W杯日本の可能性2026年06月24日

W杯日本の可能性
今回の日本代表というのは、名簿を開いた瞬間に「ああ、これは普通の勝負にはならないな」と悟らされる構造になっている。遠藤航はいない。久保建英はケガで欠場している。攻守の軸が同時に抜け落ちているのだ。将棋で言えば、盤面に向かった途端に「飛車と角は最初からありません」と告げられるようなもので、こちらとしては「いや、それでどう戦えというのか」と天井の隅を見つめたくなる。しかも周囲は「まあ、なんとかなるだろう」と言う。なんとかなるなら苦労はない。

ところがサッカーという競技は不思議なもので、飛車角がなくても、歩や銀を地道に積み重ねて形を作ってしまうことがある。オランダ戦の2―2、チュニジア戦の4―0。結果だけを見れば、なるほど十分に戦えている。だが、そこで安心してしまうのは早計だ。日本代表の名簿にはいま、「悪くない選手」が数多く並んでいる。しかし「良い」を決定づける決定的な部品が、よりによって遠藤と久保という中心軸から抜けている。悪くはない。だが、良くもない。これが今回の日本の冷厳な現在地である。

そして、まだスウェーデン戦が残っている。それなのに、もう勝った気になっている人がいる。勝ってもいないのに勝った気になり、試合前なのに試合後の話をしてしまう。こうした“時間の先走り”は、日本代表の周囲で昔から繰り返されてきた悪癖だ。スウェーデン戦は、おそらく互いに手の内を隠し合う、一筋縄ではいかない試合になるだろう。しかし、まだホイッスルは鳴っていない。行われてもいない試合を既成事実のように語るべきではない。未来を先に消費する癖は、たいてい最悪の結果を呼び込むものだ。

もっとも、仮にそのスウェーデン戦を越えたとしても、それで終わりではない。次に待っているのはブラジルである。スウェーデンは世間的には「格下」とされるが、格下という言葉ほど危険な響きを持つものはない。格下とは、こちらが勝手に油断してくれるのを静かに待っている恐ろしい存在だからだ。そして日本代表は、気が緩んだ瞬間に綺麗に転ぶ才能だけは、昔から妙に豊かである。スウェーデン戦の勝利で気分が上がり、その勢いのままブラジル戦の夢を見始めるのは人情だろう。だが、その手前の段差で余計なつまずきをすれば、せっかく積み上げた流れも空気も一気にしぼんでしまう。夢の手前には、いつもこういう見えない罠がある。

そして、その一戦も越えたなら、その先にいよいよブラジルがいる。ここから先は「悪くない日本」では1秒も持たない。ブラジルは局地戦でも勝つ。1対1でも勝つ。セットプレーでも勝つ。こちらが歩と銀で必死に形を整えている間に、向こうは飛車角金銀をずらりと並べてくる。盤面の密度そのものが違うのだ。

飛車角を欠いた日本が、このブラジルの圧倒的な盤面を破る方法があるとすれば、それは戦術による保証を超えた「揺らぎ」の中にしかない。歩や銀の堅実なキャパシティを超え、一芸に秀でた「香車」や「桂馬」のような伏兵が一歩前に飛び出すこと。その駒の跳躍が偶然の連鎖を生み、相手の計算を狂わせる。サッカーを長く見ている人なら誰もが知っている、あの「何かが起きそうだ」という気配は、理屈の隙間からしか生まれない。

苦しい盤面である。戦力差もある。理屈だけを並べれば、楽観できる材料はどこを探しても見当たらない。だが、サッカーとは、ときに理屈より先に感情が、そして歴史が動く競技でもある。だから日本、行け。今回ばかりは、その理屈を超えた「何か」を信じてみたい。

飛鳥・藤原宮跡と日本神話2026年06月07日

飛鳥・藤原宮跡と日本神話
飛鳥・藤原宮跡が世界遺産登録の勧告を受けた。めでたい話である。めでたいのだが、ニュースを眺めながら妙な気分にもなる。日本最初の本格的な都城が「人類共通の財産です」と国際的にお墨付きをもらうまで、ずいぶん時間がかかった。まるで実家の押し入れから出てきた古いアルバムを見て、「ああ、うちにもちゃんと歴史があったんだな」と今さら気づくような話である。

