罪を憎んで技を憎まず ― 2026年07月11日
動画配信サービス「バンダイチャンネル」を運営するバンダイナムコフィルムワークスに対し、埼玉県所沢市の高校一年生の男子生徒(十五)が偽計業務妨害の疑いで逮捕された。昨年十一月、当時中学三年生だった少年が自作プログラムを用い、約四万六八一二件のアカウントを無断退会させ、サービスを一時停止に追い込んだという。数字の迫力だけ見れば、まるで怪物的な悪意がそこに潜んでいるかのようだが、事件の内部を丁寧にたどると、むしろ年齢不相応の技術力が静かに姿を現す。世間が「中学生がやった」と驚くのは自由だが、驚きの向け先を少し間違えているようにも思われる。
報道によれば、少年は小学生の頃から独学でプログラミングを学び、通信を解析して脆弱性を発見し、退会処理を自動化するスクリプトを設計し、さらにIPアドレスを三十回以上切り替えながら実行したという。これらは、生成AIに「コードを書いて」と頼めば即座に出てくるような簡便な作業ではない。AIは便利な道具ではあるが、通信解析や脆弱性の抽出、攻撃手順の構築といった“骨のある部分”を肩代わりしてくれるわけではない。基礎力のない人間が握れば、エクセルのVBAマクロすらまともに動かせないのが現実である。それにもかかわらず、一部報道では「ChatGPTで作成したプログラム」という点が妙に強調され、あたかもAIが事件の主役であるかのような印象を与えている。料理番組で、料理人ではなく“塩ひとつまみ”が主役扱いされるような奇妙さが残る。
むしろ本質は、少年自身が脆弱性を見つけ、攻撃の流れを組み立て、実行まで完遂した点にある。もちろん違法行為であり、被害も小さくない。しかし、善悪とは別に、その技術力が年齢を考えれば突出していたことまで否定する必要はないだろう。日本では、こうした突出した技術を持つ若者を受け止め、正しい方向へ導く仕組みが十分整っているとは言い難い。結果として「犯罪」と「才能」が同じ袋に放り込まれ、処罰だけで議論が終わってしまう。少年法が掲げる更生重視の理念が、サイバー分野ではまだ十分に生かされていないという印象を受ける。
企業には利用者への責任や再発防止、抑止効果も求められるため、安易な「許し」は許されない。そこは当然である。しかし、被害回復や反省が十分に確認されるのであれば、司法上の処分とは別に、自社システムの脆弱性改善への協力や、将来的にホワイトハッカーとして能力を生かす道を模索する余地はあるはずだ。というのも、こうした少年は社会復帰後、地下の犯罪集団から“勧誘”という名の誘惑を受けやすい。技術力のある若者を狙うのは、彼らの常套手段である。社会がその手より先に、正しい方向へ導く手を差し伸べなければならない。企業、教育機関、司法がそれぞれの立場で連携し、若い技術者を社会へつなぎ直す仕組みを整えることは、結果として社会全体の利益にもつながる。技術者の卵を摘み取ることは簡単だが、育てることの方がはるかに社会的価値が高い。
AI時代には、このような突出した技術を持つ若者は今後さらに現れるだろう。彼らをどう扱うかは、単なる犯罪抑止の問題ではなく、未来の技術人材をどう育てるかという国家的な課題でもある。少年法の理念を時代に合わせて具体化し、才能を社会の側へ引き戻す仕組みを整えることが、これからの日本には求められている。事件の表面だけを見て「悪いことをした子ども」と片づけるのは容易だが、その奥に潜む可能性まで見ようとする姿勢こそ、社会の成熟を測る尺度になるのではないか。
報道によれば、少年は小学生の頃から独学でプログラミングを学び、通信を解析して脆弱性を発見し、退会処理を自動化するスクリプトを設計し、さらにIPアドレスを三十回以上切り替えながら実行したという。これらは、生成AIに「コードを書いて」と頼めば即座に出てくるような簡便な作業ではない。AIは便利な道具ではあるが、通信解析や脆弱性の抽出、攻撃手順の構築といった“骨のある部分”を肩代わりしてくれるわけではない。基礎力のない人間が握れば、エクセルのVBAマクロすらまともに動かせないのが現実である。それにもかかわらず、一部報道では「ChatGPTで作成したプログラム」という点が妙に強調され、あたかもAIが事件の主役であるかのような印象を与えている。料理番組で、料理人ではなく“塩ひとつまみ”が主役扱いされるような奇妙さが残る。
むしろ本質は、少年自身が脆弱性を見つけ、攻撃の流れを組み立て、実行まで完遂した点にある。もちろん違法行為であり、被害も小さくない。しかし、善悪とは別に、その技術力が年齢を考えれば突出していたことまで否定する必要はないだろう。日本では、こうした突出した技術を持つ若者を受け止め、正しい方向へ導く仕組みが十分整っているとは言い難い。結果として「犯罪」と「才能」が同じ袋に放り込まれ、処罰だけで議論が終わってしまう。少年法が掲げる更生重視の理念が、サイバー分野ではまだ十分に生かされていないという印象を受ける。
企業には利用者への責任や再発防止、抑止効果も求められるため、安易な「許し」は許されない。そこは当然である。しかし、被害回復や反省が十分に確認されるのであれば、司法上の処分とは別に、自社システムの脆弱性改善への協力や、将来的にホワイトハッカーとして能力を生かす道を模索する余地はあるはずだ。というのも、こうした少年は社会復帰後、地下の犯罪集団から“勧誘”という名の誘惑を受けやすい。技術力のある若者を狙うのは、彼らの常套手段である。社会がその手より先に、正しい方向へ導く手を差し伸べなければならない。企業、教育機関、司法がそれぞれの立場で連携し、若い技術者を社会へつなぎ直す仕組みを整えることは、結果として社会全体の利益にもつながる。技術者の卵を摘み取ることは簡単だが、育てることの方がはるかに社会的価値が高い。
AI時代には、このような突出した技術を持つ若者は今後さらに現れるだろう。彼らをどう扱うかは、単なる犯罪抑止の問題ではなく、未来の技術人材をどう育てるかという国家的な課題でもある。少年法の理念を時代に合わせて具体化し、才能を社会の側へ引き戻す仕組みを整えることが、これからの日本には求められている。事件の表面だけを見て「悪いことをした子ども」と片づけるのは容易だが、その奥に潜む可能性まで見ようとする姿勢こそ、社会の成熟を測る尺度になるのではないか。
根回しと「静謐」 ― 2026年07月10日
皇室典範改正の手続きというものが、どうにも妙である。妙というより、立憲政治の背骨が梅雨どきの畳のように湿気を吸い、じわりと曲がり始めているように見える。本来なら政府が法案を整え、国会に提出し、公開の場で議論を尽くし、多数決で結論を出す。これが憲政の常道である。ところが今回の典範改正案は、政府案が議場に届く前に、衆参両院の正副議長による「事前調整」を経るという、どこか裏口めいた経路をたどった。近道はいつも便利に見える。しかし近道ばかり歩けば、道そのものが歪む。気づけば正面玄関より裏口のほうが人通りの多い、奇妙な家になってしまう。
この流れの起点は、2017年の退位特例法である。あのときは「一代限り」と明記された例外措置であり、正副議長による各党調整も退位という特殊事情への対応にすぎなかった。制度は一度の例外には耐えられる。しかし例外が前例となり、前例が慣例となった瞬間、原則は静かに後退を始める。「今回だけ」は便利な言葉だが、積み重なれば「いつものこと」になる。裏口は一度開けば、正面玄関より近道に見えてしまうものだ。だから制度は例外を例外のまま終わらせることに、もっと神経質でなければならない。
