消費税をガラガラポン ― 2026年05月11日
消費税をめぐって世間は今日もかしましい。だが税理士出身の安藤議員の指摘だけは、まるでツボ押しの名人みたいに急所をグイッと押してくる。税金というのは本来、「儲かったらちょっとお裾分けしてあげて」という“人情”があるはずなのに、消費税にはその情けが一切ない。売上さえあれば、たとえ経費で赤字のヒーヒー状態でも、お上は「はい、10%ね」と取り立てに来る。儲けではなく“存在そのもの”にのしかかる税金である。そしてこれが、世間では間接税と呼ばれているが、実態はどう見ても“直接税”の顔つきなのだ。こんなもの、小さな店から順番に干からびていくのは当たり前だ。
この税金、昔からどうも「とぼけた顔」をしている。レシートに堂々と「消費税」と印字されているのを三十年も見せられれば、国民はそりゃあ「どの店も国に納めているんだな」と思い込む。ところが実際は、売上1,000万円以下の免税業者は納めていなかった。それを「ネコババだ!」と怒るのは筋違いで、実態はもっと日本的である。「みんなが書いてるから、うちも書いておこう」という、あの“横並びの安心感”がレシートに税額を吐き出させ続けていただけなのだ。
お役所はこの歪みを知っていながら、説明責任や問い合わせ増加を嫌って、そっと「不作為の霧」の中に隠してきた。一方の免税業者は仕組みが分からず、ただお隣に合わせていただけ。この「言わなかった・分からなかった・気づかなかった」の三者三様が三十年かけて“誤解の温室”を育て上げた。その結果、インボイス導入で「今までネコババしておいて、今さら納税したくないとは何事だ」という、冷ややかで筋違いな空気が世間に充満してしまったのである。
さらに厄介なのは、日本の消費税が本場ヨーロッパの付加価値税(VAT)とは似て非なる“なんちゃってVAT”だという点だ。本場は合理的で、投資や不調で付加価値がマイナスになれば、税を還付してくれる。「今は大変でしょう、返しておきますよ」という、ちょっとした思いやりがある。ところが日本式は、計算式だけは真似たものの、この肝心な“救済”を国内事業者には採用しなかった。マイナスになっても返ってこない。税金はただ売上めがけて飛んでくる。実態はほとんど“売上税”である。赤字でも容赦なくのしかかるのだから、小規模事業者が疲弊するのは当然だ。
そして決定的なのは、VATに寄せても小規模事業者の苦しみは変わらないという事実である。VATは合理的に見えて、電子インボイスやデジタル会計など事務負担が重く、日本のように小規模事業者が多く現金文化が根強い国では、むしろ負担が増える。つまり、インボイスを続けても、VATに作り替えても、弱い立場の事業者は救われない。
解決策はシンプルである。インボイスをやめ、これまで三十年間続けてきた“日本型の実務”を法律で明確に位置づけ直すしかない。 免税事業者の請求書に含まれる消費税相当額は「納税したものとみなす」と定め、企業はこれまで通り仕入税額控除を受けられるようにする。そのうえで免税事業者は消費者に「免税店」であることを明示する。これだけで、小規模事業者の排除は消え、企業の混乱も消え、国の税収も維持される。
しかし本来を言えば、消費税そのものをなくすのが一番良い。「安定的な税収」という名目で福祉を人質に取る理屈は、景気変動を前提とした財政運営の基本からして論理が破綻している。そもそも家計収入と同じように税収を説明するところで間違っている。景気が悪くなれば減税し、財政出動で需要を下支えするのが本来の筋であり、どんな不況でも容赦なく取り立てる消費税の姿は、まるで江戸時代の悪代官の年貢取り立てと大差がない。そろそろ日本は、“とぼけた顔”の消費税をやめ、誰もが納得できる制度に着替える時期なのだ。
この税金、昔からどうも「とぼけた顔」をしている。レシートに堂々と「消費税」と印字されているのを三十年も見せられれば、国民はそりゃあ「どの店も国に納めているんだな」と思い込む。ところが実際は、売上1,000万円以下の免税業者は納めていなかった。それを「ネコババだ!」と怒るのは筋違いで、実態はもっと日本的である。「みんなが書いてるから、うちも書いておこう」という、あの“横並びの安心感”がレシートに税額を吐き出させ続けていただけなのだ。
お役所はこの歪みを知っていながら、説明責任や問い合わせ増加を嫌って、そっと「不作為の霧」の中に隠してきた。一方の免税業者は仕組みが分からず、ただお隣に合わせていただけ。この「言わなかった・分からなかった・気づかなかった」の三者三様が三十年かけて“誤解の温室”を育て上げた。その結果、インボイス導入で「今までネコババしておいて、今さら納税したくないとは何事だ」という、冷ややかで筋違いな空気が世間に充満してしまったのである。
さらに厄介なのは、日本の消費税が本場ヨーロッパの付加価値税(VAT)とは似て非なる“なんちゃってVAT”だという点だ。本場は合理的で、投資や不調で付加価値がマイナスになれば、税を還付してくれる。「今は大変でしょう、返しておきますよ」という、ちょっとした思いやりがある。ところが日本式は、計算式だけは真似たものの、この肝心な“救済”を国内事業者には採用しなかった。マイナスになっても返ってこない。税金はただ売上めがけて飛んでくる。実態はほとんど“売上税”である。赤字でも容赦なくのしかかるのだから、小規模事業者が疲弊するのは当然だ。
そして決定的なのは、VATに寄せても小規模事業者の苦しみは変わらないという事実である。VATは合理的に見えて、電子インボイスやデジタル会計など事務負担が重く、日本のように小規模事業者が多く現金文化が根強い国では、むしろ負担が増える。つまり、インボイスを続けても、VATに作り替えても、弱い立場の事業者は救われない。
解決策はシンプルである。インボイスをやめ、これまで三十年間続けてきた“日本型の実務”を法律で明確に位置づけ直すしかない。 免税事業者の請求書に含まれる消費税相当額は「納税したものとみなす」と定め、企業はこれまで通り仕入税額控除を受けられるようにする。そのうえで免税事業者は消費者に「免税店」であることを明示する。これだけで、小規模事業者の排除は消え、企業の混乱も消え、国の税収も維持される。
しかし本来を言えば、消費税そのものをなくすのが一番良い。「安定的な税収」という名目で福祉を人質に取る理屈は、景気変動を前提とした財政運営の基本からして論理が破綻している。そもそも家計収入と同じように税収を説明するところで間違っている。景気が悪くなれば減税し、財政出動で需要を下支えするのが本来の筋であり、どんな不況でも容赦なく取り立てる消費税の姿は、まるで江戸時代の悪代官の年貢取り立てと大差がない。そろそろ日本は、“とぼけた顔”の消費税をやめ、誰もが納得できる制度に着替える時期なのだ。
クマとボッチキャンプ ― 2026年05月10日
春というのは、キャンパーにとって魔性の季節である。空気は軽く、風はやわらかく、太陽は「そろそろ外に出たらどうだ」と、近所のおばちゃんみたいに世話を焼いてくる。ベランダに干した寝袋が、ふっくらと春の風を吸い込んでいく。その様子を眺めているだけで、胸の奥がむずむずしてくる。ソロキャンパーとは、春になると自動的に山へ吸い寄せられる渡り鳥のような生き物なのだ。ところが今年は様子が違う。テレビをつければクマ、ネットを開けばクマ、SNSを見ればクマ。日本列島全体が、まるで「クマ強化月間」に突入したかのようである。しかも出てくる映像がまた強い。住宅街を横切る黒い影、ドラレコに映る巨体、役場のスピーカーから流れる「付近でクマが目撃されました」の無機質な声。ニュースを見れば見るほど、「自然を楽しみに行く」という行為が、「命を賭けて山へ入る」に変換されていく。
気候は最高なのに、気持ちはどんよりしている。外は春爛漫なのに、心だけ冬眠中である。私はテントを張る代わりに、家の中でノートを広げ、“安全キャンプ計画”を書き続けている。しかし、この「安全」という言葉が曲者だ。考えれば考えるほど、最終的に「山へ行かないのが一番安全」という、身も蓋もない結論へ着地してしまう。ダイエット中にケーキの写真を見ながら、「そもそも食べなければいいのでは」と悟る、あの虚しさに近い。
