寛容のパラドックス2026年07月01日

寛容のパラドックス
LGBT理解増進法の見直しをめぐり、世の中がどこか落ち着かない。風が吹けば桶屋が儲かるという話でもないのに、教育や行政の現場まで含めて空気がざわついている。思い返せば、法律が施行された2023年の日教組の教研集会では、小学校高学年の児童が『竹取物語』を題材にした劇を発表したという。かぐや姫が「体の性は男、心の性は女」で、月の使者から「王子として生きろ」と迫られ葛藤する筋書きだったらしい。台本は児童が考え、教員が「アドバイス」したとされるが、その助言がどこまで作品に影響したのかはブラックボックスのままだ。昔話の改変が「桃から生まれた桃子の鬼退治」くらいの軽い遊びなら笑って見ていられるが、今回のように価値観の方向づけが入り込むと、さすがに笑って済ませるわけにはいかない。

もちろん、多様性を重視する側にも理屈はある。「子どものうちからさまざまな生き方を知ることは大切だ」「性的マイノリティの子どもが孤立しないようにしたい」。言われてみれば、たしかに筋は通っている。教室で自分だけが違うと感じて苦しむ子どもを減らしたいという願い自体を否定する人は多くないだろう。ただ、その理屈が万能薬のように何にでも当てはめられ始めると、話は急にややこしくなる。古典作品を現代のジェンダー観を表現する教材として積極的に再構成することまで学校教育の役割なのか。子ども主体と言いながらも、教員の助言や授業の方向性が作品づくりに影響を与えることは珍しくない。道具箱のフタが開きっぱなしになっていないか、ときどきのぞいてみる必要がある。

こうした議論は海外でも続いている。アメリカ・ニューヨーク州では家族法の見直しに伴い、「母」「父」という表現を「妊娠する親」「妊娠しない親」や「ペアレント」といった中立的な用語に置き換える法改正が進んでいる。提案側は代理出産や同性カップル、多様な家族形態を公平に扱うためだと説明する。これもまた理屈としてはわからなくはない。しかし、生物学的な現実を必要以上に抽象化すると、濃い出汁を水で割って「これも味です」と言い張るようなものだ。共和党は「常識を壊す改革だ」と怒鳴り、民主党は「包摂社会に必要だ」と胸を張る。どちらも声が大きく、鍋のフタがガタガタしている。

ここには、多様性という理念が抱える難しさがある。多様性を尊重しようという考え方自体は現代社会に欠かせない価値だ。しかし、その理念が唯一絶対の価値として扱われ始めると、「伝統的な家族観を大切にしたい」「生物学的な区別も社会には必要だ」という考え方まで排除されかねない。多様性を掲げながら、多様な意見そのものが認められなくなる──これはカール・ポッパーの「寛容のパラドックス」を思わせる。多様性の鍋を一生懸命かき混ぜていたら、いつの間にか「自分たちの味だけが正しい」という料理になってしまう。

教育も法律も、本来は社会の共通基盤である。だからこそ、古典を現代の価値観で安易に読み替えたり、長年使われてきた言葉を次々と抽象化したりすることには慎重さが求められる。制度を変えること自体が目的ではない。社会全体が納得できる共通の土台を維持しながら、多様な人々が共に暮らせる仕組みを考えることこそ本来の課題である。教育は価値観を押しつける場ではなく、子どもが自ら考える力を育てる場であってほしい。古典は古典として味わい、家族を表す言葉は誰にでも伝わるものであり続ける。そのうえで、多様な人々への理解を深めていく──そのくらいのバランス感覚が、いま一番求められているのではないか。

負け方の作法2026年07月02日

負け方の作法
ヒューストンの空気は、焼け残ったホットドッグのように湿っていた。今回のブラジル戦は、幾度も世界の頂点に立った、はるかに格上のチームとの対戦だった。日本は防戦に苦しみながらも、怯まず、逃げず、先制点をもぎ取った。佐野海舟は「結果がすべて」と言い、森保一は「力がなくてすいません」と頭を下げた。あの一礼には、日本人が昔から大切にしてきた負け方の作法がにじんでいた。格上相手に挑み、倒れ、また立ち上がる。スポーツとは、そういう世界である。逃げ場がないからこそ、潔さが育つ。湿度を含んだ空気の中で、選手たちの背筋だけが妙にまっすぐに見えた。

