映画「教皇選挙」2025年05月15日

映画「教皇選挙」
映画『教皇選挙(コンクラーベ)』をようやく観てきた。実際の教皇選挙の後だったこともあり、興味深く鑑賞できた。ただ、対話シーンが延々と続き、英語の中に時折イタリア語・スペイン語・ラテン語が混じるため、字幕を追う頻度が高くなり、集中しづらかった。爆破テロによって礼拝堂の窓が吹き飛ぶシーンがなければ、疲れて寝てしまっていたかもしれない。映画は、ローマ教皇の死去を受けて、世界中の枢機卿たちがバチカンのシスティーナ礼拝堂に集い、新教皇を選出する極秘選挙「コンクラーベ」の内幕を描いたミステリードラマである。外部から完全に遮断された環境下で、投票が進むたびに情勢が激変し、聖職者たちが政治家のように権力闘争を繰り広げる。スキャンダルや陰謀が渦巻く中、信仰と組織、伝統と変革のはざまで葛藤する枢機卿たちの姿を通じて、現代社会の分断や人間の本質を浮き彫りにしていく。「密室のベールに包まれた選挙戦の行方と予測不能なサプライズが見どころ」との触れ込みだったが、要するに宗教の世界も政治と同じく、人間の営みである以上、権力闘争は避けられないということを描いている。

教皇選挙は、80歳未満の枢機卿(各地区代表)がシスティーナ礼拝堂に集まり、秘密投票を行う。3分の2以上の票を得た候補が現れるまで、1日に4回の選挙が繰り返される。結果は礼拝堂の煙突から出る煙の色で市民に伝えられ、黒煙は未決定、白煙は決定を意味する。選ばれた枢機卿が教皇の座を受諾すると、「Habemus Papam(ラテン語で“新教皇が誕生した”)」と発表される。映画の展開では、当初は黒人教皇の誕生が有力視されていたが、彼の不倫歴と隠し子の存在が発覚し支持を失う。次の候補である中間派の枢機卿も票の買収を行っていたことが明るみに出て失脚。爆破テロ騒動の混乱の中、保守派の枢機卿は「世界的リベラル運動は神をも恐れぬ」と煽り立てて支持を集めようとする。しかし、聖職者でありながら政治家のような熾烈な駆け引きが展開される中、戦場地域を巡回してきた無名のアフガニスタン出身の枢機卿が「我々は神の子だ」と正論を述べ、圧倒的な支持を得て新教皇に選出される。だが、最後にその新教皇がインターセックスの男性であったことが明かされ、幕が下りる。

どこか、今回のレオ14世誕生の教皇選挙とも似た展開だったので驚いた。脚本はピーター・ストローハンが手がけ、ロバート・ハリスの小説『Conclave』(2016年発表)を原作に脚色されたという。今回の実際の教皇選挙でも、当初は地元バチカンの枢機卿が優位と見られていたが、フランシスコ前教皇と同様にリベラル路線で、中国政府との距離が近すぎるとの批判が高まり、失速したとされる。中国ではカトリック司教の選出に政府の影響が強く、2018年にバチカンと中国政府の間で暫定合意が結ばれ、中国側が候補を選び、バチカンが承認するという枠組みができた。中国政府は国内のカトリック教会の統制を強化し、地下教会への弾圧も続けている。司教の選出には共産党支持者が選ばれる傾向があるという。この状況を容認してきたのが、フランシスコ前教皇および今回のバチカンの枢機卿とされる。一方、レオ14世教皇はシカゴ出身で、南米の貧困層を支えてきた実績が評価され、白羽の矢が立ったという。もちろん映画の脚本は昨年以前に完成していたわけだが、ストローハンの先見の明には驚嘆せざるを得ない。

