稲は実ったのか ― 2026年10月28日

稲は実ったのか
財政論争には不思議な癖がある。借金が何兆円増えた、財政赤字が何%になった、日銀がどれだけ国債を買った。皆が熱心に数字を数える。しかし、その資金がその後どうなったのかを追いかける人は案外少ない。まるで農家が収穫を見ずに肥料代の領収書だけを眺めているようなものである。

統合政府論では、政府の負債と日銀の資産を相殺できるかどうかが議論になる。だが、さらに一歩引いて見れば、日銀の負債は民間の資産でもある。結局、誰かの負債は誰かの資産なのだ。政府、中央銀行、企業、家計を含めて眺めれば、負債と資産は複雑な網の目のようにつながっている。にもかかわらず、議論はしばしば負債だけを切り取って進められる。木を見て森を見ないとは、まさにこのことである。

もちろん、だから借金はいくら増えてもよいという話ではない。しかし同時に、借金が増えたから悪いという話でもない。重要なのは、その資産が何を生み出したかである。百兆円の負債が百兆円の資産を生み、その資産が設備投資や研究開発や新規事業へ流れたなら、そこからさらに新しい所得と価値が生まれる。一方で、資産として積み上がるだけで動かなければ、経済への効果は限定的になる。問題は資産の存在ではなく循環なのである。

財政投資を巡る議論では、「ピラミッドを建てても意味がない」という比喩がよく使われる。それは一理ある。しかし資金はピラミッドの中で止まらない。建設会社の売上になり、労働者の給与になり、消費や投資へ流れていく。ケインズが「穴を掘って埋めるだけでもよい」と述べたのは、穴そのものに価値があるからではなく、資金循環に価値があるからだった。経済とは完成品の品評会ではない。所得と支出が巡り続ける過程そのものが重要なのである。

しかし近年の議論は少し奇妙だ。かつての「政府は何もするな」という極端な市場万能論は勢いを失ったが、その代わりに「政府が正しい投資先を選べる」という発想が目立つようになった。だが未来が見える者などいない。官僚も政治家も企業経営者も同じである。成功する事業は事前には分からない。民間企業が数打てば当たる方式で発展してきたのもそのためだ。むしろ政府が未来を完全に見通せると考える方が、よほど危険な楽観主義かもしれない。

結局のところ、本当に重要なのは政府が何を作ったかではなく、資金が社会をどう巡ったかなのである。借金を語る人も、通貨発行を語る人も、往々にして帳簿から目を離せない。しかし経済成長は帳簿の中では起きない。誰かの負債が誰かの資産となり、その資産が投資となり、雇用となり、技術となり、新しい価値となることで初めて生まれる。日本の財政論争は今日も肥料代の計算に熱中している。だが、どれほど高性能な電卓を用意しても稲は育たない。本当に見るべきなのは帳簿ではなく、その先の収穫なのである。

インドに抜かれた日本 ― 2026年10月27日

インドに抜かれた日本
国際通貨基金(IMF)の世界経済見通しによると、日本の名目GDPは2027年にもインドと英国に抜かれ、世界6位へ後退する見通しだという。ニュースではインドの高成長や円安が理由として語られる。しかし、それではまるで日本が昨日まで順調に成長していたかのような話である。日本が追い抜かれたのは昨日今日の出来事ではない。30年以上積み重なった低成長が、ようやく順位という形で見えるようになっただけだ。

経済成長は複利で積み上がる。日本の名目GDP成長率は過去35年間で平均すれば年1%程度にとどまった。一方、米国は年4.8%、インドは年12.4%前後で成長してきた。この差を35年間積み上げると、日本の経済規模は約1.36倍にしかならないのに対し、米国は約5.16倍、インドは約12.2倍になる。毎年数%の差だから大したことはないと思っていても、複利の世界ではやがて取り返しのつかない格差になる。インドが奇跡を起こしたのではない。米国もインドも普通に成長を続けただけである。日本だけがほぼ足踏みを続けてきたのである。

その理由として、少子高齢化や人口減少がよく挙げられる。しかし、それでは原因と結果を取り違えていないだろうか。将来に希望があり、所得が伸び、雇用が安定していれば、人は家庭を持ち、子どもを育てようと考える。反対に、賃金は上がらず、将来不安ばかりが膨らめば、結婚や出産は先送りされる。人口減少は突然降ってきた天災ではない。成長できない経済が、その進行を早めてきた面もある。高齢化は日本だけの現象でもない。欧州にも同じ課題を抱える国は多いが、投資によって生産性を高め、成長している国もある。人口構造だけで停滞が決まるというなら、経済政策など最初から必要ないだろう。

