映画ナイトフラワー ― 2026年03月28日
森田望智が最優秀助演女優賞を受賞したという報に触れ、「そこまで言うなら本当にすごいのだろう」と期待して『ナイトフラワー』を観た。だが、鑑賞後に残ったのは彼女の演技への圧倒的な称賛と、それを丸ごと食い潰した脚本への深い失望である。森田の演技は、作品を救うどころか、むしろ脚本の粗さを白日の下にさらしてしまった。多摩恵という人物の孤独、痛み、そして他者を守ろうとする衝動──森田はそれらを精密な身体性で描き切る。しかし、その存在感の強さが、作品全体の構造的な弱さを逆照射する結果になっている。俳優の熱演が作品を引き上げるのではなく、脚本の貧弱さを容赦なく暴き出す。これはもう、作品としての敗北宣言に等しい。これが優秀監督賞や脚本賞を獲得しているのだから余計に情けない。
そもそも物語の“出発点”が致命的にズレている。本作は「母子家庭の貧困」を物語の発火点に据えているが、その描写は現代の福祉制度を完全に無視した、昭和のメロドラマの焼き直しだ。借金取り立てのハガキがテーブルに溢れ、ガスが止まりゴミ置き場に廃棄された餃子弁当を家族で食べる。役所の窓口で困窮を訴えても門前払いという時代錯誤。生活保護、就学援助、各種減免制度、債務整理──これだけ制度が整っている時代に、困窮が即犯罪に転落するなど、現実を知らない人間の発想である。今日の福祉制度を把握しない“昭和の貧困ごっこ”は、リアリティどころか、鑑賞の邪魔にしかならない。
物語を動かすべきなのは、単なる貧困ではなく“選択肢を奪う圧力”だ。例えば、夏希が薬物依存症を抱えている、あるいは娘のバイオリン継続のために切迫した資金需要を背負っている──そうした設定があれば、格闘家・多摩恵との出会いは偶然ではなく必然として成立する。しかし本作は、その動機付けを怠ったまま物語を強行突破してしまった。結果、夏希の行動はリアリティーのない脚本に押し流されているようにしか見えず、多摩恵との関係も“偶然の連鎖”にとどまる。人物同士の結びつきがドラマの推進力にならず、森田の演技だけが孤立してしまう。
象徴性の扱いも甘い。タイトル「ナイトフラワー」が依拠する“夜に咲く花”という「奇跡」のイメージは、物語のリアリティの弱さと相まって説得力を欠く。月下美人の花は普通に昼に咲くことは花を知る人なら常識なので余計に奇跡性はぼやける。むしろ劇中で繰り返し流れるバイオリン曲《ラ・フォリア(祈り)》の方が、「祈り」と「再生」という主題を遥かに的確に体現している。作品の象徴軸がタイトルではなく音楽の側にあるという時点で、タイトルの負けである。
総じて『ナイトフラワー』は、俳優の力量とシーン単体の凄惨さだけが突出し、物語の基盤が決定的に欠落した作品だ。描かれる現実は重い。しかし、その重さを支える脚本の必然性がない。出来事は重いのに物語は軽い──この致命的な乖離こそ、本作の本質である。森田望智の演技は間違いなく輝いている。だが、その輝きを受け止める器を用意できなかった時点で、この作品は俳優の力に完敗している。
そもそも物語の“出発点”が致命的にズレている。本作は「母子家庭の貧困」を物語の発火点に据えているが、その描写は現代の福祉制度を完全に無視した、昭和のメロドラマの焼き直しだ。借金取り立てのハガキがテーブルに溢れ、ガスが止まりゴミ置き場に廃棄された餃子弁当を家族で食べる。役所の窓口で困窮を訴えても門前払いという時代錯誤。生活保護、就学援助、各種減免制度、債務整理──これだけ制度が整っている時代に、困窮が即犯罪に転落するなど、現実を知らない人間の発想である。今日の福祉制度を把握しない“昭和の貧困ごっこ”は、リアリティどころか、鑑賞の邪魔にしかならない。
物語を動かすべきなのは、単なる貧困ではなく“選択肢を奪う圧力”だ。例えば、夏希が薬物依存症を抱えている、あるいは娘のバイオリン継続のために切迫した資金需要を背負っている──そうした設定があれば、格闘家・多摩恵との出会いは偶然ではなく必然として成立する。しかし本作は、その動機付けを怠ったまま物語を強行突破してしまった。結果、夏希の行動はリアリティーのない脚本に押し流されているようにしか見えず、多摩恵との関係も“偶然の連鎖”にとどまる。人物同士の結びつきがドラマの推進力にならず、森田の演技だけが孤立してしまう。
象徴性の扱いも甘い。タイトル「ナイトフラワー」が依拠する“夜に咲く花”という「奇跡」のイメージは、物語のリアリティの弱さと相まって説得力を欠く。月下美人の花は普通に昼に咲くことは花を知る人なら常識なので余計に奇跡性はぼやける。むしろ劇中で繰り返し流れるバイオリン曲《ラ・フォリア(祈り)》の方が、「祈り」と「再生」という主題を遥かに的確に体現している。作品の象徴軸がタイトルではなく音楽の側にあるという時点で、タイトルの負けである。
総じて『ナイトフラワー』は、俳優の力量とシーン単体の凄惨さだけが突出し、物語の基盤が決定的に欠落した作品だ。描かれる現実は重い。しかし、その重さを支える脚本の必然性がない。出来事は重いのに物語は軽い──この致命的な乖離こそ、本作の本質である。森田望智の演技は間違いなく輝いている。だが、その輝きを受け止める器を用意できなかった時点で、この作品は俳優の力に完敗している。
ゴールデンカムイ網走襲撃編 ― 2026年03月20日
前作で感じた“日本映画にしては珍しく、アクションに真正面から向き合っている手応え”とアイヌ文化に深く触れたやり取りが忘れられず、今回も自然と期待が高まっていた。けれど、観終わってみると、その期待をもう一段上に連れていってくれる作品ではなかった、というのが正直なところだ。クライマックス、樺太へ向かう船に乗り込む場面で、「ああ、ここで終わるのか」とふと気づく。その瞬間、物語の余韻よりも先に、「山崎賢人、キングダム続編との掛け持ちはさすがに忙しすぎないか」という妙に現実的な感想が頭をよぎってしまった。次へ続く、という構造そのものに、水を差されたような感覚だった。
もちろん、本作が扱っているのは物語のど真ん中だ。原作18〜20巻にあたるこのパートでは、アシㇼパの記憶、のっぺら坊の正体、そして杉元・土方・鶴見という三つの勢力が正面からぶつかり合う。シリーズでも屈指の山場であり、ここを第2作に持ってきた判断は、よく考えられていると思う。実際、網走監獄という舞台は、物語としてもきれいな折り返し地点になっている。これまで積み重ねてきた謎が一気にほどけ、アシㇼパが“鍵”を取り戻すことで、各陣営の関係も組み替えられる。ここを越えた時点で、物語は明確に「終わりへ向かう段階」に入った、そんな感触がある。
ただ、その“うまさ”は、そのまま日本映画の事情も透けて見せてしまう。シリーズを長く続ければ続けるほど、コストも、スケジュールも、観客の熱も維持するのが難しくなる。山崎賢人が『キングダム』と並行していることを思えば、なおさらだ。もちろん、最初から三部作と決まっているわけではない。それでも、ここまでの流れを見ていると、結果的にそのくらいの規模に収まっていくのが一番自然なのだろう、と感じる。無理なく終わらせるには、それくらいがちょうどいい。
背景には、日本の映像産業の癖のようなものもある。人気漫画がアニメ化され、さらに実写へと展開される流れは、いまや半ば定型だ。リスクを抑える製作委員会方式の中で、成功しそうな題材と、すでに名前の通った俳優が組み合わされる。その結果として似た構造の作品が並ぶのも、ある意味では当然なのかもしれない。そう考えると、本作の立ち位置ははっきりしてくる。シリーズ前半の山場であり、同時にラストへ向けた助走でもある。次はおそらく、五稜郭での決戦へと向かうのだろう。
