消費税をガラガラポン ― 2026年05月11日
消費税をめぐって世間は今日もかしましい。だが税理士出身の安藤議員の指摘だけは、まるでツボ押しの名人みたいに急所をグイッと押してくる。税金というのは本来、「儲かったらちょっとお裾分けしてあげて」という“人情”があるはずなのに、消費税にはその情けが一切ない。売上さえあれば、たとえ経費で赤字のヒーヒー状態でも、お上は「はい、10%ね」と取り立てに来る。儲けではなく“存在そのもの”にのしかかる税金である。そしてこれが、世間では間接税と呼ばれているが、実態はどう見ても“直接税”の顔つきなのだ。こんなもの、小さな店から順番に干からびていくのは当たり前だ。
この税金、昔からどうも「とぼけた顔」をしている。レシートに堂々と「消費税」と印字されているのを三十年も見せられれば、国民はそりゃあ「どの店も国に納めているんだな」と思い込む。ところが実際は、売上1,000万円以下の免税業者は納めていなかった。それを「ネコババだ!」と怒るのは筋違いで、実態はもっと日本的である。「みんなが書いてるから、うちも書いておこう」という、あの“横並びの安心感”がレシートに税額を吐き出させ続けていただけなのだ。
お役所はこの歪みを知っていながら、説明責任や問い合わせ増加を嫌って、そっと「不作為の霧」の中に隠してきた。一方の免税業者は仕組みが分からず、ただお隣に合わせていただけ。この「言わなかった・分からなかった・気づかなかった」の三者三様が三十年かけて“誤解の温室”を育て上げた。その結果、インボイス導入で「今までネコババしておいて、今さら納税したくないとは何事だ」という、冷ややかで筋違いな空気が世間に充満してしまったのである。
さらに厄介なのは、日本の消費税が本場ヨーロッパの付加価値税(VAT)とは似て非なる“なんちゃってVAT”だという点だ。本場は合理的で、投資や不調で付加価値がマイナスになれば、税を還付してくれる。「今は大変でしょう、返しておきますよ」という、ちょっとした思いやりがある。ところが日本式は、計算式だけは真似たものの、この肝心な“救済”を国内事業者には採用しなかった。マイナスになっても返ってこない。税金はただ売上めがけて飛んでくる。実態はほとんど“売上税”である。赤字でも容赦なくのしかかるのだから、小規模事業者が疲弊するのは当然だ。
そして決定的なのは、VATに寄せても小規模事業者の苦しみは変わらないという事実である。VATは合理的に見えて、電子インボイスやデジタル会計など事務負担が重く、日本のように小規模事業者が多く現金文化が根強い国では、むしろ負担が増える。つまり、インボイスを続けても、VATに作り替えても、弱い立場の事業者は救われない。
解決策はシンプルである。インボイスをやめ、これまで三十年間続けてきた“日本型の実務”を法律で明確に位置づけ直すしかない。 免税事業者の請求書に含まれる消費税相当額は「納税したものとみなす」と定め、企業はこれまで通り仕入税額控除を受けられるようにする。そのうえで免税事業者は消費者に「免税店」であることを明示する。これだけで、小規模事業者の排除は消え、企業の混乱も消え、国の税収も維持される。
しかし本来を言えば、消費税そのものをなくすのが一番良い。「安定的な税収」という名目で福祉を人質に取る理屈は、景気変動を前提とした財政運営の基本からして論理が破綻している。そもそも家計収入と同じように税収を説明するところで間違っている。景気が悪くなれば減税し、財政出動で需要を下支えするのが本来の筋であり、どんな不況でも容赦なく取り立てる消費税の姿は、まるで江戸時代の悪代官の年貢取り立てと大差がない。そろそろ日本は、“とぼけた顔”の消費税をやめ、誰もが納得できる制度に着替える時期なのだ。
この税金、昔からどうも「とぼけた顔」をしている。レシートに堂々と「消費税」と印字されているのを三十年も見せられれば、国民はそりゃあ「どの店も国に納めているんだな」と思い込む。ところが実際は、売上1,000万円以下の免税業者は納めていなかった。それを「ネコババだ!」と怒るのは筋違いで、実態はもっと日本的である。「みんなが書いてるから、うちも書いておこう」という、あの“横並びの安心感”がレシートに税額を吐き出させ続けていただけなのだ。
お役所はこの歪みを知っていながら、説明責任や問い合わせ増加を嫌って、そっと「不作為の霧」の中に隠してきた。一方の免税業者は仕組みが分からず、ただお隣に合わせていただけ。この「言わなかった・分からなかった・気づかなかった」の三者三様が三十年かけて“誤解の温室”を育て上げた。その結果、インボイス導入で「今までネコババしておいて、今さら納税したくないとは何事だ」という、冷ややかで筋違いな空気が世間に充満してしまったのである。
さらに厄介なのは、日本の消費税が本場ヨーロッパの付加価値税(VAT)とは似て非なる“なんちゃってVAT”だという点だ。本場は合理的で、投資や不調で付加価値がマイナスになれば、税を還付してくれる。「今は大変でしょう、返しておきますよ」という、ちょっとした思いやりがある。ところが日本式は、計算式だけは真似たものの、この肝心な“救済”を国内事業者には採用しなかった。マイナスになっても返ってこない。税金はただ売上めがけて飛んでくる。実態はほとんど“売上税”である。赤字でも容赦なくのしかかるのだから、小規模事業者が疲弊するのは当然だ。
そして決定的なのは、VATに寄せても小規模事業者の苦しみは変わらないという事実である。VATは合理的に見えて、電子インボイスやデジタル会計など事務負担が重く、日本のように小規模事業者が多く現金文化が根強い国では、むしろ負担が増える。つまり、インボイスを続けても、VATに作り替えても、弱い立場の事業者は救われない。
解決策はシンプルである。インボイスをやめ、これまで三十年間続けてきた“日本型の実務”を法律で明確に位置づけ直すしかない。 免税事業者の請求書に含まれる消費税相当額は「納税したものとみなす」と定め、企業はこれまで通り仕入税額控除を受けられるようにする。そのうえで免税事業者は消費者に「免税店」であることを明示する。これだけで、小規模事業者の排除は消え、企業の混乱も消え、国の税収も維持される。
しかし本来を言えば、消費税そのものをなくすのが一番良い。「安定的な税収」という名目で福祉を人質に取る理屈は、景気変動を前提とした財政運営の基本からして論理が破綻している。そもそも家計収入と同じように税収を説明するところで間違っている。景気が悪くなれば減税し、財政出動で需要を下支えするのが本来の筋であり、どんな不況でも容赦なく取り立てる消費税の姿は、まるで江戸時代の悪代官の年貢取り立てと大差がない。そろそろ日本は、“とぼけた顔”の消費税をやめ、誰もが納得できる制度に着替える時期なのだ。
インフレ騒ぎと町内の噂話 ― 2026年05月04日
