MIファイナル・レコニング ― 2025年06月19日

洋画といえば、アクションものの「ミッション:インポッシブル(MI)」は欠かさず見ている。今回の上映時間はほぼ3時間。トイレが持つかと心配したが、圧倒的なアクションに引き付けられ、事なきを得た。イラン・イスラエル間で緊張が高まる今、現実の核兵器開発問題が報じられていることもあり、作中のスケール感に不思議なリアリティを感じた。最後の試練は、ロシアが開発したAIの暴走を利用して核戦争へ導こうとする野望を阻止するという、前作からの続きである。シリーズ全体の伏線を回収するような筋書きになっており、過去作の流れを覚えていれば、もっと楽しめたかもしれない。1996年から続くスパイアクション「ミッション:インポッシブル」シリーズの第8作である今回は、前作『デッドレコニング』との2部作であり、イーサン・ハントの過去や運命に迫る物語だ。世界の命運を握る鍵を手にしたイーサンが、壮大な任務に挑む姿を描いており、トム・クルーズ自らが挑む空中スタントも見どころ。サイモン・ペッグやヴィング・レイムスらおなじみの仲間に加え、ヘイリー・アトウェルら前作の新キャストも続投。監督はシリーズ常連のクリストファー・マッカリーが担当している。まさにシリーズの集大成とも言える作品だ。トム・クルーズは30年間この作品に取り組んでいるが、映画の中での彼の肉体は衰えを知らない。ただ、首筋の老化はさすがに隠せず、62歳なのだとあらためて思い知らされた。22歳のとき『トップガン』で一躍有名になり、28歳からこの作品に取り組んできた彼のバイタリティは本当にすごい。
当時、スパイものといえば007シリーズが圧倒的な人気を誇っていたが、「ミッション:インポッシブル」がそのお株を奪った感がある。「ミッション:インポッシブル」と「007」シリーズの違いは、両者のスパイ像や演出スタイルに、ヨーロピアンスタイルとアメリカンスタイルの違いが見て取れる。007シリーズは、英国MI6のエリートスパイであるジェームズ・ボンドが主人公。スタイリッシュなスーツ姿、高級車やガジェット、単独行動が特徴であり、任務は上司との対面で伝えられる。一方、「ミッション:インポッシブル」は、アメリカの極秘組織IMF(Impossible Mission Force)に所属するイーサン・ハントが主人公。チームでの連携、リアルなアクション、そしてトム・クルーズ本人によるスタントが魅力である。任務は「このメッセージは5秒後に消滅する」という名セリフとともに伝えられる。
007が「英国紳士の孤高のスパイ」だとすれば、MIは「命知らずのチーム型スパイ」。それぞれに異なる魅力がある。ちなみに、MI6は実在する組織だが、IMFはCIAの下部組織という設定であり、任務は「政府が関与を否定できる」レベルの極秘作戦ばかり。指令の「このメッセージは5秒後に消滅する」というセリフは、1960年代のテレビドラマ『スパイ大作戦』から続いている。そして、あの定番のテーマ曲が流れると、今でもわくわくしてしまうのは、ずっと変わらずこの映画の最大の魅力のひとつだ。たぶんこれでシリーズは幕を閉じるのだろう。あまり長々とやってもインディージョーンズの二の舞になるのでここらで余韻を残して終了するのが良いかもしれない。トムお疲れさまでした。
当時、スパイものといえば007シリーズが圧倒的な人気を誇っていたが、「ミッション:インポッシブル」がそのお株を奪った感がある。「ミッション:インポッシブル」と「007」シリーズの違いは、両者のスパイ像や演出スタイルに、ヨーロピアンスタイルとアメリカンスタイルの違いが見て取れる。007シリーズは、英国MI6のエリートスパイであるジェームズ・ボンドが主人公。スタイリッシュなスーツ姿、高級車やガジェット、単独行動が特徴であり、任務は上司との対面で伝えられる。一方、「ミッション:インポッシブル」は、アメリカの極秘組織IMF(Impossible Mission Force)に所属するイーサン・ハントが主人公。チームでの連携、リアルなアクション、そしてトム・クルーズ本人によるスタントが魅力である。任務は「このメッセージは5秒後に消滅する」という名セリフとともに伝えられる。
007が「英国紳士の孤高のスパイ」だとすれば、MIは「命知らずのチーム型スパイ」。それぞれに異なる魅力がある。ちなみに、MI6は実在する組織だが、IMFはCIAの下部組織という設定であり、任務は「政府が関与を否定できる」レベルの極秘作戦ばかり。指令の「このメッセージは5秒後に消滅する」というセリフは、1960年代のテレビドラマ『スパイ大作戦』から続いている。そして、あの定番のテーマ曲が流れると、今でもわくわくしてしまうのは、ずっと変わらずこの映画の最大の魅力のひとつだ。たぶんこれでシリーズは幕を閉じるのだろう。あまり長々とやってもインディージョーンズの二の舞になるのでここらで余韻を残して終了するのが良いかもしれない。トムお疲れさまでした。
ストロー: 絶望の淵で ― 2025年06月16日