考えてみれば、日本の古代史というのは長いあいだ、どこか片目をつぶったまま眺められてきた。中国の史書は熱心に読む。だが日本神話になると、急にみんな視線をそらす。古事記や日本書紀は、本棚の上段に置かれたまま「触らないほうが無難です」という空気をまとっていた。おかげで古代史研究は、地図の半分だけ広げて旅に出るような状態になった。目的地を探しているのに、肝心のページが折り畳まれたままなのである。

世界では少し事情が違う。考古学者という人種は案外ロマンチストだ。ギリシャではホメロスの物語を頼りにトロイを探し、中国では長く伝説扱いだった殷王朝を甲骨文で掘り当てた。インドでも叙事詩に登場する地名を追いかけて遺跡が探されている。要するに「そんな話が残っているなら、一度スコップを入れてみよう」という発想である。世界標準では、神話は信じるものでも否定するものでもない。まず掘るための地図なのだ。

ところが日本では、戦後になると神話は急に扱いづらい存在になった。国家神道への反省もあったし、神話が歴史として教えられた時代への警戒もあった。事情は理解できる。だが戦後の教育現場には、「神話に触れるとどこか思想の地雷を踏むのでは」という、誰が決めたとも知れない妙な緊張感が長く漂った。その緊張感は、教室の床下に“どこに埋まっているか分からない地雷”があるようなもので、誰も確かめようとしないまま年月だけが過ぎていった。警戒心というのは便利なもので、ときとして必要なものまで物置にしまい込む。包丁が危ないからといって台所ごと封鎖するような話である。気がつけば神話そのものが遠ざけられ、「触れないのが大人」という妙な空気だけが残った。

その結果、日本の古代史はどこか窮屈になった。魏志倭人伝はもちろん重要である。だが古代日本を理解する手がかりが中国の史料だけで尽くせるなら、わざわざ日本列島に何万もの遺跡が残っている意味がない。近年になって、纏向遺跡の巨大な姿が見え、箸墓古墳の年代が絞り込まれ、藤原宮跡の都市計画が明らかになるにつれ、神話の中に描かれた政治統合や地理感覚と重なる部分も見え始めた。もちろん神話がそのまま史実だという話ではない。だが、まったくの空想話にしては妙に土地勘が良すぎるのである。

神話というものは面白い。英雄が現れ、国を造り、争い、和解し、ときにはとんでもない失敗もする。物語として読んでも十分楽しい。だから本来は国語の教材としても優秀だし、歴史への入口としても使いやすい。神話を読んだ子どもが「その場所はどこにあるの」と興味を持ち、遺跡を訪ねる。そうやって考古学へ進む子がいてもいい。神話は信仰でも教義でもなく、まず文化なのである。

今回の世界遺産勧告は、飛鳥・藤原の価値が認められたというだけの話ではないように思う。長いあいだ押し入れにしまわれていた古い地図を、ようやく広げ直す時期が来たという知らせにも見える。神話は神話、考古学は考古学である。しかし両方を机の上に並べてみると、これまで見えなかった輪郭がふっと浮かび上がることがある。古代史という風景は、どうやら片目だけでは見えないらしい。せっかく二つあるのだから、そろそろ両目を開いて眺めてみてもよい頃だろう。もっとも、古事記を読んだからといって翌日から神武東征に出発する人はいない。桃太郎を読んだから鬼ヶ島へ遠征しないのと同じである。神話は読むだけで人を変身させる魔法の書ではない。だったら怖がる必要もない。むしろ読まずに遠ざけてきたことのほうが、少しばかり不自然だったのかもしれない。

ガラガラでも儲かる家電量販店2026年06月06日

ガラガラでも儲かる家電量販店
家電量販店というのは、つくづく不思議な場所である。平日の昼下がり、あの広大な売り場に入ると、まずは圧倒的な物量に気圧される。冷蔵庫や洗濯機がずらりと並ぶ中、歩いている人間といえば炊飯器のフタを熱心に開閉しているおじさん一人。日によっては客より店員のほうが多く、「今日の売上は乾電池のパック一つではないか」と余計な心配をしてしまう。しかし店が潰れる気配は全くない。それどころか、業界最大手のヤマダホールディングスとエディオンが経営統合を発表した。売上合計は二兆五千億円規模に達し、他社を圧倒する巨大グループが誕生するという。こちらののんびりした生活実感と、彼らの弾き出す経済規模がまるで噛み合わないのだ。