最近のインフレ報道というのは、どうもタチの悪い「町内の噂話」に似ている。「物価が大変らしいわよ」。誰が言い出したのかも、どこに根拠があるのかも分からない。それでも噂は、回覧板より速く、路地裏の湿気を吸い込みながら広がっていく。指でつまめば霧散しそうな“空気”に過ぎないのに、その空気は妙に腕力が強い。本来なら、東京都区部の4月消費者指数速報値がこの空気を落ち着かせる役目を果たすはずだった。変動の激しい野菜を抜けばコアで1.5%。味噌汁でいえば「今日はちょっと薄いかな?」程度の、どうということのない数字である。ところがニュースは、この静かな1.5%をほとんど報じない。代わりに「値上げラッシュ」「原油高が直撃」「物価高止まらず」といった、町内の噂話のような“うるさい言葉”だけを拾い上げる。数字が静かだからこそ、その空白を埋めるように噂話だけが勝手に歩き回り、町内は“インフレらしい空気”で満たされていく。
噂が一周する頃には、「日銀が金利を上げるらしい」という不穏なスパイスが混ざり始める。誰も総裁の顔を見たわけでもないのに、「夜逃げの準備をしてるらしいわよ」とでも言うような口ぶりで広まる。根拠は相変わらず、例の“空気”と、報じられない“静かな数字”だけだ。空気が根拠を作り、根拠がまた空気を濃くする。実際の経済指標が動くより先に、町内はすっかり「利上げムード」という熱病に浮かされてしまう。
この噂の出所を辿ると、古い長屋を束ねる大家に行き当たる。大家は家賃を上げたい。しかし無策な値上げは住人の反発を招く。そこで「いやぁ、世間はインフレでしょ? 日銀も金利を上げるって言うし……」と困り顔で伏線を張る。すると住人は「ああ、そういう時代なのか」と、狐につままれたような顔で納得してしまう。実際の経済より先に、大家の“言い訳としての空気”が長屋の家計を浸食していく。
日本の労働者の8割は、この壁の薄い「長屋ゾーン」にひしめき合っている。ここでは町内会費がやたらと高い。しかも性質が悪いことに、住人の給料が1円でも増えると、それを察知したかのように町内会費も増額される。郵便受けに、住人の血色を吸って自動で肥え太る「寄生する封筒」が住み着いているようなものだ。一方、町外れの丘に建つ豪邸の「家持」たちは涼しい顔をしている。長屋の住人が汗水垂らして得た昇給分を町内会費にさらわれていく横で、彼らの会費は「今年も据え置きで」と何十年も変わらない。風鈴の音だけが、のんきに揺れている。
この不条理の正体は、「社会保険料」という名の、見えない税金である。年収440万円の世帯なら、社会保険料と住民税で年間93万円が消えていく。100万円近い金があれば、長屋の雨漏りも傾いた床も綺麗に直せるはずだ。ところがこの社会保険料というシステムは、給料が上がると即座に跳ね上がる。上がる時はロケットの如く素早いが、景気が冷えても下りてくる気配はない。年収600万円以下の層は、この「標準報酬月額」という名の細かな罠が敷き詰められた長屋に押し込められ、働けば働くほど、先回りした町内会費に利益を吸い上げられる。
ニュースは、この巨大な「町内会費」の不条理には決して触れようとしない。ひたすら「値上げが」「原油高が」「利上げが」と、庭に落ちた枯れ葉の掃除法について議論を重ねる。しかし本当に長屋を崩壊させようとしているのは枯れ葉ではない。屋根裏に巣食い、柱を食い荒らし、膨張し続ける「社会保険料」という現物の重みだ。町内を支配しているのは経済原理ではない。「そういうことにしておきたい」という大家の思惑と、それに抗えない空気である。今日も町内会は、漬物の塩加減を議論しながら、台所から上がる煙に気づかないふりをしている。
噂が一周する頃には、「日銀が金利を上げるらしい」という不穏なスパイスが混ざり始める。誰も総裁の顔を見たわけでもないのに、「夜逃げの準備をしてるらしいわよ」とでも言うような口ぶりで広まる。根拠は相変わらず、例の“空気”と、報じられない“静かな数字”だけだ。空気が根拠を作り、根拠がまた空気を濃くする。実際の経済指標が動くより先に、町内はすっかり「利上げムード」という熱病に浮かされてしまう。
この噂の出所を辿ると、古い長屋を束ねる大家に行き当たる。大家は家賃を上げたい。しかし無策な値上げは住人の反発を招く。そこで「いやぁ、世間はインフレでしょ? 日銀も金利を上げるって言うし……」と困り顔で伏線を張る。すると住人は「ああ、そういう時代なのか」と、狐につままれたような顔で納得してしまう。実際の経済より先に、大家の“言い訳としての空気”が長屋の家計を浸食していく。
日本の労働者の8割は、この壁の薄い「長屋ゾーン」にひしめき合っている。ここでは町内会費がやたらと高い。しかも性質が悪いことに、住人の給料が1円でも増えると、それを察知したかのように町内会費も増額される。郵便受けに、住人の血色を吸って自動で肥え太る「寄生する封筒」が住み着いているようなものだ。一方、町外れの丘に建つ豪邸の「家持」たちは涼しい顔をしている。長屋の住人が汗水垂らして得た昇給分を町内会費にさらわれていく横で、彼らの会費は「今年も据え置きで」と何十年も変わらない。風鈴の音だけが、のんきに揺れている。
この不条理の正体は、「社会保険料」という名の、見えない税金である。年収440万円の世帯なら、社会保険料と住民税で年間93万円が消えていく。100万円近い金があれば、長屋の雨漏りも傾いた床も綺麗に直せるはずだ。ところがこの社会保険料というシステムは、給料が上がると即座に跳ね上がる。上がる時はロケットの如く素早いが、景気が冷えても下りてくる気配はない。年収600万円以下の層は、この「標準報酬月額」という名の細かな罠が敷き詰められた長屋に押し込められ、働けば働くほど、先回りした町内会費に利益を吸い上げられる。
ニュースは、この巨大な「町内会費」の不条理には決して触れようとしない。ひたすら「値上げが」「原油高が」「利上げが」と、庭に落ちた枯れ葉の掃除法について議論を重ねる。しかし本当に長屋を崩壊させようとしているのは枯れ葉ではない。屋根裏に巣食い、柱を食い荒らし、膨張し続ける「社会保険料」という現物の重みだ。町内を支配しているのは経済原理ではない。「そういうことにしておきたい」という大家の思惑と、それに抗えない空気である。今日も町内会は、漬物の塩加減を議論しながら、台所から上がる煙に気づかないふりをしている。
金利を上げろ病? ― 2026年05月01日
円安である。物価高である。スーパーへ行けば、キャベツの前で腕組みをする人が増え、レジ前では「これ戻します」が静かな流行語になっている。豆腐売り場では三つ入りと二つ入りを見比べ、卵の前で十秒ほど沈黙する人もいる。家計というものは、景気の会議室ではなく、冷蔵庫の前で判断される。こうなると世間は単純明快な言葉を欲しがる。「金利を上げろ」である。
しかしその議論、どこか噛み合わない。虫歯で頬を押さえている人に向かって、「目薬だ、目薬がいちばん効く」と皆が声をそろえているようなものだ。ひとりが言い出し、ふたりがうなずき、三人目あたりからは疑う者のほうが非常識な顔をされる。痛いのは口の中なのに、議論だけが眼科へ向かって走り出す。世間では、ときどきこういう誤診が起きる。
