探査船レアアース求め出航 ― 2026年01月13日
地球深部探査船「ちきゅう」が、清水港を静かに離れた。向かう先は南鳥島沖、日本の排他的経済水域(EEZ)。水深6000メートルの海底に眠る「レアアース泥」を試験的に掘削するためだ。日本が十年以上温めてきた“切り札”が、ついに実海域で試される段階に入った。今回検証されるのは、船上から海水を送り込み、泥を流動化させて吸い上げる新方式である。仕組み自体は単純だが、世界最深クラスの水深で安定運用できる国は存在しない。成功すれば、日本は「深海採鉱」という未踏領域で、事実上の先行者となる。
南鳥島のレアアース泥は、世界的に見ても突出した高品位を誇る。1トンの泥に含まれるレアアース酸化物は1〜4キロ。濃集層では4キロ超も確認されている。しかし、現実は厳しい。水深6000メートル級での採泥コストは1トンあたり3〜6万円、精製まで含めれば7〜12万円に達する。NdPr酸化物の市況価格を基準にすれば、泥1トンの資源価値は1.2〜4.7万円。つまり、濃集層をピンポイントで狙えなければ、赤字は避けられない。
それでも日本がこの計画を進める理由は中国である。中国は世界のレアアース生産・精製の7〜9割を握り、供給を外交カードとして使ってきた。近年も米中対立の激化を背景に、輸出管理強化や供給制限をちらつかせている。半導体、EV、風力発電、さらには兵器システムまで、現代国家の中枢はレアアース抜きでは成り立たない。その供給を他国の判断に委ね続けること自体が、戦略的リスクなのである。
南鳥島プロジェクトの本質は、採算性ではない。これは民間企業が単独で挑める事業ではない。初期投資は巨額、技術リスクは世界最高水準、立ち上がりの数年間は赤字が確実だ。だからこそ、国が基盤技術と初期投資を引き受け、民間が運用と効率化を担う――航空・宇宙産業と同じ二段構えが不可欠となる。
ただし、ここで一つ、決定的な教訓がある。国産旅客機計画(MRJ/SpaceJet)の撤退である。MRJでは、「国産初のジェット旅客機」という政治的看板が先行し、技術と市場の判断に過度な介入が重なった。仕様変更は迷走し、認証戦略は後手に回り、現場の技術者は疲弊した。結果として、商業機に不可欠な顧客信頼を失い、撤退という最悪の結末を迎えた。これは、政治と技術現場の距離感を誤った国家プロジェクトが、いかに脆いかを示す典型例だ。
南鳥島のレアアース泥で、同じ過ちを繰り返してはならない。国家戦略として支える覚悟は必要だが、現場の技術判断と失敗を許容する余地を奪ってはならない。問われているのは、「儲かるかどうか」ではなく、「採算が取れる日まで、国家として耐えられるか」である。
中国依存を減らし、海洋国家としての主権と技術力を積み上げる。その価値は、単年度の収支表には載らない。世界最深クラスの採鉱技術を手にするのか。それともまた、看板だけが先行した“宝の持ち腐れ”に終わるのか。南鳥島の海底に眠る泥は、日本の覚悟そのものを静かに問いかけている。
南鳥島のレアアース泥は、世界的に見ても突出した高品位を誇る。1トンの泥に含まれるレアアース酸化物は1〜4キロ。濃集層では4キロ超も確認されている。しかし、現実は厳しい。水深6000メートル級での採泥コストは1トンあたり3〜6万円、精製まで含めれば7〜12万円に達する。NdPr酸化物の市況価格を基準にすれば、泥1トンの資源価値は1.2〜4.7万円。つまり、濃集層をピンポイントで狙えなければ、赤字は避けられない。
それでも日本がこの計画を進める理由は中国である。中国は世界のレアアース生産・精製の7〜9割を握り、供給を外交カードとして使ってきた。近年も米中対立の激化を背景に、輸出管理強化や供給制限をちらつかせている。半導体、EV、風力発電、さらには兵器システムまで、現代国家の中枢はレアアース抜きでは成り立たない。その供給を他国の判断に委ね続けること自体が、戦略的リスクなのである。
南鳥島プロジェクトの本質は、採算性ではない。これは民間企業が単独で挑める事業ではない。初期投資は巨額、技術リスクは世界最高水準、立ち上がりの数年間は赤字が確実だ。だからこそ、国が基盤技術と初期投資を引き受け、民間が運用と効率化を担う――航空・宇宙産業と同じ二段構えが不可欠となる。
ただし、ここで一つ、決定的な教訓がある。国産旅客機計画(MRJ/SpaceJet)の撤退である。MRJでは、「国産初のジェット旅客機」という政治的看板が先行し、技術と市場の判断に過度な介入が重なった。仕様変更は迷走し、認証戦略は後手に回り、現場の技術者は疲弊した。結果として、商業機に不可欠な顧客信頼を失い、撤退という最悪の結末を迎えた。これは、政治と技術現場の距離感を誤った国家プロジェクトが、いかに脆いかを示す典型例だ。
南鳥島のレアアース泥で、同じ過ちを繰り返してはならない。国家戦略として支える覚悟は必要だが、現場の技術判断と失敗を許容する余地を奪ってはならない。問われているのは、「儲かるかどうか」ではなく、「採算が取れる日まで、国家として耐えられるか」である。
中国依存を減らし、海洋国家としての主権と技術力を積み上げる。その価値は、単年度の収支表には載らない。世界最深クラスの採鉱技術を手にするのか。それともまた、看板だけが先行した“宝の持ち腐れ”に終わるのか。南鳥島の海底に眠る泥は、日本の覚悟そのものを静かに問いかけている。
ベネズエラの政治犯釈放 ― 2026年01月10日
ベネズエラの国会議長が、政治犯の釈放に言及したと報じられた。マドゥロ政権下で野党支持者の拘束が続き、「独裁国家」の代名詞のように語られてきた同国に、久々に聞こえた柔らかな言葉である。だが、このニュースをもって「民主化の兆し」と受け取るのは早計だ。ベネズエラの危機は、善政か悪政かという単純な物語では説明できない。
この国の民主主義は、壊されたというより、もともと強くなかった。チャベス以前のベネズエラは、南米で最も安定した民主国家の一つと称されてきたが、実態は二大政党が石油利権を分け合う“閉じたエリート民主主義”にすぎなかった。司法は弱く、メディアは政党と癒着し、市民社会は育たなかった。国家財政の中心が石油収入である以上、政府は国民から税を取らずに済み、説明責任や制度改革への圧力も生まれなかった。「税を取らない国家は、制度を鍛える必要がない」からだ。
その歪みが露呈したのが、1980〜90年代の石油価格下落である。貧困は拡大し、汚職は常態化し、既存政党への信頼は瓦解した。国民が「この国は誰のものなのか」と問い始めたとき、その空白を埋めたのがチャベスだった。反エリート、反米を掲げ、石油マネーを使った大規模再分配で喝采を浴びる。しかしそれは、未来への投資ではなく、現在への動員だった。そしてベネズエラは独裁まで動員してしまった。
国有化、価格統制、外貨規制――革命の名の下で進められた社会主義政策は、民間投資を冷え込ませ、石油産業の技術基盤さえ蝕んだ。制度が脆弱な国家では、権力集中は驚くほど容易だ。司法も議会もメディアも、気づけば政権の延長線上に置かれ、民主主義の防波堤は静かに崩れていった。石油収入がある間は失政も制度破壊も覆い隠せたが、価格が下がった瞬間、そのツケは一気に噴き出す。
マドゥロ期に顕在化したハイパーインフレ、物資不足、国民の大量流出は、独裁の帰結であると同時に、制度を育てなかった資源国家の末路でもある。今回の政治犯釈放が象徴的な前進だとしても、それだけで民主主義が再生することはない。問題の核心は、石油という富を「成長の資産」ではなく「分配の道具」として使い続け、国家の足腰を鍛えなかった点にある。
制度なき民主主義は、危機に耐えられない。この病はベネズエラ固有のものではない。資源、財政余力、あるいは人気取りの政策によって説明責任が曖昧になった瞬間、どの国でも同じ空洞化は起こり得る。ベネズエラで問われているのは政権交代の有無ではなく、国家を支える制度を再建できるかどうかだ。その答えが示されない限り、釈放のニュースもまた、次の危機までの蜃気楼に終わるだろう。