『ストロー:絶望の淵で』は、今週Netflix映画部門で第4位にランクイン。物語は、病気の娘を抱えるシングルマザーの過酷な1日を描く。彼女のもとに次々と悲劇が押し寄せ、たった数時間のうちに、生活は音を立てて崩れ去ってゆく。孤立した社会の中で、限界まで追いつめられた彼女は、誰も助けてくれない現実の前に、絶望的な選択を強いられる。終盤のどんでん返しは胸が痛むほど悲惨で、観る者に重い余韻を残す。アメリカに根づく貧困の連鎖と、その構造的な残酷さが鮮明に浮かび上がる一方で、物語の展開はあまりに不運の連続。思わず「そんなことある?」と突っ込まずにはいられないほど、ベタな脚本展開が目立つ。主人公の周囲には、上司も大家も怒鳴るばかりで、まるで怒りの人間見本市。一方の彼女も口下手で衝動的。ADHDを彷彿とさせるような言動もあり、不器用な生きづらさがにじみ出る。その“ベタな不幸”に、逆に引き込まれてしまうのは、そこにリアリティを感じてしまうからなのかもしれない。
作中、唯一彼女に寄り添おうとするのは、母子家庭で育った黒人女性刑事と、黒人の銀行支店長。彼らは偏見にとらわれず、彼女の行動の背景を理解しようと努める。対照的に、白人と警察は終始差別的に描かれており、これは反DEIへの風刺とも読めるが、やや一面的な印象は否めない。クライマックスでは、銀行に立てこもった彼女を、行員がスマホで密かにライブ配信。その映像が広まり、彼女の苦悩に市民が共感し、銀行前にデモが発生という流れもやや都合が良すぎる展開だが、娘の給食費と家賃を払うために、週払い7万円の給料を受け取りに来ただけの行動がすべての引き金だったという切なさに、市民の同情が集まるのも無理はない。
さらに、不当な解雇を言い渡された彼女が、偶然店長室に押し入った強盗の銃を奪って射殺。その後、彼女を共犯と誤解して通報しようとした上司をも撃ち殺す。血まみれの小切手を片手に銃を携えて銀行へ向かう彼女の姿を、観客は“滑稽”と笑うか、“極限まで追い詰められた母”として心を寄せるかで、大きく評価が分かれるだろう。貧困が人間の尊厳をいかに奪うかを容赦なく突きつける本作は、不器用で過剰な演出の中にも、確かに心をえぐるような真実が宿っている。
作中、唯一彼女に寄り添おうとするのは、母子家庭で育った黒人女性刑事と、黒人の銀行支店長。彼らは偏見にとらわれず、彼女の行動の背景を理解しようと努める。対照的に、白人と警察は終始差別的に描かれており、これは反DEIへの風刺とも読めるが、やや一面的な印象は否めない。クライマックスでは、銀行に立てこもった彼女を、行員がスマホで密かにライブ配信。その映像が広まり、彼女の苦悩に市民が共感し、銀行前にデモが発生という流れもやや都合が良すぎる展開だが、娘の給食費と家賃を払うために、週払い7万円の給料を受け取りに来ただけの行動がすべての引き金だったという切なさに、市民の同情が集まるのも無理はない。
さらに、不当な解雇を言い渡された彼女が、偶然店長室に押し入った強盗の銃を奪って射殺。その後、彼女を共犯と誤解して通報しようとした上司をも撃ち殺す。血まみれの小切手を片手に銃を携えて銀行へ向かう彼女の姿を、観客は“滑稽”と笑うか、“極限まで追い詰められた母”として心を寄せるかで、大きく評価が分かれるだろう。貧困が人間の尊厳をいかに奪うかを容赦なく突きつける本作は、不器用で過剰な演出の中にも、確かに心をえぐるような真実が宿っている。
映画「教皇選挙」 ― 2025年05月15日

映画『教皇選挙(コンクラーベ)』をようやく観てきた。実際の教皇選挙の後だったこともあり、興味深く鑑賞できた。ただ、対話シーンが延々と続き、英語の中に時折イタリア語・スペイン語・ラテン語が混じるため、字幕を追う頻度が高くなり、集中しづらかった。爆破テロによって礼拝堂の窓が吹き飛ぶシーンがなければ、疲れて寝てしまっていたかもしれない。映画は、ローマ教皇の死去を受けて、世界中の枢機卿たちがバチカンのシスティーナ礼拝堂に集い、新教皇を選出する極秘選挙「コンクラーベ」の内幕を描いたミステリードラマである。外部から完全に遮断された環境下で、投票が進むたびに情勢が激変し、聖職者たちが政治家のように権力闘争を繰り広げる。スキャンダルや陰謀が渦巻く中、信仰と組織、伝統と変革のはざまで葛藤する枢機卿たちの姿を通じて、現代社会の分断や人間の本質を浮き彫りにしていく。「密室のベールに包まれた選挙戦の行方と予測不能なサプライズが見どころ」との触れ込みだったが、要するに宗教の世界も政治と同じく、人間の営みである以上、権力闘争は避けられないということを描いている。
教皇選挙は、80歳未満の枢機卿(各地区代表)がシスティーナ礼拝堂に集まり、秘密投票を行う。3分の2以上の票を得た候補が現れるまで、1日に4回の選挙が繰り返される。結果は礼拝堂の煙突から出る煙の色で市民に伝えられ、黒煙は未決定、白煙は決定を意味する。選ばれた枢機卿が教皇の座を受諾すると、「Habemus Papam(ラテン語で“新教皇が誕生した”)」と発表される。映画の展開では、当初は黒人教皇の誕生が有力視されていたが、彼の不倫歴と隠し子の存在が発覚し支持を失う。次の候補である中間派の枢機卿も票の買収を行っていたことが明るみに出て失脚。爆破テロ騒動の混乱の中、保守派の枢機卿は「世界的リベラル運動は神をも恐れぬ」と煽り立てて支持を集めようとする。しかし、聖職者でありながら政治家のような熾烈な駆け引きが展開される中、戦場地域を巡回してきた無名のアフガニスタン出身の枢機卿が「我々は神の子だ」と正論を述べ、圧倒的な支持を得て新教皇に選出される。だが、最後にその新教皇がインターセックスの男性であったことが明かされ、幕が下りる。