今回の物価高は、原油高、物流混乱、海外金利、地政学と、外から飛んでくる羽虫が多い。こちらが団扇であおいでも、なかなか帰ってくれない。そこへ日本だけ0.25%、0.5%と金利を上げたところで、3%もある日米金利差の大河に、コップ一杯の水を注ぐようなものだ。川幅は変わらない。それなのに「これで円高だ」と言う。天気予報で傘を一本振ったら台風が曲がる、と言うくらい頼もしい話である。
しかも金利を上げれば、銀行は日銀当座預金に利息がつく。何十兆円という残高に、ぺたりと利率が貼られる。こちらは住宅ローンの金利上昇に眉をしかめ、あちらは何もしなくても受取利息が増える。努力賞ならぬ制度賞である。表彰状の文面を見たい。「右、特段の汗もかかず収益増大につき、ここにこれを賞す」。ついでに紅白のリボンも付けていただきたい。
一方で減税の話は進まず、社会保険料はじわりと上がる。給料明細を見ると、春の陽気なのに財布の中だけ北風が吹いている。そのうえ金利まで上げるとなれば、家計は三方向から戸を閉められる。消費者は外食を一回減らし、旅行を見送り、洗濯機の買い替えを来年にする。町のとんかつ屋は昼の客が一人減り、商店街の電器屋は展示品の前で腕を組む時間が増える。景気というのは、こうして静かに、しかし確実にしぼむ。
本来なら、円安もコスト高も使いようである。輸入に頼りすぎた産業を見直し、国内投資を増やし、観光で稼ぎ、賃金を上げ、地方に仕事を回す。逆風の日こそ、帆船をエンジン船に替える好機ではないか。ところが議論はいつも「次の会合で上げるか、据え置くか」。台所の床が抜けているのに、蛇口の閉め方ばかり相談している。床下から風が入ってきても、会議はなお続く。
思い出すのは失われた30年である。景気が上向きかけると、どこからともなく冷や水が運ばれてきた。今回もまた、せっかく灯いた種火に向かって「火事になると困るから消しておこう」と水をかけるつもりらしい。そしてそのあとで、「なぜ寒いのだろう」と首をかしげるのである。
経済というのは、体温計の数字だけ見て健康になるものではない。飯を食い、働き、稼ぎ、使い、また明日も頑張ろうと思えることが大事だ。そこを忘れて虫歯に目薬をさし続けていると、そのうち財布の中から木魚の音がしてくる。南無阿弥陀仏、と小銭が鳴る。
しかしその議論、どこか噛み合わない。虫歯で頬を押さえている人に向かって、「目薬だ、目薬がいちばん効く」と皆が声をそろえているようなものだ。ひとりが言い出し、ふたりがうなずき、三人目あたりからは疑う者のほうが非常識な顔をされる。痛いのは口の中なのに、議論だけが眼科へ向かって走り出す。世間では、ときどきこういう誤診が起きる。
今回の物価高は、原油高、物流混乱、海外金利、地政学と、外から飛んでくる羽虫が多い。こちらが団扇であおいでも、なかなか帰ってくれない。そこへ日本だけ0.25%、0.5%と金利を上げたところで、3%もある日米金利差の大河に、コップ一杯の水を注ぐようなものだ。川幅は変わらない。それなのに「これで円高だ」と言う。天気予報で傘を一本振ったら台風が曲がる、と言うくらい頼もしい話である。
しかも金利を上げれば、銀行は日銀当座預金に利息がつく。何十兆円という残高に、ぺたりと利率が貼られる。こちらは住宅ローンの金利上昇に眉をしかめ、あちらは何もしなくても受取利息が増える。努力賞ならぬ制度賞である。表彰状の文面を見たい。「右、特段の汗もかかず収益増大につき、ここにこれを賞す」。ついでに紅白のリボンも付けていただきたい。
一方で減税の話は進まず、社会保険料はじわりと上がる。給料明細を見ると、春の陽気なのに財布の中だけ北風が吹いている。そのうえ金利まで上げるとなれば、家計は三方向から戸を閉められる。消費者は外食を一回減らし、旅行を見送り、洗濯機の買い替えを来年にする。町のとんかつ屋は昼の客が一人減り、商店街の電器屋は展示品の前で腕を組む時間が増える。景気というのは、こうして静かに、しかし確実にしぼむ。
本来なら、円安もコスト高も使いようである。輸入に頼りすぎた産業を見直し、国内投資を増やし、観光で稼ぎ、賃金を上げ、地方に仕事を回す。逆風の日こそ、帆船をエンジン船に替える好機ではないか。ところが議論はいつも「次の会合で上げるか、据え置くか」。台所の床が抜けているのに、蛇口の閉め方ばかり相談している。床下から風が入ってきても、会議はなお続く。
思い出すのは失われた30年である。景気が上向きかけると、どこからともなく冷や水が運ばれてきた。今回もまた、せっかく灯いた種火に向かって「火事になると困るから消しておこう」と水をかけるつもりらしい。そしてそのあとで、「なぜ寒いのだろう」と首をかしげるのである。
経済というのは、体温計の数字だけ見て健康になるものではない。飯を食い、働き、稼ぎ、使い、また明日も頑張ろうと思えることが大事だ。そこを忘れて虫歯に目薬をさし続けていると、そのうち財布の中から木魚の音がしてくる。南無阿弥陀仏、と小銭が鳴る。
高齢者医療費「原則3割」へ ― 2026年04月30日
財務省がまた「高齢者の医療費負担を増やすべきだ」と言い出した。ニュースでは、まるで「はい、もう決まりました」とでも言うような調子で読み上げる。こちらは朝の茶碗を手にしながら、「いや、それは厚労省のシマじゃないのか」とつぶやく。医療は厚労省、財政は財務省。普通なら味噌汁と漬物くらい役割が分かれているはずなのに、財務省は台所にまで入ってきて、鍋の味付けに口を出す。家計簿を握った夫が、台所に立つ妻へ「その米は一合でいい」と指図するようなものである。しかも財務省の言い分は、いつも驚くほど単純だ。「足りないから負担を増やします」
これだけなら官僚も議員もいらない。家計簿の赤字を見て「では食費を削ろう」と言うのと同じで、そこに知恵も工夫もない。必要なのは電卓と赤ペンだけである。本来、政策とは「どうすれば収入が増えるか」「どうすれば制度が回るか」を考えるためにある。それを「足りないから出せ」で済ませるのは、借金取りの論理そのままだ。
しかも、その“出せ”と言われている相手が高齢者である。高齢者の米びつは年金だ。その中身は、もともと多くない。ふたを開ければ、底のほうに心細く残った米粒が、ちょっとした風でも飛んでいきそうな量しかない。そこへさらに「負担増です」と手を突っ込まれたら、翌朝のご飯が炊けない。ご飯が炊けなければ体力は落ちる。体力が落ちれば外出も減る。外出が減れば地域の消費も細る。家計を削る話は、たいてい町全体を痩せさせる。
財務省は「医療費が増えているから」と言う。だが、高齢者の医療費が多いのは当たり前だ。年を取れば膝も腰も痛むし、血圧も上がる。これは自然現象であって、桜が春に咲くのと同じくらい当然のことである。それを理由に米びつを差し出させるのは、どうにも筋が悪い。
しかも健康保険の収支が苦しい本当の理由は、支出だけではなく収入の弱さにある。賃金が伸びない。若い加入者が減る。非正規雇用が増える。現役世代の懐が細れば、保険料収入も細る。ここを太らせない限り、どれだけ米びつを差し出させても、制度は立ち直らない。
