票の強奪・施設が人権を壊す2025年11月14日

票の強奪・施設が人権を壊す
2025年7月の参院選。その裏側で見過ごせない事件が起きていた。大阪府八尾市と泉大津市の高齢者施設で、不在者投票35人分が虚偽に行われていたのである。施設運営会社の関係者が入所者になりすまし、特定候補の名を記入した投票用紙を選管に提出したという。
つまり、他人の票を“盗んだ”のだ。不在者投票制度は、投票所に行けない高齢者や障害者が政治参加できるように設けられた仕組みだ。本来ならば「本人の意思」がすべての前提になる。しかし、現実にはその“本人”が確認されていない。立会人制度は形だけ、監視カメラもなし。制度は「性善説」に頼り切っており、職員の誠実さにすべてを委ねる設計だ。だが、その善意が通用しない現場が、いま全国に静かに広がっている。

同様の事件は過去にも何度も起きている。2013年の北九州市議選では、特養の施設長が認知症の入所者3人分の票を偽造し、有罪判決を受けた。2016年の鹿児島・奄美大島「虹の園」事件では、施設長らが意思表示困難な8人の投票を操作。2022年の熊本では、職員が知的障害者に特定候補の名刺を持たせ投票を誘導し、9人が書類送検。2024年の藤沢市長選でも、職員2人が票を偽造し、罰金刑で幕引きとなった。

要するに、「介助」と「操作」の境目が、完全に溶けている。しかも厄介なのは、この手の不正が制度の“中”で起きることだ。外見上はすべて合法的手続きに見え、本人の「意思確認」をしたという一筆で事実が塗り替えられてしまう。支援の名を借りた支配。介護現場が、人の尊厳を奪う装置へと変わる瞬間である。

選挙不正と聞くと、政治家の買収や票の水増しを思い浮かべがちだ。しかし、ここで起きているのはもっと陰湿で、もっと静かな暴力だ。投票用紙一枚の重みを知らないまま、入所者の手を握り、候補者名を代筆する。暴力ではない。けれど、尊厳を踏みにじるという意味では、虐待と何も変わらない。

背景には、介護職員の疲弊や人手不足があるという“常套句”がある。だが、それは言い訳だ。人権意識があれば、どんなに過酷な現場でも「してはならないこと」は分かる。問題は、施設運営者がその意識を持たず、監督機関も“現場任せ”を放置してきたことにある。これは個人の逸脱ではなく、制度の腐食である。いま求められるのは、単なる罰則強化ではない。外部立会人の義務化、意思確認支援の専門職制度、投票過程の記録・監査、そして施設ごとの人権評価制度の導入。最低限、これらを整えなければ、制度は「不正を温める箱」にしかならない。

介護施設は、人の最期の時間を守る場所であるはずだ。だが、そこで人権が軽んじられ、票まで奪われるなら、もはや「施設」ではなく「囲い」だ。投票の自由とは、民主主義の根幹である。その最も弱い場所──病床や車椅子のそばで、その自由が消されている。選挙違反? そんな生ぬるい言葉では済まされない。これは、社会全体の怠慢が生んだ“集団的人権侵害”である。

私たちは、票の数ではなく、一票の尊厳を守る覚悟があるのか。その問いが、いま静かに突きつけられている。

PECSと日本行政の歪み2025年09月30日

PECSと日本行政の歪み
言葉が出にくい子どもが「欲しい」「やりたい」を伝えられるようにするPECS(絵カード交換式コミュニケーション)。海外では教育や福祉制度に組み込まれ、公的文書のガイドラインにも明記され、専門職研修や研究と連動して広く普及している。ところが日本では、文科省や厚労省の資料に名前が載る程度で、制度的裏付けはない。現場では熱心な支援者が導入する例もあるが、継続性は属人的努力に頼るしかないという問題について昨日触れた。

例えば、保険医療制度では、エビデンスのある診療や手技は点数化され、制度として評価される。教育や福祉でも同様に、科学的根拠に基づく指導法は公文書で示されるべきだが、PECSに限らず、エビデンスのある支援法が指導法として正式に書かれない傾向は、日本独自の行政的歪みともいえる。