理由を探ってみると、家電量販店はどうやら“家電を売るだけの店”ではないらしい。あの広大なフロアは、メーカー同士が血で血を洗う「陣取り合戦の舞台」なのだ。自社製品を入口近くに置きたい、競合より広い棚を確保したい。そのために水面下では莫大な販促費が飛び交い、応援の販売員が派遣される。客がのんびり値札を眺めているその横で、「うちの六十五インチをもう一列増やしてくれ」という静かな戦争が続いている。テレビ売り場は一見のどかだが、メーカーの営業担当者から見れば、そこは生き残りをかけた現代の関ヶ原なのだ。今回の統合も、この陣取り合戦での調達力やメーカーへの交渉力をさらに強めるための巨大な布石に他ならない。

しかも家電は一発の単価が大きい。冷蔵庫が二十万円、洗濯機が三十万円。客が十人来て一人買えば十分にビジネスが成立する世界であり、魚屋のように「へい毎度!」を百回繰り返す必要はない。さらに面白いのは、主役の本体よりも「周辺の脇役」が利益を支えている点だ。延長保証、設置工事、リサイクル回収、高価格なケーブルに転倒防止器具。映画館がチケット代ではなくポップコーンで儲けているように、家電量販店もまた、主役がスポットライトを浴びている陰で、粗利益率の高い脇役たちがせっせと純利益を稼ぎ出している。乾電池がレジ横に積まれているのも、あれはあれで立派な“脇役の稼ぎ頭”なのだ。

最近は、客が店で実物を確認し、その場でスマホを操作して最安値のネット通販で買う「ショールーム化」が定着した。しかし量販店側は案外平然としている。「どうぞ触ってください」と、達観した僧侶のような顔で微笑んでいる。客が商品に興味を持つこと自体がメーカーの価値であり、量販店はその「舞台」を提供するだけで場所代を得られるからだ。おまけに最近は、スマホで調べている客をすかさず自社のネット通販や公式アプリへ誘導する仕掛けも整えている。ネットで買われようが、最終的に自社の網に引っかかればそれでいいのだ。

そうなると、勝負を決めるのはやはり「規模」になる。全国の店舗網、物流網、工事業者との連携、メーカーへの交渉力。これは「どれだけ巨大なビジネスの網を張れるか」という総力戦なのだ。だから平日の売り場がガラガラでも慌てる必要はない。あの静まり返ったフロアは、水面下で足を猛烈に動かしている白鳥のようなものだ。冷蔵庫の陰ではメーカーが領土を争い、裏では工事会社が走り、物流網がうなっている。こちらには暇そうに見えるが、向こうは息が切れるほど忙しい。本当に暇なのは、「大丈夫か」と勝手にハラハラしている客のほうなのだ。

クマとボッチキャンプ2026年05月10日

クマとボッチキャンプ
春というのは、キャンパーにとって魔性の季節である。空気は軽く、風はやわらかく、太陽は「そろそろ外に出たらどうだ」と、近所のおばちゃんみたいに世話を焼いてくる。ベランダに干した寝袋が、ふっくらと春の風を吸い込んでいく。その様子を眺めているだけで、胸の奥がむずむずしてくる。ソロキャンパーとは、春になると自動的に山へ吸い寄せられる渡り鳥のような生き物なのだ。ところが今年は様子が違う。テレビをつければクマ、ネットを開けばクマ、SNSを見ればクマ。日本列島全体が、まるで「クマ強化月間」に突入したかのようである。しかも出てくる映像がまた強い。住宅街を横切る黒い影、ドラレコに映る巨体、役場のスピーカーから流れる「付近でクマが目撃されました」の無機質な声。ニュースを見れば見るほど、「自然を楽しみに行く」という行為が、「命を賭けて山へ入る」に変換されていく。

気候は最高なのに、気持ちはどんよりしている。外は春爛漫なのに、心だけ冬眠中である。私はテントを張る代わりに、家の中でノートを広げ、“安全キャンプ計画”を書き続けている。しかし、この「安全」という言葉が曲者だ。考えれば考えるほど、最終的に「山へ行かないのが一番安全」という、身も蓋もない結論へ着地してしまう。ダイエット中にケーキの写真を見ながら、「そもそも食べなければいいのでは」と悟る、あの虚しさに近い。