いつも財務省は「若い人の負担は増やせない」とも言う。だがその言い分は、冷蔵庫に残ったわずかな卵焼きを前にして、「兄弟で分けろ。ただし兄は食べるな」 と指示する親のようなものだ。本来、弁当のおかずを増やすのが親の役目なのに、なぜか子ども同士を争わせる。若者と高齢者を向かい合わせにして、「どっちが我慢するか」を決めさせる。その構図が、どうにもえげつない。
結局のところ、財務省の負担増路線は、家計を立て直すために米びつそのものを売り払うような話だ。売ったその日は少し静かになる。だが翌朝の台所には、何も残らない。可処分所得を削れば消費は落ち、景気は弱り、保険料収入もまた細る。これでは財政再建どころか、土台から痩せていく。
守るべきは米びつであって、差し出すことではない。本当に必要なのは、高齢者からさらに取ることではなく、現役世代の稼ぐ力を取り戻すことだ。賃金が上がり、働く人が増え、保険料を払える人が増える。制度を支えるとは、本来そういうことである。
これだけなら官僚も議員もいらない。家計簿の赤字を見て「では食費を削ろう」と言うのと同じで、そこに知恵も工夫もない。必要なのは電卓と赤ペンだけである。本来、政策とは「どうすれば収入が増えるか」「どうすれば制度が回るか」を考えるためにある。それを「足りないから出せ」で済ませるのは、借金取りの論理そのままだ。
しかも、その“出せ”と言われている相手が高齢者である。高齢者の米びつは年金だ。その中身は、もともと多くない。ふたを開ければ、底のほうに心細く残った米粒が、ちょっとした風でも飛んでいきそうな量しかない。そこへさらに「負担増です」と手を突っ込まれたら、翌朝のご飯が炊けない。ご飯が炊けなければ体力は落ちる。体力が落ちれば外出も減る。外出が減れば地域の消費も細る。家計を削る話は、たいてい町全体を痩せさせる。
財務省は「医療費が増えているから」と言う。だが、高齢者の医療費が多いのは当たり前だ。年を取れば膝も腰も痛むし、血圧も上がる。これは自然現象であって、桜が春に咲くのと同じくらい当然のことである。それを理由に米びつを差し出させるのは、どうにも筋が悪い。
しかも健康保険の収支が苦しい本当の理由は、支出だけではなく収入の弱さにある。賃金が伸びない。若い加入者が減る。非正規雇用が増える。現役世代の懐が細れば、保険料収入も細る。ここを太らせない限り、どれだけ米びつを差し出させても、制度は立ち直らない。
いつも財務省は「若い人の負担は増やせない」とも言う。だがその言い分は、冷蔵庫に残ったわずかな卵焼きを前にして、「兄弟で分けろ。ただし兄は食べるな」 と指示する親のようなものだ。本来、弁当のおかずを増やすのが親の役目なのに、なぜか子ども同士を争わせる。若者と高齢者を向かい合わせにして、「どっちが我慢するか」を決めさせる。その構図が、どうにもえげつない。
結局のところ、財務省の負担増路線は、家計を立て直すために米びつそのものを売り払うような話だ。売ったその日は少し静かになる。だが翌朝の台所には、何も残らない。可処分所得を削れば消費は落ち、景気は弱り、保険料収入もまた細る。これでは財政再建どころか、土台から痩せていく。
守るべきは米びつであって、差し出すことではない。本当に必要なのは、高齢者からさらに取ることではなく、現役世代の稼ぐ力を取り戻すことだ。賃金が上がり、働く人が増え、保険料を払える人が増える。制度を支えるとは、本来そういうことである。
主婦年金と熱海の旅館 ― 2026年04月29日
年金制度というものは、気がつけば、まるで熱海の老舗旅館である。昭和の本館に平成の別館を継ぎ足し、さらに令和の新館まで無理やりドッキングした結果、廊下は曲がりくねり、階段は急で、どこが大浴場でどこが非常口なのか、案内板を三度見ても分からない。しかも、その案内板が少し黄ばんでいて、矢印が右を向いているのか左を向いているのかも判然としない。これが日本の年金制度である。
たとえば「第3号被保険者」。旅館でいえば、「お連れ様は無料でお風呂に入れます」という、たいへん気前のいいサービスに近い。しかも、そのお連れ様がどれだけ長湯しようが、タオルを何枚使おうが、宿のほうは終始にこやかである。ところが、これを公平にしようとして「では全員から入浴料をいただきます」とやると、今度は「うちは風呂に入らぬ主義でして」という人まで巻き込むことになる。制度というものは、一度ゆがんだ廊下を造ると、後から真っすぐに直すのが実に難しい。
しかも厄介なのは、経済成長を目指そうという時期に、家計の可処分所得を減らすような制度改正を、「公平です」と胸を張って差し出してくるところである。これは旅館の夕食で、刺身そのものは据え置きのまま、“ツマだけ増量しました”と言われるようなものだ。いや、そこではない。客が欲しいのは大根の千切りではなく、マグロである。
本当に公平を言うなら、やるべきことはもっと単純だ。完全個人単位の年金制度である。誰と結婚していようが、扶養だろうが別居だろうが、そんな事情は制度に持ち込まない。稼いだ人がその分だけ負担し、将来その分だけ受け取る。これ以上分かりやすい仕組みはない。所得比例にすれば、働けば働くほど手取りは増える。いまのように「130万円で止めると得です」という、まるで“食べ放題なのに途中で帰った方が元が取れる”ような妙な逆転現象も消える。
では、働かない配偶者はどうなるのか。そこは個人の選択である。働かない自由はある。ただし、制度上の“タダ乗り席”までは用意しない、というだけの話だ。もっとも、世帯収入が300万円を下回るような家庭まで突き放してはならない。そこは給付付き税額控除で下支えする。旅館でいえば、「お風呂は有料ですが、収入の少ないお客様には割引券を差し上げます」という話で、じつに筋が通っている。
つまり、完全個人年金と給付付き税額控除を組み合わせれば、公平性を確保しながら、家計にも財政にも無理な打撃を与えずに済む。しかも、多くの働く人の可処分所得は増える。経済成長にも追い風になる。旅館でいえば、迷路のような廊下をすべて取り払い、一本のまっすぐな通路にして、浴場も食堂も迷わず行けるように配置し直すようなものである。
公平を言うなら、刺身のツマを増やして満足していてはいけない。皿そのものを作り直すべきなのである。制度もまた料理と同じだ。盛り付けをいじるより、レシピから変えたほうが、話はずっと早い。
たとえば「第3号被保険者」。旅館でいえば、「お連れ様は無料でお風呂に入れます」という、たいへん気前のいいサービスに近い。しかも、そのお連れ様がどれだけ長湯しようが、タオルを何枚使おうが、宿のほうは終始にこやかである。ところが、これを公平にしようとして「では全員から入浴料をいただきます」とやると、今度は「うちは風呂に入らぬ主義でして」という人まで巻き込むことになる。制度というものは、一度ゆがんだ廊下を造ると、後から真っすぐに直すのが実に難しい。
しかも厄介なのは、経済成長を目指そうという時期に、家計の可処分所得を減らすような制度改正を、「公平です」と胸を張って差し出してくるところである。これは旅館の夕食で、刺身そのものは据え置きのまま、“ツマだけ増量しました”と言われるようなものだ。いや、そこではない。客が欲しいのは大根の千切りではなく、マグロである。
