シン・長岡京北端2024年09月21日

シン・長岡京
長岡京の姿が先日の発掘で更新された。これまで都の「北端」とされていた道路よりも北側にも街区が広がり、人々が生活していたことを示す遺構が発見されたのだ。長年調査に携わってきた向日市埋蔵文化財センター事務局長は、「教科書に描かれた復元図が改定される決定的な成果」と述べた。日本の古代の都は、平城京以降「天子南面す」という中華思想に基づいて造営された。平安京も同様に、中央北端に平安宮が配置されている。このため、長岡京も同じプランに基づいていたと考えら再現当初は長岡宮を中心に左右対称の整然とした区画図が復元された。しかし、北端とされていた北京極大路の道幅がわずか9メートルの生活道路しかなかったことが判明し、居住区存在の再検討が必要となっていた。今回の発見は、長岡京が平城京や平安京というモデルに縛られず、土地の条件に合わせて現実的に造られたことを示しているという。長岡京の南西鬼門と言われる西山にすむ自分には興味深い話だ。

桓武天皇は、朝鮮渡来系の側室の子という理由で異端視され権力抗争の具とされやすかった。天皇は豪族権力者や仏教勢力圏の平城京から抜け出すために長岡京遷都を決断したという。宮殿の建設は難波京宮殿を解体して淀川水運を使い長岡宮殿に再利用して半年ほどの短期間で完成したという。桓武天皇が平城京の権力関係を遷都でリセットして新たな政権を一刻も早く築きたかった証ともいえる。その分、都市プランは走りながら考える形となり、内裏の北側にも大路を設けずに継ぎ足していったというのが今回の発掘で明らかになった。これまでは阪急東向日駅付近だったのが、イオンモール桂川辺りまでが北限ということだ。それにしても、桓武天皇が遷都した平安京とほぼ同規模の都市をわずか10年で放棄し、新政権の維持にこだわったその気概は見事である。弟の早良親王を粛清したことで祟りを恐れた桓武天皇は遷都を決意し、長岡京ではあえて寺院を造営しなかったが、平安京では朱雀大路の東西に寺院を設置した。しかし、平城京で権力と癒着した輸入仏教を排除し、朝廷の官寺として建立された東寺は、後の嵯峨天皇が国産仏教のスーパースターである空海を招くこととなった。これもまた、桓武天皇という辣腕の政治家による周到な布石であったのだろう。
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