され、2023年1月には全話一挙再放送も実施。その後、2024年6月には特別編が放送され、2025年2月に再放送された。特別編では、大森町がどのようにして過疎地域から子どもの笑顔あふれる町へと変化したのかが改めて紹介された。制作にあたり、制作者が具体的に何からインスピレーションを受けたかは明言されていないが、大森町での地域ぐるみの子育てや移住支援、仕事と生活の一体化などの情報が影響を与えたと考えられる。例えば、町の活性化に関する書籍『過疎再生 奇跡を起こすまちづくり』(松場登美著)では、大森町の事例を通じて地方創生の可能性が示されており、本番組の背景とも共鳴する内容となっている。『子育て まち育て 石見銀山物語』は、地域コミュニティの力や移住者と地元住民の協働による町おこしの成功例を広く伝え、多くの視聴者に感動を与えた作品だ。

圧巻は、たった一人で小学校を卒業していく男子が答辞でお礼を述べる際、集落の人々への感謝を語りながら涙ぐむシーンだ。全校20数人の児童たちは、低学年までもらい泣きをする。帰り道では、集落の人たちが皆「おめでとう」と声をかけ、「泣かんかったか?」「泣いてしまいました」と正直に語るシーンも温かい。こんな地域の学校には、監視カメラは必要がない。「学校づくりは地域づくり」。かつて与謝の海養護学校の初代校長となった青木嗣夫氏の言葉を思い出す。この言葉は、障害児のための地域づくりを念頭に置いたものだが、大切なのは、教育と地域づくりは切り離してはならないという思想だ。確かに、小さな集落の学校だからといって、いじめや体罰がまったくないとは言えない。しかし、地域全体が文字通り子どもを見守り、学校を支えていれば、深刻な事態は避けられる。もちろん、その反面、集落の同調圧力は強いのかもしれないが、大森町に志を持って移り住む若い世代が、それを柔らかなものに変えていく可能性も感じる。コンビニはないが、持ち寄りの食事会がメンバーを変えて家々で開かれ、僻地のプロパンガス代は都会の3倍の値段だが、地域はさらに温かい。新入生は昨年度8名に増え、保育所の園児数も一桁増えた。その理由は、大森町の人的環境にあるのだろう。自分も子育て時代、「親子共育ち」として民間学童保育を支援してきたが、地域づくりには足がかりがなかった。大森町の幸運は、2つの中規模企業が集落への貢献も意識して存続していること、そして2007年に石見銀山が世界遺産に登録され、町ぐるみで穏やかな街を目指す地域づくりの経験を積んできたことだ。どこの地域でも同じ条件があるとはいえないが、地域の絆を深めるための努力が、子どもを育てる環境をつくるのだと言える。

校内監視カメラ2025年03月30日

校内監視カメラ
熊本市教育行政審議会は、いじめや体罰の抑止策として、学校内にカメラを設置する提案をまとめ、市教育委員会に提出した。この提案では、監視カメラの導入が事実確認を容易にし、教職員の意識向上や保護者の不適切な要求の抑止にも寄与すると期待されている。また、被害児童から寄せられた「記録を残してほしい」という声も反映されている。一方で、カメラ設置には慎重な意見もあるため、まずはモデル校での先行実施が提案され、設置場所の検討や子どもの意見を尊重する方針が示された。さらに、相談窓口の設置やスクールカウンセラーの増員・常勤化も提案され、より包括的な教育環境の改善が目指されている。カメラ設置による透明性や抑止効果は一定の期待が持てるものの、教育現場の信頼関係を損なうリスクも指摘されている。生徒や教師に心理的ストレスや不信感を与えかねず、教育理念との相反も懸念される。監視強化が根本的な問題解決につながるかどうかは、慎重に検討しなければならない。いじめや体罰を抑止するためには、監視の強化よりも、対話や信頼関係の構築が重要である。例えば、副担任制の導入は、生徒へのケアを充実させるだけでなく、教師の負担を軽減し、問題行動を多角的に捉える上で有効な手段となる。教育現場で信頼を深めるためには、カメラの設置をあくまで補助的な手段にとどめ、カウンセリング体制の整備や教師と生徒の対話を重視することが求められる。最終的に、教育現場の文化を改善し、問題行動の根本的解決を図る努力が不可欠であり、技術的な監視に頼らず、多角的なアプローチを取ることが重要である。

