保守王国福井の臨界点2026年01月27日

保守王国福井の臨界点
福井県政は、静かに、しかし決定的に、ひとつの時代を終えた。前知事のセクハラ辞職という前代未聞の不祥事を受けた知事選。その結果は、35歳の無所属新人・石田嵩人氏の初当選だった。得票数13万4620票(48.0%)。対する自民党本部と県議会主流派が擁立した元越前市長・山田賢一氏は13万0290票(46.4%)。その差、わずか4330票。この数字を「僅差」と片付けるのは、あまりに鈍感だ。むしろ4330票という差こそが、福井の保守政治がすでに“不可逆的な臨界点”を越えていたことを示す証拠にほかならない。

投票率46.29%。県政への不信と政治的無関心が同時進行する中で、勝敗を分けたのは政策でも理念でもなかった。露わになったのは、自民党という巨大組織の「内側からの崩壊」である。今回の知事選は、事実上の保守分裂選挙だった。県議会最大会派が山田氏を担ぐ一方、福井市議団は「調整不足」を理由に離反し、石田氏支持へと雪崩を打った。さらに異例だったのは、県連会長である山崎正昭参院議員までが石田氏側に回ったことだ。

県議会、市議会、県連、そして党本部。本来なら鉄壁の結束を誇るはずの「自民党の中枢」が、三方向に引き裂かれた。もし自民党が組織として正常に機能していれば、この選挙結果は容易に逆転していただろう。逆に言えば、組織の自己崩壊という“敵失”なしに、35歳の新人が知事の椅子に座る余地はほとんどなかった。

石田氏は、その亀裂を正確に見抜いた。外務省出身という経歴を「中央官僚」ではなく、「旧弊を打破する外部の視点」と再定義し、SNSを武器に無党派層を動員。終盤には参政党が支援に加わり、保守票の分散は決定的となった。

だが、この選挙で最も象徴的だったのは、勝者でも敗者でもない。沈黙を選んだ政治家の存在である。福井1区を地盤とする稲田朋美衆院議員。県議、市議、県連が激突する分裂劇の中で、稲田氏は事実上の静観を貫いた。どちらかに肩入れすれば、地元組織との致命的な衝突を招く。政治家としての損得勘定としては、合理的な選択だったのかもしれない。しかし、有権者の審判は冷酷だ。

国政でハラスメント撲滅や女性の権利を声高に訴えてきた“横綱級”の政治家が、セクハラ辞職という郷土の危機に際し、土俵に上がることなく沈黙を守った。この「言葉と行動の乖離」は、支持者の心に決定的な不信を刻んだ。事実、稲田氏の集票力は明確に衰えている。2021年に約15万票を記録した得票は、直近の衆院選で10万票へと激減した。かつて「自民党の絶対聖域」と呼ばれた福井1区は、すでに激戦区へと変貌している。

保守層の一部は参政党などの新興勢力へ流出し、政治的重心は静かに移動している。これは一過性の現象ではない。保守の内部で、価値観と忠誠の軸が分裂し始めているのだ。強い政治家ほど、危機の瞬間に立場を明確にする。横綱が土俵際で踏ん張ることを恐れれば、観衆はその「弱さ」を見抜く。勝てる局面で沈黙を選ぶ政治家は、有権者の目には、すでに敗者として映る。

4330票という僅差。それは偶然ではない。保守政治が「組織の力」だけで勝利を独占できた時代の終焉を告げる、臨界点の数字である。福井で起きた出来事は、決して地方の特殊例ではない。むしろ、これから全国の保守王国で連鎖するであろう「組織解体」の先行モデルだ。政治家にとって、沈黙は中立を意味しない。沈黙とは、変化する時代に対する敗北宣言である。そして4330票は、その宣告書だった。

「推しだから許す」前橋市長選2026年01月14日

「推しだから許す」前橋市長選
前橋市長選は、不祥事を起こした政治家が再選されたという一点だけでも異例だが、その内側には、地方政治の現在地を象徴する二つの相反する力が同時に働いていた。既婚の市職員とのホテル面会問題で辞職した前市長・小川晶氏は、出直し選挙で再び市長の座に返り咲いた。説明は一貫せず、事実関係についても疑念は残ったままだ。それでも得票率は前回と大きく変わらなかった。しかし、市民が「騙されていた」わけではないという点である。多くの有権者は、小川氏の説明に嘘やごまかしが含まれている可能性を理解していた。SNSでも街頭でも、「本当のことは言っていないだろう」という認識は広く共有されていた。それでも票は入った。この選挙は、納得の結果ではない。承知のうえでの選択だった。