本当に公平を言うなら、やるべきことはもっと単純だ。完全個人単位の年金制度である。誰と結婚していようが、扶養だろうが別居だろうが、そんな事情は制度に持ち込まない。稼いだ人がその分だけ負担し、将来その分だけ受け取る。これ以上分かりやすい仕組みはない。所得比例にすれば、働けば働くほど手取りは増える。いまのように「130万円で止めると得です」という、まるで“食べ放題なのに途中で帰った方が元が取れる”ような妙な逆転現象も消える。
では、働かない配偶者はどうなるのか。そこは個人の選択である。働かない自由はある。ただし、制度上の“タダ乗り席”までは用意しない、というだけの話だ。もっとも、世帯収入が300万円を下回るような家庭まで突き放してはならない。そこは給付付き税額控除で下支えする。旅館でいえば、「お風呂は有料ですが、収入の少ないお客様には割引券を差し上げます」という話で、じつに筋が通っている。
つまり、完全個人年金と給付付き税額控除を組み合わせれば、公平性を確保しながら、家計にも財政にも無理な打撃を与えずに済む。しかも、多くの働く人の可処分所得は増える。経済成長にも追い風になる。旅館でいえば、迷路のような廊下をすべて取り払い、一本のまっすぐな通路にして、浴場も食堂も迷わず行けるように配置し直すようなものである。
公平を言うなら、刺身のツマを増やして満足していてはいけない。皿そのものを作り直すべきなのである。制度もまた料理と同じだ。盛り付けをいじるより、レシピから変えたほうが、話はずっと早い。
足りない騒ぎと共産主義モード ― 2026年04月25日
新城市の日帰り温泉や砺波の焼却施設で「重油が入ってこない」というニュースを見た瞬間、なぜか台所の戸棚を開けてしまった。重油が入っているわけもないのに開けたくなるのは、コロナの時のマスクと同じだ。「足りない」という言葉が理屈を追い越し、自分の在庫を確認しないと気が済まない。今回の重油も、どうも同じ匂いがする。実際は鍋が空になったわけではなく、具が少し偏っているだけだ。原油は備蓄を含めて確保され、暖房需要も落ちる時期。医療などの優先順位が高いところには、きちんと回る。ところがニュースは「偏り」を語らない。「砺波で入らない」と聞けば、脳内で勝手に「入らない=全部ない=そのうち医療も危ない」と変換が始まる。冷蔵庫の隅で豆腐が一丁傷んでいるのを見て「全部ダメだ」と思い込むようなものだが、タンクの残量という「数字」を並べられると、鍋の底の小さな焦げが全体を焼き尽くす大火事に見えてくる。
不安は人を動かす。地元の議員には「センセー、油はどうなってるんです」と声が集まる。盆踊りの人数は把握していても、石油の流れまで追っていないセンセーは役所に駆け込み、役所は公平を期して一斉調査をかける。すると業者が「調査が入るなら、何か起きるぞ」と身構える。ここからは早い。仕入れは前倒し、在庫は積み増し、消費者も「今のうちに」と動き出す。自由に流れていたはずのものが急にぎくしゃくし始め、「誰かが配らないと危ない」という空気が生まれる。統制を求める声とお上への疑いが同時に膨らむ、いわば“共産主義モード”の完成である。
本来、流通は猫のようなもので、放っておけば勝手に歩き回り、勝手に収まる。ところが、みんなで囲んで「大丈夫か」と背中を叩き続ければ、猫は一目散に逃げ出すだろう。かつて「足りている」と言われた瞬間に棚が空になったのも、あの光景の焼き直しだ。石油の量は変わっていない。ただ、「入らない」の一言と「足りていますか」という問いかけが、全員に一斉に箸を持たせる。まだ具はあるのに、みんなで鍋をかき回し、そうしているうちに本当に中身が減っていく。
世の中の混乱は、大抵たいしたことのない焦げから始まる。そして厄介なのは、その焦げを広げるきっかけが、決まって「ここが焦げています」と教えてくれる親切な声のほうだということである。
不安は人を動かす。地元の議員には「センセー、油はどうなってるんです」と声が集まる。盆踊りの人数は把握していても、石油の流れまで追っていないセンセーは役所に駆け込み、役所は公平を期して一斉調査をかける。すると業者が「調査が入るなら、何か起きるぞ」と身構える。ここからは早い。仕入れは前倒し、在庫は積み増し、消費者も「今のうちに」と動き出す。自由に流れていたはずのものが急にぎくしゃくし始め、「誰かが配らないと危ない」という空気が生まれる。統制を求める声とお上への疑いが同時に膨らむ、いわば“共産主義モード”の完成である。
本来、流通は猫のようなもので、放っておけば勝手に歩き回り、勝手に収まる。ところが、みんなで囲んで「大丈夫か」と背中を叩き続ければ、猫は一目散に逃げ出すだろう。かつて「足りている」と言われた瞬間に棚が空になったのも、あの光景の焼き直しだ。石油の量は変わっていない。ただ、「入らない」の一言と「足りていますか」という問いかけが、全員に一斉に箸を持たせる。まだ具はあるのに、みんなで鍋をかき回し、そうしているうちに本当に中身が減っていく。
世の中の混乱は、大抵たいしたことのない焦げから始まる。そして厄介なのは、その焦げを広げるきっかけが、決まって「ここが焦げています」と教えてくれる親切な声のほうだということである。
東海林風「軽油補助金」と談合 ― 2026年04月22日
軽油補助金と談合話を聞いていると、どうにも頭の中で江戸の町が立ち上がってくる。日本橋界隈の真ん中にどっしり構える油問屋、巨大な油樽がずらりと並び、油の匂いが鼻にまとわりつく。あれは匂いというより“油の気配”で、樽の前を通るだけで袖口がテカテカしてくる気がする。樽の木目がやけに艶っぽいのも気になる。あれは油が染みているのか、店主が毎朝磨いているのか。雑巾もきっとテカテカだ。現代でいえば元売りで、町の灯りの行灯や灯明、天ぷらの揚げ油とみんなこの樽頼みである。で、この油問屋の奥には、なぜか悪代官が“ふらりと”現れる。ふらりと来るくせに足音だけは妙に重い。「油問屋よ、例の“下々へのご自愛の金子”の沙汰じゃがな……」と袖の下の匂いを漂わせながら現れる。この“ふらり感”が実に胡乱で、しかも帳簿は奥の間のさらに奥、なぜか屏風の裏に立てかけてある。屏風の裏に帳簿を置く家なんて見たことがないが、江戸の“見せぬ文化”は現代の不透明さと妙に重なる。
一方、町場には商いが軒を連ねる。油屋の看板がずらりと並び、どの店もなぜか同じような字体で「油」と書いてある。あれは町内の書道の先生が指導しているのかもしれない。表向きは「うちは安いよ」と競い合っているように見えるが、日が暮れると店主たちがこそこそ集まり、「なあ、来月から一升あたり二文、揃えて上げようじゃありませんか」「師走は二文半でどうです」「値下げの折も足並み揃えませんか」と相談を始める。これが談合である。表では「いやあ、仕入れ値が高うございまして」と頭をかくが、その頭のかき方がまた妙に同じ角度で、見ていると“談合のクセ”が身体に染みついているように思えてくる。裏では“値寄せの寄り合い”。この裏の結束だけは江戸も現代も変わらない。町人は「油の値が揃いすぎてやしねえか」と首をひねるが、商いはどこ吹く風で、むしろ「揃ってるから安心でございましょ」みたいな顔をしている。いや、安心じゃない。