ところが国会はどうだろう。選挙では減税も政治資金の透明化も、どの党も競うように公約へ掲げた。ならば国会が始まれば、その勝負が始まるのだろうと思っていた。ところが始まったのは、週刊誌報道をめぐる応酬だった。「本当なのか」「いや違う」とボールとは別のところで人だかりができる。そのうち衆院比例代表の定数削減を議題にしようという話になると、今度は理事会だ、集中審議だと笛ばかりが鳴り、試合そのものが動かなくなる。採決では数で負ける。だから審議そのものを止める。そんな構図にしか見えない場面が続いた。見ている国民としては、「今日は何の競技だったかな」と首をかしげるばかりである。ポップコーンだけが湿気ていく。

本来、政治家にとって試合とは国会である。政策をぶつけ合い、論戦を交わし、法案を審議し、その結果を国民に示す。その積み重ねを採点する日が選挙だ。選挙は試合ではない。試合の結果を告げるスコアボードであり、成績表である。だからこそ、選挙で厳しい判定を受けたなら、なおさら議場に立たなければならない。政策を練り直し、論戦で存在感を示し、「次は任せてもよい」と国民に思わせる。その舞台が国会なのである。スポーツなら、リーグ戦で敗れたチームが次の試合を放棄することはない。悔しさを抱えたままでもピッチに立つ。立つからこそ、次の勝利がある。

今回の国会では、試合より笛の音のほうがよく聞こえた。減税も政治資金の透明化も定数削減も、選挙中はあれほど元気だったのに、国会へ来ると急に影が薄くなる。代わりに議事進行をめぐる押し問答ばかりが続く。スポーツなら、相手が強いからといって試合を止めるチームはない。まずピッチへ出る。勝つか負けるかは、そのあとである。観客はプレーを見に来たのであって、ホイッスルの吹き方を見に来たのではない。売店のホットドッグだけが冷めていく。冷めたホットドッグほど、むなしいものはない。

ヒューストンで頭を下げた日本代表の姿は、その意味で国会の風景とは対照的だった。負けることは恥ではない。負けを認めず、戦う場所から姿を消すことのほうが、よほど信頼を失う。スポーツも政治も、勝負は負けた瞬間には終わらない。次に何をするかで評価は変わる。国民はサポーターであると同時に審判でもある。その目の前に立たない選手を、誰が応援するだろう。今日もまた、湿気たポップコーンと冷めたホットドッグを手にした国民は、試合開始の笛が鳴っているのに、いつまでもピッチに姿を見せない選手を待ち続けている。

皇位継承問題2026年07月03日

皇位継承問題
皇室問題というと、まず「男女平等がどうの」「女系でもいいじゃないの」と、昼下がりのワイドショーのような軽い空気が漂う。2600年の歴史を背負った皇統を前にしても、現代日本はまるでコンビニの新商品でも選ぶような調子で制度を論じる。「こちら新発売です。男系の代わりに女系はいかがでしょう」。そんな棚のPOP広告みたいな話ではないはずなのに、議論の机の上には妙に乾いた制度論だけが並んでいる。

そもそも現在のは、自然に湧いてきたわけではない。戦後、GHQの占領政策で十一の旧宮家が皇籍を離脱し、男系男子の基盤は大きく縮小した。これは歴史上の事実である。その経緯にはほとんど触れず、「後継者が少ないのだから制度を変えましょう」という議論だけが先へ進むのは、どうにも順番が逆である。木の根を細くしておいて「枝が弱っていますね。では葉っぱを磨きましょう」と相談しているようなもので、根が細れば枝は弱る。当たり前の話だ。

