ザ・ロイヤルファミリー ― 2025年11月04日
勝負もののドラマには、理屈抜きの胸の高鳴りがある。勝つか負けるか、その一点に人生のすべてが凝縮されるからだ。野球、将棋、ボクシング……舞台はいろいろあれど、競馬ほど人と動物の絆を描くにふさわしい勝負はないだろう。そんな競馬を真正面から扱ったドラマが、この秋のTBS日曜劇場『ザ・ロイヤルファミリー』だ。主人公・栗須栄治(妻夫木聡)は、税理士として安定した人生を歩んでいたが、人生の歯車が狂った瞬間に、名馬主・山王耕造(佐藤浩市)と出会う。そこから彼の運命は一変。競走馬「ロイヤルホープ」との出会いを通じて、20年にわたる家族の再生と夢への再挑戦が始まる──有馬記念という“日本一の舞台”を目指して。
物語は原作・早見和真の同名小説。『イノセント・デイズ』で知られる早見が描くのは、血と汗、そして「血統」に宿る宿命の物語だ。企画を立ち上げたのはプロデューサー・加藤章一。競馬に縁のなかったという彼が、「血統の継承」という言葉に人間社会の縮図を見たという。JRAの全面協力で実際の競馬場・トレセン撮影を敢行したが、コロナ禍で一時頓挫。それでも企画は息をつなぎ、数年の熟成を経てようやくこの秋、放送が実現した。
キャストには、妻夫木と佐藤を筆頭に、目黒蓮、松本若菜、沢村一樹、黒木瞳、小泉孝太郎といった実力派が並ぶ。いずれも「勝負」と「誇り」を背負う人間たちを、それぞれの流儀で演じている。脚本は『桐島、部活やめるってよ』の喜安浩平。青春群像の機微を知り尽くした筆致が、競馬界という閉ざされた世界に新たな風を吹き込む。主題歌は玉置浩二の「ファンファーレ」。その一節がレース前の高鳴りを象徴するように響く。演出を担うのは塚原あゆ子。『Nのために』『アンナチュラル』『最愛』と、近年のTBSドラマ黄金期を支えた名手だ。俳優の即興性を生かしながら、感情の微細な揺れを緻密に捉える──そんな彼女の演出が、本作でも遺憾なく発揮されている。芸術選奨新人賞や日本アカデミー賞優秀監督賞に輝いた手腕は伊達ではない。
競馬という専門的な題材を、血の通った人間ドラマへと昇華させた『ザ・ロイヤルファミリー』は、決して“馬の話”にとどまらない。これは、夢に敗れた者がもう一度、人生のターフに立つ物語である。勝敗ではなく、「挑むこと」にこそ人は心を打たれる──そんな原点を思い出させてくれる、今季屈指の注目作だ。ドラマの優秀さゆえか、あるいは歳のせいか、自分でも驚くほど目頭が熱くなる。
物語は原作・早見和真の同名小説。『イノセント・デイズ』で知られる早見が描くのは、血と汗、そして「血統」に宿る宿命の物語だ。企画を立ち上げたのはプロデューサー・加藤章一。競馬に縁のなかったという彼が、「血統の継承」という言葉に人間社会の縮図を見たという。JRAの全面協力で実際の競馬場・トレセン撮影を敢行したが、コロナ禍で一時頓挫。それでも企画は息をつなぎ、数年の熟成を経てようやくこの秋、放送が実現した。
キャストには、妻夫木と佐藤を筆頭に、目黒蓮、松本若菜、沢村一樹、黒木瞳、小泉孝太郎といった実力派が並ぶ。いずれも「勝負」と「誇り」を背負う人間たちを、それぞれの流儀で演じている。脚本は『桐島、部活やめるってよ』の喜安浩平。青春群像の機微を知り尽くした筆致が、競馬界という閉ざされた世界に新たな風を吹き込む。主題歌は玉置浩二の「ファンファーレ」。その一節がレース前の高鳴りを象徴するように響く。演出を担うのは塚原あゆ子。『Nのために』『アンナチュラル』『最愛』と、近年のTBSドラマ黄金期を支えた名手だ。俳優の即興性を生かしながら、感情の微細な揺れを緻密に捉える──そんな彼女の演出が、本作でも遺憾なく発揮されている。芸術選奨新人賞や日本アカデミー賞優秀監督賞に輝いた手腕は伊達ではない。
競馬という専門的な題材を、血の通った人間ドラマへと昇華させた『ザ・ロイヤルファミリー』は、決して“馬の話”にとどまらない。これは、夢に敗れた者がもう一度、人生のターフに立つ物語である。勝敗ではなく、「挑むこと」にこそ人は心を打たれる──そんな原点を思い出させてくれる、今季屈指の注目作だ。ドラマの優秀さゆえか、あるいは歳のせいか、自分でも驚くほど目頭が熱くなる。
発達障害ネタのドラマ ― 2025年09月23日
今期のテレビドラマがほぼ終了した。注目していたのは、発達障害を扱った二作品。ディスレクシア(読み書き障害)を扱った「愛の、がっこう。」と、ASD(自閉スペクトラム症)を題材にした「僕達はまだその星の校則を知らない」だ。
「愛の、がっこう。」は読み書き障害に触れてはいるものの、結局は障害の説明にとどまり、ホストと年上の女性教師との恋愛物語へと展開してしまった。読めなくても書けなくても、今はICTの活用が可能な時代なのに、そうした描写は皆無。代わりにドリル練習の場面ばかりで、正直うんざりした。ラストシーンでは、間違えた漢字「愛」を砂浜で練習し、「よくできました」の一言とともにキスシーン。なんじゃこれ? 結局、漢字の練習こそが大事だと言いたげな締めくくりに拍子抜けした。