この構図は、兵庫県知事選で斎藤元彦氏が勝利した際の空気とよく似ている。兵庫では、斎藤氏への批判が次第に人格攻撃へと傾き、叩いている側がメディア、県議会、既存政治勢力であることが可視化された。その瞬間、有権者の関心は「何が問題か」から「誰が叩いているのか」へと移った。問題の中身よりも、攻撃の構図そのものへの反発が勝ったのである。

前橋でも同じことが起きた。不祥事後、小川氏を激しく追及したのは、地元メディア、県知事、そして自民党系を中心とする政治勢力だった。倫理を掲げた追及であっても、それが権力側が一斉に叩いている構図に見えた瞬間、市民の感情は反転する。「市長は嘘をついているかもしれない。だが、叩いているのがこの顔ぶれなら話は別だ」。ラブホ問題の是非よりも、メディアと県知事、自民党が一体となって市役所を握り直そうとする姿への拒否感が、投票行動を方向づけた。これは道徳の選択ではなく、力関係への警戒である。

しかし、ここで見落としてはならないのが、もう一つの支持層の存在だ。反権力的な計算とは別に、小川氏をアイドルのように無条件で支持する層が、確実に存在していた。彼らにとって重要なのは、説明の整合性でも倫理でもない。「市長が好きかどうか」だけである。「叩かれていて可哀想」「人柄はいい」「ちいかわ市長だから応援したい」。こうした感情は、批判をすべてアンチの攻撃として処理し、事実確認や検証そのものを拒む。嘘の指摘は足の引っ張りに、説明不足は重箱の隅にすり替えられる。

この妄信的支持は、反権力の投票とは似て非なるものだ。前者が「より嫌な未来を避けるための消極的選択」だとすれば、後者は政治を推し活に変えてしまう危うい態度である。小川氏の親しみやすいキャラクターや、給食費無償化といった分かりやすい政策は、この妄信を強化する装置として機能した。政策は評価ではなく応援材料となり、疑惑は「それでも応援する理由」を固める燃料に変わる。

だが、政治において最も危険なのは、嘘を許すことそのものより、嘘を問わなくなることだ。今回の再選は白紙委任ではない。得票率が伸びていないことが示す通り、多くの市民は条件付きで市長を選んだにすぎない。だが妄信的支持層は、その条件を外そうとする。「勝ったのだから正しかった」「もう蒸し返すな」という圧力が、次の不祥事の芽を摘み取る。

前橋市政はいま二つの視線にさらされている。一つは、嘘を承知で選んだという自覚を持つ冷めた視線。もう一つは、推しを守るという熱に浮かされた視線だ。前者が機能すれば市政は辛うじて緊張感を保つ。後者が支配すれば政治は劣化する。兵庫と前橋が同時に示したのは、権力に反発する民主主義の健全さと、妄信が民主主義を壊す危うさが、同じ選挙に同居しうるという現実である。嘘を見抜いたうえで選ぶことと、嘘をなかったことにすることは、似ているようで決定的に違う。前橋が次に試されるのは、市長ではなく市民自身だ。

セクハラ福井県政2026年01月09日

セクハラ福井県政
福井県が公表した特別調査委員会の報告書は、県政の深部に長年埋め込まれていた「静かな爆弾」を白日の下にさらした。前知事による複数の女性職員への不適切行為が、約20年という異様な長期間にわたり続いていたことを、行政自らが公式に認定したのである。しかも、この爆弾が露出したタイミングは偶然ではない。知事失職を受け、県政はこれから知事選に入ろうとしている。有権者が「次」を選ぼうとする直前、過去の闇が一気に照射された。

注目すべきは調査のスピードと踏み込みだ。調査期間はわずか1か月。それでも被害者4名の詳細な証言が集められ、前知事が送信した約1000件に及ぶメッセージが精査された。そこには、「キスしちゃう」「エッチなことは好き?」といった、業務とは無縁の露骨な性的表現が並ぶ。さらに、身体的接触行為も事実として明確に認定された。

調査委員会は一線を越えた。これらの行為を単なるセクハラにとどめず、ストーカー規制法や不同意わいせつ罪に抵触する可能性にまで言及。前知事が一部を否定した点については「信用できない」と断じ、事実上、反論の余地を封じた。地方行政の内部調査としては、異例の厳しさである。

会見で副知事は、「圧倒的に優位な地位にある知事からの行為で、被害者は長期間にわたり精神的苦痛を受けた。許されるものではない」と述べ、県として謝罪した。だが、この言葉はこれから始まる知事選で、重い問いとして跳ね返る。被害者が耐え続けたのは、前知事個人の言動だけではない。声を上げた瞬間に何を失うか分からない――その組織の空気そのものだ。