京都の里山は、かつて“人間の裏庭”だった。だが今や、“クマのリビング”である。そこへソロキャンパーがテントを張るというのは、クマの家の真ん中に勝手に寝袋を敷き、「自然を楽しみに来ました」と言っているようなものだ。クマからすれば、「いや、ここウチなんですけど」と言いたくもなるだろう。人間側だけが「自然との共生」を語っても、相手が納得しているとは限らないのである。

しかも危ないのは東北だけではないらしい。本州はもちろん、四国でも目撃情報が増えているという。地図を眺めていると、キャンプ可能エリアが少しずつ侵食されていき、最後には「島嶼部か九州」という、避難計画みたいな選択肢しか残らなくなる。だが、島へ渡るにはフェリーがいる。九州遠征には日程と覚悟がいる。本来ソロキャンプという趣味は、「天気いいな、行くか」で成立する身軽さが魅力だったはずだ。それが今や、“小さな海外旅行”くらいの準備を要求してくる。気軽さが売りだった趣味が、気軽さを失った瞬間、急に遠い存在になる。まるで、気づけば一杯1800円になっていたラーメン屋のようだ。

それでも私はノートに「対クマ作戦」を書き続ける。管理されたキャンプ場限定。食材は完全密閉。クマスプレー携行。夜間の焚き火は最小限。ラジオ常時再生。鈴装備。書けば書くほど、キャンプ計画というより特殊部隊の行動マニュアルになっていく。自然を楽しみに行くはずなのに、自然に警戒し続ける訓練になっているのだから皮肉な話である。しかも途中で、ふと気づく。「これ、本当に趣味なのか?」と。リラックスするための行為に、ここまで事前準備と危機管理が必要になると、それはもうレジャーではなく“野外自衛訓練”に近い。春の陽気は「山へ来い」と誘ってくるのに、クマのニュースが「やめておけ」と肩を掴んで引き戻す。この綱引きが、今年のソロキャンパーの頭の中で延々と続いている。

外へ出れば、空は高く、風はやわらかい。まさにキャンプ日和である。しかし私は今日も、ベランダで寝袋を干しながらクマニュースを眺め、「どうすれば安全にキャンプできるのか」という答えの出ない問いを反芻している。春の山はあれほど魅力的なのに、その入口には黒い影が立っている。結局のところ、気候が良くなればなるほど、「外へ行きたい気持ち」と「行けない現実」の温度差だけが広がっていく。そして今日も私は、ベランダでコーヒーを飲みながら、乾いた寝袋を取り込む。山を恋しがり、山を恐れ、結局どこにも行かない。これこそが、2026年のソロキャンパーに訪れた、新しい“春の風物詩”なのかもしれない。

東海林風ラグビー椀チーム2026年04月23日

東海林風ラグビー椀チーム
ラグビーのリーグワンで、妙な規定ができたという。「義務教育を日本で六年以上受けていないと、日本出身扱いにはせぬ」……六年である。七年でもなく五年でもなく、六年。この「六年」という数字の、なんともいえない「どうだ、これなら文句あるまい」という役所的なドヤ顔はどうだろう。そうなると、日本で小学校を卒業すれば立派な「国産」として認められるということか。味噌汁を六年飲めば日本出身、七年飲んだらもう味噌汁博士。そんなことを考えながら食卓につくと、今朝の味噌汁が急に“国籍審査官”みたいな顔をしてこちらを睨んでいるような気がして、箸がすすまない。

そもそもラグビー日本代表は昔から多国籍チームなのである。ワールドカップのときなどは、メンバーの半分近くが海外出身者だった。だが彼らは日本代表だ。いわば日本料理店の厨房に、フランスの鍋とイタリアのフライパンと中華の中華鍋が全部そろっているようなもの。味噌汁の横でパスタが茹でられ、隣で麻婆豆腐がグツグツいっている。これぞワンチーム、いやわが家流にいえば「椀チーム」である。一つの椀の中に、世界が仲良くおさまっている。

ところが今回の規定は、この国際色豊かな厨房に突然「味噌汁は味噌の故郷で六年以上暮らした者に限る」という頑固な張り紙を貼るようなものだ。しかしちょっと待ってほしい。味噌汁の主役である大豆にしても多くは外国産ではないか。日本の食卓は千年前からワンチームだったのに、今さら「出身地」を気にし始めた。これには大豆だって戸惑うだろう。「あなたはブラジル出身だから、今日の朝食には出場できません」などと言われたら、納豆だって泣きだすに違いない。

