沈黙の艦隊・北極海大海戦2025年10月17日

沈黙の艦隊・北極海大海戦
映画『沈黙の艦隊』シリーズ第2作は、いわば“潜水艦界のマーベル”。原作ファンならお待ちかねの「北極海大海戦」と「やまと選挙」を、映画とドラマを跨いでようやくスクリーンに浮上させた。監督は前作に続き吉野耕平。主演・大沢たかおの海江田四郎はますます“海の総理”らしく貫禄を増し、上戸彩、江口洋介のほか、津田健次郎ら新顔も加わる。潜水艦の密室ドラマと政界の密室政治が並走する構成は、まさに「水と油のハイブリッド」である。

物語は、東京湾大海戦を制した海江田が国連総会に出席するためニューヨークへ向かうという、いきなり国際政治のど真ん中へ突入する展開。北極海で米原潜との死闘が繰り広げられ、日本では竹上首相が〈やまと〉支持を表明して衆院選へ――と、もはや「沈黙」している暇などない。サブタイトルを付けるなら『喋りすぎの艦隊』だ。ただし、映画単体で観ると導入がやや不親切。前作映画とドラマ版の記憶がないと、「え?これ誰の艦?何と戦ってるの?」と混乱する。おそらくAmazonは“ドラマ既視聴者”を前提にしているのだろう。その強気ぶりは潜水艦よりも沈まない。

海戦シーンは、氷山の下を潜り抜ける描写が息をのむほどリアル。氷塊が艦をかすめる音に、思わずポップコーンを握り潰した観客もいるだろう。一方で艦橋シーンの合成はやや“冷凍食品感”が漂い、映像の温度差が惜しい。VFX技術は進歩しているのに、なぜか照明と質感で昭和の戦争映画っぽさが顔を出す。だがこのアンバランスさも、シリーズの味といえば味か。

一方の「やまと選挙」編は、政治ドラマとして妙にリアル。〈やまと〉派2勢力と旧来の左右政党がぶつかり合い、テレビ報道が各党に“トロッコ問題”を答えさせる――このシーン、どこかで見たような気がすると思ったら、最近の日本政治そのものだ。政策論争よりも“踏み絵ショー”のようなメディア演出。まさか漫画原作のほうが現実より真面目に民主主義を描いているとは。

興味深いのは、〈やまと〉派新党の大滝代表が唱える「やまと保険」構想。独立戦闘国家〈やまと〉を“世界平和の保険会社”にしようという発想だ。軍事力で脅しておきながら「安心してください、侵略行為がないなら撃ちませんよ。ただし掛け金は払ってね」と言っているようなもの。海江田もこれを了承し、〈やまと〉が“核抑止の請負人”として世界の安全保障を担う――という筋書きは、まるでJICAと無国籍テロを足して2で割ったような壮大さである。

もちろんツッコミどころは山ほどある。ニューヨーク沖で米大西洋艦隊と単艦で対峙するくだりは、もはや潜水艦版『トップガン:マーベリック』。雨のように降り注ぐ魚雷を避け、ロックオンをソナーで知らせ「お前はもう沈んでいる」と威嚇する海江田は、潜水艦の中のトム・クルーズか北斗の拳か。兵器性能と物理法則、国際法も置き去りにした男のロマンである。だが、そんな荒唐無稽を真正面からやりきる潔さに、日本映画の元気を感じる。

物語は「つづく」で幕を閉じる。思わず「またアマプラで続きをやる気だな」と笑ってしまうが、次章を観ずにはいられない。海江田の“沈黙”が、いまやAmazonのドル箱として再浮上したことは皮肉だが、ここまでやるなら最後まで付き合いたくもなる。現実離れしているのに、どこか現実を突いてくる――。それが『沈黙の艦隊』という怪物シリーズの本質だ。日本が“沈黙する国”をやめる日は来るのか? 答えは海の底で、次回作が教えてくれるはずだ。