では日本は何をしてきたのか。ひと言で言えば、将来への投資をためらい続けてきた。景気が悪いから支出を抑える。需要が不足する。企業は設備投資を見送る。賃金は伸びず、消費も増えない。税収が伸びないので財政赤字が問題になる。そして赤字を減らすために、さらに支出を削る。この発想を長年主導してきたのが財務省である。景気や成長よりも財政規律を優先し、経済の体温より家計簿の数字を重視してきた。一方の日銀も、長く続いたデフレから十分に脱却できず、「どうせ成長しない」という空気を経済全体に定着させた。財務省は規律を守ったと言い、日銀は責務を果たしたと言うだろう。確かに目標は守られた。しかし35年後に残った現実は、低成長と順位低下だった。

もちろん、支出さえ増やせば成長するわけではない。無駄な事業まで正当化するつもりもない。しかし、インフラ、科学技術、教育、人材育成といった将来の生産力を高める投資まで抑え込めば、成長する力そのものが衰える。企業で言えば、売上が落ちたので設備投資を削り、競争力が低下した結果、さらに売上が落ちるようなものだ。そんな経営を続ければ市場から退場するしかない。ところが国家になると、成長しないのは高齢化のせい、賃金が上がらないのは人口減少のせいと説明される。原因は毎回どこかへ旅に出る。しかし、投資を絞った政策だけは、いつも現場に残っているのである。

それなのに、インドに抜かれるというニュースになると、まるで現在の政権だけの責任であるかのような議論が始まる。しかし、35年間の成長格差を一つの政権だけで説明できるはずがない。問われるべきは、誰が総理だったかではなく、なぜ日本が長期にわたり投資を避け続けたのかである。

GDP順位は国威発揚のための運動会ではない。毎年の成長率が積み重なった結果にすぎない。インドが突然走り出したのではない。世界は普通に歩き続けていたのである。その間、日本は靴代を惜しみ、靴底が擦り切れても「倹約に成功した」と胸を張っていた。そして気が付けば、後ろにいると思っていた国々の背中を眺める立場になっていた。

 して今になって「なぜ抜かれたのか」と驚いている。驚くべきは順位ではない。35年間、成長のタネを食べ続けながら、収穫が増えないことだけは不思議がっていたことである。世界は特別な魔法を使ったわけではない。ただ投資し、成長し、その果実を積み上げただけだ。日本だけが、その当たり前を忘れていただけなのである。

クマと人間の学習能力 ― 2026年10月26日

クマと人間の学習能力
京都の観光地にも住宅地にも、近ごろはクマが頻繁に現れる。クマは賢い動物だと言われる。ドアノブを回し、車のドアを開け、クーラーボックスを探し当てる。人間の置いた餌や生ごみの在りかを覚え、一度成功した場所へは何度でも戻ってくる。なるほど、その方面の才能は認めざるを得ない。列車の時刻表は読めなくても、弁当の在りかを嗅ぎ当てる能力にはなかなかのものがある。人間だって、これほど熱心に学習するのは給料日と特売日、そして何故かクマと同じゴミの日くらいである。

ところが、その賢さに少々疑問を投げかける数字もある。JR北海道によれば、クマとの衝突事故は2015年度の24件から2025年度には76件へ増加した。シカとの衝突事故も1,961件から3,478件へ増えている。もちろん事故件数だけで知能は測れないし、生息数も違う。それでも増加率だけ見れば、クマの事故は約3倍、シカは約1.8倍である。賢者と呼ばれる動物としては、あまり胸を張れる成績ではなさそうだ。

もっとも、それはクマやシカの責任とも言い切れない。仲間が事故に遭っても、その情報が群れ全体に共有される仕組みがないからである。クマにはテレビも新聞もSNSもない。環境省の速報が山奥まで届くこともない。人間社会なら事故が起きればニュース速報が流れ、専門家が解説し、有識者会議が開かれ、報告書が作られる。報告書を読むための会議まで開かれることもある。クマ社会には、そうした無駄も含めて一切存在しないのである。

ここで重要なのは、利益と損失の違いである。クーラーボックスは現場に残る。ごみ置き場も残る。車の中の食べ物も残る。だから餌の情報は何度でも発見される。一方、列車にはねられた経験は本人と一緒に消える。利益は現場に残り、損失の経験は死んだ個体とともに消えるのである。人間は時々、「何頭か駆除すれば他のクマも懲りるだろう」と期待する。しかし、危険の記憶は個体ごとに途切れ、餌の情報だけが環境の中に残り続ける。そうなれば学習の方向は自然に決まる。人里は危険な場所である前に、魅力的な餌場なのだ。

考えてみれば、人間社会もあまり威張れない。事故が起きれば再発防止策を作る。不祥事が起きれば第三者委員会を設置する。そして、よく似た事故や不祥事が再び起きる。そのたびに前回の報告書を探し出し、「教訓を生かしたい」と神妙な顔で語る。人間は豊かな情報共有の仕組みを持っている。ところが共有された情報が期待通りに活用されるとは限らないらしい。どうやら学習というものは、私たちが思っているほど万能ではないのである。