どこか、今回のレオ14世誕生の教皇選挙とも似た展開だったので驚いた。脚本はピーター・ストローハンが手がけ、ロバート・ハリスの小説『Conclave』(2016年発表)を原作に脚色されたという。今回の実際の教皇選挙でも、当初は地元バチカンの枢機卿が優位と見られていたが、フランシスコ前教皇と同様にリベラル路線で、中国政府との距離が近すぎるとの批判が高まり、失速したとされる。中国ではカトリック司教の選出に政府の影響が強く、2018年にバチカンと中国政府の間で暫定合意が結ばれ、中国側が候補を選び、バチカンが承認するという枠組みができた。中国政府は国内のカトリック教会の統制を強化し、地下教会への弾圧も続けている。司教の選出には共産党支持者が選ばれる傾向があるという。この状況を容認してきたのが、フランシスコ前教皇および今回のバチカンの枢機卿とされる。一方、レオ14世教皇はシカゴ出身で、南米の貧困層を支えてきた実績が評価され、白羽の矢が立ったという。もちろん映画の脚本は昨年以前に完成していたわけだが、ストローハンの先見の明には驚嘆せざるを得ない。
教皇選挙は、80歳未満の枢機卿(各地区代表)がシスティーナ礼拝堂に集まり、秘密投票を行う。3分の2以上の票を得た候補が現れるまで、1日に4回の選挙が繰り返される。結果は礼拝堂の煙突から出る煙の色で市民に伝えられ、黒煙は未決定、白煙は決定を意味する。選ばれた枢機卿が教皇の座を受諾すると、「Habemus Papam(ラテン語で“新教皇が誕生した”)」と発表される。映画の展開では、当初は黒人教皇の誕生が有力視されていたが、彼の不倫歴と隠し子の存在が発覚し支持を失う。次の候補である中間派の枢機卿も票の買収を行っていたことが明るみに出て失脚。爆破テロ騒動の混乱の中、保守派の枢機卿は「世界的リベラル運動は神をも恐れぬ」と煽り立てて支持を集めようとする。しかし、聖職者でありながら政治家のような熾烈な駆け引きが展開される中、戦場地域を巡回してきた無名のアフガニスタン出身の枢機卿が「我々は神の子だ」と正論を述べ、圧倒的な支持を得て新教皇に選出される。だが、最後にその新教皇がインターセックスの男性であったことが明かされ、幕が下りる。
どこか、今回のレオ14世誕生の教皇選挙とも似た展開だったので驚いた。脚本はピーター・ストローハンが手がけ、ロバート・ハリスの小説『Conclave』(2016年発表)を原作に脚色されたという。今回の実際の教皇選挙でも、当初は地元バチカンの枢機卿が優位と見られていたが、フランシスコ前教皇と同様にリベラル路線で、中国政府との距離が近すぎるとの批判が高まり、失速したとされる。中国ではカトリック司教の選出に政府の影響が強く、2018年にバチカンと中国政府の間で暫定合意が結ばれ、中国側が候補を選び、バチカンが承認するという枠組みができた。中国政府は国内のカトリック教会の統制を強化し、地下教会への弾圧も続けている。司教の選出には共産党支持者が選ばれる傾向があるという。この状況を容認してきたのが、フランシスコ前教皇および今回のバチカンの枢機卿とされる。一方、レオ14世教皇はシカゴ出身で、南米の貧困層を支えてきた実績が評価され、白羽の矢が立ったという。もちろん映画の脚本は昨年以前に完成していたわけだが、ストローハンの先見の明には驚嘆せざるを得ない。
「白雪姫」映画165億赤字 ― 2025年05月06日

ディズニーの実写版『白雪姫』が、大きな赤字を出す見込みだという。報道によれば、その額は約1億1500万ドル(日本円で約165億円)。日本でも、大型連休を待たずに上映終了する映画館が出てくるなど、興行成績はかなり厳しい。ここまで振るわない理由は何なのか? もちろん、一因では済まない。だが、やはり最大の要因は「観客が感じた違和感」だろう。白雪姫といえば、誰もが思い浮かべるのは、あの「雪のように白い肌の少女」。このキャラクターを、ラテン系アメリカ人のレイチェル・ゼグラーさんが演じた時点で、「え?」と感じた人は少なくなかったはずだ。しかも、ゼグラーさんはインタビューで「王子に助けられるなんてナンセンス」と語るなど、古典的なプリンセス像を否定する発言をしていた。フェミニズム的視点としては理解できるが、ディズニーアニメの原作イメージを愛してきた人たちにとっては、これもまた“ズレ”だった。SNSなどでは、「DEI(多様性・公平性・包括性)を優先しすぎて、ファンの感情が置き去りにされたのでは?」という声が目立つ。確かに、今のディズニーはDEI路線を前面に出しており、今回のキャスティングもその一環と見る向きは多い。
もちろん、DEIの理念自体に異論があるわけではない。年齢・性別・人種などに関係なく、誰もが活躍できる社会を目指すことは大切だ。ただ、それをエンタメに過剰に持ち込むと、「物語の自然さ」や「観客の没入感」を損なうリスクがあるのも事実。これは、文化的な“空気”の問題でもある。たとえば、関西が舞台の映画で、関東出身の俳優がなんちゃって関西弁を話していたらどう感じるか? 全国的には気にならなくても、関西の人にはどうしても「違和感」が残る。ディテールの違和感は、積み重なると物語そのものに入り込めなくなる。
