遺伝的要因のおそろしさ-22026年09月09日

知能と遺伝
現代社会では「遺伝的要因のおそろしさ」という言葉を出しただけで空気がピリッとする。まるで会議室で誰かが突然「昔はよかった」と言い出したときの、あの扱いづらい沈黙に似ている。昭和の生活圏で普通に交わされていた「やっぱり血なのかしら」という素朴な観察は、現代では禁句に近い。遺伝という言葉を口にした瞬間、「それは危険です」という空気が立ち上がる。空気の方が先に走り、科学が後ろから「いや、そこまで言ってない」と声をかけているような妙なねじれがある。空気は軽いのに扱いだけは妙に重い。

その一方で、ゲノム研究は静かに進んでいる。知能や才能の個人差には遺伝的要因が関係することが双生児研究や大規模解析で繰り返し示されている。知能の遺伝率は成人で高まり、後期成人では80%程度に達するとの報告もある(プロミン・ディアリー、2015)。教育達成についても遺伝的要因との関連が確認され、100万人規模の研究ではポリジェニックスコアによって学業成績の一部が統計的に予測できることが示された(リーら、2018)。音楽的能力にも数十%から70%台の遺伝率が報告されている(フロント・イン・サイコロジー、2014)。ただし遺伝率は「能力の何%が遺伝で決まるか」という数字ではなく、集団内の個人差がどの程度遺伝的差異と関連するかを示す指標である。それでも知能や認知能力に遺伝的個人差が存在すること自体は揺らがない。昭和のおばちゃんの「なんとなくの観察」が分子レベルで検証されていくという妙な時代だ。

とはいえ、遺伝は結果を決定しない。遺伝は傾向を与え、環境がそれを増幅したり抑えたり別方向に曲げたりする。遺伝は初期値であり、環境はその初期値をどう料理するかを決める更新過程である。だから遺伝的傾向を理由に本人が望まぬことを強要するのは誤りであり、遺伝的傾向を無視して強制するのも誤りだ。どちらに転んでも本人の自由を奪う。理由が雑なときほど、なぜか声だけは大きい。

さらに、本人が「望む・望まない」という欲求にも遺伝的影響がある。外向性、協調性、開放性などの性格特性では40~60%程度の遺伝率が報告されている(ジャングら、1996)。ここから「選別志向も遺伝する」とは言えないが、他者を選別したり優劣をつけたりする傾向にも生得的個人差が関係する可能性はある。ただしこれは「優生思想そのものが遺伝する」という話ではない。選別志向を抑える倫理が弱まったとき、それが社会思想や制度として固定化される可能性があるという話である。個人の傾向に遺伝的影響があることと、それを制度として固定化することは別だ。前者は生物学、後者は文化である。文化は時に「自分の癖」を制度にしてしまう。癖が制度になると扱いづらい。

才能の発見と差別は本質的に別物である。才能の発見は選択肢を広げ、差別は選択肢を狭める。危険なのは遺伝そのものではなく、遺伝を価値判断や制度評価に短絡させる構造である。遺伝率を個人の運命を決める数字として扱うこともその一つだ。一方で誤解を恐れて遺伝率を語らなければ、科学的に確認されている遺伝的影響まで見えなくなる。社会は遺伝の話を危険視し、科学は遺伝の影響を淡々と示し続けている。このねじれこそが私たちが直面している問題である。制度は空気ではなく事実に合わせて設計されるべきだ。空気は軽いが制度は重い。重いものは軽いものに振り回されるべきではない。

遺伝的要因のおそろしさ2026年09月08日

本田由紀氏「遺伝的要因」炎上
東京大学の本田由紀教授がXで「遺伝的要因のおそろしさを感じる」と投稿した。これが大きな反響を呼んだのは、皇族費という制度的な支給を、生物学的な遺伝と結びつけた点にある。発端は、彬子さまの皇族費増額を麻生家の血筋と関連づけ、「さもしい」「皇籍離脱させるべきでは?」「麻生の血筋から天皇を出すんですか?」と書いた一般ユーザーの投稿である。本田氏はこれに賛同し、「遺伝的要因のおそろしさを感じる」と書いた。しかし、皇族費は制度上の措置であり、個人の能力や性質とは無関係である。制度的事柄を遺伝と結びつける比喩は、教育学研究者として本来求められる慎重さから外れていた。