それに比べて「僕達はまだその星の校則を知らない」は、高機能ASDの特性を前面に押し出した演出が印象的だった。学校内で起こる問題に対し、スクールロイヤーでもあるASDの主人公が、宮沢賢治風の造語「ポポス」(いい感じ)「ムムス」(嫌な感じ)を使って表現するのがとても面白い。彼の言葉は、いわゆる“正義”の言葉だが、必要悪を許容する社会とは摩擦を起こしてしまう。弁護士である以上、正義と悪の間にあるグレーゾーンを見極められなければ仕事にならない。その見極めの中で、彼は「ポポス」の重要性に気づいていく。何が正しいかではなく、何が「ポポス」なのかを考えるうちに、不登校で毛嫌いしていた学校生活の大切さにも気づいていく。
このドラマでは、宮沢賢治の言葉が随所にセリフとして使われており、心地よさを感じる。ASDの主人公と恋人役のヒロインがそれらの言葉に共感していくシーンも、心が洗われるようだった。ラストシーンも素晴らしい。「どう考えてもあなたのそばにいることが僕の幸いだから」という、普通なら引いてしまいそうなプロポーズの言葉が、ASDならではの純粋な表現としてキラキラと輝いていた。主人公の一つ一つの「ポポス」言葉に涙ぐむ堀田真由も、非常に良いキャストだった。
ということで、発達障害をテーマにしたドラマとしては、今期は圧倒的に「僕星」が勝っていたと思う。
「愛の、がっこう。」は読み書き障害に触れてはいるものの、結局は障害の説明にとどまり、ホストと年上の女性教師との恋愛物語へと展開してしまった。読めなくても書けなくても、今はICTの活用が可能な時代なのに、そうした描写は皆無。代わりにドリル練習の場面ばかりで、正直うんざりした。ラストシーンでは、間違えた漢字「愛」を砂浜で練習し、「よくできました」の一言とともにキスシーン。なんじゃこれ? 結局、漢字の練習こそが大事だと言いたげな締めくくりに拍子抜けした。
それに比べて「僕達はまだその星の校則を知らない」は、高機能ASDの特性を前面に押し出した演出が印象的だった。学校内で起こる問題に対し、スクールロイヤーでもあるASDの主人公が、宮沢賢治風の造語「ポポス」(いい感じ)「ムムス」(嫌な感じ)を使って表現するのがとても面白い。彼の言葉は、いわゆる“正義”の言葉だが、必要悪を許容する社会とは摩擦を起こしてしまう。弁護士である以上、正義と悪の間にあるグレーゾーンを見極められなければ仕事にならない。その見極めの中で、彼は「ポポス」の重要性に気づいていく。何が正しいかではなく、何が「ポポス」なのかを考えるうちに、不登校で毛嫌いしていた学校生活の大切さにも気づいていく。
このドラマでは、宮沢賢治の言葉が随所にセリフとして使われており、心地よさを感じる。ASDの主人公と恋人役のヒロインがそれらの言葉に共感していくシーンも、心が洗われるようだった。ラストシーンも素晴らしい。「どう考えてもあなたのそばにいることが僕の幸いだから」という、普通なら引いてしまいそうなプロポーズの言葉が、ASDならではの純粋な表現としてキラキラと輝いていた。主人公の一つ一つの「ポポス」言葉に涙ぐむ堀田真由も、非常に良いキャストだった。
ということで、発達障害をテーマにしたドラマとしては、今期は圧倒的に「僕星」が勝っていたと思う。
こんばんは、朝山家です。 ― 2025年09月03日
日曜の夜に放送中のドラマ『こんばんは、朝山家です。』。この作品は良い。主演は中村アンと小澤征悦。毒を吐く妻と、ぼやき続ける夫。反抗期の娘に、学校に馴染めない息子。どこかで見たことがあるようで、実際にはなかなか描かれてこなかった家族の姿が、ユーモアと痛みを織り交ぜてリアルに描かれている。中村アン演じる朝子。いわゆる“毒妻”だが、その毒はただのヒステリーではなく、家事も育児も仕事も背負いながら、夫の承認欲求や無責任さに振り回される中で積み重なった“生活の叫び”だ。ときに言葉の刃のように鋭く、ときにユーモアを帯びるその口調は、多くの視聴者に「わかる…」と共感させる。しかも彼女自身の美しさが、その毒をより切実で魅力的に見せてしまう。
一方、小澤征悦が演じる賢太は、ぼやきで自分を正当化する“残念な夫”。「言わなきゃいいのに…でもさー…だけどさー…」と繰り返す姿は、思わず笑ってしまうのに、どこか哀愁を漂わせる。マザコンぶりに呆れながらも「いるいる、こういう人」と思わせる妙な説得力がある。不器用で情けないのに、どこか憎めない存在感だ。子どもたちの演技も光っている。渡邉心結が演じる蝶子は、野球部の高校生。反抗期の真っ只中で母に反発しながらも、心の底では母を嫌いきれない複雑さを覗かせる。その微妙な心の揺れを自然に表現していて、観る側に切なさを残す。
そして注目すべきは、嶋田鉄太が演じる晴太。不登校気味で、学校ではなかなか周囲に馴染めない小学生という難しい役どころだ。彼のキャラクターは、ASD(自閉スペクトラム症)の一部のタイプをよく表現している。特別な才能や極端な個性を持っているわけではなく、「ちょっと変わっていて、集団の中で浮いてしまう」――そんな現実に即した姿だ。晴太は家庭や学校外ではよく喋る明るい子で、そのギャップがむしろ演技のリアリティを強めている。他のドラマでよく描かれるASD像は、空気を読まずに天才的な才能を発揮するキャラや、無表情で機械のように振る舞うキャラといった“ステレオタイプ”が多い。だが実際には、晴太のような「学校では不器用で浮いてしまうタイプ」のほうが多い。脚本家のリアルな観察眼には舌を巻く。
ドラマの面白さは、登場人物が“思ったことを全部口にする”ところにある。普通のホームドラマなら飲み込んでしまうような言葉が、朝山家では真正面からぶつけ合う。その衝突が痛快で、笑えて、そして少し胸に刺さる。さらに、激しいやり取りの中にもふとした優しさがのぞく。朝子がほんの少し柔らかくなる瞬間。賢太が子どもに寄り添おうとする不器用な仕草。そんな小さな揺らぎが「まだこの家族は壊れていない」と感じさせ、観ている側を安心させる。