では、制度化すれば解決するのか。議論の軸は、安定性と柔軟性、公平性と現場裁量、中央集権と地方分権にある。

制度に明記すれば、全国どこでも同水準の支援が受けられる。現場の支援者も「制度で保証された技法」として安心して使えるし、支援の質と公平性も担保される。さらに、医療保険制度の点数制のように、研修や実践を評価する仕組みを導入すれば、現場のモチベーションも高められる可能性がある。ただ、公平性を担保する質を維持するには専門的研修や資格制度を確立する必要も出てくる。要は金がかかる。

一方で、慎重論もある。支援は子ども一人ひとりに応じて柔軟に選ぶべきで、特定の技法を制度に固定化すると、現場の自由度や工夫が制約されるリスクがある。もちろん教育・福祉には保護者同意の支援計画があるため、完全に自由が奪われるわけではないが、制度運用次第では柔軟な対応が難しくなる場面も想定される。さらに、日本の中央集権的な制度構造では、全国一律のルールが現場に合わないこともある。逆に地方に権限を委ねると、地域間で支援の質に差が出かねない。ここが制度化の難しさの核心だ。

しかし、政府が丸く収めていれば事態は遅々として進まない。地方行政同士が競い合うという構図も民主主義の発展には必要なことという意見もある。

結局、PECS制度化の議論は単純な「導入する/しない」を超える。重要なのは、理念と現場をどうつなぎ、支援の安定性と柔軟性を両立させるかである。制度の中でPECSを必須技法とせず、複数の選択肢の一つとして位置づけ、研修や評価の仕組みで現場のモチベーションを引き出す――こうした折衷案が現実的だろう。子どもたちにとって大切なのは、PECSの名前ではなく、「自分の気持ちを安心して伝えられる環境」が整っていることだ。行政が科学的根拠に基づく支援法を公文書で明記し、現場の判断と組み合わせて活用できる社会こそ、本来目指すべき姿である。

日本の行政だけが現場の方法論に無関心でいる現状は、制度設計のあり方そのものを問う警鐘と言えるだろう。

PECS40周年2025年09月29日

PECS40周年
Picture Exchange Communication System、通称PECS。絵カードを使って自閉症児が自分の意思を相手に伝えるための支援技法は、1985年に米国で生まれた。今年で40周年を迎えたこの仕組みは、いまや単なる補助ツールを越え、世界の自閉症教育と福祉を揺さぶり続けている。 PECSの核心は、子どもが「自ら意思を表す権利」を持つという点にある。支援者が子どもの声をどう引き出すのか、その姿勢を根底から変えてしまうのだ。だからこそPECSは単なる技術ではなく、制度と理念のあり方を問い直す「鏡」となってきた。

その象徴が香港である。国家安全法の導入で教育は徹底的に再編され、愛国教育が義務化される一方、2023年の教育局ガイドライン(日本の学習指導要領にあたる)にはPECSの名前が堂々と残っている。理念の部分は中国本土の色に染まっても、現場は実用的な技術を手放さない。「制度的二重性」と呼ぶべきこの現象は、政治がどれだけ理念を押し付けても、現場が生き残るための技術を確保しようとするリアリズムを物語る。

欧米もまたPECSを“当たり前”にしている。アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、イタリア——いずれも教育行政文書に明記し、専門職制度と実証研究に基づいて制度化してきた。PECSはAAC(補助・代替コミュニケーション)の中心的技法として「制度のお墨付き」を得ているのである。

では日本はどうか。答えは痛烈だ。文科省の特別支援教育文書には「合理的配慮」「個別の教育支援計画」といった耳障りのよい理念が並ぶものの、PECSやABAなど具体的な技法は一切出てこない。理念に酔い、抽象に逃げ、具体を避ける——これが日本の行政の体質だ。その結果、2010年代に熱心な教師たちが現場で導入したPECSは、異動や管理職の無理解で継承されず、いまや火種は消えかけている。