ただ、だからこそ少し物足りなさも残る。全体の流れとしては納得できるのに、一本の映画として観たときに、もう一段跳ねる瞬間がなかった。前作で感じた“知らない世界に触れる面白さ”や、“こんな見せ方をするのか”という驚きが、やや薄れていた気がする。
結局のところ、次でどう締めるかにすべてがかかっている。きれいに終わるだけでは足りない。その先に、ちゃんと「観てよかった」と思わせる何かがあるかどうか。とはいえ、その行方を見届けるつもりであることに変わりはない。むしろその前に、同じ山崎賢人が主演する『キングダム』の新作が、この“似た構造”をどう乗り越えてくるのか、そちらも楽しみにしている。
もちろん、本作が扱っているのは物語のど真ん中だ。原作18〜20巻にあたるこのパートでは、アシㇼパの記憶、のっぺら坊の正体、そして杉元・土方・鶴見という三つの勢力が正面からぶつかり合う。シリーズでも屈指の山場であり、ここを第2作に持ってきた判断は、よく考えられていると思う。実際、網走監獄という舞台は、物語としてもきれいな折り返し地点になっている。これまで積み重ねてきた謎が一気にほどけ、アシㇼパが“鍵”を取り戻すことで、各陣営の関係も組み替えられる。ここを越えた時点で、物語は明確に「終わりへ向かう段階」に入った、そんな感触がある。
ただ、その“うまさ”は、そのまま日本映画の事情も透けて見せてしまう。シリーズを長く続ければ続けるほど、コストも、スケジュールも、観客の熱も維持するのが難しくなる。山崎賢人が『キングダム』と並行していることを思えば、なおさらだ。もちろん、最初から三部作と決まっているわけではない。それでも、ここまでの流れを見ていると、結果的にそのくらいの規模に収まっていくのが一番自然なのだろう、と感じる。無理なく終わらせるには、それくらいがちょうどいい。
背景には、日本の映像産業の癖のようなものもある。人気漫画がアニメ化され、さらに実写へと展開される流れは、いまや半ば定型だ。リスクを抑える製作委員会方式の中で、成功しそうな題材と、すでに名前の通った俳優が組み合わされる。その結果として似た構造の作品が並ぶのも、ある意味では当然なのかもしれない。そう考えると、本作の立ち位置ははっきりしてくる。シリーズ前半の山場であり、同時にラストへ向けた助走でもある。次はおそらく、五稜郭での決戦へと向かうのだろう。
ただ、だからこそ少し物足りなさも残る。全体の流れとしては納得できるのに、一本の映画として観たときに、もう一段跳ねる瞬間がなかった。前作で感じた“知らない世界に触れる面白さ”や、“こんな見せ方をするのか”という驚きが、やや薄れていた気がする。
結局のところ、次でどう締めるかにすべてがかかっている。きれいに終わるだけでは足りない。その先に、ちゃんと「観てよかった」と思わせる何かがあるかどうか。とはいえ、その行方を見届けるつもりであることに変わりはない。むしろその前に、同じ山崎賢人が主演する『キングダム』の新作が、この“似た構造”をどう乗り越えてくるのか、そちらも楽しみにしている。
映画『レンタル・ファミリー』 ― 2026年03月14日
現代社会において「嘘」は、しばしば忌むべき背信として断罪される。しかし、HIKARI監督の映画『レンタル・ファミリー』は、その偽りの奥底に、人が生き抜くための切実な祈りと、他者へ向けた静かな慈しみが宿ることを描き出した。脚本、音楽、映像が有機的に結びついた本作は、「嘘も方便」という感覚をどこかで受け入れてきた日本社会と、不誠実を原則として許さない欧米的倫理との価値観の差異を、物語の背景に浮かび上がらせている。
物語の軸となるのは、ブレンダン・フレイザー演じる主人公が、少女・美亜に対して「父親」という役割を演じることから始まる関係だ。依頼の理由は、母子家庭であることが名門私学の受験に不利になるかもしれないという母親の不安だった。美亜は当初、自分を捨てた父への怒りを主人公にぶつける。しかし疑似的な交流を重ねるうちに、彼女は次第に心を開き、やがて実の母以上に彼へ信頼を寄せるようになっていく。HIKARIとスティーブン・ブラハットによる脚本は、この関係を単なる欺瞞としてではなく、孤独な魂同士が触れ合うための不器用な接点として丁寧に描き出していく。
中盤には、認知症が進む元名俳優の老人をめぐるエピソードが挿入される。一見するとドタバタ劇のような展開だが、ここには物語の重心を静かに動かす転換点がある。世間から忘れ去られた老人の誇りを守るため、主人公は「取材記者」を装う。しかし老人に亡き父の面影を重ねてしまった彼は、公私混同から契約違反の騒動を引き起こす。この失敗を契機に、主人公は「レンタルされた役割」という安全な仮面の外へと押し出され、自らの空虚と向き合うことになる。
本作を象徴するのは、都会の集合住宅を静かに見下ろす俯瞰ショットだ。窓越しに映し出されるのは、乳児をあやす親、夢を語り合う若者、テレビの光に照らされた独居老人といった都市の生活の断片である。カメラはそれらを評価も否定もせず、ただ静かに見つめ続ける。そこに重なるのが、ヨンシーとアレックス・ソマーズによる浮遊感に満ちたアンビエント音楽だ。シガー・ロスを思わせる繊細な音響は、現実と虚構の境界を曖昧にし、この物語の「嘘」を単なる偽りではなく、人が他者へ手を差し伸べるための儚い手段として響かせていく。
物語の終盤、橋の上で主人公と美亜は向き合う。美亜の「どうして大人は嘘をつくの?」という問いに対し、主人公は「Because it's easier. To avoid the hassle.」と答える。面倒だからだというこの率直な言葉は、道徳的な正論よりもむしろ人間の弱さをそのまま示している。その言葉を受け止めた美亜は、「あなたの名前は?」と尋ねる。主人公は初めて本名を名乗る。そして彼の名を聞いたあと、美亜もまた静かに「私は美亜」と自分の名を名乗り直す。それは、「レンタルされた父」と「依頼者の娘」という役割の関係を一度手放し、互いに固有の名前を持つ個人として出会い直すための小さな儀式だった。
都会の孤独を俯瞰する視線から、橋の上で交わされる名前の交換へ。本作が示しているのは、虚構の中でしか触れられない真実があるということだ。偽りの関係であっても、そこに差し出された思いやりはやがて本物へと変わりうる。エンドロールとともに流れるヨンシーの歌声の余韻の中で、その静かな確信だけが胸に残る。久しぶりに、映画という芸術の力を思い出させてくれる一本だった。
物語の軸となるのは、ブレンダン・フレイザー演じる主人公が、少女・美亜に対して「父親」という役割を演じることから始まる関係だ。依頼の理由は、母子家庭であることが名門私学の受験に不利になるかもしれないという母親の不安だった。美亜は当初、自分を捨てた父への怒りを主人公にぶつける。しかし疑似的な交流を重ねるうちに、彼女は次第に心を開き、やがて実の母以上に彼へ信頼を寄せるようになっていく。HIKARIとスティーブン・ブラハットによる脚本は、この関係を単なる欺瞞としてではなく、孤独な魂同士が触れ合うための不器用な接点として丁寧に描き出していく。
中盤には、認知症が進む元名俳優の老人をめぐるエピソードが挿入される。一見するとドタバタ劇のような展開だが、ここには物語の重心を静かに動かす転換点がある。世間から忘れ去られた老人の誇りを守るため、主人公は「取材記者」を装う。しかし老人に亡き父の面影を重ねてしまった彼は、公私混同から契約違反の騒動を引き起こす。この失敗を契機に、主人公は「レンタルされた役割」という安全な仮面の外へと押し出され、自らの空虚と向き合うことになる。