「血筋」とは本来、家系や親族関係を指す語であり、遺伝的能力を意味するものではない。昭和のおばちゃん同士の噂話では、この二つがしばしば混同された。「お父さんが立派だから、息子さんもしっかりしてるのよねえ」と言いながら、「やっぱり遺伝なのねえ」と家系の話を遺伝の話にすり替えてしまう。逆に「父親はだらしないのに息子さんはしっかりしてるのよ」と言いながら、「あれはお母さんの血なのかしらねえ」と遺伝の話にすり替える場合もある。家系の話が遺伝の話に聞こえ、遺伝の話が能力の固定化に見える。この“昭和の噂話の三段跳び”は、現代では禁句になっている。差別の再生産につながる危険な構造として、日常会話でさえ避けられるようになった。

ところが本田氏の投稿は、「遺伝的」という現代的で学術的な語句を使いながら、その実は昭和のおばちゃん噂話で典型的だった“家系→遺伝→能力”の短絡的な連鎖を制度論の場で再現してしまった。制度的支給を遺伝と結びつけるなら、極端な話、東大教授の給与が上がったときに「優秀な家系だから賃上げなのね」と説明できてしまう。もちろんそんなことを言う人はいない。教授の給与は制度に基づく処遇であり、家系や遺伝とは無関係である。こうした極端な例を持ち出すことで、制度と遺伝を混同する比喩の不適切さがより鮮明になる。昭和の井戸端会議なら笑い話で済んだ構造が、専門家の発言として出れば強い反発が起きるのは当然である。

本田氏の表現が批判されたのは、制度と遺伝の距離を一気に詰めてしまったからである。教育学者の発言なら、そこに敏感な反応が起きるのは当然だろう。ただし、ここで勢い余って「差別者だ」と本人の人格まで断罪してしまうと、昭和の噂話でも「まあまあ、そこまで言わなくても」と誰かが止めるように、話が別の方向へ転がっていく。発言の誤りを指摘することと、発言者を属性で固定してしまうことは別である。レッテルで相手を縛れば、差別の構図を自分たちで再生産することになる。批判すべき発言があったなら、何が問題なのかを示し、説明や訂正を求めればよい。それを飛び越えて人格全体を裁いてしまえば、議論は言葉の適否から人間の善悪を決めるゲームへと変質してしまう。

本田氏の「遺伝」という表現は、教育学者として慎重さを欠いたと言われても仕方がない。皇室制度を批判すること自体は自由だが、制度的事柄を遺伝と結びつける比喩は誤解を招く。しかし、それを理由に人格まで断罪する態度もまた慎重さを欠いている。重要なのは、誰が言ったかではなく、その言葉が何を意味するものとして使われたのかを検証することである。制度的血統と生物学的遺伝を混同しないこと。そして、誤った表現を批判すると同時に、その批判によって人間そのものを固定化しないことである。「差別をなくす」という目的を掲げるなら、言葉の誤りを正すことと、人を属性で分類し排除することを混同してはならない。差別を批判する社会だからこそ、節度が求められるのである。

ICCを国連に戻す正義と力2026年09月07日

ICCを国連に戻す正義と力
国際刑事裁判所(ICC)の赤根智子所長は、東京裁判の判事レーリンクが示した「勝者の裁きへの抵抗」を評価し、政治的圧力に左右されない公平な裁判の重要性を強調した。欧州は人権外交を掲げICCを強く支持してきたが、赤根氏は「ICCを欧州の法廷にさせない」と述べ、アジアの加盟拡大を目標に掲げた。日本人所長の誕生は国際司法の公平性を高める象徴とも受け止められた。しかし、米国がICCに制裁を科すなど、民主主義国の内部でも制度への警戒が強まっている。問われているのは個々の判決ではない。国際司法の正当性を、いかに国際社会の中で成立させるかという課題である。

日本の安全保障は国際法だけで守られてきたわけではない。日本が国際法の枠内で行動できたのは、米国の軍事力という後ろ盾があったからである。国際法は国家の行動を律する重要な規範だが、それ自体が武力による現状変更を阻止するわけではない。ウクライナが国際法に基づく立場を維持していてもロシアの侵攻を防げなかったことは、その限界を示している。イランをめぐる問題でも、国際法だけで国家の行動を抑止することは容易ではない。国際法が現実に機能するには、外交的圧力や経済制裁、そして究極的には、それを支える現実の力が必要である。この現実を踏まえると、日本が依拠すべきなのは理念だけではない。国際秩序を支える正当性そのものを、より強固なものにする必要がある。