『鬼滅の刃』無限城編2025年09月19日

『鬼滅の刃』無限城編
とうとう映画のネタも尽き、暇つぶしに観られる実写映画がなくなってしまった。残されたのはアニメ映画だけ。仕方なく(?)選んだのは「劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座(あかざ)再来」。結果から言えば、やっぱりすごかった。公開から60日で観客動員数2304万人、興行収入330億円を突破し、国内歴代2位の記録を叩き出したのだという。あの「無限列車編」が社会現象級の大ヒットだったが、今作もそれに続く勢い。迫力ある戦闘シーンと完成度の高さが高く評価され、海外でも125か国で公開され、観客数は累計3196万人、興収349億円。もはや世界規模で「国民的作品」と言ってもいいのだろう。専門家によれば、普遍的なテーマである「正義は必ず勝つ」が国境を越えて共感を呼び、この地位を確固たるものにしたという。

比較として挙げられるのが「国宝」。こちらも102日間のロングラン上映で大ヒットと話題になったが、観客動員1000万人、興収142億円と、『鬼滅』の半分にも届かない。しかも鬼滅は前作が歴代1位、今作が歴代2位というのだから、その破壊力は桁違いだ。それにしても、ここ数年の日本アニメの技術的進歩には目を見張るものがある。今回も戦闘シーンで巻き上げる砂埃が「これ実写じゃないのか?」と思うほどリアルで驚かされた。物語の中心は、前作で煉獄を破った上弦の参・猗窩座と炭治郎の死闘。首を切っても頭が再生し、なかなか死なない猗窩座。だがクライマックスで彼は人間だったころの愛を思い出し、再生力を失って力尽きる――そんな展開だった。正直、少し拍子抜けの最期に感じたのも事実だ。

上映時間は155分。トイレタイムぎりぎりで、中座せずに最後まで観られたのは幸運だった。「無限城編 第一章」というタイトルから察するに、ナンバー1の鬼を倒すまでにあと2作、そして最終的に鬼舞辻無惨を討つまでにはあと3作くらい必要になるのだろう。ファンにとっては楽しみが続くが、こちらとしては「どうか上映時間はトイレを気にしなくて済む2時間以内に収めてほしい」と心の底から願うばかりだ。

TOKYO MER 南海ミッション2025年09月16日

TOKYO MER 南海ミッション
今日は特に予定もなく、なんとなく映画でも観ようかと『TOKYO MER 南海ミッション』を観に行くことにした。正直、観たい作品があるわけでもなく、完全に暇つぶし。シネコンは連休最終日ということもあって、家族連れで賑わっていた。この映画は大人向けの内容だが、親の希望なのか、小さな子どもを連れて来ている人もちらほら。案の定、後ろの席の子どもが途中で飽きて、ドラマの緊迫した場面で突然歌い出す。迷惑だなと思いつつも、日々子育てに奮闘している保護者の苦労を思えば、少し我慢する気にもなった。映画の内容は、劇場版『TOKYO MER 走る緊急救命室』の続編で、今回は、離島対応を目的とした「南海MER」が沖縄・鹿児島で試験運用されるという設定。半年間出動要請がなく廃止寸前だったが、鹿児島県の諏訪之瀬島で火山が噴火し、ついに出動が決定。ヘリによる救助は噴煙で不可能、海上自衛隊や海上保安庁の到着も間に合わない中、南海MERが島に取り残された79人の命を救うべく奮闘するというストーリー。主演の鈴木亮平に加え、江口洋介、高杉真宙、生見愛瑠、宮澤エマらが新キャストとして登場。さらに、島民を救う漁師役で玉山鉄二も出演しており、命を懸けた医療ドラマが展開された。

物語の展開は、まさにパニックドラマの王道。MERの危機に対して、離島の漁師たちが船団を組んで救援に駆けつけるという“ドラマあるある”な展開だ。こうした描写に弱い自分は、今回も例外なく胸を打たれてしまった。『ゴジラ-1.0』でも、名もなき人々が力を合わせて立ち向かう場面に心を動かされたが、やはりこういう描写にはぐっと来るものがある。特に印象的だったのは、南海の無医村を巡回する医師に対する島民の深い信頼と愛着。瀕死の状態に陥った医師を、島民たちが力を合わせて救おうとする姿には、思わず涙がこぼれた。こうしたストレートな描き方は、時に単純に見えるかもしれないが、だからこそ心に響く。物語は、複雑さよりも真っすぐさが大切だと改めて感じた。