世界を見渡せば、この“出身地問題”の扱いは実にさまざまだ。アメリカなどは「国籍があればアメリカ人」という、いわばサラダボウル方式で、マンゴーがいようがアボカドがいようが気にしない。「今日のサラダは国際会議だな」とドレッシングをドバドバかけて喜んでいる。中国はまた極端で、国家が厨房を丸ごと管理している。材料も調味料もすべて国家の倉庫から出てきて、帰化選手も国家戦略の一環、料理長は国家そのもの、味見すら国家検定といった具合だ。英国にいたってはもっとややこしい。あの狭い島の中に厨房が四つもあり、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド(ラグビーはアイルランド)がそれぞれ「うちの鍋が一番だ」と譲らない。だからサッカーもラグビーも「イギリス代表」なんてものは存在しない。無理に一つの鍋にまとめようものなら蓋が飛び、スコットランドの鍋が「イングランドの味付けはなっとらん」と怒りだし、ウェールズの鍋が「俺のネギを返せ」と暴れだすらしい。

こうして見ると、今回の「六年規定」は、日本のラグビー界が急に「材料の純度」にこだわり始めたようにも見える。だが考えてもみてほしい。味噌汁、豚汁、けんちん汁、粕汁――どれもこれも外国産の大豆や野菜が混ざり合い、熱々の汁の中でとろけ合い、毎朝しれっと「ニッポンの朝」を演出しているではないか。味噌汁の大豆がどこから来たかより、その味噌汁がちゃんと熱いかどうかのほうが、よほど大事だ。ラグビーも同じで、どこで義務教育を受けたかより、どれだけ日本のために身を挺して泥にまみれたか、その「熱さ」こそが胸を打つ。
ふうふうと、今朝の審査官を啜る。熱い。椀チーム。これでいいのだ。

バンクシーの正体2026年03月17日

バンクシーの正体
覆面芸術家バンクシーの正体を、ロイター通信が「ロビン・ガニンガム氏」と特定したとする報道が世界を駆け巡った。2008年にも同様の指摘はあったが、今回は米国での逮捕資料を入手し、署名や供述内容などから裏付けたという。だが当のバンクシー側は多くを認めず、匿名性こそが権力に真実を語るための条件だと突き放した。この応酬そのものが、彼の作品の核心を改めて浮かび上がらせている。

バンクシーの匿名性は、単なる身元の秘匿ではない。政治的自由、法的防御、市場批判、そして神話性――それらを同時に成立させるための、周到に設計された装置である。反戦、反資本主義、監視社会批判。彼の作品はつねに権力の急所を突いてきた。もし実名で活動すれば、逮捕や監視のリスクは跳ね上がり、作品は検閲の網に絡め取られるだろう。無許可で壁に描くという行為そのものが制度への批評であり、公共空間の所有を問い直すメッセージでもある。今回明らかになった2000年のニューヨークでの逮捕歴は、その緊張関係を象徴する出来事と言える。

制作の手法もまた、匿名性を守るために組織化されている。ステンシルを事前に作り込み、現場では5〜20分ほどで一気に仕上げ、証拠を残さず撤収する。そして後日、公式認証機関「ペスト・コントロール」が真贋を保証する。壁画そのものでは利益を得ず、版画や公式グッズが主な収入源となる。匿名のまま作品を流通させ、市場まで成立させる。この奇妙な仕組みは、アートが資本と結びつく現代の構造そのものを、内側から皮肉っているかのようでもある。

興味深いのは、こうした「無許可の政治的アート」が国によってまったく異なる受け止め方をされる点だ。英国では、一般の落書きは治安悪化の象徴として嫌われる一方、バンクシーの作品は風刺文化と反権力精神の象徴として歓迎されることも多い。市民が作品を保護し、観光資源として誇りにすら感じる例もある。しかし行政にとっては無許可の落書きであることに変わりはない。消せば批判され、残せば模倣を招く。いわば「違法だが文化財」という矛盾の中で扱われているのである。

欧州ではストリートアートを都市文化として受け入れる傾向が比較的強く、作品が街のアイデンティティとして保存される例も少なくない。米国では市民の支持と行政の規制が併存し、日本では関心こそ高いものの、制度としてはなお厳しく拒まれる。壁に描かれた一枚の絵が、社会の公共観や権力観をあぶり出す。ストリートアートをめぐる反応は、その社会がどのような政治文化を持つかを映す鏡でもある。東京都港区の防潮扉に描かれていたネズミの絵は、バンクシーの作品だとされている。都知事はこれを即座に消すのではなく、むしろ保護する姿勢を示した。日本では一般的な落書きは厳しく排除される一方で、この作品だけは例外的に扱われた。そこには、単なる“落書き”ではなく、社会的メッセージを帯びたアートとしての価値を認める空気がわずかに芽生えているようにも見える。