増えるのは「人間を恐れるクマ」ではなく、「人間社会の利用法を覚えたクマ」かもしれない。クマは今日も線路や道路を使いごみ置き場へ向かう。人間は今日も廊下を使って会議室へ向かう。どちらも餌場を目指している点では、それほど大きな違いはない。違いがあるとすれば、人間はその途中で報告書を作ることくらいだろう。

世間はクマを森の賢者として語りたがる。しかし統計と行動を並べてみると、そこに見えるのは利益には敏感で、危険には案外鈍感な大型哺乳類の姿である。そしてその特徴だけなら、人間もあまりクマやシカを笑えそうにない。結局、人里との距離を保つには個体数管理を軸とした抜本的な対策しかないのだろう。だが、その話になると途端に議論は保護か安全かの堂々巡りを始める。どうやら学習能力については、人間も野生動物にそれほど大きな差をつけらないらしい。

高度人材育成と職業高校 ― 2026年10月25日

高度人材育成と職業高校
埼玉県立熊谷工業高校が、国の公立高校教育改革における「改革先導拠点」に選ばれたという。私立高校の授業料無償化による公立高離れへの対策として、埼玉県は国の補助金など約21億円を投入し、建築や電気など五学科を横断する学習や最新デジタル設備の導入を進めるそうだ。目標は「AI時代に対応する高度な実践的人材」の育成であり、新聞も期待を込めて報じている。もっとも役所も新聞も昔から新しい横文字が大好きだ。「高度人材」「DX」「イノベーション」。看板を掛け替えるたびに未来が近づいてくる気がするらしい。しかし看板を支える柱の話になると、なぜか急に口数が少なくなるのである。

新聞や役所の言う「高度人材」とは、きれいなオフィスでパソコンに向かう人か、先端ITを扱う技術者のことなのだろう。しかし世の中は画面の中だけでは動いていない。どれほど立派な設計図を描こうと、実際に鉄骨を組み、コンクリートを打ち、電線をつなぎ、機械を修理する人がいなければ現実には何も完成しない。停電になれば復旧する人が必要だし、水道が壊れれば直す人が必要だ。AIが未来を語っているあいだも、高所で命綱を付けて作業をしている人がいる。未来社会というものは、どうやら泥だらけの長靴の上に建っているらしい。

もちろん工業高校でデジタル教育を進めること自体は悪い話ではない。今どきの建設機械も工作機械もコンピューター抜きでは動かない。しかし人手不足の話になると、教育改革ばかりが注目されるのはいささか不思議である。建設、設備、電気、機械保全。どの業界も人が足りないと言われて久しい。それなのに若者へ示される将来像は、「責任は重いが給料はそこそこ」「社会を支えるが評価は控えめ」というものだったりする。これで人が集まらないと嘆くのは、魚を減らした池の前で「最近は魚が釣れない」と首をひねるような話だ。原因の方が、自分から逃げていくのである。

お役所は人手不足になるたびに会議を開き、有識者は報告書を書き、新聞は深刻そうな顔で特集を組む。そして最後はたいていAIか外国人労働者の話になる。もちろんそれぞれ必要な場面はあるだろう。しかし、技能者が集まらない理由を考えるなら、まず待遇や社会的評価の話から始めるべきではないか。ところがそちらはあまり語られず、「人材確保策」「リスキリング」「成長戦略」と新しい言葉ばかり増えていく。病気の診断は避けながら、薬の包み紙だけを毎年新しくしているようなものである。中身が効かないのに包装だけ立派になっていく。

産業というものは富士山によく似ている。山頂には研究者や経営者や高度技術者がいる。しかし、その雄大な姿を支えているのは広大な裾野であり、現場の技能者や職人である。裾野を削りながら頂上だけ高くしようとしても長続きするはずがない。ドイツなどでは職業教育と実務訓練が社会の中に組み込まれ、技能者が専門職として評価されている。だから若者も誇りを持ってその道を選ぶ。対して日本では、ときどき「勉強しないと楽な仕事に就けない」などという言葉を耳にする。職人不足を嘆きながら職人を罰ゲームのように語るのだから、ずいぶんな国である。

21億円をかけて最新設備をそろえるのは結構である。むしろ必要な投資だろう。しかし本当に工業高校を魅力ある学校にしたいなら、卒業した技能者が高い収入を得て、社会から尊敬される仕組みを整える方が先ではないか。子どもたちが「あの仕事は格好いい」「あの資格を取れば一人前だ」と憧れるようになれば、定員割れや募集停止を心配する必要も小さくなる。21億円の機械は十年もすれば古くなる。しかし職人への敬意は故障もしないし、更新費用もかからない。もっとも、日本社会は何十年もその投資を見送ってきた。最近は職人不足が問題だと言いながら、職人を支えるDXの話ばかりしている。脚立が足りないのではない。上る人が足りないのである。