本作を象徴するのは、都会の集合住宅を静かに見下ろす俯瞰ショットだ。窓越しに映し出されるのは、乳児をあやす親、夢を語り合う若者、テレビの光に照らされた独居老人といった都市の生活の断片である。カメラはそれらを評価も否定もせず、ただ静かに見つめ続ける。そこに重なるのが、ヨンシーとアレックス・ソマーズによる浮遊感に満ちたアンビエント音楽だ。シガー・ロスを思わせる繊細な音響は、現実と虚構の境界を曖昧にし、この物語の「嘘」を単なる偽りではなく、人が他者へ手を差し伸べるための儚い手段として響かせていく。
物語の終盤、橋の上で主人公と美亜は向き合う。美亜の「どうして大人は嘘をつくの?」という問いに対し、主人公は「Because it's easier. To avoid the hassle.」と答える。面倒だからだというこの率直な言葉は、道徳的な正論よりもむしろ人間の弱さをそのまま示している。その言葉を受け止めた美亜は、「あなたの名前は?」と尋ねる。主人公は初めて本名を名乗る。そして彼の名を聞いたあと、美亜もまた静かに「私は美亜」と自分の名を名乗り直す。それは、「レンタルされた父」と「依頼者の娘」という役割の関係を一度手放し、互いに固有の名前を持つ個人として出会い直すための小さな儀式だった。
都会の孤独を俯瞰する視線から、橋の上で交わされる名前の交換へ。本作が示しているのは、虚構の中でしか触れられない真実があるということだ。偽りの関係であっても、そこに差し出された思いやりはやがて本物へと変わりうる。エンドロールとともに流れるヨンシーの歌声の余韻の中で、その静かな確信だけが胸に残る。久しぶりに、映画という芸術の力を思い出させてくれる一本だった。
ワーナー買収合戦 ― 2026年02月25日
ワーナーをめぐる買収合戦は、ストリーミングが「青春期」から「大人の時代」へ移ったことを告げる騒ぎである。青春期は拡大と夢の時代だった。どの会社も利用者を増やすために金を投じ、花火のようにサービスを打ち上げた。だが花火は続かない。夜が明ければ残るのは灰で、視聴者は財布に優しい契約だけを選ぶ。サービスは増えすぎ、利用者は複数契約をやめ、広告も伸びにくい。結果として投資は回収できず、業界は再編に向かう。
ワーナーもParamountも強い作品を持つ。DCヒーロー、Harry Potter、HBOのドラマ、CBSの安定感――宝の山に見える。しかし家計簿を開けば負債が積み上がり、テレビ部門は縮小傾向にある。昔は金のなる木だったテレビは、今や手入れの難しい庭木だ。切れば現金は得られるが庭は寂しくなる。売りたくても買い手が少なく、身動きが取れない。合併しても問題が一緒になるだけなら、魅力が増す保証はない。
対照的なのがNetflixである。ここは作品そのものを主役に置く珍しい企業だ。世界190カ国の視聴データを解析し、当たるか外れるか分からない企画を大量に走らせる。失敗は前提、成功は宝。だから挑戦的な作品も生まれる。ワーナーを取り込めばHBOの重厚さとNetflixのデータ力が混ざり、世界向けの新スタジオが誕生する可能性はある。ただしテレビ部門の処遇という長い宿題が残る。短期維持、中期切り出し、長期縮小――料理でいえば下ごしらえから時間がかかる。
この舞台の外側にいるのがAmazonだ。買収戦争に加わらないのは弱いからではなく、配信を本業にしていないからである。Prime Videoの目的は作品で覇権を取ることではなく、Prime会員を囲い込みEC売上を増やすことにある。さらに多くの配信会社がAWSというインフラを使うため、競争が激しくなるほどAmazonは裏方でサーバー利用の利益を得る。戦場の外側から稼ぐ静かな勝者と言える。
しかし静かな勝者にも課題はある。Prime Videoの作品はアルゴリズムに基づいた安全志向になりがちで、尖った魅力が薄いと指摘される。多角経営ゆえにリスクを取る必然がなく、無難な企画が増えるからだ。配信市場では勝者でも、物語の世界では挑戦者とは限らない。作品に命を懸けなくても利益が出る構造が、結果として作品の面白さを制約する。
結局のところ、今回の買収競争はストリーミングが次の段階に進むための通過点である。規模を取るのか、作品を取るのか。安定を取るのか、挑戦を取るのか。ワーナーとパラマウントの統合は延命色が強く、未来の再設計とは限らない。Netflix型の統合は作品とデータを軸に再編する可能性を秘めるが簡単ではない。Amazonは外側から利益を得るが、物語の中心にはいない。
スクリーンの未来は数字だけで決まらない。視聴者が何を見たいのか、どんな物語に心を動かされるのか。その問いに答えられる企業だけが、次の時代の勝者になる。買収合戦はその序章にすぎない。配信中にCMが流れたり課金を促されるAmazonは最近鬱陶しくて観なくなった。ストリーミング漬けの爺さんにとっては面白くてリーズナブルの一択だ。
ワーナーもParamountも強い作品を持つ。DCヒーロー、Harry Potter、HBOのドラマ、CBSの安定感――宝の山に見える。しかし家計簿を開けば負債が積み上がり、テレビ部門は縮小傾向にある。昔は金のなる木だったテレビは、今や手入れの難しい庭木だ。切れば現金は得られるが庭は寂しくなる。売りたくても買い手が少なく、身動きが取れない。合併しても問題が一緒になるだけなら、魅力が増す保証はない。
対照的なのがNetflixである。ここは作品そのものを主役に置く珍しい企業だ。世界190カ国の視聴データを解析し、当たるか外れるか分からない企画を大量に走らせる。失敗は前提、成功は宝。だから挑戦的な作品も生まれる。ワーナーを取り込めばHBOの重厚さとNetflixのデータ力が混ざり、世界向けの新スタジオが誕生する可能性はある。ただしテレビ部門の処遇という長い宿題が残る。短期維持、中期切り出し、長期縮小――料理でいえば下ごしらえから時間がかかる。
この舞台の外側にいるのがAmazonだ。買収戦争に加わらないのは弱いからではなく、配信を本業にしていないからである。Prime Videoの目的は作品で覇権を取ることではなく、Prime会員を囲い込みEC売上を増やすことにある。さらに多くの配信会社がAWSというインフラを使うため、競争が激しくなるほどAmazonは裏方でサーバー利用の利益を得る。戦場の外側から稼ぐ静かな勝者と言える。
しかし静かな勝者にも課題はある。Prime Videoの作品はアルゴリズムに基づいた安全志向になりがちで、尖った魅力が薄いと指摘される。多角経営ゆえにリスクを取る必然がなく、無難な企画が増えるからだ。配信市場では勝者でも、物語の世界では挑戦者とは限らない。作品に命を懸けなくても利益が出る構造が、結果として作品の面白さを制約する。
結局のところ、今回の買収競争はストリーミングが次の段階に進むための通過点である。規模を取るのか、作品を取るのか。安定を取るのか、挑戦を取るのか。ワーナーとパラマウントの統合は延命色が強く、未来の再設計とは限らない。Netflix型の統合は作品とデータを軸に再編する可能性を秘めるが簡単ではない。Amazonは外側から利益を得るが、物語の中心にはいない。
スクリーンの未来は数字だけで決まらない。視聴者が何を見たいのか、どんな物語に心を動かされるのか。その問いに答えられる企業だけが、次の時代の勝者になる。買収合戦はその序章にすぎない。配信中にCMが流れたり課金を促されるAmazonは最近鬱陶しくて観なくなった。ストリーミング漬けの爺さんにとっては面白くてリーズナブルの一択だ。
映画『クライム101』 ― 2026年02月21日