この国の民主主義は、壊されたというより、もともと強くなかった。チャベス以前のベネズエラは、南米で最も安定した民主国家の一つと称されてきたが、実態は二大政党が石油利権を分け合う“閉じたエリート民主主義”にすぎなかった。司法は弱く、メディアは政党と癒着し、市民社会は育たなかった。国家財政の中心が石油収入である以上、政府は国民から税を取らずに済み、説明責任や制度改革への圧力も生まれなかった。「税を取らない国家は、制度を鍛える必要がない」からだ。
その歪みが露呈したのが、1980〜90年代の石油価格下落である。貧困は拡大し、汚職は常態化し、既存政党への信頼は瓦解した。国民が「この国は誰のものなのか」と問い始めたとき、その空白を埋めたのがチャベスだった。反エリート、反米を掲げ、石油マネーを使った大規模再分配で喝采を浴びる。しかしそれは、未来への投資ではなく、現在への動員だった。そしてベネズエラは独裁まで動員してしまった。
国有化、価格統制、外貨規制――革命の名の下で進められた社会主義政策は、民間投資を冷え込ませ、石油産業の技術基盤さえ蝕んだ。制度が脆弱な国家では、権力集中は驚くほど容易だ。司法も議会もメディアも、気づけば政権の延長線上に置かれ、民主主義の防波堤は静かに崩れていった。石油収入がある間は失政も制度破壊も覆い隠せたが、価格が下がった瞬間、そのツケは一気に噴き出す。
マドゥロ期に顕在化したハイパーインフレ、物資不足、国民の大量流出は、独裁の帰結であると同時に、制度を育てなかった資源国家の末路でもある。今回の政治犯釈放が象徴的な前進だとしても、それだけで民主主義が再生することはない。問題の核心は、石油という富を「成長の資産」ではなく「分配の道具」として使い続け、国家の足腰を鍛えなかった点にある。
制度なき民主主義は、危機に耐えられない。この病はベネズエラ固有のものではない。資源、財政余力、あるいは人気取りの政策によって説明責任が曖昧になった瞬間、どの国でも同じ空洞化は起こり得る。ベネズエラで問われているのは政権交代の有無ではなく、国家を支える制度を再建できるかどうかだ。その答えが示されない限り、釈放のニュースもまた、次の危機までの蜃気楼に終わるだろう。
金利2.1%で大騒ぎするメディア ― 2026年01月06日
「ついに来てしまったのか……」。日本の長期金利(10年物国債利回り)が2.1%を超えたというニュースを受け、市場関係者の間にそんな空気が広がったと伝えられる。テレビや新聞、ネットニュースでは、「国の借金が重くなる」「将来、日本は財政破綻する」といった不安をあおる解説が相次いでいる。日々の暮らしを考える立場からすれば、「やはり日本は危ないのではないか」と感じてしまうのも無理はない。しかし、金利が上がったという事実だけで、国の財政がすぐに行き詰まると考えるのは早計だ。まず理解すべきなのは、ここ二十年以上続いてきた「金利がほぼゼロ」という状態そのものが、実はかなり特殊だったという点だ。日本は長いデフレの中で、景気も物価も動かず、金利も眠ったままだった。世界的に見れば、これは例外的な状況であり、決して「普通」ではなかった。
金利とは、例えるなら経済の体温。体が元気になれば体温が少し上がるように、経済が動き出せば金利も上がる。長い間、日本経済は体温の低い状態が続いてきた。最近の金利上昇は、経済がようやく目を覚まし、平熱に戻りつつある兆しと見ることもできる。平熱に戻っただけなのに、「高熱が出た」と騒ぐのは、判断の基準そのものがずれていると言える。
それにもかかわらず、なぜ多くのメディアは金利上昇を「危機」として描く。その背景には、いくつかの事情がある。第一に、不安や恐怖をあおる話題のほうが、人の関心を集めやすいという現実。「破綻」「崩壊」といった強い言葉は、視聴率やアクセス数につながりやすい。第二に、長年デフレしか経験してこなかった記者や解説者自身が、「金利のある経済」に慣れておらず、変化そのものを過剰に恐れている側面もある。さらに、「財政が厳しい」という空気は、増税や支出抑制を進めたい側にとって都合がよいという政治的事情もある。インフレは悪で歳出を抑え物価を元に戻すべきだと信じ込んでいる政治家は少なくない。
よく聞かれる「金利が上がると利払いが急増し、日本は破綻する」という議論も、実態を十分に踏まえていない。日本の国債は、すべてが一斉に金利の影響を受ける仕組みではない。国債には返済期限があり、その平均は約9年である。つまり、今日金利が上がったからといって、明日からすべての借金の利息が急に増えるわけではない。低い金利で借りた国債は、その条件のまま残り、影響は時間をかけて少しずつ現れる。国には、状況に対応するための猶予がある。
財政を考えるうえで重要な考え方に、「ドーマー条件」がある。難しく聞こえるが、中身は単純である。名目の経済成長率が名目金利を上回っていれば、借金は大きな問題にならないという考え方である。家計に置き換えれば、住宅ローンの金利が2%でも、収入が毎年3%ずつ増えていれば、返済はそれほど重荷にならないのと同じ理屈だ。
現在の日本では、物価はおおむね2%前後で推移し、企業の賃上げも広がりつつある。経済全体の成長率が金利と同程度、あるいはそれを上回れば、税収は自然に増加し、財政の持続性はむしろ高まる可能性がある。そもそも先進諸国の長期金利は概ね3%以上が標準的だ。それにもかかわらず、メディアは円安だと騒ぎ、金利上昇だと騒ぎ、いったい何を望んでいるのか理解しがたい。では、これまでの30年間のように円高と低金利であれば経済が上向くとでもいうのだろうか。論理は完全に破綻している。
本当に危険なのは、金利上昇そのものではない。不安に駆られて、景気が動き始めたところで増税や支出削減を急ぐことだ。過去の日本は、「財政再建」を急ぐあまり、景気回復の芽を自ら摘み取り、結果として税収を減らし、借金を増やすという失敗を繰り返してきた。その教訓を忘れてはならない。
重要なのは、金利の数字に一喜一憂することではなく、その金利を上回る力で稼げる国になれるかどうかである。若い世代が将来に希望を持ち、企業が安心して投資できる環境を整えられるか。それこそが、日本の財政の行方を左右する。
「金利が上がったから、もう終わりだ」と嘆く必要はない。むしろこれは、長い停滞から抜け出し、「普通の経済」に戻るための入口である。不安をあおる声に振り回されず、成長する力をどう育てるかを冷静に考えることが、今の日本に最も求められている姿勢ではないか。
金利とは、例えるなら経済の体温。体が元気になれば体温が少し上がるように、経済が動き出せば金利も上がる。長い間、日本経済は体温の低い状態が続いてきた。最近の金利上昇は、経済がようやく目を覚まし、平熱に戻りつつある兆しと見ることもできる。平熱に戻っただけなのに、「高熱が出た」と騒ぐのは、判断の基準そのものがずれていると言える。
それにもかかわらず、なぜ多くのメディアは金利上昇を「危機」として描く。その背景には、いくつかの事情がある。第一に、不安や恐怖をあおる話題のほうが、人の関心を集めやすいという現実。「破綻」「崩壊」といった強い言葉は、視聴率やアクセス数につながりやすい。第二に、長年デフレしか経験してこなかった記者や解説者自身が、「金利のある経済」に慣れておらず、変化そのものを過剰に恐れている側面もある。さらに、「財政が厳しい」という空気は、増税や支出抑制を進めたい側にとって都合がよいという政治的事情もある。インフレは悪で歳出を抑え物価を元に戻すべきだと信じ込んでいる政治家は少なくない。
よく聞かれる「金利が上がると利払いが急増し、日本は破綻する」という議論も、実態を十分に踏まえていない。日本の国債は、すべてが一斉に金利の影響を受ける仕組みではない。国債には返済期限があり、その平均は約9年である。つまり、今日金利が上がったからといって、明日からすべての借金の利息が急に増えるわけではない。低い金利で借りた国債は、その条件のまま残り、影響は時間をかけて少しずつ現れる。国には、状況に対応するための猶予がある。