京都の里山は、かつて“人間の裏庭”だった。だが今や、“クマのリビング”である。そこへソロキャンパーがテントを張るというのは、クマの家の真ん中に勝手に寝袋を敷き、「自然を楽しみに来ました」と言っているようなものだ。クマからすれば、「いや、ここウチなんですけど」と言いたくもなるだろう。人間側だけが「自然との共生」を語っても、相手が納得しているとは限らないのである。
しかも危ないのは東北だけではないらしい。本州はもちろん、四国でも目撃情報が増えているという。地図を眺めていると、キャンプ可能エリアが少しずつ侵食されていき、最後には「島嶼部か九州」という、避難計画みたいな選択肢しか残らなくなる。だが、島へ渡るにはフェリーがいる。九州遠征には日程と覚悟がいる。本来ソロキャンプという趣味は、「天気いいな、行くか」で成立する身軽さが魅力だったはずだ。それが今や、“小さな海外旅行”くらいの準備を要求してくる。気軽さが売りだった趣味が、気軽さを失った瞬間、急に遠い存在になる。まるで、気づけば一杯1800円になっていたラーメン屋のようだ。
それでも私はノートに「対クマ作戦」を書き続ける。管理されたキャンプ場限定。食材は完全密閉。クマスプレー携行。夜間の焚き火は最小限。ラジオ常時再生。鈴装備。書けば書くほど、キャンプ計画というより特殊部隊の行動マニュアルになっていく。自然を楽しみに行くはずなのに、自然に警戒し続ける訓練になっているのだから皮肉な話である。しかも途中で、ふと気づく。「これ、本当に趣味なのか?」と。リラックスするための行為に、ここまで事前準備と危機管理が必要になると、それはもうレジャーではなく“野外自衛訓練”に近い。春の陽気は「山へ来い」と誘ってくるのに、クマのニュースが「やめておけ」と肩を掴んで引き戻す。この綱引きが、今年のソロキャンパーの頭の中で延々と続いている。
外へ出れば、空は高く、風はやわらかい。まさにキャンプ日和である。しかし私は今日も、ベランダで寝袋を干しながらクマニュースを眺め、「どうすれば安全にキャンプできるのか」という答えの出ない問いを反芻している。春の山はあれほど魅力的なのに、その入口には黒い影が立っている。結局のところ、気候が良くなればなるほど、「外へ行きたい気持ち」と「行けない現実」の温度差だけが広がっていく。そして今日も私は、ベランダでコーヒーを飲みながら、乾いた寝袋を取り込む。山を恋しがり、山を恐れ、結局どこにも行かない。これこそが、2026年のソロキャンパーに訪れた、新しい“春の風物詩”なのかもしれない。
気候は最高なのに、気持ちはどんよりしている。外は春爛漫なのに、心だけ冬眠中である。私はテントを張る代わりに、家の中でノートを広げ、“安全キャンプ計画”を書き続けている。しかし、この「安全」という言葉が曲者だ。考えれば考えるほど、最終的に「山へ行かないのが一番安全」という、身も蓋もない結論へ着地してしまう。ダイエット中にケーキの写真を見ながら、「そもそも食べなければいいのでは」と悟る、あの虚しさに近い。
京都の里山は、かつて“人間の裏庭”だった。だが今や、“クマのリビング”である。そこへソロキャンパーがテントを張るというのは、クマの家の真ん中に勝手に寝袋を敷き、「自然を楽しみに来ました」と言っているようなものだ。クマからすれば、「いや、ここウチなんですけど」と言いたくもなるだろう。人間側だけが「自然との共生」を語っても、相手が納得しているとは限らないのである。
しかも危ないのは東北だけではないらしい。本州はもちろん、四国でも目撃情報が増えているという。地図を眺めていると、キャンプ可能エリアが少しずつ侵食されていき、最後には「島嶼部か九州」という、避難計画みたいな選択肢しか残らなくなる。だが、島へ渡るにはフェリーがいる。九州遠征には日程と覚悟がいる。本来ソロキャンプという趣味は、「天気いいな、行くか」で成立する身軽さが魅力だったはずだ。それが今や、“小さな海外旅行”くらいの準備を要求してくる。気軽さが売りだった趣味が、気軽さを失った瞬間、急に遠い存在になる。まるで、気づけば一杯1800円になっていたラーメン屋のようだ。
それでも私はノートに「対クマ作戦」を書き続ける。管理されたキャンプ場限定。食材は完全密閉。クマスプレー携行。夜間の焚き火は最小限。ラジオ常時再生。鈴装備。書けば書くほど、キャンプ計画というより特殊部隊の行動マニュアルになっていく。自然を楽しみに行くはずなのに、自然に警戒し続ける訓練になっているのだから皮肉な話である。しかも途中で、ふと気づく。「これ、本当に趣味なのか?」と。リラックスするための行為に、ここまで事前準備と危機管理が必要になると、それはもうレジャーではなく“野外自衛訓練”に近い。春の陽気は「山へ来い」と誘ってくるのに、クマのニュースが「やめておけ」と肩を掴んで引き戻す。この綱引きが、今年のソロキャンパーの頭の中で延々と続いている。
外へ出れば、空は高く、風はやわらかい。まさにキャンプ日和である。しかし私は今日も、ベランダで寝袋を干しながらクマニュースを眺め、「どうすれば安全にキャンプできるのか」という答えの出ない問いを反芻している。春の山はあれほど魅力的なのに、その入口には黒い影が立っている。結局のところ、気候が良くなればなるほど、「外へ行きたい気持ち」と「行けない現実」の温度差だけが広がっていく。そして今日も私は、ベランダでコーヒーを飲みながら、乾いた寝袋を取り込む。山を恋しがり、山を恐れ、結局どこにも行かない。これこそが、2026年のソロキャンパーに訪れた、新しい“春の風物詩”なのかもしれない。
共生社会と個人情報 ― 2026年05月09日
宮城教育大付属特別支援学校のニュースを見て、「うわあ、学校それはまずいだろう」と思った人は多いはずである。地下鉄で迷惑行為があったとして、一般の通報者を学校に招き、生徒名簿を見せた。しかも顔写真付き。保護者は「鉄道警察隊への提出用」として了承していたもので、見知らぬ第三者への公開は許されない。文科省も「目的外利用」と指摘し、学校は謝罪。当該生徒は登校拒否のまま卒業したという。
ここまで聞くと、学校が悪い。終わり。そういう話に見える。だが、世の中というのは、「終わり」で終わらない。むしろ、そこからギシギシと妙な音がし始める。まず地下鉄のトラブルというのは、本来ぜんぶ警察案件である。足を蹴られた、怒鳴られた、押された。これは学校の生活指導ではなく、鉄道警察隊の仕事だ。ところが今回の通報者は、制服やヘルプマークを見て、「学校へ知らせた方がいいのでは」と考えたのだろう。これ、なんとなく分かるのである。
昔の町内には、頼まれてもいないのに学校へ知らせに来る人がいた。「あそこの子、駅前でちょっと荒れてたよ」とか、「最近元気ないねえ」とか、そういうことを伝えに来る。いま風に言えば“地域連携”だが、昔は単なる世話焼きである。社会というのは、実はこういう余計なお節介で回っていた。そして、子どもを確認するために集合写真や卒業アルバムを見せるようなことも、昔は案外普通にあった。「ああ、この子ですか」「この帽子の子かな」と、地域と学校が雑に情報を擦り合わせる。かなり危ういのだが、その危うさ込みで社会は動いていた。今回も、学校側の感覚としては、おそらくそちらに近かったのではないか。「名簿を開示した」というより、「どの子か写真で確認した」という現場感覚である。
ところが、これを法律や報道の言葉へ翻訳すると、一気に響きが変わる。「確認のために写真を見せた」は、「顔写真付き個人情報を第三者へ提供した」になる。「どの生徒か確認した」は、「名簿を閲覧させた」になる。すると学校は、まるで秘密ファイルを外部へ流出させた組織のような輪郭を帯び始める。もちろん、保護者が怒るのは当然だ。顔写真付き名簿を第三者に見せられたのだから、「それは違うだろう」となる。当たり前である。そして「個人情報保護法違反」という言葉が出た瞬間、善意がきっかけの地域の中の揉め事だったものが、一気に全国ニュース級の“不祥事”へ変わる。