監督を務めたのは松木彩。2011年にTBSテレビへ入社し、バラエティ制作部を経て現在はドラマ制作部に所属。『下町ロケット』(2015年)、『カルテット』『陸王』(ともに2017年)で助監督を務めた後、『わにとかげぎす』(2017年)で演出デビュー。以降、『テセウスの船』『半沢直樹』(ともに2020年)などの話題作を担当し、確かな演出力と物語構築力で注目を集めて「TOKYO MER〜走る緊急救命室〜(2021年)」ドラマ演出を経て2023年劇場版で初監督。最近では女性監督も珍しくなくなったが、松木監督はその中でも異色の存在かもしれない。次回作は東京直下型地震をテーマにした作品になるという。災害と医療、そして人間ドラマをどう描くのか――その手腕を期待したい。

ジュラシック・ワールド新作2025年08月22日

ジュラシック・ワールド/復活の大地
『ジュラシック・ワールド/復活の大地』は、人類と恐竜が共存する“ポスト恐竜時代”を描いたシリーズ最新作。物語の核は、恐竜の遺伝子を医療研究に応用するという大胆な発想だ。「世界の医療のために」という大義が掲げられ、科学が人類を救う希望として描かれる。だが、思い出されるのは93年の第1作『ジュラシック・パーク』。あの作品は「生命は人間の思い通りにはならない」と突きつけ、嵐と人為的ミスでテーマパークは崩壊。恐竜たちは自然の猛威そのものとして観客の前に立ちはだかった。そのシンプルさこそが、恐竜映画の醍醐味だった。

本作でまず興ざめなのは、ティラノサウルスやヴェロキラプトルに加え登場する“キメラ恐竜”。未知の生物の迫力ではなく、合成怪獣のインフレ競争に見えてしまう瞬間がある。自然の圧倒感が魅力の恐竜映画で、人工的な怪物ショーに偏るのは少々残念だ。さらにもう一つの興ざめは、吹替版のゾーラ役・松本若菜の芝居だ。発声は力強いが感情の揺れが薄く、場面の緊迫感に水を差す。声の印象がキャラクターよりも“松本本人”を強く連想させ、しかもつい『ドクター阿修羅』を思い出してしまうのはいただけない。没入感が命の恐竜映画で、ここは致命的なミスと言える。

とはいえ、登場人物たちが最終的に選んだのは、巨大資本の利益ではなく「誰もが享受できる医療」を目指す道。その選択は、シリーズの混乱を経てようやく見えた人間らしい良心の証であり、観客としてもホッとできる結末だ。結局、『復活の大地』が投げかけるのは恐竜の暴れっぷりよりも、「科学をどう使うか」という問いだ。原点回帰のようで迷走もある――そんな複雑さこそ、シリーズがまだ終われない理由なのかもしれない。

そして、映画館で目にした『沈黙の艦隊2』のポスター。前作で東京湾を脱出した原子力潜水艦〈やまと〉が、今度は北極海で米軍の最新鋭原潜と激突するという。ジュラシックで「え、なんでキメラ?」と首を傾げた後なら、こちらの単純明快な潜水艦バトルのほうが、科学と倫理の迷走に疲れた観客には実にスカッとくる。次はこっちで決まり、というわけだ。

兄やんの声が沁みる2025年08月19日

『花まんま』
人は、愛する人を思い続けることで、時を超えて生きていけるのかもしれない。映画『花まんま』は、輪廻転生という設定を借りながら、描いているのはその問いに対する静かな答えだ。舞台は東大阪。河内弁が飛び交う町で、兄・俊樹(鈴木亮平)は妹・フミ子(有村架純)を守るという亡き父との約束を胸に生きてきた。妹の結婚を機に安堵する俊樹だったが、フミ子が幼少期から抱えていた“別の女性の記憶”が再び浮上する。この作品が際立つのは、輪廻転生という非現実的な設定を、物語の中心に据えるのではなく、兄妹と二つの親子の絆を照らすための装置として扱っている点だ。生まれ変わりの記憶は、過去の人生を語るためではなく、今の関係性を深く掘り下げるためにある。俊樹とフミ子の間に流れる沈黙や、言葉にならない感情の往復が、観る者の胸にじわじわと染みてくる。