しかも問題は文科省だけにとどまらない。幼児療育を所管する厚労省も同じ穴のムジナだ。理念の看板は掲げるが、技術の制度化は避ける。現場は補助金の枠組みと書類作成に縛られ、肝心の支援技法は「現場次第」。その結果、PECSの波及はきわめて低調であり、日本の自閉症児療育は、支援者個人の努力と裁量に過度に依存する危うい構造のまま放置されている。制度が子どもを支えるどころか、制度が子どもを見捨てているのだ。

PECS40周年は、一つの技術が制度を越えて生き残り、制度を逆に変えていく力を持つことを雄弁に示している。香港に見る「政治と技術のねじれ」、欧米における「制度化の成功」、そして日本に漂う「理念偏重と制度不全」——この三者を並べると、日本の遅れがどれほど深刻かが浮き彫りになる。

理念を振りかざすだけの空疎な行政から、実証的技術を制度として位置づける本物の改革へと踏み出せるかどうか。PECSの歩みは、教育と福祉の制度的成熟を測るリトマス試験紙である。そして日本の現状は、その試験紙に「制度不全の象徴」として鮮烈に記録されてしまっている。

病的要求回避(PDA)2025年09月28日

病的要求回避(PDA)
エリザベス・ニューソンは1960年代から、発達に特性のある子どもに対して、診断名にとらわれず、その子の実際の様子に応じた柔軟な支援を重視する考え方を提唱した。親との協力を大切にしながら、一人ひとりに合った支援を組み立てることを目指していた。彼女は「病的要求回避(PDA=Pathological Demand Avoidance)」という特徴的な行動パターンに注目し、概念として紹介したが、それを特定の診断名として固定することには慎重だった。

ニューソンを調べるきっかけは、知人が自分の子どもはPDAではないかと疑ったことにある。近年では、インターネットを通じて情報を集める保護者が増え、PDAの説明に子どもの様子が似ていると感じて、自己判断で「PDAかもしれない」と考えるケースがあるようだ。これは支援を求める切実な思いから生まれているが、この診断名にこだわることで、かえってASDの専門的な対応が受けにくくなる危険もある。

PDAは、現在の理解では自閉スペクトラム症(ASD)の一つの表現型とされている。ASD支援の基本は、環境の見える化(構造化)と、自発的なコミュニケーション手段の獲得であり、これはASDの特性の強弱や知的水準、年齢・性別に関係なく共通して必要とされる支援である。PDAという別の診断名を与えることで「ASDではない」と誤解されれば、支援の機会が遠のく可能性がある。

現在、PDAは国際的な診断基準には含まれておらず、イギリスでも医療ガイドラインでは診断名として推奨されていない。それにもかかわらず、一部の団体や支援者がPDAを独立した診断名として扱い、特別な支援を求める動きが広がっている。これは、ニューソンが本来大切にしていた「診断名に縛られず、実際の困りごとに向き合う支援」という考え方とは、まったく逆の方向に進んでしまっている。

また、1960年代からのニューソンの考え方は、後の1990年代半ばにイギリス自閉症協会(NAS)が整理した支援の枠組み「SPELL」にも通じる部分があるが、両者の間に制度的なつながりはなく、NASからニューソンへの言及もほとんど見られない。その結果、ニューソンの柔軟な支援の考え方は広く共有されることなく、1980年代に彼女が発表したPDAという言葉だけが一人歩きしてしまっている。

ニューソンの本来の立場は「診断名ではなく、子どもの実態に合わせた支援を考えること」であり、現在のようにPDAを診断名として扱う風潮は、彼女の考え方とは正反対である。支援はラベルではなく、目の前の子どもの様子と必要に応じて柔軟に組み立てるべきであり、ニューソンの思想を今の支援のあり方にどう生かすかが問われている。