本来、正副議長の役割は議会運営を円滑に進めることであり、政策内容を取りまとめることではない。それにもかかわらず、今回も政府案は議長調整を経て「各党が受け入れやすい形」へと丸められた。しかし国会審議が動き始めると、その合意は早くも揺らぎ始めた。立憲民主党は典範改正案への反対を決め、中道改革連合は付帯決議への追加を求めるなど、各党は独自の主張を改めて打ち出した。議長が「静謐」を求めて整えたはずの合意は、公開の審議の前に容易に崩れた。静謐を求めるのであれば、必要なのは密室ではなく、透明性の高い議論の場である。
さらに衆院では、野党側が典範改正案の審議入りに応じず、その条件として自民・維新が提出した定数削減法案の撤回を求めた。議員立法は国会議員に認められた立法権の行使であり、それを交渉材料として政府案の審議を止めるのであれば、立法府自らが果たすべき役割を狭めることになる。実際、与党は定数削減法案の成立断念と首相出席の集中審議の実施を約束し、停滞していた国会運営は一転して動き始めた。典範改正案は議院運営委員会で審議入りし、そのまま採決、本会議へ緊急上程される見通しとなった。皇室制度という国家の根幹に関わる議論が、公開の熟議ではなく政局上の取引の帰結として動き出したように映ったことは否めない。
加えて、付帯決議には養子の子の皇位継承資格の検討や女性宮家の創設に関わる事項を盛り込むべきだとの主張も示された。付帯決議は本来、法案の運用や将来の検討課題を示す補足的なものであり、法的拘束力はない。しかしその内容が法案に匹敵する重みを帯び始めれば、付帯決議は補足ではなく「影の本体」となる。制度の背骨が軋む音が、またひとつ聞こえた。皇室制度が繊細であることに異論はない。しかし、繊細であることと民主主義の手続きを曖昧にしてよいこととは別である。曲がり始めているのは皇室制度ではない。立憲政治を支える民主主義の手続き、その背骨なのである。
この流れの起点は、2017年の退位特例法である。あのときは「一代限り」と明記された例外措置であり、正副議長による各党調整も退位という特殊事情への対応にすぎなかった。制度は一度の例外には耐えられる。しかし例外が前例となり、前例が慣例となった瞬間、原則は静かに後退を始める。「今回だけ」は便利な言葉だが、積み重なれば「いつものこと」になる。裏口は一度開けば、正面玄関より近道に見えてしまうものだ。だから制度は例外を例外のまま終わらせることに、もっと神経質でなければならない。
本来、正副議長の役割は議会運営を円滑に進めることであり、政策内容を取りまとめることではない。それにもかかわらず、今回も政府案は議長調整を経て「各党が受け入れやすい形」へと丸められた。しかし国会審議が動き始めると、その合意は早くも揺らぎ始めた。立憲民主党は典範改正案への反対を決め、中道改革連合は付帯決議への追加を求めるなど、各党は独自の主張を改めて打ち出した。議長が「静謐」を求めて整えたはずの合意は、公開の審議の前に容易に崩れた。静謐を求めるのであれば、必要なのは密室ではなく、透明性の高い議論の場である。
さらに衆院では、野党側が典範改正案の審議入りに応じず、その条件として自民・維新が提出した定数削減法案の撤回を求めた。議員立法は国会議員に認められた立法権の行使であり、それを交渉材料として政府案の審議を止めるのであれば、立法府自らが果たすべき役割を狭めることになる。実際、与党は定数削減法案の成立断念と首相出席の集中審議の実施を約束し、停滞していた国会運営は一転して動き始めた。典範改正案は議院運営委員会で審議入りし、そのまま採決、本会議へ緊急上程される見通しとなった。皇室制度という国家の根幹に関わる議論が、公開の熟議ではなく政局上の取引の帰結として動き出したように映ったことは否めない。
加えて、付帯決議には養子の子の皇位継承資格の検討や女性宮家の創設に関わる事項を盛り込むべきだとの主張も示された。付帯決議は本来、法案の運用や将来の検討課題を示す補足的なものであり、法的拘束力はない。しかしその内容が法案に匹敵する重みを帯び始めれば、付帯決議は補足ではなく「影の本体」となる。制度の背骨が軋む音が、またひとつ聞こえた。皇室制度が繊細であることに異論はない。しかし、繊細であることと民主主義の手続きを曖昧にしてよいこととは別である。曲がり始めているのは皇室制度ではない。立憲政治を支える民主主義の手続き、その背骨なのである。
抗議と制度の透明性 ― 2026年07月09日
近代スポーツというものは、そもそも人間の誤りを前提として組み立てられている。審判は人間であり、判定の揺らぎは避けられない。だから欧州のサッカー界では、誤審を制度の中で吸収するため、抗議手続きや映像判定、事後検証の仕組みを育ててきた。曇天の海辺で波が荒く寄せては返し、濡れた岩肌を削り取るように、誤りと修正の反復が制度の骨格を鍛えてきたのである。イングランドFAが今回のW杯で速やかに抗議を提出したのも、この原則に忠実だったからだ。抗議とは怒りではなく、制度の透明性を守るための冷静な作業であり、嵐の砂浜に刻まれる足跡のように、改善の痕跡を残す営みでもある。
イングランドにはその発想を支える長い伝統がある。近代サッカー発祥の地として、ルールは従うだけのものではなく、運用し、検証し、必要なら修正する対象として扱われてきた。抗議制度は百年以上の経験の蓄積であり、敗者の言い訳ではなく競技全体の信頼性を守る行為として理解されている。法の支配を重んじる社会の気風は、サッカーの運営にも深く染み込んでいる。
一方、米国サッカー連盟は抗議を選択しなかった。その直後に処分軽減が発表され、さらに大統領自身が「FIFAに電話した」と明言したことで、判定は制度の枠組みではなく政治的働きかけによって揺らいだと言わざるを得ない。サッカーの歴史が浅い米国では、巨大興行としての論理がしばしば制度の上に乗り越え、興行主義の暴走と見るほかない。制度を経ずに結果だけが動けば、独立性は海霧のように曇り、容易には晴れない。しかも米国はベルギーに完敗し、決勝戦までの二週間で人々の関心は移り、FIFAもこの問題をうやむやにしてしまうだろう。しかしそれでは霧が深まるばかりだ。制度の航路が見えなくなれば、競技の信頼は暴風雨の中で軋む船のように揺らぐ。今回FIFAがイングランドの抗議を重く受け止めたとすれば、それは霧の中で灯台を守るための判断である。
では日本はどうか。日本代表は危険なタックルを避ける育成方針や規律意識の高さから、レッドカードが少ない。しかしその裏で、審判の判断を過度に尊重し、抗議を控える文化が根強い。制度は誤審が起きた日にこそ試される。抗議が少なければ誤審が十分に検証されず、審判組織も判断基準を磨く機会を失う。湿った曇天の下で制度がよどみ、風の抜け道を失う危険がある。波が砕けても海水の逃げ場がなければ、防波堤の内側に濁りが溜まるようなものだ。抗議を適切に運用する国ほど組織は鍛えられ、日本には改善の余地がある。