映画『クライム101』を観た。筋もキャストも確かめず、「アクション」というラベルだけで選んだのは軽率だった。改めて思い知らされる。映画の背骨は脚本だ、と。ドン・ウィンズロウの原作『Crime 101』は、わずか53ページの中編でありながら、犯罪小説の美学を研ぎ澄ませた一作だ。舞台はカリフォルニアの101号線。そこにあるのは、プロの宝石泥棒と執念深い刑事による、禁欲的な知恵比べのみ。派手な銃撃も、巨大組織の陰謀も、仰々しいどんでん返しもない。犯人は完璧に痕跡を消し、刑事は真相に迫りながら決定打を掴めない。二人は最後まで交わらず、物語は静かに閉じる。その「静けさ」こそが緊張の源泉だった。何も起きない時間の積層が、読者の鼓動を締め上げる。原作の核心は、まさにそこにあった。
だが映画版は、その静寂をほとんど置き去りにする。配信市場を意識した「世界標準のアクション」へと舵を切り、原作の輪郭は次第に霧散していく。原作に存在しない宝石店強奪や犯罪シンジケートの設定が挿入され、銃撃戦と乱入劇が加速する。だが、それらは緊張を増幅させるどころか、物語の焦点を散らすノイズに近い。原作が保っていた一本の細い糸のような緊迫感は、空虚な銃声の反響にかき消される。
脚本の弱点は、スター俳優の見せ場を優先するあまり、人物造形が道具化している点にも表れている。オリジナルで共犯者として描かれる保険ブローカーのシャロンは、映画では保険会社の女性社員へと改変され、セクハラまがいの扱いに憤り、巨額犯罪に関与し、暴力を受け、良心に目覚め、刑事に告白する。展開は滑らかだが、あまりに滑らかすぎる。人物の内的必然ではなく、物語の都合が彼女を押し流しているからだ。原作にない物語を付け加えるのであれば、物語の核心に食い込ませるべきだった。原作では、彼女は共犯者でありながら「巻き込まれたに過ぎない」存在として処理される。映画では、原作に存在しないヒロインが別に登場し、フィナーレで大団円を迎える構造になっている。
主演のマーク・アラン・ラファロとクリス・ヘムズワースはさすがの存在感を放つ。画面に立てば空気は引き締まる。しかし演技を支えるはずの骨格が弱い。脚本が原作の呼吸を理解しないまま安全圏へ退避したことで、彼らの熱量は行き場を失う。演出や編集もスピードと刺激を優先し、静寂の“間”を恐れているように見える。本来、この物語が試されるべきだったのは、沈黙をどこまで映像化できるかという一点だったはずだ。
静かな犯罪劇を、そのままの静けさで映画にする勇気はなかったのか。静寂は、いまの観客には耐えられないものなのだろうか。それとも、制作者側が勝手に先回りして恐れているだけなのか。そう考えると、私自身もアクションを期待して作品を選んだ時点で、Amazonの術中にはまっていたのだろう。しかし、もしアクション映画として売りたいのなら、最初から別の題材を選ぶべきだった。原作の美学を理解しないまま派手さを上塗りした結果、作品は静けさも躍動も失い、ただの凡作へと沈んでしまった。
本作は原作の美学を翻訳するのではなく、上書きした。その結果生まれたのは、決して破綻はしていないが、心に深い傷も残さない一本である。スクリーンの外、カリフォルニアの霧の中に、あの冷たい余韻だけが取り残されている。
だが映画版は、その静寂をほとんど置き去りにする。配信市場を意識した「世界標準のアクション」へと舵を切り、原作の輪郭は次第に霧散していく。原作に存在しない宝石店強奪や犯罪シンジケートの設定が挿入され、銃撃戦と乱入劇が加速する。だが、それらは緊張を増幅させるどころか、物語の焦点を散らすノイズに近い。原作が保っていた一本の細い糸のような緊迫感は、空虚な銃声の反響にかき消される。
脚本の弱点は、スター俳優の見せ場を優先するあまり、人物造形が道具化している点にも表れている。オリジナルで共犯者として描かれる保険ブローカーのシャロンは、映画では保険会社の女性社員へと改変され、セクハラまがいの扱いに憤り、巨額犯罪に関与し、暴力を受け、良心に目覚め、刑事に告白する。展開は滑らかだが、あまりに滑らかすぎる。人物の内的必然ではなく、物語の都合が彼女を押し流しているからだ。原作にない物語を付け加えるのであれば、物語の核心に食い込ませるべきだった。原作では、彼女は共犯者でありながら「巻き込まれたに過ぎない」存在として処理される。映画では、原作に存在しないヒロインが別に登場し、フィナーレで大団円を迎える構造になっている。
主演のマーク・アラン・ラファロとクリス・ヘムズワースはさすがの存在感を放つ。画面に立てば空気は引き締まる。しかし演技を支えるはずの骨格が弱い。脚本が原作の呼吸を理解しないまま安全圏へ退避したことで、彼らの熱量は行き場を失う。演出や編集もスピードと刺激を優先し、静寂の“間”を恐れているように見える。本来、この物語が試されるべきだったのは、沈黙をどこまで映像化できるかという一点だったはずだ。
静かな犯罪劇を、そのままの静けさで映画にする勇気はなかったのか。静寂は、いまの観客には耐えられないものなのだろうか。それとも、制作者側が勝手に先回りして恐れているだけなのか。そう考えると、私自身もアクションを期待して作品を選んだ時点で、Amazonの術中にはまっていたのだろう。しかし、もしアクション映画として売りたいのなら、最初から別の題材を選ぶべきだった。原作の美学を理解しないまま派手さを上塗りした結果、作品は静けさも躍動も失い、ただの凡作へと沈んでしまった。
本作は原作の美学を翻訳するのではなく、上書きした。その結果生まれたのは、決して破綻はしていないが、心に深い傷も残さない一本である。スクリーンの外、カリフォルニアの霧の中に、あの冷たい余韻だけが取り残されている。
ようやく観た 映画『国宝』 ― 2026年01月16日
近頃めっきり「観たい映画」が見当たらず、ロングラン上映が続く『国宝』をようやく選んだ。3時間近い上映時間の長さに、正直なところ生理現象を気にして二の足を踏んでいたが、覚悟を決めて劇場へ足を運んだ。結論から言えば、本作がなぜこれほどの社会現象となったのか、その理由がしっかり腑に落ちる体験となった。『国宝』は、吉田修一が歌舞伎の裏方として得た経験をもとに描いた原作を、李相日監督が50年にわたる一代記として映画化した作品だ。公開後、邦画実写のひとつの到達点と言われるほど記録を更新し続けている。伝統芸能という、ともすれば敷居の高いテーマを扱いながら、これほど広い層の観客を惹きつけた例は極めて稀だろう。
本作の成功を支えた大きな要因は、映画音楽と古典音曲の絶妙なバランスにある。原摩利彦による劇伴は、歌舞伎特有の「間」を大切にしながら、ストリングスの柔らかな響きで観客の感情をそっと導いてくれる。もし音楽が純粋な歌舞伎音曲だけで構成されていたなら、作品はよりストイックで、どこか近寄りがたいものになっていたはずだ。音楽が一種の「通訳」として機能したことで、歌舞伎に馴染みのない観客にも、登場人物たちの心の揺れがまっすぐ届いている。
一方で、映画の構造にははっきりとした光と影がある。舞台シーンの完成度は圧倒的だ。役者の所作、音楽、張り詰めた緊張感が一体となり、観る者の集中力を一気に引き上げる。しかしその反動で、舞台外の日常描写(ヤクザのカチコミや観客に絡まれる場面など)は、相対的に少し間延びして感じられた。長い原作を175分に凝縮した結果、どうしても説明的なエピソードが増え、映画としての勢いが削がれてしまう箇所があるのは否めない。舞台表現が突出しているからこそ、それ以外の場面の平板さが目立ってしまう構造なのだ。
役者の「言葉」も、没入感を左右する興味深い要素だった。主演の吉沢亮の関西弁は、相当な訓練を感じさせる自然さで、物語の世界にうまく溶け込んでいる。一方で、渡辺謙や横浜流星の台詞にふと標準語のアクセントが混じると、関西出身の人間としては少し引っかかりを覚えてしまう。さらに、春江役の高畑充希は、自身が関西ネイティブであるゆえの流暢さが、かえって劇中のバランスを揺らしているようにも見えた。長崎から来た喜久雄が時間をかけて関西に染まっていくのに対し、成人してから関西へ来たはずの春江が最初から完璧な関西弁を話す様は、役柄の背景よりも演者本人の素顔を連想させてしまうからだ。