ボルボの馘首とEUの過信 ― 2026年10月24日

ボルボの馘首とEUの過信
ボルボが世界で約2500人の人員削減に踏み切る。そのうち約2000人は本国スウェーデンである。人口規模で換算すれば、日本なら2万人超の人員削減に近い大量馘首だ。経営陣は中国市場の低迷や関税問題、事業環境の変化を理由に挙げる。しかし企業が苦境に陥るたびに登場する説明はだいたい同じだ。「構造改革」「事業転換」「市場環境の変化」。どれも間違いではないが、最後に代償を支払う人物の名前は隠されている。請求書を渡されるのは現場の従業員である。経営戦略の失敗は難解な経営用語に化け、解雇通知となって届く。今回の人員削減もまた、一企業のリストラというより、欧州自動車産業が抱いた二つの幻想の清算と見るべきだろう。

第一の幻想は、脱炭素を掲げれば世界が予定表どおりEVへ移行するという発想である。もちろんEVそのものが失敗だったわけではない。充電設備は増え、電池性能も向上した。しかし技術の進歩と、根本的な制約の解消は別問題だ。とりわけ寒冷地では、バッテリー性能の低下と暖房による電力消費という課題が今も残り劇的な解決には至っていない。北欧の長い冬に航続距離は縮み、利用者は暖房の使用さえ気にしなければならない。未来の技術は魅力的だが、消費者は未来に住んでいるわけではない。今日、便利で安心して使えるかどうかで判断する。政策担当者は未来から現在を眺めるが、消費者は現在から未来を眺める。その違いを見誤れば市場は動かない。

ところがEUは市場や技術の成熟を待つより先に結論を決めた。脱炭素という目標から逆算し、事実上EVを勝者として扱ったのである。本来、どの技術が生き残るかは競争が決める。企業が失敗し、改良し、価格を下げ、消費者が選ぶ。その過程で技術は磨かれる。ところが欧州は競争の結果を待たず、思想と政策で勝者を指名した。計画経済が繰り返し失敗したのは、市場より賢い計画担当者が存在しなかったからだ。それにもかかわらず、欧州は自分たちだけは例外になれると思ったらしい。しかし市場は命令を聞かなかった。市場には投票箱はないが、消費者には財布がある。そして財布はしばしば政策より正直である。

第二の幻想は、中国という巨大市場への期待だった。欧州メーカーはその規模に魅了され、現地生産や技術協力を進めてきた。しかし中国は単なる顧客ではない。国家主導で産業を育成し、自国企業を競争力ある存在へ押し上げるためなら技術も盗む権威主義国家でもある。外国企業が技術を持ち込み、中国企業が経験を蓄積し、やがて競争相手となる。この構図は日本企業も経験してきた。さらに皮肉なのは、EVシフトを進めるほど中国依存も深まったことだ。電池や重要鉱物の精錬など供給網の要所には中国が座っている。脱中国を唱えながら、中国なしでは脱炭素政策を進められない。石油依存から脱却すると宣言しながら、新たな依存先へ駆け込んでいたようなものだった。

しかもボルボ自身は現在、中国の吉利グループ傘下にある。中国市場の成長に期待し、中国資本の傘下に入り、その中国市場の競争激化に苦しむ。なかなか皮肉な事業計画である。かつて成長の象徴だった市場が、今では利益を圧迫する側に回った。その事実は、グローバル化が常に相互利益をもたらすという楽観論の危うさを物語る。欧州は市場開放と相互利益を信じた。しかし国際競争は道徳教育ではない。どの国も自国の利益を追求し、企業を育て、産業を守る。こちらだけが理想を語っても、相手まで同じ理想を共有してくれる保証はない。欧州は市場規模に酔い、中国は産業育成に集中した。その結果、理想を語った側より現実を見ていた側が力をつけたのである。

ボルボの2500人削減は、単なる業績不振のニュースではない。脱炭素の理想を技術の現実より先に置いたこと。そして巨大市場への期待を警戒心より優先したこと。その二つの過信が招いた結果である。環境政策は産業政策の代用品ではない。巨大市場は利益の保証人でもない。有望な技術への投資と、その技術に会社の命運を賭けることも別である。ボルボは長年、安全で頑丈な車を作ることで評価を築いてきた。しかし企業に本当に必要なのは、衝突試験に耐える車だけではない。流行や政治目標、市場幻想との衝突にも耐えられる経営戦略である。車の衝突試験には合格できても、経営戦略の衝突試験には不合格だったらしい。そして理想を語った政治家も、戦略を描いた経営者も職を失わない。脱炭素グローバリズムが振り出した手形を、最後に現金で支払わされたのは現場の労働者だったのである。