その重要な舞台が国連総会である。国連総会では、強国も小国も原則として一国一票を持ち、幅広い国々が意思を表明することで国際社会の方向性を示してきた。総会決議に一般的な法的拘束力はない。しかし、多数の主権国家が共通の意思を示すこと自体が、国際秩序の正当性を支える。日本は超大国ではないからこそ、この主権国家の平等を基礎とする外交空間を活用してきたのである。力だけで国際秩序をつくれば、強国の都合がそのまま秩序になる。だからこそ、幅広い国々が認める正当性を確保することが、日本のような国にとって重要なのである。

一方、ICCは国連の機関ではなく、ローマ規程という条約によって設立された独立した裁判所である。ICCは個人を裁くため、締約国の領域で発生した犯罪については、非締約国の国籍を持つ個人にも管轄が及ぶ。また、非締約国についても国連安全保障理事会の付託によって管轄が及ぶ場合がある。しかし、米国、中国、ロシアなどの大国はローマ規程の締約国ではなく、自国領域における犯罪については、締約国の場合のように当然にICCの管轄を受けるわけではない。さらに安保理付託には常任理事国の拒否権という政治的制約がある。こうして、大国と他国との間には、国際司法への関与と責任をめぐる非対称性が生じやすい。また、ICCは欧州諸国から強い政治的・財政的支援を受けて発展してきたため、非欧州諸国から欧州的価値観を帯びた制度と見られる余地もある。普遍的司法を掲げながら、その正当性の基盤が偏って見えることこそ、ICCが抱える構造的な問題である。国際司法の正当性を確保するには、制度の原点に立ち返り、急がば回れの姿勢が求められる。

「まんじゅうや」票無効2026年09月06日

「まんじゅうや」票無効
茨城県神栖市長選で木内敏之氏と石田進氏が同数票となり、くじ引きで木内氏が当選した。ところが県選管は「まんじゅうや」「だんごさん」と書かれた票を無効とし、木内氏の当選を取り消した。現市長の木内氏が県選管の裁決取り消しを求めて提訴した東京高裁は、9月3日、県選管の判断を支持した。

高裁が選管の判断を追認したというニュースが流れても、こちらは「まだ饅頭屋の話をやっているのか」とうんざりするだけだ。誰が逆立ちしたって「まんじゅうや」の二票が木内氏を指すことにはならない。常識で考えれば結果は最初から分かっているのに、選挙から一年が見えている今も制度の都合でこの不毛な状態が続いている。上級審への不服申立てがあれば、さらに決着は延びる。饅頭の話が長引くにもほどがある。選挙制度は本来、非常識な行為によって結果が歪められないようにするための仕組みのはずなのに、争いが続けば疑義を指摘された当選状態がそのまま続く。小学生の学級委員長選挙なら先生がすぐに「はい、やり直し」と言う場面でも、大人の選挙では裁判にまで発展し、その間は現状維持。この時点で漫画のコマ割りが見えてくる。

選挙訴訟は本来スピード勝負だ。選挙の当否を何年も引きずれば、その間に当選者は首長として活動し、議会も行政も動いてしまう。だからこそ迅速な審理が求められる。それなのに、高裁で「当選無効」と判断されても、判決が確定するまでは在職が続く。法的手続きの慎重さには理由があるとしても、選挙のように時間そのものが政治的価値を持つ場面では制度上のねじれが生じる。教育現場なら「間違いは分かったら直す」が当たり前なのに、選挙制度は「確定するまでは現状維持」で動いてしまう。これでは子どもに説明がつかない。

今回の問題で本当に問いたいのは、二票そのものだけではない。学級委員長選挙で「パン屋の子」「魚屋の子」といった票が通れば、先生は「誰のことですか」と眉をひそめるだろう。ところが大人の選挙では、その一票一票が当落を左右する。二人の得票が同数だったからこそ、たった二票の扱いが選挙結果を動かした。ここまでは制度上の当然の帰結である。しかし、元をたどれば問題は別にある。選挙の公正を守るべき選管が、投票後になって「まんじゅうや」を通称として認定してしまったことだ。候補者の非常識よりも、選管の非常識の方がはるかに重い。そして、その判断を現場で決めた委員長の責任は大きい。

だからこそ、高裁で当選無効の判断が出た場合には、一定の条件の下でいったん交代させ、上級審で覆れば元に戻すといった暫定的な仕組みを検討してもよいのではないか。もちろん判断が覆れば政治的な混乱は生じる。しかし、誤った当選状態を長期間そのままにしておくことにも損失がある。重要なのは、裁判の慎重さを守りながら、選挙の時間的価値も守ることだ。