「白雪姫=白い肌の少女」というイメージは、多くの人にとって“共有された前提”だった。それを変えるなら、それ相応の物語的な説得力が必要だったのではないか。単に「多様性だから」とキャストを変えただけでは、逆に反発を招くのも当然だろう。今後も映画界にDEIの流れが続くかもしれない。ただし、「誰のための多様性か?」という問いは、常に付いて回る。大事なのは、理念の押し付けではなく、作品世界の中で自然に、説得力をもって受け入れられる形にすること。『白雪姫』の興行不振を「トランプ派の陰謀」や「政治的対立のせい」にしたがる人もいるが、そこまで話を飛ばす必要はない。もっとシンプルに、「観客が物語に共感できなかった」。それがすべてではないだろうか。
もちろん、DEIの理念自体に異論があるわけではない。年齢・性別・人種などに関係なく、誰もが活躍できる社会を目指すことは大切だ。ただ、それをエンタメに過剰に持ち込むと、「物語の自然さ」や「観客の没入感」を損なうリスクがあるのも事実。これは、文化的な“空気”の問題でもある。たとえば、関西が舞台の映画で、関東出身の俳優がなんちゃって関西弁を話していたらどう感じるか? 全国的には気にならなくても、関西の人にはどうしても「違和感」が残る。ディテールの違和感は、積み重なると物語そのものに入り込めなくなる。
「白雪姫=白い肌の少女」というイメージは、多くの人にとって“共有された前提”だった。それを変えるなら、それ相応の物語的な説得力が必要だったのではないか。単に「多様性だから」とキャストを変えただけでは、逆に反発を招くのも当然だろう。今後も映画界にDEIの流れが続くかもしれない。ただし、「誰のための多様性か?」という問いは、常に付いて回る。大事なのは、理念の押し付けではなく、作品世界の中で自然に、説得力をもって受け入れられる形にすること。『白雪姫』の興行不振を「トランプ派の陰謀」や「政治的対立のせい」にしたがる人もいるが、そこまで話を飛ばす必要はない。もっとシンプルに、「観客が物語に共感できなかった」。それがすべてではないだろうか。
新幹線大爆破 ― 2025年04月28日

1975年に東映が制作した『新幹線大爆破』が、現代版として『シン・ゴジラ』の樋口真嗣監督によって、Netflixでリメイクされた。本作の物語は、新青森から東京へ向かう新幹線「はやぶさ60号」に仕掛けられた爆弾を巡る。爆弾は時速100キロを下回ると爆発する仕組みとなっており、車掌をはじめとする乗務員たちが乗客を守るために奮闘する。犯人は1000億円を要求し、鉄道会社、政府、警察をも巻き込んだ攻防戦が展開される。主人公・高市役を草彅剛が演じ、細田佳央太、のん、尾野真千子、斎藤工など、人気俳優たちが出演。撮影にはJR東日本の特別協力を得て、実際の新幹線車両や施設が使用された。1975年の東映版では、新幹線爆破という設定が国鉄(当時)のイメージダウンにつながる懸念から、国鉄の協力を一切得られなかったという。東映版は高倉健をはじめ有名俳優を多数起用し、5億円以上(現在の貨幣価値に換算して約10~20億円)を投じて制作されたが、日本国内ではヒットせず、むしろ海外で高い評価を受けた。今回のリメイクでは、製作費は20億円では足りなかっただろうと推測されている。犯人役が東映版では大御所・高倉健だったのに対し、今回は新人女優が起用された点には不満も残る。しかし、新幹線爆破とそれに対抗するギミックを、VFXを駆使してふんだんに描いた本作は、鉄道ファンにも満足できる内容となっていた。
東映版もNetflixで配信されていたため視聴した。この映画に限らず、昭和時代の邦画は俳優のセリフが一本調子に感じられ、耳についてしまう。当時の録音技術では小さな声を拾うのが難しかったため、セリフから細やかな感情を読み取ることが難しく、サスペンスものには不向きだったのかもしれない。新幹線の車両切り離しは、Netflix版の大きな見どころとなっている。東映版のほうでは車両の切り離しは設計上あり得ないと否定していたが、つい最近、新幹線の運転車両同士の切り離し事故が2度もあったわけだから車両の切り離しは技術的には不可能ではないのだろう。東映版では、車両下の爆弾起爆コードを切断することで危機を乗り越えるが、Netflix版では線路の切り替え操作によって爆弾車両を物理的に切り離す、ド派手なアクションシーンに仕上げられている。東映版は、孤高の存在となった高倉健演じる主人公が、クライマックスで撃たれるまでを丁寧に描き、人間ドラマを重視した印象だ。ただし、昭和映画では警官がやたらと発砲するシーンが多く、爆弾犯一味の山本圭も逃走中にかなり遠距離から足を撃たれる場面があるが、「そう簡単に当たるだろうか」とツッコミたくなる。東映版は何よりも高倉健の存在感を前面に押し出し、Netflix版は新幹線アクションを前面に押し出すという違いが際立っており、それぞれの時代背景を映す作品となっていて興味深かった。