なぜ20年以上も問題は表に出なかったのか。短期間の調査で事実が一気に噴出したことは、「証拠がなかった」のではなく、「語らせない環境」が維持されていたことを物語る。幹部がトップの異常な言動をまったく把握していなかったと考える方が不自然だ。人事権が首長に集中する自治体では、幹部は不祥事に触れにくく、「見て見ぬふり」が慣行となる。これは管理能力の問題ではない。県政を包んできた組織文化そのものの問題である。

さらに深刻なのは、県議会の沈黙だ。行政が調査したからといって、議会が沈黙してよい理由にはならない。「行政が調べたのだから、議会は動かない」という構造が成立しているとすれば、それは県政の自律的統治がすでに崩壊していることを意味する。議会は行政の後追い機関ではなく、独立した監視装置のはずだからだ。

議会の沈黙は二つの可能性を示す。何も把握していなかったのか、把握しながら沈黙していたのか。どちらであっても、県政のガバナンスは深刻に損なわれていた。そしてもし今回も議会が動かないなら、次の知事は「何が起きても止められない県政」を引き継ぐことになる。

これから始まる知事選は、単なる後任選びではない。問われるのは、この沈黙の構造と決別できるのかという一点だ。その健全性を測る最大の試金石は、候補者の言葉ではない。県議会が自ら動くかどうかである。今回の問題は、前知事個人の資質に矮小化できない。行政と議会、その双方に横たわる沈黙の構造を可視化した事件である。これを「過去の不祥事」として処理すれば、同じ構造は必ず再生産される。選ばれるべきなのは、次の知事ではない。沈黙を断ち切る県政そのものだ。

スクールバスで交通空白解消2026年01月07日

「車両シェア」で交通空白解消
山間の集落で一人暮らしをする高齢者は、月に一度の通院のため、前夜から段取りを考える。かつて走っていた路線バスは廃止され、タクシーは予約がなかなか取れない。家の前を毎朝決まった時間に通り過ぎるのは、孫世代を乗せたスクールバスだけだ。「あれに乗れたら、どれだけ楽か」。地方の「交通空白」は、すでに生活の細部を侵食している。政府がこの問題にようやく本腰を入れた。過疎化や人口減少で移動手段の確保が難しくなった地域を救うとして、スクールバスや福祉施設の送迎車など、地域に存在するあらゆる車両を一般住民の移動にも活用できるよう、地域公共交通活性化再生法(地域交通法)の改正案を次期通常国会に提出する方針だ。

自治体が交通、教育、医療、福祉といった関係者を横断的に調整し、地域の実情に応じた旅客運送サービスを構築する役割を担うことを明確化する。国は新サービス導入に財政支援を行う。学校や病院の統廃合が進む一方、バスやタクシーの運転手不足が深刻化し、既存の交通網だけでは住民の移動需要を支えきれなくなっている現実が、ようやく政策を動かした格好だ。

だが、切り札とされるスクールバスの活用には、以前から指摘されてきた構造的な歪みがある。多くの自治体で運行は民間委託され、朝夕の登下校と学校行事以外はほとんど稼働しない。土日や長期休暇中は完全停止。年間を通せば、車両と運転手の多くが長時間「止まったまま」だ。

特別支援学校では、この非効率がさらに際立つ。下校時には放課後等デイサービス事業所の車が児童を迎えに来るため、スクールバスはほとんど乗客を乗せないまま走る。「空気を運ぶバス」が日常化しているのである。教育委員会と福祉部局の縦割り、委託契約の硬直性、送迎加算をめぐる制度設計――現場では長年、改善不能な前提条件として扱われてきた。

今回の法改正案は、こうした“空白時間”を地域交通に転用しようという試みだ。デイサービス車両を非営業日に有料送迎として活用する、スクールバスを空き時間に予約制のデマンド交通として走らせる。事業認可の簡略化、車両や運転手の共同活用、運行データの標準化も盛り込まれる。制度設計としては、確かに前進である。

しかし冷静に見れば、これは地方交通の延命措置に過ぎない。車両のやり繰りで危機をしのげる段階は、すでに通り過ぎている。世界に目を向ければ、一般ドライバーが有償で乗客を運ぶUberやLyftが、都市部だけでなく郊外や地方の移動を支えている。保険、GPS監視、評価システムといったプラットフォーム管理によって安全性を担保するのが、いまや国際標準だ。