もっとも競技ごとに制度の姿は異なる。相撲では力士が抗議する前に審判団が土俵へ上がり「物言い」で判定を再検証する。抗議を制度内部に取り込んだ日本独自の進化形である。一方、柔道では抗議が厳しく制限され、制度の透明性をどう確保するかが課題として残る。重要なのは抗議の有無ではなく、誤りをどう検証し修正するかという点だ。湿った土に水が染み込み続ければ内側から崩れるように、検証を欠いた制度は静かに劣化する。
制度とは、人が誤るからこそ存在する。晴れた日ではなく、暴風雨の中でなお透明性を保ち、誤りを修正し続けられるかどうか。その骨格の強さこそが、近代スポーツの成熟度なのである。
イングランドにはその発想を支える長い伝統がある。近代サッカー発祥の地として、ルールは従うだけのものではなく、運用し、検証し、必要なら修正する対象として扱われてきた。抗議制度は百年以上の経験の蓄積であり、敗者の言い訳ではなく競技全体の信頼性を守る行為として理解されている。法の支配を重んじる社会の気風は、サッカーの運営にも深く染み込んでいる。
一方、米国サッカー連盟は抗議を選択しなかった。その直後に処分軽減が発表され、さらに大統領自身が「FIFAに電話した」と明言したことで、判定は制度の枠組みではなく政治的働きかけによって揺らいだと言わざるを得ない。サッカーの歴史が浅い米国では、巨大興行としての論理がしばしば制度の上に乗り越え、興行主義の暴走と見るほかない。制度を経ずに結果だけが動けば、独立性は海霧のように曇り、容易には晴れない。しかも米国はベルギーに完敗し、決勝戦までの二週間で人々の関心は移り、FIFAもこの問題をうやむやにしてしまうだろう。しかしそれでは霧が深まるばかりだ。制度の航路が見えなくなれば、競技の信頼は暴風雨の中で軋む船のように揺らぐ。今回FIFAがイングランドの抗議を重く受け止めたとすれば、それは霧の中で灯台を守るための判断である。
では日本はどうか。日本代表は危険なタックルを避ける育成方針や規律意識の高さから、レッドカードが少ない。しかしその裏で、審判の判断を過度に尊重し、抗議を控える文化が根強い。制度は誤審が起きた日にこそ試される。抗議が少なければ誤審が十分に検証されず、審判組織も判断基準を磨く機会を失う。湿った曇天の下で制度がよどみ、風の抜け道を失う危険がある。波が砕けても海水の逃げ場がなければ、防波堤の内側に濁りが溜まるようなものだ。抗議を適切に運用する国ほど組織は鍛えられ、日本には改善の余地がある。
もっとも競技ごとに制度の姿は異なる。相撲では力士が抗議する前に審判団が土俵へ上がり「物言い」で判定を再検証する。抗議を制度内部に取り込んだ日本独自の進化形である。一方、柔道では抗議が厳しく制限され、制度の透明性をどう確保するかが課題として残る。重要なのは抗議の有無ではなく、誤りをどう検証し修正するかという点だ。湿った土に水が染み込み続ければ内側から崩れるように、検証を欠いた制度は静かに劣化する。
制度とは、人が誤るからこそ存在する。晴れた日ではなく、暴風雨の中でなお透明性を保ち、誤りを修正し続けられるかどうか。その骨格の強さこそが、近代スポーツの成熟度なのである。
コメもナフサも気分報道 ― 2026年07月08日
米穀安定供給確保支援機構が6日に公表した向こう3カ月の需給動向DIは19であった。節目の50を9カ月も下回り続けているというので、新聞は「値下がり傾向」「在庫高水準で落ち着く見通し」と、夕立が去った縁側で麦茶でもすするような、のどかな顔つきで書いている。だが、このDIなるもの、要するに市場関係者の胸の内を聞き書きした景況感指数にすぎず、実際の需給を測る統計ではない。気分は風向きのように変わるが、田んぼのぬかるみまでは教えてくれない。それなのに新聞は、店頭の特売やこの気分指数だけを見て「市場は落ち着いた」と言い切る。スーパーの値札だけ眺めて、米蔵の奥行きまで分かった気になるのは、いささか早とちりではないか。
いまのコメ市場を理解する鍵は「先食い」にある。本来なら秋から流通する当年産米が、前年産の不足を埋めるため夏の端境期から市場へ流れ込んでいる。帳簿の上では辻褄が合っていても、実際には翌年の在庫を前倒しで使いながら市場を回している。来年の薪まで今年の冬に燃やしているようなものだ。火は消えない。しかし薪小屋だけは、誰にも気付かれぬまま痩せていく。この構造を見ずに「値札が下がったから需給が緩んだ」と言うのは軽率である。
農林水産省の「基本指針」や備蓄米放出の資料を時系列で読むと、市場にはなお20万トン前後の需給ギャップが残る。政府は失策を認めたがらず会見ではまず言わない。報道も深掘りはせず発表分しか流さない。しかし数字を積み上げれば不足は明らかだ。市場を見るとは一次資料を丹念に読み、数字の縫い目を確かめる作業である。気分指数よりも、前年産から当年産への流れを読む方が地に足がついている。少なくとも報道は川上と川下の矛盾を取材すべきだろう。
この見方は堂島コメ平均の先物価格とも整合する。8月までは不足を映して3万円を超えるが、10月限では2万2千円前後まで下がる。その後は2万2千円前後で半年近く高止まりする。もし需給が緩むなら平年並みの2万円前後まで下がってよいはずだが、市場はそう読んでいない。新米で一息ついても引き締まりは残ると見ているのである。気味が悪いのは、10月以降、需給のギャップを織り込んでいるはずなのに緩やかに下降線が続くことだ。これまでの高値では売れないと踏んでいるのだろう。だがそれで生産意欲が削られ来年の供給が痩せれば、また店頭からコメが消える悪夢がよぎる。
店頭価格が下がっても需給が緩んだとは限らない。卸や小売が高値期の在庫を放出しているだけかもしれない。店頭価格は流通の結果であって需給そのものではない。ナフサ騒動でも川下だけを見てナフサが6月で供給不足に陥ると騒ぎ、原油先物市場の動きを見なかった。日本の報道はどうも生産や輸入の実態より店頭のPOPを信じる癖がある。市場は気分では動かない。動かすのは現実の需給である。見るべきはDIでも特売でもなく、「先食い」で痩せた在庫と、それを静かに織り込む先物市場なのである。
いまのコメ市場を理解する鍵は「先食い」にある。本来なら秋から流通する当年産米が、前年産の不足を埋めるため夏の端境期から市場へ流れ込んでいる。帳簿の上では辻褄が合っていても、実際には翌年の在庫を前倒しで使いながら市場を回している。来年の薪まで今年の冬に燃やしているようなものだ。火は消えない。しかし薪小屋だけは、誰にも気付かれぬまま痩せていく。この構造を見ずに「値札が下がったから需給が緩んだ」と言うのは軽率である。
農林水産省の「基本指針」や備蓄米放出の資料を時系列で読むと、市場にはなお20万トン前後の需給ギャップが残る。政府は失策を認めたがらず会見ではまず言わない。報道も深掘りはせず発表分しか流さない。しかし数字を積み上げれば不足は明らかだ。市場を見るとは一次資料を丹念に読み、数字の縫い目を確かめる作業である。気分指数よりも、前年産から当年産への流れを読む方が地に足がついている。少なくとも報道は川上と川下の矛盾を取材すべきだろう。
この見方は堂島コメ平均の先物価格とも整合する。8月までは不足を映して3万円を超えるが、10月限では2万2千円前後まで下がる。その後は2万2千円前後で半年近く高止まりする。もし需給が緩むなら平年並みの2万円前後まで下がってよいはずだが、市場はそう読んでいない。新米で一息ついても引き締まりは残ると見ているのである。気味が悪いのは、10月以降、需給のギャップを織り込んでいるはずなのに緩やかに下降線が続くことだ。これまでの高値では売れないと踏んでいるのだろう。だがそれで生産意欲が削られ来年の供給が痩せれば、また店頭からコメが消える悪夢がよぎる。