養子制度だの女系天皇だのという制度論はもちろんあってよい。しかし、根を見ずに枝ばかり眺めていては木の勢いは戻らない。病名を確かめる前に「今、一番売れている薬をください」と薬局へ飛び込むようなもので、効くかもしれないが効かないかもしれない。まず原因を知る。それが議論の出発点であるはずなのに、皇統の話になると日本では急に座が静まり返る。占領政策を語ることへの遠慮なのか、戦後長く続いた空気なのかは分からない。

雨漏りする家で天井紙だけ貼り替え、「修理完了」と胸を張るような議論が続く。新品の壁紙は気持ちがいい。しかし夜になれば雨だれは相変わらず枕元へ落ちてくる。原因を語らず結果だけを論じるとは、そういうことだ。さらに不思議なのは「多様性」という言葉との付き合い方である。宗教も家族の形も価値観も違っていていい。それが現代社会の合言葉になった。少数文化も少数言語も守ろうという。ところが、長い歴史で受け継がれてきた皇統になると、急に「そこは現代に合わせて変えましょう」という話になる。

これはまさに寛容のパラドックスである。寛容を広げようとするあまり、本来なら寛容であるべき対象にまで不寛容になってしまう。文化の多様性を守ろうと言いながら、世界でも類例の少ない皇統という文化には「例外」を求める。多様性の鍋を囲みながら「皇統という具材だけはクセが強いので外してください」と言っているようなものだ。それでは鍋はできても、だしの味はまるで違う。湿度の高い日本で、皇統だけが乾燥棚に置かれたままなのはどうにも奇妙である。

結局のところ、皇室問題は男女平等だけの問題でも制度設計だけの問題でもない。戦後の占領政策によって皇統の基盤が縮小したという歴史をどう評価し、どう向き合うかという歴史認識の問題でもある。旧宮家の復帰や養子制度の活用が適切かどうかは冷静な議論が必要だ。しかしその前に、「なぜ今日の姿になったのか」という歴史だけは共有しておきたい。土台が違えば、どれほど立派な設計図を描いても家はまっすぐ建たない。湿度の高い国で歴史の湿気だけが拭き取られ、乾いた制度論ばかりが机に並ぶ。その乾燥こそが、戦後日本が抱え続ける寛容のパラドックスなのだ。

審議拒否の理由2026年07月04日

審議拒否の理由
小川党首の記者会見を聞いていると、論理というものは必ずしも階段のように一段ずつ上へ積み上がるものではないらしい、という妙な感慨を覚える。党首はまず「動画作成疑惑には証拠がない」と断言し、続いて「証拠を探すのはわれわれの仕事だ」と胸を張る。さらに「首相が否定しているからといって、否定の証拠を探さなくてよいわけではない」と話を進める。しかし政府は「疑惑の集中審議」について、「証拠のない疑惑を審議しても意味がない」として拒否した。制度運営としては当然の判断である。ところが野党は、この政府の拒否をそのまま自らの全面審議拒否の理由に仕立て上げた。論理の綱は途中までは張られていたのに、最後の支柱だけが別の手で外され、全体がそのまま倒れてしまったような印象を受ける。冷蔵庫にプリンがあった証拠がないのに、食べていないという証拠を出せとは誰でも面を食らう。

さすがにこれだけでは審議拒否の理由として心許なかったのだろう。衆院比例代表の定数削減も「民主主義の危機」として加えられ、捏造疑惑と比例削減という二枚看板を掲げて、衆参の野党はそろって審議拒否へ入った。政治家の言葉というものは、ときに立派な舞台装置のように見える。しかし幕の裏へ回ると、肝心の支柱が一本足りないこともある。

日本の選挙制度というものも、どうやら長いあいだ日本人の政治的気質と、どこか噛み合わぬまま今日まで来てしまったようである。制度とは既製服に似ている。外国で見事に似合ったからといって、日本人にそのまま着せれば寸法まで合うとは限らない。ところが政治家も学者も、ときに仕立屋より既製服屋を信用する癖があるらしい。