一方、日本では一般ドライバーによる有償運送は依然として原則禁止のままだ。導入された「日本版ライドシェア」も、タクシー会社が主体となり、二種免許を必須とするなど強い制約が課されている。「安全性」を理由に規制は維持されているが、その裏側で、移動手段を失った高齢者や通院が困難な人々が生まれている現実は、制度の外側に置き去りにされている。

わが町でもライドシェア制度を活用した町内バスが運行されるようになった。しかし、バス停までは自力で移動する必要があるし、使用されている大型ワゴン車はステップの段差が高く、足の弱い高齢者や障害のある人は利用しづらい。運転者が介助を行わないという取り決めもあり、実質的に対象外となっている。こうした状況は、指定した場所に来てくれるUberやLyftのように柔軟で利用者層の広い海外のライドシェアと比べると、到底同じ仕組みとは言えないほど不便だ。

地方の交通空白を本質的に解消するには、スクールバスの遊休活用だけでは不十分だ。二種免許要件の見直しや地域限定での規制緩和、さらにはプラットフォーム側に安全管理責任を負わせる制度設計など、誰がハンドルを握れるのかという「資格の壁」を、時代に合わせて引き直す覚悟が問われている。また、既存の路線に自動運転を導入する構想もあるが、道路交通法をはじめとする厳しい規制が立ちはだかり、実現の時期は依然として見通せない。

今回の法改正は、確かに重要な一歩だ。だが本当の焦点は、走らないバスをどう動かすかではない。動かせない制度を、いつまで守り続けるのか。地方交通の再生は、日本社会が規制と現実のどちらを選ぶのかを映す、静かな踏み絵になりつつある。

破廉恥地方政治屋2025年12月30日

破廉恥地方政治屋
大阪府岸和田市で起きた「政治屋」永野夫妻をめぐる一連の騒動は、地方政治の「劣化」がどこまで進んでいるのかを白日の下にさらした。12月25日、永野紗代市議(39)が「一身上の都合」で辞職したとの一報は、あまりに簡潔で、その軽さが逆に市民の不信を深めている。紗代氏は、夫・永野耕平前市長が女性問題で市長不信任を不服として議会解散した直後の市議選に、無所属新人として突如出馬した。「子育て支援のため」「夫の影響はない」と語りながら、実際にはその市長の夫が選挙カーを回すという異例の構図で初当選。だがその後、新議会で市長失職した夫には公共工事価格の漏洩、1900万円収賄という重大事件が次々と浮上していく。

そして、紗代氏の議員生活はわずか10カ月足らずで自ら幕を閉じた。辞職理由は最後まで「一身上の都合」の一言だけで、会見も説明もない。何のために出馬し、何を成し、なぜ去るのか。最も説明を必要とする有権者だけが、完全に置き去りにされた格好だ。紗代氏に支払われた歳費は、報酬と期末手当を合わせて700万円規模に達したとみられる。

永野耕平氏の転落はさらに深刻だ。女性との関係を巡る訴訟で500万円の解決金を支払っても謝罪を拒み、市議会の不信任を受けて議会を解散。再選された議会から再び不信任を突きつけられ失職し、出直し市長選にも敗北。挙げ句、在任中の入札妨害と収賄で逮捕・起訴されるという末路である。半年以上にわたる市政の停滞は、明確に人災だった。

ここで問われるのは、個人の資質だけではない。永野氏の場合、大阪維新の会という政党が、身内の不祥事に対して有効な統制や自浄機能を発揮できなかった点は重い。「改革」を掲げながら、最も基本的なガバナンスが機能しなかった。

一方で、前橋市の小川晶前市長のケースは別の問題を突きつける。無所属首長であるがゆえに、党内処分というブレーキが存在せず、説明責任と道義的責任を曖昧にしたまま辞職し、出直し選挙に臨める制度的空白が露呈した。

破廉恥な行為そのものより深刻なのは、「潔く引かない」政治を可能にしている構造である。不祥事で信頼を失っても、制度上は再挑戦が許され、一定の報酬も保障される。永野氏は失職なので退職金はゼロだが辞職の小川氏は1500万円程度と推測されている。この甘さこそが、説明なき辞職と再起を繰り返す政治家を量産してきた。

永野夫妻や小川氏の進退をめぐる一連の行動は、単なるスキャンダルでは終わらない。説明責任を放棄した政治が、どれほど深く市民の信頼を損なうのかを示す象徴的な事例である。市政を壊したのはスキャンダルそのものではない──政治家でありながら最後まで説明しなかった、その態度こそが市民の信頼を最も傷つけたのだ。