店頭価格が下がっても需給が緩んだとは限らない。卸や小売が高値期の在庫を放出しているだけかもしれない。店頭価格は流通の結果であって需給そのものではない。ナフサ騒動でも川下だけを見てナフサが6月で供給不足に陥ると騒ぎ、原油先物市場の動きを見なかった。日本の報道はどうも生産や輸入の実態より店頭のPOPを信じる癖がある。市場は気分では動かない。動かすのは現実の需給である。見るべきはDIでも特売でもなく、「先食い」で痩せた在庫と、それを静かに織り込む先物市場なのである。
トランプにレッドカード ― 2026年07月07日
あの試合のレッドカードは、梅雨前線が海沿いの空を押しつぶすように、重く湿った後味を残した。危険性は高い。足裏が足首に乗ったのは確かだ。だが悪質性は低い。振り下ろしも報復もない。ボールを持ったままの一瞬の踏みつけである。しかも踏まれたムハレモビッチは接触直後に軽く足を引いたものの、すぐに平然と走り続け、深刻な負傷も報じられていない。イエローでも説明はつくし、レッドでも説明はつく。審判の裁量が分かれる、山の稜線のような曖昧な境界線上のプレーだった。こうした判定は、いつだって湿った怒気を残す。
そして今回は、判定そのものとは別に、VARという制度が抱える危うい地形まで露わになった。選手が大げさに倒れ込み、周囲が荒れた風のように抗議を吹きつければ、VARは「重大な接触の可能性」を疑って映像確認に入る。ひとたびチェックが始まれば、スロー映像は危険な接触だけを何度も映し出し、判定はレッドへ傾きやすくなる。もちろんVARは重大な見落としを防ぐ制度であり、抗議だけで判定が変わるわけではない。それでも、激しいアピールや演技が確認の契機となり得る構造は否定できない。声を荒らげるほど相手の主力選手を退場へ追い込める可能性が高まるなら、スポーツはいつしか政治劇めいた駆け引きへ近づいてしまう。制度設計を担うFIFAのガバナンスは、雨に打たれて軋む古い桟橋のように頼りない。
FIFAは5日、バログンへの1試合出場停止処分に1年間の執行猶予を付けると発表した。形式上は処分を維持しつつ、実質的には軽減する判断であり、規律規定に照らしても一定の合理性はある。危険性は認定しつつ悪質性は限定的──その評価は規則の運用として理解できる。しかし、この軽減発表の直後、トランプ米大統領がSNSで「正しい判断を下したFIFAに感謝する」と投稿したことで、報道の一部では「政治的な働きかけがあったのではないか」という憶測が一気に広がった。処分と称賛の発信がほぼ連続して起きたため、規則に基づく判断だけで説明できるのかという疑問が生まれたのである。どこまでが規則の運用で、どこからが外部の風圧なのか。FIFAが自ら説明しない限り、その境界線は曖昧なままだ。
そんな曇天の中へ、さらに濃い霧が流れ込んできた。翌6日の記者会見で、トランプ氏はこのSNS投稿に関連して、FIFAのインファンティノ会長に電話し「再調査を求めた」と語り、「あれは反則ではない」と述べた。前日の憶測が、翌日の本人の発言によって現実味を帯びた形である。外交でも司法でも、自ら正しいと思えばためらわず表へ出て発信し、相手に直接働きかける。その政治手法をスポーツの舞台でも隠さなかった。しかし本当に問われるべきはトランプ氏の気質ではなく、世界最大のスポーツ統括団体がその働きかけにどう向き合ったかである。もちろんトランプ氏は「指示したわけではない」と述べている。しかし制度の独立性という観点から見れば、それだけで介入の問題が消えるわけではない。再調査を求める行為自体が判定プロセスへ政治的影響力を及ぼし得るからである。
スポーツと政治は無縁ではいられないが、その距離が曖昧になれば競技の公平性への信頼は静かに削られていく。最も気掛かりなのは、FIFAがこの一連の経緯について十分な説明をしていないことだ。政治的働きかけが公になった以上、判定の独立性や大会運営への信頼を守るには透明性が欠かせない。沈黙が続けば、人々はそこへ様々な物語を投影する。審判の独立性、大会の公平性、そして「強く抗議し政治が動けば判定さえ変わるのではないか」という不信が海霧のように広がっていく。国際スポーツの信頼は、華やかな決勝戦よりも、こうした局面で組織がどれだけ誠実に説明責任を果たすかによって支えられているのである。
そして今回は、判定そのものとは別に、VARという制度が抱える危うい地形まで露わになった。選手が大げさに倒れ込み、周囲が荒れた風のように抗議を吹きつければ、VARは「重大な接触の可能性」を疑って映像確認に入る。ひとたびチェックが始まれば、スロー映像は危険な接触だけを何度も映し出し、判定はレッドへ傾きやすくなる。もちろんVARは重大な見落としを防ぐ制度であり、抗議だけで判定が変わるわけではない。それでも、激しいアピールや演技が確認の契機となり得る構造は否定できない。声を荒らげるほど相手の主力選手を退場へ追い込める可能性が高まるなら、スポーツはいつしか政治劇めいた駆け引きへ近づいてしまう。制度設計を担うFIFAのガバナンスは、雨に打たれて軋む古い桟橋のように頼りない。
FIFAは5日、バログンへの1試合出場停止処分に1年間の執行猶予を付けると発表した。形式上は処分を維持しつつ、実質的には軽減する判断であり、規律規定に照らしても一定の合理性はある。危険性は認定しつつ悪質性は限定的──その評価は規則の運用として理解できる。しかし、この軽減発表の直後、トランプ米大統領がSNSで「正しい判断を下したFIFAに感謝する」と投稿したことで、報道の一部では「政治的な働きかけがあったのではないか」という憶測が一気に広がった。処分と称賛の発信がほぼ連続して起きたため、規則に基づく判断だけで説明できるのかという疑問が生まれたのである。どこまでが規則の運用で、どこからが外部の風圧なのか。FIFAが自ら説明しない限り、その境界線は曖昧なままだ。
そんな曇天の中へ、さらに濃い霧が流れ込んできた。翌6日の記者会見で、トランプ氏はこのSNS投稿に関連して、FIFAのインファンティノ会長に電話し「再調査を求めた」と語り、「あれは反則ではない」と述べた。前日の憶測が、翌日の本人の発言によって現実味を帯びた形である。外交でも司法でも、自ら正しいと思えばためらわず表へ出て発信し、相手に直接働きかける。その政治手法をスポーツの舞台でも隠さなかった。しかし本当に問われるべきはトランプ氏の気質ではなく、世界最大のスポーツ統括団体がその働きかけにどう向き合ったかである。もちろんトランプ氏は「指示したわけではない」と述べている。しかし制度の独立性という観点から見れば、それだけで介入の問題が消えるわけではない。再調査を求める行為自体が判定プロセスへ政治的影響力を及ぼし得るからである。