「年金が危ない」は本当か2025年06月17日

 「年金が危ない」は本当か
政府やメディアはこれまで、「年金が危ない」と、まるで“オオカミ少年”のように繰り返し警鐘を鳴らしてきた。だが、本当に年金制度は危機的な状況にあるのだろうか。たしかに、少子化によって子どもの数が減ることを理由に、制度の将来に不安を抱く声は多い。しかし、視点を変えてみれば、今の高齢者世代も時間とともに確実に減っていくこともまた事実である。しかも年金制度は、出生率や平均寿命など、ある程度予測できる人口の動きをもとに設計されており、突然破綻するような仕組みにはなっていない。むしろ、長期的な見通しに立って安定的に運用されている制度と言える。日本の公的年金制度は、「賦課方式」という仕組みを採用している。これは、本来なら積立金を必要とせず、今働いている世代が、今の高齢者世代を支えるという、助け合いの精神に基づいた制度だ。しかし実際には、制度の運用の中で現在、およそ300兆円にも及ぶ積立金が存在している。その大部分は厚生年金からのもので、年間の給付額の約8倍という規模にまで膨れ上がっている。この状態は、制度設計上の「余剰資金」と見なしても問題ないだろう。

一方で、基礎年金にあたる国民年金の給付水準は、年におよそ80万円程度と非常に低く、生活保護の基準に近い水準となっている。特に、自営業者や非正規雇用で働く人たちにとっては、老後の暮らしを組み立てることが極めて難しいのが現状だ。こうした中で、「これだけの積立金があるのに、それを使わずに給付を抑えている」という構図に、疑問や不信感を持つ人も少なくない。政府が制度の将来を見通すために行っている財政検証では、経済成長率や物価上昇率を0%と仮定するなど、極端に悲観的な前提が使われている。そのため、制度がすぐに持たなくなるような印象を与え、給付の改善や再分配といった前向きな議論が進みにくくなっている。しかし、仮に年1%の保守的な運用利回りを続けたとしても、積立金は100年後に800兆円近くまで増えるという試算もある。これほどの資産を、ただ「将来のために」と眠らせておくことが、本当に賢いやり方なのだろうか。

むしろ、まずは国民年金の積立金を優先的に使い、その後に厚生年金の余剰分を段階的に活用することで、基礎年金の水準を引き上げるべきではないだろうか。そうすれば、年金制度全体の信頼性や納得感は大きく向上するはずだ。こうした積立金の活用は、単に年金制度の改善にとどまらず、経済全体にも良い影響を与える可能性がある。たとえば、給付額の増加や保険料の負担軽減によって、手取り収入が増えれば、消費が活発になり、内需を支える力になる。特に、年金受給者の多くは、もらった年金をほとんど消費に使う傾向が強いため、その経済効果は小さくない。長い目で見れば、国内総生産(GDP)を押し上げ、税収の増加につながることも期待できる。

つまり、積立金を使うことは「減るからダメ」という単純な話ではなく、「うまく使えば循環し、かえって制度が強くなる」ことに目を向けるべきだ。この視点に立てば、年金制度は単なる社会保障の仕組みにとどまらず、経済政策や成長戦略の中核として再評価されるべき存在となるだろう。もちろん、積立金を一気に使い切るようなことを求めているわけではない。大切なのは、「何のために、どんな優先順位で使っていくのか」という、制度全体の設計思想である。たとえば、最低保障年金の創設や、所得が少ない人への重点的な支援、あるいは若い世代への保険料免除枠の拡大など、将来の社会に合った多様な使い方が考えられる。

積立金を「漠然とした将来不安に備える資産」として抱え込むのではなく、「今の暮らしを支え、制度への信頼を取り戻す共通の財産」として使っていくことこそが、制度の成熟と言えるだろう。節約一辺倒でもなく、無理な給付拡大でもない。「使いながら守る」年金制度、そんな柔軟で力強い構想が、政治と社会に求められている。