「恋は盲目」前橋市長選挙2025年12月27日

「恋は盲目」市長選挙
「恋は盲目」とはよく言ったものだが下半身の暴走まで市政に持ち込まれては、さすがに迷惑千万である。週刊文春12月24日号が放った「ダブルスコア圧勝!」なる景気のいい予測に、本人はすっかり気をよくしたらしい。12月20日の支援者集会には300人超が集まり、「あきらちゃん頑張って〜」の黄色い声が飛び交ったという。赤城おろしが吹きすさぶ冬空の下、会場は妙な熱気に包まれていた。だが、その熱狂は本当に前橋市民の総意なのか。それとも、週刊誌の“当て物記事”に浮かれた幻想のバブルにすぎないのか。

事の発端は、2025年9月24日に配信された NEWSポストセブンのスクープである。既婚の年上男性秘書課長(当時)と、市内のラブホテルで10回以上密会していたというものだ。公用車を使用した日もあり、さらには記録的短時間大雨警報が発令された日まで含まれていた。市長は緊急会見を開き、「男女関係はありません」「仕事の打ち合わせでした」と涙ながらに否定した。理由としては、「受付で名前を書かなくて済む」「庁舎の会議室だと特定の職員との関係を疑われるから」と説明したという。なるほど、弁護士らしい理屈としては一応の整合性はある。

しかし、民事裁判ではラブホテルへの同伴が不貞行為と法的に認定される場合があることは、彼女も当然知っているはずだ。そして、常識的な市民の率直な感想は一つに尽きる。なぜ、個人的な問題を政治の現場に持ち込むのか。

市民からの苦情は1万件超。市議会は11月27日、全会一致で辞職を承認した。それでも小川氏は折れなかった。12月17日、出直し市長選(2026年1月5日告示、12日投開票)への無所属出馬を表明し、「やり残した公約を実現するしかない」と胸を張る。だが、ここで見落としてはならない本質がある。それは、巨額の税金が浪費されるという事実だ。

出直し選挙の費用は市負担。読売新聞の試算では約1億3000万円。ポスター掲示板は前回の倍以上となる13枠に拡張され、選挙公報の増刷、事務経費も上積みされる。さらに、辞職に至る混乱の中で設置された臨時コールセンター、議会特別委員会の運営費、第三者調査費用――積み上げれば総額はさらに膨らむ。原因はただ一つ。市長個人の私的欲求が招いた不祥事である。恋は盲目でもいい。だが、市民の血税まで盲目にする権利はない。

それでも本人に反省の色は見えない。「市民の声が大切」と口では言うが、市民が最も強く求めている「けじめ」には耳を塞ぎ続ける。地元取材では「もう信じられない」「早く辞めてほしかった」という声が大勢を占める。若者や主婦、保護者層からは「アイドル気取り」「恥知らず」「子供の出席する卒業式や入学式で小川氏の祝辞は受けたくない」と拒否反応が噴出。連合群馬は自主投票、自民・公明の推薦もなし。経済界からも「街のイメージ低下」と不信の声が上がる。批判票が新人2人に流れれば、前回約6万票の再現はおぼつかない。

小川氏の心理は、「認めたら終わり」という恐怖と「私は間違っていない」という自己欺瞞の間で揺れている。認知的不協和を「女性だから叩かれやすい」という被害者意識で埋め、週刊誌の甘い予測にすがって現実から目を背ける。しかし、最も看過できないのは、自らの不祥事が市政混乱と税金浪費を生んだことへの反省が、一切感じられない点だ。選挙費用も混乱の後始末も、すべて市民の血税。その上で「前橋を変えていく」と強弁する姿は、傲慢を通り越して無神経の極みである。

この出直し選は、もはや単なる市長選ではない。首長の倫理、説明責任、そして私的欲求を政治に持ち込まないという最低限の常識を問う、厳粛な審判の場だ。年末年始を挟み、月曜祝日に投開票という異例日程は、組織票や熱心票を利する可能性がある。だが、保護者世代の怒りが投票箱に向かえば、結果は自ずと見えてくる。首長とは、欲望を優先した人間ではなく、欲望を抑制できた人間だけが就ける職である。1月12日、前橋市民はその最低条件を、投票箱で突きつけることになる。

人権が紛争に化ける瞬間2025年12月20日

「明白な内政干渉」と抗議決議
中国が国連の場で沖縄の人々を「先住民族」と位置づける発言を繰り返すなか、沖縄県豊見城市議会は12月18日、こうした主張を「明白な内政干渉」と断じる抗議決議を賛成多数で可決した。決議では、中国の発言が日本の主権を侵害するものだと指摘し、玉城デニー知事に対しても「沖縄県民は日本国民である」との立場を明確に示すよう求める意見書を採択。同様の決議は石垣市議会でも可決されており、国連の先住民族勧告をめぐる問題が、地方自治体レベルで現実の政治課題として噴出している。