財政を考えるうえで重要な考え方に、「ドーマー条件」がある。難しく聞こえるが、中身は単純である。名目の経済成長率が名目金利を上回っていれば、借金は大きな問題にならないという考え方である。家計に置き換えれば、住宅ローンの金利が2%でも、収入が毎年3%ずつ増えていれば、返済はそれほど重荷にならないのと同じ理屈だ。
現在の日本では、物価はおおむね2%前後で推移し、企業の賃上げも広がりつつある。経済全体の成長率が金利と同程度、あるいはそれを上回れば、税収は自然に増加し、財政の持続性はむしろ高まる可能性がある。そもそも先進諸国の長期金利は概ね3%以上が標準的だ。それにもかかわらず、メディアは円安だと騒ぎ、金利上昇だと騒ぎ、いったい何を望んでいるのか理解しがたい。では、これまでの30年間のように円高と低金利であれば経済が上向くとでもいうのだろうか。論理は完全に破綻している。
本当に危険なのは、金利上昇そのものではない。不安に駆られて、景気が動き始めたところで増税や支出削減を急ぐことだ。過去の日本は、「財政再建」を急ぐあまり、景気回復の芽を自ら摘み取り、結果として税収を減らし、借金を増やすという失敗を繰り返してきた。その教訓を忘れてはならない。
重要なのは、金利の数字に一喜一憂することではなく、その金利を上回る力で稼げる国になれるかどうかである。若い世代が将来に希望を持ち、企業が安心して投資できる環境を整えられるか。それこそが、日本の財政の行方を左右する。
「金利が上がったから、もう終わりだ」と嘆く必要はない。むしろこれは、長い停滞から抜け出し、「普通の経済」に戻るための入口である。不安をあおる声に振り回されず、成長する力をどう育てるかを冷静に考えることが、今の日本に最も求められている姿勢ではないか。
経団連会長年頭会見 ― 2026年01月04日
年頭会見で経団連会長が口にしたのは、もはや聞き慣れたフレーズだった。「地方の中小企業は深刻な人手不足に直面している。外国人材の受け入れ拡大が不可欠だ」。政府にはデータに基づく制度整備を求め、企業には賃上げの継続を促す——一見、バランスの取れた提言に映る。だが、この発言を要約という“解剖台”に載せると、いくつかの矛盾が鮮明に浮かび上がる。
第一に、「人手不足→外国人材」という因果があまりに短絡的だ。なぜ賃金を引き上げて国内労働力を引き寄せないのか。なぜ省人化投資や業務改革によって人手依存を減らさないのか。その説明は意図的に省かれている。要約すれば、「不足しているから入れる」という単線論法だけが残り、前提の妥当性は検証されないままだ。
第二に、賃上げの継続と外国人材受け入れ拡大を同時に唱える点である。労働供給を増やせば、賃金上昇圧力は弱まる。これは経済学の初歩だ。インフレギャップ期とは、本来、賃金上昇をきっかけに企業が自動化や設備投資に踏み切り、非効率な企業が退出し、労働がより生産性の高い分野へ移動する局面である。外国人材で“穴埋め”すれば、この新陳代謝は鈍る。要約すればするほど、「賃上げ」と「労働供給拡大」を同時に求める構造矛盾が際立つ。
第三に、「地方中小企業の存続」を大義名分にした外国人材政策の危うさだ。突き詰めれば、それは低生産性企業の延命策に近い。市場から退出すべき企業が、安価な労働力によって生き残れば、経済全体の生産性は上がらない。名目GDPが物価上昇で膨らんでも、国民所得の実質的な増加には結びつかない。
結局、経団連会長の発言は「短期の人手不足対策を優先し、長期の生産性向上との整合性を欠く」という一点に収れんされる。外国人材受け入れ拡大を強調すればするほど、日本経済が長年陥ってきた“低生産性均衡の固定化”という構造的問題が、むしろ鮮明に浮かび上がる。対症療法としての外国人材依存が繰り返されるたび、賃上げも生産性改革も先送りされ、停滞の責任は曖昧化され、失われた時間だけが積み上がってきた。
今後の政策は、労働供給の量的補填を前提とする発想から脱却し、生産性向上を中心に据えた制度設計へと軸足を移す必要がある。具体的には、賃金上昇を通じた労働移動の促進、低生産性企業の退出を阻害しない市場環境の整備、自動化・設備投資を後押しする税制・規制改革など、構造的改善を促す政策が不可欠である。外国人材の受け入れは、そのような改革の代替ではなく、あくまで補完的手段として位置づけられるべきだ。
日本経済が持続的成長を取り戻すためには、短期的な人手不足への対処にとどまらず、どのような産業構造と生産性水準を将来像として描くのかという根本的な政策ビジョンを明確にする必要がある。求められているのは、安易な延命策を政府に求め続けることではなく、長期的な成長基盤を再構築するために、全企業の9割を占める中小企業の生産性を抜本的に引き上げる政策である。
第一に、「人手不足→外国人材」という因果があまりに短絡的だ。なぜ賃金を引き上げて国内労働力を引き寄せないのか。なぜ省人化投資や業務改革によって人手依存を減らさないのか。その説明は意図的に省かれている。要約すれば、「不足しているから入れる」という単線論法だけが残り、前提の妥当性は検証されないままだ。
第二に、賃上げの継続と外国人材受け入れ拡大を同時に唱える点である。労働供給を増やせば、賃金上昇圧力は弱まる。これは経済学の初歩だ。インフレギャップ期とは、本来、賃金上昇をきっかけに企業が自動化や設備投資に踏み切り、非効率な企業が退出し、労働がより生産性の高い分野へ移動する局面である。外国人材で“穴埋め”すれば、この新陳代謝は鈍る。要約すればするほど、「賃上げ」と「労働供給拡大」を同時に求める構造矛盾が際立つ。
第三に、「地方中小企業の存続」を大義名分にした外国人材政策の危うさだ。突き詰めれば、それは低生産性企業の延命策に近い。市場から退出すべき企業が、安価な労働力によって生き残れば、経済全体の生産性は上がらない。名目GDPが物価上昇で膨らんでも、国民所得の実質的な増加には結びつかない。
結局、経団連会長の発言は「短期の人手不足対策を優先し、長期の生産性向上との整合性を欠く」という一点に収れんされる。外国人材受け入れ拡大を強調すればするほど、日本経済が長年陥ってきた“低生産性均衡の固定化”という構造的問題が、むしろ鮮明に浮かび上がる。対症療法としての外国人材依存が繰り返されるたび、賃上げも生産性改革も先送りされ、停滞の責任は曖昧化され、失われた時間だけが積み上がってきた。
今後の政策は、労働供給の量的補填を前提とする発想から脱却し、生産性向上を中心に据えた制度設計へと軸足を移す必要がある。具体的には、賃金上昇を通じた労働移動の促進、低生産性企業の退出を阻害しない市場環境の整備、自動化・設備投資を後押しする税制・規制改革など、構造的改善を促す政策が不可欠である。外国人材の受け入れは、そのような改革の代替ではなく、あくまで補完的手段として位置づけられるべきだ。
日本経済が持続的成長を取り戻すためには、短期的な人手不足への対処にとどまらず、どのような産業構造と生産性水準を将来像として描くのかという根本的な政策ビジョンを明確にする必要がある。求められているのは、安易な延命策を政府に求め続けることではなく、長期的な成長基盤を再構築するために、全企業の9割を占める中小企業の生産性を抜本的に引き上げる政策である。
沈むマーシャル諸島 ― 2025年12月28日
太平洋の真ん中で、国が静かに溺れている。