年金制度改革関連法案提出2025年05月16日

年金制度改革関連法案提出
政府は、短時間労働者が厚生年金に加入しやすくなるよう、「年収106万円の壁」の撤廃を含む年金制度改革関連法案を閣議決定した。法案では、厚生年金の加入要件である賃金基準や、従業員51人以上という企業規模要件を廃止し、パートなど非正規労働者の年金額の増加を図る。また、「在職老齢年金」の基準額を月額50万円から62万円に引き上げ、働く高齢者の年金減額を緩和する措置も盛り込まれた。さらに、所得の高い人の厚生年金保険料を段階的に引き上げ、負担を増やす一方で、将来的な給付を手厚くする制度も導入される。しかし、自民党内の反対意見により「基礎年金の底上げ案」は法案に盛り込まれず、野党はこれに反発。今後の国会審議では調整の難航が予想される。

2004年、小泉政権下で「年金100年安心」とうたわれた年金制度改革が実施され、2007年には「消えた年金問題」として約5095万件の記録ミスが発覚した。そこから今日に至るまで制度は複雑化する一方だが、なぜもっとシンプルでわかりやすい制度にできないのだろうか。今回の「106万円の壁」撤廃も、本質的には基礎年金(月額上限約7万円)では生活が成り立たないという懸念に端を発したものである。パート勤務でも厚生年金を10年間納付すれば、月1万円程度の上乗せが見込まれるというが、月8千円程度の納付が必要となり、手取りは減少する。納付と給付は現在と未来のトレードオフであり、単純な損得では語れないが、それでも将来月8万円で一人暮らしをするのは心もとない。

一方、高所得者の保険料上限は月収75万円で約7万円に設定されるというが、逆に言えば年収1000万円を超える層でも、月7万円以上の負担にはならないままだ。税制であれ年金であれ仕組みは異なるが、根底にあるのは所得の多い者が少ない者を支える「所得の再分配」機能である。税金や年金を損得の視点で見るべきではなく、唯一「公平」と言える基準は、能力に応じた負担が実施されているかどうかである。「少子高齢化の中で、少ない勤労者が高齢者をどう支えるか」という議論が当然のように語られているが、これは誤った前提に基づいている。所得の再分配という観点からすれば、国民全体で生み出した富をいかに公平に分配するかを問うべきであり、生産と消費によって成り立つ富を誰が担っているかという視点が不可欠だ。

議論の中心となるべきは国民年金である。基礎年金が月額2万円弱の定額制であること自体、公平の原則からすれば不自然だ。厚生年金の加入者は所得の約9%を納付しているのだから、国民年金も同様に所得比例で納付するのが公平である。厚生年金では企業がもう9%を負担しているため、国民年金では政府が同率を負担すれば、受給額を厚生年金並みに引き上げることも理論上は可能である。政府は、自営業者の所得を把握できないことや、収入の変動を理由に比例負担にできないと説明するが、同じ政府が徴税では正確に所得を捕捉しているのは明らかだ。現在はマイナンバーにより所得情報と個人が紐づけられており、理論上は全ての所得を正確に把握できるはずである。こうした仕組みを活用せず、国民年金受給者の生活困難をあたかも「貧困問題」として扱うのは筋が違う。

もちろん、働けない人や障害のある人への対応には、セーフティネットとしての別建ての制度設計が必要だ。しかし、厚生年金についても、所得比例の「同率負担」ではなく、税と同じような累進構造を取り入れ、低所得者の負担率を下げる仕組みにすることは可能だろう。年金は「個人の財産」ではなく、「国家のあり方」を体現する制度である。これを民間保険のような視点で捉えていること自体が、根本的な誤解なのではないだろうか。

発達検査報告「簡素化」2025年04月19日

発達検査報告「簡素化」
「新版K式発達検査」は、戦後、京都市児童院によって開発され、全国の福祉・医療機関などで広く用いられてきた発達度測定の手法である。この検査は、子どもの遊びの様子を通して発達年齢や発達指数を算出するだけでなく、数値にとらわれず子どもの全体的な様子を丁寧に観察し、支援に活かすという理念を持つ点に特徴がある。現在では、京都市児童福祉センターがその役割を引き継ぎ、療育施設の通所判定や療育手帳の交付要否の判断材料としても活用されている。2021年度からは報告書の簡素化が進められ、これにより検査待機期間の短縮には一定の効果が見られた。一方で、以前の報告書には子どもの具体的な反応や有効な支援方法が詳細に記載されていたのに対し、簡素化後は箇条書き程度の記述にとどまることが多く、保護者の不満の声も上がっている。背景には、心理職の負担軽減という目的があるものの、「これでは子どもの理解が深まらない」といった批判も出ており、理念と実務のバランスを取る工夫が求められている。