欺瞞のガソリン税制2025年05月14日

欺瞞のガソリン税制
経済産業省が発表した12日時点の全国平均レギュラーガソリン価格は、前回より1円50銭安い183円となった。調査が実施されなかった大型連休を除けば、これで3週連続の値下がりとなる。政府はガソリン価格を185円程度に抑えるため、石油元売り各社に補助金を支給しており、5月前半には1リットルあたり1円10銭の補助を実施していた。しかし原油価格の下落を受け、5月15日〜21日は補助金なしでも185円を下回る見通しで、制度開始以来2度目の「補助金ゼロ」となるという。だが、たった数円の変動で「値下がり」と強調する政府の姿勢には疑問を禁じ得ない。そもそも、2020年のコロナ禍では原油価格が前年の140円台から130円台に急落し、2021年には経済回復の兆しとともに150円台に。2022年にはウクライナ危機を受けて一気に170円台へと高騰した。これに対し政府は、「燃料油価格激変緩和補助金」により、1リットルあたり14〜20円程度の補助を行い、かろうじて160円台を維持してきた。しかし2024年4月、政府は突然この補助制度を打ち切り、ガソリン価格は180円台を突破、200円に迫る勢いを見せた。

5月からは、補助金の上限を10円に制限し、1円単位で段階的に調整するという、実質的な“改悪”とも言える新制度が始まった。4月の打ち切り時、政府は「財政負担の軽減」「脱炭素政策との整合性」「市場の正常化」「原油価格の下落による安定見通し」などを掲げていたが、そうした理屈を並べたわずか1カ月後に、あっさりと補助金を復活させた。市場原理や正常化を口実にした政策の一貫性のなさには呆れるしかない。結局、目前に迫る参議院選挙を意識した「人気取り政策」にすぎないという見方が強まるのも当然である。だが、185円のガソリン価格で有権者の支持を得られるとは到底思えないし、円安がさらに進めば185円すら維持できなくなる可能性もある。

より深刻なのは、ガソリン価格の約4割が税金で構成されているという、異常とも言える現実だ。具体的には、国税の揮発油税(24.3円/L)、地方揮発油税(5.2円/L)、そして「暫定措置」の名のもとで50年以上継続されている上乗せ分(25.1円/L)、石油石炭税(2.8円/L)が課され、さらにそれらに消費税(10%)が上乗せされる。つまり、1リットル185円のガソリンのうち、実に約70円が税金であり、実質的な本体価格は115円程度にすぎない。なかでも特に問題なのが、「暫定税率」の存在である。本来は1974年、道路整備の財源確保を目的とした一時的措置として導入されたが、半世紀にわたり延命され続けている。2008年に一度廃止されたものの、2009年に民主党政権下で「特例税率」として復活し、以降は一般財源化されてしまった。また、ガソリン価格が3か月連続で160円を超えた場合に暫定税率を停止するという「トリガー条項」も制度として存在するが、導入以来一度も発動されたことがない。震災復興財源として民主党政権が「トリガー条項」を凍結したのは14年も前の話で、野党が過半数を占める今も政権攻撃の材料にするばかりで、野党第1党の立憲は凍結解除法案を出す気配すらない。

政府は2026年に暫定税率の廃止を議論するとしているが、これまで繰り返されてきた説明の食い違いや約束の反故を考えれば、ずるずると引き延ばすのは目に見えており実現性は極めて低いと言わざるを得ない。そもそも、同一商品に対して5種類もの税を課し、さらにその税金に消費税をかけるという「二重課税」的構造そのものが、徴税の基本原則を著しく逸脱している。税制には本来、「公平」「中立」「簡素」という3原則がある。だが、現在のガソリン税制はそのいずれも満たしていない。複雑で不透明、所得の少ない者に過剰に重い負担となっているこの仕組みは、早急に抜本的な見直しが求められる。

日産大規模リストラ発表2025年05月13日

日産大規模リストラ発表
日産自動車が2025年3月期に発表した業績は、業界に大きな衝撃を与えた。純損益は6708億円の赤字で、前期の4266億円の黒字から一転。この事態を受け、日産は全従業員の約15%にあたる2万人の人員削減と、世界17カ所の車両工場を10カ所に縮小する計画を示した。今回の赤字は同社史上3番目の規模であり、さらに通期赤字は最大7500億円に拡大する見込みである。販売台数の減少により人員・生産能力が過剰となり、収益確保が極めて困難な状況だ。国内では、数百人規模で主に事務系職種を対象とした早期退職制度の導入が見込まれている。