劇中劇として挿入される『曽根崎心中』は、物語を象徴する見事な装置だ。春江が俊介と共に舞台を去る選択は、古典の悲劇をなぞると同時に、喜久雄を芸の道で大成させるための、彼女なりの献身とも受け取れる。こうした多義的な解釈を観客に委ねる余白がある点に、この作品の懐の深さを感じた。
総じて『国宝』は、伝統芸能の映画化という難題を、音楽・演技・構成の力で乗り越えた意欲作といえる。細かな課題はあるものの、その音楽的な美しさと解釈の奥行きこそが、歴史的なヒットを支えた最大の理由なのだろう。
本作の成功を支えた大きな要因は、映画音楽と古典音曲の絶妙なバランスにある。原摩利彦による劇伴は、歌舞伎特有の「間」を大切にしながら、ストリングスの柔らかな響きで観客の感情をそっと導いてくれる。もし音楽が純粋な歌舞伎音曲だけで構成されていたなら、作品はよりストイックで、どこか近寄りがたいものになっていたはずだ。音楽が一種の「通訳」として機能したことで、歌舞伎に馴染みのない観客にも、登場人物たちの心の揺れがまっすぐ届いている。
一方で、映画の構造にははっきりとした光と影がある。舞台シーンの完成度は圧倒的だ。役者の所作、音楽、張り詰めた緊張感が一体となり、観る者の集中力を一気に引き上げる。しかしその反動で、舞台外の日常描写(ヤクザのカチコミや観客に絡まれる場面など)は、相対的に少し間延びして感じられた。長い原作を175分に凝縮した結果、どうしても説明的なエピソードが増え、映画としての勢いが削がれてしまう箇所があるのは否めない。舞台表現が突出しているからこそ、それ以外の場面の平板さが目立ってしまう構造なのだ。
役者の「言葉」も、没入感を左右する興味深い要素だった。主演の吉沢亮の関西弁は、相当な訓練を感じさせる自然さで、物語の世界にうまく溶け込んでいる。一方で、渡辺謙や横浜流星の台詞にふと標準語のアクセントが混じると、関西出身の人間としては少し引っかかりを覚えてしまう。さらに、春江役の高畑充希は、自身が関西ネイティブであるゆえの流暢さが、かえって劇中のバランスを揺らしているようにも見えた。長崎から来た喜久雄が時間をかけて関西に染まっていくのに対し、成人してから関西へ来たはずの春江が最初から完璧な関西弁を話す様は、役柄の背景よりも演者本人の素顔を連想させてしまうからだ。
劇中劇として挿入される『曽根崎心中』は、物語を象徴する見事な装置だ。春江が俊介と共に舞台を去る選択は、古典の悲劇をなぞると同時に、喜久雄を芸の道で大成させるための、彼女なりの献身とも受け取れる。こうした多義的な解釈を観客に委ねる余白がある点に、この作品の懐の深さを感じた。
総じて『国宝』は、伝統芸能の映画化という難題を、音楽・演技・構成の力で乗り越えた意欲作といえる。細かな課題はあるものの、その音楽的な美しさと解釈の奥行きこそが、歴史的なヒットを支えた最大の理由なのだろう。
ストレンジャー・シングス ― 2026年01月03日
2016年の配信開始から、気づけば10年という歳月が流れた。2026年の元旦、ついに最終章となるシーズン5が配信され、私は「ああ、ここまで来たのか」と静かな感慨を抱きながら画面を見つめていた。年末にシーズン4までを一気に視聴し、ホーキンスの闇へ深く沈み込んだまま、その流れで最終シーズンに突入した。この物語を語るうえで、イレブン役のミリー・ボビー・ブラウンという存在を外すことはできない。
彼女は11歳でシリーズに参加し、最終章を迎えた今は21歳になった。子どもから大人へ――その不可逆な変化の時間そのものを、作品と共に生きた稀有な俳優である。日本で言えば『北の国から』の純と螢、海外なら『ハリー・ポッター』の三人組が思い浮かぶが、ここまで役柄と俳優自身の成長が分かちがたく重なった例は多くない。私たちはドラマを観ていたのではない。一人の少女が変貌していく10年間を、リアルタイムで目撃してきたのだ。
初期シーズンを振り返ると、シーズン1のイレブンは驚くほど言葉を持たなかった。丸刈りの頭に、サイズの合わないピンクのワンピース。社会から隔絶された彼女には、自らの意志を伝えるための「言語」が欠落していた。ゆえにミリーは、「目」「呼吸」「身体のこわばり」だけで感情を表現するという、極めて過酷な演技を課せられた。
未知への恐怖、拭いきれない孤独、ふと滲む優しさ。鼻血を流しながら世界を睨みつける、あの射抜くような視線。言葉がないからこそ、視聴者は彼女の瞳の揺らぎに神経を集中させてしまう。子役という枠を軽々と超えた、痛々しいほどに成熟した「沈黙の演技」。それこそがシリーズ初期の強烈な引力であり、本作に底知れぬ深みを与えていた最大の要因だった。そこには、技術を超えた「本物の異質感」が確かに宿っていた。
物語が進むにつれ、イレブンは単なる実験体ではなく、友情や恋、そして自分という存在の輪郭に悩む一人の少女へと変化していく。それに呼応するように、ミリーの演技もまた確かな広がりを見せた。怒りや悲しみだけでなく、思春期特有の戸惑い、大切な人を守ろうとする意志までもが、丁寧に表現されていく。シリーズ外でも『エノーラ・ホームズ』で主演を務め、彼女は着実にスターダムを駆け上がっていった。
しかし、「洗練されたスター」として成熟していく姿を目にするほど、言いようのない寂しさが胸に広がる。経験を積み、大人の俳優へと脱皮していく過程で、かつて彼女が放っていた唯一無二の輝きが、少しずつ遠ざかっていくように感じてしまうのだ。天才子役が成長と引き換えに初期の輝きを失う例は古今東西に枚挙にいとまがない。それでもなお、切なさは拭えない。
シーズン1のミリーには、説明不能な不気味さと、今にも壊れそうな脆さが同居する特異な磁力があった。あの異質感こそが、イレブンというキャラクターの魂だったはずだ。だが現在の彼女からは、そうした危うい輝きは後景に退き、どこか「完成された女優」という安定した場所に収まってしまった印象が否めない。整った表情、計算された身振り、プロフェッショナルな立ち居振る舞い。それは俳優としての正解である一方、かつて私が彼女に見ていた「奇跡」とは、微妙に異なる地点にある。
かつてのイレブンが放っていた、言葉にならないほど強烈な「個の光」は、社会性と技術を獲得する代償として、どこかに置き去りにされたのではないか。もちろんそれは、人としても俳優としても正しい成長だろう。それでも、あの凍えるような孤独の中で世界を睨みつけていた少女に心を奪われた者としては、その洗練を手放しで祝うことができない。あの圧倒的なカリスマ性は、あの年齢、あの瞬間にしか宿り得なかった、刹那の奇跡だったのかもしれない。
10年間の撮影を終え、ミリーは「卒業は安堵ではない。この作品は私を育ててくれた」と語ったという。このシリーズは、彼女にとってキャリアの出発点であると同時に、人生そのものを形作った聖域だったはずだ。脚本や演出、80年代ノスタルジーを喚起する世界観の完成度もさることながら、その中心に刻一刻と変化するミリー・ボビー・ブラウンという「生身の成長」があり続けたことこそが、本作を単なる人気ドラマではなく、一つの文化現象へと押し上げた最大の理由である。
最終章を見届けながら、かつてあどけなくも圧倒的な存在感を放っていたイレブンの残像を今も画面の隅々に探している。ミリーの10年間と、それを見守ってきた私たちの10年間。物語の終わりとともに、あの奇跡のような「子役時代の輝き」が完全に過去へと沈んでいく。その切なさを噛み締めながら、この壮大なフィナーレを最後まで見届けたいと思う。