だが、この話でいちばん強い燃料を投げ込んだのは、実はメディアかもしれない。学校も、通報者も、保護者も、本来は「子どもをどう支えるか」という同じ円の中にいた。多少やり方を間違えたとしても、本来は地域と学校の間で調整される種類の話だった。ところが、そこへ「個人情報漏洩」「第三者閲覧」「目的外利用」という強い言葉が並ぶと、空気は一変する。学校は“不祥事側”になり、保護者は“被害者側”になり、通報者は“危険な第三者”になる。本来は、現場の雑で不器用な確認作業だったものが、全国消費型の炎上案件へ変換されてしまうのである。
すると学校側も縮こまる。地域住民も、「もう学校には言わない方がいいな」と考え始める。最近はどこへ行っても、「担当部署に確認します」「個人情報なのでお答えできません」「警察へご相談ください」である。スーパーでも病院でも役所でも、とにかく境界線がきっちり引かれている。全部、法律的には正しい。だが、それを徹底した先にあるのは、学校は教育だけ、地域は通報だけ、あとは全部警察へ、という社会である。たしかに安全だ。責任も発生しにくい。誰も境界線を越えないから、コンプライアンス事故も減る。しかし、それは本当に日本が目指してきた「共生社会」なのか。誤解されやすい子どもを地域で支えるとは、本来、多少の面倒や越境を引き受けることでもあったはずだ。学校と地域が、「まあまあ」と言いながら橋をかけ続けることで、なんとか成り立っていた部分がある。
もちろん、学校の対応は不用意だったのだろう。保護者が怒るのも当然である。メディアにも報じる役割はある。だが、本来みんなが目指していたのは、「誰を処罰するか」ではなく、「どう共生社会を維持するか」だったはずだ。学校も、保護者も、地域も、メディアも、もう少し落ち着いて、「この子たちを社会でどう支えるか」を考える余裕があれば、話は違う形になっていたのかもしれない。最近の社会は、白黒をつける速度だけは異様に速い。だが、共生社会というものは、本来そんな瞬発力ではなく、少し鈍く、少し不器用で、少し面倒くさいものだった気がするのである。
ここまで聞くと、学校が悪い。終わり。そういう話に見える。だが、世の中というのは、「終わり」で終わらない。むしろ、そこからギシギシと妙な音がし始める。まず地下鉄のトラブルというのは、本来ぜんぶ警察案件である。足を蹴られた、怒鳴られた、押された。これは学校の生活指導ではなく、鉄道警察隊の仕事だ。ところが今回の通報者は、制服やヘルプマークを見て、「学校へ知らせた方がいいのでは」と考えたのだろう。これ、なんとなく分かるのである。
昔の町内には、頼まれてもいないのに学校へ知らせに来る人がいた。「あそこの子、駅前でちょっと荒れてたよ」とか、「最近元気ないねえ」とか、そういうことを伝えに来る。いま風に言えば“地域連携”だが、昔は単なる世話焼きである。社会というのは、実はこういう余計なお節介で回っていた。そして、子どもを確認するために集合写真や卒業アルバムを見せるようなことも、昔は案外普通にあった。「ああ、この子ですか」「この帽子の子かな」と、地域と学校が雑に情報を擦り合わせる。かなり危ういのだが、その危うさ込みで社会は動いていた。今回も、学校側の感覚としては、おそらくそちらに近かったのではないか。「名簿を開示した」というより、「どの子か写真で確認した」という現場感覚である。
ところが、これを法律や報道の言葉へ翻訳すると、一気に響きが変わる。「確認のために写真を見せた」は、「顔写真付き個人情報を第三者へ提供した」になる。「どの生徒か確認した」は、「名簿を閲覧させた」になる。すると学校は、まるで秘密ファイルを外部へ流出させた組織のような輪郭を帯び始める。もちろん、保護者が怒るのは当然だ。顔写真付き名簿を第三者に見せられたのだから、「それは違うだろう」となる。当たり前である。そして「個人情報保護法違反」という言葉が出た瞬間、善意がきっかけの地域の中の揉め事だったものが、一気に全国ニュース級の“不祥事”へ変わる。
だが、この話でいちばん強い燃料を投げ込んだのは、実はメディアかもしれない。学校も、通報者も、保護者も、本来は「子どもをどう支えるか」という同じ円の中にいた。多少やり方を間違えたとしても、本来は地域と学校の間で調整される種類の話だった。ところが、そこへ「個人情報漏洩」「第三者閲覧」「目的外利用」という強い言葉が並ぶと、空気は一変する。学校は“不祥事側”になり、保護者は“被害者側”になり、通報者は“危険な第三者”になる。本来は、現場の雑で不器用な確認作業だったものが、全国消費型の炎上案件へ変換されてしまうのである。
すると学校側も縮こまる。地域住民も、「もう学校には言わない方がいいな」と考え始める。最近はどこへ行っても、「担当部署に確認します」「個人情報なのでお答えできません」「警察へご相談ください」である。スーパーでも病院でも役所でも、とにかく境界線がきっちり引かれている。全部、法律的には正しい。だが、それを徹底した先にあるのは、学校は教育だけ、地域は通報だけ、あとは全部警察へ、という社会である。たしかに安全だ。責任も発生しにくい。誰も境界線を越えないから、コンプライアンス事故も減る。しかし、それは本当に日本が目指してきた「共生社会」なのか。誤解されやすい子どもを地域で支えるとは、本来、多少の面倒や越境を引き受けることでもあったはずだ。学校と地域が、「まあまあ」と言いながら橋をかけ続けることで、なんとか成り立っていた部分がある。
もちろん、学校の対応は不用意だったのだろう。保護者が怒るのも当然である。メディアにも報じる役割はある。だが、本来みんなが目指していたのは、「誰を処罰するか」ではなく、「どう共生社会を維持するか」だったはずだ。学校も、保護者も、地域も、メディアも、もう少し落ち着いて、「この子たちを社会でどう支えるか」を考える余裕があれば、話は違う形になっていたのかもしれない。最近の社会は、白黒をつける速度だけは異様に速い。だが、共生社会というものは、本来そんな瞬発力ではなく、少し鈍く、少し不器用で、少し面倒くさいものだった気がするのである。
宗教と共産党 ― 2026年05月08日
イランの戦争だ、ウクライナの戦争だ、ウイグルの弾圧だと原因をたどっていくと、どういうわけか宗教と共産党がいつも顔を出す。宗教団体と共産党。片方は神様、もう片方は革命。見た目はまるで違うのに、中身を覗けば驚くほどよく似ている。どちらも「真理はひとつッ!」と胸を張り、異論を差し挟めば「違うッ!」と烈火のごとく怒る。そして怒るのは決まって上のほうの、やたらとふんぞり返った人たちだ。不思議なのは、その「下」にいる人たちの善良さである。末端の人たちは誠実で、真面目で、近所に住んでいたら回覧板を回し合うような、実に好感の持てるタイプばかりだ。ところが組織の「上」にいくほど、急に腕組みが深くなり、「正しいのはこっちだ」と動かなくなる。この「末端の善意」と「中央の硬直」は世の中のあちこちで見られるが、宗教と共産党はその極致である。
私が睨んでいるのは、宗教団体や共産党が掲げる「絶対的な教義」や「歴史的必然」といった立派な看板が、民主主義という“面倒な手続き”を煙に巻くための目くらましになっていることだ。本来、社会を動かすのは「最後に誰が決めるのか」という極めて現実的な問題であり、責任の押し付け合いをどう防ぐかという泥臭いネジ回しの話である。ところが宗教団体も共産党も、あるいはナチズムのような似非民族宗教も、その一番大事なネジの部分にヒラヒラと美しい風呂敷を被せて隠してしまう。「神の意志」「人民の意思」「血の誇り」といった反論しにくい巨大な言葉をドカンと置き、誰がどうやって決めるのかという肝心な仕組みをボヤかしてしまうのだ。
気がつくと、その風呂敷の下で“中央”や“総統”が「私が解釈しました」という顔で君臨し、異論を言う者は「不信心者!」「裏切り者!」として放り出される。立派な教義であればあるほど、民主主義という“正気のルール”を麻痺させる麻酔薬として働いてしまう。看板の文字が眩しすぎると、人間は足元のネジが外れていることに気づかなくなる。かつてのワイマール憲法も看板はピカピカだったが、社会が「民主主義なんてまどろっこしい」と目を逸らした瞬間、内側のネジが一本、また一本と外れ、独裁という化け物に食われてしまった。