スポーツと政治は無縁ではいられないが、その距離が曖昧になれば競技の公平性への信頼は静かに削られていく。最も気掛かりなのは、FIFAがこの一連の経緯について十分な説明をしていないことだ。政治的働きかけが公になった以上、判定の独立性や大会運営への信頼を守るには透明性が欠かせない。沈黙が続けば、人々はそこへ様々な物語を投影する。審判の独立性、大会の公平性、そして「強く抗議し政治が動けば判定さえ変わるのではないか」という不信が海霧のように広がっていく。国際スポーツの信頼は、華やかな決勝戦よりも、こうした局面で組織がどれだけ誠実に説明責任を果たすかによって支えられているのである。
中国スパコン首位 ― 2026年07月06日
スパコンの話である。2026年6月、ドイツで発表された世界計算速度ランキング「TOP500」で、中国の完全国産システム「LineShine(霊晟)」が首位を獲得したという。中国メディアは「米国の制裁を突破した歴史的勝利」と息巻き、一部海外メディアもその勢いを伝えている。制裁下で独自技術を積み上げた努力そのものは、素直に評価してよいだろう。ただ、そのニュースを「世界の技術覇権が逆転した」とまで受け止めるのは、いささか話が飛びすぎだ。派手な見出しとは裏腹に、どこか「ランキング一位」という看板だけが独り歩きしているような、湿った違和感が漂ってくる。
そもそもTOP500というランキングは、スパコン界の百メートル走のようなものだ。スタートの合図で一斉に走り、一番速かった者が優勝する。分かりやすく、権威もある。しかし、現代のスーパーコンピューターが本当に競っているのは、その瞬間的な速さではない。AIの学習、創薬、気象予測、材料開発など、多様な用途をどれだけ効率よく処理できるかという「実効性能」と「汎用性」こそが、今の主戦場である。百メートル走で世界一だからといって、マラソンや障害走まで世界一とは限らないのと同じで、用途が変われば求められる能力も変わる。
今回のLineShineは、GPUを使わず独自CPUを中心とした構成で約2エクサフロップスを達成したとされる。GPUを採用しない設計思想そのものに優劣があるわけではない。目的を明確に定め、そこへ徹底して最適化すれば驚異的な性能を引き出せるのは工学の常道である。ただ問題は、その性能が幅広い用途でどこまで発揮されるかだ。科学技術計算により近い性能を測るHPCGでは首位となった一方、AIで重要となる混合精度演算では首位ではないという評価もある。つまり「ある競技では世界一」でも、「計算機全体として世界最高」とは言えないのである。
たとえるなら、サーキットで最速を記録したF1マシンが、そのまま「世界最高の車」になるわけではない。市街地を走る車には、燃費や乗り心地、安全性、荷物を積めることなど、別の価値が求められる。スーパーコンピューターも同じだ。特定の競技で勝つことと、社会のさまざまな課題を解決できることは、必ずしも一致しない。日本もかつては「世界一」という言葉に心を躍らせたが、事業仕分けの「2位じゃダメなんですか」という一言は、ランキングを追うこと自体が目的化していないかという問いを突きつけた。その後、日本は社会実装へ軸足を移し、「富岳」が創薬、防災、気象予測などで実際に成果を挙げているのは、その方向性の象徴である。
もちろん、TOP500で首位を獲得した意義まで否定する必要はない。米国制裁下で独自システムを完成させた中国の技術力は軽視できず、その達成には相応の価値がある。ただ、それは技術競争のゴールではなく、一つの通過点にすぎない。いま世界が競っているのは「どれだけ速いか」ではなく、「どれだけ新しい価値を生み出せるか」である。AI、医療、エネルギー、防災、産業――スーパーコンピューターの真価はランキング表の数字ではなく、その先で社会をどれだけ変えられるかによって決まる。だからこそ「世界一」という甘い響きだけに酔っていては、本当に見るべきものを見失う。技術の価値はトロフィーの数では測れない。未来をどれだけ切り開けるか。その問いに答え続けることこそが、本当の意味で世界一の技術なのである。
そもそもTOP500というランキングは、スパコン界の百メートル走のようなものだ。スタートの合図で一斉に走り、一番速かった者が優勝する。分かりやすく、権威もある。しかし、現代のスーパーコンピューターが本当に競っているのは、その瞬間的な速さではない。AIの学習、創薬、気象予測、材料開発など、多様な用途をどれだけ効率よく処理できるかという「実効性能」と「汎用性」こそが、今の主戦場である。百メートル走で世界一だからといって、マラソンや障害走まで世界一とは限らないのと同じで、用途が変われば求められる能力も変わる。
今回のLineShineは、GPUを使わず独自CPUを中心とした構成で約2エクサフロップスを達成したとされる。GPUを採用しない設計思想そのものに優劣があるわけではない。目的を明確に定め、そこへ徹底して最適化すれば驚異的な性能を引き出せるのは工学の常道である。ただ問題は、その性能が幅広い用途でどこまで発揮されるかだ。科学技術計算により近い性能を測るHPCGでは首位となった一方、AIで重要となる混合精度演算では首位ではないという評価もある。つまり「ある競技では世界一」でも、「計算機全体として世界最高」とは言えないのである。
たとえるなら、サーキットで最速を記録したF1マシンが、そのまま「世界最高の車」になるわけではない。市街地を走る車には、燃費や乗り心地、安全性、荷物を積めることなど、別の価値が求められる。スーパーコンピューターも同じだ。特定の競技で勝つことと、社会のさまざまな課題を解決できることは、必ずしも一致しない。日本もかつては「世界一」という言葉に心を躍らせたが、事業仕分けの「2位じゃダメなんですか」という一言は、ランキングを追うこと自体が目的化していないかという問いを突きつけた。その後、日本は社会実装へ軸足を移し、「富岳」が創薬、防災、気象予測などで実際に成果を挙げているのは、その方向性の象徴である。
もちろん、TOP500で首位を獲得した意義まで否定する必要はない。米国制裁下で独自システムを完成させた中国の技術力は軽視できず、その達成には相応の価値がある。ただ、それは技術競争のゴールではなく、一つの通過点にすぎない。いま世界が競っているのは「どれだけ速いか」ではなく、「どれだけ新しい価値を生み出せるか」である。AI、医療、エネルギー、防災、産業――スーパーコンピューターの真価はランキング表の数字ではなく、その先で社会をどれだけ変えられるかによって決まる。だからこそ「世界一」という甘い響きだけに酔っていては、本当に見るべきものを見失う。技術の価値はトロフィーの数では測れない。未来をどれだけ切り開けるか。その問いに答え続けることこそが、本当の意味で世界一の技術なのである。
『与党の横暴』と宿題のつけ ― 2026年07月05日
選挙制度の協議というやつは、どうにも長い。長いというより、海辺に放置された古いロープみたいに、潮を吸ってぐずぐずに伸びきり、もう元の形へ戻る気配がない。議長が「抜本改革をやろうじゃないか」と声を上げたのが2019年。それから今年2026年まで、足掛け八年。八年といえば、子どもがランドセルを背負って学校へ通い、気づけば卒業しているほどの時間である。そのあいだ協議は続いたが、結論は一度も出なかった。机の上で地図を広げ、「このあたりに宝が埋まっているはずだ」と言いながら、誰ひとりシャベルを手にしない探検隊のようなものだった。