小選挙区制が導入された当時、識者も新聞も、これで二大政党制が育ち、日本政治も成熟した民主主義国家らしい姿になる、と景気のよい話をしていた。制度を変えれば政治文化まで変わると信じたのであろう。しかし制度は人間の性分まで作り替えてはくれない。蓋を開けてみれば、政権交代より地域ボスの固定化や死票の増加が目立ち、比例代表は激変緩和のための補助装置だったはずが、いつしか小政党の避難所となった。避難所というものは非常時のために設けられる。しかし居心地がよければ、人はなかなか出ていかない。

もちろん、国民が与党を全面的に支持しているわけではない。経済も社会保障も物価も、注文はいくらでもある。それでも野党に政権を託そうという機運が高まらないのは、制度だけの責任ではあるまい。政策より政局を優先し、選挙のたびに離合集散を繰り返し、国会では審議より対決の構図づくりが前面へ出る。そうした光景を繰り返し見せられれば、有権者が「本当に政権を任せられるのか」「審議を拒否して議員と言えるのか」と首をかしげるのも無理はない。政治とは結局、信頼という目に見えない資本を積み重ねる仕事なのである。

比例代表は少数意見を国政へ反映させる制度であると同時に、小選挙区で議席を得にくい政党にとっては生命線でもある。だから削減論が持ち上がるたび「民主主義への攻撃だ」という声が上がる。しかし、議論すべき当事者が審議そのものを拒めば、有権者は説明を聞く機会を失う。説明を欠いた制度は理解より疑念を生み、疑念は支持より不信を育てる。制度とは舞台にすぎない。観客が見ているのは舞台装置ではなく、その上でどんな芝居が演じられているかである。いま有権者の目に映っているのは制度ではない。そこでどのように振る舞っているかという政治家たちの姿なのだ。

『与党の横暴』と宿題のつけ2026年07月05日

『与党の横暴』と子どもの言い訳
選挙制度の協議というやつは、どうにも長い。長いというより、海辺に放置された古いロープみたいに、潮を吸ってぐずぐずに伸びきり、もう元の形へ戻る気配がない。議長が「抜本改革をやろうじゃないか」と声を上げたのが2019年。それから今年2026年まで、足掛け八年。八年といえば、子どもがランドセルを背負って学校へ通い、気づけば卒業しているほどの時間である。そのあいだ協議は続いたが、結論は一度も出なかった。机の上で地図を広げ、「このあたりに宝が埋まっているはずだ」と言いながら、誰ひとりシャベルを手にしない探検隊のようなものだった。

参政党やチームみらいといった新しい政党も国会に加わった。しかし顔ぶれが変わっても協議は前へ進まなかった。いや、正確に言えば、進んでいるように見えるだけだった。各党が案を持ち寄り、「それでは困る」「こちらも飲めない」と応酬を繰り返すが、選挙制度は各党の議席そのものに直結する。自ら不利になる案へ積極的に賛成する政党はない。幅広い合意を前提として協議を重ねれば重ねるほど結論は遠のき、新しい政党が増えれば調整はさらに難しくなる。八年かけて結論ゼロというのは、制度の構造から見ても不思議な帰結ではない。

そんな膠着状態のなか、昨年の臨時国会で自民党と日本維新の会は比例代表定数削減法案を提出した。といっても、野党が言うような「今すぐ削減する」という乱暴な話ではない。法案には「可決後一年間協議を続け、それでも結論が出なければ削減を実施する」という案だ。削減はあくまで一年後の協議不調時に限る“最終手段”であり、即時の削減ではない。この構造は今回の国会でも変わっていない。与党は、八年間動かなかった協議にようやく“期限”をつけようとしているだけなのである。それにもかかわらず、野党はこの条件をほとんど無視して「強行だ」と反発し、審議入りそのものを拒んだ。削減が“今すぐ”ではない以上、審議拒否の理由としてはあまりに心許ない。協議の場に出れば修正も提案もできるのに、議論の前段階で門を閉ざすのは、どうにも筋が通らない。

夏休みの宿題を八月三十一日まで机の隅へ積み上げておき、先生から「提出は一週間後でいいから、そろそろ仕上げなさい」と言われた途端、「急に言うな」と怒り出す小学生のようなものである。先生は明日出せとは言っていない。むしろ一週間の猶予を与えている。それなのに「強行だ」と言い張り、宿題を開きもしないまま机を叩く姿では、どうにも筋が通らない。「議論が尽くされていない」と言いながら、その議論の場に出てこないのだから、国民が納得できるはずがない。