マーシャル諸島では、満潮のたびに道路が水没し、砂浜は消え、樹木の根が空気にさらされる。変化は劇的ではないが、確実だ。「15年で景色が別物になった」という住民の言葉は、どんな統計よりも率直に現実を語る。逃げ場のない海に囲まれた島で、恐怖と諦念はすでに日常の一部になっている。とりわけ残酷なのが、海岸沿いの墓地だ。墓石は波にさらわれ、先祖の遺体が行方不明になる例まで出ている。「海は人生そのもの。死後もそばにいたい」。そう語る島民の信仰を、文明の過剰発展が結果として踏みにじっている。これは不可抗力の自然災害ではない。人類が長年にわたって選択してきた経済とエネルギーのあり方がもたらした、構造的な帰結である。
それでも先進国の議論は、この現実を「海面が30年で11.5センチ上昇した」という単一の数字に押し込みがちだ。だが、島が沈む理由は一つではない。海面上昇に、地盤沈下、サンゴ礁の死滅、海岸侵食が重なり合い、島を支えてきた自然と地形の均衡が同時に崩れている。
なかでも軽視されがちなのが海洋酸性化だ。大気中の二酸化炭素を吸収した海は、時間をかけて酸性へ傾き、サンゴの骨格形成を阻害する。白化し、死滅したサンゴ礁は、もはや波を和らげる防波堤ではない。これは景観や観光資源の問題ではなく、島そのものの存立条件が失われつつあるという話である。
「排出を減らせば解決する」という反論も当然ある。だが現実は、それほど単純ではない。仮に世界が急激な排出削減に踏み切り、CO₂最大排出国である中国が米国並みの排出水準まで抑えたとしても、海洋酸性化が短期的に止まる可能性は低い。海は大気よりも反応が遅く、一度吸収されたCO₂は数千年単位で化学的影響を残し続ける。排出削減は不可欠だが、それだけで現在進行形の被害を反転させられる段階はすでに過ぎている。
ここで議論は、誰もが避けてきた問いに行き着く。再生可能エネルギーだけで、この文明は持続可能なのか。再エネ拡大が重要であることは疑いない。しかし、変動性、蓄電、送電網、土地制約といった現実的課題を踏まえれば、短中期的に安定供給を全面的に代替できると断言できる状況にはない。核融合発電は有望な研究分野だが、商業電源としての実用化はなお時間を要する。
その間をどう乗り切るのか。原子力発電には事故リスクや廃棄物問題がある――この指摘は正しい。だが、だからといって原子力を選択肢から排除したまま現状維持を続けることも、また一つのリスク選好にすぎない。安全性を最大限高めた原子力を含め、利用可能な低炭素電源を組み合わせる以外に、現実的な道筋が見えないのも事実である。
世界はいま、成長と環境の間で巨大なチキンレースを続けている。成長を止めれば社会が不安定化し、止めなければ自然の劣化が加速する。先進国が南の島々を「静かな犠牲」にしているという見方には道義的な真実がある一方、それだけで問題を説明した気になるのは危うい。選択肢が尽きつつある状況そのものが、すでに人類全体の責任だからだ。
さらに言えば、海洋酸性化の進行を止め、サンゴ礁が本格的に回復するまでには、早くても数百年を要する。島の沈没が避けられない可能性は、感情論ではなく、現実として受け止める必要がある。
マーシャル諸島が沈んでいるのは、海面のせいだけではない。
私たちが難しい選択を避け、決断を先送りしてきた時間の分だけ、島は確実に沈んできた。その事実を直視した上で、なお何を選ぶのか。問われているのは正しさではなく、引き受ける覚悟である。
マーシャル諸島では、満潮のたびに道路が水没し、砂浜は消え、樹木の根が空気にさらされる。変化は劇的ではないが、確実だ。「15年で景色が別物になった」という住民の言葉は、どんな統計よりも率直に現実を語る。逃げ場のない海に囲まれた島で、恐怖と諦念はすでに日常の一部になっている。とりわけ残酷なのが、海岸沿いの墓地だ。墓石は波にさらわれ、先祖の遺体が行方不明になる例まで出ている。「海は人生そのもの。死後もそばにいたい」。そう語る島民の信仰を、文明の過剰発展が結果として踏みにじっている。これは不可抗力の自然災害ではない。人類が長年にわたって選択してきた経済とエネルギーのあり方がもたらした、構造的な帰結である。
それでも先進国の議論は、この現実を「海面が30年で11.5センチ上昇した」という単一の数字に押し込みがちだ。だが、島が沈む理由は一つではない。海面上昇に、地盤沈下、サンゴ礁の死滅、海岸侵食が重なり合い、島を支えてきた自然と地形の均衡が同時に崩れている。
なかでも軽視されがちなのが海洋酸性化だ。大気中の二酸化炭素を吸収した海は、時間をかけて酸性へ傾き、サンゴの骨格形成を阻害する。白化し、死滅したサンゴ礁は、もはや波を和らげる防波堤ではない。これは景観や観光資源の問題ではなく、島そのものの存立条件が失われつつあるという話である。
「排出を減らせば解決する」という反論も当然ある。だが現実は、それほど単純ではない。仮に世界が急激な排出削減に踏み切り、CO₂最大排出国である中国が米国並みの排出水準まで抑えたとしても、海洋酸性化が短期的に止まる可能性は低い。海は大気よりも反応が遅く、一度吸収されたCO₂は数千年単位で化学的影響を残し続ける。排出削減は不可欠だが、それだけで現在進行形の被害を反転させられる段階はすでに過ぎている。
ここで議論は、誰もが避けてきた問いに行き着く。再生可能エネルギーだけで、この文明は持続可能なのか。再エネ拡大が重要であることは疑いない。しかし、変動性、蓄電、送電網、土地制約といった現実的課題を踏まえれば、短中期的に安定供給を全面的に代替できると断言できる状況にはない。核融合発電は有望な研究分野だが、商業電源としての実用化はなお時間を要する。
その間をどう乗り切るのか。原子力発電には事故リスクや廃棄物問題がある――この指摘は正しい。だが、だからといって原子力を選択肢から排除したまま現状維持を続けることも、また一つのリスク選好にすぎない。安全性を最大限高めた原子力を含め、利用可能な低炭素電源を組み合わせる以外に、現実的な道筋が見えないのも事実である。
世界はいま、成長と環境の間で巨大なチキンレースを続けている。成長を止めれば社会が不安定化し、止めなければ自然の劣化が加速する。先進国が南の島々を「静かな犠牲」にしているという見方には道義的な真実がある一方、それだけで問題を説明した気になるのは危うい。選択肢が尽きつつある状況そのものが、すでに人類全体の責任だからだ。
さらに言えば、海洋酸性化の進行を止め、サンゴ礁が本格的に回復するまでには、早くても数百年を要する。島の沈没が避けられない可能性は、感情論ではなく、現実として受け止める必要がある。
マーシャル諸島が沈んでいるのは、海面のせいだけではない。
私たちが難しい選択を避け、決断を先送りしてきた時間の分だけ、島は確実に沈んできた。その事実を直視した上で、なお何を選ぶのか。問われているのは正しさではなく、引き受ける覚悟である。
農政とメディアの罪 ― 2025年12月09日
日本のコメ価格がまた暴騰している。5キロ4500円を超える地域も出た。スーパーに行けば「新米」の値札を見て「えっ?」と二度見する主婦の姿が日常だ。でも不思議なことに、テレビや新聞は「農家が可哀想」「天候不作」「輸入米が高くなった」といった表層的な話ばかり。誰もが知っているはずの、あの超基本的な経済学の法則を誰も口にしない。「需要と供給のギャップが価格を決める」これだけだ。高校の公民の教科書に載ってるレベルの話である。供給が足りなければ値段は上がる。 供給が余れば値段は下がる。たったこれだけのことが、日本のコメ農政では50年間、徹底的に無視され続けてきた。
石破政権のとき、コメ価格が高止まりすると、メディアは一斉に「減反政策が諸悪の根源!」と大合唱した。確かに減反はバカげている。安全保障上、食料はできるだけ国内で作るべきなのに、わざわざ作るなと補助金まで出していたのだから。だが、「じゃあ増産したら価格が暴落したとき、農家の生活はどうなるんですか?」 この超当たり前の質問を、誰も真正面からしなかった。