しかし、日本全体が人手不足に直面するなか、有能な人材の流出は日産の技術やノウハウを競合他社に渡すリスクを高める。短期的なコスト削減を目的とした人員整理は、中長期的には企業価値の毀損につながりかねない。必要なのは人員削減ではなく、成長分野への人材移行である。たとえばEVバッテリーの生産拠点や次世代モビリティ関連事業への配置転換は、地域経済の活性化にもつながる。しかし、日産は経営不振や初期投資の高さから国内での新規展開に慎重な姿勢を崩していない。過去の大規模リストラも一時しのぎに終わった事実を忘れてはならない。リストラは士気を低下させ、開発意欲を奪う。

こうした状況では、経済産業省の積極的な支援が欠かせない。同省はバッテリー産業を国家戦略と位置づけ、助成金や人材育成を進めてきたが、政策は限定的だった。今後は撤退・縮小された投資の再活用や、成長分野への人材再配置を促す政策が必要である。工場や設備は再建できても、熟練人材を取り戻すには膨大なコストと時間がかかる。人材育成は長年の積み重ねであり、競争力の源泉でもある。日産の国内における内部留保は約4.3兆円に上る。その1割を活用すれば、従業員1000人の給与を3年間維持するための約3000億円は十分に賄える。もちろん内部留保は将来の投資や財務安定のために必要だが、人材維持を「未来への投資」と捉えれば、長期的な競争力の確保にもつながる。

短期的なリストラは一時的な財務指標を改善するかもしれないが、企業の成長エンジンを弱めるリスクがある。今求められるのは、人材の流出を防ぎ、再教育と再配置を支援する戦略的な投資である。企業も国家も「人」を切り捨てるのではなく、「人」を活かす方向へと転換すべき時が来ている。今ある人材をどう守り、どう未来に活かすか――その答えが日産の今後、さらには日本の産業の命運を左右するだろう。

低学年の通知表を廃止2025年05月12日

低学年の通知表を廃止
岐阜県美濃市では、来年度から市内の五つの小学校で1・2年生の通知表が廃止されるという。校長同士の合意により、子どもたちが「序列化」されず、のびのびと育ってほしいという思いが背景にあるそうだ。これまで通知表は3段階で評価されていたが、その代わりに修了証が渡され、保護者懇談を通して子どもの様子を伝えていく方針らしい。こう聞くと、一見、子どもを思いやる温かい改革のようにも感じられる。しかし、この方針にはいくつか立ち止まって考えるべき点がある。まず、通知表には法的義務はないが、指導要録には法的な作成義務がある。実際には、小学1年生の年度末から成績評価が行われ、3年生以降は3段階、そして中学校では5段階での評定が求められている。通知表はその成績をわかりやすく保護者に伝える「説明書」にすぎない。つまり、通知表をなくしても、子どもが評価されないわけではないのだ。今回の美濃市の方針は、「通知表という説明書をなくせば、子どもはのびのびと育つ」と言っているように聞こえる。だが、年2回の保護者懇談は全国の多くの学校ですでに行われており、それが通知表の有無と直接関係しているとは言えない。通知表だけを取り除いて、子どもの育ち方が大きく変わるとも考えにくい。

私たちは「評価されること=序列化=子どもへの悪影響」という単純な構図に陥ってはいないだろうか。現実の子どもたちは、学校生活のなかでさまざまな違いを自然と感じ取っている。運動の得意不得意、おしゃべりの上手下手、絵がうまい子、手先の器用な子。そうした違いは、通知表がなくても日々の生活のなかで明らかだ。むしろ教育は、そうした「違い」を否定するのではなく、それを認め、共に生きていくことの大切さを教えていく営みのはずだ。他者との違いを知り、そこから自分の価値に気づいていくことこそ、成長のプロセスである。通知表を廃止したからといって、子どもが他者との違いに気づかなくなるわけではない。