サイバー攻撃と国会 ― 2026年10月23日

サイバー攻撃と国会
火事が起きている。しかもボヤ騒ぎではない。企業の基幹システムが停止し、顧客情報が流出する。自治体や医療機関まで攻撃の標的となり、社会を支える神経網そのものが揺さぶられている。ところが、その火事のすぐ横にある国会では、週刊誌が報じた政治家の疑惑をめぐる論戦が連日続く。サイバー防衛の議論は数分で終わり、疑惑追及には何十分、時には何時間も費やされる。燃えている家の前で隣人の噂話に花を咲かせているようなものだ。しかも私たちは野次馬ではない。その家の持ち主である。自分たちの家が燃えているのに、隣の話ばかり気にしているのだから、笑うに笑えない。

もちろん政治家の不正を追及するなと言うつもりはない。権力の監視は民主主義の根幹であり、国会の重要な役割である。しかし目の前で火の手が上がっているなら、まず消火を急ぐのが常識だろう。週刊誌報道には見せ場がある。鋭い質問も苦しい答弁もテレビ映えする。質問と答弁がかみ合わなければニュースにもなる。しかしサイバー攻撃は国会中継の盛り上がりなど待ってはくれない。攻撃者は侵入し、潜伏し、弱点を探し続ける。被害の検知や復旧に拍手はないが、国民生活を支えるのはむしろその地味な仕事なのである。

しかも問題は外からの攻撃だけではない。日本には古いシステムが今も数多く残されている。中にはサポートが終了したPHPなど、更新の止まった技術基盤の上で動き続けるものもある。脆弱性が見つかれば、民間企業の現場は直ちに動き出す。担当者はサーバーの状態を確認し、夜中まで点検作業を続ける。場合によっては売上への影響を覚悟しながらホームページを緊急停止し、利用者への説明に追われる。攻撃者はゼロから城壁を破ろうとしているわけではない。閉め忘れた勝手口を探しているのである。サポート切れのシステムは、その勝手口になりかねない。今回のPHPの古い穴は深刻だ。サーバー丸ごと乗っ取られる。

だが、その頃国会では何が話し合われているのか。企業や自治体の担当者が眠れぬ夜を過ごし、病院や公共機関がシステム障害に備えて緊張を続ける横で、相変わらず週刊誌記事をめぐる応酬が続いている。現場は火消しに奔走しているのに、政治だけが火の勢いより噂話の真偽を優先しているように見える。会社なら緊急対策本部が立ち上がる局面で、永田町だけが平常運転なのである。

電力、物流、医療、行政は情報システムという神経系で結ばれている。病院が止まれば診療が滞り、自治体が機能不全になれば住民サービスが麻痺する。物流が止まれば店頭から商品が消え、工場が止まれば生産も止まる。現代社会は便利になった分だけ、システム障害への耐性を失った。火事が起きてから消火器を買いに走るのでは遅い。消火器の予算や配置を議論している間に家が燃え尽きれば、損害は取り返せない。

世界の主要国はこの危険を前提として動いている。サイバー防衛の強化に多額の予算を投じ、人材育成や監視体制の整備を進めている。一方、日本も対策を進めてはいるが、その危機感が国会審議の時間配分に表れているとは言い難い。米国が何十台もの消防車を並べている横で、日本はまだバケツの数を数えているようなものだ。火事の規模が違うのではない。消火に用意している水の量が違うのである。

必要なのは看板や計画書ではない。強力な司令塔、十分な予算と専門人材、重要インフラの監視体制、そして自治体や医療機関を含めた復旧訓練である。国会が問うべきは計画書のページ数ではなく、攻撃を受けたとき何を守り、どこまで被害を抑え、何時間で社会機能を回復できるのかという現実的な能力だ。国民の生命と暮らしを支える基盤を守ることは、一省庁だけに任せて済む問題ではない。

国会の時間は有限である。何に時間を使っているかを見れば、その国が何を優先しているかが分かる。疑惑があれば追及すればよい。しかし火事の消火を後回しにしてまで続けることなのか。民間企業では脆弱性が見つかればホームページを止める。売上が減ると分かっていても止める。火事だからである。ところが国会は違うらしい。こちらは家が燃えていても、まず隣人の噂話から片付ける。サポートの切れたシステムが放置されるのも、サイバー防衛の予算が伸びないのも、攻撃への備えが後手に回るのも、結局は同じ理由である。政治が火事より噂話を優先しているからだ。

国会は火災報知器ではない。消防署である。ベルを鳴らし続けるだけなら誰でもできる。火を消す人がいなければ家は灰になる。今、国会が向き合うべきなのは週刊誌の見出しではない。静かに、しかし確実に燃え広がりつつある日本の社会基盤そのものなのである。

火星往復H3ロケット ― 2026年10月20日

火星まで飛べH3ロケット
火星の衛星フォボスを目指す探査機MMXを載せ、H3ロケット10号機がいよいよ打ち上げられる。形態はLE-9エンジン2基にブースター4本を従えた大型の「H3-24L」、全長約63メートルという威容だ。目的地のフォボスで砂や岩石を採取し、地球へ持ち帰る。宇宙へ行くだけでも大ごとなのに、現地で買い出しをして無事に帰宅する。宇宙規模のお使いとしては、かなりの遠出であり大事業だ。