近年、教員の不適切な行動が報じられることが増えており、学校や行政が問題を隠蔽する体制に対する批判も強まっている。そのため、監視カメラの設置を求める保護者の気持ちは理解できる。しかし、その一方で、子どもの気持ちが置き去りにされているのではないかという懸念もある。カメラの設置は、「先生も子どもも信用できない」という暗黙のメッセージを教育現場に送り続けることになりかねない。他国において学校への監視カメラ設置が進んでいる国として、中国やアメリカが挙げられる。アメリカでは地域ごとに学校の判断で設置され、プライバシー保護のためのアクセス権やセキュリティが確立されているケースもある。一方、中国では全体主義的な管理社会のもと、教育的な理念が入り込む余地はほとんどないと考えられる。懸念されるのは、監視カメラの設置が進んだ先に、倫理や道徳までが管理される社会が待ち受けている可能性である。管理社会は独裁国家だけで起こるものではない。市民の不安を煽ることで、結果として市民自身が管理を求め、最終的に独裁的な体制が成立した歴史もある。教育は、不安や不信のもとでは成立しない。子どもや教員の希望と信頼の中で育まれるものであり、本来、管理社会とは無縁であるべきだ。カメラの設置は一律に行わず、学校が子どもや教員、保護者が時間をかけて議論して、学校が主体的に選択すべきものである。

寝屋川ショック2025年03月21日

寝屋川ショック
大阪府立高校では、伝統校で倍率が1倍を下回る定員割れが相次ぎ、「寝屋川ショック」として波紋が広がった。少子化の影響に加え、授業料無償化による私立高校人気や定員増が背景にある。特に、私立高校の進学実績重視の風潮が広がる中、公立高校が同様の競争に巻き込まれるのは適切ではない。生徒が部活動や学校行事などを通じて成長できる環境づくりが重要であり、各校が特色を打ち出すことが求められる。また、保護者や生徒も進学実績にとらわれず、学校生活全般を重視した進路選択を考える必要がある。一方、私立高校への進学には授業料以外の費用負担が大きく、公立高校の役割が再評価されるべきだ。教育行政も、公立高校が多様な学びを提供できるよう資源を適切に配分し、地域に根ざした教育の充実を図る必要がある。この論説は大阪公立大教授の西田芳正氏(教育社会学)のもので、納得のいくものだ。しかし、大阪府や維新の会は少子化により中堅公立校の定員割れが避けられないとして、今後3年間定員割れが続けば統廃合を検討し、私学とのバランスを図る方針を示している。一方、文理学科を持つ公立10校は今も人気が集中している。文理学科は文系と理系を分け隔てなく学ぶことを掲げているものの、実態は有名私学の特別進学コースと変わらない。進学率も私学の特進科と同等で、結果的に上位層の生徒をめぐる競争が成り立っている。

この構図は、学力の高い「上澄み」の生徒の奪い合いのために、公立校の統廃合があるように見える。私学無償化などの公費を投入しない限りは私学がどのような教育を提供しようといくら学費を取ろうと経営の自由である。一方、公立高校は有名大学進学だけでなく、幅広い生徒のニーズに応える責任がある。生徒数が減った分、指導者を充実させ、きめ細かな指導への投資を行うべきだ。また、低学力の生徒の中には、単なる怠学ではなく発達障害など学び方の違う生徒が含まれている。彼らの特性を理解し、適切な学習指導や職業指導を行うことは、公立高校が担うべき公益的な役割である。さらに、こうした生徒は小中学校で十分な支援を受けられなかったケースが多いため、公立高校がその不足を補う責任があると言える。