『こんばんは、朝山家です。』は、笑いと痛みを同時に描くホームドラマの新しい形だ。毒やぼやきに込められた切実さを笑い飛ばしつつ、気づけば自分の家族や日常を重ねてしまう。キャストの熱演と脚本の緻密さがかみ合い、観終わった後にじんわり心に残る。今年のホームドラマの中でも異彩を放つ秀作だ。日曜の夜、テレビの前で自分の家族を少しだけ振り返ってみたくなる――そんな時間をくれる作品だ。
一方、小澤征悦が演じる賢太は、ぼやきで自分を正当化する“残念な夫”。「言わなきゃいいのに…でもさー…だけどさー…」と繰り返す姿は、思わず笑ってしまうのに、どこか哀愁を漂わせる。マザコンぶりに呆れながらも「いるいる、こういう人」と思わせる妙な説得力がある。不器用で情けないのに、どこか憎めない存在感だ。子どもたちの演技も光っている。渡邉心結が演じる蝶子は、野球部の高校生。反抗期の真っ只中で母に反発しながらも、心の底では母を嫌いきれない複雑さを覗かせる。その微妙な心の揺れを自然に表現していて、観る側に切なさを残す。
そして注目すべきは、嶋田鉄太が演じる晴太。不登校気味で、学校ではなかなか周囲に馴染めない小学生という難しい役どころだ。彼のキャラクターは、ASD(自閉スペクトラム症)の一部のタイプをよく表現している。特別な才能や極端な個性を持っているわけではなく、「ちょっと変わっていて、集団の中で浮いてしまう」――そんな現実に即した姿だ。晴太は家庭や学校外ではよく喋る明るい子で、そのギャップがむしろ演技のリアリティを強めている。他のドラマでよく描かれるASD像は、空気を読まずに天才的な才能を発揮するキャラや、無表情で機械のように振る舞うキャラといった“ステレオタイプ”が多い。だが実際には、晴太のような「学校では不器用で浮いてしまうタイプ」のほうが多い。脚本家のリアルな観察眼には舌を巻く。
ドラマの面白さは、登場人物が“思ったことを全部口にする”ところにある。普通のホームドラマなら飲み込んでしまうような言葉が、朝山家では真正面からぶつけ合う。その衝突が痛快で、笑えて、そして少し胸に刺さる。さらに、激しいやり取りの中にもふとした優しさがのぞく。朝子がほんの少し柔らかくなる瞬間。賢太が子どもに寄り添おうとする不器用な仕草。そんな小さな揺らぎが「まだこの家族は壊れていない」と感じさせ、観ている側を安心させる。
『こんばんは、朝山家です。』は、笑いと痛みを同時に描くホームドラマの新しい形だ。毒やぼやきに込められた切実さを笑い飛ばしつつ、気づけば自分の家族や日常を重ねてしまう。キャストの熱演と脚本の緻密さがかみ合い、観終わった後にじんわり心に残る。今年のホームドラマの中でも異彩を放つ秀作だ。日曜の夜、テレビの前で自分の家族を少しだけ振り返ってみたくなる――そんな時間をくれる作品だ。
Nスペドラマ総力戦研究所 ― 2025年08月18日
「昭和16年夏、日本はすでに敗けていた」。2夜連続のNHKスペシャル『シミュレーション 昭和16年夏の敗戦』が描いたのは、開戦前夜の日本が抱えていた“見えていた敗北”の構造だ。1941年、首相直属の総力戦研究所に集められた若きエリートたちは、日米開戦を前提に国家の総力を分析。石油・鉄・食糧・造船能力などを精査し、結論は明快だった。「日本は必ず敗北する」。この報告は近衛文麿首相や東條英機陸相に届けられたが、東條は「日露戦争も勝てると思わなかったが勝った」として一蹴。理性より精神論が優先された。この時点で日本はすでに軍部独裁・ファシズムの体制にあった。統帥権の独立により軍は内閣の統制を拒否し、軍部大臣現役武官制の復活で、軍が内閣の存立を左右する拒否権を持った。五・一五事件や二・二六事件では、軍の政治支配が暴力によって正当化され、民間の統治機構は沈黙を強いられた。昭和天皇は和平を望んだが、軍部の制度的優位の前ではその意向も貫徹できなかった。
戦後の東京裁判は政府の指導層を裁いたが、実際に戦争を推進した参謀本部の幕僚や制度設計者は多くが免責された。裁かれるべきは個人ではなく、軍部が政治を超えて安全保障を独占した制度構造そのものだった。この教訓は、現代日本にも通じる。安全保障政策が現実に拡張される一方で、国会と政府がそれに対して「制度的責任」を負っているかは曖昧だ。自衛隊の運用、日米安保の実態、周辺事態への対応。これらは国民の生命に直結するにもかかわらず、政治の側が「憲法の制約」や「米国との協調」に逃げ、責任を曖昧にしている。
戦前の失敗は、軍部が暴走したことではなく、政府と国会が安全保障に責任を持てる制度を欠いていたことにある。総力戦研究所はこの制度論にに立ち入ることは既にできなかった。令和の日本が平和を守るために必要なのは、理念の空中戦ではなく、国会と政府が安全保障の意思決定に対して明確な責任を持つ制度設計だ。「大和魂」も「憲法9条平和論」も根拠のない精神論でしかない。精神論では戦争は防げない。制度が責任を生む。昭和の敗戦はそのことを、痛みとともに教えている。