ロケットの話になると、世間はすぐスペースXを引き合いに出す。あちらは第1段を回収して再使用し、劇的なコスト削減を実現した。片や日本は使い捨てである。「これでは勝負にならない」という声も聞こえるが、ロケットの価値は使い回せる回数だけで決まるものではない。どれだけの荷物を遠くへ運べるか。宇宙の物流において、この輸送能力の高さも立派な看板商品なのだ。

その看板を支えるのが、H3の心臓部「LE-9」エンジンである。燃料は扱いの難しい極低温の液体水素だ。特徴は「エキスパンダーブリードサイクル」という日本独自の方式にある。燃焼室やノズルを冷やした水素を気化させ、そのガスでターボポンプを回す。これにより、構造の複雑なプリバーナーが不要になる。部品数を減らしてコストと信頼性の両立を目指す仕組みだ。これを第1段の大推力エンジンに採用した例は、日本以外にはない。極冷と酷熱が隣り合う過酷な世界で、構造を簡素にしながら大推力を狙う、なかなかの欲張り設計である。

もちろん万能ではない。LE-9は従来のLE-7Aより推力が約1.4倍大きい一方、燃料の効率(専門用語でいう比推力)の点では一歩譲る。つまり、最高の燃費だけを追い求めたエンジンではないのだ。大推力を確保しながら、構造を簡素化し、低コストと信頼性を目指す。そのための設計である。一方のスペースXは、ケロシン系燃料を使い、機体回収と組み合わせた運用体系を磨いてきた。同じロケットでも設計思想は違う。再使用性だけを物差しに日本の技術を採点していては、真価を見落としてしまう。

何より重要なのは、打ち上げ手段の「選択肢」を世界に残すことだ。大型衛星や深宇宙探査機を送り出す手段がスペースX一社に独占されたら、運賃やスケジュールの主導権が一社に集中し、衛星事業者の交渉力が弱まるおそれがある。別の手段を選べること自体が、顧客にとっての保険であり交渉のカードだ。もしも街の運送会社が一社だけになったら、配送料金を決めるのは誰か。考えるまでもない。

今回のMMX計画は、H3が探査機を火星圏へ送り出し、MMXが現地でサンプルを採取して地球へ持ち帰るという、日本の宇宙技術の総合力が問われるミッションだ。再使用ロケットだけが宇宙開発の正解ではない。独自の技術を磨き、必要な荷物を確実に届けるルートを守り続けること。スペースXが幹線道路を切り開いたからといって、そこを走るトラックまで一社に絞る必要はない。宇宙への道は、一本では困るのである。

クラウドダウンはかなりヤバイ ― 2026年10月19日

情報インフラ崩壊への危機感
クラウドというものは実に便利である。自分でサーバーを買わなくても、データを預け、システムを動かし、仕事を進めることができる。土地を買わずにオペレータ付きの貸しビルへ入居するようなものだ。掃除も設備管理も大家任せ。こちらは家賃を払って仕事に専念すればよい。ところが、その貸しビルの電源室が襲われたらどうなるか。国内クラウドサービスが攻撃を受け、495の企業や自治体に影響が及んだ。便利な雲に、どうやら雨漏りどころではない穴が開いたらしい。

発表によれば、特定のゾーンで仮想サーバーが停止し、再起動できない状態となった。顧客データの取り出しや復元は困難で、利用者側のバックアップが復旧の頼みとなる。もちろん、495の顧客すべてで深刻な被害が生じたわけではない。それでも、これだけの企業や自治体が影響を受けたのだから、軽い話ではない。貸しビルの一室で火事が起きたというより、町内の商店も役場も、みんな同じ設備に頼っていたと分かったようなものである。

こういうニュースを読むと、世間はまず個人情報の漏洩ばかりを気にする。メールアドレスは流出したのか、顧客情報は大丈夫なのか。もちろん、それも大切である。郵便受けに他人が手を突っ込んだのなら、誰の手紙が持ち去られたのか調べなければならない。しかし、郵便受けの心配ばかりしていて、電源室が止まっていることに気づかなかったらどうするのか。クラウドは、どこかの会社が便利な道具を貸してくれるだけの話ではない。企業の業務システムも自治体の情報管理も、いまやネットワークという土台の上で動いている。画面の向こうに何があるか、普段は考えなくても仕事ができる。だからこそ、止まったときに何が起きるのかが見えにくい。

考えるべきは、バックアップがあるか、障害時に別の環境で仕事を続けられるか、復旧までにどれほど時間がかかるかという問題である。特定の事業者や設備に依存しすぎていないかも問われる。利用者に「パスワードを複雑にしましょう」と呼びかけるだけでは足りない。非常口の場所を教えたからといって、火災への備えが終わったことにはならないのだ。便利な貸しビルに入居するなら、大家の評判だけでなく、停電したときの避難経路や非常用電源も確かめておく必要がある。