もちろん、学力だけがすべてではないことを伝える努力は必要だ。しかし現実には、教科学習が学校生活の大部分を占めている。低学年期は月齢による認知発達の差が大きく、一律の基準で評価することには無理があるという指摘ももっともだ。その意味では、指導要録に記された評価自体が、正確とは言い切れない。一般的に、10歳前後になると認知発達の個人差は小さくなる傾向がある。つまり、全員が10歳を超える5年生あたりから、共通の目標設定や評価基準が理にかなってくるという考え方もあるだろう。

また、生活年齢だけでなく、生まれつきの得手不得手もある。特に読み書きの力は、生涯にわたって必要な基本的スキルである。4年生程度の読み書き能力は、知的な遅れがない限り、最低限身につけさせる必要がある。それでも困難がある場合は、ICT機器を活用するなどして、知的情報へのアクセスを補完した上で学力評価を行うべきだ。こうして見ていくと、子どもが「のびのびと育てない」原因は、通知表や成績そのものではない。むしろ、それぞれの子どもに合った目標設定や評価がなされておらず、「やればできる」という実感を持てる学習環境が整っていないことが根本にあるのではないか。学校が目を向けるべきは、通知表の廃止ではなく、個々の子どもに応じた柔軟な学習指導の在り方だろう。通知表をなくすことで子どもがのびのび育つ、という考えは、残念ながら大人の自己満足にすぎないように思える。

レオ14世教皇2025年05月11日

レオ14世教皇
バチカンで行われたコンクラーベ(教皇選挙)において、ロバート・フランシス・プレボスト枢機卿(69)が第267代ローマ教皇に選出され、教皇レオ14世として即位した。米国出身の教皇は史上初であり、前教皇フランシスコの側近として教会改革を支えてきた人物である。コンクラーベでは4度目の投票でレオ14世が選出され、8日夕(日本時間9日未明)、システィーナ礼拝堂の煙突から白煙が上がり、新教皇の誕生が告げられた。その後、レオ14世はサンピエトロ大聖堂のバルコニーに姿を見せ、「あなた方に平和がありますように」とイタリア語で信者に語りかけた。レオ14世は教皇庁で司教省長官を務め、前教皇の外遊にも同行。教会内で論議の分かれる問題には慎重な姿勢をとり、教会の結束を重視してきた。一方で、今年2月にはバンス米副大統領が不法移民の大量送還を正当化した際、批判的な記事をSNSでシェアするなど、政治的発言も見られた。

シカゴ生まれのレオ14世は、フランス、イタリア、スペインにルーツを持ち、多言語に堪能。1985年から南米ペルーで活動し、2015~2023年には同国北部のチクラーヨ司教を務めた。教皇名は19世紀のレオ13世を継承し、労働者の権利擁護や資本主義への警鐘を鳴らした先代の精神を引き継ぐとみられる。今回のコンクラーベでは10人以上の候補が報道されていたが、プレボスト枢機卿の名前は有力候補として挙がっていなかった。今後の焦点は、前教皇フランシスコのリベラル路線の継承か、保守派の巻き返しかが注目されるという。カトリックのトップが誰であれ、指導者を持たない仏教や神道文化の日本では関心が薄いかもしれないが、世界的には注目の話題である。キリスト教は全世界で約24億人の信徒を擁し、その最大宗派であるカトリックは世界的な影響力を持つ。欧米各国の首脳も、フランシスコ前教皇の葬儀に参列した。

カトリックが世界的宗教組織となった背景には、ローマ帝国との結びつきと中央集権的な教会制度がある。帝国の国教化により行政ネットワークを通じて信仰が広まり、教皇を頂点とする組織構造が整えられた。中世以降は修道会や宣教師が教育・布教に尽力し、特に大航海時代にはスペインやポルトガルの植民地支配と共に世界各地へ拡大した。さらに、学校や病院といった社会インフラを通じて地域に根を下ろし、文化・教育面でも深い影響を及ぼした。カトリックは、大航海時代までの覇権国家とともに発展したともいえる。このような中央集権的権威に反発して分かれたのがプロテスタントであり、現代風に言えば、より民主的・ナショナリズム的な宗派である。封建的グローバリズムとも見られる旧来のカトリックに対し、現代のカトリックは民主的グローバリズムへと変化し、現代の政治勢力と新たな形で結びつきながら、世界に影響を与え続けている点は興味深いといえる。