彼女は11歳でシリーズに参加し、最終章を迎えた今は21歳になった。子どもから大人へ――その不可逆な変化の時間そのものを、作品と共に生きた稀有な俳優である。日本で言えば『北の国から』の純と螢、海外なら『ハリー・ポッター』の三人組が思い浮かぶが、ここまで役柄と俳優自身の成長が分かちがたく重なった例は多くない。私たちはドラマを観ていたのではない。一人の少女が変貌していく10年間を、リアルタイムで目撃してきたのだ。
初期シーズンを振り返ると、シーズン1のイレブンは驚くほど言葉を持たなかった。丸刈りの頭に、サイズの合わないピンクのワンピース。社会から隔絶された彼女には、自らの意志を伝えるための「言語」が欠落していた。ゆえにミリーは、「目」「呼吸」「身体のこわばり」だけで感情を表現するという、極めて過酷な演技を課せられた。
未知への恐怖、拭いきれない孤独、ふと滲む優しさ。鼻血を流しながら世界を睨みつける、あの射抜くような視線。言葉がないからこそ、視聴者は彼女の瞳の揺らぎに神経を集中させてしまう。子役という枠を軽々と超えた、痛々しいほどに成熟した「沈黙の演技」。それこそがシリーズ初期の強烈な引力であり、本作に底知れぬ深みを与えていた最大の要因だった。そこには、技術を超えた「本物の異質感」が確かに宿っていた。
物語が進むにつれ、イレブンは単なる実験体ではなく、友情や恋、そして自分という存在の輪郭に悩む一人の少女へと変化していく。それに呼応するように、ミリーの演技もまた確かな広がりを見せた。怒りや悲しみだけでなく、思春期特有の戸惑い、大切な人を守ろうとする意志までもが、丁寧に表現されていく。シリーズ外でも『エノーラ・ホームズ』で主演を務め、彼女は着実にスターダムを駆け上がっていった。
しかし、「洗練されたスター」として成熟していく姿を目にするほど、言いようのない寂しさが胸に広がる。経験を積み、大人の俳優へと脱皮していく過程で、かつて彼女が放っていた唯一無二の輝きが、少しずつ遠ざかっていくように感じてしまうのだ。天才子役が成長と引き換えに初期の輝きを失う例は古今東西に枚挙にいとまがない。それでもなお、切なさは拭えない。
シーズン1のミリーには、説明不能な不気味さと、今にも壊れそうな脆さが同居する特異な磁力があった。あの異質感こそが、イレブンというキャラクターの魂だったはずだ。だが現在の彼女からは、そうした危うい輝きは後景に退き、どこか「完成された女優」という安定した場所に収まってしまった印象が否めない。整った表情、計算された身振り、プロフェッショナルな立ち居振る舞い。それは俳優としての正解である一方、かつて私が彼女に見ていた「奇跡」とは、微妙に異なる地点にある。
かつてのイレブンが放っていた、言葉にならないほど強烈な「個の光」は、社会性と技術を獲得する代償として、どこかに置き去りにされたのではないか。もちろんそれは、人としても俳優としても正しい成長だろう。それでも、あの凍えるような孤独の中で世界を睨みつけていた少女に心を奪われた者としては、その洗練を手放しで祝うことができない。あの圧倒的なカリスマ性は、あの年齢、あの瞬間にしか宿り得なかった、刹那の奇跡だったのかもしれない。
10年間の撮影を終え、ミリーは「卒業は安堵ではない。この作品は私を育ててくれた」と語ったという。このシリーズは、彼女にとってキャリアの出発点であると同時に、人生そのものを形作った聖域だったはずだ。脚本や演出、80年代ノスタルジーを喚起する世界観の完成度もさることながら、その中心に刻一刻と変化するミリー・ボビー・ブラウンという「生身の成長」があり続けたことこそが、本作を単なる人気ドラマではなく、一つの文化現象へと押し上げた最大の理由である。
最終章を見届けながら、かつてあどけなくも圧倒的な存在感を放っていたイレブンの残像を今も画面の隅々に探している。ミリーの10年間と、それを見守ってきた私たちの10年間。物語の終わりとともに、あの奇跡のような「子役時代の輝き」が完全に過去へと沈んでいく。その切なさを噛み締めながら、この壮大なフィナーレを最後まで見届けたいと思う。
ふつうの子ども ― 2025年12月13日
ドラマ『こんばんは、朝山家です。』でヘナチョコ小学生を好演した嶋田鉄太くんが、この映画にも出演していると知りサブスクで観た。期待は裏切られない。相変わらずの“ヘナチョコぶり”が全開で、「これ演技なの?それとも地なの?」と思うほど自然体だ。いわゆる“天才子役”のキラキラ路線とは別次元で、むしろ“ダメな感じがリアルな新種の子役”というジャンルを確立しつつある。
監督は『そこのみにて光輝く』『きみはいい子』の呉美保、脚本は高田亮。名コンビが再び組み、令和の小学4年生たちの“ふつう”の日常を描く。主人公・唯士(嶋田鉄太)は、環境問題に熱心な心愛(瑠璃)に片思い。しかし心愛が想いを寄せるのはクラスの問題児・陽斗(味元耀大)。3人が始めた小さな環境活動は、親や教師を巻き込みながら次第に過激化していく。クラスメイトはオーディションで選ばれた実際の子どもたち。母親役に蒼井優、ダメ教師に風間俊介、毒親に瀧内公美と、大人陣も盤石だ。
率直に言えば、「これが本当に“ふつうの子ども”なのか?」と驚かされる。もしこれが現代の小学4年生のリアルだとしたら、自分の頃よりずっとませている。好きな子に好かれようと、興味のないテーマに急にのめり込む姿は昔も今も変わらない。ただ、昔はロックやスポーツが憧れの対象だったのに、今は「環境問題」なのだという点に時代を感じる。
映画の中の子どもたちは「車に乗るな」「電気を使うな」と違法ポスターを貼り、「メタンガスを出す牛はだめだ」と精肉店にロケット花火を打ち込み、牛舎の扉を壊す。いたずらの域を超えた立派な“環境テロ”だ。見ていて頭に浮かんだのは「左翼小児病」だった。 子供だから当然だけど。
劇中ではグレタ・トゥーンベリの国連スピーチ「How dare you!」が効果的に使われる。最初は作文発表で担任に軽くあしらわれ、心愛が激怒。やがて“環境テロ”が発覚し、大人たちの前で弁明する場面ではグレタの英語をぶつぶつ呟く。そしてラスト、“環境テロ”の理由を心愛が好きだったからと弁明した唯士に、心愛が口パクで「How dare you!(よくもまぁ)」とほほ笑む。唯士はポカーンとして意味も分からないままエンドロール。皮肉で、可愛くて、そして空恐ろしい。
観終わって思った。自分も子どもの頃、同じように社会問題に憤り、「将来は記者になって告発する!」と息巻いていた。あの熱病のような正義感は、結局は先生が教えた中途半端な知識と、大人が与えた断片的な情報から生まれたものだった。 今、米国ではトランスジェンダー教育の影響で「性否認」をする女子が急増し社会問題になっているという。環境問題も同じ構図かもしれない。大人が都合よく切り取った“正義”を、子どもは純粋に、時に暴走しながら信じてしまう。
唯士を見ればわかる。子どもたちの動機の9割は「好きな子と一緒にいたい」「目立ちたい」「認められたい」。残りの1割が純粋な正義感だとしても、それは十分に危うい。だからこそ、この映画は妙にリアルで、妙に怖い。「ふつうの子ども」って、こんなに過激で、こんなに脆くて、こんなに危なっかしいものだったのか――。観終わったあと、しばらく立てなかった。考えさせられるというより、「How dare you!」な一作だった。
監督は『そこのみにて光輝く』『きみはいい子』の呉美保、脚本は高田亮。名コンビが再び組み、令和の小学4年生たちの“ふつう”の日常を描く。主人公・唯士(嶋田鉄太)は、環境問題に熱心な心愛(瑠璃)に片思い。しかし心愛が想いを寄せるのはクラスの問題児・陽斗(味元耀大)。3人が始めた小さな環境活動は、親や教師を巻き込みながら次第に過激化していく。クラスメイトはオーディションで選ばれた実際の子どもたち。母親役に蒼井優、ダメ教師に風間俊介、毒親に瀧内公美と、大人陣も盤石だ。