国会も、こういう問題にこそ時間を使ってほしい。政治家の不正を追及するのは当然だが、週刊誌が取り上げた疑惑や失言をめぐる議論ばかりが続くのでは困る。週刊誌の記事を読めば分かる話と、国会が制度や予算を動かさなければ解決しない話は別物だ。マンション全体が停電しているのに、管理組合が集まって住人のゴシップを読み上げている。誰が余計なことを言ったか、誰の態度が気に入らないか。議論は白熱するが、電気はいつ戻るのか、非常用電源は動くのか、誰も聞かない。ずいぶん呑気な管理組合である。

クラウドの障害は、情報技術に詳しい人だけの問題ではない。社会を支える土台が止まるという問題だ。便利さを享受するなら、その土台が止まったときの備えも考えなければならない。郵便受けに何が入っていたかを調べるのは大切である。だが、マンションが真っ暗になっているのなら、まず電源室を見に行くべきだろう。国会も報道も、郵便受けの中身を数えるだけで仕事をした気になってはいけない。

福岡県議会と深夜の逆転劇 ― 2026年10月18日

福岡県議会と深夜の逆転劇
福岡県議会で起きた騒動は、金銭授受疑惑そのものより、長年県政を支配してきた勢力の神通力が失われた瞬間を映し出した出来事だったのかもしれない。発端は正副議長ポストを巡る疑惑である。元議長が「議長就任に際して党幹部へ二千万円を支払わされた」と告発し、県政を揺るがす事態となった。ところが県民の関心を引いたのは、疑惑の中身だけではなかった。百条委員会を設置するかどうかを巡る異様な攻防である。16日深夜の議会運営委員会では設置が先送りされたが、日付をまたいだ17日未明の本会議で一転して可決された。気が付けば主役は金銭疑惑ではなく、百条委員会を何としても避けたい人々の右往左往になっていた。

百条委員会は地方議会が持つ強力な調査権限の一つである。関係者に出頭や証言、資料提出を求めることができ、宣誓後の虚偽証言などには法的責任も伴う。疑惑を持たれた側に歓迎されないのは当然だろう。しかし今回興味深かったのは、反対理由の変遷である。「告発者本人による提案は公平性に欠ける」と言い、「第三者委員会と二重調査になる」と言い、最後は「予算がない」と言い出した。理由は次々に変わるのに、結論だけは頑として変わらない。不公平論も二重調査論も予算論も、本来は別々の議論である。それなのに、すべての道が百条委員会反対という同じ終着駅へ向かっていた。結論が先にあり、理由が後から集められているように見えた。

そして今回、見過ごせないのが議会に先立つ議会事務局の振る舞いである。議員が百条委員会の設置議案を提出しようとすると、事務局長は「予算がないと提案できない」と言った。議員の議案提出権について、事務局が許認可権を持つかのような発言である。議員には地方自治法で議案提出権が認められている。百条委員会を設置することと、調査経費をどう確保するかは別問題だ。予算が必要なら議会が議論し決定すればよい。それを議員でもない役人が、予算を理由に議案提出を制限しようとする権限は役人にはない。議会を補佐する立場を越えた越権的な振る舞いは、議員の法定権限への介入と受け取られても無理はない。議員は県民が選ぶが、事務局職員は選挙で選ばれない。事務局の理屈が議会の意思決定を左右するなら、議会の自律そのものが危うくなる。提案者らは埒が明かないと議長に議案を直接提出して先の本会議となった。

長年の県政では、主流派が方向を示せば大勢が従うという力学が存在したのだろう。だが今回は様子が違った。二千万円支払い疑惑が表面化し、県民の視線が集まる中でも、従来と同じ手法で乗り切れると考えたのであれば情勢判断を誤ったと言わざるを得ない。深夜の議会運営委員会で賛否同数に持ち込み、委員長裁決で先送りに成功した時、まだ藏内体制の神通力は健在だと思った議員もいただろう。だが数時間後の本会議で、その見立ては崩れた。本会議はその決定を覆し、午前4時すぎ、設置議案そのものを圧倒的多数で可決した。先送りで時間を稼ごうとした動きは、最後の最後で神通力は通用しなかったのである。とっくに種が割れている手品を、観客が見破っていることに手品師だけが気付いていないような光景である。

警察の動向も気になる。告発者が県警で証言したことは報じられている。しかし捜査着手を示す公式発表はない。これでは「捜査中なので回答は差し控える」という政治家や行政機関おなじみの逃げ口上も使いにくい。だからこそ百条委員会の意義が際立つ。警察が刑事責任を追及する機関なら、議会は県民への説明責任を追及する機関である。元議長は既に辞職したが、それで真相まで消えたわけではない。県民が知りたいのは誰が辞めたかではなく、何が行われていたのか、なぜそんな構造が長年放置されてきたのかである。その解明こそが百条委員会の役割だろう。

