総裁選要求議員の氏名公表 ― 2025年08月30日
自民党総裁選挙管理委員会が打ち出したのは、総裁選前倒しを求めた議員の“実名公表”である。これまで「空気」で動いてきた自民党にとって、これは異例中の異例だ。誰が声を上げ、誰が沈黙したのか――そのリストが白日の下にさらされることになる。当然ながら「執行部の嫌がらせだ」との批判は根強い。名前を出すことは、将来の人事や公認に影響しかねない。要するに「反旗を翻せば干されるぞ」という無言の圧力である。しかし皮肉なことに、その“晒し”が結果的に透明化をもたらし、説明責任を突きつける構造を生む。嫌がらせのつもりが、思わぬ副産物を生んでしまった。まさに“瓢箪から駒”だ。そもそも自民党には、都合が悪くなれば沈黙し、裏で帳尻を合わせる“伝統芸”がある。今回も例外ではない。参院選の敗北という明確な事実が突きつけられたにもかかわらず、執行部は総裁選の前倒しを即断せず、「総括委員会」という形式的な儀式を挟んで時間稼ぎを図った。しかもその委員会に旧安倍派の議員は一人も含まれていない。これでは総括ではなく、自己弁護の場にすぎない。
さらに注目すべきは、波紋が地方にも広がったことだ。都道府県連に対しても「賛否を文書で出し、代表者名を公表せよ」と求められている。これが厳密に制度設計されたものかは疑わしい。しかし実際には、地方組織も“沈黙”を許されず、態度を明らかにする責任を負わされる。多くの県連は「党本部の指示待ち」として様子見を決め込むが、それこそ中央依存体質の証拠であり、説明責任の欠如を映し出している。地方には地方の事情がある。県連には地元の県議・市議がいて、彼らの意見も反映しなければならない。通知から提出までわずか1週間となれば、協議は大慌てになる。だが、それでも沈黙は許されない。意思表明を迫られた地方組織がどんな判断を下すのかは、党の民主主義の“体温計”として注目される。
議員たちの心理も複雑だ。名前を出せば執行部から睨まれる可能性がある。しかし沈黙を決め込めば、次の選挙で有権者から「逃げた」と見なされる。つまり、どちらを選んでもリスクを伴う「踏み絵」なのだ。自民党に長く根付いてきた「波風を立てないのが処世術」という文化は、もはや安全策ではなくなっている。この名簿公開を単なる締め付けと見るか、それとも党内民主主義の呼び水と評価するか。いずれにせよ、名簿に刻まれた名前は消えない。沈黙した議員や支部は、その沈黙ごと記録に残り、有権者の判断材料となる。誰が現状維持に加担し、誰が変化を求めたのか――その痕跡が選挙に直結するのだ。
自民党の長年の“非公開文化”に、今回の動きは小さな風穴を開けた。総裁選前倒しの是非をめぐる攻防は、単なる政局ではない。党の意思決定をいかに透明にするかという根本的な問題を突きつけている。沈黙で逃げ切る時代は終わりつつある。言葉と行動で責任を示す文化が、自民党に芽生えるのかどうか。その試練の時が来ている。
さらに注目すべきは、波紋が地方にも広がったことだ。都道府県連に対しても「賛否を文書で出し、代表者名を公表せよ」と求められている。これが厳密に制度設計されたものかは疑わしい。しかし実際には、地方組織も“沈黙”を許されず、態度を明らかにする責任を負わされる。多くの県連は「党本部の指示待ち」として様子見を決め込むが、それこそ中央依存体質の証拠であり、説明責任の欠如を映し出している。地方には地方の事情がある。県連には地元の県議・市議がいて、彼らの意見も反映しなければならない。通知から提出までわずか1週間となれば、協議は大慌てになる。だが、それでも沈黙は許されない。意思表明を迫られた地方組織がどんな判断を下すのかは、党の民主主義の“体温計”として注目される。
議員たちの心理も複雑だ。名前を出せば執行部から睨まれる可能性がある。しかし沈黙を決め込めば、次の選挙で有権者から「逃げた」と見なされる。つまり、どちらを選んでもリスクを伴う「踏み絵」なのだ。自民党に長く根付いてきた「波風を立てないのが処世術」という文化は、もはや安全策ではなくなっている。この名簿公開を単なる締め付けと見るか、それとも党内民主主義の呼び水と評価するか。いずれにせよ、名簿に刻まれた名前は消えない。沈黙した議員や支部は、その沈黙ごと記録に残り、有権者の判断材料となる。誰が現状維持に加担し、誰が変化を求めたのか――その痕跡が選挙に直結するのだ。
自民党の長年の“非公開文化”に、今回の動きは小さな風穴を開けた。総裁選前倒しの是非をめぐる攻防は、単なる政局ではない。党の意思決定をいかに透明にするかという根本的な問題を突きつけている。沈黙で逃げ切る時代は終わりつつある。言葉と行動で責任を示す文化が、自民党に芽生えるのかどうか。その試練の時が来ている。