構成面でも、時間軸の設計が秀逸だ。物語は現在の兄妹の関係を軸に進みながら、フミ子の記憶を通じて過去の人生が断片的に挿入される。回想ではなく“記憶の再生”として描かれることで、過去と現在が並列に存在するような感覚が生まれ、観客は「今ここにある絆」が、実は時間を超えて織り上げられてきたものだと気づかされる。転生という設定が、情の継承として機能している。

そして何より、言語のリアリティが抜群だ。河内弁が自然に使われるだけでなく、「兄やん」「〜してはる」といった言葉が、登場人物の距離感や情の深さを的確に表現する。関西出身の俳優陣──兵庫出身の鈴木亮平と有村架純、大阪出身のファーストサマーウイカ──が主役を固めていることで、関西人でも違和感なく没入できる。変なアクセントで集中を削がれる心配は皆無だ。この点で思い出すのが、テレビドラマ『能面検事』。観月ありさの関西弁は、イントネーションも語彙も不自然で、関西人には「この人、どこ出身やねん」とツッコミたくなるレベル。テレビドラマは制作スピードや放送頻度の制約があるため、多少の言語的破綻は目をつぶれるが、映画は違う。2時間という限られた時間に完成度を凝縮する必要がある。アクセントが外れていれば、それだけで物語の信頼性が崩れる。

『花まんま』は、誰かを思い続けることの切なさと、言葉にできない情の深さを、静かに、しかし確かに描いている。兄やんの声が沁みるのは、そこに理屈ではなく、時間を超えて積み重ねられた想いがあるからだ。転生という設定を借りながらも、描かれているのは「今も変わらず、愛する人を思っている」という感情そのもの。観終えたあと、誰かの名前を心の中で呼びたくなる。そんな映画だった。

MIファイナル・レコニング2025年06月19日

MIファイナル・レコニング
洋画といえば、アクションものの「ミッション:インポッシブル(MI)」は欠かさず見ている。今回の上映時間はほぼ3時間。トイレが持つかと心配したが、圧倒的なアクションに引き付けられ、事なきを得た。イラン・イスラエル間で緊張が高まる今、現実の核兵器開発問題が報じられていることもあり、作中のスケール感に不思議なリアリティを感じた。最後の試練は、ロシアが開発したAIの暴走を利用して核戦争へ導こうとする野望を阻止するという、前作からの続きである。シリーズ全体の伏線を回収するような筋書きになっており、過去作の流れを覚えていれば、もっと楽しめたかもしれない。1996年から続くスパイアクション「ミッション:インポッシブル」シリーズの第8作である今回は、前作『デッドレコニング』との2部作であり、イーサン・ハントの過去や運命に迫る物語だ。世界の命運を握る鍵を手にしたイーサンが、壮大な任務に挑む姿を描いており、トム・クルーズ自らが挑む空中スタントも見どころ。サイモン・ペッグやヴィング・レイムスらおなじみの仲間に加え、ヘイリー・アトウェルら前作の新キャストも続投。監督はシリーズ常連のクリストファー・マッカリーが担当している。まさにシリーズの集大成とも言える作品だ。トム・クルーズは30年間この作品に取り組んでいるが、映画の中での彼の肉体は衰えを知らない。ただ、首筋の老化はさすがに隠せず、62歳なのだとあらためて思い知らされた。22歳のとき『トップガン』で一躍有名になり、28歳からこの作品に取り組んできた彼のバイタリティは本当にすごい。

当時、スパイものといえば007シリーズが圧倒的な人気を誇っていたが、「ミッション:インポッシブル」がそのお株を奪った感がある。「ミッション:インポッシブル」と「007」シリーズの違いは、両者のスパイ像や演出スタイルに、ヨーロピアンスタイルとアメリカンスタイルの違いが見て取れる。007シリーズは、英国MI6のエリートスパイであるジェームズ・ボンドが主人公。スタイリッシュなスーツ姿、高級車やガジェット、単独行動が特徴であり、任務は上司との対面で伝えられる。一方、「ミッション:インポッシブル」は、アメリカの極秘組織IMF(Impossible Mission Force)に所属するイーサン・ハントが主人公。チームでの連携、リアルなアクション、そしてトム・クルーズ本人によるスタントが魅力である。任務は「このメッセージは5秒後に消滅する」という名セリフとともに伝えられる。