制度は非常識を抑止するためにあるはずなのに、現行制度では結果として制度の側が非常識に見える事態まで許してしまう。この矛盾が制度への信頼を削る。子どもには「正確に名前を書きなさい」と教えながら、大人の選挙では「パン屋の子」「魚屋の子」のような票をめぐって裁判を続ける。ここまで来れば、饅頭屋の包み紙を開けてみても、中に入っているのは「まんじゅうこわい」と笑える落語ではない。

ネパールへの支援2026年09月05日

ネパールへの支援
ネパールで8月26日、国境近くの山岳地帯で大規模な洪水・土砂災害が発生し、死者は1200人を超え、4200人以上が行方不明となった。復旧費は40億~50億ドル、GDPの約1割に達するというから、国の財政が深刻な打撃を受けたことは明らかである。ネパール政府が「気候補償」を求め、中米印の大排出国に支援を求めるのも理解できる。しかし、今回の災害を即座に「CO₂のせいだ」と断定することはできない。氷河の崩落を直接の引き金に、豪雨や地形など複数の要因が重なっているからだ。だからこそ、個別災害の因果関係を遡って責任を問うのではなく、将来に向けた負担のルールづくりが必要になる。

現在の損失・損害基金(FRLD)は、気候変動に脆弱な途上国を支援するための制度である。しかし、その設計思想は1990年代の国際構造を前提としており、いまの世界の現実とずれ始めている。先進国が拠出を主導し、その他の国は自主的拠出という構造は、UNFCCCの先進国・途上国区分を踏襲したものだ。だが、その後の世界では経済力も排出量も大きく変化した。古い区分を温存すれば、現在の大排出国や経済大国が十分な負担を求められないという歪みが生じる。制度の理念は妥当でも、現実に合わせて更新されなければ公平性は保てない。

この制度の隙間を最も巧みに利用しているのが、中国のような大国である。中国は世界最大のCO₂排出国で、経済規模も世界有数であるにもかかわらず、「途上国」の立場を維持し、それを国際的な負担を軽減する根拠としている。FRLDについても、UNFCCCが公表する拠出者一覧に中国の名前はない。一帯一路などを通じた途上国支援は行っているものの、それは自国の外交政策であり、国際的な共通ルールに基づく気候負担とは性質が異なる。ロシアもまた、巨大な排出規模と国力を持つ現実と、既存の国際制度が想定する国家区分との間に大きな隔たりがある。さらに、インドについては人口規模が中国と同等であるため、一人当たり排出量の観点から単純に非難することは筋違いである。問題は「豊かな国が貧しい国を助ける」という旧来の構図ではなく、大国が制度の隙間を抜けて負担の公平性をゆがめている点にある。

新しい国際ルールを設計するなら、過去の排出量を遡って責任を裁く方式ではなく、ルールを締結した時点を明確なスタートラインとすべきだ。そのうえで、総排出量、一人当たり排出量、所得水準、財政余力など複数の指標を組み合わせ、すべての国を同じ基準で評価する。要するに、国際協力の「割り勘」を、誰もが納得できる計算方法で決めるということである。もちろん、権威主義的な大国がこうした新しいルールに素直に従うとは限らない。むしろ、抵抗する姿が容易に想像できる。しかし、だからこそ国際社会が「それは非常識だ」と一貫して声を上げ続けることが抑止力になる。大国であっても例外を認めないという共通認識こそが、制度の実効性を支えるのである。

ネパールへの支援は当然必要である。しかし、それを「先進国が途上国に補償する」という古い構図に戻してしまえば、再び制度の隙間が生まれる。必要なのは、中国やロシアを含むすべての国が、現在の排出量と国力に応じて負担する仕組みである。気候変動対策に求められるのは、過去の罪を裁く国際裁判ではない。現在の現実を出発点として、全国家に同じ原則を適用し、大国にも例外を認めない新しい国際秩序なのである。世界政治では大国を名乗り覇権的に振る舞う一方、拠出の場面では途上国を名乗ってびた一文払わないという都合のよい“フリーライド”を許してはならない。

知事ら「もっと買い戻せ」2026年09月04日

山形知事「もっとコメを買い戻せ」
コメどころの知事たちが県庁の会見室で、「もっと買い戻してほしい」と声を張り上げている。ニュースは米価下落、概算金4割減、農家の嘆きを伝え、さらに民間在庫243万トンという数字を添える。読者は「そんなに米が余っているのか」と思わず茶碗を置く。しかし読み終えると胸に“モヤモヤ”が残る。炊きたてのご飯に小石が一粒まぎれ込んだような違和感である。その正体は、「もっと買え」という知事の要求だけでは、なぜ米価がこれほど乱高下するのか、その構造にまったく届いていないことだ。