率直に言えば、「これが本当に“ふつうの子ども”なのか?」と驚かされる。もしこれが現代の小学4年生のリアルだとしたら、自分の頃よりずっとませている。好きな子に好かれようと、興味のないテーマに急にのめり込む姿は昔も今も変わらない。ただ、昔はロックやスポーツが憧れの対象だったのに、今は「環境問題」なのだという点に時代を感じる。
映画の中の子どもたちは「車に乗るな」「電気を使うな」と違法ポスターを貼り、「メタンガスを出す牛はだめだ」と精肉店にロケット花火を打ち込み、牛舎の扉を壊す。いたずらの域を超えた立派な“環境テロ”だ。見ていて頭に浮かんだのは「左翼小児病」だった。 子供だから当然だけど。
劇中ではグレタ・トゥーンベリの国連スピーチ「How dare you!」が効果的に使われる。最初は作文発表で担任に軽くあしらわれ、心愛が激怒。やがて“環境テロ”が発覚し、大人たちの前で弁明する場面ではグレタの英語をぶつぶつ呟く。そしてラスト、“環境テロ”の理由を心愛が好きだったからと弁明した唯士に、心愛が口パクで「How dare you!(よくもまぁ)」とほほ笑む。唯士はポカーンとして意味も分からないままエンドロール。皮肉で、可愛くて、そして空恐ろしい。
観終わって思った。自分も子どもの頃、同じように社会問題に憤り、「将来は記者になって告発する!」と息巻いていた。あの熱病のような正義感は、結局は先生が教えた中途半端な知識と、大人が与えた断片的な情報から生まれたものだった。 今、米国ではトランスジェンダー教育の影響で「性否認」をする女子が急増し社会問題になっているという。環境問題も同じ構図かもしれない。大人が都合よく切り取った“正義”を、子どもは純粋に、時に暴走しながら信じてしまう。
唯士を見ればわかる。子どもたちの動機の9割は「好きな子と一緒にいたい」「目立ちたい」「認められたい」。残りの1割が純粋な正義感だとしても、それは十分に危うい。だからこそ、この映画は妙にリアルで、妙に怖い。「ふつうの子ども」って、こんなに過激で、こんなに脆くて、こんなに危なっかしいものだったのか――。観終わったあと、しばらく立てなかった。考えさせられるというより、「How dare you!」な一作だった。
TOKYOタクシー ― 2025年12月01日
『パリタクシー』(2023)のリメイク『TOKYOタクシー』(2025)は、同じ“老婦人とタクシー運転手の旅”でありながら、作品の思想も重力もまったく異った。観客は山田監督でキムタク主演とあり久々の満席の盛況ぶりだった。原作が冒頭から運転手を“都市システムの末端”として描き、制度の冷たさと個人の孤独に光を当てたのに対し、日本版の冒頭は木村拓哉と明石家さんまの“前口上”で、映画の気圧がいきなり下がる。視聴者は最初の3分で、作品が向いている方向を悟ってしまう。
フランス版の老婦人は、DVや息子の死という個的悲劇の裏に、ベトナム戦争、女性解放運動、社会が見捨ててきた弱者の歴史が折り重なる。個人の人生が時代の裂け目に飲み込まれていく、欧州映画特有のリベラルな視線が骨格にある。しかし日本版は、この“政治性”を見事に去勢した。DVは薄まり、女性が背負った制度的暴力は空気のように蒸発し、息子の死は“良い話の燃料”として再加工される。原作が描いた「歴史に翻弄される個人」は、日本版では「優しいおばあちゃん」へと丸められ、社会の影は徹底的に脱臭される。
フランス版では、老婦人がかつて恋人だったアメリカ兵が帰国後に別の女性と結婚していたことを知る設定になっている。これに対し日本版では、その背景をわざわざ「北朝鮮帰還事業」に置き換えている。息子の容姿をハーフとして描くことを避けたかったのかどうかは不明であり、結局はバイク遊びであっけなく落命する展開に終わるため、演出意図は見えにくい。結果として、フランスにとっては救世主であるアメリカ軍を恋の相手に据えたのに対し、日本版では「同胞と東京を奪ったアメリカ兵を恋人にはしたくない」という回避の姿勢と、混迷を極める北朝鮮問題にまつわる妙な政治的配慮を意識させてしまう。全体として政治色を薄めただけに、ここだけがかえって強い違和感を残した。
さらに、匿名のまま別れた原作に対し、日本版は序盤からフルネームを提示し、普遍性を捨てて“個別の美談”に舵を切る。原作は普遍性。日本版は個別の救済劇。この一点だけでも、両者の思想は別ジャンルと言っていい。リアリズムも弱い。フランス版は遺産2,000万や運転手の生活苦といった生活の肌触りを正確に描いた。日本版も東京での運転手の生活苦を描きはするものの、1億円の遺産や「私学初年度100万円」なるフィクションを軽々出す。東京都では授業料・入学金は補助でほぼゼロ、実負担は50万円前後という現実とズレすぎていて、数字が出た瞬間、物語がファンタジー化する。人情を盛る前に“制度の下調べ”をしてほしい。
そしてキャスティング。木村拓哉、倍賞千恵子に加え、“電話の声”として明石家さんまと大竹しのぶ。ここまで揃うと、観客はどうしても映画の人物より、芸能界の人間関係図を思い浮かべてしまう。山田組の常連配置に加え、“元夫婦”という舞台裏を連想させる演出は、物語よりも制作側の事情が透けて見える。フランス版が国民的スターを使いながらも世界観を壊さなかったのとは対照的だ。
総じて『TOKYOタクシー』は、原作が投げかけた「制度と歴史の重圧」という骨太なテーマを潔く手放し、東京的人情にすべてを寄せた作品だ。リベラルな背景は去勢され、匿名性の普遍性は削ぎ落とされ、制度批判も現実感も捨て置かれた。結果として残ったのは、“リメイク”ではなく“原作の影を借りた別ジャンルの良い話”である。
もちろん、東京とパリでは文化も作法も違う。だが、それを差し引いても、原作に対しては少々申し訳が立たない。温かい話ではある。だが、深みに手が届くほどの熱さは、スクリーンに宿っていなかった。
フランス版の老婦人は、DVや息子の死という個的悲劇の裏に、ベトナム戦争、女性解放運動、社会が見捨ててきた弱者の歴史が折り重なる。個人の人生が時代の裂け目に飲み込まれていく、欧州映画特有のリベラルな視線が骨格にある。しかし日本版は、この“政治性”を見事に去勢した。DVは薄まり、女性が背負った制度的暴力は空気のように蒸発し、息子の死は“良い話の燃料”として再加工される。原作が描いた「歴史に翻弄される個人」は、日本版では「優しいおばあちゃん」へと丸められ、社会の影は徹底的に脱臭される。
フランス版では、老婦人がかつて恋人だったアメリカ兵が帰国後に別の女性と結婚していたことを知る設定になっている。これに対し日本版では、その背景をわざわざ「北朝鮮帰還事業」に置き換えている。息子の容姿をハーフとして描くことを避けたかったのかどうかは不明であり、結局はバイク遊びであっけなく落命する展開に終わるため、演出意図は見えにくい。結果として、フランスにとっては救世主であるアメリカ軍を恋の相手に据えたのに対し、日本版では「同胞と東京を奪ったアメリカ兵を恋人にはしたくない」という回避の姿勢と、混迷を極める北朝鮮問題にまつわる妙な政治的配慮を意識させてしまう。全体として政治色を薄めただけに、ここだけがかえって強い違和感を残した。
さらに、匿名のまま別れた原作に対し、日本版は序盤からフルネームを提示し、普遍性を捨てて“個別の美談”に舵を切る。原作は普遍性。日本版は個別の救済劇。この一点だけでも、両者の思想は別ジャンルと言っていい。リアリズムも弱い。フランス版は遺産2,000万や運転手の生活苦といった生活の肌触りを正確に描いた。日本版も東京での運転手の生活苦を描きはするものの、1億円の遺産や「私学初年度100万円」なるフィクションを軽々出す。東京都では授業料・入学金は補助でほぼゼロ、実負担は50万円前後という現実とズレすぎていて、数字が出た瞬間、物語がファンタジー化する。人情を盛る前に“制度の下調べ”をしてほしい。