東映版もNetflixで配信されていたため視聴した。この映画に限らず、昭和時代の邦画は俳優のセリフが一本調子に感じられ、耳についてしまう。当時の録音技術では小さな声を拾うのが難しかったため、セリフから細やかな感情を読み取ることが難しく、サスペンスものには不向きだったのかもしれない。新幹線の車両切り離しは、Netflix版の大きな見どころとなっている。東映版のほうでは車両の切り離しは設計上あり得ないと否定していたが、つい最近、新幹線の運転車両同士の切り離し事故が2度もあったわけだから車両の切り離しは技術的には不可能ではないのだろう。東映版では、車両下の爆弾起爆コードを切断することで危機を乗り越えるが、Netflix版では線路の切り替え操作によって爆弾車両を物理的に切り離す、ド派手なアクションシーンに仕上げられている。東映版は、孤高の存在となった高倉健演じる主人公が、クライマックスで撃たれるまでを丁寧に描き、人間ドラマを重視した印象だ。ただし、昭和映画では警官がやたらと発砲するシーンが多く、爆弾犯一味の山本圭も逃走中にかなり遠距離から足を撃たれる場面があるが、「そう簡単に当たるだろうか」とツッコミたくなる。東映版は何よりも高倉健の存在感を前面に押し出し、Netflix版は新幹線アクションを前面に押し出すという違いが際立っており、それぞれの時代背景を映す作品となっていて興味深かった。
小学校 それは小さな社会 ― 2025年04月17日

日本の公立小学校に通う1年生と6年生の学校生活を、春夏秋冬の四季を通して追ったドキュメンタリー映画。新入生が4月に挙手の仕方、廊下の歩き方、給食当番のやり方などを学ぶ姿が映し出される一方で、6年生はその補助役として行動しながら、自覚と責任を育んでいく。教師たちはコロナ禍の中、行事の実施を巡って悩み、議論を重ねる。そのすべてが丁寧に記録され、3学期には1年生が新入生のために音楽演奏に挑む場面までが描かれている。監督は、イギリス人の父と日本人の母を持つ山崎エマ氏。150日間、のべ4000時間にわたる長期取材を行い、「特活(TOKKATSU=特別活動)」を通じて、日本の子どもたちが協調性を身につけていく様子をカメラに収めた。フィンランドでは4カ月にわたるロングラン上映を記録するなど、海外でも大きな反響を呼んだ。
だが、なぜ今、日本の教育に国際的な注目が集まるのだろうか。おそらく礼儀や協調性の育成、裏返せば管理教育の弊害である没個性や同調圧力の構造への興味なのだろうか。個人的には、自分が教員をしていた時代から、教育現場が一歩も前に進んでいないという印象を受けた。印象的だったのは、合奏練習でシンバルが叩けなかった1年生の女子を、教師が全体の前で厳しく「指導」する場面。現代ではパワハラだと批判されてもおかしくない。誰よりも早く出勤し、教室の机を並べていた6年生担任には、ワーカホリックという言葉が投げかけられるかもしれない。縄跳びダンスがうまくできない子に、ペアの子が「ここが下手」と指摘する姿や、徒競走で3着だった子に「来年は1等賞が取れたらいいね」と励ます母親にも、「跳べなくてもいい」「3着でも十分」という声が上がるのだろう。そして、多くの人がこう言うはずだ――「先進国ではもっと個性が尊重されている」と。その延長線上で、「だから不登校が増え、教職が敬遠されるのだ」と、日本の教育の課題を説明しようとするかもしれない。
だが、子どもが映る映像というのは、どんなテーマであれ、その純真さゆえに無批判に受け入れられやすい。40年前に教壇に立っていた私にとっては、こうした学校の光景は当たり前のものだ。教師は子どもを鍛え、子どもはその期待に応えようと努力する。それのどこが悪いのかと、つい思ってしまう。もし教師が子どもに期待をかけず、「サボるのも個性」と許容し始めたら、学校は何を教える場所なのかと疑問にすらなる。日本人の心を持ちながら外国人の視点を理解する山崎エマ監督は、こうした問いを私たちに投げかけたかったのかもしれない。つまり、この作品の目的は確かに達成されたのだ。ただ、卒業式後の教員反省会で、6年生担任が「もういっぱいいっぱいで、ダメかと思った時もあった。でも皆の支えで乗り切れた」と涙ながらに語ったとき、私はふと、自分がかつてどれだけ教職の過酷さに無自覚だったかを振り返った。教育とは、そして学校とは何なのか――この映画はその本質を、静かに、しかし鋭く問いかけてくる。
だが、なぜ今、日本の教育に国際的な注目が集まるのだろうか。おそらく礼儀や協調性の育成、裏返せば管理教育の弊害である没個性や同調圧力の構造への興味なのだろうか。個人的には、自分が教員をしていた時代から、教育現場が一歩も前に進んでいないという印象を受けた。印象的だったのは、合奏練習でシンバルが叩けなかった1年生の女子を、教師が全体の前で厳しく「指導」する場面。現代ではパワハラだと批判されてもおかしくない。誰よりも早く出勤し、教室の机を並べていた6年生担任には、ワーカホリックという言葉が投げかけられるかもしれない。縄跳びダンスがうまくできない子に、ペアの子が「ここが下手」と指摘する姿や、徒競走で3着だった子に「来年は1等賞が取れたらいいね」と励ます母親にも、「跳べなくてもいい」「3着でも十分」という声が上がるのだろう。そして、多くの人がこう言うはずだ――「先進国ではもっと個性が尊重されている」と。その延長線上で、「だから不登校が増え、教職が敬遠されるのだ」と、日本の教育の課題を説明しようとするかもしれない。