参政党やチームみらいといった新しい政党も国会に加わった。しかし顔ぶれが変わっても協議は前へ進まなかった。いや、正確に言えば、進んでいるように見えるだけだった。各党が案を持ち寄り、「それでは困る」「こちらも飲めない」と応酬を繰り返すが、選挙制度は各党の議席そのものに直結する。自ら不利になる案へ積極的に賛成する政党はない。幅広い合意を前提として協議を重ねれば重ねるほど結論は遠のき、新しい政党が増えれば調整はさらに難しくなる。八年かけて結論ゼロというのは、制度の構造から見ても不思議な帰結ではない。
そんな膠着状態のなか、昨年の臨時国会で自民党と日本維新の会は比例代表定数削減法案を提出した。といっても、野党が言うような「今すぐ削減する」という乱暴な話ではない。法案には「可決後一年間協議を続け、それでも結論が出なければ削減を実施する」という案だ。削減はあくまで一年後の協議不調時に限る“最終手段”であり、即時の削減ではない。この構造は今回の国会でも変わっていない。与党は、八年間動かなかった協議にようやく“期限”をつけようとしているだけなのである。それにもかかわらず、野党はこの条件をほとんど無視して「強行だ」と反発し、審議入りそのものを拒んだ。削減が“今すぐ”ではない以上、審議拒否の理由としてはあまりに心許ない。協議の場に出れば修正も提案もできるのに、議論の前段階で門を閉ざすのは、どうにも筋が通らない。
夏休みの宿題を八月三十一日まで机の隅へ積み上げておき、先生から「提出は一週間後でいいから、そろそろ仕上げなさい」と言われた途端、「急に言うな」と怒り出す小学生のようなものである。先生は明日出せとは言っていない。むしろ一週間の猶予を与えている。それなのに「強行だ」と言い張り、宿題を開きもしないまま机を叩く姿では、どうにも筋が通らない。「議論が尽くされていない」と言いながら、その議論の場に出てこないのだから、国民が納得できるはずがない。
選挙制度の背骨が湿気を吸ってぐにゃりと曲がっているのは、潮風のせいではない。ロープを巻き直す時間は十分にあったのに、誰も手を伸ばさず、「まだ早い」「もっと議論が必要だ」と言い続けた。その積み重ねが八年という長い停滞を生み出したのである。制度の構造が重たいのは確かだが、動かそうとしなかった責任まで潮風のせいにするのは、さすがに無理がある。
参政党やチームみらいといった新しい政党も国会に加わった。しかし顔ぶれが変わっても協議は前へ進まなかった。いや、正確に言えば、進んでいるように見えるだけだった。各党が案を持ち寄り、「それでは困る」「こちらも飲めない」と応酬を繰り返すが、選挙制度は各党の議席そのものに直結する。自ら不利になる案へ積極的に賛成する政党はない。幅広い合意を前提として協議を重ねれば重ねるほど結論は遠のき、新しい政党が増えれば調整はさらに難しくなる。八年かけて結論ゼロというのは、制度の構造から見ても不思議な帰結ではない。
そんな膠着状態のなか、昨年の臨時国会で自民党と日本維新の会は比例代表定数削減法案を提出した。といっても、野党が言うような「今すぐ削減する」という乱暴な話ではない。法案には「可決後一年間協議を続け、それでも結論が出なければ削減を実施する」という案だ。削減はあくまで一年後の協議不調時に限る“最終手段”であり、即時の削減ではない。この構造は今回の国会でも変わっていない。与党は、八年間動かなかった協議にようやく“期限”をつけようとしているだけなのである。それにもかかわらず、野党はこの条件をほとんど無視して「強行だ」と反発し、審議入りそのものを拒んだ。削減が“今すぐ”ではない以上、審議拒否の理由としてはあまりに心許ない。協議の場に出れば修正も提案もできるのに、議論の前段階で門を閉ざすのは、どうにも筋が通らない。
夏休みの宿題を八月三十一日まで机の隅へ積み上げておき、先生から「提出は一週間後でいいから、そろそろ仕上げなさい」と言われた途端、「急に言うな」と怒り出す小学生のようなものである。先生は明日出せとは言っていない。むしろ一週間の猶予を与えている。それなのに「強行だ」と言い張り、宿題を開きもしないまま机を叩く姿では、どうにも筋が通らない。「議論が尽くされていない」と言いながら、その議論の場に出てこないのだから、国民が納得できるはずがない。
選挙制度の背骨が湿気を吸ってぐにゃりと曲がっているのは、潮風のせいではない。ロープを巻き直す時間は十分にあったのに、誰も手を伸ばさず、「まだ早い」「もっと議論が必要だ」と言い続けた。その積み重ねが八年という長い停滞を生み出したのである。制度の構造が重たいのは確かだが、動かそうとしなかった責任まで潮風のせいにするのは、さすがに無理がある。
審議拒否の理由 ― 2026年07月04日
小川党首の記者会見を聞いていると、論理というものは必ずしも階段のように一段ずつ上へ積み上がるものではないらしい、という妙な感慨を覚える。党首はまず「動画作成疑惑には証拠がない」と断言し、続いて「証拠を探すのはわれわれの仕事だ」と胸を張る。さらに「首相が否定しているからといって、否定の証拠を探さなくてよいわけではない」と話を進める。しかし政府は「疑惑の集中審議」について、「証拠のない疑惑を審議しても意味がない」として拒否した。制度運営としては当然の判断である。ところが野党は、この政府の拒否をそのまま自らの全面審議拒否の理由に仕立て上げた。論理の綱は途中までは張られていたのに、最後の支柱だけが別の手で外され、全体がそのまま倒れてしまったような印象を受ける。冷蔵庫にプリンがあった証拠がないのに、食べていないという証拠を出せとは誰でも面を食らう。
さすがにこれだけでは審議拒否の理由として心許なかったのだろう。衆院比例代表の定数削減も「民主主義の危機」として加えられ、捏造疑惑と比例削減という二枚看板を掲げて、衆参の野党はそろって審議拒否へ入った。政治家の言葉というものは、ときに立派な舞台装置のように見える。しかし幕の裏へ回ると、肝心の支柱が一本足りないこともある。
日本の選挙制度というものも、どうやら長いあいだ日本人の政治的気質と、どこか噛み合わぬまま今日まで来てしまったようである。制度とは既製服に似ている。外国で見事に似合ったからといって、日本人にそのまま着せれば寸法まで合うとは限らない。ところが政治家も学者も、ときに仕立屋より既製服屋を信用する癖があるらしい。
小選挙区制が導入された当時、識者も新聞も、これで二大政党制が育ち、日本政治も成熟した民主主義国家らしい姿になる、と景気のよい話をしていた。制度を変えれば政治文化まで変わると信じたのであろう。しかし制度は人間の性分まで作り替えてはくれない。蓋を開けてみれば、政権交代より地域ボスの固定化や死票の増加が目立ち、比例代表は激変緩和のための補助装置だったはずが、いつしか小政党の避難所となった。避難所というものは非常時のために設けられる。しかし居心地がよければ、人はなかなか出ていかない。
もちろん、国民が与党を全面的に支持しているわけではない。経済も社会保障も物価も、注文はいくらでもある。それでも野党に政権を託そうという機運が高まらないのは、制度だけの責任ではあるまい。政策より政局を優先し、選挙のたびに離合集散を繰り返し、国会では審議より対決の構図づくりが前面へ出る。そうした光景を繰り返し見せられれば、有権者が「本当に政権を任せられるのか」「審議を拒否して議員と言えるのか」と首をかしげるのも無理はない。政治とは結局、信頼という目に見えない資本を積み重ねる仕事なのである。