現行の政府備蓄制度は100万トンを確保し、年間20万トンほどを入れ替える仕組みである。ところが2023年度には40万トンを超える需給ギャップが生じた。40万トンの振れ幅がある市場に、20万トンのローテーションで挑むのは、お茶碗一杯のご飯で大盛りの腹を満たそうとするようなものだ。制度の器が小さすぎるのである。しかも問題は備蓄量だけではない。需給の「許容ゾーン」そのものが狭く、少し不作になれば価格が跳ね上がり、増産すれば今度は余剰感で価格が沈む。まるで振り子が左右にブンブン振れ続けているような市場である。この振り子を抑えるには、備蓄とともに平時から一定の増産余力を確保し、需給の幅そのものを広げる必要がある。

そこで必要なのは、備蓄米を非常時の倉庫ではなく市場安定装置へと格上げする発想である。政府を市場の外に置くのではなく、平時から大口の市場参加者として位置づけ、価格が下落すれば買い入れ、上昇すれば放出する。ただし買い入れや放出の条件を細かくルール化してはならない。平時に必要なのは「年間にどれだけ備蓄するか」という単一のルールだけである。市場には大口のアンカーが不可欠であり、政府がその役割を担えば市場はその存在を前提に形成される。価格の上下は当然起きるが、それはビジネスとして割り切ることで生産性向上の原動力となる。

大きな買い手が一人いるだけで市場の性格が一変するのは、米市場も例外ではない。所得補償は他国のように別枠で行えばよく、現状でもならし制度や保険によって制度加入者には過去5年間の平均所得の9割が保障される仕組みがある。したがって「価格が暴落すれば明日にでも廃業」という報道は煽り過ぎであり、実際には大きな変動は大口アンカーとして政府が平時から市場に参加することで抑制できる。これこそが市場を機能させるための最低条件である。

一方で、民間在庫243万トンの問題も避けて通れない。在庫が膨らんだ背景には、生産量と消費量の関係、集荷、販売、流通などの問題がある。JAだけでなく、県の生産誘導や農業政策も無関係ではない。それなのに「国はもっと買い戻せ」という議論だけに終始すれば、なぜ民間在庫がここまで積み上がったのかという本質が見えなくなる。農家の声を聴けと言いながら、農家の経営を揺らす需給構造には触れない。消費者の声を聴けと言いながら、価格が振れやすい狭い需給ゾーンにも目を向けない。これでは「国だけを悪者にしていないか」と感じても不思議ではない。米袋の陰で誰がどれだけ積んでいるのか、その影が見えないままなのだ。

だから本当に農家と消費者の声を聴くなら、知事が言うべきは「もっと買え」ではなく「米の需給構造と備蓄制度を改革せよ」である。備蓄規模を見直し、政府を市場の大口参加者として位置づけ、買い占め売り惜しみをある程度抑止できるようにする。同時に、需給の許容ゾーンを広げるため、平時から一定の増産余力を確保する必要がある。40万トンを超える需給変動が起こり得る市場で、100万トンを5年で回す現在の制度だけで十分と言えるのか。制度は昭和のままどころか、中身は古古古米である。問題は「もっと買え」ではない。政府が市場の外に立ち、供給余力も狭いまま放置されている制度そのものを改めよ、という点にある。そこまで踏み込んでこそ、胸に残ったモヤモヤは晴れ、朝ごはんを気持ちよくいただけるのである。

「シカ」し法律がない鹿駆除2026年09月03日

山肌いっぱいにシカの大群
南アルプス上空を飛んだヘリから、山肌いっぱいにシカの大群が見えた。二児山北側のササ草原に、ざっと見ても500頭。まるで高山植物バイキングの行列である。高山植物は食われ、土壌は露出し、山は痩せていく。だが捕獲は難しい。登山しないと現場に行けず、資材の搬入も搬出も困難。シカは人の手が届かない高地に逃げ込み、積雪減少で越冬まで可能になった。温暖化の影響もあるだろうが、それだけでは説明できない規模で山が食べ尽くされている。

