天下分け目のトイレ合戦 ― 2026年10月12日

天下分け目のトイレ見積書
関西テレビが興味深いニュースを報じていた。京都府大山崎町では、町のシンボルである天王山の山頂にバイオトイレを設置しようと、住民や登山客ら約1100人が200万円を寄付した。しかし4年が過ぎてもトイレは完成していない。町長は設置を進めたい。一方、議会は事業費や維持費の試算が不十分だとして認めない。寄付金は宙に浮いたまま。そして、その対立の中心にいた議会議長は町長選挙への立候補を表明し、「対立より対話」を掲げているという。ニュースとしてはトイレ問題である。しかし、読み終えて残るのは別の疑問だ。なぜ天下分け目の天王山を抱える町で、政治家たちは天下ではなくトイレの話ばかりしているのだろう。

天王山は単なる標高270メートルの里山ではない。羽柴秀吉と明智光秀が激突した山崎の戦いの舞台であり、「天下分け目の天王山」という言葉そのものが全国ブランドである。全国の自治体は観光客を呼び込もうと必死だ。歴史を掘り起こし、ゆるキャラを作り、イベントを開き、それでも知名度が上がらず苦労している。ところが大山崎町は違う。最初から全国区の看板を持っている。しかも豊臣兄弟が注目されれば、天王山への関心も高まる可能性がある。本来なら政治家たちは色めき立つはずだ。どう集客するか。どう滞在時間を延ばすか。どう商店街に人を流すか。どう税収につなげるか。そんな議論が飛び交っていても不思議ではない。ところが聞こえてくるのは観光戦略ではなく、電源ケーブルの話なのである。

もちろん議会の言い分には理がある。総事業費も分からないまま予算を認めるわけにはいかない。一方で町長の言い分も理解できる。寄付者がトイレ設置を願って集めた金を、別の用途に使うのは難しい。双方に理屈はある。だが問題は、その理屈が4年間で何か一つでも結果を生んだのかということだ。町長は「作りたい」と言う。議会は「試算が足りない」と言う。そして4年が過ぎた。秀吉と光秀は山崎の戦いで日本の行方を争った。令和の天王山では町長と12人の町議が見積書を争っている。あちらが天下を懸けた戦いなら、こちらは電源工事費を懸けた戦いである。天下分け目の地で、天下ではなくコンセント代が焦点になっているのだから、歴史も苦笑いしているかもしれない。

住民から見れば、そろそろどちらの理屈にも飽きてくる頃だろう。知りたいのは200万円を使うかどうかではない。その200万円をどう町の力に変えるのかである。観光客を何人呼べるのか。地元商店にどれだけお金を落としてもらえるのか。歴史資源をどう地域経済につなげるのか。本来、トイレは目的ではなく手段である。ところが議論を聞いていると、いつの間にか手段が目的になっている。双方ともコストは語る。しかし投資を語らない。支出は語る。しかし収入を語らない。町民が見ているのは家計簿ではない。町の将来である。全国ブランドという金脈の上に立ちながら、掘っているのは金ではなく経費だ。その姿は滑稽というより、むしろ惜しい。

そして町長選挙を前に、「対立より対話」という言葉が響く。しかし有権者が求めているのは対立でも対話でもない。知恵であり、結果であり、解決である。1100人もの住民が財布を開いて寄付した事実は重い。それは単なる200万円ではない。町への期待そのものである。その期待に対して、政治が4年間かけて返した答えがトイレ論争だったとしたら、町民は拍子抜けするだろう。天王山は日本史の転換点となった場所である。だが、有権者が見たいのは勝者ではない。討論会でもない。まして電源ケーブルの見積書でもない。「天下分け目の天王山」という資産をどう町の未来へ変えるのか。その完成図である。秀吉は天王山で天下への道を開いた。令和の政治にも、そろそろ見積書の先にある未来を語ってほしい。

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