結局、宗教団体も共産党も、ある意味で“別格”なのだ。教義が絶対で、権威の出所が曖昧で、内部批判はタブー。これでは地方の党員や信者がどれだけ誠実でも、組織そのものが民主的であるという理屈は成り立たない。独裁というのは、思想そのものが悪いというより、派手な看板に目を奪われて「ネジ回し」をサボったときに背後から忍び寄ってくる。民主主義を守るために必要なのは、眩しい看板を拝むことではない。風呂敷を剥ぎ取り、「最後に決めるのは自分たちだ」という、あの地味な権利を握りしめておくことだ。
いわば、得体の知れない居酒屋で「大将、あとよろしく。お任せで!」と丸投げしてしまうようなものだ。そんな調子のいいことを言っている間に、奥の厨房では勝手に「独裁盛り合わせ」や「権威主義特上ネタ」が用意され、気がつけばテーブルの上には食べきれないほどの“不自由”が並んでいる。慌てて逃げ出そうとしたところで、もう遅い。最後にはバカ高い勘定書を突きつけられ、自由の財布はすっかり空っぽになっている。
私が睨んでいるのは、宗教団体や共産党が掲げる「絶対的な教義」や「歴史的必然」といった立派な看板が、民主主義という“面倒な手続き”を煙に巻くための目くらましになっていることだ。本来、社会を動かすのは「最後に誰が決めるのか」という極めて現実的な問題であり、責任の押し付け合いをどう防ぐかという泥臭いネジ回しの話である。ところが宗教団体も共産党も、あるいはナチズムのような似非民族宗教も、その一番大事なネジの部分にヒラヒラと美しい風呂敷を被せて隠してしまう。「神の意志」「人民の意思」「血の誇り」といった反論しにくい巨大な言葉をドカンと置き、誰がどうやって決めるのかという肝心な仕組みをボヤかしてしまうのだ。
気がつくと、その風呂敷の下で“中央”や“総統”が「私が解釈しました」という顔で君臨し、異論を言う者は「不信心者!」「裏切り者!」として放り出される。立派な教義であればあるほど、民主主義という“正気のルール”を麻痺させる麻酔薬として働いてしまう。看板の文字が眩しすぎると、人間は足元のネジが外れていることに気づかなくなる。かつてのワイマール憲法も看板はピカピカだったが、社会が「民主主義なんてまどろっこしい」と目を逸らした瞬間、内側のネジが一本、また一本と外れ、独裁という化け物に食われてしまった。
結局、宗教団体も共産党も、ある意味で“別格”なのだ。教義が絶対で、権威の出所が曖昧で、内部批判はタブー。これでは地方の党員や信者がどれだけ誠実でも、組織そのものが民主的であるという理屈は成り立たない。独裁というのは、思想そのものが悪いというより、派手な看板に目を奪われて「ネジ回し」をサボったときに背後から忍び寄ってくる。民主主義を守るために必要なのは、眩しい看板を拝むことではない。風呂敷を剥ぎ取り、「最後に決めるのは自分たちだ」という、あの地味な権利を握りしめておくことだ。
いわば、得体の知れない居酒屋で「大将、あとよろしく。お任せで!」と丸投げしてしまうようなものだ。そんな調子のいいことを言っている間に、奥の厨房では勝手に「独裁盛り合わせ」や「権威主義特上ネタ」が用意され、気がつけばテーブルの上には食べきれないほどの“不自由”が並んでいる。慌てて逃げ出そうとしたところで、もう遅い。最後にはバカ高い勘定書を突きつけられ、自由の財布はすっかり空っぽになっている。
日本の武器輸出解禁 ― 2026年05月07日
インド太平洋の地図を広げると、まるで巨大な深鍋のふたを強引にこじ開けたような熱気が立ちのぼる。湯気の向こうでは、巨大な中国という「業火」がドロドロと煮えたぎり、周囲の国々は「ちょっと火力、強すぎません?」と、お玉(旧式装備)を握りしめたまま腰が引けている。そこへ日本が「うちは手ぶら主義ですから」と涼しい顔をして、エプロンどころか三角コーナーのネットすら持たずに立っているのだから、もはや料理番組として成立しない。
本来なら、日本の台所の奥で眠っている「型落ちのフライパン」や「切れ味の落ちた包丁」──つまり中古の護衛艦や航空機──を、困っている近所の家々に回してやればいい。フィリピンの台所では火力が足りず、ベトナムはまな板が割れている。インドネシアは計量カップの目盛りが消えていて、塩を入れるたびに「これ大さじ?小さじ?」と首をかしげている。そこへ日本が「これ、型は古いけど手入れは完璧だよ」と差し出せば、それは単なるお下がり以上の意味を持つ。
日本の凄みは、道具を渡して終わりではないことだ。「このコンロは点火にコツがいる」「この包丁はこう研げば一生切れる」と、秘伝のレシピまでセットで教え込む。道具のクセを共有し、包丁の研ぎ方から排水溝の掃除まで面倒を見る。いわば「実習付きのリユース家電」。ここまでやるから効く。安全保障の言葉で言えば「装備移転」だが、要するに「もったいない精神」の国際版である。
そして本題はここからだ。道具が共通化されると、近所の台所は点ではなく線でつながり、やがて面として回り始める。フライパンの径が同じならフタが貸し借りできる。ガス口の規格が同じなら、どこの家でも火加減が読める。包丁の規格が揃えば、砥石も替え刃も共有できる。バラバラの一点物に頼っていた頃は、ひとつ壊れるたびに全体が止まっていた。だが共通仕様になれば、部品も知恵も流れ出す。補給はあぜ道から幹線へ、作業は属人芸から再現可能な手順へと変わる。地域の自衛力は、静かに、しかし確実に底上げされる。
倉庫で眠る装備も同じだ。スクラップにすればただの鉄くずだが、回せば抑止力になり、揃えば「地域のOS」になる。廃棄すれば処分費がかかるが、回せば信頼と効率が積み上がる。ゴミか戦力かの違いは、置き場所と揃え方だけである。これほど筋のいい「安全保障のエコ」はない。
ところが日本の台所には長年、「武器輸出禁止」という古びた貼り紙がベタベタと残っていた。昭和の冷蔵庫の注意書きのように黄ばんでいて、もはや誰も読んでいないのに、誰も剥がそうとしない。理由を聞けば「包丁は人を刺すものだから」。そんな理屈で料理をやめるなら、あとは鍋が吹きこぼれるのを眺めるしかない。その隙に中国は、世界中で格安の調理器具を売り込んできた。安い、早い、条件は緩い。気づけば近所の家々が同じコンロを使い、火加減もレシピも外から与えられるようになっていく。台所は便利になるが、主導権は手放す。
そして今、日本がようやく中古の調理器具を回し始めると、中国は決まって声を張り上げる。だが、その調子の高さ自体が答えだ。道具が回り、使い方が共有され、規格が揃い始めれば、近所の家々は自分で料理できるようになる。依存は薄れ、選択肢が増える。それが何より都合が悪い。中国が嫌がる日本の動きは、たいてい周辺国にとっての実用品である。新品を並べるより、中古を回し、使い方を教え、規格を寄せる方が、速く、安く、そして長持ちする。ゴミは減り、連携は太くなる。
インド太平洋の平和とは、一軒だけピカピカのキッチンをつくることではない。使える道具を持ち寄り、足りない場所へ回し、同じ火加減で同時に鍋を振れるようにすることだ。日本の中古包丁は、正しく研げばまだまだ切れる。倉庫で錆びさせるか、近所で役立てるか。選択を誤れば、次に吹きこぼれるのは鍋の中身ではなく、この台所の秩序そのものになる。
本来なら、日本の台所の奥で眠っている「型落ちのフライパン」や「切れ味の落ちた包丁」──つまり中古の護衛艦や航空機──を、困っている近所の家々に回してやればいい。フィリピンの台所では火力が足りず、ベトナムはまな板が割れている。インドネシアは計量カップの目盛りが消えていて、塩を入れるたびに「これ大さじ?小さじ?」と首をかしげている。そこへ日本が「これ、型は古いけど手入れは完璧だよ」と差し出せば、それは単なるお下がり以上の意味を持つ。
日本の凄みは、道具を渡して終わりではないことだ。「このコンロは点火にコツがいる」「この包丁はこう研げば一生切れる」と、秘伝のレシピまでセットで教え込む。道具のクセを共有し、包丁の研ぎ方から排水溝の掃除まで面倒を見る。いわば「実習付きのリユース家電」。ここまでやるから効く。安全保障の言葉で言えば「装備移転」だが、要するに「もったいない精神」の国際版である。
そして本題はここからだ。道具が共通化されると、近所の台所は点ではなく線でつながり、やがて面として回り始める。フライパンの径が同じならフタが貸し借りできる。ガス口の規格が同じなら、どこの家でも火加減が読める。包丁の規格が揃えば、砥石も替え刃も共有できる。バラバラの一点物に頼っていた頃は、ひとつ壊れるたびに全体が止まっていた。だが共通仕様になれば、部品も知恵も流れ出す。補給はあぜ道から幹線へ、作業は属人芸から再現可能な手順へと変わる。地域の自衛力は、静かに、しかし確実に底上げされる。