財政破綻を懸念??2025年05月10日

政府の総負債が1323兆7155億円
財務省は2024年度末時点で、日本政府の総負債が1323兆7155億円に達し、前年より26兆円以上増加したと発表した。これは9年連続で過去最大を更新している。物価高対策などで歳出が膨らむ一方、税収では補えず、借金が拡大しているとの説明である。しかし、こうした報道にはいつも違和感が残る。というのも、財務省や多くのメディアが発信する「借金」には、政府が保有する資産が一切含まれていないからだ。これは企業会計では考えにくい。たとえば、トヨタの負債が54兆円であっても、資産が同程度あるため倒産リスクは問題にならない。日本政府も同様であり、財政を正しく評価するには、総債務(グロス)だけでなく、資産を差し引いた実質債務(ネット)で見る必要がある。

今回発表された1323兆円はグロス債務であり、国債や借入金などをすべて合計したものだ。これに対しネット債務とは、政府が保有する現金、預金、出資金、日銀が保有する国債などを差し引いた残高を指す。現在のネット債務は約544兆円とされており、グロスよりはるかに小さい。とくに注目すべきは、日本銀行が保有する国債の存在である。日銀は現在、約580兆円の国債を保有しており、これは一見、政府の借金としてカウントされている。しかし実態としては、日銀は政府の子会社に等しく、その保有国債の元本返済も利払いも、最終的に政府に還元される構造にある。よってこれらの債務は、市場から借りているものとは異なり、実質的な返済負担はないに等しい。

さらに、現在のインフレ率は2〜3%程度で推移しており、インフレは名目債務の実質的価値を減じる効果がある。たとえば500兆円規模の債務であれば、年2%のインフレにより年間約10兆円の実質負担が軽減される。また、長期金利が1%程度と低水準にとどまっていることで、政府は極めて低コストで資金調達が可能である。こうした状況を踏まえると、日本の財政は、表面的な数字ほど深刻な状況にはない。日銀保有分を除いたネット債務は、依然として管理可能な水準にあり、加えてインフレと低金利の環境が続く限り、実質的な返済負担は抑制される。財政破綻を懸念する声は根強いが、現時点においてそのリスクは極めて低い。それにもかかわらず、政府が「借金総額」のみを強調して発表すると、多くのメディアはその内訳や背景を解説することなく、大々的に報じる傾向にある。そして、そうした報道は、毎度のように増税議論へと結びついていく。これは、危機を煽りつつ政策誘導を図る、いわばマッチポンプ的な構図と言える。こうした一方的な情報の流布が続く限り、健全な財政議論の形成は難しい。報道には数字の意味を冷静に読み解く視点が求められている。

日本学術会議の特殊法人化2025年05月09日

日本学術会議の特殊法人化
北大の宇山教授は、日本学術会議の特殊法人化をめぐる政府提出法案に関し、自身が「法律が通ることで、これまでとは違う人が入ってくる」と発言したことを明らかにした。教授によれば、現在の学術会議は、政府と協力しつつも独立性を保てる研究者で構成されているが、法人化によって右派の研究者が加入し、学術会議の活動が政治化する可能性があると懸念した。宇山教授は、法人化を推進してきたのが日本会議や旧統一教会と関係のある政治家であると指摘し、その影響力のもとで右派の人物が学術会議の会員となれば、政治的偏向が生じる恐れがあると述べた。また、現在の学術会議には共産党系の左派の影響はほとんど見られないとしつつも、過去には左派の会員が政治的活動を行っていたことがあり、それが好ましくなかったように、法人化後に右派が加わることも同様に望ましくないと述べた。さらに教授は、右派の影響が強まることで、学術会議がジェンダーや人権、歴史認識といった問題において、世論や学界の主流とは異なる国粋主義的な立場を取るようになり、自民党右派やその他の右派政党の政策に正当性を与える可能性があると懸念を表明した。この発言に対し、衆院内閣委員会では「右派を排除しようとしているのではないか」と自民党議員から疑問の声が上がった。宇山教授は、「右も左もお互い様ではないか」と言いたいのだろうか。学術会議に限らず、あらゆる組織は、思想信条や意見の異なる人々によって構成されるのが当然であり、公共性のある組織であればなおさら多様な人材が集まるのが望ましい。民主主義においては、それが健全な姿である。