戦後の東京裁判は政府の指導層を裁いたが、実際に戦争を推進した参謀本部の幕僚や制度設計者は多くが免責された。裁かれるべきは個人ではなく、軍部が政治を超えて安全保障を独占した制度構造そのものだった。この教訓は、現代日本にも通じる。安全保障政策が現実に拡張される一方で、国会と政府がそれに対して「制度的責任」を負っているかは曖昧だ。自衛隊の運用、日米安保の実態、周辺事態への対応。これらは国民の生命に直結するにもかかわらず、政治の側が「憲法の制約」や「米国との協調」に逃げ、責任を曖昧にしている。
戦前の失敗は、軍部が暴走したことではなく、政府と国会が安全保障に責任を持てる制度を欠いていたことにある。総力戦研究所はこの制度論にに立ち入ることは既にできなかった。令和の日本が平和を守るために必要なのは、理念の空中戦ではなく、国会と政府が安全保障の意思決定に対して明確な責任を持つ制度設計だ。「大和魂」も「憲法9条平和論」も根拠のない精神論でしかない。精神論では戦争は防げない。制度が責任を生む。昭和の敗戦はそのことを、痛みとともに教えている。
グラスハート ― 2025年08月17日
Netflix音楽ドラマ『グラスハート』が、視聴者の心を二分した。天才ミュージシャン藤谷直季と仲間たちのセッションは、まさに極上のライブを覗き見するような臨場感。バンド「TENBLANK」が生み出す即興の波、その上を藤谷と朱音が言葉ではなく音で会話する――これこそ音楽ドラマの醍醐味だと絶賛する声がネットに溢れた。ここまでは、間違いなく傑作の域である。だが、その興奮を一瞬で冷ます展開がやって来た。藤谷の脳腫瘍。そして医師の口から放たれる「音楽を続ければ命に関わる」という一言。病名も症状も不明。唐突すぎる宣告だ。まるで台本の都合で強引に物語を曲げたかのような印象を残す。
医学的に見ても、これは首をかしげざるを得ない。脳腫瘍で音楽活動が全面禁止になるケースは考えられない。制限がかかるのは、てんかん発作、感覚過敏、集中力障害といった症状が出た場合であり、それも環境や活動時間を調整する方法が優先され医学的に「全面禁止」はエビデンスがない。視聴者の多くが「そんなことあるのか?」と疑問を抱いたのも無理はない。物語的にも惜しい。あれほど丁寧に描いたセッションの喜びから、主人公が突然音楽を続けるならばと死を宣告される。周りのメンバーがオドオドするだけで、主人公の葛藤も経過も描かれない。人物像の厚みは失われ、音楽そのものが物語の犠牲になってしまった感がある。もし制作陣が本当に「命と音楽の狭間」を描くつもりだったのなら、そのプロセスこそ物語の核に据えるべきだったのだ。改善の余地は大きい。セッション中に指先の震えが走る、幻聴が混ざる、譜面に書きかけのフレーズが増えていく――そうした小さな兆候を積み重ねれば、藤谷の決断は必然性を帯びたはずだ。朱音に未完のメロディを託す場面など、音楽で別れを語る展開も考えられる。
では、なぜこうなったのか。制作現場に近い関係者は「放送枠や脚本尺の制約があったのでは」と語るがNetflix制作だけに考えにくい。脚本家が医学情報に乏しく、感情的インパクトだけを優先する演出判断かもしれないが結果としてテーマの深みを削ぎ、作品全体の完成度を下げたことは否めない。『グラスハート』は、音楽描写では間違いなく今年屈指のドラマだ。それだけに、病による転換の描き方が甘かったことが悔やまれる。音楽と命の葛藤――本来なら普遍的で心を揺さぶるテーマが、説明不足と唐突さで台無しになる。もし続編や再編集の機会があるなら、この核心をどう描くかが、真の傑作への分水嶺となるだろう。
医学的に見ても、これは首をかしげざるを得ない。脳腫瘍で音楽活動が全面禁止になるケースは考えられない。制限がかかるのは、てんかん発作、感覚過敏、集中力障害といった症状が出た場合であり、それも環境や活動時間を調整する方法が優先され医学的に「全面禁止」はエビデンスがない。視聴者の多くが「そんなことあるのか?」と疑問を抱いたのも無理はない。物語的にも惜しい。あれほど丁寧に描いたセッションの喜びから、主人公が突然音楽を続けるならばと死を宣告される。周りのメンバーがオドオドするだけで、主人公の葛藤も経過も描かれない。人物像の厚みは失われ、音楽そのものが物語の犠牲になってしまった感がある。もし制作陣が本当に「命と音楽の狭間」を描くつもりだったのなら、そのプロセスこそ物語の核に据えるべきだったのだ。改善の余地は大きい。セッション中に指先の震えが走る、幻聴が混ざる、譜面に書きかけのフレーズが増えていく――そうした小さな兆候を積み重ねれば、藤谷の決断は必然性を帯びたはずだ。朱音に未完のメロディを託す場面など、音楽で別れを語る展開も考えられる。
では、なぜこうなったのか。制作現場に近い関係者は「放送枠や脚本尺の制約があったのでは」と語るがNetflix制作だけに考えにくい。脚本家が医学情報に乏しく、感情的インパクトだけを優先する演出判断かもしれないが結果としてテーマの深みを削ぎ、作品全体の完成度を下げたことは否めない。『グラスハート』は、音楽描写では間違いなく今年屈指のドラマだ。それだけに、病による転換の描き方が甘かったことが悔やまれる。音楽と命の葛藤――本来なら普遍的で心を揺さぶるテーマが、説明不足と唐突さで台無しになる。もし続編や再編集の機会があるなら、この核心をどう描くかが、真の傑作への分水嶺となるだろう。
愛の、がっこう ― 2025年07月22日