そこへ現れるのが奉行所。現代でいえば公取委だ。この奉行所、なかなか目が利く。町場の油売りどもが夜な夜な値を寄せ合っていたことまではきっちり嗅ぎつけ、「油売り一同、密々に値を取り決めておった証拠、奉行所にてしかと改めた。これよりお白州にて沙汰を申し付ける」と淡々と申し渡す。奉行所の役人は、なぜか皆、眉の角度が同じで、怒っていないのに怒っているように見える絶妙な角度だ。怒鳴らないが、言葉が妙に冷たい。こういう冷たさがいちばん効く。しかし、である。奉行所がいくら目を凝らしても、その奥にいる油問屋と悪代官の“屏風の裏の密談”まではどうにも手が届かない。屏風の裏というのは、どうしてこうも都合よく“見えない場所”として使われるのだろう。あそこにはたいてい猫が寝ているものだが、今回は帳簿が寝ている。猫より静かで、猫より質が悪い。
町人たちは困り果て、「金子はどこへ消えたんでい」「油の値は下がらず、むしろ上がってんじゃねえか」と嘆くが、油問屋の帳簿は屏風の裏、悪代官はふらりと現れては消え、商いは横並びで値を上げ、奉行所は町場までしか斬り込めない。こうしてみると今回の話は「油問屋と悪代官の屏風の裏」「町場の商い」「そこまでしか行けぬ奉行所」の三幕芝居になっている。そしてここまで来ると、江戸芝居を見慣れた町人としてはどうしても期待してしまうのだ。――そろそろ、ふすまがバァンと開き、片肌脱ぎの遠山の金さんが現れるんじゃないか、と。もろ肌脱いで「油問屋、悪代官、屏風の裏はこの桜吹雪がお見通しだぜい!」と啖呵を切る、あの場面を。だが現実は芝居ほど気が利いていない。ふすまは、いつまで経っても開かない。それでも人は、あの桜吹雪を一度くらい見たくなる。そう思わせるほど、この構図は江戸の町と、いやに似ているのである。
一方、町場には商いが軒を連ねる。油屋の看板がずらりと並び、どの店もなぜか同じような字体で「油」と書いてある。あれは町内の書道の先生が指導しているのかもしれない。表向きは「うちは安いよ」と競い合っているように見えるが、日が暮れると店主たちがこそこそ集まり、「なあ、来月から一升あたり二文、揃えて上げようじゃありませんか」「師走は二文半でどうです」「値下げの折も足並み揃えませんか」と相談を始める。これが談合である。表では「いやあ、仕入れ値が高うございまして」と頭をかくが、その頭のかき方がまた妙に同じ角度で、見ていると“談合のクセ”が身体に染みついているように思えてくる。裏では“値寄せの寄り合い”。この裏の結束だけは江戸も現代も変わらない。町人は「油の値が揃いすぎてやしねえか」と首をひねるが、商いはどこ吹く風で、むしろ「揃ってるから安心でございましょ」みたいな顔をしている。いや、安心じゃない。
そこへ現れるのが奉行所。現代でいえば公取委だ。この奉行所、なかなか目が利く。町場の油売りどもが夜な夜な値を寄せ合っていたことまではきっちり嗅ぎつけ、「油売り一同、密々に値を取り決めておった証拠、奉行所にてしかと改めた。これよりお白州にて沙汰を申し付ける」と淡々と申し渡す。奉行所の役人は、なぜか皆、眉の角度が同じで、怒っていないのに怒っているように見える絶妙な角度だ。怒鳴らないが、言葉が妙に冷たい。こういう冷たさがいちばん効く。しかし、である。奉行所がいくら目を凝らしても、その奥にいる油問屋と悪代官の“屏風の裏の密談”まではどうにも手が届かない。屏風の裏というのは、どうしてこうも都合よく“見えない場所”として使われるのだろう。あそこにはたいてい猫が寝ているものだが、今回は帳簿が寝ている。猫より静かで、猫より質が悪い。
町人たちは困り果て、「金子はどこへ消えたんでい」「油の値は下がらず、むしろ上がってんじゃねえか」と嘆くが、油問屋の帳簿は屏風の裏、悪代官はふらりと現れては消え、商いは横並びで値を上げ、奉行所は町場までしか斬り込めない。こうしてみると今回の話は「油問屋と悪代官の屏風の裏」「町場の商い」「そこまでしか行けぬ奉行所」の三幕芝居になっている。そしてここまで来ると、江戸芝居を見慣れた町人としてはどうしても期待してしまうのだ。――そろそろ、ふすまがバァンと開き、片肌脱ぎの遠山の金さんが現れるんじゃないか、と。もろ肌脱いで「油問屋、悪代官、屏風の裏はこの桜吹雪がお見通しだぜい!」と啖呵を切る、あの場面を。だが現実は芝居ほど気が利いていない。ふすまは、いつまで経っても開かない。それでも人は、あの桜吹雪を一度くらい見たくなる。そう思わせるほど、この構図は江戸の町と、いやに似ているのである。
東海林風CO2と残菜問題 ― 2026年04月21日
残菜というのは、どうにも扱いが難しい。食卓の端に取り残された煮物の人参。嫌われているわけでもないのに、気がつくと皿の隅でぽつんとしている。ポテトサラダのすくい損ねた一塊も、妙に粘り強く皿にへばりつき、取ろうとすると広がる。どれも捨てるには惜しいが、これだけで一品になるかといえば心許ない。「惜しい」と「いらない」の中間にあるのが残菜である。いま世間で盛大に繰り広げられている脱炭素の「エコエコ大作戦」も、この残菜の扱いに似ている。あちこちから野菜の端っこをかき集め、高級調味料を惜しげもなく投入し、最新鋭の圧力鍋――メタネーション装置――を据えて再調理する。しかし材料をばらしてまたくっつけるようなもので、どうにも手間がかかる。普通に新しい材料で一品こしらえたほうが早いのではないか、と箸先が止まる。それでも「特製eメタンです」と出されると、一応は箸を持つが、「そこまでして食わなきゃならんのか」と思う。台所の隅から町内会の視線がじわっと効いてくる。「ちゃんと食べなさい」という、あの無言の圧である。
そこへ現れたのが、期待の新人・SMR(小型モジュール炉)だ。「残菜の出にくい最新式の万能鍋」という触れ込みで、町内会でも噂になる。我が家にも一台ほしい気がする。しかしどんな鍋でも十年も使えばお焦げがつく。SMRとて例外ではなく、気がつけば“残りかす”が溜まってくる。「話が違うじゃないか」と町内会が騒ぎ出し、「あのお焦げはどうするんですか」と詰め寄る。そこで人は考える。見えなければいいのではないか、と床下に押し込む。しかし床下は案外狭く、十年分も押し込めばパンパンだ。しかも自分の家の床下だと思うと落ち着かない。町内会も妙に詳しくなり、「床下は危ないらしいですよ」と知識を披露してくる。
ではどうするか。ここで出てくるのが核変換である。溜まったものをそのままにせず、性質そのものを変えてしまおうという発想だ。長く置くと厄介なものを、時間をかけて扱いやすいものにしていく。ちょうど、ぬか床に放り込んだ野菜が、気がつけば漬物になっているようなものだ。手を入れ、様子を見ながら、じわじわと変えていく。いわば、これはエネルギー界のぬか床である。ただし、まだ「うまく漬かるか様子見」の段階で、町内会に説明しても納得はされにくい。さらにその先には、核融合という“そもそも残り物がほとんど出ない台所”が控えているらしい。ここまで来れば町内会も静かになるかと思いきや、「その鍋、いつ来るんですか」と一言。夢の話は嫌いではないが、夕飯の支度は今日もある。夢を食べて生きるわけにはいかないところが、なんとも悩ましい。