学術会議が法人化される背景には、執行部が「軍事研究は許さない」との立場を一方的に押し通し、さまざまな研究を独自に「軍事研究」と判断して圧力をかけ、結果として研究を潰してきたという批判がある。だが、科学技術の歴史は戦争と不可分の関係にある。たとえば、マンハッタン計画で核兵器を開発した科学者を「平和の敵」と見なすのは、あまりにも幼稚かつ独善的である。インターネット技術にしても、もともとは軍事研究から生まれたものだ。学術会議が圧力をかけたとされる北大での船舶の航行技術研究は、どの船にも応用可能な内容だったが、防衛省の助成があるという理由だけで批判され、最終的には助成辞退に至った。この事実を、北大の宇山教授が知らないはずがない。いかなる個人であれ、自らの考えを表現する自由は、公益に反しない限り保障されるべきである。表現とは、文筆、絵画、彫刻、音楽などの身体的・記号的表現にとどまらず、科学者にとっては研究活動そのものが表現にあたる。たとえ自分の考えと異なっていても、その表現活動を守る姿勢こそが、民主主義の本質である。

近年では、宇多田ヒカルの新曲に夫婦別姓を支持する歌詞が含まれていたことで批判されたり、昨年にはMrs. GREEN APPLEの楽曲「コロンブス」のミュージックビデオが黒人差別との指摘で公開中止に追い込まれたりと、アーティストによる政治的表現が話題になっている。しかし、アーティストが政治的意見を持ち、それを作品に反映させるのは当然の市民的権利である。これらの表現に対する批判もまた自由であるが、その一方で、表現そのものを守る責任は、批判する側にも等しく求められる。圧力をかけて資金源を断ったり、魔女裁判のように糾弾したりする行為は、たとえ批判の立場からであっても、不正義であり、社会全体として排除すべきである。これは、右派・左派の立場を問わず、民主主義の土台となる課題である。また、税金が投入されている組織であれば、時の政権が一定の影響を持つのは当然とも言える。政権は国民の選挙によって正統性を与えられているからだ。それが好ましくないというのであれば、税金の投入を拒み、自主財源で運営すればよい。ただし、たとえ自主独立の運営であっても、組織内における表現の自由を組織として擁護する姿勢は、常に求められる。

アラビア湾発言2025年05月08日

アラビア湾発言
トランプ大統領が来週の中東訪問中に「ペルシャ湾」の呼称を「アラビア湾」に変更する方針であると、複数のアメリカメディアが報じた。一部のアラブ諸国では「アラビア湾」という呼称が一般的だが、国際的には「ペルシャ湾」が正式名称とされている。トランプ氏は第一次政権時の2017年にも「アラビア湾」と発言しており、当時はイランとの関係が緊張していた。7日の記者会見では「誰の感情も傷つけたくない」と述べ、呼称変更について慎重に判断する姿勢を示した。一部では、今回の動きにはアメリカへの投資促進やイスラエルへの譲歩を引き出す狙いがあるとの見方もある。これに対し、イランのアラグチ外相はSNSで「ペルシャ湾の名称は歴史的に定着している」と反発。名称変更は「イランに対する敵意であり、すべてのイラン人への侮辱だ」と強く非難した。トランプ氏は2025年1月に「メキシコ湾」を「アメリカ湾」に改名しており、こうした地名変更の動きは続いている。デナリ山をマッキンリー山に変更したことに始まるトランプ氏の地名変更騒動が中東にまで飛び火した形だが、実は8年前からその主張をしていたとは初めて知った。