一見すると、検査のできる心理士を増やせば解決するようにも思えるが、この問題はそれほど単純ではない。報道の多くが現場の一側面だけを取り上げており、K式検査の実際の限界については十分に言及されていない。K式検査は、乳児期の発達を細かく把握できる利点がある一方で、4歳を超える幼児期以降の発達特性を把握するには不向きな側面がある。「数値にとらわれない」とされる一方で、K式における数値は「運動」「認知・適応」「言語・社会」の3領域にしか分かれておらず、それらのスコアから個別の発達特性を導き出すのは難しい。つまり、これらの数値はあくまで一般的な発達水準と比較しての相対的位置を示すにすぎない。子どもの知的発達の特性を把握し、就学までにどのような支援が必要かを判断するためには、他にもより適切な検査手法が存在する。現状では、科学的な根拠に基づくというよりも、心理職の経験則をもとにK式の結果が解釈されている例も少なくない。

K式検査は、もともと昭和期に乳幼児に適した発達検査が乏しかった時代において、京都を中心に心理職・教育職を通じて広まり、当時は重宝された。しかし、検査構造自体は半世紀以上にわたり大きな改訂がなされておらず、今日的な認知発達モデルに即したものではない。ベテラン心理士の中には、「数値にこだわらず、課題への取り組み方そのものに注目すべきだ」とする立場もあるが、そのような高い観察力と判断力を身につけるまでに至るには、長い年月と経験を要する。近年開発されている発達検査では、各項目間のプロフィールを数量的に可視化し、より精密な判断が可能となっている。つまり、現代の主流はむしろ「数値を重視する検査」であり、それによってビギナーの心理士でも一定水準の判断を行うことが可能になっている。レアケースには熟練者の介入が必要であるものの、一般的なケースについては、数量的なプロフィールに基づいた支援策がマニュアル化されており、実践しやすい。心理職の現場が少人数であることもあり、こうした旧来の手法から抜け出せずにいる現状もある。確かに、検査可能な心理士の増員は急務であるが、そもそも、時間と手腕を要する古い検査手法をいつまでも使い続けていること自体が、見直されるべき時期である。

「月」やまゆり園事件2025年04月15日

石井裕也監督が宮沢りえを主演に迎え、辺見庸の同名小説を映画化した作品。物語は、元有名作家の堂島洋子が、森の奥深くにある重度障がい者施設で働き始めるところから展開していく。洋子は、作家志望の陽子や絵を描くのが好きな青年さとくん、そして身体が動かせない入所者きーちゃんと出会い、次第にきーちゃんに親身になっていく。一方で、施設内では職員による暴力やひどい扱いが見え隠れし、それに対して憤りを募らせるさとくんの正義感が、どんどん加速していく。洋子の夫・昌平をオダギリジョー、さとくんを磯村勇斗、陽子を二階堂ふみが演じており、キャストは豪華だ。

社会の理不尽さや人間関係の葛藤を描くヒューマンドラマ──と聞けば響きはいいけれど、正直なところ、この映画はかなり重たくて暗い。観る者に深い問いかけを投げかける、と評価されているが、観終わったあとに残るのは、疑問とモヤモヤだった。原作は、相模原障害者施設殺傷事件、いわゆる「やまゆり園事件」をモチーフにしている。さとくんは、犯人・植松聖をモデルにしたキャラクターだ。しかし、彼がなぜ優性思想に至ったのかという部分について、監督の石井裕也は「生産性のないものを排除する」という考え方は今の社会全体が帯びているものであり、個人としての植松を掘り下げることには意味がない、としている。