35年目のラブレター2025年03月20日

35年目のラブレター
久しぶりに、上映中に観客のすすり泣く声が聞こえた映画だった。今日は祝日ということもあり、そこそこの込み具合だった。戦時中に生まれ、十分な教育を受けられず文字の読み書きができない65歳の西畑保(鶴瓶、重岡大毅)は、貧しい家庭に育ち、生きづらさを抱えてきた。運命的に出会った皎子(原田知世、上白石萌音)と結婚するが、文字が読めないことを隠していた。半年後、事実が明らかになり別れを覚悟するが、皎子は「私があなたの手になる」と支え続けることを誓う。彼女への感謝を込めたラブレターを書きたいと願った保は、定年後に夜間中学に通い始め、学ぶ決意をする。『35年目のラブレター』は、西畑保が実際に体験した出来事に基づいている。西畑氏は2003年、住友信託銀行主催の「60歳のラブレター」に応募し、金賞を受賞した。そのエピソードはテレビ番組『ザ!世界仰天ニュース』でも取り上げられ、司会者の笑福亭鶴瓶が感銘を受ける。鶴瓶の弟子である笑福亭鉄瓶がこれを基に創作したノンフィクション落語『生きた先に』が披露され、その記事を目にした毎日新聞論説委員の小倉孝保が西畑夫妻に取材を開始。夫妻の深い絆や感謝の思いを描いた物語として2024年に執筆し映画化された。主人公は戦後の貧困から公教育を受けられず、読み書きができなかったというストーリーだ。映画では、夜間中学校での多様な人との学びの楽しさが描かれるが、主人公の学びの困難さには深く切り込んではいない。

主人公は「誰でもやればできる」という答辞を昼間・夜間中学校の合同卒業式で語るが、やや違和感を覚えた。この作品を監修する読み書き障害の専門家がいなかったのだろう。主人公はディスレクシアであると思われる。実話でも、主人公は7年かかって読み書きを獲得し、ラブレターを書き上げたとされるが、映画での文字の練習場面は、マスの中に何度も字を書き続けるドリル学習ばかりだ。もちろん40年前の教育界には、読み書き障害の知見や指導法がなく、「良い指導者」は根気強くドリル学習に付き合う教員だった。今なら、7年間もディスレクシア者に書字のドリル指導を繰り返す指導者はあり得ない。7年かかっても読み書きを獲得したことは事実なのだから、ケチをつけるなという意見もあるかもしれない。しかし、話が感動的であればあるほど、「感動ポルノ」という言葉が頭をよぎってしまう。とはいえ、原田知世の演技は美しかったし、結婚当時を演じた重岡大毅と上白石萌音も見事な演技を見せた。この手の作品では、関西アクセントが不自然だと作品そのものが台無しになるが、原田と上白石は関西アクセントをかなり練習したことがうかがえる。良い映画であったことは間違いない。

東大寺学園書類送検2025年03月17日

東大寺学園書類送検
奈良市にある東大寺学園が、教師36人に対して残業代や休日出勤手当約130万円を支払わなかったとして、校長や事務局長など3名が労働基準法違反の疑いで書類送検された。同学園は2021年12月にも同様の問題で是正勧告を受けていたが、その後の奈良労働基準監督署の調査で、勧告後も手当の未払いが続いていることが発覚した。この問題に関し、学園側は「慣習的に厳格な管理ができていなかった」と説明しているが、不適切な管理体制の改善が行われないまま今回の立件に至った。教育現場での労働環境が社会的に注視される中、東大寺学園のような著名校でこのような問題が再発することは看過できない。労働基準法の遵守は当然の義務であり、早急な是正が求められるとともに、透明性を持った運営が期待されると報道された。東大寺学園は、私立の男子中高一貫校で、東大寺を経営母体として100年の歴史を持つ。学園は高い学力を誇り、特に理数系に強い生徒が多く、東京大学や京都大学、国公立の医学部への進学実績で有名である。部活動も盛んで、全国大会に出場するなど、幅広い活動が行われている。進学率や部活動の実績が全国屈指の東大寺学園に優秀な生徒が集まるのは自明の理であり、それに対応する教員も質の高い人材が集められていると考えられる。東大寺学園の高校教員の平均年収は推計750万円程度とされ、公立高校教員の1割増しと推定される。公立校の残業代は調整手当の中に含まれ、基本給の4%に固定されているが、東大寺学園などの私学の場合、時間給換算で手当を支給する学校もある。今回は、その手当が満額支払われなかったことから、労働基準監督署の告発を受け刑事事件へと発展した。