倉庫で眠る装備も同じだ。スクラップにすればただの鉄くずだが、回せば抑止力になり、揃えば「地域のOS」になる。廃棄すれば処分費がかかるが、回せば信頼と効率が積み上がる。ゴミか戦力かの違いは、置き場所と揃え方だけである。これほど筋のいい「安全保障のエコ」はない。
ところが日本の台所には長年、「武器輸出禁止」という古びた貼り紙がベタベタと残っていた。昭和の冷蔵庫の注意書きのように黄ばんでいて、もはや誰も読んでいないのに、誰も剥がそうとしない。理由を聞けば「包丁は人を刺すものだから」。そんな理屈で料理をやめるなら、あとは鍋が吹きこぼれるのを眺めるしかない。その隙に中国は、世界中で格安の調理器具を売り込んできた。安い、早い、条件は緩い。気づけば近所の家々が同じコンロを使い、火加減もレシピも外から与えられるようになっていく。台所は便利になるが、主導権は手放す。
そして今、日本がようやく中古の調理器具を回し始めると、中国は決まって声を張り上げる。だが、その調子の高さ自体が答えだ。道具が回り、使い方が共有され、規格が揃い始めれば、近所の家々は自分で料理できるようになる。依存は薄れ、選択肢が増える。それが何より都合が悪い。中国が嫌がる日本の動きは、たいてい周辺国にとっての実用品である。新品を並べるより、中古を回し、使い方を教え、規格を寄せる方が、速く、安く、そして長持ちする。ゴミは減り、連携は太くなる。
インド太平洋の平和とは、一軒だけピカピカのキッチンをつくることではない。使える道具を持ち寄り、足りない場所へ回し、同じ火加減で同時に鍋を振れるようにすることだ。日本の中古包丁は、正しく研げばまだまだ切れる。倉庫で錆びさせるか、近所で役立てるか。選択を誤れば、次に吹きこぼれるのは鍋の中身ではなく、この台所の秩序そのものになる。
七十九回目の憲法記念日 ― 2026年05月06日
七十九回目の憲法記念日である。テレビをつければ、盆や暮れの親戚集まりのように、見慣れた顔ぶれが並んでいる。そして、例によって「最近は状況が変わったから、そろそろ憲法を…」「いやいや平和憲法の価値は変えなかったことに…」という、あの聞き飽きたお題目が唱えられる。だが、私はこの「最近」という言葉が、どうにも喉に引っかかった小骨のように気になるのだ。最近とはいつのことか。昨日の昼飯のことか、それとも昭和が幕を閉じたあの頃か。人によって「最近」の幅があまりに広すぎて、議論のピントがちっとも合わない。
そもそも、戦後で最も劇的に「最近」が変わった瞬間は、1952年の独立回復の時だったはずだ。占領下の憲法に軍備も交戦権もないのは、まあ当たり前の話である。管理されている身分で「拳」を振り回すわけにはいかない。問題は、主権を取り戻して「今日から一本立ちだ」という段になっても、その不自由な条文をそのまま後生大事に抱え込んだことにある。9条2項という、いわば「占領期のギプス」を外さぬまま、今日まで歩き続けてしまった。ここに、日本の安全保障の奇妙な「ねじれ」の正体がある。
おまけに、そのギプスに後から「平和憲法」なんていう、いかにも耳ざわりのいい名前をつけてしまったものだから、事態はややこしくなった。本来は「制度の不備」だったものが、いつの間にか「崇高な理念」へと出世してしまったのだ。名前というのは恐ろしい。一度「平和」というラベルを貼られたら、中身を点検することさえ「悪」のように見えてしまう。
現実はどうか。日本の平和は、条文の理念によって守られてきたというより、むしろ在日米軍基地という「外付けの抑止力」にどっぷりと依存してきた。家の中のルールは立派だが、戸締まりは隣のボディーガードに任せきり、というわけだ。一方で国内では「自衛隊」という、どう見ても実力を持った組織が育っていく。しかし、建前上は「戦力ではない」「最小限の自衛は交戦ではない」と言い張らなきゃならない。こうして「戦力ではない戦力」「交戦ではない自衛」という、禅問答のような概念が積み重なり、現実だけがどんどん先に走っていく。役人は前例を金科玉条とし、政治は選挙が怖くて大ナタを振るわない。一時しのぎの「とりあえず」が、気がつけば半世紀を超える「常態」になってしまった。
だから、今さら「最近の情勢変化」を理由に改憲を説くのは、どうにも時間軸が歪んでいる気がしてならない。一番大きな「曲がり角」だった独立回復の時点をスルーして、後からの変化だけを並べ立てても、ボタンの掛け違えは治らない。結局のところ、問題は「状況が変わったかどうか」ではないのだ。「一番変わるべき時に、制度を整えなかった」――その一点に尽きる。この順序を取り違えたまま議論の山を築いても、現実との乖離は深まるばかりである。そのツケは、結局は誰も責任を取らない形で、私たちに回ってくる。
そもそも、戦後で最も劇的に「最近」が変わった瞬間は、1952年の独立回復の時だったはずだ。占領下の憲法に軍備も交戦権もないのは、まあ当たり前の話である。管理されている身分で「拳」を振り回すわけにはいかない。問題は、主権を取り戻して「今日から一本立ちだ」という段になっても、その不自由な条文をそのまま後生大事に抱え込んだことにある。9条2項という、いわば「占領期のギプス」を外さぬまま、今日まで歩き続けてしまった。ここに、日本の安全保障の奇妙な「ねじれ」の正体がある。
おまけに、そのギプスに後から「平和憲法」なんていう、いかにも耳ざわりのいい名前をつけてしまったものだから、事態はややこしくなった。本来は「制度の不備」だったものが、いつの間にか「崇高な理念」へと出世してしまったのだ。名前というのは恐ろしい。一度「平和」というラベルを貼られたら、中身を点検することさえ「悪」のように見えてしまう。
現実はどうか。日本の平和は、条文の理念によって守られてきたというより、むしろ在日米軍基地という「外付けの抑止力」にどっぷりと依存してきた。家の中のルールは立派だが、戸締まりは隣のボディーガードに任せきり、というわけだ。一方で国内では「自衛隊」という、どう見ても実力を持った組織が育っていく。しかし、建前上は「戦力ではない」「最小限の自衛は交戦ではない」と言い張らなきゃならない。こうして「戦力ではない戦力」「交戦ではない自衛」という、禅問答のような概念が積み重なり、現実だけがどんどん先に走っていく。役人は前例を金科玉条とし、政治は選挙が怖くて大ナタを振るわない。一時しのぎの「とりあえず」が、気がつけば半世紀を超える「常態」になってしまった。
だから、今さら「最近の情勢変化」を理由に改憲を説くのは、どうにも時間軸が歪んでいる気がしてならない。一番大きな「曲がり角」だった独立回復の時点をスルーして、後からの変化だけを並べ立てても、ボタンの掛け違えは治らない。結局のところ、問題は「状況が変わったかどうか」ではないのだ。「一番変わるべき時に、制度を整えなかった」――その一点に尽きる。この順序を取り違えたまま議論の山を築いても、現実との乖離は深まるばかりである。そのツケは、結局は誰も責任を取らない形で、私たちに回ってくる。
空飛ぶクルマ ― 2026年05月05日
最近、空飛ぶクルマのニュースをとんと見かけなくなった。あれほど万博前には「未来の交通だ」「空のタクシーだ」と、政府から企業からメディアまで、まるで新発売の激辛カップ麺みたいに持ち上げていたのに、万博が終わった途端、棚の奥に押し込まれた季節限定フレーバーのように姿を消した。あれは一体なんだったのか。空飛ぶクルマは、あの時だけ日本の空をふわっと漂い、気がつけば湯気のように消えていた。
そもそも空飛ぶクルマというものは、物理法則の前に立つと急にしょんぼりしてしまう存在だ。ガソリンのエネルギー密度は約12,000Wh/kg、一方でリチウムイオン電池は200〜300Wh/kg程度にすぎない。つまり40倍から60倍の差がある。カロリー満点のちゃんこ鍋と、ほとんど水に近い春雨スープほどの開きだ。それでも無理を承知で飛ばそうとするのだから、話としては最初から苦しい。つまり空飛ぶクルマとは、お相撲さんに春雨スープで勝負しろと言っているようなものだ。食べ物ではある。カロリーもゼロではない。しかし土俵に上がる前に、もう勝負の輪郭が溶けている。