増産が政府の方針であるなら、価格下落時のリスクは政府が全面的に負担するのが筋だろう。財源について?減反のために毎年数千億円も投じていた補助金をそのまま振り向ければ済む話だ。価格の暴落は毎年起こるわけではなく、春の予算確定時には変動を予測できない。だから、暴落時には補正予算で対応し、足りなければ「コメ国債」を発行すればよい。それなのに政府は「市場原理に任せろ!」と叫ぶばかりだ。市場原理とは、農家が潰れることまで含めての話なのか。
政権が変わって鈴木農林水産大臣の時代になると、今度は真逆のコントが始まった。主食米がまだ20万トンも足りないというのに、なぜか備蓄米を慌てて買い上げる。そして来年はまた「生産調整」(=減反復活)だと言う。はあ?不足してるって言ってるのに、なんでまた作るなって言うんですか?鈴木大臣が言うには、需要に応じた生産をするというが、その需要量の予測がはずれたからコメが一斉に店頭から無くなりべらぼうな米価となった。そもそも予測ができない需給ギャップに手を付けて失敗してきたのがコメ政策の歴史だ。市場に価格を任せるなら「調整」するのは矛盾しているのだ。
この明らかな矛盾を、メディアはスルーした。 「お米券がまた復活!」とか「農協が喜んでる!」とか、まるでグルメコラムみたいな小ネタばかり取り上げて、肝心の本丸には誰も踏み込まない。石破時代は「減反批判しすぎ」 鈴木時代は「矛盾だらけなのに批判なさすぎ」まるでプロレスだ。政権が替わると、前の政権への批判は全部チャラ。新しい政権にはまたハネムーン期間。その繰り返しで、政策の根本的な欠陥は50年経っても放置されたまま。
これのどこがジャーナリズムだ。本来やるべきことは簡単だ。
1. 減反を全廃して、できるだけたくさん作らせる
2. 価格が下がりすぎたら、政府が差額を農家に補填する
3. その財源は減反補助金をそのまま転用
これで食糧安全保障も向上するし、価格も暴騰しない。農家も安心して種をまける。なのに、なぜか誰もこの「当たり前の解」を大声で言わない。「市場競争に任せろ」とか「農家も経営努力を」とか、責任逃れの綺麗事ばかり。
コメ5キロが4500円もする国で、「市場競争」なんて言ってる場合じゃないだろう。高校生でもわかる需給の話を、大人たちが50年間、頑なに無視し続けている。そしてそれをちゃんと突っ込まないメディアも、共犯だ。
もういい加減にしてほしい。せめて週刊誌の一コラムくらいは、「高校公民レベルの経済学」をちゃんと書いてもいいんじゃないか。だって、それすらできないんじゃ、 コメの値段について語る資格なんて、どこにもないから。
石破政権のとき、コメ価格が高止まりすると、メディアは一斉に「減反政策が諸悪の根源!」と大合唱した。確かに減反はバカげている。安全保障上、食料はできるだけ国内で作るべきなのに、わざわざ作るなと補助金まで出していたのだから。だが、「じゃあ増産したら価格が暴落したとき、農家の生活はどうなるんですか?」 この超当たり前の質問を、誰も真正面からしなかった。
増産が政府の方針であるなら、価格下落時のリスクは政府が全面的に負担するのが筋だろう。財源について?減反のために毎年数千億円も投じていた補助金をそのまま振り向ければ済む話だ。価格の暴落は毎年起こるわけではなく、春の予算確定時には変動を予測できない。だから、暴落時には補正予算で対応し、足りなければ「コメ国債」を発行すればよい。それなのに政府は「市場原理に任せろ!」と叫ぶばかりだ。市場原理とは、農家が潰れることまで含めての話なのか。
政権が変わって鈴木農林水産大臣の時代になると、今度は真逆のコントが始まった。主食米がまだ20万トンも足りないというのに、なぜか備蓄米を慌てて買い上げる。そして来年はまた「生産調整」(=減反復活)だと言う。はあ?不足してるって言ってるのに、なんでまた作るなって言うんですか?鈴木大臣が言うには、需要に応じた生産をするというが、その需要量の予測がはずれたからコメが一斉に店頭から無くなりべらぼうな米価となった。そもそも予測ができない需給ギャップに手を付けて失敗してきたのがコメ政策の歴史だ。市場に価格を任せるなら「調整」するのは矛盾しているのだ。
この明らかな矛盾を、メディアはスルーした。 「お米券がまた復活!」とか「農協が喜んでる!」とか、まるでグルメコラムみたいな小ネタばかり取り上げて、肝心の本丸には誰も踏み込まない。石破時代は「減反批判しすぎ」 鈴木時代は「矛盾だらけなのに批判なさすぎ」まるでプロレスだ。政権が替わると、前の政権への批判は全部チャラ。新しい政権にはまたハネムーン期間。その繰り返しで、政策の根本的な欠陥は50年経っても放置されたまま。
これのどこがジャーナリズムだ。本来やるべきことは簡単だ。
1. 減反を全廃して、できるだけたくさん作らせる
2. 価格が下がりすぎたら、政府が差額を農家に補填する
3. その財源は減反補助金をそのまま転用
これで食糧安全保障も向上するし、価格も暴騰しない。農家も安心して種をまける。なのに、なぜか誰もこの「当たり前の解」を大声で言わない。「市場競争に任せろ」とか「農家も経営努力を」とか、責任逃れの綺麗事ばかり。
コメ5キロが4500円もする国で、「市場競争」なんて言ってる場合じゃないだろう。高校生でもわかる需給の話を、大人たちが50年間、頑なに無視し続けている。そしてそれをちゃんと突っ込まないメディアも、共犯だ。
もういい加減にしてほしい。せめて週刊誌の一コラムくらいは、「高校公民レベルの経済学」をちゃんと書いてもいいんじゃないか。だって、それすらできないんじゃ、 コメの値段について語る資格なんて、どこにもないから。
国債=「未来のつけ」神話 ― 2025年12月04日
毎年のように年末になると、「国債が増えすぎて、子や孫にツケを回す!」という決まり文句が、週刊誌やワイドショーで繰り返される。2009年、財務省の啓発ポスターに「子や孫にツケを回すな!」のキャッチコピーが誇らしげに踊り、信じた人は多い。だが、立ち止まって考えてみたい。本当に“ツケ”なのか。結論を先に言えば、この論法は事実の一部だけを切り取り、国民に誤解を植え付ける典型的な政治レトリックだ。
国債の構造は単純である。政府が今お金を使うために、民間や日銀から借りる「借金」であり、利払いは税収から行われる。しかし元本は満期ごとに「借換債」で返済され、事実上ロールオーバーされ続ける。主要国の多くもこの方式を採用し、国債の借換えのタイミングを安定させるように設計して財政運営している。したがって、将来世代が確実に負うのは「利払い負担」であって、元本そのものではない。そしてその国債は、最終的に国民の金融資産として保有される。「国の借金=国民の資産」という会計構造を踏まえずに「ツケ」という言葉だけを使えば、それはもはや説明ではなく、印象操作だ。
大騒ぎしている国債金利の上昇も、先に同じく政府の負担が増える一方で国民の資産が増える構造である。ローンや投資の借入には不利だが、景気が上向けば金利が上昇するのは自然な流れだ。にもかかわらず、国債信用の下落を金利上昇の原因とする主張もあるが、その根拠は乏しく風説に近い。議論すべきは、金利を上回る成長を実現できるか、そしてその成長の果実を適切に分配できるかどうかだろう。
事実、日本の家計金融資産約2,100兆円のうち、直接・間接を含め国債や日銀当座預金に紐付く部分は半分以上に達する。国債は国民の富の裏返しであり、「借金が増えるほど国が貧しくなる」という発想はミスリーディング以外の何物でもない。本当の問題は、政府が国債で調達した資金を「何に使い」、そこで生まれた利益を「誰に配分するか」に尽きる。
高速道路を作れば物流が改善し、企業収益が増え、税収も増える。教育や科学技術への投資は、将来の労働生産性を底上げする。これらは明らかに「投資」である。一方、政治的な便宜で生まれる業界向け補助金や、使途が曖昧なバラマキは、単なる「浪費」だ。さらに、投資で生まれた成果が賃金として国民全体に還元されるのか、それとも一部企業の利益や資産家のキャピタルゲインに偏るのか──ここが本来の政治的対立軸である。ところが、議論が本質に向かう直前で「国債=悪」という単純化に引き戻されてしまう。“議論の幼稚化”が起きているのだ。