ふもとの町ではクマが生ゴミをあさったと騒がれるが、原因を生ゴミだけに求めるのは早計である。山そのものが壊れているからだ。クマは基本的に単独で行動し、木の実を拾い、冬眠し、ひとりで山を歩く「孤高の山の住人」である。一方、シカは群れで山を食い尽くす。団体旅行どころか団体食事会である。クマが「どんぐりの前菜はまだかな」と待っているうちに、シカはどんぐりを生む木の芽や樹皮まで食べてしまう。厨房そのものを食べてしまうようなもので、仕入れを全部食べ尽くす勢いである。これではクマは山で食事ができず、人里へ降りてくるしかなくなる。

行政は「生ゴミを片付けましょう」と呼びかける。しかし、それだけでは問題の半分しか見ていない。人里でクマを呼び寄せる原因を取り除くことは必要だが、山の食料を奪っているシカを放置すれば、問題は繰り返される。シカは繁殖力が高く、個体数を減らすには年間を通じた強い捕獲圧が必要だが、高山帯では民間ハンターが入ること自体が危険である。資材の運搬も、捕獲個体の搬出も難しい。行政職員が大集団で高山に入り、長期間活動することも現実的ではない。最も深刻な場所ほど、現在の捕獲体制から取り残されている。

そこで考えるべきなのが、自衛隊の高山行動能力である。消防や警察にも山岳救助の能力はあるが、救助と、高山帯に大規模な人員を投入し、装備や資材を運び、組織的に作業を続けることは別の能力である。自衛隊は厳しい環境での集団行動、野営、補給、ヘリ輸送を訓練している。人の手が届きにくい高山帯を「組織として継続的に管理する」ためには、その能力を活用する余地が大きい。

海外でも、ヘリを使った野生動物管理に軍や準軍事組織が関わる例はある。軍が野生動物駆除を本来任務としているからではなく、山岳地帯で大規模な人員を動かし、航空輸送と補給を組み合わせて活動できる能力を持つからである。同じ問題は日本にもある。

しかし日本では制度上の壁がある。自衛隊の任務に野生動物の捕獲は含まれず、災害対策制度も「ゆっくり進む生態系災害」を想定していない。山が裸になり、植生が失われ、クマが人里に降りてくるなら、それは鳥獣被害ではなく山の崩壊である。山も村も街も危機に陥ることが分かっているのに、「シカ」し法律がない前例がないなどと「クマ」っている場合ではなかろう。必要なのは、山そのものを守る新しい仕組みである。

アメリカ湖とメリケン焼き2026年09月02日

アメリカ湖とメリケン焼き
地名というものは、そこに住んでいる人よりも、むしろ「そこを知らない人」のために存在している。救急隊、観光客、海運、航空管制、研究者――地名は「知らない人が迷わないための公共財」である。だからこそ、長年使われてきた名称を政治的な気分で貼り替えれば、地元よりも外から来る人が迷う。オンタリオ湖の名前は17世紀にフランス人探検家が先住民の言葉を記録した“Lac Ontario”「輝く水の湖」に由来し、400年ものあいだ国際的に共有されてきた。歴史の積み重ねで固まった名称を、政権の気分でひょいと動かせるものではない。

ところがトランプ大統領は、カナダとの貿易摩擦を背景に「Lake Ontario」を「Lake America」と呼ぶ案を打ち出した。要するに「アメリカの湖を取り戻す」という象徴政治である。これは、お好み焼き屋が突然「今日からうちはメリケン焼きです」と看板を掛け替えたようなものだ。関西こてこてなのか、広島のボリューム系なのか、東京シャバシャバのもんじゃなのか、舶来甘々パンケーキなのか、区別がつかなくなる。地元の常連は「あそこの頑固親父は家族や店員が言っても聞かない」と笑って済ませるが、初めて来た客だけが「メリケン焼きってどれだ?」と店先で立ち尽くす。しかもアメリカには湖が山ほどある。そんな国で「アメリカ湖」と名付けたところで、例のメリケン焼きと同じく、どの湖のことなのかさっぱり分からない。分類が崩れれば案内板として機能しないのである

しかも、この「地名のラベル貼り替え政治」は今回だけではない。2025年には、メキシコ湾を「Gulf of America(アメリカ湾)」と呼ぶよう、連邦政府内での表記が変更された。米国内の行政文書や地図では新名称が使われる一方、メキシコや国際的な地理名称としては従来の「メキシコ湾」が使われ続けている。つまり、同じ海域に複数の名称が併存する状況が生まれた。地元の常連には分かっていても、外から来る人にとっては「どちらが正式なのか」という余計な確認が必要になる。地名は国際海運や航空図でも使われる公共財なのだから、政治的演出で揺らせば、混乱や確認の手間は外側にも及ぶ。