ヘリコプターですら、あれだけの騒音と振動と燃料を食って、ようやく空に居場所を作る。あれはエネルギー密度の高い燃料を前提に成立している“重たい飛行体”だ。それを春雨スープのような電池で「未来です」と言われても、こちらとしては力士のまわしの前に話の腰が抜ける。飛行時間は10〜20分。空のタクシーどころか、空の散歩にも届かない。
それでも万博前は必要だったのだろう。「未来社会ショーケース」と看板を掲げる以上、何かしら“未来っぽいもの”が要る。そこで空飛ぶクルマが引っ張り出され、「ほら、未来はもうここまで来ています」と空に掲げられた。実際には、決められたルート、決められた天候、決められた時間だけのデモ飛行である。それでも語られ方だけは、明日から通勤できる乗り物の顔をしていた。
だが祭りが終われば現実が戻る。航続距離は短く、安全基準は重く、採算は見えない。ヘリの下位互換で、しかも高い。誰が日常の足として選ぶのかと言えば、ほとんど誰も選ばない。そうなるとニュースも消える。消えたというより、維持する理由がなくなっただけだろう。
問題は、こうした“未来の語り口”が、物理法則をすっ飛ばしたまま社会に流通してしまうことだ。「できる」と言い切る声が先に走り、エネルギー密度や重量といった制約条件の説明は後回しになる。そして都合が悪くなると、説明そのものが静かに棚に戻される。これでは技術より先に、認識のほうが歪む。
さらに厄介なのは、これが子どもの教育にもそのまま影響してしまうことだ。未来とはこういうものだ、という語り方だけが先に刷り込まれ、実現可能性や制約条件は抜け落ちる。空を飛ぶ乗り物が「かっこいい未来」として提示される一方で、エネルギー密度という決定的な差や、重量・コストといった現実の話は退屈なものとして横に置かれる。その結果、技術は「積み上げて到達するもの」ではなく、「それっぽく語れば成立するもの」に見えてしまう。だが本来の工学は逆だ。エネルギー密度、重量、安全性、整備性、コスト。そうした制約の束の中で、可能な範囲を一ミリずつ削り出していく作業でしかない。
それなのに未来の演出だけが先行すると、子どもに残るのは「技術は魔法に近い」という誤った感覚だ。そしてこの誤解は、後になって静かに効いてくる。現実は思ったほど飛ばないし、思ったほど自由でもない、という場面で初めて齟齬になる。空飛ぶクルマのニュースが消えたのは、技術が成熟したからではない。幻想を日常として維持する燃料が尽きただけだ。未来の象徴として消費され、役割を終えた。空に浮かぶ前に、そもそも地に足のついた議論がなかったのである。
そもそも空飛ぶクルマというものは、物理法則の前に立つと急にしょんぼりしてしまう存在だ。ガソリンのエネルギー密度は約12,000Wh/kg、一方でリチウムイオン電池は200〜300Wh/kg程度にすぎない。つまり40倍から60倍の差がある。カロリー満点のちゃんこ鍋と、ほとんど水に近い春雨スープほどの開きだ。それでも無理を承知で飛ばそうとするのだから、話としては最初から苦しい。つまり空飛ぶクルマとは、お相撲さんに春雨スープで勝負しろと言っているようなものだ。食べ物ではある。カロリーもゼロではない。しかし土俵に上がる前に、もう勝負の輪郭が溶けている。
ヘリコプターですら、あれだけの騒音と振動と燃料を食って、ようやく空に居場所を作る。あれはエネルギー密度の高い燃料を前提に成立している“重たい飛行体”だ。それを春雨スープのような電池で「未来です」と言われても、こちらとしては力士のまわしの前に話の腰が抜ける。飛行時間は10〜20分。空のタクシーどころか、空の散歩にも届かない。
それでも万博前は必要だったのだろう。「未来社会ショーケース」と看板を掲げる以上、何かしら“未来っぽいもの”が要る。そこで空飛ぶクルマが引っ張り出され、「ほら、未来はもうここまで来ています」と空に掲げられた。実際には、決められたルート、決められた天候、決められた時間だけのデモ飛行である。それでも語られ方だけは、明日から通勤できる乗り物の顔をしていた。
だが祭りが終われば現実が戻る。航続距離は短く、安全基準は重く、採算は見えない。ヘリの下位互換で、しかも高い。誰が日常の足として選ぶのかと言えば、ほとんど誰も選ばない。そうなるとニュースも消える。消えたというより、維持する理由がなくなっただけだろう。
問題は、こうした“未来の語り口”が、物理法則をすっ飛ばしたまま社会に流通してしまうことだ。「できる」と言い切る声が先に走り、エネルギー密度や重量といった制約条件の説明は後回しになる。そして都合が悪くなると、説明そのものが静かに棚に戻される。これでは技術より先に、認識のほうが歪む。
さらに厄介なのは、これが子どもの教育にもそのまま影響してしまうことだ。未来とはこういうものだ、という語り方だけが先に刷り込まれ、実現可能性や制約条件は抜け落ちる。空を飛ぶ乗り物が「かっこいい未来」として提示される一方で、エネルギー密度という決定的な差や、重量・コストといった現実の話は退屈なものとして横に置かれる。その結果、技術は「積み上げて到達するもの」ではなく、「それっぽく語れば成立するもの」に見えてしまう。だが本来の工学は逆だ。エネルギー密度、重量、安全性、整備性、コスト。そうした制約の束の中で、可能な範囲を一ミリずつ削り出していく作業でしかない。
それなのに未来の演出だけが先行すると、子どもに残るのは「技術は魔法に近い」という誤った感覚だ。そしてこの誤解は、後になって静かに効いてくる。現実は思ったほど飛ばないし、思ったほど自由でもない、という場面で初めて齟齬になる。空飛ぶクルマのニュースが消えたのは、技術が成熟したからではない。幻想を日常として維持する燃料が尽きただけだ。未来の象徴として消費され、役割を終えた。空に浮かぶ前に、そもそも地に足のついた議論がなかったのである。
インフレ騒ぎと町内の噂話 ― 2026年05月04日
最近のインフレ報道というのは、どうもタチの悪い「町内の噂話」に似ている。「物価が大変らしいわよ」。誰が言い出したのかも、どこに根拠があるのかも分からない。それでも噂は、回覧板より速く、路地裏の湿気を吸い込みながら広がっていく。指でつまめば霧散しそうな“空気”に過ぎないのに、その空気は妙に腕力が強い。本来なら、東京都区部の4月消費者指数速報値がこの空気を落ち着かせる役目を果たすはずだった。変動の激しい野菜を抜けばコアで1.5%。味噌汁でいえば「今日はちょっと薄いかな?」程度の、どうということのない数字である。ところがニュースは、この静かな1.5%をほとんど報じない。代わりに「値上げラッシュ」「原油高が直撃」「物価高止まらず」といった、町内の噂話のような“うるさい言葉”だけを拾い上げる。数字が静かだからこそ、その空白を埋めるように噂話だけが勝手に歩き回り、町内は“インフレらしい空気”で満たされていく。
噂が一周する頃には、「日銀が金利を上げるらしい」という不穏なスパイスが混ざり始める。誰も総裁の顔を見たわけでもないのに、「夜逃げの準備をしてるらしいわよ」とでも言うような口ぶりで広まる。根拠は相変わらず、例の“空気”と、報じられない“静かな数字”だけだ。空気が根拠を作り、根拠がまた空気を濃くする。実際の経済指標が動くより先に、町内はすっかり「利上げムード」という熱病に浮かされてしまう。
この噂の出所を辿ると、古い長屋を束ねる大家に行き当たる。大家は家賃を上げたい。しかし無策な値上げは住人の反発を招く。そこで「いやぁ、世間はインフレでしょ? 日銀も金利を上げるって言うし……」と困り顔で伏線を張る。すると住人は「ああ、そういう時代なのか」と、狐につままれたような顔で納得してしまう。実際の経済より先に、大家の“言い訳としての空気”が長屋の家計を浸食していく。
