「文学」と機能性ヨーグルト ― 2026年05月15日
文部科学省がまた高校国語の科目を組み替えるという。現代の国語Ⅰ、Ⅱ、言語文化Ⅰ、Ⅱ。なんだかスーパーのヨーグルト売り場を眺めている気分である。「濃厚」「とろける」「腸まで届く」と、効能ばかり立派な名前がずらりと並び、結局どれを選べばいいのか分からない。しかも今回は“標準科目”と称して、ほぼ全員が食べることになる国語の定食セットらしい。AI時代だから国語力が大事だ、と言われれば、こちらも「まあ、そうでしょうね」とうなずくしかない。AIが文章をつくる時代、人間はもっと文章を読んで、書いて、話して、聞いて、つまり“人間らしいこと”をしなければならないらしい。
そこで文科省は、「文学をもっと読ませよう」と言い出した。理系の生徒にも文学を読ませ、“みずみずしい感性”を育てるのだという。たしかに文学を読むと、心がふわっと動く瞬間はある。だが文学というのは、本来そんなに“量”で勝負するものだっただろうか。昔の日本人は、八犬伝や忠臣蔵のような人気の物語を、繰り返し読み、語り、聞いていた。つまり文学は“大量消費”ではなく、“生活との距離”が近かったのである。
ところが現代はどうか。家庭ではゲームが止まらない。止めようとすると、子どもは干物に水をかけたみたいに急にぷるぷる動き出し、「あと5分」「今セーブできない」と言いながら、気づけば1時間経っている。家庭はすでに“ゲームの巣窟”である。そこへ学校が「もっと読書を」と呼びかけても、砂漠に水鉄砲で挑むようなものだ。しかもゲームは光る、鳴る、動く、褒めてくれる、レベルまで上がる。学校は黒板があるだけである。勝負にならない。だからといって学校がゲームの真似をしても仕方がない。学校は、学校にしか出せないものを出すしかないのである。
それが、実体験と言葉の往復だ。ただし、体験なら何でもいいわけではない。「本物に触れれば子どもは育つ」などという雑な標語を真に受けると危ない。辺野古では抗議船が転覆し、高校生が亡くなった。あれは海でも波でもなく、大人の独りよがりが招いた事故である。必要なのは刺激の強さではない。“言葉に変えられる余白”である。激しい出来事や、大人の価値観を一方的に流し込むような体験では、子どもの感性はむしろ痩せていく。驚きや感動というのは、本来、自分で考え、自分で気づくから育つのである。振り返り、「あれは何だったのか」と考え、自分の言葉を探せる距離があって、はじめて体験は学びになる。
学校が本当にやるべきなのは、派手なイベントではなく、もっと地味な“言葉の筋トレ”だろう。校庭の隅の雑草の名前を調べる。給食のパンが昨日より固い理由を考える。友達とのちょっとした行き違いを文章にしてみる。そういう、誰にもバズらない小さな体験のほうが、あとからじわじわ効いてくる。文学は、その“じわじわ”を増幅してくれる装置なのである。文科省の再編は悪くない。文学を戻すのも悪くない。ただ、文学は棚に並べれば効く“機能性ヨーグルト”ではない。自分の生活に引き寄せ、噛みしめ、「あれ、こんな味だったのか」と気づいた時に、はじめて血肉になる。冷蔵庫の奥で忘れられていた漬物が妙にうまい。文学とは、案外ああいうものなのかもしれない。
そこで文科省は、「文学をもっと読ませよう」と言い出した。理系の生徒にも文学を読ませ、“みずみずしい感性”を育てるのだという。たしかに文学を読むと、心がふわっと動く瞬間はある。だが文学というのは、本来そんなに“量”で勝負するものだっただろうか。昔の日本人は、八犬伝や忠臣蔵のような人気の物語を、繰り返し読み、語り、聞いていた。つまり文学は“大量消費”ではなく、“生活との距離”が近かったのである。
ところが現代はどうか。家庭ではゲームが止まらない。止めようとすると、子どもは干物に水をかけたみたいに急にぷるぷる動き出し、「あと5分」「今セーブできない」と言いながら、気づけば1時間経っている。家庭はすでに“ゲームの巣窟”である。そこへ学校が「もっと読書を」と呼びかけても、砂漠に水鉄砲で挑むようなものだ。しかもゲームは光る、鳴る、動く、褒めてくれる、レベルまで上がる。学校は黒板があるだけである。勝負にならない。だからといって学校がゲームの真似をしても仕方がない。学校は、学校にしか出せないものを出すしかないのである。
それが、実体験と言葉の往復だ。ただし、体験なら何でもいいわけではない。「本物に触れれば子どもは育つ」などという雑な標語を真に受けると危ない。辺野古では抗議船が転覆し、高校生が亡くなった。あれは海でも波でもなく、大人の独りよがりが招いた事故である。必要なのは刺激の強さではない。“言葉に変えられる余白”である。激しい出来事や、大人の価値観を一方的に流し込むような体験では、子どもの感性はむしろ痩せていく。驚きや感動というのは、本来、自分で考え、自分で気づくから育つのである。振り返り、「あれは何だったのか」と考え、自分の言葉を探せる距離があって、はじめて体験は学びになる。
学校が本当にやるべきなのは、派手なイベントではなく、もっと地味な“言葉の筋トレ”だろう。校庭の隅の雑草の名前を調べる。給食のパンが昨日より固い理由を考える。友達とのちょっとした行き違いを文章にしてみる。そういう、誰にもバズらない小さな体験のほうが、あとからじわじわ効いてくる。文学は、その“じわじわ”を増幅してくれる装置なのである。文科省の再編は悪くない。文学を戻すのも悪くない。ただ、文学は棚に並べれば効く“機能性ヨーグルト”ではない。自分の生活に引き寄せ、噛みしめ、「あれ、こんな味だったのか」と気づいた時に、はじめて血肉になる。冷蔵庫の奥で忘れられていた漬物が妙にうまい。文学とは、案外ああいうものなのかもしれない。