だが、子どもが映る映像というのは、どんなテーマであれ、その純真さゆえに無批判に受け入れられやすい。40年前に教壇に立っていた私にとっては、こうした学校の光景は当たり前のものだ。教師は子どもを鍛え、子どもはその期待に応えようと努力する。それのどこが悪いのかと、つい思ってしまう。もし教師が子どもに期待をかけず、「サボるのも個性」と許容し始めたら、学校は何を教える場所なのかと疑問にすらなる。日本人の心を持ちながら外国人の視点を理解する山崎エマ監督は、こうした問いを私たちに投げかけたかったのかもしれない。つまり、この作品の目的は確かに達成されたのだ。ただ、卒業式後の教員反省会で、6年生担任が「もういっぱいいっぱいで、ダメかと思った時もあった。でも皆の支えで乗り切れた」と涙ながらに語ったとき、私はふと、自分がかつてどれだけ教職の過酷さに無自覚だったかを振り返った。教育とは、そして学校とは何なのか――この映画はその本質を、静かに、しかし鋭く問いかけてくる。
「月」やまゆり園事件 ― 2025年04月15日

石井裕也監督が宮沢りえを主演に迎え、辺見庸の同名小説を映画化した作品。物語は、元有名作家の堂島洋子が、森の奥深くにある重度障がい者施設で働き始めるところから展開していく。洋子は、作家志望の陽子や絵を描くのが好きな青年さとくん、そして身体が動かせない入所者きーちゃんと出会い、次第にきーちゃんに親身になっていく。一方で、施設内では職員による暴力やひどい扱いが見え隠れし、それに対して憤りを募らせるさとくんの正義感が、どんどん加速していく。洋子の夫・昌平をオダギリジョー、さとくんを磯村勇斗、陽子を二階堂ふみが演じており、キャストは豪華だ。
社会の理不尽さや人間関係の葛藤を描くヒューマンドラマ──と聞けば響きはいいけれど、正直なところ、この映画はかなり重たくて暗い。観る者に深い問いかけを投げかける、と評価されているが、観終わったあとに残るのは、疑問とモヤモヤだった。原作は、相模原障害者施設殺傷事件、いわゆる「やまゆり園事件」をモチーフにしている。さとくんは、犯人・植松聖をモデルにしたキャラクターだ。しかし、彼がなぜ優性思想に至ったのかという部分について、監督の石井裕也は「生産性のないものを排除する」という考え方は今の社会全体が帯びているものであり、個人としての植松を掘り下げることには意味がない、としている。
生命を肯定するというのは本能的な欲求に根ざしており、他者の生命も自己と同様に尊重されるべきものだし、それを前提に社会生活が成り立っている。人の命を奪うという行為は、平等性や秩序の維持といった社会の基本原則に反しており、「殺してはいけない」という命題は、功利主義的にも論理的に成立する。そして、映画の中で描かれる思想──社会価値のない存在は「心のない者」であり、自己表現ができない障害者は人間ではない、そんな存在を社会が支える必要はなく、むしろ強制排除すべきだという考え方──これはあまりにも幼稚で、議論の土台にも乗らない話だ。
もし監督が言うように「今の社会そのものが排除の論理を帯びている」のだとすれば、それに対してもっと強く、正面から跳ね返すようなメッセージが欲しかった。そうでなければ、単に不快な現実をなぞっただけの作品になってしまう。また、重症の入所者が排せつ物を部屋で塗りたくるような描写が、「施設の日常」として淡々と描かれているのも疑問だ。そもそも、閉じ込められているという社会的・人的な環境こそが問題なのに、それを問うこともなく、あたかも「これがリアル」だと言わんばかりに見せるのは、方向を誤っている。そしてなぜか、「誰もが年を取り、生産性を失っていく存在になる」という当たり前の視点が、すっぽり抜け落ちているのも不自然だ。率直に言えば、これは駄作というより、悪質な映画だと感じた。俳優陣の演技は力強かっただけに、そんな作品に出演させられた彼らがかわいそうだと思ってしまった。
社会の理不尽さや人間関係の葛藤を描くヒューマンドラマ──と聞けば響きはいいけれど、正直なところ、この映画はかなり重たくて暗い。観る者に深い問いかけを投げかける、と評価されているが、観終わったあとに残るのは、疑問とモヤモヤだった。原作は、相模原障害者施設殺傷事件、いわゆる「やまゆり園事件」をモチーフにしている。さとくんは、犯人・植松聖をモデルにしたキャラクターだ。しかし、彼がなぜ優性思想に至ったのかという部分について、監督の石井裕也は「生産性のないものを排除する」という考え方は今の社会全体が帯びているものであり、個人としての植松を掘り下げることには意味がない、としている。
生命を肯定するというのは本能的な欲求に根ざしており、他者の生命も自己と同様に尊重されるべきものだし、それを前提に社会生活が成り立っている。人の命を奪うという行為は、平等性や秩序の維持といった社会の基本原則に反しており、「殺してはいけない」という命題は、功利主義的にも論理的に成立する。そして、映画の中で描かれる思想──社会価値のない存在は「心のない者」であり、自己表現ができない障害者は人間ではない、そんな存在を社会が支える必要はなく、むしろ強制排除すべきだという考え方──これはあまりにも幼稚で、議論の土台にも乗らない話だ。