007が「英国紳士の孤高のスパイ」だとすれば、MIは「命知らずのチーム型スパイ」。それぞれに異なる魅力がある。ちなみに、MI6は実在する組織だが、IMFはCIAの下部組織という設定であり、任務は「政府が関与を否定できる」レベルの極秘作戦ばかり。指令の「このメッセージは5秒後に消滅する」というセリフは、1960年代のテレビドラマ『スパイ大作戦』から続いている。そして、あの定番のテーマ曲が流れると、今でもわくわくしてしまうのは、ずっと変わらずこの映画の最大の魅力のひとつだ。たぶんこれでシリーズは幕を閉じるのだろう。あまり長々とやってもインディージョーンズの二の舞になるのでここらで余韻を残して終了するのが良いかもしれない。トムお疲れさまでした。

ストロー: 絶望の淵で2025年06月16日

ストロー: 絶望の淵で
『ストロー:絶望の淵で』は、今週Netflix映画部門で第4位にランクイン。物語は、病気の娘を抱えるシングルマザーの過酷な1日を描く。彼女のもとに次々と悲劇が押し寄せ、たった数時間のうちに、生活は音を立てて崩れ去ってゆく。孤立した社会の中で、限界まで追いつめられた彼女は、誰も助けてくれない現実の前に、絶望的な選択を強いられる。終盤のどんでん返しは胸が痛むほど悲惨で、観る者に重い余韻を残す。アメリカに根づく貧困の連鎖と、その構造的な残酷さが鮮明に浮かび上がる一方で、物語の展開はあまりに不運の連続。思わず「そんなことある?」と突っ込まずにはいられないほど、ベタな脚本展開が目立つ。主人公の周囲には、上司も大家も怒鳴るばかりで、まるで怒りの人間見本市。一方の彼女も口下手で衝動的。ADHDを彷彿とさせるような言動もあり、不器用な生きづらさがにじみ出る。その“ベタな不幸”に、逆に引き込まれてしまうのは、そこにリアリティを感じてしまうからなのかもしれない。

作中、唯一彼女に寄り添おうとするのは、母子家庭で育った黒人女性刑事と、黒人の銀行支店長。彼らは偏見にとらわれず、彼女の行動の背景を理解しようと努める。対照的に、白人と警察は終始差別的に描かれており、これは反DEIへの風刺とも読めるが、やや一面的な印象は否めない。クライマックスでは、銀行に立てこもった彼女を、行員がスマホで密かにライブ配信。その映像が広まり、彼女の苦悩に市民が共感し、銀行前にデモが発生という流れもやや都合が良すぎる展開だが、娘の給食費と家賃を払うために、週払い7万円の給料を受け取りに来ただけの行動がすべての引き金だったという切なさに、市民の同情が集まるのも無理はない。

さらに、不当な解雇を言い渡された彼女が、偶然店長室に押し入った強盗の銃を奪って射殺。その後、彼女を共犯と誤解して通報しようとした上司をも撃ち殺す。血まみれの小切手を片手に銃を携えて銀行へ向かう彼女の姿を、観客は“滑稽”と笑うか、“極限まで追い詰められた母”として心を寄せるかで、大きく評価が分かれるだろう。貧困が人間の尊厳をいかに奪うかを容赦なく突きつける本作は、不器用で過剰な演出の中にも、確かに心をえぐるような真実が宿っている。

映画「教皇選挙」2025年05月15日

映画「教皇選挙」
映画『教皇選挙(コンクラーベ)』をようやく観てきた。実際の教皇選挙の後だったこともあり、興味深く鑑賞できた。ただ、対話シーンが延々と続き、英語の中に時折イタリア語・スペイン語・ラテン語が混じるため、字幕を追う頻度が高くなり、集中しづらかった。爆破テロによって礼拝堂の窓が吹き飛ぶシーンがなければ、疲れて寝てしまっていたかもしれない。映画は、ローマ教皇の死去を受けて、世界中の枢機卿たちがバチカンのシスティーナ礼拝堂に集い、新教皇を選出する極秘選挙「コンクラーベ」の内幕を描いたミステリードラマである。外部から完全に遮断された環境下で、投票が進むたびに情勢が激変し、聖職者たちが政治家のように権力闘争を繰り広げる。スキャンダルや陰謀が渦巻く中、信仰と組織、伝統と変革のはざまで葛藤する枢機卿たちの姿を通じて、現代社会の分断や人間の本質を浮き彫りにしていく。「密室のベールに包まれた選挙戦の行方と予測不能なサプライズが見どころ」との触れ込みだったが、要するに宗教の世界も政治と同じく、人間の営みである以上、権力闘争は避けられないということを描いている。