こうして眺めると、残り物をどう扱うかに知恵を絞り、高い道具を持ち出して右往左往している姿は、どこか滑稽でもある。もちろん無駄ではないが、そればかりに熱中すると、肝心の台所全体を忘れてしまう。結局必要なのは「残菜をどう食べきるか」ではなく、「そもそもちゃんと食える飯をどう用意するか」である。町内会に言われて渋々食べる飯ではなく、最初から箸が進む飯だ。無理に温め直した残り物は、やはり残り物の味がする。だったら早いところ、新しい釜でまっとうな飯を炊いたほうがいい。エネルギーの未来は、そのあたりにあるような気がする。
そこへ現れたのが、期待の新人・SMR(小型モジュール炉)だ。「残菜の出にくい最新式の万能鍋」という触れ込みで、町内会でも噂になる。我が家にも一台ほしい気がする。しかしどんな鍋でも十年も使えばお焦げがつく。SMRとて例外ではなく、気がつけば“残りかす”が溜まってくる。「話が違うじゃないか」と町内会が騒ぎ出し、「あのお焦げはどうするんですか」と詰め寄る。そこで人は考える。見えなければいいのではないか、と床下に押し込む。しかし床下は案外狭く、十年分も押し込めばパンパンだ。しかも自分の家の床下だと思うと落ち着かない。町内会も妙に詳しくなり、「床下は危ないらしいですよ」と知識を披露してくる。
ではどうするか。ここで出てくるのが核変換である。溜まったものをそのままにせず、性質そのものを変えてしまおうという発想だ。長く置くと厄介なものを、時間をかけて扱いやすいものにしていく。ちょうど、ぬか床に放り込んだ野菜が、気がつけば漬物になっているようなものだ。手を入れ、様子を見ながら、じわじわと変えていく。いわば、これはエネルギー界のぬか床である。ただし、まだ「うまく漬かるか様子見」の段階で、町内会に説明しても納得はされにくい。さらにその先には、核融合という“そもそも残り物がほとんど出ない台所”が控えているらしい。ここまで来れば町内会も静かになるかと思いきや、「その鍋、いつ来るんですか」と一言。夢の話は嫌いではないが、夕飯の支度は今日もある。夢を食べて生きるわけにはいかないところが、なんとも悩ましい。
こうして眺めると、残り物をどう扱うかに知恵を絞り、高い道具を持ち出して右往左往している姿は、どこか滑稽でもある。もちろん無駄ではないが、そればかりに熱中すると、肝心の台所全体を忘れてしまう。結局必要なのは「残菜をどう食べきるか」ではなく、「そもそもちゃんと食える飯をどう用意するか」である。町内会に言われて渋々食べる飯ではなく、最初から箸が進む飯だ。無理に温め直した残り物は、やはり残り物の味がする。だったら早いところ、新しい釜でまっとうな飯を炊いたほうがいい。エネルギーの未来は、そのあたりにあるような気がする。
東海林風うまいコメが喰いたい ― 2026年04月20日
スーパーの米売り場というのは、どうしてああ、いつも静かなんだろう。肉売り場はジュワジュワ、魚売り場はピチピチ、総菜売り場はガヤガヤしているのに、米売り場だけは妙に落ち着いている。袋がドンと積まれて、こちらを見ている。「わたしら、そんなに騒ぐほどのことじゃありませんよ」とでも言いたげだ。ところが最近、その静かな米売り場の外側で、業界とメディアが大騒ぎしている。「米価が下がった!」「在庫が増えた!」「大変だ!」まるで米袋が倉庫で泣き叫んでいるかのような報道ぶりである。しかし売り場の米袋たちは、どこ吹く風である。
特にブランド米。コシヒカリ、あきたこまち。この2つは売り場の真ん中で、どっしり腕組みしているような風格だ。値札を見ると、5キロ4000円台。平年の倍近い値段でも、眉ひとつ動かさない。「値下がり? ああ、あれはブレンド米の話でしょ」と、どっこい知らん顔である。一方、ブレンド米。こちらは売り場の手前で、ヤケクソ気味に値札をぶら下げている。「3000円割れたぞー」「特売だぞー」と、もってけドロボー風の声が聞こえてきそうだ。味も香りも控えめで、値段も下がりやすい。ちょっと需給が緩むと、すぐに値崩れしてしまう。「わたしら、代わりはいくらでもいますから……」とでも言っているようで、なんだか健気でもある。
しかし、ここで問題なのは、メディアがこの「2種類の米」をひとまとめにして報じてしまうことだ。「在庫が増えた」「米価が下がった」——いや、それはブレンド米の話であって、ブランド米はどっこい知らん顔である。そもそも米価というのは、在庫で決まるのではない。需要より供給が多ければ下がり、供給より重要が多ければ上がる。在庫はその「結果」であって「原因」ではない。ところがニュースは、在庫を原因のように扱う。「在庫が増えたから値下がりした」——いやいや、逆である。供給が多いから在庫が増え、値段が下がるのだ。
ブランド米は味が違う。香りが違う。粘りが違う。だから需要が減らない。だから値段も下がらない。だから在庫も増えない。だから業界がどれだけ騒いでも、知らん顔である。そして、ここで私は叫びたくなる。「わしは安いコシヒカリの熱々ご飯が欲しいのだ!」湯気の立つ白いご飯を、茶碗にこんもりよそって、そこに梅干しを1つ置いて、「うむ、これぞ日本の朝だ」と言いたい。しかし現実はどうだ。ブランド米は4000円台で仁王立ち。値下がりの気配など、どこにもない。
さらに言えば、「ブランド米をもっと植え付ければいいじゃないか」と思うのだが、これができない。なぜなら、もう苗床ができてしまっているからだ。米というのは、2〜3月に苗を作り、4〜5月に田植えをする。つまり、今さら「ブランド米を増やせ」と言っても、もう遅い。今年の供給はすでに決まっている。増やしたくても増やせない。この「供給の硬直性」こそが、ブランド米の値段を支えている。
米売り場を歩いていると、ブレンド米が「わたし、値下げしました……」としょんぼりしている横で、ブランド米が「人生塞翁が馬」とでも言いたげな顔をしている。同じ米袋なのに、こうも態度が違うのかと感心してしまう。結局のところ、今回の「米価下落騒動」は、「米が下がった」のではなく、「ブレンド米が下がった」だけの話である。ブランド米はどっこい知らん顔で、4000円近辺にどっしり腰を据えている。そして、在庫ばかりを報じて需給メカニズムを説明しないメディアこそ、この騒動のいちばんの「混乱の元凶」なのだ。
特にブランド米。コシヒカリ、あきたこまち。この2つは売り場の真ん中で、どっしり腕組みしているような風格だ。値札を見ると、5キロ4000円台。平年の倍近い値段でも、眉ひとつ動かさない。「値下がり? ああ、あれはブレンド米の話でしょ」と、どっこい知らん顔である。一方、ブレンド米。こちらは売り場の手前で、ヤケクソ気味に値札をぶら下げている。「3000円割れたぞー」「特売だぞー」と、もってけドロボー風の声が聞こえてきそうだ。味も香りも控えめで、値段も下がりやすい。ちょっと需給が緩むと、すぐに値崩れしてしまう。「わたしら、代わりはいくらでもいますから……」とでも言っているようで、なんだか健気でもある。