沖縄をめぐる「先住民族認定」ほど、耳触りのいい言葉がこれほど不穏な影を引きずるテーマは、そう多くないだろう。「国際人権」。この魔法の言葉が掲げられた瞬間、異論はたちまち「差別」や「時代遅れ」として封じ込められる。だが、その思考停止こそが、沖縄を静かに、しかし確実に“大国の外交カード”へと変質させていく。

中国は近年、国連人権理事会などの国際舞台で、沖縄の人々を「先住民族」と強調する発言を繰り返してきた。2023年の会合では、中国外交当局者が「琉球の人々は独自の歴史と文化を有し、その権利は十分に尊重されるべきだ」と名指しで言及している。一見すれば人権尊重の美辞麗句だ。しかし、その背後で尖閣諸島をめぐる日中対立が激化している現実を、見ないふりはできない。

沖縄の「特殊性」を国際社会に刷り込むことは、日本の主権を相対化し、領土問題を曖昧にするうえで、極めて有効な手法だ。人権の仮面をかぶった地政学――そう呼ぶほかない。

そもそも国家の成立史が清廉潔白な国など存在しない。侵略、併合、服従。その積み重ねの上に、現在の国境線がある。それをすべて民族問題として再定義すればどうなるか。世界地図は過去にさかのぼるたび、何度でも塗り替え可能になる。日本国内ですら、文化や方言の差異を突き詰めれば、「民族」は無限に分裂するだろう。そんな議論が社会の安定に資するはずがない。

だからこそ、民族的権利と文化的多様性は切り分けねばならない。国家とは、単一民族の“純度”を競う装置ではない。多様な出自を包摂するための現実的な枠組みであるべきだ。沖縄の歴史と文化が独自であることは疑いようがない。しかし、それを「固有の民族国家」として国際政治の文脈で強調する行為は、沖縄を守るどころか、不安定化させる。

第二次世界大戦後、国際法は明確な線を引いた。「武力による領土変更は違法」。民族自決権も、植民地支配や戦後の不当な併合といった限定的状況にのみ適用されてきた。もし大戦前にまで遡って民族自決を全面解禁すれば、過去の歴史を理由にした領土要求が噴出し、新たな侵略を正当化する世界が到来する。

国連が琉球人を先住民族と位置づけた勧告も、あくまで人権文脈の延長線上にある。だが現実を見れば、沖縄県議会や県内自治体が公式に「先住民族宣言」を出した例は一度もない。県内自治体関係者の言葉が象徴的だ。「文化は大事だが、“民族国家”なんて言われ方をされると、話は別になる」

比較されがちなアイヌ民族も同様である。自治体が固有民族認定を求めたのではなく、国連勧告と国会決議によって位置づけが定まった。一方、沖縄は県全体が琉球文化圏に属する。それでも踏み込まなかったのは、「日本人であり、琉球人でもある」という重層的アイデンティティを尊重し、分断を避けるという現実的判断だったのだろう。

それにもかかわらず、沖縄を「固有民族国家」として国際社会に売り込む動きがあるとすれば、その目的は文化保護ではない。政治利用だ。豊見城市や石垣市の議会が抗議決議に踏み切ったのは、その危うさを直感的に理解しているからにほかならない。民族問題を過去へ過去へと無制限に持ち込めば、世界は再び「力が正義」の時代へと逆戻りする。その入口に、沖縄を立たせてはならない。

結論は明快だ。沖縄の文化的権利は最大限尊重されるべきだが、それを「民族国家」として政治的に消費することは、日本の安定と国際秩序の双方を損なう。国際社会の勧告をどう受け止めるか。その最終判断を下すのは、外からの声ではない。民主的手続きと、住民自身の意思だ。

佐賀関火災と漁村防災2025年11月23日

佐賀関火災と漁村防災
海風に煽られた火の粉が夜空を染め、狭い路地を逃げる住民の背中に炎が迫る――。大分市佐賀関で発生した大規模火災は、わずか数時間で170棟以上を焼き尽くした。強風と乾燥、そして木造家屋の密集という“条件の三重奏”が、漁村を丸ごと呑み込んだのである。様相は2016年の糸魚川大火とまるで写し鏡。日本の沿岸部に横たわる「木密・道狭・空家多数」という構造的リスクが、再び牙をむいた格好だ。