私学には部活動に外部指導者を雇う選択肢もあるが、すべての部活動に導入すれば予算が圧迫されるため、雇用契約時に部活動指導を業務内容として含む教員も少なくないと考えられる。トップ校では進学実績や大会成績が学校の評価に直結するため、教員に対する期待も高くなる。進学や入賞を学校の「売り」にしている私学であればなおさらである。東大寺学園の授業料は年間80万円であり、私学助成金の補助額51万円を大きく上回る。奈良県では、世帯年収910万円未満の世帯を対象に、私立高校の授業料を年間63万円を上限に公費で負担するため、自己負担額は約20万円となる。私学において残業代を支払い人件費を上げると、当然ながら授業料に影響が及ぶ。さらに、仕事内容と給与のバランスが崩れれば、教員の確保も困難になる可能性がある。こうした状況を考慮すると、今後も私学の学費値上げは続くと予想される。しかし、無償化の補助額を引き上げることには限界があり、その差額支払いの影響を受けるのは主に低所得家庭である。高所得家庭にとっては、これまで支払ってきた授業料の範囲内であれば大した負担ではない。そして、私学の学費上昇により結局教育格差が拡大し、公立校が競争力を失い、統廃合が進む可能性も否定できない。返す返す維新のかかげた私立高校一律無償化は公益に値しない、思慮ない政策だと思う。

高校授業料外国人も無償化2025年03月12日

高校授業料外国人も無償化
自民党の山田賢司氏は、衆院予算委員会での発言で、高校授業料無償化の対象から外国人を除外するよう求めた。現行制度では、外国人学校やインターナショナルスクールに通う外国人も、一定の条件を満たせば授業料の支援を受けられるが、山田氏は「納税者の理解が得られない」と指摘。無償化を「税負担化」と捉え、一人当たり約4千円の負担増となる可能性があることを示唆し、納税者が納得できる制度に見直すべきだと訴えた。また、山田氏は海外の日本人が私立高校に通う場合は支援がない一方、日本国内の外国人が支援を受けられる制度の矛盾を指摘し、「税金を日本人の海外留学支援や公立高校の国際化に充てるべき」と主張した。さらに、外国人学校に通う外国人を支援対象から除外するよう提案したが、文部科学省は現行制度の枠組みについて説明するにとどまり、山田氏は「日本人の子供たちのために税金を使うべき」と強調した。しかし、自民党は維新とともに私立高校の無償化法案に賛成しており、その立場との矛盾をどう考えているか。現行の無償化制度は、2009年の民主党政権(鳩山由紀夫内閣)が提案し、2010年4月に導入されたものであり、その後も自民党政権下で維持されている。2013年に安倍政権が朝鮮学校のみを支援対象外としたが、それ以外の外国人学校には支援が続いており、15年以上自民党政権の下でもこの施策は続いている。今回、山田氏が指摘した「無償化は税負担化だ」という唐突な問題提起には、保育、教育、医療、福祉など多くの分野が税負担で賄われているのに高校無償化だけをことさら税負担だというのは筋が通らない。自公政権と維新が進めた無償化は7兆円の所得税減税や1.5兆円の暫定ガソリン税減税要求を潰した。納税者の批判が高まる中、外国人へのわずかな額の支援を削減するという言い訳のような主張は、単なるパフォーマンスに過ぎない。

確かに、今回の私立高校無償化で外国人への支援額が増えるのは間違いない。しかし、本質的な問題はそこではなく、私立高校支援が増えることで公立高校の財源が逼迫し、さらに私学と公立の格差が拡大する懸念である。普通の高校受験生の進学先の決定動機を考えれば、設備の新しさや校舎の美しさが重視されるのは明らかだ。老朽化した公立高校が、快適な設備を整えた私立高校と比べられたとき、選ばれなくなるのは当然ともいえる。もし議論をするなら、「私学無償化を撤回し公立高校に毎年6,000億円を増額投資する」とし「高額医療費負担見直しと合わせてこれも見直す」と言えば誰も「税負担化」などと揶揄しない。それにしても、外国人だけをやり玉に挙げて私学無償化を正当化する自民党議員の思慮のなさにはあきれてしまう。