生命を肯定するというのは本能的な欲求に根ざしており、他者の生命も自己と同様に尊重されるべきものだし、それを前提に社会生活が成り立っている。人の命を奪うという行為は、平等性や秩序の維持といった社会の基本原則に反しており、「殺してはいけない」という命題は、功利主義的にも論理的に成立する。そして、映画の中で描かれる思想──社会価値のない存在は「心のない者」であり、自己表現ができない障害者は人間ではない、そんな存在を社会が支える必要はなく、むしろ強制排除すべきだという考え方──これはあまりにも幼稚で、議論の土台にも乗らない話だ。

もし監督が言うように「今の社会そのものが排除の論理を帯びている」のだとすれば、それに対してもっと強く、正面から跳ね返すようなメッセージが欲しかった。そうでなければ、単に不快な現実をなぞっただけの作品になってしまう。また、重症の入所者が排せつ物を部屋で塗りたくるような描写が、「施設の日常」として淡々と描かれているのも疑問だ。そもそも、閉じ込められているという社会的・人的な環境こそが問題なのに、それを問うこともなく、あたかも「これがリアル」だと言わんばかりに見せるのは、方向を誤っている。そしてなぜか、「誰もが年を取り、生産性を失っていく存在になる」という当たり前の視点が、すっぽり抜け落ちているのも不自然だ。率直に言えば、これは駄作というより、悪質な映画だと感じた。俳優陣の演技は力強かっただけに、そんな作品に出演させられた彼らがかわいそうだと思ってしまった。

PECSフェイズ6が大事2025年03月09日

PECS 桜が咲いています
PECS研究会を開催した。京都でPECSの実践に積極的に取り組む南山城学園から、利用者の日常生活におけるPECSの活用状況について報告を受けた。PECSといえば、言語・コミュニケーション能力の弱い自閉症児が絵カードを用いて要求を伝える手段と理解されがちであり、おやつやおもちゃの要求に限られると思われている節がある。しかし、それは習得の入り口に過ぎない。PECS(絵カード交換コミュニケーション)は、1985年に考案された代替・拡大コミュニケーションシステムである。アメリカのデラウェア州自閉症プログラムにおいて、自閉症の未就学児に対して実践され、その後、世界中に広まり、年齢や認知・身体・コミュニケーションの障害を問わず、多くの人々に活用されている。PECSの手続きは、応用行動分析(ABA)の理論に基づいており、特定のプロンプトや強化方法を活用してコミュニケーションを指導する。また、学習を促進するための系統的なエラー修正手続きも含まれている。言語による促しを用いないため、自発的なコミュニケーションを促し、対人依存を防ぐことができる。PECSは6つのフェイズ(段階)で構成されている。フェイズIでは、対象者が欲しいものを得るために絵カードを交換する方法を学ぶ。フェイズIIでは、異なる環境や相手とのやり取りを通じてスキルを般化し、持続的なコミュニケーション能力を身につける。フェイズIIIでは、複数の絵カードの中から正しいものを選択し、フェイズIVでは、文カードを用いて「〇〇をください」といった簡単な文章を構成する。フェイズVでは、「何が欲しいのか」といった質問にPECSを用いて応答し、フェイズVIでは、「何が見えるか」などの質問に答え、コメントするスキルを習得する。PECSの目標は、機能的なコミュニケーション能力の向上である。研究においては、PECSを使用することで発語が促進される事例や、音声出力装置(SGD)への移行が見られることが報告されている。PECSはエビデンスベースの指導法であり、その効果を実証する研究は多数発表されている。