もし監督が言うように「今の社会そのものが排除の論理を帯びている」のだとすれば、それに対してもっと強く、正面から跳ね返すようなメッセージが欲しかった。そうでなければ、単に不快な現実をなぞっただけの作品になってしまう。また、重症の入所者が排せつ物を部屋で塗りたくるような描写が、「施設の日常」として淡々と描かれているのも疑問だ。そもそも、閉じ込められているという社会的・人的な環境こそが問題なのに、それを問うこともなく、あたかも「これがリアル」だと言わんばかりに見せるのは、方向を誤っている。そしてなぜか、「誰もが年を取り、生産性を失っていく存在になる」という当たり前の視点が、すっぽり抜け落ちているのも不自然だ。率直に言えば、これは駄作というより、悪質な映画だと感じた。俳優陣の演技は力強かっただけに、そんな作品に出演させられた彼らがかわいそうだと思ってしまった。
リーチャー〜正義のアウトロー〜 ― 2025年03月29日

久しぶりにアメリカのドラマを24話一気見した。Amazon Prime Videoのドラマシリーズ『リーチャー 〜正義のアウトロー〜』だ。主人公は、軍警察の特別捜査官として数々の功績を挙げたジャック・リーチャー。退役後は自由を求め、愛用の歯ブラシと少量の現金だけを携えて旅を続けている。しかし、その旅の途中、身に覚えのない殺人容疑をかけられ逮捕されるという予期せぬ事態に巻き込まれる。誰にも迷惑をかけることなく静かに旅を続けていたリーチャーだが、行く先々で思いもよらぬ事件に巻き込まれていく。その受難と困難に立ち向かう姿を、多彩なエピソードを通じて描き出すドラマだ。トム・クルーズ主演の映画版も面白かったが、こちらの方が断然面白い。何しろ、リーチャーの無双ぶりが半端なく、肉体美も素晴らしい。絶対に死なないリーチャーは、どんな危機でも蘇るロボコップのような存在だ。元軍警察の仲間たちも、リーチャー少佐を心から信頼し、命を顧みずに援助する姿が、浪花節的で好感が持てる。米国人の軍人に対する敬意も感じられる。軍警察でも何でもない放浪者となった彼は、巨悪に対しては、一切容赦しない。正義とはいえ、殺戮や違法行為を辞さないヒーロー像は、日本映画では時代劇に限られ、現代劇ではなかなか描きにくい領域かもしれない。
本作は、英作家リー・チャイルドによる小説『ジャック・リーチャー』シリーズを原作としており、世界的に高い人気を誇る。アラン・リッチソン主演のテレビドラマ版は、Prime Videoで最も視聴された作品のひとつとなり、批評家からも高評価を得ている。映画版『アウトロー』(2012年)および『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』(2016年)はトム・クルーズ主演で公開されたが、原作の主人公像との違いから賛否が分かれ、現在はドラマ版がシリーズの主軸となった経緯がある。リー・チャイルドは映画化された作品への再訪にも意欲を示しているが、同時に配信ドラマの「尺の長さ」を高く評価し、「原作を忠実に映像化するにはテレビシリーズが最適」と語っている。複数エピソードで構成される配信シリーズでは、小説の細部や感情表現をより深く掘り下げることが可能であり、チャイルド自身、「これからは映画より配信シリーズを選ぶ作家が多くなるだろう」と述べている。『リーチャー 〜正義のアウトロー〜』は、すでにシーズン4の制作が進行中で、今後の展開が楽しみだ。
本作は、英作家リー・チャイルドによる小説『ジャック・リーチャー』シリーズを原作としており、世界的に高い人気を誇る。アラン・リッチソン主演のテレビドラマ版は、Prime Videoで最も視聴された作品のひとつとなり、批評家からも高評価を得ている。映画版『アウトロー』(2012年)および『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』(2016年)はトム・クルーズ主演で公開されたが、原作の主人公像との違いから賛否が分かれ、現在はドラマ版がシリーズの主軸となった経緯がある。リー・チャイルドは映画化された作品への再訪にも意欲を示しているが、同時に配信ドラマの「尺の長さ」を高く評価し、「原作を忠実に映像化するにはテレビシリーズが最適」と語っている。複数エピソードで構成される配信シリーズでは、小説の細部や感情表現をより深く掘り下げることが可能であり、チャイルド自身、「これからは映画より配信シリーズを選ぶ作家が多くなるだろう」と述べている。『リーチャー 〜正義のアウトロー〜』は、すでにシーズン4の制作が進行中で、今後の展開が楽しみだ。
35年目のラブレター ― 2025年03月20日