日本の労働者の8割は、この壁の薄い「長屋ゾーン」にひしめき合っている。ここでは町内会費がやたらと高い。しかも性質が悪いことに、住人の給料が1円でも増えると、それを察知したかのように町内会費も増額される。郵便受けに、住人の血色を吸って自動で肥え太る「寄生する封筒」が住み着いているようなものだ。一方、町外れの丘に建つ豪邸の「家持」たちは涼しい顔をしている。長屋の住人が汗水垂らして得た昇給分を町内会費にさらわれていく横で、彼らの会費は「今年も据え置きで」と何十年も変わらない。風鈴の音だけが、のんきに揺れている。
この不条理の正体は、「社会保険料」という名の、見えない税金である。年収440万円の世帯なら、社会保険料と住民税で年間93万円が消えていく。100万円近い金があれば、長屋の雨漏りも傾いた床も綺麗に直せるはずだ。ところがこの社会保険料というシステムは、給料が上がると即座に跳ね上がる。上がる時はロケットの如く素早いが、景気が冷えても下りてくる気配はない。年収600万円以下の層は、この「標準報酬月額」という名の細かな罠が敷き詰められた長屋に押し込められ、働けば働くほど、先回りした町内会費に利益を吸い上げられる。
ニュースは、この巨大な「町内会費」の不条理には決して触れようとしない。ひたすら「値上げが」「原油高が」「利上げが」と、庭に落ちた枯れ葉の掃除法について議論を重ねる。しかし本当に長屋を崩壊させようとしているのは枯れ葉ではない。屋根裏に巣食い、柱を食い荒らし、膨張し続ける「社会保険料」という現物の重みだ。町内を支配しているのは経済原理ではない。「そういうことにしておきたい」という大家の思惑と、それに抗えない空気である。今日も町内会は、漬物の塩加減を議論しながら、台所から上がる煙に気づかないふりをしている。
噂が一周する頃には、「日銀が金利を上げるらしい」という不穏なスパイスが混ざり始める。誰も総裁の顔を見たわけでもないのに、「夜逃げの準備をしてるらしいわよ」とでも言うような口ぶりで広まる。根拠は相変わらず、例の“空気”と、報じられない“静かな数字”だけだ。空気が根拠を作り、根拠がまた空気を濃くする。実際の経済指標が動くより先に、町内はすっかり「利上げムード」という熱病に浮かされてしまう。
この噂の出所を辿ると、古い長屋を束ねる大家に行き当たる。大家は家賃を上げたい。しかし無策な値上げは住人の反発を招く。そこで「いやぁ、世間はインフレでしょ? 日銀も金利を上げるって言うし……」と困り顔で伏線を張る。すると住人は「ああ、そういう時代なのか」と、狐につままれたような顔で納得してしまう。実際の経済より先に、大家の“言い訳としての空気”が長屋の家計を浸食していく。
日本の労働者の8割は、この壁の薄い「長屋ゾーン」にひしめき合っている。ここでは町内会費がやたらと高い。しかも性質が悪いことに、住人の給料が1円でも増えると、それを察知したかのように町内会費も増額される。郵便受けに、住人の血色を吸って自動で肥え太る「寄生する封筒」が住み着いているようなものだ。一方、町外れの丘に建つ豪邸の「家持」たちは涼しい顔をしている。長屋の住人が汗水垂らして得た昇給分を町内会費にさらわれていく横で、彼らの会費は「今年も据え置きで」と何十年も変わらない。風鈴の音だけが、のんきに揺れている。
この不条理の正体は、「社会保険料」という名の、見えない税金である。年収440万円の世帯なら、社会保険料と住民税で年間93万円が消えていく。100万円近い金があれば、長屋の雨漏りも傾いた床も綺麗に直せるはずだ。ところがこの社会保険料というシステムは、給料が上がると即座に跳ね上がる。上がる時はロケットの如く素早いが、景気が冷えても下りてくる気配はない。年収600万円以下の層は、この「標準報酬月額」という名の細かな罠が敷き詰められた長屋に押し込められ、働けば働くほど、先回りした町内会費に利益を吸い上げられる。
ニュースは、この巨大な「町内会費」の不条理には決して触れようとしない。ひたすら「値上げが」「原油高が」「利上げが」と、庭に落ちた枯れ葉の掃除法について議論を重ねる。しかし本当に長屋を崩壊させようとしているのは枯れ葉ではない。屋根裏に巣食い、柱を食い荒らし、膨張し続ける「社会保険料」という現物の重みだ。町内を支配しているのは経済原理ではない。「そういうことにしておきたい」という大家の思惑と、それに抗えない空気である。今日も町内会は、漬物の塩加減を議論しながら、台所から上がる煙に気づかないふりをしている。
京都大深度とガンモドキ ― 2026年05月03日
北陸新幹線の延伸をめぐり、京都の地下深くをシールドマシンで突き進もうという計画が、いま大きなざわめきを呼んでいる。だが「トンネルを掘る」といっても、相手はただの土ではない。京都の地下とは、巨大ながんもどきのようなものだ。表面の粘土層は揚げたての皮のようにしっとりしているが、その奥には山から転がり込んだ砂利や岩がぎっしり詰まり、隙間には千年の都を支えてきた“出汁”、すなわち地下水がたっぷり染み込んでいる。
議論の核心は、この出汁をどう守るかだ。本来、大深度地下とは建物の杭も届かぬ“都市の最後の空白地帯”である。だが京都は違う。地下水脈は酒蔵の命であり、豆腐屋の商売道具であり、茶の湯の美意識そのものだ。その下を、巨大な鉄の円筒を回転させながら進むシールドマシンが横切る。これが地下に長大な仕切り板となり、水の流れをせき止めるのではないか。誰もが息をのむ。
技術者は胸を張る。「豆腐に針を通すように、瞬時に穴を開け、すぐ固める。水は漏らさない」と。頼もしいが、相手は具材の偏ったがんもどきである。硬い岩に刃が止まれば圧力が乱れ、地下水がジュワッと噴き出すかもしれない。あるいは見えぬところで水脈が細り、井戸が静かに枯れるかもしれない。一度濁った名水は、札束を積んでも戻らない。
大阪のなにわ筋線は地下五十メートルで奮闘中だ。あちらの敵は過去の杭や基礎の残骸で、食べ終えた魚の骨を一本ずつ抜くような外科手術である。だが京都に求められるのは、もっと繊細な仕事だ。水脈を避け、地盤を乱さず、文化財の足元を揺らさず、暗闇の中で毛細血管を縫うように新たな大動脈を通す。
さらに恐ろしいのは地上への影響だ。五重塔は堂々として見えて、実は絶妙な重心と木組みの均衡で立っている。地下工事で片側だけわずかに沈めば、一ミリの傾きでも大騒ぎだ。釘一本使わぬ古建築に地下の振動がじわりと伝わる。想像するだけで、技術者の胃は痛み、関係者の夜は浅くなる。
国と経済界は「日本海と太平洋を結ぶ大動脈のためには、このがんもどきを貫くしかない」と言い、地元は「この繊細な風味こそ京都の本体だ。穴だらけにするな」と叫ぶ。どちらにも理があり、どちらにも欲がある。
政治を脇に置いても、求められているのは人類未踏の精密な豆腐細工だ。シールドの刃が地下でガリッと鳴った瞬間、京都の井戸から茶の香りが消えるのか。それとも最新技術が奇跡のバイパス手術を成功させ、地下には新幹線、地上には清らかな水という共存が実現するのか。
我々にできるのは、この高価すぎるがんもどきの行方を見守ることだけだ。願わくば、千年かけて染み込んだ出汁が、一時の便利さで濁らぬように。
議論の核心は、この出汁をどう守るかだ。本来、大深度地下とは建物の杭も届かぬ“都市の最後の空白地帯”である。だが京都は違う。地下水脈は酒蔵の命であり、豆腐屋の商売道具であり、茶の湯の美意識そのものだ。その下を、巨大な鉄の円筒を回転させながら進むシールドマシンが横切る。これが地下に長大な仕切り板となり、水の流れをせき止めるのではないか。誰もが息をのむ。
技術者は胸を張る。「豆腐に針を通すように、瞬時に穴を開け、すぐ固める。水は漏らさない」と。頼もしいが、相手は具材の偏ったがんもどきである。硬い岩に刃が止まれば圧力が乱れ、地下水がジュワッと噴き出すかもしれない。あるいは見えぬところで水脈が細り、井戸が静かに枯れるかもしれない。一度濁った名水は、札束を積んでも戻らない。
大阪のなにわ筋線は地下五十メートルで奮闘中だ。あちらの敵は過去の杭や基礎の残骸で、食べ終えた魚の骨を一本ずつ抜くような外科手術である。だが京都に求められるのは、もっと繊細な仕事だ。水脈を避け、地盤を乱さず、文化財の足元を揺らさず、暗闇の中で毛細血管を縫うように新たな大動脈を通す。
さらに恐ろしいのは地上への影響だ。五重塔は堂々として見えて、実は絶妙な重心と木組みの均衡で立っている。地下工事で片側だけわずかに沈めば、一ミリの傾きでも大騒ぎだ。釘一本使わぬ古建築に地下の振動がじわりと伝わる。想像するだけで、技術者の胃は痛み、関係者の夜は浅くなる。