比例代表は少数意見を国政へ反映させる制度であると同時に、小選挙区で議席を得にくい政党にとっては生命線でもある。だから削減論が持ち上がるたび「民主主義への攻撃だ」という声が上がる。しかし、議論すべき当事者が審議そのものを拒めば、有権者は説明を聞く機会を失う。説明を欠いた制度は理解より疑念を生み、疑念は支持より不信を育てる。制度とは舞台にすぎない。観客が見ているのは舞台装置ではなく、その上でどんな芝居が演じられているかである。いま有権者の目に映っているのは制度ではない。そこでどのように振る舞っているかという政治家たちの姿なのだ。
さすがにこれだけでは審議拒否の理由として心許なかったのだろう。衆院比例代表の定数削減も「民主主義の危機」として加えられ、捏造疑惑と比例削減という二枚看板を掲げて、衆参の野党はそろって審議拒否へ入った。政治家の言葉というものは、ときに立派な舞台装置のように見える。しかし幕の裏へ回ると、肝心の支柱が一本足りないこともある。
日本の選挙制度というものも、どうやら長いあいだ日本人の政治的気質と、どこか噛み合わぬまま今日まで来てしまったようである。制度とは既製服に似ている。外国で見事に似合ったからといって、日本人にそのまま着せれば寸法まで合うとは限らない。ところが政治家も学者も、ときに仕立屋より既製服屋を信用する癖があるらしい。
小選挙区制が導入された当時、識者も新聞も、これで二大政党制が育ち、日本政治も成熟した民主主義国家らしい姿になる、と景気のよい話をしていた。制度を変えれば政治文化まで変わると信じたのであろう。しかし制度は人間の性分まで作り替えてはくれない。蓋を開けてみれば、政権交代より地域ボスの固定化や死票の増加が目立ち、比例代表は激変緩和のための補助装置だったはずが、いつしか小政党の避難所となった。避難所というものは非常時のために設けられる。しかし居心地がよければ、人はなかなか出ていかない。
もちろん、国民が与党を全面的に支持しているわけではない。経済も社会保障も物価も、注文はいくらでもある。それでも野党に政権を託そうという機運が高まらないのは、制度だけの責任ではあるまい。政策より政局を優先し、選挙のたびに離合集散を繰り返し、国会では審議より対決の構図づくりが前面へ出る。そうした光景を繰り返し見せられれば、有権者が「本当に政権を任せられるのか」「審議を拒否して議員と言えるのか」と首をかしげるのも無理はない。政治とは結局、信頼という目に見えない資本を積み重ねる仕事なのである。
比例代表は少数意見を国政へ反映させる制度であると同時に、小選挙区で議席を得にくい政党にとっては生命線でもある。だから削減論が持ち上がるたび「民主主義への攻撃だ」という声が上がる。しかし、議論すべき当事者が審議そのものを拒めば、有権者は説明を聞く機会を失う。説明を欠いた制度は理解より疑念を生み、疑念は支持より不信を育てる。制度とは舞台にすぎない。観客が見ているのは舞台装置ではなく、その上でどんな芝居が演じられているかである。いま有権者の目に映っているのは制度ではない。そこでどのように振る舞っているかという政治家たちの姿なのだ。
皇位継承問題 ― 2026年07月03日
皇室問題というと、まず「男女平等がどうの」「女系でもいいじゃないの」と、昼下がりのワイドショーのような軽い空気が漂う。2600年の歴史を背負った皇統を前にしても、現代日本はまるでコンビニの新商品でも選ぶような調子で制度を論じる。「こちら新発売です。男系の代わりに女系はいかがでしょう」。そんな棚のPOP広告みたいな話ではないはずなのに、議論の机の上には妙に乾いた制度論だけが並んでいる。
そもそも現在のは、自然に湧いてきたわけではない。戦後、GHQの占領政策で十一の旧宮家が皇籍を離脱し、男系男子の基盤は大きく縮小した。これは歴史上の事実である。その経緯にはほとんど触れず、「後継者が少ないのだから制度を変えましょう」という議論だけが先へ進むのは、どうにも順番が逆である。木の根を細くしておいて「枝が弱っていますね。では葉っぱを磨きましょう」と相談しているようなもので、根が細れば枝は弱る。当たり前の話だ。
養子制度だの女系天皇だのという制度論はもちろんあってよい。しかし、根を見ずに枝ばかり眺めていては木の勢いは戻らない。病名を確かめる前に「今、一番売れている薬をください」と薬局へ飛び込むようなもので、効くかもしれないが効かないかもしれない。まず原因を知る。それが議論の出発点であるはずなのに、皇統の話になると日本では急に座が静まり返る。占領政策を語ることへの遠慮なのか、戦後長く続いた空気なのかは分からない。
雨漏りする家で天井紙だけ貼り替え、「修理完了」と胸を張るような議論が続く。新品の壁紙は気持ちがいい。しかし夜になれば雨だれは相変わらず枕元へ落ちてくる。原因を語らず結果だけを論じるとは、そういうことだ。さらに不思議なのは「多様性」という言葉との付き合い方である。宗教も家族の形も価値観も違っていていい。それが現代社会の合言葉になった。少数文化も少数言語も守ろうという。ところが、長い歴史で受け継がれてきた皇統になると、急に「そこは現代に合わせて変えましょう」という話になる。
これはまさに寛容のパラドックスである。寛容を広げようとするあまり、本来なら寛容であるべき対象にまで不寛容になってしまう。文化の多様性を守ろうと言いながら、世界でも類例の少ない皇統という文化には「例外」を求める。多様性の鍋を囲みながら「皇統という具材だけはクセが強いので外してください」と言っているようなものだ。それでは鍋はできても、だしの味はまるで違う。湿度の高い日本で、皇統だけが乾燥棚に置かれたままなのはどうにも奇妙である。
結局のところ、皇室問題は男女平等だけの問題でも制度設計だけの問題でもない。戦後の占領政策によって皇統の基盤が縮小したという歴史をどう評価し、どう向き合うかという歴史認識の問題でもある。旧宮家の復帰や養子制度の活用が適切かどうかは冷静な議論が必要だ。しかしその前に、「なぜ今日の姿になったのか」という歴史だけは共有しておきたい。土台が違えば、どれほど立派な設計図を描いても家はまっすぐ建たない。湿度の高い国で歴史の湿気だけが拭き取られ、乾いた制度論ばかりが机に並ぶ。その乾燥こそが、戦後日本が抱え続ける寛容のパラドックスなのだ。
そもそも現在のは、自然に湧いてきたわけではない。戦後、GHQの占領政策で十一の旧宮家が皇籍を離脱し、男系男子の基盤は大きく縮小した。これは歴史上の事実である。その経緯にはほとんど触れず、「後継者が少ないのだから制度を変えましょう」という議論だけが先へ進むのは、どうにも順番が逆である。木の根を細くしておいて「枝が弱っていますね。では葉っぱを磨きましょう」と相談しているようなもので、根が細れば枝は弱る。当たり前の話だ。
養子制度だの女系天皇だのという制度論はもちろんあってよい。しかし、根を見ずに枝ばかり眺めていては木の勢いは戻らない。病名を確かめる前に「今、一番売れている薬をください」と薬局へ飛び込むようなもので、効くかもしれないが効かないかもしれない。まず原因を知る。それが議論の出発点であるはずなのに、皇統の話になると日本では急に座が静まり返る。占領政策を語ることへの遠慮なのか、戦後長く続いた空気なのかは分からない。