以前にも述べたが、自国の地名をどのように変更しようと、それは主権の問題であり、他国がとやかく言うべきことではない。しかし、他国が関係する地名まで一方的に変えるのは幼稚な行為である。もちろん、海洋は複数の国が接しているため、各国に名称の主張があるのは事実だが、その場合は世界中が長年慣れ親しみ、定着している呼称を使えば何の問題もない。あえて別の名称を使うことは、むしろ挑発行為と受け取られるだろう。とはいえ、日本版のGoogleマップではすでに「メキシコ湾」が「アメリカ湾」と併記されている。アメリカ版では、2月に米国の地理名称情報システム(GNIS)が正式に名称を更新したことを受け、「アメリカ湾」と表記されているようだ。AppleマップやBingマップは依然として旧来の表記のままだが、近く「アメリカ湾」に改定されるとの情報もある。しかし、国際的な海域名称の変更には、国際水路機関(IHO)や国連地名標準化会議といった国際機関の承認が必要であり、米国単独での変更は難しい。そのため、「ペルシャ湾」を「アラビア湾」に変更したとしても、国際的な認知は得られないだろう。

アメリカ国内の地図制作会社は紙の地図の修正で大忙しだろうが、その姿は滑稽にすら映る。今回のトランプ発言は、アラブ諸国に配慮したつもりかもしれないが、「ペルシャ湾」という名称は紀元前にまで遡る由緒ある呼称であり、伝統を重んじるべき保守派の姿勢としては矛盾していると言わざるを得ない。この問題は、かつて韓国が「日本海」を「東海」へと変更するよう主張したことを思い起こさせる。あの時、韓国はリベラル政権だったが、今となっては「保守」や「リベラル」といったラベルにはあまり意味がなくなってきている。現代の政治的対立軸は、ナショナリズム対グローバリズム、そして民主主義対権威主義という複合的な枠組みで捉えるべきなのかもしれない。トランプ氏はしばしば「独裁的なナショナリスト」と揶揄されるが、民主的な選挙が保障されている限り、正確には「民主的ナショナリスト」と呼ぶべきだろう。したがって、民主的グローバリズムを志向する日本やEU諸国、カナダなどにとっては、トランプの行動は理解しがたいものに映るのかもしれぬ。

カシミール問題2025年05月07日

カシミール問題
インド北部ジャム・カシミール州の観光地で、26人が銃撃により殺害されたテロ事件を受け、インド政府はこれをパキスタンによる越境テロと断定。インダス川の水資源条約の停止、外交関係の格下げ、ビザ発給の停止など、厳しい対抗措置を発表した。インダス条約停止は初の措置であり、パキスタンへの水供給に影響が及ぶ可能性がある。これに対し、パキスタンもインドとの貿易停止などの報復措置を発表し、両国関係はさらに緊張している。犯行は「カシミール抵抗勢力」を名乗るグループが声明を出し、地域への「部外者」の定住に反発していると主張。パキスタンは関与を否定しているが、カシミールでは長年イスラム過激派が活動しており、インドは繰り返しパキスタンのテロ支援を非難してきた。ガザやウクライナの戦禍に目を奪われがちだったが、イスラムが関わるもう一つの紛争がここにもある。根源は1947年の英国による植民地返還の曖昧さにあり、ロシア(旧ソ連)や中国の関与が紛争を激化させてきた。カシミール問題はインドとパキスタンの領有権争いだ。ムスリム多数のカシミールをヒンドゥー教徒のマハラジャ王が中立政策で治めていたが、パキスタン側の侵攻により王はインドへの編入を要請し、第一次印パ戦争が勃発したのが発端。国連の仲介で分割統治となったが、イスラム過激派によるテロは現在も続いている。

さらに厄介なのは、両国間の対立を背景に進められた核開発である。インドは独立後に核開発を開始し、1964年の中国の核実験を契機に加速。1974年に初の核実験を行い、1998年には5回の核実験を実施し、核保有を確立した。一方、パキスタンは1972年に核開発を開始し、1983年にウラン濃縮技術を確立。インドの1998年の核実験に対抗し、同年6回の核実験を実施。2004年には科学者A.Q.カーンによる核技術のイラン、リビア、北朝鮮への拡散が発覚した。現在、パキスタンは約170発の核弾頭を保有しているとされ、両国の核開発は対立の核心の一つとなっている。インドは中国の核武装に対抗して旧ソ連から、パキスタンはそのインドに対抗して中国から技術供与を受けたという構図だ。中国もソ連も国連安全保障理事国でありながら、IAEA加盟国としての義務に反し、核の軍事転用を助長する行動を繰り返し、戦後一貫してこの地域の不安定化に影響を及ぼしてきた。