インフレ論も同じ構造にある。「国債を増やすとインフレになる!」との声は根強いが、日本はこの30年、物価がほぼ動かないデフレ経済に苦しんできた。適度なインフレ(年間2%前後)は、企業収益・設備投資・賃金を押し上げる“成長の潤滑油”だ。高度成長期の日本は、3〜6%のインフレを伴いながらも力強い経済拡大を続け、実質債務はむしろ相対的に軽くなっていった。インフレは確かに「政府への実質的な財政移転(借金軽減)」という側面があるが、過度でなければむしろ健全である。問題は“どの水準までを許容するか”のルール設計にある。
「円の信任が失われる」という脅し文句も、背景が省略されている。通貨の信任とは対外的な相対比較で決まるもので、一国のみが一方的に紙くずになるような事態は、主要通貨では想定しにくい。日本は経常収支が長期にわたり黒字で、外貨建て債務も極めて少ない。さらに最終的には日銀が国債市場を安定化させる“総合ディーラー”として機能する。こうした制度的な支えを踏まえたうえで議論しなければ、「信任が落ちるかも」という発言は、実態より恐怖を煽る“恐怖マーケティング”の色が濃くなる。
結局のところ、「未来のツケ」「ハイパーインフレ」「通貨信認の崩壊」という三点セットは、財政議論の核心 『国債を何に投じ、どのような形で国民に還元するのか』を覆い隠してしまう非常に都合の良いレトリックだ。国債は包丁と同じく、使い方次第で価値も害も生む。危険だからといって台所から包丁を追放する家庭がないように、「国債は危険だから極力使うな」という議論も、国の運営としてはあまりに稚拙だ。
恐れるべきは国債の残高ではない。無意味な支出と、果実の偏った分配である。日本に欠けているのは、財政の規模よりも、その“質”を議論する成熟した政治とメディアなのだ。
国債の構造は単純である。政府が今お金を使うために、民間や日銀から借りる「借金」であり、利払いは税収から行われる。しかし元本は満期ごとに「借換債」で返済され、事実上ロールオーバーされ続ける。主要国の多くもこの方式を採用し、国債の借換えのタイミングを安定させるように設計して財政運営している。したがって、将来世代が確実に負うのは「利払い負担」であって、元本そのものではない。そしてその国債は、最終的に国民の金融資産として保有される。「国の借金=国民の資産」という会計構造を踏まえずに「ツケ」という言葉だけを使えば、それはもはや説明ではなく、印象操作だ。
大騒ぎしている国債金利の上昇も、先に同じく政府の負担が増える一方で国民の資産が増える構造である。ローンや投資の借入には不利だが、景気が上向けば金利が上昇するのは自然な流れだ。にもかかわらず、国債信用の下落を金利上昇の原因とする主張もあるが、その根拠は乏しく風説に近い。議論すべきは、金利を上回る成長を実現できるか、そしてその成長の果実を適切に分配できるかどうかだろう。
事実、日本の家計金融資産約2,100兆円のうち、直接・間接を含め国債や日銀当座預金に紐付く部分は半分以上に達する。国債は国民の富の裏返しであり、「借金が増えるほど国が貧しくなる」という発想はミスリーディング以外の何物でもない。本当の問題は、政府が国債で調達した資金を「何に使い」、そこで生まれた利益を「誰に配分するか」に尽きる。
高速道路を作れば物流が改善し、企業収益が増え、税収も増える。教育や科学技術への投資は、将来の労働生産性を底上げする。これらは明らかに「投資」である。一方、政治的な便宜で生まれる業界向け補助金や、使途が曖昧なバラマキは、単なる「浪費」だ。さらに、投資で生まれた成果が賃金として国民全体に還元されるのか、それとも一部企業の利益や資産家のキャピタルゲインに偏るのか──ここが本来の政治的対立軸である。ところが、議論が本質に向かう直前で「国債=悪」という単純化に引き戻されてしまう。“議論の幼稚化”が起きているのだ。
インフレ論も同じ構造にある。「国債を増やすとインフレになる!」との声は根強いが、日本はこの30年、物価がほぼ動かないデフレ経済に苦しんできた。適度なインフレ(年間2%前後)は、企業収益・設備投資・賃金を押し上げる“成長の潤滑油”だ。高度成長期の日本は、3〜6%のインフレを伴いながらも力強い経済拡大を続け、実質債務はむしろ相対的に軽くなっていった。インフレは確かに「政府への実質的な財政移転(借金軽減)」という側面があるが、過度でなければむしろ健全である。問題は“どの水準までを許容するか”のルール設計にある。
「円の信任が失われる」という脅し文句も、背景が省略されている。通貨の信任とは対外的な相対比較で決まるもので、一国のみが一方的に紙くずになるような事態は、主要通貨では想定しにくい。日本は経常収支が長期にわたり黒字で、外貨建て債務も極めて少ない。さらに最終的には日銀が国債市場を安定化させる“総合ディーラー”として機能する。こうした制度的な支えを踏まえたうえで議論しなければ、「信任が落ちるかも」という発言は、実態より恐怖を煽る“恐怖マーケティング”の色が濃くなる。
結局のところ、「未来のツケ」「ハイパーインフレ」「通貨信認の崩壊」という三点セットは、財政議論の核心 『国債を何に投じ、どのような形で国民に還元するのか』を覆い隠してしまう非常に都合の良いレトリックだ。国債は包丁と同じく、使い方次第で価値も害も生む。危険だからといって台所から包丁を追放する家庭がないように、「国債は危険だから極力使うな」という議論も、国の運営としてはあまりに稚拙だ。
恐れるべきは国債の残高ではない。無意味な支出と、果実の偏った分配である。日本に欠けているのは、財政の規模よりも、その“質”を議論する成熟した政治とメディアなのだ。
ウナギ交渉の行方 ― 2025年12月02日
ニホンウナギをめぐる国際交渉で、日本は“逃げ切った”ように見える。だが、この勝利は賞味期限が短い。ウズベキスタン・サマルカンドで開かれたワシントン条約第20回締約国会議(CoP20)で、EUとパナマが推したウナギ属全種の規制案は否決。日本、韓国、中国、米国が反対に回り、票決では押し切った形だ。しかし、会議場の空気は明らかに逆風だった。「今回は引くが、3年後の次回は譲らない」。各国の代表から漏れた言葉は、そのまま国際社会の総意に近い。理由は単純だ。資源が減っており、しかも減り続けている。
ニホンウナギはマリアナ諸島西方で産卵し、黒潮に乗って日本へ回遊する“海の旅人”だ。だが近年は黒潮の大蛇行が長期化し、海水温も上昇。稚魚(シラスウナギ)の来遊量は、豊漁と不漁が乱高下する“ジェットコースター状態”に陥っている。統計上の“豊漁年”がまれに現れても、それは資源回復ではなく、単なる揺らぎである。
そして、日本にとって最も厄介なのが、中国・台湾の漁獲報告の不透明さだ。国際調査では、報告量と市場に出回る数量が著しく乖離し、「捕れていないはずの稚魚」が大量に流通している事例が確認されている。高値で取引される稚魚は、密漁・横流し・無報告のインセンティブが消えない。結果、合法性の証明ができないシラスウナギがアジアの闇ルートを経て市場に流れ込み、日本は“透明性の低い供給網”に組み込まれたままだ。これこそが、国際社会が日本に規制強化を迫る最大の論拠である。
資源悪化の原因は、環境変動、河川改修、沿岸乱獲──複数の要因が積み重なった複合災害だ。“そのうち自然が回復する”という楽観論は、すでに科学的にはほぼ否定されている。必要なのは、逃げ続けてきた資源管理体制そのものの刷新である。そして、その唯一の突破口となり得るのが完全養殖だ。
2010年の世界初成功以来、技術は急速に進歩し、民間企業も本格参入。現在は2028年までに商業化を狙い、大量生産とコストダウンが進む。初期価格は1尾1000〜1500円。味も従来の養殖と遜色ないという。だが、完全養殖はまだ“夢の量産技術”ではない。孵化から稚魚期までの歩留まり、生産ラインの自動化、餌のコスト──課題は山積だ。特にシラスサイズへの到達率は、技術的な壁として依然高く、量産化への最大のネックになっている。