選挙制度の背骨が湿気を吸ってぐにゃりと曲がっているのは、潮風のせいではない。ロープを巻き直す時間は十分にあったのに、誰も手を伸ばさず、「まだ早い」「もっと議論が必要だ」と言い続けた。その積み重ねが八年という長い停滞を生み出したのである。制度の構造が重たいのは確かだが、動かそうとしなかった責任まで潮風のせいにするのは、さすがに無理がある。

中国スパコン首位2026年07月06日

中国スパコン首位
スパコンの話である。2026年6月、ドイツで発表された世界計算速度ランキング「TOP500」で、中国の完全国産システム「LineShine(霊晟)」が首位を獲得したという。中国メディアは「米国の制裁を突破した歴史的勝利」と息巻き、一部海外メディアもその勢いを伝えている。制裁下で独自技術を積み上げた努力そのものは、素直に評価してよいだろう。ただ、そのニュースを「世界の技術覇権が逆転した」とまで受け止めるのは、いささか話が飛びすぎだ。派手な見出しとは裏腹に、どこか「ランキング一位」という看板だけが独り歩きしているような、湿った違和感が漂ってくる。

そもそもTOP500というランキングは、スパコン界の百メートル走のようなものだ。スタートの合図で一斉に走り、一番速かった者が優勝する。分かりやすく、権威もある。しかし、現代のスーパーコンピューターが本当に競っているのは、その瞬間的な速さではない。AIの学習、創薬、気象予測、材料開発など、多様な用途をどれだけ効率よく処理できるかという「実効性能」と「汎用性」こそが、今の主戦場である。百メートル走で世界一だからといって、マラソンや障害走まで世界一とは限らないのと同じで、用途が変われば求められる能力も変わる。

今回のLineShineは、GPUを使わず独自CPUを中心とした構成で約2エクサフロップスを達成したとされる。GPUを採用しない設計思想そのものに優劣があるわけではない。目的を明確に定め、そこへ徹底して最適化すれば驚異的な性能を引き出せるのは工学の常道である。ただ問題は、その性能が幅広い用途でどこまで発揮されるかだ。科学技術計算により近い性能を測るHPCGでは首位となった一方、AIで重要となる混合精度演算では首位ではないという評価もある。つまり「ある競技では世界一」でも、「計算機全体として世界最高」とは言えないのである。

たとえるなら、サーキットで最速を記録したF1マシンが、そのまま「世界最高の車」になるわけではない。市街地を走る車には、燃費や乗り心地、安全性、荷物を積めることなど、別の価値が求められる。スーパーコンピューターも同じだ。特定の競技で勝つことと、社会のさまざまな課題を解決できることは、必ずしも一致しない。日本もかつては「世界一」という言葉に心を躍らせたが、事業仕分けの「2位じゃダメなんですか」という一言は、ランキングを追うこと自体が目的化していないかという問いを突きつけた。その後、日本は社会実装へ軸足を移し、「富岳」が創薬、防災、気象予測などで実際に成果を挙げているのは、その方向性の象徴である。

もちろん、TOP500で首位を獲得した意義まで否定する必要はない。米国制裁下で独自システムを完成させた中国の技術力は軽視できず、その達成には相応の価値がある。ただ、それは技術競争のゴールではなく、一つの通過点にすぎない。いま世界が競っているのは「どれだけ速いか」ではなく、「どれだけ新しい価値を生み出せるか」である。AI、医療、エネルギー、防災、産業――スーパーコンピューターの真価はランキング表の数字ではなく、その先で社会をどれだけ変えられるかによって決まる。だからこそ「世界一」という甘い響きだけに酔っていては、本当に見るべきものを見失う。技術の価値はトロフィーの数では測れない。未来をどれだけ切り開けるか。その問いに答え続けることこそが、本当の意味で世界一の技術なのである。