PECSフェイズ6が大事2025年03月09日

PECS 桜が咲いています
PECS研究会を開催した。京都でPECSの実践に積極的に取り組む南山城学園から、利用者の日常生活におけるPECSの活用状況について報告を受けた。PECSといえば、言語・コミュニケーション能力の弱い自閉症児が絵カードを用いて要求を伝える手段と理解されがちであり、おやつやおもちゃの要求に限られると思われている節がある。しかし、それは習得の入り口に過ぎない。PECS(絵カード交換コミュニケーション)は、1985年に考案された代替・拡大コミュニケーションシステムである。アメリカのデラウェア州自閉症プログラムにおいて、自閉症の未就学児に対して実践され、その後、世界中に広まり、年齢や認知・身体・コミュニケーションの障害を問わず、多くの人々に活用されている。PECSの手続きは、応用行動分析(ABA)の理論に基づいており、特定のプロンプトや強化方法を活用してコミュニケーションを指導する。また、学習を促進するための系統的なエラー修正手続きも含まれている。言語による促しを用いないため、自発的なコミュニケーションを促し、対人依存を防ぐことができる。PECSは6つのフェイズ(段階)で構成されている。フェイズIでは、対象者が欲しいものを得るために絵カードを交換する方法を学ぶ。フェイズIIでは、異なる環境や相手とのやり取りを通じてスキルを般化し、持続的なコミュニケーション能力を身につける。フェイズIIIでは、複数の絵カードの中から正しいものを選択し、フェイズIVでは、文カードを用いて「〇〇をください」といった簡単な文章を構成する。フェイズVでは、「何が欲しいのか」といった質問にPECSを用いて応答し、フェイズVIでは、「何が見えるか」などの質問に答え、コメントするスキルを習得する。PECSの目標は、機能的なコミュニケーション能力の向上である。研究においては、PECSを使用することで発語が促進される事例や、音声出力装置(SGD)への移行が見られることが報告されている。PECSはエビデンスベースの指導法であり、その効果を実証する研究は多数発表されている。

私がPECSに取り組み始めたのは、言葉を持たない自閉症児を担当していた約20年前のことである。それまでは、スケジュールの視覚化など、彼らが環境を理解するためのTEACCHプログラムに代表される構造化支援に携わっていた。しかし、コミュニケーションにおいて最もストレスを感じるのは、自分の思いが伝わらないときである。海外旅行をした際、「コーク」と注文してもコーヒーが出てきた場合、飲めるからいいかと諦め続けるうちに、次第に卑屈になってしまう。絵付きのメニューがあれば指さして注文でき、助かった経験がある人も多いのではないか。言葉を持たない障害者が暴れることが少なくないのは、思いが通じないからだと考えれば納得できる。また、「何が欲しいの?」と聞かれない限り要求が実現しない環境では、常に援助者の言動を気にしなければならず、依存的にならざるを得ない。結果として、指示されるまで行動しないことが生きる術となってしまう。しかし、コミュニケーションは要求ができればよいというものではない。私たちの日常会話のほとんどはコメントで満たされている。「梅が咲いたね」「今日は寒いね」「いい天気だね」といった何気ないやり取りこそが、対人関係を築く上で重要な役割を果たす。障害の重い人が同じレベルでコミュニケーションを取れるかは分からないが、PECSはフェイズVIまでのトレーニングを通じてコメントの表出を目指している。自分の発したコメントに「そうだね」「おもしろいね」「悲しいね」と返してもらうことで、人は安心し、絆を深めることができる。障害が重いからといってフェイズIVで止まらず、ぜひフェイズVIまで取り組んでほしいと思う。
Bingサイト内検索