教皇選挙は、80歳未満の枢機卿(各地区代表)がシスティーナ礼拝堂に集まり、秘密投票を行う。3分の2以上の票を得た候補が現れるまで、1日に4回の選挙が繰り返される。結果は礼拝堂の煙突から出る煙の色で市民に伝えられ、黒煙は未決定、白煙は決定を意味する。選ばれた枢機卿が教皇の座を受諾すると、「Habemus Papam(ラテン語で“新教皇が誕生した”)」と発表される。映画の展開では、当初は黒人教皇の誕生が有力視されていたが、彼の不倫歴と隠し子の存在が発覚し支持を失う。次の候補である中間派の枢機卿も票の買収を行っていたことが明るみに出て失脚。爆破テロ騒動の混乱の中、保守派の枢機卿は「世界的リベラル運動は神をも恐れぬ」と煽り立てて支持を集めようとする。しかし、聖職者でありながら政治家のような熾烈な駆け引きが展開される中、戦場地域を巡回してきた無名のアフガニスタン出身の枢機卿が「我々は神の子だ」と正論を述べ、圧倒的な支持を得て新教皇に選出される。だが、最後にその新教皇がインターセックスの男性であったことが明かされ、幕が下りる。

どこか、今回のレオ14世誕生の教皇選挙とも似た展開だったので驚いた。脚本はピーター・ストローハンが手がけ、ロバート・ハリスの小説『Conclave』(2016年発表)を原作に脚色されたという。今回の実際の教皇選挙でも、当初は地元バチカンの枢機卿が優位と見られていたが、フランシスコ前教皇と同様にリベラル路線で、中国政府との距離が近すぎるとの批判が高まり、失速したとされる。中国ではカトリック司教の選出に政府の影響が強く、2018年にバチカンと中国政府の間で暫定合意が結ばれ、中国側が候補を選び、バチカンが承認するという枠組みができた。中国政府は国内のカトリック教会の統制を強化し、地下教会への弾圧も続けている。司教の選出には共産党支持者が選ばれる傾向があるという。この状況を容認してきたのが、フランシスコ前教皇および今回のバチカンの枢機卿とされる。一方、レオ14世教皇はシカゴ出身で、南米の貧困層を支えてきた実績が評価され、白羽の矢が立ったという。もちろん映画の脚本は昨年以前に完成していたわけだが、ストローハンの先見の明には驚嘆せざるを得ない。

「白雪姫」映画165億赤字2025年05月06日

実写版「白雪姫」映画165億赤字
ディズニーの実写版『白雪姫』が、大きな赤字を出す見込みだという。報道によれば、その額は約1億1500万ドル(日本円で約165億円)。日本でも、大型連休を待たずに上映終了する映画館が出てくるなど、興行成績はかなり厳しい。ここまで振るわない理由は何なのか? もちろん、一因では済まない。だが、やはり最大の要因は「観客が感じた違和感」だろう。白雪姫といえば、誰もが思い浮かべるのは、あの「雪のように白い肌の少女」。このキャラクターを、ラテン系アメリカ人のレイチェル・ゼグラーさんが演じた時点で、「え?」と感じた人は少なくなかったはずだ。しかも、ゼグラーさんはインタビューで「王子に助けられるなんてナンセンス」と語るなど、古典的なプリンセス像を否定する発言をしていた。フェミニズム的視点としては理解できるが、ディズニーアニメの原作イメージを愛してきた人たちにとっては、これもまた“ズレ”だった。SNSなどでは、「DEI(多様性・公平性・包括性)を優先しすぎて、ファンの感情が置き去りにされたのでは?」という声が目立つ。確かに、今のディズニーはDEI路線を前面に出しており、今回のキャスティングもその一環と見る向きは多い。