国と経済界は「日本海と太平洋を結ぶ大動脈のためには、このがんもどきを貫くしかない」と言い、地元は「この繊細な風味こそ京都の本体だ。穴だらけにするな」と叫ぶ。どちらにも理があり、どちらにも欲がある。
政治を脇に置いても、求められているのは人類未踏の精密な豆腐細工だ。シールドの刃が地下でガリッと鳴った瞬間、京都の井戸から茶の香りが消えるのか。それとも最新技術が奇跡のバイパス手術を成功させ、地下には新幹線、地上には清らかな水という共存が実現するのか。
我々にできるのは、この高価すぎるがんもどきの行方を見守ることだけだ。願わくば、千年かけて染み込んだ出汁が、一時の便利さで濁らぬように。
なんちゃってトヨタがホンダを抜く ― 2026年05月02日
アメリカの新車市場というのは、巨大な暖房器具売り場みたいなもので、客がこの冬を何でしのぐか、毎日ざわついている。あの売り場特有の、金属と段ボールの匂い。どこか遠くで誰かが灯油をこぼしたような気配。冬の匂いである。近ごろはガソリンが高い。電気代も高い。となれば客の考えることは一つだ。「理屈はいいから、ちゃんと暖まるやつをくれ」。人間、寒いと現実的になる。
そこで急に頼られ始めたのがハイブリッド車である。これはもう石油ファンヒーターだ。スイッチを入れれば「ピッ」「ボッ」と点火し、部屋全体がじんわり暖かくなる。あの安心感である。トヨタはHV比率が50%を超え、「うちは昔からこれです」と言わんばかりの落ち着きぶり。売り場なら、一番いい棚に鎮座する定番商品である。
その横で、急に売り場の真ん中へ押し出されてきたのが韓国の現代自動車である。販売は前年同月比54%増。昨日まで棚の端で静かにしていた暖房器具が、今日は中央通路に移され、「売れてます!」の札まで下がっている。現代のHVというのは、いわば“なんちゃってトヨタ”である。本家ほど重厚ではない。だが、値札を見ると急に魅力的に見えてくる。暖房でいえば、有名メーカーそっくりの形をして、しかも少し安い。客は案外そこに弱い。革命児として現れたのではない。トヨタの背中に似せた服を着て、価格札だけ控えめに下げ、気づけば横をスッと抜いていったのである。こうして現代はホンダを追い抜いた。
ホンダも黙っているわけではない。「うちの暖房も悪くないんですがね」と言いたげである。だが次世代HVの本格投入は2027年以降。暖房売り場の客はそんなに悠長に待ってくれない。現代は18機種以上の省エネ暖房を並べると言い、ホンダは電気ストーブの補助金に気を取られて開発費も職人もそちらへ回し、肝心の新型暖房はいまだ開発室の中である。店の奥から試作品のぬるい風だけが、ときおり流れてくる。売り場は、その完成を待ってはくれぬ。
一方、EV市場はどうも電気ストーブに似ている。理屈は立派だ。赤く光って、足元はすぐ暖かい。だが部屋全体はなかなか暖まらない。スネだけ熱く、背中は寒い。寒波が来ると、急に心細い。補助金が切れた途端に客足が遠のくのは、「これ一台で冬を越せると思ったら、結局こたつを出した」あの感じに近い。
では日産のE-POWERは何か。これは電気ファンヒーターである。スイッチを入れれば「ウィーン」と風が出て、足元はすぐ春になる。静かで扱いやすく、街なかでは実に快適だ。だが広い部屋や強い寒波には少し頼りない。部屋の一角だけ春で、背中は冬。市街地は得意だが、高速巡航はやや苦手。性格がそのまま出ている。
そしてホンダのi-MMDである。これはもう、世界最強級の石油ファンヒーターだ。スイッチを入れた瞬間に「ブォォッ」と風が出て、部屋全体が一気に春になる。寒波? 来るなら来い、である。高速巡航の効率も高い。強モードにした瞬間、窓ガラスの結露まで吹き飛ばしそうな火力だ。ただし本体は大きい。重い。値段も張る。ワンルームに置けば、「いや、そこまでしなくても……」と部屋のほうが恐縮する。性能は最強級だが、置き場所を選ぶ。
もしこの二つが組めばどうなるか。日産の素早い足元暖房と、ホンダの部屋全体を制圧する火力が合体する。立ち上がりは速く、巡航は強く、燃費もいい。理屈の上では、トヨタの牙城を脅かすほどの“最強暖房”になりうる。しかも両社とも単独では届かない領域である。だが現実には、ホンダは電気ストーブに夢中になって開発費を使い込み、日産は電気ファンヒーターの改良に熱中し、それぞれ単独では決め手を欠いた。その隙を、現代がきっちり突いたのである。
だからこそ、ホンダが少しへこんでいる今こそ、日産との連携は最後の好機かもしれない。暖房は、意地で選ぶものではない。冬を越せるかどうかで選ばれる。そしてアメリカ市場の冬は、まだ終わっていない。
凍えるのは、暖房を選び間違えたメーカーからである。
そこで急に頼られ始めたのがハイブリッド車である。これはもう石油ファンヒーターだ。スイッチを入れれば「ピッ」「ボッ」と点火し、部屋全体がじんわり暖かくなる。あの安心感である。トヨタはHV比率が50%を超え、「うちは昔からこれです」と言わんばかりの落ち着きぶり。売り場なら、一番いい棚に鎮座する定番商品である。
その横で、急に売り場の真ん中へ押し出されてきたのが韓国の現代自動車である。販売は前年同月比54%増。昨日まで棚の端で静かにしていた暖房器具が、今日は中央通路に移され、「売れてます!」の札まで下がっている。現代のHVというのは、いわば“なんちゃってトヨタ”である。本家ほど重厚ではない。だが、値札を見ると急に魅力的に見えてくる。暖房でいえば、有名メーカーそっくりの形をして、しかも少し安い。客は案外そこに弱い。革命児として現れたのではない。トヨタの背中に似せた服を着て、価格札だけ控えめに下げ、気づけば横をスッと抜いていったのである。こうして現代はホンダを追い抜いた。
ホンダも黙っているわけではない。「うちの暖房も悪くないんですがね」と言いたげである。だが次世代HVの本格投入は2027年以降。暖房売り場の客はそんなに悠長に待ってくれない。現代は18機種以上の省エネ暖房を並べると言い、ホンダは電気ストーブの補助金に気を取られて開発費も職人もそちらへ回し、肝心の新型暖房はいまだ開発室の中である。店の奥から試作品のぬるい風だけが、ときおり流れてくる。売り場は、その完成を待ってはくれぬ。
一方、EV市場はどうも電気ストーブに似ている。理屈は立派だ。赤く光って、足元はすぐ暖かい。だが部屋全体はなかなか暖まらない。スネだけ熱く、背中は寒い。寒波が来ると、急に心細い。補助金が切れた途端に客足が遠のくのは、「これ一台で冬を越せると思ったら、結局こたつを出した」あの感じに近い。
では日産のE-POWERは何か。これは電気ファンヒーターである。スイッチを入れれば「ウィーン」と風が出て、足元はすぐ春になる。静かで扱いやすく、街なかでは実に快適だ。だが広い部屋や強い寒波には少し頼りない。部屋の一角だけ春で、背中は冬。市街地は得意だが、高速巡航はやや苦手。性格がそのまま出ている。
そしてホンダのi-MMDである。これはもう、世界最強級の石油ファンヒーターだ。スイッチを入れた瞬間に「ブォォッ」と風が出て、部屋全体が一気に春になる。寒波? 来るなら来い、である。高速巡航の効率も高い。強モードにした瞬間、窓ガラスの結露まで吹き飛ばしそうな火力だ。ただし本体は大きい。重い。値段も張る。ワンルームに置けば、「いや、そこまでしなくても……」と部屋のほうが恐縮する。性能は最強級だが、置き場所を選ぶ。
もしこの二つが組めばどうなるか。日産の素早い足元暖房と、ホンダの部屋全体を制圧する火力が合体する。立ち上がりは速く、巡航は強く、燃費もいい。理屈の上では、トヨタの牙城を脅かすほどの“最強暖房”になりうる。しかも両社とも単独では届かない領域である。だが現実には、ホンダは電気ストーブに夢中になって開発費を使い込み、日産は電気ファンヒーターの改良に熱中し、それぞれ単独では決め手を欠いた。その隙を、現代がきっちり突いたのである。
だからこそ、ホンダが少しへこんでいる今こそ、日産との連携は最後の好機かもしれない。暖房は、意地で選ぶものではない。冬を越せるかどうかで選ばれる。そしてアメリカ市場の冬は、まだ終わっていない。
凍えるのは、暖房を選び間違えたメーカーからである。