旅から帰ると、いつもの儀式が待っている。録り溜めたドラマの一気見だ。ちょうど夏の新ドラマが出そろう時期と重なったこともあり、リモコン片手に夜な夜な録画リストとにらめっこをする。夏ドラマのラインナップは、相変わらず「刑事」「医者」「弁護士」「学校モノ」といったおなじみの顔ぶれだが、近年は登場人物の中に発達障害を抱えるキャラクターを配した作品が増えている。サヴァン症候群の天才が難事件を解決するタイプはもはや定番だが、今年は学習障害(LD)に焦点を当てたドラマも登場した。
面白そうなのはフジテレビの『愛の、がっこう』。真面目すぎる高校教師・愛実(木村文乃)と、夜の世界でNo.1を目指すホスト・カヲル(ラウール)という、いかにもドラマ的な組み合わせが織りなす恋物語である。禁断の恋、だがどこか真っ直ぐで純粋。そんな空気感が漂う。愛実は堅い家庭で育ち、親の言うまま教師という道を選んだ人物。生徒のホストクラブ通いをきっかけにカヲルと出会い、読み書きが苦手な彼に“個人授業”を始める。それを通して、互いに自分の孤独や不安に気づいていく。立場も境遇も違う2人が、格差や偏見、周囲の反発を乗り越えながら「愛とは何か」を学んでいくという筋書きだ。
脚本は『白い巨塔』や『昼顔』などで知られる井上由美子。いかにも漫画が原作かと思いきや、完全オリジナル。人間の業や社会のひずみに切り込む作風には定評があるだけに、今回の題材にもある種の真摯さを感じる。キャスティングも興味深い。木村文乃は相変わらず「可もなく不可もなく」の安定した芝居だが、驚いたのはホスト役のラウール。Snow Manのセンターというイメージが強いが、役者としての一面もなかなかどうして魅力的だ。ベネズエラ人の父と日本人の母を持つ22歳、小学3年で少年ダンス世界大会準優勝という経歴にも驚かされる。
とはいえ、ドラマの中での読み書き障害の描かれ方は今のところやや表層的で、指導場面が形式的に過ぎる印象も否めない。このあたり、今後の展開にもうひと掘りふた掘り、踏み込んだ描写を期待したい。そんなこんなで、旅の余韻もそこそこに、今は録画チェックが止まらない。眠気と闘いながら、夜更けのテレビ画面にまた今日も付き合うことになりそうだ。
面白そうなのはフジテレビの『愛の、がっこう』。真面目すぎる高校教師・愛実(木村文乃)と、夜の世界でNo.1を目指すホスト・カヲル(ラウール)という、いかにもドラマ的な組み合わせが織りなす恋物語である。禁断の恋、だがどこか真っ直ぐで純粋。そんな空気感が漂う。愛実は堅い家庭で育ち、親の言うまま教師という道を選んだ人物。生徒のホストクラブ通いをきっかけにカヲルと出会い、読み書きが苦手な彼に“個人授業”を始める。それを通して、互いに自分の孤独や不安に気づいていく。立場も境遇も違う2人が、格差や偏見、周囲の反発を乗り越えながら「愛とは何か」を学んでいくという筋書きだ。
脚本は『白い巨塔』や『昼顔』などで知られる井上由美子。いかにも漫画が原作かと思いきや、完全オリジナル。人間の業や社会のひずみに切り込む作風には定評があるだけに、今回の題材にもある種の真摯さを感じる。キャスティングも興味深い。木村文乃は相変わらず「可もなく不可もなく」の安定した芝居だが、驚いたのはホスト役のラウール。Snow Manのセンターというイメージが強いが、役者としての一面もなかなかどうして魅力的だ。ベネズエラ人の父と日本人の母を持つ22歳、小学3年で少年ダンス世界大会準優勝という経歴にも驚かされる。
とはいえ、ドラマの中での読み書き障害の描かれ方は今のところやや表層的で、指導場面が形式的に過ぎる印象も否めない。このあたり、今後の展開にもうひと掘りふた掘り、踏み込んだ描写を期待したい。そんなこんなで、旅の余韻もそこそこに、今は録画チェックが止まらない。眠気と闘いながら、夜更けのテレビ画面にまた今日も付き合うことになりそうだ。
MIファイナル・レコニング ― 2025年06月19日
洋画といえば、アクションものの「ミッション:インポッシブル(MI)」は欠かさず見ている。今回の上映時間はほぼ3時間。トイレが持つかと心配したが、圧倒的なアクションに引き付けられ、事なきを得た。イラン・イスラエル間で緊張が高まる今、現実の核兵器開発問題が報じられていることもあり、作中のスケール感に不思議なリアリティを感じた。最後の試練は、ロシアが開発したAIの暴走を利用して核戦争へ導こうとする野望を阻止するという、前作からの続きである。シリーズ全体の伏線を回収するような筋書きになっており、過去作の流れを覚えていれば、もっと楽しめたかもしれない。1996年から続くスパイアクション「ミッション:インポッシブル」シリーズの第8作である今回は、前作『デッドレコニング』との2部作であり、イーサン・ハントの過去や運命に迫る物語だ。世界の命運を握る鍵を手にしたイーサンが、壮大な任務に挑む姿を描いており、トム・クルーズ自らが挑む空中スタントも見どころ。サイモン・ペッグやヴィング・レイムスらおなじみの仲間に加え、ヘイリー・アトウェルら前作の新キャストも続投。監督はシリーズ常連のクリストファー・マッカリーが担当している。まさにシリーズの集大成とも言える作品だ。トム・クルーズは30年間この作品に取り組んでいるが、映画の中での彼の肉体は衰えを知らない。ただ、首筋の老化はさすがに隠せず、62歳なのだとあらためて思い知らされた。22歳のとき『トップガン』で一躍有名になり、28歳からこの作品に取り組んできた彼のバイタリティは本当にすごい。