もちろん、DEIの理念自体に異論があるわけではない。年齢・性別・人種などに関係なく、誰もが活躍できる社会を目指すことは大切だ。ただ、それをエンタメに過剰に持ち込むと、「物語の自然さ」や「観客の没入感」を損なうリスクがあるのも事実。これは、文化的な“空気”の問題でもある。たとえば、関西が舞台の映画で、関東出身の俳優がなんちゃって関西弁を話していたらどう感じるか? 全国的には気にならなくても、関西の人にはどうしても「違和感」が残る。ディテールの違和感は、積み重なると物語そのものに入り込めなくなる。

「白雪姫=白い肌の少女」というイメージは、多くの人にとって“共有された前提”だった。それを変えるなら、それ相応の物語的な説得力が必要だったのではないか。単に「多様性だから」とキャストを変えただけでは、逆に反発を招くのも当然だろう。今後も映画界にDEIの流れが続くかもしれない。ただし、「誰のための多様性か?」という問いは、常に付いて回る。大事なのは、理念の押し付けではなく、作品世界の中で自然に、説得力をもって受け入れられる形にすること。『白雪姫』の興行不振を「トランプ派の陰謀」や「政治的対立のせい」にしたがる人もいるが、そこまで話を飛ばす必要はない。もっとシンプルに、「観客が物語に共感できなかった」。それがすべてではないだろうか。

新幹線大爆破2025年04月28日

新幹線大爆破
1975年に東映が制作した『新幹線大爆破』が、現代版として『シン・ゴジラ』の樋口真嗣監督によって、Netflixでリメイクされた。本作の物語は、新青森から東京へ向かう新幹線「はやぶさ60号」に仕掛けられた爆弾を巡る。爆弾は時速100キロを下回ると爆発する仕組みとなっており、車掌をはじめとする乗務員たちが乗客を守るために奮闘する。犯人は1000億円を要求し、鉄道会社、政府、警察をも巻き込んだ攻防戦が展開される。主人公・高市役を草彅剛が演じ、細田佳央太、のん、尾野真千子、斎藤工など、人気俳優たちが出演。撮影にはJR東日本の特別協力を得て、実際の新幹線車両や施設が使用された。1975年の東映版では、新幹線爆破という設定が国鉄(当時)のイメージダウンにつながる懸念から、国鉄の協力を一切得られなかったという。東映版は高倉健をはじめ有名俳優を多数起用し、5億円以上(現在の貨幣価値に換算して約10~20億円)を投じて制作されたが、日本国内ではヒットせず、むしろ海外で高い評価を受けた。今回のリメイクでは、製作費は20億円では足りなかっただろうと推測されている。犯人役が東映版では大御所・高倉健だったのに対し、今回は新人女優が起用された点には不満も残る。しかし、新幹線爆破とそれに対抗するギミックを、VFXを駆使してふんだんに描いた本作は、鉄道ファンにも満足できる内容となっていた。

東映版もNetflixで配信されていたため視聴した。この映画に限らず、昭和時代の邦画は俳優のセリフが一本調子に感じられ、耳についてしまう。当時の録音技術では小さな声を拾うのが難しかったため、セリフから細やかな感情を読み取ることが難しく、サスペンスものには不向きだったのかもしれない。新幹線の車両切り離しは、Netflix版の大きな見どころとなっている。東映版のほうでは車両の切り離しは設計上あり得ないと否定していたが、つい最近、新幹線の運転車両同士の切り離し事故が2度もあったわけだから車両の切り離しは技術的には不可能ではないのだろう。東映版では、車両下の爆弾起爆コードを切断することで危機を乗り越えるが、Netflix版では線路の切り替え操作によって爆弾車両を物理的に切り離す、ド派手なアクションシーンに仕上げられている。東映版は、孤高の存在となった高倉健演じる主人公が、クライマックスで撃たれるまでを丁寧に描き、人間ドラマを重視した印象だ。ただし、昭和映画では警官がやたらと発砲するシーンが多く、爆弾犯一味の山本圭も逃走中にかなり遠距離から足を撃たれる場面があるが、「そう簡単に当たるだろうか」とツッコミたくなる。東映版は何よりも高倉健の存在感を前面に押し出し、Netflix版は新幹線アクションを前面に押し出すという違いが際立っており、それぞれの時代背景を映す作品となっていて興味深かった。