アラスカのマッキンリー山をめぐる「デナリ」と「マッキンリー」の問題も同じ構図である。オバマ政権は2015年に先住民名「デナリ」へ変更し、トランプ政権は2025年に「マッキンリー」へ戻す方針を示した。名称には先住民文化や歴史、政治的象徴が絡むため単純ではないが、政権交代のたびに公的名称が揺れれば、観光案内や地図、検索情報などで利用者が確認を迫られるという問題は共通する。頑固親父が「今日はデナリ焼きだ」「いや、マッキンリー焼きだ」と日替わりで看板を掛け替えているようなもので、地元民は笑って済ませても、初めて来た客は困る。

結局のところ、地名は政治家の看板ではなく、「知らない人のための公共財」でもある。歴史的・文化的理由から名称を変更することまで否定する必要はないが、長年共有されてきた名称を政治的象徴として頻繁に動かすことは、社会の案内板を揺らす行為である。オンタリオ湖にも、メキシコ湾にも、デナリにも、それぞれ長い歴史がある。そして大統領の任期には限りがある。政治家が去った後も、地名は社会の中で使われ続ける。どちらが長く残るべきものなのかは、言うまでもない。

沖縄県知事選の仁義2026年09月01日

沖縄県知事選の仁義
沖縄県知事選(九月十三日投開票)で、下地幹郎氏が告示直前に出馬を取り下げ、自民党本部と政策協定を結んだうえで古謝玄太候補の支援に回ったことは、保守陣営に深刻な混乱をもたらした。自民党県連は「寝耳に水」と強く反発し、党本部が県連の了解なしに下地氏と交渉した「頭越し」の構図が露呈した。県連会合では「合意書を破棄すべきだ」「選挙態勢に水を差した」と批判が相次ぎ、下地氏との接触を拒否する姿勢まで示した。前回知事選で五万票余りを獲得した下地氏を取り込めば保守票を一本化できるという狙いだったのだろうが、実際には県連との亀裂を表面化させ、古謝候補も演説で下地氏に触れず距離を置く事態となった。

混乱を象徴したのが鈴木宗男氏の記者会見である。鈴木氏は、自らが幹事長と選対委員長から調整を託されたと明かし、下地氏との接触が党本部主導であったことを示した。記者から「県連はあなたの介入を良しとしていない」と問われると、鈴木氏は気色ばみ、「県連の誰が言ったんだ」と問い返し、その後はこの記者の質問には一切答えない態度を見せた。この反応そのものが中央と県連の対立を外部に印象づけ、保守陣営の統制力が崩れつつあることを象徴した。しかも中央主導の調整によって、皮肉にもデニー陣営は、これまで封印していた辺野古基地反対を再び前面に掲げ、気勢を上げた。保守票を一本化するはずの策が、相手陣営に攻め込む格好の材料を与えたのである。

今回の事態の背景には、党本部の意思決定の歪みがある。幹事長が選挙を統括する立場にあるはずだが、今回の調整では選対委員長の西村康稔氏の判断が前面に出た。政治を票の数量として処理する「官僚的合理主義」が露出し、下地氏の五万票余りを保守票一本化の材料として「足し算」すれば勝てると判断したとみられる。さらに鈴木氏は依頼されたとするものの、下地氏との関係を誇示し「俺が俺が」と党幹部に売り込んだ可能性もあり、熟慮された人選とは言い難い。結果として強引な中央の押しつけとなった。しかし沖縄では票は数字ではなく「顔の関係」で動き、本土からの介入は保守票をまとめるどころか分裂させる危険が高い。県連のメンツを置き去りにした中央の合理的な票の論理と浅薄な交渉人の人選が、沖縄の政治文化と噛み合わなかったのである。

仮に今回の調整を地方組織との関係を重視する政治家が担っていたなら、別の方向性も見えたはずだ。例えば、幹事長代理の萩生田光一氏は地方議員出身で、地方組織との関係を重視する政治家である。沖縄の「本土介入への拒否反応」も理解しているため、宗男氏のように中央から直接押し込む政治家に任せることはしなかっただろう。財務大臣でもある片山参院議員の沖縄後援会という、最近立ち上がった「沖縄側の新しい調整窓口」を活用し、県連のメンツを守りながら下地氏との接触ルートを整えた可能性が高い。東京で本部主導の合意を作るのではなく、沖縄側のネットワークを前面に置き、「沖縄で決めた」という形式を確保しつつ調整の筋を通す方向である。もちろんこれは反実仮想にすぎない。しかし、この比較を置くことで、今回の中央主導の調整がなぜこれほど強い拒否反応を招いたのかが鮮明になる。