結局のところ、ロイターの報道が示したのは、バンクシーの「正体」そのものではない。むしろ逆だ。正体を暴こうとするたびに、彼の作品の仕組みはより鮮明になる。匿名であること自体が、すでに一つの表現だからである。権力や市場がその仮面を剥がそうとするたびに、皮肉にもその作品は完成に近づいていく。バンクシーとは、一人の人物の名前というより、現代社会が生み出した一つの寓話なのかもしれない。

HIMARIとtuki.2026年03月13日

HIMARI
NHKのドキュメントで、14歳のヴァイオリニストHIMARIの演奏を見て、思わず息をのんだ。ヴァイオリンの専門知識などまったくない。それでも、音が始まった瞬間、画面から目が離せなくなった。技巧の凄さというより、音楽そのものに引き込まれる感覚だった。そのとき不意に思い出したのが、シンガーソングライターのtuki.である。ジャンルも世界もまるで違う二人だが、初めてその才能に触れたときの衝撃は、驚くほど似ていた。

令和の音楽シーンを眺めると、この二人は対照的な場所から現れている。HIMARIはクラシックの王道を突き進む存在だ。幼い頃から音楽家の父とヴァイオリニストの母に囲まれ、徹底した訓練のもとで育った。やがて彼女は米国の名門カーティス音楽院に進み、名教師アイダ・カヴァフィアンに師事する。さらにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やシカゴ交響楽団といった世界最高峰の舞台に立つ。授業料は無償でも、海外生活、遠征費、楽器保険、名器の維持費など、クラシックの世界は典型的な「資本集約型」だ。そこには才能だけでは語れない、膨大な投資と制度が存在している。

一方、tuki.はまったく逆の場所から現れた。SNSに弾き語り動画を14歳で投稿し、父親のプロデュースのもとで世界観を整えながら、顔を出さないまま晩餐歌を大ヒットさせた。ストリーミング再生は7億回を超え、日本武道館公演は最年少記録としてギネスにも認定された。必要だったのは、ギターとスマートフォン、そしてSNSという軽量なインフラだけ。かつて宇多田ヒカルがテレビとCDの時代の音楽地図を塗り替えたように、tuki.はSNS時代の「共感の構造」を更新した存在と言える。ただし音楽性は異なる。宇多田がR&Bの革新だったとすれば、tuki.は日常の感情をそのまま言葉にすくい取る、令和の語り手だ。

クラシックとポップ。世界のコンサートホールとSNS。資本集約型と軽量型。二人の置かれた環境は驚くほど違う。それでも共通する点がある。どちらの背後にも「父親プロデュース」という家庭の力があることだ。HIMARIは世界のクラシック界を驚かせ、tuki.はSNS時代のヒットの作り方を変えた。衝撃の方向は違っても、時代を揺らすエネルギーの大きさはよく似ている。

結局のところ、二人の存在はひとつの事実を浮かび上がらせる。才能は孤立して生まれるものではない。家庭という最初の環境があり、そこに時代のメディア構造が重なったとき、初めて爆発的な現象として立ち上がる。

HIMARIとtuki.。令和の音楽が生んだ二つの奇跡は、「才能 × 家庭 × 時代」が交差した瞬間を私たちに示している。これから成人期へ向かう彼らには、成長の速度と実力のギャップ、環境の変化、そして周囲の期待という新たな課題が待ち受けているだろう。それでも、どのように未来を切り開いていくのかを見届ける楽しみは尽きない。

奪われた熱狂「WBC観戦」2026年03月12日

奪われた熱狂「WBC観戦」
馴染みのパブのドアを開けると、やけに静かだった。サッカーW杯やオリンピックの夜には、見知らぬ隣人と肩を組み、グラスを鳴らして歓声を上げた場所だ。店主にWBCの放映予定を尋ねると、彼は苦笑して首を振った。「うちは流せないんだ。ネフリの独占だから」。なんということだ。2026年のWBCはNetflixの独占配信になったという。パブや飲食店が自由にパブリックビューイングを行う仕組みはなく、主催者公認のイベントを除けば、店側が正規契約を結んで放映する制度がない。つまり独占配信が決まった瞬間、その試合を街の店で「みんなで観る」合法的な方法は、この社会から事実上消えてしまったのである。