それでも、国際交渉の場で効力を持つのは、「代替手段を確保している国」だという厳然たる現実がある。完全養殖の商業化が近い国と、いつまでも天然稚魚に依存する国では、交渉の“発言権の重さ”がまるで違う。
CoP20の否決は、日本にとって勝利ではない。むしろ、次の大会へ向けた最後の猶予だ。このタイムリミットを使い切れなければ、次に突きつけられるのは「規制強化不可避」という冷徹な判決である。そして、その審判台に立たされるのは──ウナギではなく、日本の覚悟そのものだ。
ニホンウナギはマリアナ諸島西方で産卵し、黒潮に乗って日本へ回遊する“海の旅人”だ。だが近年は黒潮の大蛇行が長期化し、海水温も上昇。稚魚(シラスウナギ)の来遊量は、豊漁と不漁が乱高下する“ジェットコースター状態”に陥っている。統計上の“豊漁年”がまれに現れても、それは資源回復ではなく、単なる揺らぎである。
そして、日本にとって最も厄介なのが、中国・台湾の漁獲報告の不透明さだ。国際調査では、報告量と市場に出回る数量が著しく乖離し、「捕れていないはずの稚魚」が大量に流通している事例が確認されている。高値で取引される稚魚は、密漁・横流し・無報告のインセンティブが消えない。結果、合法性の証明ができないシラスウナギがアジアの闇ルートを経て市場に流れ込み、日本は“透明性の低い供給網”に組み込まれたままだ。これこそが、国際社会が日本に規制強化を迫る最大の論拠である。
資源悪化の原因は、環境変動、河川改修、沿岸乱獲──複数の要因が積み重なった複合災害だ。“そのうち自然が回復する”という楽観論は、すでに科学的にはほぼ否定されている。必要なのは、逃げ続けてきた資源管理体制そのものの刷新である。そして、その唯一の突破口となり得るのが完全養殖だ。
2010年の世界初成功以来、技術は急速に進歩し、民間企業も本格参入。現在は2028年までに商業化を狙い、大量生産とコストダウンが進む。初期価格は1尾1000〜1500円。味も従来の養殖と遜色ないという。だが、完全養殖はまだ“夢の量産技術”ではない。孵化から稚魚期までの歩留まり、生産ラインの自動化、餌のコスト──課題は山積だ。特にシラスサイズへの到達率は、技術的な壁として依然高く、量産化への最大のネックになっている。
それでも、国際交渉の場で効力を持つのは、「代替手段を確保している国」だという厳然たる現実がある。完全養殖の商業化が近い国と、いつまでも天然稚魚に依存する国では、交渉の“発言権の重さ”がまるで違う。
CoP20の否決は、日本にとって勝利ではない。むしろ、次の大会へ向けた最後の猶予だ。このタイムリミットを使い切れなければ、次に突きつけられるのは「規制強化不可避」という冷徹な判決である。そして、その審判台に立たされるのは──ウナギではなく、日本の覚悟そのものだ。
補正20兆円と超長期金利 ― 2025年11月27日
永田町が12月を迎えると決まって起きる儀式がある。補正予算の編成だ。そしてその度に聞こえてくるのが、「規模が大きすぎる」「財政規律が緩む」という、もはや季語のような批判である。だが、今年に限っては事情が違う。市場のほうが一歩早く、より冷徹な視点で“本当に危ないもの”に警鐘を鳴らしているからだ。政治家たちが口を揃えて「赤字が」「規律が」と唱える一方で、世界の主要国はすでに議論の地平を変えてしまった。短期の景気循環にどう対応するかという話と、超長期の債務が持続可能かという話は、まったく別の回路で考えるべきだ――。これが国際標準である。しかし日本は、この二つをごちゃ混ぜにして議論することで、逆に市場の動きを誤読し続けてきた。
そんな“誤読”の典型例として経済史に刻まれたのが、2022年秋の英国トラス政権だろう。大型減税と歳出拡大を同時にぶち上げながら、需給バランスへの説明を欠いた。市場が激怒した理由は、「財政赤字が増えるから」ではない。インフレ圧力が跳ね上がる政策を、景気の読み違いのまま実行した点だ。金利が跳ね、ポンドが売られ、たった数週間で政権は瓦解した。PB(プライマリーバランス)が黒か赤か、そんな単純な話ではなかった。循環点を外した政策は、たとえ“改革”の看板を掲げていようが、市場の信認を一瞬で吹き飛ばす。
では、いまの日本はどうか――。論点の第一は補正予算の規模だ。GDPギャップは依然10〜20兆円あると見られる。需給が冷えている以上、財政政策で埋めるのはむしろ教科書通りである。したがって、20兆円規模の補正は、経済学的には十分に妥当だ。これを「財政危機の前兆」と読むのは早計で、むしろ景気の下支えとして自然な水準である。市場もここには神経質になっていない。永田町で騒ぎになるほど、マーケットは補正規模を“危険信号”として受け止めていないのだ。
だが、話はここで終わらない。むしろ本丸はここから先にある。市場が敏感に反応しているのは、「ドーマー条件」と呼ばれる、国債の超長期的な安全性を左右する指標だ。ざっくり言えば、名目成長率が国債金利より高ければ(成長>金利)債務比率は安定し、逆なら悪化するという極めてシンプルな関係だ。補正規模とは次元の違う、長期の“生命線”である。
実は、今日の超長期国債利回りの上昇は、この生命線が細り始めているとの警戒によるものだ。市場は今、名目成長率が頭打ちになりつつあると読み始めている。賃上げの勢いは鈍り、エネルギーはディスインフレ傾向、企業の設備投資もどうにも慎重だ。いわば「成長のエンジン音が静かになってきた」のを市場は聞き逃さない。一方、米欧の長期金利上昇に引きずられ、国内の超長期金利はじわじわと上昇している。つまり、成長率と金利の差が悪化する方向に動いた――市場はそこにこそ危険を嗅ぎ取ったわけだ。金利上昇は「赤字だから売られた」などという雑な話ではない。もっと合理的で冷ややかな読みがある。「日本の成長力が弱まりつつある一方で、国債金利は世界要因で上がっていく。長期の安全率が崩れるかもしれない」――これが市場が本当に恐れているシナリオだ。
ここまで整理すれば、永田町で繰り返される「補正が大きい=危険」という議論が、いかに時代遅れかが分かるだろう。必要なのは“短期”と“長期”の切り分けである。短期はGDPギャップを埋めるための積極財政。長期は金利と成長率のバランスを安定させるための成長戦略と構造改革。この二つは車の両輪であり、どちらが欠けても日本の財政は前に進まない。
にもかかわらず、政治の世界では、相変わらず「家計の赤字と同じだ」という素朴な連想が幅を利かせている。だが財政の本質は、そんな素朴な道徳論では測れない。市場はいつだって、はるかに冷徹で合理的だ。政府が赤字か黒字かではなく、国がこれからどれだけ成長できるのか。そして、その成長を支える金利環境を維持できるのか。市場はずっとそこだけを見ている。永田町が家計簿の“収支”に気を取られている間に、市場はもう“成長と金利のバランス”という本質的リスクを読み切って動いている。補正予算の大小をめぐる古い論争に時間を費やしている場合ではない。政治が本来向き合うべき問いは、もっと残酷で、もっと逃げ場のないものだ。日本は、やっと戻ってきた成長力と金利の差をプラスのまま維持し続けられるのか。この一点である。
そんな“誤読”の典型例として経済史に刻まれたのが、2022年秋の英国トラス政権だろう。大型減税と歳出拡大を同時にぶち上げながら、需給バランスへの説明を欠いた。市場が激怒した理由は、「財政赤字が増えるから」ではない。インフレ圧力が跳ね上がる政策を、景気の読み違いのまま実行した点だ。金利が跳ね、ポンドが売られ、たった数週間で政権は瓦解した。PB(プライマリーバランス)が黒か赤か、そんな単純な話ではなかった。循環点を外した政策は、たとえ“改革”の看板を掲げていようが、市場の信認を一瞬で吹き飛ばす。