当時、スパイものといえば007シリーズが圧倒的な人気を誇っていたが、「ミッション:インポッシブル」がそのお株を奪った感がある。「ミッション:インポッシブル」と「007」シリーズの違いは、両者のスパイ像や演出スタイルに、ヨーロピアンスタイルとアメリカンスタイルの違いが見て取れる。007シリーズは、英国MI6のエリートスパイであるジェームズ・ボンドが主人公。スタイリッシュなスーツ姿、高級車やガジェット、単独行動が特徴であり、任務は上司との対面で伝えられる。一方、「ミッション:インポッシブル」は、アメリカの極秘組織IMF(Impossible Mission Force)に所属するイーサン・ハントが主人公。チームでの連携、リアルなアクション、そしてトム・クルーズ本人によるスタントが魅力である。任務は「このメッセージは5秒後に消滅する」という名セリフとともに伝えられる。
007が「英国紳士の孤高のスパイ」だとすれば、MIは「命知らずのチーム型スパイ」。それぞれに異なる魅力がある。ちなみに、MI6は実在する組織だが、IMFはCIAの下部組織という設定であり、任務は「政府が関与を否定できる」レベルの極秘作戦ばかり。指令の「このメッセージは5秒後に消滅する」というセリフは、1960年代のテレビドラマ『スパイ大作戦』から続いている。そして、あの定番のテーマ曲が流れると、今でもわくわくしてしまうのは、ずっと変わらずこの映画の最大の魅力のひとつだ。たぶんこれでシリーズは幕を閉じるのだろう。あまり長々とやってもインディージョーンズの二の舞になるのでここらで余韻を残して終了するのが良いかもしれない。トムお疲れさまでした。
当時、スパイものといえば007シリーズが圧倒的な人気を誇っていたが、「ミッション:インポッシブル」がそのお株を奪った感がある。「ミッション:インポッシブル」と「007」シリーズの違いは、両者のスパイ像や演出スタイルに、ヨーロピアンスタイルとアメリカンスタイルの違いが見て取れる。007シリーズは、英国MI6のエリートスパイであるジェームズ・ボンドが主人公。スタイリッシュなスーツ姿、高級車やガジェット、単独行動が特徴であり、任務は上司との対面で伝えられる。一方、「ミッション:インポッシブル」は、アメリカの極秘組織IMF(Impossible Mission Force)に所属するイーサン・ハントが主人公。チームでの連携、リアルなアクション、そしてトム・クルーズ本人によるスタントが魅力である。任務は「このメッセージは5秒後に消滅する」という名セリフとともに伝えられる。
007が「英国紳士の孤高のスパイ」だとすれば、MIは「命知らずのチーム型スパイ」。それぞれに異なる魅力がある。ちなみに、MI6は実在する組織だが、IMFはCIAの下部組織という設定であり、任務は「政府が関与を否定できる」レベルの極秘作戦ばかり。指令の「このメッセージは5秒後に消滅する」というセリフは、1960年代のテレビドラマ『スパイ大作戦』から続いている。そして、あの定番のテーマ曲が流れると、今でもわくわくしてしまうのは、ずっと変わらずこの映画の最大の魅力のひとつだ。たぶんこれでシリーズは幕を閉じるのだろう。あまり長々とやってもインディージョーンズの二の舞になるのでここらで余韻を残して終了するのが良いかもしれない。トムお疲れさまでした。
ストロー: 絶望の淵で ― 2025年06月16日
『ストロー:絶望の淵で』は、今週Netflix映画部門で第4位にランクイン。物語は、病気の娘を抱えるシングルマザーの過酷な1日を描く。彼女のもとに次々と悲劇が押し寄せ、たった数時間のうちに、生活は音を立てて崩れ去ってゆく。孤立した社会の中で、限界まで追いつめられた彼女は、誰も助けてくれない現実の前に、絶望的な選択を強いられる。終盤のどんでん返しは胸が痛むほど悲惨で、観る者に重い余韻を残す。アメリカに根づく貧困の連鎖と、その構造的な残酷さが鮮明に浮かび上がる一方で、物語の展開はあまりに不運の連続。思わず「そんなことある?」と突っ込まずにはいられないほど、ベタな脚本展開が目立つ。主人公の周囲には、上司も大家も怒鳴るばかりで、まるで怒りの人間見本市。一方の彼女も口下手で衝動的。ADHDを彷彿とさせるような言動もあり、不器用な生きづらさがにじみ出る。その“ベタな不幸”に、逆に引き込まれてしまうのは、そこにリアリティを感じてしまうからなのかもしれない。
作中、唯一彼女に寄り添おうとするのは、母子家庭で育った黒人女性刑事と、黒人の銀行支店長。彼らは偏見にとらわれず、彼女の行動の背景を理解しようと努める。対照的に、白人と警察は終始差別的に描かれており、これは反DEIへの風刺とも読めるが、やや一面的な印象は否めない。クライマックスでは、銀行に立てこもった彼女を、行員がスマホで密かにライブ配信。その映像が広まり、彼女の苦悩に市民が共感し、銀行前にデモが発生という流れもやや都合が良すぎる展開だが、娘の給食費と家賃を払うために、週払い7万円の給料を受け取りに来ただけの行動がすべての引き金だったという切なさに、市民の同情が集まるのも無理はない。
さらに、不当な解雇を言い渡された彼女が、偶然店長室に押し入った強盗の銃を奪って射殺。その後、彼女を共犯と誤解して通報しようとした上司をも撃ち殺す。血まみれの小切手を片手に銃を携えて銀行へ向かう彼女の姿を、観客は“滑稽”と笑うか、“極限まで追い詰められた母”として心を寄せるかで、大きく評価が分かれるだろう。貧困が人間の尊厳をいかに奪うかを容赦なく突きつける本作は、不器用で過剰な演出の中にも、確かに心をえぐるような真実が宿っている。