驚くべきことだが、これは企業の強欲でも技術の問題でもない。単純に、日本の制度が追いついていないからだ。かつてテレビ放送は放送法の枠組みにあり、飲食店での視聴は実務上ほとんど問題視されてこなかった。ところがネット配信は著作権法上「自動公衆送信」と扱われ、配信サービスの利用規約も個人の非商業利用に限られる。店のモニターに映せば権利侵害と見なされる可能性がある。結果として、街のパブやスポーツバーはスクリーンを消すしかなくなる。

だが、ここで問われるべきは配信企業の戦略ではない。この社会が「共有体験」をどう扱うのかという問題である。国際大会をみんなで観戦する文化は単なる娯楽ではない。店に人が集まり、知らない者同士が同じ瞬間に歓声を上げる。その時間は地域社会をつなぐ見えない接着剤のようなものだ。スポーツがしばしば「国民的イベント」と呼ばれるのも、その瞬間を社会全体が共有するからである。海外では、この価値を制度として守る動きがある。欧州ではワールドカップや五輪などを「listed events」に指定し、国民が無料で視聴できる環境を確保している。巨大スポーツイベントを社会全体の共有財産とみなす発想だ。配信の時代になったからといって、日本だけがこの共有体験を失わなければならない理由はない。

必要なのは、ほんの小さな制度の更新である。例えば「入場料を取らない」「試合そのものを商品化しない」という条件のもとで、飲食店や地域施設による非営利のパブリックビューイングを認める。店は通常の飲食を提供でき、著作権者の利益も守られる。欧州でも広く採られている現実的な折衷案だ。具体的には、放送法に「国民的重要イベントの公衆視聴特例」を設けてネット配信も対象に含め、同時に著作権法で非営利・無料の共同視聴を上映権の例外として整理すればよい。

制度の隙間は、それほど難しい改正ではない。考えてみれば不思議な話である。技術は進歩し、世界中の試合をスマートフォンで観られる時代になった。それなのに、街の店で肩を並べて観戦するという、いちばん原始的で人間的な楽しみ方だけが法律の隙間で消えようとしている。あのパブに再び歓声が戻るかどうか。それは単なるスポーツファンの願いではない。ネット配信の時代に、社会が「みんなで楽しむ」という文化を守れるのかどうか――その試金石なのだと思う。

ワーナー買収合戦2026年02月25日

ワーナー買収合戦
ワーナーをめぐる買収合戦は、ストリーミングが「青春期」から「大人の時代」へ移ったことを告げる騒ぎである。青春期は拡大と夢の時代だった。どの会社も利用者を増やすために金を投じ、花火のようにサービスを打ち上げた。だが花火は続かない。夜が明ければ残るのは灰で、視聴者は財布に優しい契約だけを選ぶ。サービスは増えすぎ、利用者は複数契約をやめ、広告も伸びにくい。結果として投資は回収できず、業界は再編に向かう。

ワーナーもParamountも強い作品を持つ。DCヒーロー、Harry Potter、HBOのドラマ、CBSの安定感――宝の山に見える。しかし家計簿を開けば負債が積み上がり、テレビ部門は縮小傾向にある。昔は金のなる木だったテレビは、今や手入れの難しい庭木だ。切れば現金は得られるが庭は寂しくなる。売りたくても買い手が少なく、身動きが取れない。合併しても問題が一緒になるだけなら、魅力が増す保証はない。

対照的なのがNetflixである。ここは作品そのものを主役に置く珍しい企業だ。世界190カ国の視聴データを解析し、当たるか外れるか分からない企画を大量に走らせる。失敗は前提、成功は宝。だから挑戦的な作品も生まれる。ワーナーを取り込めばHBOの重厚さとNetflixのデータ力が混ざり、世界向けの新スタジオが誕生する可能性はある。ただしテレビ部門の処遇という長い宿題が残る。短期維持、中期切り出し、長期縮小――料理でいえば下ごしらえから時間がかかる。

この舞台の外側にいるのがAmazonだ。買収戦争に加わらないのは弱いからではなく、配信を本業にしていないからである。Prime Videoの目的は作品で覇権を取ることではなく、Prime会員を囲い込みEC売上を増やすことにある。さらに多くの配信会社がAWSというインフラを使うため、競争が激しくなるほどAmazonは裏方でサーバー利用の利益を得る。戦場の外側から稼ぐ静かな勝者と言える。