久しぶりに、上映中に観客のすすり泣く声が聞こえた映画だった。今日は祝日ということもあり、そこそこの込み具合だった。戦時中に生まれ、十分な教育を受けられず文字の読み書きができない65歳の西畑保(鶴瓶、重岡大毅)は、貧しい家庭に育ち、生きづらさを抱えてきた。運命的に出会った皎子(原田知世、上白石萌音)と結婚するが、文字が読めないことを隠していた。半年後、事実が明らかになり別れを覚悟するが、皎子は「私があなたの手になる」と支え続けることを誓う。彼女への感謝を込めたラブレターを書きたいと願った保は、定年後に夜間中学に通い始め、学ぶ決意をする。『35年目のラブレター』は、西畑保が実際に体験した出来事に基づいている。西畑氏は2003年、住友信託銀行主催の「60歳のラブレター」に応募し、金賞を受賞した。そのエピソードはテレビ番組『ザ!世界仰天ニュース』でも取り上げられ、司会者の笑福亭鶴瓶が感銘を受ける。鶴瓶の弟子である笑福亭鉄瓶がこれを基に創作したノンフィクション落語『生きた先に』が披露され、その記事を目にした毎日新聞論説委員の小倉孝保が西畑夫妻に取材を開始。夫妻の深い絆や感謝の思いを描いた物語として2024年に執筆し映画化された。主人公は戦後の貧困から公教育を受けられず、読み書きができなかったというストーリーだ。映画では、夜間中学校での多様な人との学びの楽しさが描かれるが、主人公の学びの困難さには深く切り込んではいない。
主人公は「誰でもやればできる」という答辞を昼間・夜間中学校の合同卒業式で語るが、やや違和感を覚えた。この作品を監修する読み書き障害の専門家がいなかったのだろう。主人公はディスレクシアであると思われる。実話でも、主人公は7年かかって読み書きを獲得し、ラブレターを書き上げたとされるが、映画での文字の練習場面は、マスの中に何度も字を書き続けるドリル学習ばかりだ。もちろん40年前の教育界には、読み書き障害の知見や指導法がなく、「良い指導者」は根気強くドリル学習に付き合う教員だった。今なら、7年間もディスレクシア者に書字のドリル指導を繰り返す指導者はあり得ない。7年かかっても読み書きを獲得したことは事実なのだから、ケチをつけるなという意見もあるかもしれない。しかし、話が感動的であればあるほど、「感動ポルノ」という言葉が頭をよぎってしまう。とはいえ、原田知世の演技は美しかったし、結婚当時を演じた重岡大毅と上白石萌音も見事な演技を見せた。この手の作品では、関西アクセントが不自然だと作品そのものが台無しになるが、原田と上白石は関西アクセントをかなり練習したことがうかがえる。良い映画であったことは間違いない。
主人公は「誰でもやればできる」という答辞を昼間・夜間中学校の合同卒業式で語るが、やや違和感を覚えた。この作品を監修する読み書き障害の専門家がいなかったのだろう。主人公はディスレクシアであると思われる。実話でも、主人公は7年かかって読み書きを獲得し、ラブレターを書き上げたとされるが、映画での文字の練習場面は、マスの中に何度も字を書き続けるドリル学習ばかりだ。もちろん40年前の教育界には、読み書き障害の知見や指導法がなく、「良い指導者」は根気強くドリル学習に付き合う教員だった。今なら、7年間もディスレクシア者に書字のドリル指導を繰り返す指導者はあり得ない。7年かかっても読み書きを獲得したことは事実なのだから、ケチをつけるなという意見もあるかもしれない。しかし、話が感動的であればあるほど、「感動ポルノ」という言葉が頭をよぎってしまう。とはいえ、原田知世の演技は美しかったし、結婚当時を演じた重岡大毅と上白石萌音も見事な演技を見せた。この手の作品では、関西アクセントが不自然だと作品そのものが台無しになるが、原田と上白石は関西アクセントをかなり練習したことがうかがえる。良い映画であったことは間違いない。
ファーストキス 1ST KISS ― 2025年02月28日

今日も暇つぶしに映画を観に行くが、観たい映画がない。「怪物」の脚本家坂元裕二と「ラストマイル」の監督塚原あゆ子が初タッグを組んだ恋愛映画ということで、もしかしたら良いかもと思い選んだのが「ファーストキス 1ST KISS」。結婚15年目の夫を事故で亡くした硯カンナは、夫との倦怠期を経て不仲だった。第二の人生を歩み始めた矢先、タイムトラベルの力で過去に戻り、駈と再会。再び恋に落ちたカンナは、駈を事故から救うことを決意する。カンナ役に松たか子、駈役に松村北斗、天馬市郎役にリリー・フランキー、里津役に吉岡里帆、世木杏里役に森七菜が出演。率直な感想は「柳の下にいつも泥鰌はいない」だ。松たか子の演技は相変わらず上手いし、ドラマで売れっ子の松村北斗も良い味を出している。松たか子の15年の若返りをCGで修正するだけでは無理があるが、あんな若い声が出せるのはどうしてだろう。本人の演技かそれともコンピューター合成なのか知りたいところだ。ただ、お決まりのタイムスリップものにはもう飽きた。未来を修正するために現代と行き来する手法は使い古されている。吉岡里帆や森七菜も「出せば良い」という使われ方をしている気がする。
ベビーカーの転落を救って命を落とす松村の過去を変えようとする筋書きだが、その転落事故を修正する筋書きが欲しかった。まぁ、そうしてしまうとクライマックスの感動的な愛の筋書きが無くなってしまうので仕方がないけれど、夫婦愛を無垢の人類愛と比べ、死んでも永久にというのは映画あるあるだけど偽善っぽく感じてしまう。恋愛は良いところを見つけ、結婚は悪いところを見つけるという言葉は胸に刺さった。
ベビーカーの転落を救って命を落とす松村の過去を変えようとする筋書きだが、その転落事故を修正する筋書きが欲しかった。まぁ、そうしてしまうとクライマックスの感動的な愛の筋書きが無くなってしまうので仕方がないけれど、夫婦愛を無垢の人類愛と比べ、死んでも永久にというのは映画あるあるだけど偽善っぽく感じてしまう。恋愛は良いところを見つけ、結婚は悪いところを見つけるという言葉は胸に刺さった。