作中、唯一彼女に寄り添おうとするのは、母子家庭で育った黒人女性刑事と、黒人の銀行支店長。彼らは偏見にとらわれず、彼女の行動の背景を理解しようと努める。対照的に、白人と警察は終始差別的に描かれており、これは反DEIへの風刺とも読めるが、やや一面的な印象は否めない。クライマックスでは、銀行に立てこもった彼女を、行員がスマホで密かにライブ配信。その映像が広まり、彼女の苦悩に市民が共感し、銀行前にデモが発生という流れもやや都合が良すぎる展開だが、娘の給食費と家賃を払うために、週払い7万円の給料を受け取りに来ただけの行動がすべての引き金だったという切なさに、市民の同情が集まるのも無理はない。
さらに、不当な解雇を言い渡された彼女が、偶然店長室に押し入った強盗の銃を奪って射殺。その後、彼女を共犯と誤解して通報しようとした上司をも撃ち殺す。血まみれの小切手を片手に銃を携えて銀行へ向かう彼女の姿を、観客は“滑稽”と笑うか、“極限まで追い詰められた母”として心を寄せるかで、大きく評価が分かれるだろう。貧困が人間の尊厳をいかに奪うかを容赦なく突きつける本作は、不器用で過剰な演出の中にも、確かに心をえぐるような真実が宿っている。
対岸の家事 ― 2025年06月05日
ドラマ『対岸の家事~これが、私の生きる道!~』が終わった。働く既婚女性の別姓問題や育児、夫の育休取得などが議論される今、あえて“専業主婦”の視点から描かれたこのドラマは新鮮だった。一般的に「専業主婦=ゆったりした生活」というイメージがあるが、現実はそう単純ではない。乳幼児と日々向き合い、ママ友の集まりに行っても周囲の大半は働く母親。自分は少数派だと感じ、孤独感に包まれる——そんな日常が丁寧に描かれていた。主人公・詩穂(多部未華子)は、美容師と家事育児の両立は自分には難しい、と自覚している。何事もゆっくり丁寧に取り組みたいからこそ、主婦という生き方を選んだ。隣室に住むキャリアママ・礼子(江口のりこ)は、仕事に家事、保育所の送り迎えに追われる毎日。そんな中で、のんびりと子育てに向き合う詩穂を羨ましく思い、ついには仕事も手放そうと迷い始める。一方、厚労省官僚の育休パパ・達也(ディーン・フジオカ)は、かつて自分をエリート教育で縛った専業主婦の母にトラウマを抱えている。彼は「現代女性は国家の重要な働き手、専業主婦は時代遅れ」と詩穂に共働きの道を勧めるが、詩穂の揺るがない姿勢に戸惑う。それでも3人はママ友・パパ友として支え合い、互いの違いを受け入れながら関係を築いていく。
礼子は、会社では“働く女性のロールモデル”としてもてはやされるが、詩穂の「自分らしく生きることが大切」という言葉に揺れる。自分は本当に“自分らしく”生きているのか。家族を犠牲にしてでも好きな仕事を選び続けることに、疑問を持ち始めるのだ。詩穂にもまた、複雑な過去がある。早くに亡くなった専業主婦の母の影を追い、父子家庭となったあと、ヤングケアラーとして家事を担っていた日々があった。やがて耐えられず、父を置いて家を出た罪悪感がある。ドラマは一貫して“家事”を中心に描かれている。育児の大変さも喜びも、そこにある日常の積み重ねとして映し出されていた。
私自身、家事も仕事も両立しようと夫婦で頑張ってきたつもりだ。でも、このドラマを見て、気づかされたことがある。私たちは何を犠牲にしてきたのだろうと。道ばたの花を子どもと一緒に眺めたり、他愛のない会話を交わした記憶が、ほとんどない。夏休みに家族ぐるみで遊びに行った記憶はあっても、日常の小さな時間が思い出せないのだ。家事も仕事も日常であり、その積み重ねこそが“人生”を形作っている。専業主婦は楽で恵まれている、そんなふうに思ったこともあった。でも、よくよく考えれば、それぞれの事情や条件がある。発達障害のある子を育てる母親のように、働きたくてもフルタイムでは働けない家庭もある。専業主婦だからといって、必ずしも“恵まれている”わけではないのだ。
第3号被保険者、専業主婦の年金問題もよく話題にのぼる。「納付していないのに年金を受け取るのは不公平」という声もある。共働きで働く女性は、家事・育児をしながら保育料、保険料、年金と負担しているのだから、と。確かに、夫の扶養に入れば保険料負担もなく、税控除などの恩恵もある。年収500万円の3人家族なら、単身者よりも月1万円ほど可処分所得が増える計算だ。これは、専業主婦が月1万円、免除されている社会保険の2万円程を加算しても月3万円で家事・育児をしているとも言える。しかも、子育て支援策は“共働き”を前提に設計されていることが多く、専業主婦家庭には支援が少ないのが現実だ。年金の支給額にしても、厚生年金は収入に比例しており、単純に専業主婦の方が得をしているとは言えない。制度設計を精査すれば、それぞれの立場に見合った仕組みになっているとも言える。
結局、専業主婦も共働きも、何かを選べば何かを手放す。
大切なのは「自分らしく生きる」こと。そしてその選択を、他人と比べずに尊重し合える社会をつくることだろう。……なんて、年金生活に入ってしまった今となっては、少し手遅れかもしれないけれど。