では、いまの日本はどうか――。論点の第一は補正予算の規模だ。GDPギャップは依然10〜20兆円あると見られる。需給が冷えている以上、財政政策で埋めるのはむしろ教科書通りである。したがって、20兆円規模の補正は、経済学的には十分に妥当だ。これを「財政危機の前兆」と読むのは早計で、むしろ景気の下支えとして自然な水準である。市場もここには神経質になっていない。永田町で騒ぎになるほど、マーケットは補正規模を“危険信号”として受け止めていないのだ。
だが、話はここで終わらない。むしろ本丸はここから先にある。市場が敏感に反応しているのは、「ドーマー条件」と呼ばれる、国債の超長期的な安全性を左右する指標だ。ざっくり言えば、名目成長率が国債金利より高ければ(成長>金利)債務比率は安定し、逆なら悪化するという極めてシンプルな関係だ。補正規模とは次元の違う、長期の“生命線”である。
実は、今日の超長期国債利回りの上昇は、この生命線が細り始めているとの警戒によるものだ。市場は今、名目成長率が頭打ちになりつつあると読み始めている。賃上げの勢いは鈍り、エネルギーはディスインフレ傾向、企業の設備投資もどうにも慎重だ。いわば「成長のエンジン音が静かになってきた」のを市場は聞き逃さない。一方、米欧の長期金利上昇に引きずられ、国内の超長期金利はじわじわと上昇している。つまり、成長率と金利の差が悪化する方向に動いた――市場はそこにこそ危険を嗅ぎ取ったわけだ。金利上昇は「赤字だから売られた」などという雑な話ではない。もっと合理的で冷ややかな読みがある。「日本の成長力が弱まりつつある一方で、国債金利は世界要因で上がっていく。長期の安全率が崩れるかもしれない」――これが市場が本当に恐れているシナリオだ。
ここまで整理すれば、永田町で繰り返される「補正が大きい=危険」という議論が、いかに時代遅れかが分かるだろう。必要なのは“短期”と“長期”の切り分けである。短期はGDPギャップを埋めるための積極財政。長期は金利と成長率のバランスを安定させるための成長戦略と構造改革。この二つは車の両輪であり、どちらが欠けても日本の財政は前に進まない。
にもかかわらず、政治の世界では、相変わらず「家計の赤字と同じだ」という素朴な連想が幅を利かせている。だが財政の本質は、そんな素朴な道徳論では測れない。市場はいつだって、はるかに冷徹で合理的だ。政府が赤字か黒字かではなく、国がこれからどれだけ成長できるのか。そして、その成長を支える金利環境を維持できるのか。市場はずっとそこだけを見ている。永田町が家計簿の“収支”に気を取られている間に、市場はもう“成長と金利のバランス”という本質的リスクを読み切って動いている。補正予算の大小をめぐる古い論争に時間を費やしている場合ではない。政治が本来向き合うべき問いは、もっと残酷で、もっと逃げ場のないものだ。日本は、やっと戻ってきた成長力と金利の差をプラスのまま維持し続けられるのか。この一点である。
「おこめ券」の迷走農政 ― 2025年11月06日
山下一仁氏は、PRESIDENT誌の記事で鈴木憲和農水相が提唱する「おこめ券」政策を厳しく批判している。氏によれば、これは米価維持のためのアリバイ政策に過ぎず、農水省・JA・農林族議員による「農政トライアングル」が復活しつつある兆候だという。表向きは低所得層への支援だが、実態は供給制限による価格高止まりを正当化する仕組みであり、国民には税負担と高価格の二重苦を強いる。この批判は、近年の米需給データと照らしても説得力がある。2023年と2024年の主食用米はそれぞれ約40万トン不足し、政府は備蓄米を計約60万トン放出して対応したが、なお20万トンの不足が残っている。つまり、構造的な供給不足は解消されていない。にもかかわらず、農水省は2025年産米について「供給過剰」として減産誘導を進めている。
さらに、2025年は猛暑による品質劣化が深刻で、ブランド米を中心に歩留まりが悪化。一等米比率の低下や精米ロスの増加が報告されており、最大745万トンという収穫見込みは現実的ではない。実際の供給量は700万トン台前半にとどまる可能性が高く、2023〜2024年の累積不足を完全に補うには不十分だ。にもかかわらず鈴木農相は、「政府備蓄米を100万トン規模に拡充する」と公言している。
現在の備蓄量はおよそ30万トン前後にまで減少しており、目標達成には今後70万トンを新たに買い入れる必要がある。仮に3年で積み増すとすれば、毎年25万トンを政府が市場から買い上げることになる。しかし現状でも需給はまだ20万トン不足しており、ここに政府の買い入れが加われば、民間流通分はますます逼迫する。需要不足ではなく、むしろ供給不足の中で“備蓄拡大”を唱える政策は、論理的に矛盾しているのだ。
かつて石破茂氏や小泉進次郎氏らが主導した「減反廃止・市場原理化」の流れを、政府はいまきれいに逆走している。あの改革路線は、減反政策に終止符を打とうとした点で方向としては正しかった。そして備蓄米購入で余剰を吸収すれば価格が下がらないことを知っていたからこそ、その方法には躊躇して踏み込まなかったのである。
いま政府が進めようとしているのは、まさにその逆の道だ。再び霞が関・永田町・JAが手を組み、国民負担の上に業界保護の塔を築こうとしている。山下氏の批判は単なる政策論ではなく、数値的にも裏付けられた制度批判だ。農政トライアングルの復権は、かつての改革路線とは正反対の方向へと国を導いている。
結局のところ、「おこめ券」政策は国民や安全保障のためではなく、業界のための制度的装置である。米価維持のための供給調整と補助金政策は、国民にとっては不透明で不合理な負担を強いるものであり、食料政策の持続可能性や経済再生に逆行する。コメ不足を誘導しながらコメ購入のカネを国民に配るというマッチポンプ政策だ。山下氏の警鐘は、農政の透明性と国民的議論の必要性を改めて突きつけている。
さらに、2025年は猛暑による品質劣化が深刻で、ブランド米を中心に歩留まりが悪化。一等米比率の低下や精米ロスの増加が報告されており、最大745万トンという収穫見込みは現実的ではない。実際の供給量は700万トン台前半にとどまる可能性が高く、2023〜2024年の累積不足を完全に補うには不十分だ。にもかかわらず鈴木農相は、「政府備蓄米を100万トン規模に拡充する」と公言している。
現在の備蓄量はおよそ30万トン前後にまで減少しており、目標達成には今後70万トンを新たに買い入れる必要がある。仮に3年で積み増すとすれば、毎年25万トンを政府が市場から買い上げることになる。しかし現状でも需給はまだ20万トン不足しており、ここに政府の買い入れが加われば、民間流通分はますます逼迫する。需要不足ではなく、むしろ供給不足の中で“備蓄拡大”を唱える政策は、論理的に矛盾しているのだ。
かつて石破茂氏や小泉進次郎氏らが主導した「減反廃止・市場原理化」の流れを、政府はいまきれいに逆走している。あの改革路線は、減反政策に終止符を打とうとした点で方向としては正しかった。そして備蓄米購入で余剰を吸収すれば価格が下がらないことを知っていたからこそ、その方法には躊躇して踏み込まなかったのである。
いま政府が進めようとしているのは、まさにその逆の道だ。再び霞が関・永田町・JAが手を組み、国民負担の上に業界保護の塔を築こうとしている。山下氏の批判は単なる政策論ではなく、数値的にも裏付けられた制度批判だ。農政トライアングルの復権は、かつての改革路線とは正反対の方向へと国を導いている。
結局のところ、「おこめ券」政策は国民や安全保障のためではなく、業界のための制度的装置である。米価維持のための供給調整と補助金政策は、国民にとっては不透明で不合理な負担を強いるものであり、食料政策の持続可能性や経済再生に逆行する。コメ不足を誘導しながらコメ購入のカネを国民に配るというマッチポンプ政策だ。山下氏の警鐘は、農政の透明性と国民的議論の必要性を改めて突きつけている。