カシミール地方は、ヒマラヤ山脈やダル湖など豊かな自然に恵まれ、「地上の楽園」とも称される。観光業が盛んで、トレッキングや水上マーケットが人気を集める。特産品にはカシミアウールやサフランがあり、農業や畜産も地域経済の柱となっている。歴史的にはヒンドゥー教、イスラム教、仏教が共存し、独自の文化が育まれてきた。ムガル帝国時代の庭園やモスクも現存し、伝統的な織物や料理も魅力のひとつである。近年は紛争の影響で観光業が打撃を受けているが、カシミールの自然と文化の豊かさは今なお多くの人々を惹きつけている。カラコルム山脈はパキスタン、インド、中国にまたがり、世界第2位の高峰K2(8,611m)を擁する。険しい地形と氷河に覆われたこれらの山々は、80年近くにらみ合う人間たちを静かに見守ってきた。しかし、いつか神々の鉄槌が振り下ろされないとも限らない。

「白雪姫」映画165億赤字2025年05月06日

実写版「白雪姫」映画165億赤字
ディズニーの実写版『白雪姫』が、大きな赤字を出す見込みだという。報道によれば、その額は約1億1500万ドル(日本円で約165億円)。日本でも、大型連休を待たずに上映終了する映画館が出てくるなど、興行成績はかなり厳しい。ここまで振るわない理由は何なのか? もちろん、一因では済まない。だが、やはり最大の要因は「観客が感じた違和感」だろう。白雪姫といえば、誰もが思い浮かべるのは、あの「雪のように白い肌の少女」。このキャラクターを、ラテン系アメリカ人のレイチェル・ゼグラーさんが演じた時点で、「え?」と感じた人は少なくなかったはずだ。しかも、ゼグラーさんはインタビューで「王子に助けられるなんてナンセンス」と語るなど、古典的なプリンセス像を否定する発言をしていた。フェミニズム的視点としては理解できるが、ディズニーアニメの原作イメージを愛してきた人たちにとっては、これもまた“ズレ”だった。SNSなどでは、「DEI(多様性・公平性・包括性)を優先しすぎて、ファンの感情が置き去りにされたのでは?」という声が目立つ。確かに、今のディズニーはDEI路線を前面に出しており、今回のキャスティングもその一環と見る向きは多い。

もちろん、DEIの理念自体に異論があるわけではない。年齢・性別・人種などに関係なく、誰もが活躍できる社会を目指すことは大切だ。ただ、それをエンタメに過剰に持ち込むと、「物語の自然さ」や「観客の没入感」を損なうリスクがあるのも事実。これは、文化的な“空気”の問題でもある。たとえば、関西が舞台の映画で、関東出身の俳優がなんちゃって関西弁を話していたらどう感じるか? 全国的には気にならなくても、関西の人にはどうしても「違和感」が残る。ディテールの違和感は、積み重なると物語そのものに入り込めなくなる。

「白雪姫=白い肌の少女」というイメージは、多くの人にとって“共有された前提”だった。それを変えるなら、それ相応の物語的な説得力が必要だったのではないか。単に「多様性だから」とキャストを変えただけでは、逆に反発を招くのも当然だろう。今後も映画界にDEIの流れが続くかもしれない。ただし、「誰のための多様性か?」という問いは、常に付いて回る。大事なのは、理念の押し付けではなく、作品世界の中で自然に、説得力をもって受け入れられる形にすること。『白雪姫』の興行不振を「トランプ派の陰謀」や「政治的対立のせい」にしたがる人もいるが、そこまで話を飛ばす必要はない。もっとシンプルに、「観客が物語に共感できなかった」。それがすべてではないだろうか。
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