礼子は、会社では“働く女性のロールモデル”としてもてはやされるが、詩穂の「自分らしく生きることが大切」という言葉に揺れる。自分は本当に“自分らしく”生きているのか。家族を犠牲にしてでも好きな仕事を選び続けることに、疑問を持ち始めるのだ。詩穂にもまた、複雑な過去がある。早くに亡くなった専業主婦の母の影を追い、父子家庭となったあと、ヤングケアラーとして家事を担っていた日々があった。やがて耐えられず、父を置いて家を出た罪悪感がある。ドラマは一貫して“家事”を中心に描かれている。育児の大変さも喜びも、そこにある日常の積み重ねとして映し出されていた。
私自身、家事も仕事も両立しようと夫婦で頑張ってきたつもりだ。でも、このドラマを見て、気づかされたことがある。私たちは何を犠牲にしてきたのだろうと。道ばたの花を子どもと一緒に眺めたり、他愛のない会話を交わした記憶が、ほとんどない。夏休みに家族ぐるみで遊びに行った記憶はあっても、日常の小さな時間が思い出せないのだ。家事も仕事も日常であり、その積み重ねこそが“人生”を形作っている。専業主婦は楽で恵まれている、そんなふうに思ったこともあった。でも、よくよく考えれば、それぞれの事情や条件がある。発達障害のある子を育てる母親のように、働きたくてもフルタイムでは働けない家庭もある。専業主婦だからといって、必ずしも“恵まれている”わけではないのだ。
第3号被保険者、専業主婦の年金問題もよく話題にのぼる。「納付していないのに年金を受け取るのは不公平」という声もある。共働きで働く女性は、家事・育児をしながら保育料、保険料、年金と負担しているのだから、と。確かに、夫の扶養に入れば保険料負担もなく、税控除などの恩恵もある。年収500万円の3人家族なら、単身者よりも月1万円ほど可処分所得が増える計算だ。これは、専業主婦が月1万円、免除されている社会保険の2万円程を加算しても月3万円で家事・育児をしているとも言える。しかも、子育て支援策は“共働き”を前提に設計されていることが多く、専業主婦家庭には支援が少ないのが現実だ。年金の支給額にしても、厚生年金は収入に比例しており、単純に専業主婦の方が得をしているとは言えない。制度設計を精査すれば、それぞれの立場に見合った仕組みになっているとも言える。
結局、専業主婦も共働きも、何かを選べば何かを手放す。
大切なのは「自分らしく生きる」こと。そしてその選択を、他人と比べずに尊重し合える社会をつくることだろう。……なんて、年金生活に入ってしまった今となっては、少し手遅れかもしれないけれど。
ディープフェイクの時代 ― 2025年05月26日
NHKスペシャル「創られた“真実” ディープフェイクの時代」を再放送で観た。正直、背筋が凍った。生成AIが生み出すディープフェイク技術をテーマにしたドラマ兼ドキュメンタリーで、どこまで日本の現実に近いのかは分からないが、少なくとも中国や欧米では現実の脅威として深刻な問題になっているという。番組は実際に世界各地で起きた事件をもとに構成されており、ストーリー仕立てで倫理観を揺さぶる。主演は青木崇高、妻役を入山法子が演じ、ギャラクシー賞2025年3月度月間賞を受賞した。物語は、ある保険会社で起きた大規模な顧客情報漏洩事件をきっかけに始まる。同時期、社員の佐藤真奈美が自殺。夫の晃と妹の洋子が真相を追ううち、ディープフェイク技術を開発するベンチャー企業の関与が明らかになる。晃はその企業に入社し、精巧な技術に驚きつつ、亡き妻のアバターを再現する。しかし次第に、現実と虚構の境界で深い葛藤を抱えていく。
筆者も、AI映像といえば映画業界でのストライキ問題くらいしか知らなかった。しかし、ドキュメンタリーのようにAIが実在の映像や音声を再構成し、あたかも亡くなった人がリモート会議で語りかけてくるという技術が、既に一部で実用化されていることには驚きを禁じ得なかった。中でも衝撃的だったのは、商談の場にいる相手が、実はすべてSNSやホームページを元に生成されたアバターだったという展開だ。本物は自分だけ。そんな未来が「あり得る話」として描かれ、それが荒唐無稽に思えない時代に私たちは生きている。ディープフェイクの問題は、単に技術の高度化だけではない。発信源の特定が極めて困難で、詐欺摘発を困難にしている点にもある。オレオレ詐欺のような“匿流(匿名・流動型)”犯罪どころの話ではない。もしディープフェイクが悪意ある手に渡れば、情報弱者はひとたまりもない。リモートは便利だ、と喜んでばかりもいられない。今や「映っているから信じられる」時代は終わったのかもしれない。
筆者も、AI映像といえば映画業界でのストライキ問題くらいしか知らなかった。しかし、ドキュメンタリーのようにAIが実在の映像や音声を再構成し、あたかも亡くなった人がリモート会議で語りかけてくるという技術が、既に一部で実用化されていることには驚きを禁じ得なかった。中でも衝撃的だったのは、商談の場にいる相手が、実はすべてSNSやホームページを元に生成されたアバターだったという展開だ。本物は自分だけ。そんな未来が「あり得る話」として描かれ、それが荒唐無稽に思えない時代に私たちは生きている。ディープフェイクの問題は、単に技術の高度化だけではない。発信源の特定が極めて困難で、詐欺摘発を困難にしている点にもある。オレオレ詐欺のような“匿流(匿名・流動型)”犯罪どころの話ではない。もしディープフェイクが悪意ある手に渡れば、情報弱者はひとたまりもない。リモートは便利だ、と喜んでばかりもいられない。今や「映っているから信じられる」時代は終わったのかもしれない。