私がPECSに取り組み始めたのは、言葉を持たない自閉症児を担当していた約20年前のことである。それまでは、スケジュールの視覚化など、彼らが環境を理解するためのTEACCHプログラムに代表される構造化支援に携わっていた。しかし、コミュニケーションにおいて最もストレスを感じるのは、自分の思いが伝わらないときである。海外旅行をした際、「コーク」と注文してもコーヒーが出てきた場合、飲めるからいいかと諦め続けるうちに、次第に卑屈になってしまう。絵付きのメニューがあれば指さして注文でき、助かった経験がある人も多いのではないか。言葉を持たない障害者が暴れることが少なくないのは、思いが通じないからだと考えれば納得できる。また、「何が欲しいの?」と聞かれない限り要求が実現しない環境では、常に援助者の言動を気にしなければならず、依存的にならざるを得ない。結果として、指示されるまで行動しないことが生きる術となってしまう。しかし、コミュニケーションは要求ができればよいというものではない。私たちの日常会話のほとんどはコメントで満たされている。「梅が咲いたね」「今日は寒いね」「いい天気だね」といった何気ないやり取りこそが、対人関係を築く上で重要な役割を果たす。障害の重い人が同じレベルでコミュニケーションを取れるかは分からないが、PECSはフェイズVIまでのトレーニングを通じてコメントの表出を目指している。自分の発したコメントに「そうだね」「おもしろいね」「悲しいね」と返してもらうことで、人は安心し、絆を深めることができる。障害が重いからといってフェイズIVで止まらず、ぜひフェイズVIまで取り組んでほしいと思う。

こども家庭庁虐待AI見送り2025年03月05日

こども家庭庁虐待AI見送り
こども家庭庁は、虐待が疑われる子どもの一時保護の必要性をAIで判定するシステムの導入を見送ることを決定した。このシステムは全国の児童相談所(児相)の人手不足解消を目的に2021年度から約10億円をかけて開発が進められ、最終判断を職員が行う際の補助ツールとして期待されていた。しかし、試験運用で約100件中62件が判定ミスとなり、AIによる虐待判断は困難と判断された。システムは5000件の虐待記録を学習し、傷の有無や保護者の態度など91項目の情報を基に0〜100の可能性スコアを表示する仕組みだった。だが、入力項目が不十分で、ケガの程度や子どもの体重減少といった重要な情報が反映されていなかったことが精度の低さの原因とされた。専門家は、虐待の態様が多様であることや記録件数の不足がAI判定の難しさにつながったと指摘。また、AI活用には実現可能性の吟味や制度設計が不可欠であり、今回の失敗を今後の開発に生かすべきだと提言している。こども家庭庁が虐待判定AIの導入を進めた理由は、虐待の通告件数が増加するなか、職員の数が十分ではないにもかかわらず、迅速かつ正確な対応が求められていたためである。AIは膨大なデータを分析し、客観的なリスク判定の補助ツールとして職員の判断を支援することが期待されていた。また、虐待事例の蓄積データを活用することで、経験や知識の差を補い、対応の均質化を図る狙いがあった。

これらの着眼点は正当であるが、10億円程度の予算で虐待判定に特化した人工知能を開発しようという発想は非現実的である。汎用人工知能であるChatGPTのGPT-4モデルのトレーニングには約150億円以上の費用がかかったと報じられている。また、ChatGPTの運用には1日あたり約1億円以上の運用費がかかると推定される。さらに、OpenAIは2024年10月に約1兆6000億円の巨額資金を確保し、開発や運用に充てている。虐待判定に特化すれば多少は安価に開発できるかもしれないが、年間3億円程度では予算規模が桁違いに不足している可能性がある。虐待判定は時間との勝負であり、担当官の主観や環境バイアスを排除して判定することはAIの得意分野だと考えられる。また、積み上げた事例を人工知能に学習させることで、経験の浅い担当官のリスクを排除する効果も期待できる。これは医療AIにも同様のことが言える。対人サービスに携わる人間の質には「親切」か「不親切」か、能力が「高い」か「低い」かの組み合わせがある。民間の場合、不親切な人には寄り付きにくいが、公的サービスでは「不親切で能力の低い」担当者に巡り合うことがある。AIはこのリスクを低減する可能性がある。今回の虐待AIの問題は資金不足が大きな要因だが、平均的な対人サービスの質を向上させるには不可欠な技術である。ぜひ今後の再挑戦を期待したい。