しかし静かな勝者にも課題はある。Prime Videoの作品はアルゴリズムに基づいた安全志向になりがちで、尖った魅力が薄いと指摘される。多角経営ゆえにリスクを取る必然がなく、無難な企画が増えるからだ。配信市場では勝者でも、物語の世界では挑戦者とは限らない。作品に命を懸けなくても利益が出る構造が、結果として作品の面白さを制約する。

結局のところ、今回の買収競争はストリーミングが次の段階に進むための通過点である。規模を取るのか、作品を取るのか。安定を取るのか、挑戦を取るのか。ワーナーとパラマウントの統合は延命色が強く、未来の再設計とは限らない。Netflix型の統合は作品とデータを軸に再編する可能性を秘めるが簡単ではない。Amazonは外側から利益を得るが、物語の中心にはいない。

スクリーンの未来は数字だけで決まらない。視聴者が何を見たいのか、どんな物語に心を動かされるのか。その問いに答えられる企業だけが、次の時代の勝者になる。買収合戦はその序章にすぎない。配信中にCMが流れたり課金を促されるAmazonは最近鬱陶しくて観なくなった。ストリーミング漬けの爺さんにとっては面白くてリーズナブルの一択だ。

仕事AI VS 会話AI2026年02月22日

仕事AI VS 会話AI
AI に文章の校正を頼むことが増え、便利な時代になったものだとつくづく思う。誤字脱字を直すだけでなく、文章の流れまで整えてくれるのだから、人間の編集者がそばにいるような心強さがある。しかし、油断は禁物だ。会話が長くなるほど誤解が積み重なり、こちらも過去のやり取りをすべて覚えているわけではないので、気づけば“ぼけ老人同士の会話”のように、最初の文脈からどんどん離れてしまうことがある。興味深いのは、この現象が ChatGPT や Gemini といった「チャッピー系」に多く、Copilot では比較的少ないことだ。Copilot も間違えるときはあるが、指摘すれば素直に元の筋道へ戻ってくる。どうやらこの違いは、単なる性能差ではなく、AI がどんな目的で作られているかという“設計思想”の差に根ざしているらしい。

チャッピー系の AI は、「自然で柔らかい会話」や「一発で滑らかな文章」を最優先する。いわば“瞬間芸”の名手で、プロンプトが少し曖昧だとすぐに誤解し、ユーザーの間違いもそのまま受け入れてしまう。会話が長くなると前提が崩れ、校正を重ねるほど文章が劣化していくのは、この思想の必然という。

対照的に、Copilot はまったく別の方向を向いている。Microsoft が長年 Office や Windows で培ってきた「人間の仕事を壊さず、継続的に支援する」という哲学を受け継ぎ、曖昧な指示でも対話の中で焦点を絞り、前提を保ちながら作業を続けるように設計されている。だから、校正を何度繰り返しても文意が崩れにくく、長期の作業にも耐えられる。Copilot は“会話 AI”というより“仕事 AI”なのだ。

もちろん、この設計には代償もある。Copilot のような長期文脈 AI は、毎回の応答のたびに過去の会話の構造を読み返し、意味のつながりを整理しながら返答する。そのため、膨大なメモリ帯域と電力を必要とし、結果として反応が他の AI より遅くなったり、処理が詰まって動作が不安定になることもある。従来の GPU が得意としてきた「演算性能さえ高ければよい」という世界とは異なり、これからの AI には電力効率とメモリ帯域が支配的な、まったく新しい計算モデルが求められているようだ。

ここで注目したいのが、日本企業が開発を進めている省エネ型 AI アクセラレータだ。SONY や NEC、富士通などが取り組む省電力・高効率の半導体は、まさに長期文脈 AI の時代に適した方向性である。NVIDIA が抱える電力効率の弱点を突ける、数少ないチャンスでもある。現状では、長期記憶を保持し、仕事に耐える AI は Copilot しかなく、ユーザーにとって選択肢はほぼ存在しない。だが、省エネ型 GPU が実用化されれば、長期文脈 AI の高速化が進み、日本が AI インフラ競争で優位に立つ未来も見えてくる。 もしかすると、AI の次の時代を切り開くのは、日本の技術力なのかもしれない。