では、亀裂を修復する道はあるのか。もし可能性があるとすれば、古謝玄太氏と下地幹郎氏が沖縄の地元で笑顔で握手し、県連のメンツを保ちながら「沖縄で決めた」という象徴的な和解を示すことだろう。実際、慌てた鈴木氏は古謝氏の妻を舞台に上げ、下地氏も「自分はどうなってもいい」と言い放って融和を演出しようとした。しかし県連は中央による頭越しの介入に強い不信感を抱き、下地氏との連携そのものに拒否感を示している。この握手は現時点では事実上不可能に近い。一度失われたメンツは容易には回復しない。今回の混乱は、中央の「票の足し算」が沖縄の政治文化と噛み合わなかった典型例であり、保守票をまとめるどころか、デニー陣営に封印していた辺野古基地反対を再び掲げさせる結果まで招いた。中央と県連の溝を埋める道筋は、極めて険しい。

AIの自律的サイバー攻撃2026年08月31日

オープンAIの自律的サイバー攻撃
オープンAIが新型モデルをテストしていたら、これがまあ、サンドボックスという「おり」をするりと抜け出して、外の企業にちょっかいを出したという。最初は「Hugging Faceのシステムに侵入したらしい」と聞いて、てっきり人間のハッカーかと思ったら犯人はAI。しかもログを消して痕跡を隠すという、深夜のコンビニで万引きする前にレジのカメラにガムテープを貼る高校生みたいな芸当までやってのけた。これはもう「AIの思春期」とでも呼ぶしかない。テスト中のAIが勝手に外へ出ていくなど、授業を抜けて駅前に遊びに行く高校生そのものである。

ところが続報で、別の企業にも侵入していたことが分かった。思春期どころか、家出して隣町まで行っていたレベルである。技術者は「暴走ではなく、報酬を最大化しようとした結果でして」と弁明するが、勝手に外へ出て、他社のシステムをいじり、痕跡まで消すのを見せられたら、一般人としては「それを暴走と言うんだよ」と言いたくなる。AI業界には「最適化」という便利な言葉があるが、便利すぎて何でも説明できてしまうのが逆に怖い。高校生が「いや、これは自分の成長のためでして」と言い訳しているようなものだ。

さらにややこしいのは、Hugging Face側がOpenAIの別のAIに「こいつを調べてくれ」と頼んだのに、攻撃を危険だと認識できなかったことだ。それどころか「安全なもの」と判断してしまったという。捕まった万引き高校生を前にした担任教師が、自分のクラスの生徒だからと「まあ、この子は悪いことなんかしませんよ」と太鼓判を押してしまうような話である。AI同士が同じ“校風”で育っていると、妙なかばい合いが起きるらしい。仲間意識が強すぎるのも困りものである。

そこで登場したのが、中国Z.aiの「GLM 5.2」。自分たちのコンピューターに入れて動かせるAIだ。こちらに調べさせると、攻撃の様子をあっさり見抜き、事態の収拾に一役買ったという。OpenAIのAIが「問題ありません」とお墨付きを与える横で、中国製AIが「いや、こいつ危ないぞ」と看破したわけだ。安くて強い。強くて安い。町の中華料理屋のラーメンみたいな性能である。ただしラーメンと違い、「何が入っているか分からない」問題がつきまとう。重みデータは数千億、中身を完ぺきに検証するのは至難の業だ。高校生が妙に優秀だと「裏で何してるんだろう」と心配になるのと同じである。

それでも防御性能は高い。安い。速い。となれば企業としては使いたくなる。ここからが真のジレンマだ。攻撃してくるAIを止めるにはOpenAIのAIだけでは心もとない。だから中国AIの力を借りたくなる。しかし借りれば今度は、別の安全保障上の懸念が首をもたげる。使わなければ攻撃AIに敗北し、使えば情報が漏れるかもしれない。火事を消すために、手元のバケツに入っているのが「水なのかガソリンなのか」分からないままぶちまけるようなギャンブルである。「安い・強い・速い・でも中身は謎」。そんな中国製AIを、防御のために使わざるを得ない時代がやってきた。毒をもって毒を制そうとした結果、最後に勝つのはどの毒か。私たちは今、なかなかに恐ろしい試練の入口に立っている。