全国あちこちを巡って目に付くのは佐賀関のような漁村は山のように存在していることだ。リアス式海岸に張り付くように形成される漁村は、平地が乏しく、家屋は密集。道は生活導線に合わせて曲がりくねり、生活道路は軽トラ一台がやっと通るか通らないかの幅が当たり前だ。中には狭い階段が坂の上まで続くところも少なくない。人口減少と高齢化が進んだ結果、空き家は増え、無人の家は火の発見を遅らせ、延焼拡大の“燃料”にもなる。佐賀関だけが特異なのではない。全国に同じ危うさを抱えた漁村は数百単位に上るという。

制度がないわけではない。建築基準法の接道義務やセットバック規定、防火地域指定、空き家対策特措法もある。だが既存集落に対しては強制力が弱く、「危険空き家」に該当しなければ自治体も手を出せない。財政体力の乏しい小規模自治体では、撤去や道路拡幅など“面的な改善”には踏み出せないのが実情だ。こうして三重苦は、まるで“構造的宿命”のように温存され続けている。

 しかし、解決の糸口は確かにある。その一つが、京都府伊根町の舟屋群のケースだ。海沿いに建ち並ぶ独特の景観で知られる伊根町では、老朽化した舟屋が増え、耐震性・防火性ともに問題が指摘されていた。そこで町は、文化庁・府と連携し、「景観を残しながら防災性を高める」方針へかじを切る。不燃材による補強、屋根材の更新、耐火性の高い建具の導入など、外観をほぼ変えずに安全性を底上げした。撤去が必要な建物には公費補助を組み合わせ、空き地は防火広場や避難スペースとして再配置した。つまり伊根は、“景観か防災か”という二者択一を乗り越え、両立を実現した数少ない成功例だ。

佐賀関のような漁村に必要なのは、この「両立の設計思想」であり、自治体任せでは到底実現し得ない制度的後押しだ。国が動くべき優先順位は明確だ。第一に、空き家撤去の公費負担を恒久化すること。 撤去後の土地は延焼遮断帯となり、防火広場として再配置できる。第二に、再建築時のセットバックを徹底し、不燃化リノベーションへの補助制度を広げることで、道路拡幅と防火帯形成を同時に達成できる。第三に、所有者不明土地の公的管理を強化し、国交省・消防庁・水産庁の縦割りを越えた合同プログラムを創設することだ。

「人口の少ない漁村に多額の税金を投入する価値はあるのか」。必ず出る疑問だ。しかし、ひとたび火災や津波が集落を飲み込めば、被害額は数十億円単位になる。景観資産や歴史文化の喪失は、金額では測れない。漁港は食料安全保障の要であり、沿岸防災の最前線でもある。観光、移住促進、地域ブランド――漁村の価値は人口統計に表れない層でこそ大きい。

佐賀関火災は、漁村の防災が“自治体任せでは限界”である現実を突きつけた。火災を都市型自然災害として正式に位置づけ、空き家対策と地域リノベーションを国策として束ねる。伊根町に学ぶべきは、文化を守りながら安全性を底上げした“総合的な処方箋”である。次の火災の報は、決して遠い未来の話ではない。分かっていたのに動かなかった――そんな悔恨だけは残してはならない。

広島県初の女性知事誕生2025年11月18日

初の女性県知事誕生
広島県政に、久々の“地殻変動”が走った。2025年11月、広島県知事選で横田美香氏が初当選。女性として初の県知事誕生という華やかなニュースは、見出しとしては文句なしだ。本人も「ここからが新たなスタートライン」と語り、行政の硬い壁を破る意気込みをにじませた。しかし、祝福ムードの裏側で、静かだが深く沈んだ“数字”がすべてを物語る。投票率30.09%──過去2番目の低さである。この一票の軽さは、県政への無関心ではない。むしろ「地方政治は何を変えてくれるのか」という、深い諦念の表れだ。

広島の人口規模は270万人の中位ランク。行政能力も人材も、決して劣る県ではない。それでも実態は、中央官庁が引いた“レールの上”を走るほかない。財源の7割は国の枠組みに縛られ、制度は細部まで中央設計。知事といえど、政策的な“フリーハンド”は限られ、地方創生も結局は「国が決めたメニューの選択制」にとどまる。これでは、若者や女性の声を吸い上げようにも、政策に“裁量”として反映できる余白が少ない。地方自治という看板の下で、実態は「制度の執行機関」。この構図が変わらぬ限り、誰が知事になろうと、刷新はプログラムの上書き程度の話で終わる。