雨漏りする家で天井紙だけ貼り替え、「修理完了」と胸を張るような議論が続く。新品の壁紙は気持ちがいい。しかし夜になれば雨だれは相変わらず枕元へ落ちてくる。原因を語らず結果だけを論じるとは、そういうことだ。さらに不思議なのは「多様性」という言葉との付き合い方である。宗教も家族の形も価値観も違っていていい。それが現代社会の合言葉になった。少数文化も少数言語も守ろうという。ところが、長い歴史で受け継がれてきた皇統になると、急に「そこは現代に合わせて変えましょう」という話になる。
これはまさに寛容のパラドックスである。寛容を広げようとするあまり、本来なら寛容であるべき対象にまで不寛容になってしまう。文化の多様性を守ろうと言いながら、世界でも類例の少ない皇統という文化には「例外」を求める。多様性の鍋を囲みながら「皇統という具材だけはクセが強いので外してください」と言っているようなものだ。それでは鍋はできても、だしの味はまるで違う。湿度の高い日本で、皇統だけが乾燥棚に置かれたままなのはどうにも奇妙である。
結局のところ、皇室問題は男女平等だけの問題でも制度設計だけの問題でもない。戦後の占領政策によって皇統の基盤が縮小したという歴史をどう評価し、どう向き合うかという歴史認識の問題でもある。旧宮家の復帰や養子制度の活用が適切かどうかは冷静な議論が必要だ。しかしその前に、「なぜ今日の姿になったのか」という歴史だけは共有しておきたい。土台が違えば、どれほど立派な設計図を描いても家はまっすぐ建たない。湿度の高い国で歴史の湿気だけが拭き取られ、乾いた制度論ばかりが机に並ぶ。その乾燥こそが、戦後日本が抱え続ける寛容のパラドックスなのだ。
負け方の作法 ― 2026年07月02日
ヒューストンの空気は、焼け残ったホットドッグのように湿っていた。今回のブラジル戦は、幾度も世界の頂点に立った、はるかに格上のチームとの対戦だった。日本は防戦に苦しみながらも、怯まず、逃げず、先制点をもぎ取った。佐野海舟は「結果がすべて」と言い、森保一は「力がなくてすいません」と頭を下げた。あの一礼には、日本人が昔から大切にしてきた負け方の作法がにじんでいた。格上相手に挑み、倒れ、また立ち上がる。スポーツとは、そういう世界である。逃げ場がないからこそ、潔さが育つ。湿度を含んだ空気の中で、選手たちの背筋だけが妙にまっすぐに見えた。
ところが国会はどうだろう。選挙では減税も政治資金の透明化も、どの党も競うように公約へ掲げた。ならば国会が始まれば、その勝負が始まるのだろうと思っていた。ところが始まったのは、週刊誌報道をめぐる応酬だった。「本当なのか」「いや違う」とボールとは別のところで人だかりができる。そのうち衆院比例代表の定数削減を議題にしようという話になると、今度は理事会だ、集中審議だと笛ばかりが鳴り、試合そのものが動かなくなる。採決では数で負ける。だから審議そのものを止める。そんな構図にしか見えない場面が続いた。見ている国民としては、「今日は何の競技だったかな」と首をかしげるばかりである。ポップコーンだけが湿気ていく。
本来、政治家にとって試合とは国会である。政策をぶつけ合い、論戦を交わし、法案を審議し、その結果を国民に示す。その積み重ねを採点する日が選挙だ。選挙は試合ではない。試合の結果を告げるスコアボードであり、成績表である。だからこそ、選挙で厳しい判定を受けたなら、なおさら議場に立たなければならない。政策を練り直し、論戦で存在感を示し、「次は任せてもよい」と国民に思わせる。その舞台が国会なのである。スポーツなら、リーグ戦で敗れたチームが次の試合を放棄することはない。悔しさを抱えたままでもピッチに立つ。立つからこそ、次の勝利がある。
今回の国会では、試合より笛の音のほうがよく聞こえた。減税も政治資金の透明化も定数削減も、選挙中はあれほど元気だったのに、国会へ来ると急に影が薄くなる。代わりに議事進行をめぐる押し問答ばかりが続く。スポーツなら、相手が強いからといって試合を止めるチームはない。まずピッチへ出る。勝つか負けるかは、そのあとである。観客はプレーを見に来たのであって、ホイッスルの吹き方を見に来たのではない。売店のホットドッグだけが冷めていく。冷めたホットドッグほど、むなしいものはない。
ヒューストンで頭を下げた日本代表の姿は、その意味で国会の風景とは対照的だった。負けることは恥ではない。負けを認めず、戦う場所から姿を消すことのほうが、よほど信頼を失う。スポーツも政治も、勝負は負けた瞬間には終わらない。次に何をするかで評価は変わる。国民はサポーターであると同時に審判でもある。その目の前に立たない選手を、誰が応援するだろう。今日もまた、湿気たポップコーンと冷めたホットドッグを手にした国民は、試合開始の笛が鳴っているのに、いつまでもピッチに姿を見せない選手を待ち続けている。
ところが国会はどうだろう。選挙では減税も政治資金の透明化も、どの党も競うように公約へ掲げた。ならば国会が始まれば、その勝負が始まるのだろうと思っていた。ところが始まったのは、週刊誌報道をめぐる応酬だった。「本当なのか」「いや違う」とボールとは別のところで人だかりができる。そのうち衆院比例代表の定数削減を議題にしようという話になると、今度は理事会だ、集中審議だと笛ばかりが鳴り、試合そのものが動かなくなる。採決では数で負ける。だから審議そのものを止める。そんな構図にしか見えない場面が続いた。見ている国民としては、「今日は何の競技だったかな」と首をかしげるばかりである。ポップコーンだけが湿気ていく。
本来、政治家にとって試合とは国会である。政策をぶつけ合い、論戦を交わし、法案を審議し、その結果を国民に示す。その積み重ねを採点する日が選挙だ。選挙は試合ではない。試合の結果を告げるスコアボードであり、成績表である。だからこそ、選挙で厳しい判定を受けたなら、なおさら議場に立たなければならない。政策を練り直し、論戦で存在感を示し、「次は任せてもよい」と国民に思わせる。その舞台が国会なのである。スポーツなら、リーグ戦で敗れたチームが次の試合を放棄することはない。悔しさを抱えたままでもピッチに立つ。立つからこそ、次の勝利がある。
今回の国会では、試合より笛の音のほうがよく聞こえた。減税も政治資金の透明化も定数削減も、選挙中はあれほど元気だったのに、国会へ来ると急に影が薄くなる。代わりに議事進行をめぐる押し問答ばかりが続く。スポーツなら、相手が強いからといって試合を止めるチームはない。まずピッチへ出る。勝つか負けるかは、そのあとである。観客はプレーを見に来たのであって、ホイッスルの吹き方を見に来たのではない。売店のホットドッグだけが冷めていく。冷めたホットドッグほど、むなしいものはない。
ヒューストンで頭を下げた日本代表の姿は、その意味で国会の風景とは対照的だった。負けることは恥ではない。負けを認めず、戦う場所から姿を消すことのほうが、よほど信頼を失う。スポーツも政治も、勝負は負けた瞬間には終わらない。次に何をするかで評価は変わる。国民はサポーターであると同時に審判でもある。その目の前に立たない選手を、誰が応援するだろう。今日もまた、湿気たポップコーンと冷めたホットドッグを手にした国民は、試合開始の笛が鳴っているのに、いつまでもピッチに姿を見せない選手を待ち続けている。