今回県民の目に焼き付いたのは、金銭疑惑だけではない。それを巡る往生際の悪さである。慎重論、二重調査論、予算論、そして深夜の先送り。百条委員会を止める理屈は次々に現れたが、疑惑を晴らす説明だけは最後まで現れなかった。そして露わになったのは、すでに失効した神通力への依存である。問題は神通力がなくなったことではない。とうの昔に効力が切れていたにもかかわらず、本人たちだけがまだ万能薬だと信じ続けていたことだ。未明の本会議での逆転可決は、百条委員会設置の号砲であると同時に、古い政治手法への終業ベルでもあったのかもしれない。

人質外交の罠とサハリン拘束劇 ― 2026年10月16日

人質外交の罠とサハリン拘束劇
ロシア極東サハリンで、北海道新聞の日本人記者が連邦保安庁(FSB)にスパイ容疑で拘束された。ウクライナ戦争への動員状況を取材していたというが、容疑の真偽はロシア側の発表だけでは判断できない。ただ、外国人の拘束を外交上の圧力に利用する可能性がある国であることは、警戒しておく必要がある。今回も人質外交の一環である可能性は否定できない。ウクライナ支援を続ける日本にとって、拘束された記者は単なる一民間人ではない。日本人の身柄が外交カードにされれば、本人の安全だけでなく、日本の対露政策まで揺さぶられかねない。

問題は、日本に対抗する手札があるのかということだ。米国などは、拘束したロシア側の工作員らを囚人交換の交渉材料にできる。日本には、それに相当する仕組みも実績も乏しい。相手が日本人を拘束して外交カードにしたとき、日本にできるのは抗議し、解放を求め、国際世論に訴えることくらいだ。それらは当然必要だが、相手に解放する気がなければ、抗議を重ねるだけでは事態は動かない。相手はこちらの駒を取って交換材料にできるのに、日本には相手の駒を取って交換を迫る手段がない。これでは勝負にならない。飛車角を取られてから名人戦を始めても遅いのである。

だからこそ、スパイ防止法を含む国内の情報保全体制と、囚人交換という外交上の選択肢は、別々の問題として切り離すべきではない。外国の情報活動を取り締まる法制度を整え、国内で摘発した工作員を適正な法手続きに従って拘束・訴追できるようにしておけば、将来、囚人交換の交渉材料となる可能性も生まれる。もちろん、法律を作れば自動的に交換要員が確保できるわけではない。交換のためだけに無実の人間を拘束するという話でもない。必要なのは、外国の情報活動に法に基づいて対処できる体制を整え、その結果として生じ得る交渉上の選択肢を外交に生かすことだ。相手だけが一方的にカードを持つ状態を改めなければならない。

危険な国で取材を続ける報道機関にとって、リスク管理は欠かせない。現地にとどまって報道する意義は理解できる。しかし、有効なビザを持ち、これまで問題なく取材できていたとしても、明日も安全とは限らない。政治情勢が変われば、昨日まで許されていた活動が突然スパイ行為とみなされることもある。危険情報を発出したからといって、政府が記者を強制的に帰国させられるわけではなく、最終的には本人と報道機関の判断に委ねられる部分が大きい。それでも、中国で現在も17名の日本人がスパイ容疑などで拘束されている事例や、相手国の政治体制を踏まえれば、退避判断の基準や緊急時の支援体制をあらかじめ整備しておくことはできる。自由な取材を守ることと、有効な対抗手段を持たないまま危険にさらされることは同じではない。

日本は国際刑事裁判所(ICC)を支持し、法の支配の重要性を訴えてきた。しかし、ICCがプーチン大統領に逮捕状を発付しても、独自の警察力を持たない以上、自ら身柄を拘束することはできない。今回の拘束が日本のICC支持に対する報復かどうかは、現時点では断定できない。だが、法の支配を唱えれば相手も従うというものではなく、むしろ「ICC非加盟国にいるなら非加盟国の法に従え」と逆襲する口実を与えかねない。理念を掲げることと、その理念を無視する相手から自国民を守ることは別問題である。外交、情報保全、退避支援、国際連携を組み合わせ、相手がルールを破る事態も想定した備えを講じなければならない。

報道の自由も法の支配も、唱えれば相手が行儀よくなる魔法の呪文ではない。必要なのは、危険を見極める危機管理、退避支援、不当な拘束に代償を認識させる外交手段、そして国際連携である。相手が政治的拘束を手段とする以上、それを前提に備えるしかない。丸腰で敵地に立ってから平和の尊さを説いても遅いのだ。報道も、相手がロシアとなると声が急に小さくなる。同業の仲間が拉致されているのだから、ICCを敵視したトランプを激しく罵ったように、プーチンを完膚なきまでに糾弾をしてはどうか。看板だけ立派で中身が空っぽでは、相手にとって「どうぞご自由に」と書かれた看板と大差ないのである。