しかし、ここで問題なのは、メディアがこの「2種類の米」をひとまとめにして報じてしまうことだ。「在庫が増えた」「米価が下がった」——いや、それはブレンド米の話であって、ブランド米はどっこい知らん顔である。そもそも米価というのは、在庫で決まるのではない。需要より供給が多ければ下がり、供給より重要が多ければ上がる。在庫はその「結果」であって「原因」ではない。ところがニュースは、在庫を原因のように扱う。「在庫が増えたから値下がりした」——いやいや、逆である。供給が多いから在庫が増え、値段が下がるのだ。
ブランド米は味が違う。香りが違う。粘りが違う。だから需要が減らない。だから値段も下がらない。だから在庫も増えない。だから業界がどれだけ騒いでも、知らん顔である。そして、ここで私は叫びたくなる。「わしは安いコシヒカリの熱々ご飯が欲しいのだ!」湯気の立つ白いご飯を、茶碗にこんもりよそって、そこに梅干しを1つ置いて、「うむ、これぞ日本の朝だ」と言いたい。しかし現実はどうだ。ブランド米は4000円台で仁王立ち。値下がりの気配など、どこにもない。
さらに言えば、「ブランド米をもっと植え付ければいいじゃないか」と思うのだが、これができない。なぜなら、もう苗床ができてしまっているからだ。米というのは、2〜3月に苗を作り、4〜5月に田植えをする。つまり、今さら「ブランド米を増やせ」と言っても、もう遅い。今年の供給はすでに決まっている。増やしたくても増やせない。この「供給の硬直性」こそが、ブランド米の値段を支えている。
米売り場を歩いていると、ブレンド米が「わたし、値下げしました……」としょんぼりしている横で、ブランド米が「人生塞翁が馬」とでも言いたげな顔をしている。同じ米袋なのに、こうも態度が違うのかと感心してしまう。結局のところ、今回の「米価下落騒動」は、「米が下がった」のではなく、「ブレンド米が下がった」だけの話である。ブランド米はどっこい知らん顔で、4000円近辺にどっしり腰を据えている。そして、在庫ばかりを報じて需給メカニズムを説明しないメディアこそ、この騒動のいちばんの「混乱の元凶」なのだ。
消費税0%議論の欺瞞 ― 2026年04月16日
食料品消費税0%――国民生活を救うはずの政策が、いまや官庁・業界・政治の“三者同調”によって、意図的に出口の見えない迷路へ押し込められている。物価高で家計が限界に達しているにもかかわらず、政府は「国民のため」と繰り返しながら、実務の場ではレジメーカーの「0%対応には1年を要する」という説明を、まるで“免罪符”のように掲げ、実施先送りの口実にしている。だが、この「1年必要論」の中身を見てみると、話は驚くほど単純だ。いまのレジや会計システムは、「商品の価格に何%の税金をかけるか」を前提に作られている。そのため、税率が0%になると、「そもそも税金をかけない」という扱いになり、普段とは違う特別な処理が必要になる。それだけの違いである。
一方、税率が1%であれば仕組みは変わらない。これまでの軽減税率と同じやり方で処理できるため、大がかりな改修は不要だ。レシートの表示や返品時の計算も、いまの仕組みの延長で対応できる。つまり問題の本質は、技術の難しさではなく、「例外的な処理を増やしたくない」という都合に過ぎない。ここから導かれる答えは明快だ。0%にこだわって1年待つのではなく、半年で実現できる1%に切り替え、その代わり減税期間を24カ月から26カ月へ延ばせばよい。これだけで導入は前倒しされ、家計への支援は早く届き、総減税の効果もほぼ変わらない。理想にこだわって時間を失うより、現実に動く仕組みで早く効かせる方が合理的である。
では、なぜこれほど単純な解決策が議論に上らないのか。理由は難しくない。関係者それぞれに「遅らせるほど得をする事情」があるからだ。財務当局は税収の減少を一度に受けることを避けたい。業界は改修の負担を理由に補助金の拡大を引き出せる。政治は「調整」を名目に時間を確保できる。こうして、「急がない方が都合がいい」という空気が、自然と共有されていく。さらに見逃せないのが、政策の“すり替え”である。減税が難しいとなれば、代わりに給付や税額控除へと議論が移る。しかし、税額控除は年に1回の精算が基本で、日々の買い物で負担が軽くなったと実感しにくい。給付も一時的には助けになるが、継続的に支出を下支えする効果は弱い。レジで支払うたびに負担が軽くなる消費減税とは、効き方そのものが違う。
にもかかわらず、議論は「財源か、技術か」といった分かりやすい対立に押し込められ、本来問うべき「どの方法が最も早く生活を楽にするのか」という視点は置き去りにされている。ゼロか100かという極端な議論にすり替えられ、現実的な中間案は表に出てこない。必要なのは、理念の正しさを競うことではない。どれだけ早く、確実に生活を支えられるかという視点だ。半年で動く1%、そして26カ月の減税期間――それで十分である。それを示さない、あるいは示せないことこそ、この国の政策決定に横たわる“見えない合意”を物語っている。
一方、税率が1%であれば仕組みは変わらない。これまでの軽減税率と同じやり方で処理できるため、大がかりな改修は不要だ。レシートの表示や返品時の計算も、いまの仕組みの延長で対応できる。つまり問題の本質は、技術の難しさではなく、「例外的な処理を増やしたくない」という都合に過ぎない。ここから導かれる答えは明快だ。0%にこだわって1年待つのではなく、半年で実現できる1%に切り替え、その代わり減税期間を24カ月から26カ月へ延ばせばよい。これだけで導入は前倒しされ、家計への支援は早く届き、総減税の効果もほぼ変わらない。理想にこだわって時間を失うより、現実に動く仕組みで早く効かせる方が合理的である。
では、なぜこれほど単純な解決策が議論に上らないのか。理由は難しくない。関係者それぞれに「遅らせるほど得をする事情」があるからだ。財務当局は税収の減少を一度に受けることを避けたい。業界は改修の負担を理由に補助金の拡大を引き出せる。政治は「調整」を名目に時間を確保できる。こうして、「急がない方が都合がいい」という空気が、自然と共有されていく。さらに見逃せないのが、政策の“すり替え”である。減税が難しいとなれば、代わりに給付や税額控除へと議論が移る。しかし、税額控除は年に1回の精算が基本で、日々の買い物で負担が軽くなったと実感しにくい。給付も一時的には助けになるが、継続的に支出を下支えする効果は弱い。レジで支払うたびに負担が軽くなる消費減税とは、効き方そのものが違う。
にもかかわらず、議論は「財源か、技術か」といった分かりやすい対立に押し込められ、本来問うべき「どの方法が最も早く生活を楽にするのか」という視点は置き去りにされている。ゼロか100かという極端な議論にすり替えられ、現実的な中間案は表に出てこない。必要なのは、理念の正しさを競うことではない。どれだけ早く、確実に生活を支えられるかという視点だ。半年で動く1%、そして26カ月の減税期間――それで十分である。それを示さない、あるいは示せないことこそ、この国の政策決定に横たわる“見えない合意”を物語っている。