そしてキャスティング。木村拓哉、倍賞千恵子に加え、“電話の声”として明石家さんまと大竹しのぶ。ここまで揃うと、観客はどうしても映画の人物より、芸能界の人間関係図を思い浮かべてしまう。山田組の常連配置に加え、“元夫婦”という舞台裏を連想させる演出は、物語よりも制作側の事情が透けて見える。フランス版が国民的スターを使いながらも世界観を壊さなかったのとは対照的だ。
総じて『TOKYOタクシー』は、原作が投げかけた「制度と歴史の重圧」という骨太なテーマを潔く手放し、東京的人情にすべてを寄せた作品だ。リベラルな背景は去勢され、匿名性の普遍性は削ぎ落とされ、制度批判も現実感も捨て置かれた。結果として残ったのは、“リメイク”ではなく“原作の影を借りた別ジャンルの良い話”である。
もちろん、東京とパリでは文化も作法も違う。だが、それを差し引いても、原作に対しては少々申し訳が立たない。温かい話ではある。だが、深みに手が届くほどの熱さは、スクリーンに宿っていなかった。
爆弾 ― 2025年11月30日
呉勝浩のベストセラー小説を原作とした映画『爆弾』。「東京に爆弾が仕掛けられた!」という未曾有の事態を、密室の取調室と都内の爆弾捜索で同時進行させるという触れ込みの、いわゆる「リアルタイムサスペンス」だ。警察に連行された正体不明の男は「スズキタゴサク」と名乗り、霊感で爆弾の存在を予告。演じるは“へんなおじさん代表”こと佐藤二朗。対する若き刑事・類家役は人気俳優の山田裕貴。この異色すぎるタッグの謎めいた攻防に期待して、劇場へ足を運んだ。しかし、鑑賞後の正直な感想は一言、「疲れた」。
佐藤氏も山田氏も、とにかく早口すぎる。謎の男スズキの出すなぞかけと、それに応戦する刑事の謎解きが、まるで「早口言葉合戦」のように取調室で連発される。年寄りには、耳から入った情報が脳で処理される間がない。一言一句聞き逃すまいと前のめりになるほど、余計に疲労がたまるという悪循環に陥ってしまった。
この映画の核となるトリックは、自死した刑事の息子が企てた連続爆破計画を、その母親が阻止するために息子を殺害し、知り合いのホームレスである佐藤二朗(スズキ)が実行犯として身代わりになるという、なんとも劇的な筋書きだ。佐藤二朗の芝居は予想通りの「怪演」で期待を裏切らない。だが、物語を振り返ると、腑に落ちない点がいくつも出てくる。
取調室の攻防戦がメインのはずなのに、途中で退場する染谷将太(等々力刑事)や渡部篤郎が、どうにも中途半端。これなら最初から、山田VS佐藤の二人だけの緊迫した対決に集中した方が、話はよほど分かりやすくなったはず。さらに、爆弾捜索に奔走する警官・倖田役(伊藤沙莉)のパートも同様だ。せっかく犯人が「賢すぎる」山田君(類家刑事)を出し抜こうと、記録係の刑事を操るという「取り調べあるある」の機転を利かせても、結局、伊藤沙莉の助言で相方の警官が証拠を本部に報告してしまう。これでは、爆弾被害にあう相方警官の悲劇と、取調室の駆け引きとの繋がりが薄れ、観客は置いてきぼりだ。本部に知らせる筋なら山田君がスズキの前で大慌てするというシーンが必要だったが爆発が起こってから悔やむのでは迫力が半減する。「豪華キャストを出したい」「色々なドラマを作りたい」という制作側の意図は分かるが、筋が不自然で物語の純度を下げてしまう。
そもそもの発端である「刑事のスキャンダル」も、殺害現場での自慰行為が止められないという病理を原因にすると、かえって話が小さくなる。ゴシップを消費する社会や事なかれ主義の警察組織を批判する不条理劇というより、ただ「気持ち悪い」という生理的嫌悪感だけが残る。さらに、トリックの要となるホームレスのスズキが、爆弾を開発した息子の死後に、一人で秋葉原・ドーム・公園・アジトと4か所もの爆弾を仕掛けるという展開も、ご都合主義が過ぎる。スズキには「ホームレス」という設定しかないのに、どうやって起爆方法の異なる爆弾を周到に準備できたのか。加えて、トリックに直接関係のない中学時代の冤罪の回想も、スズキの歪んだ認知を描こうとした意図は理解できるが、事件との関連が曖昧で観客の関心と乖離してしまい、意味を成さない。こうした説得力の欠如が、最後まで尾を引いてしまう。
事件解決後も「まだ時限爆弾が残っている」という余韻を残してエンドロールを迎えるが、この積み重ねの甘さのせいで、全く現実味がない。「なんだかなー」と呟いて劇場を後にして溜飲が下がらないのは、ひとえに「脚本の詰めが甘い」という一言に尽きる映画だった。やっぱり二朗さんには「おちゃらけ変なおじさん」が一番似合う。
佐藤氏も山田氏も、とにかく早口すぎる。謎の男スズキの出すなぞかけと、それに応戦する刑事の謎解きが、まるで「早口言葉合戦」のように取調室で連発される。年寄りには、耳から入った情報が脳で処理される間がない。一言一句聞き逃すまいと前のめりになるほど、余計に疲労がたまるという悪循環に陥ってしまった。
この映画の核となるトリックは、自死した刑事の息子が企てた連続爆破計画を、その母親が阻止するために息子を殺害し、知り合いのホームレスである佐藤二朗(スズキ)が実行犯として身代わりになるという、なんとも劇的な筋書きだ。佐藤二朗の芝居は予想通りの「怪演」で期待を裏切らない。だが、物語を振り返ると、腑に落ちない点がいくつも出てくる。
取調室の攻防戦がメインのはずなのに、途中で退場する染谷将太(等々力刑事)や渡部篤郎が、どうにも中途半端。これなら最初から、山田VS佐藤の二人だけの緊迫した対決に集中した方が、話はよほど分かりやすくなったはず。さらに、爆弾捜索に奔走する警官・倖田役(伊藤沙莉)のパートも同様だ。せっかく犯人が「賢すぎる」山田君(類家刑事)を出し抜こうと、記録係の刑事を操るという「取り調べあるある」の機転を利かせても、結局、伊藤沙莉の助言で相方の警官が証拠を本部に報告してしまう。これでは、爆弾被害にあう相方警官の悲劇と、取調室の駆け引きとの繋がりが薄れ、観客は置いてきぼりだ。本部に知らせる筋なら山田君がスズキの前で大慌てするというシーンが必要だったが爆発が起こってから悔やむのでは迫力が半減する。「豪華キャストを出したい」「色々なドラマを作りたい」という制作側の意図は分かるが、筋が不自然で物語の純度を下げてしまう。
そもそもの発端である「刑事のスキャンダル」も、殺害現場での自慰行為が止められないという病理を原因にすると、かえって話が小さくなる。ゴシップを消費する社会や事なかれ主義の警察組織を批判する不条理劇というより、ただ「気持ち悪い」という生理的嫌悪感だけが残る。さらに、トリックの要となるホームレスのスズキが、爆弾を開発した息子の死後に、一人で秋葉原・ドーム・公園・アジトと4か所もの爆弾を仕掛けるという展開も、ご都合主義が過ぎる。スズキには「ホームレス」という設定しかないのに、どうやって起爆方法の異なる爆弾を周到に準備できたのか。加えて、トリックに直接関係のない中学時代の冤罪の回想も、スズキの歪んだ認知を描こうとした意図は理解できるが、事件との関連が曖昧で観客の関心と乖離してしまい、意味を成さない。こうした説得力の欠如が、最後まで尾を引いてしまう。
事件解決後も「まだ時限爆弾が残っている」という余韻を残してエンドロールを迎えるが、この積み重ねの甘さのせいで、全く現実味がない。「なんだかなー」と呟いて劇場を後にして溜飲が下がらないのは、ひとえに「脚本の詰めが甘い」という一言に尽きる映画だった。やっぱり二朗さんには「おちゃらけ変なおじさん」が一番似合う。