さらに深刻なのは、小規模自治体だ。日本の知事のうち約4割強が、有権者数100万人未満の自治体を統治している。有権者数が50万人を切る(4県)と、政策立案チームをつくる余力は乏しく、専門職は流出し、財政運営は火の車。自治を名乗りながら、実態は“キーボードで国の書式を書き写すだけ”という役所すら珍しくない。こうなると住民は行政に期待しなくなり、行政は住民に説明しなくなる。負のスパイラルが固定化されるのだ。

ではどうするか。この国が避けてきたが、いずれ正面から向き合わざるを得ないのが隣接自治体との自動合併制度である。人口規模を再編し、行政コストを抑え、専門人材を面的に配置するためには、もはや自治体境界線という“昭和の線引き”にこだわっている余裕はない。もちろん、地域アイデンティティの毀損という副作用は重い。地名が消えることへの抵抗感、歴史の連続性が途切れる不安──そうした“心の領域”も丁寧に扱わなければならない。だからこそ段階的導入と地域自治区制度の併用が現実的だ。行政効率と文化的継承を“分けて処理”する戦略である。

しかし、自治体の境界線を動かしただけでは、本質的な改革にはならない。必要なのは、制度・人材・財源・住民参加・政治評価軸の五要素を、同時並行でアップデートする「同時多発的刷新」だ。財源の自由度を高め、人材の広域流動性を確保し、デジタル参加型制度で住民の声を可視化し、地方行政を第三者が評価する仕組みを整える──これらを一つでも欠けば、改革は“形だけの自治”に逆戻りする。

そして忘れてならないのが、「知事という役割の再設計」である。知事はもはや“官僚の出先機関長”では務まらない。地域社会の調停者であり、民間・大学・行政を束ねるハブであり、中央官庁と対等に交渉する政治家であるべきだ。横田氏の当選は、この新しい知事像への期待も背負っている。だが、その期待に応えるには、「制度の壁」を破る知恵と胆力が問われる。行政の慣性、中央の指示系統、住民の無関心──三つの壁はいずれも高い。

結局、今回の知事選は、刷新への希望であると同時に、地方政治の疲弊を突きつける“鏡”でもあった。広島の一票は、静かにこう訴えているように見える。『地方自治という古い装置を、このまま延命させるだけでいいのか?』地方が変わらなければ、国は変わらない。だが、地方を変えるのは、中央でもなく、制度でもなく、最終的には“住民の意思”である。その意思を再び呼び覚ますまで、時計の針は残酷なほど待ってはくれない。

柿と大根のおすそ分け2025年11月16日

柿と大根のおすそ分け
秋になると、農家の友人が「豊作で捨てるには忍びないから」と言って、大根や柿をおすそ分けしてくれる。実は昨日も、先週も、老人クラブの仲間から柿やサラダ菜をいただいたばかりだ。大きな大根を二本ももらえば、夫婦二人では半月はもつ。柿は関西では今年豊作らしく、何かの集まりがあるたびに誰かが持ってきてくれるのだが、正直なところ、もう食べ飽きてしまった。最近では、熊の出没が話題になっており、庭先の柿を早めに処分したほうがよいという話も耳にする。そんな事情もあってか、私の周囲では柿のインフレーションが続いている。ありがたいけれど、冷蔵庫にも胃袋にも限界がある。

さて、目の前にある立派な大根をどうすべきか。大根は、煮物、炒め物、サラダ、漬物など、調理法の幅が広く、台所では頼もしい存在だ。特に秋冬の旬には甘みが増し、味が染みやすくなるため、家庭料理において重宝される。煮物なら「豚バラ大根」や「鶏大根のにんにく煮」、「ブリ大根」などが定番。醤油、みりん、酒を使った甘辛い味付けが基本で、肉の旨味が大根に染み込むと、主菜としての満足感も高い。圧力鍋や電子レンジを使えば、短時間で調理できるのもありがたい。

葉付きの大根なら、葉も無駄にはできない。「じゃことの炒め煮」や「ふりかけ」にすれば、ご飯が進む一品になる。シャキシャキとした食感と香ばしさが魅力だ。漬物としては「紅白なます」や「浅漬け」、「柚子胡椒なます」などがあり、保存性にも優れ、箸休めにぴったり。さらに、「ふろふき大根」や「大根ステーキ」といった、素材の味を活かしたシンプルな料理も捨てがたい。

葉は栄養価も高く、炒め物や菜飯、味噌汁などに活用できる。保存するなら、冷蔵でも冷凍でも可能で、下茹でしておけば煮物や汁物にすぐ使える。一本の大根で主菜から副菜までこなせるのだから、やはり台所の味方である。とはいえ、冷蔵庫の空きと相談しながら、さて、どう使い切ったものか。そんなことを考えるのも、秋の楽しみのひとつかもしれない。