政治家の言葉2025年07月21日

石破氏は言葉に責任を
選挙でボロ負けしても辞めない政治家。もう驚くことでもないが、石破首相の「続投表明」は、その中でも群を抜く説得力のなさだった。与党は参院選で改選・総数ともに過半数割れ。衆院でも多数を失い、とうとう衆参ともに“少数与党”というお寒い状況に突入した。それでも石破氏は「政治空白は避けなければならない」「比較第1党として責任を果たす」などと殊勝なことを並べ立てた。だがその言葉が、いかにも空々しく響くのはなぜか。

理由は簡単。かつての石破氏が、まさにこういう状況の首相を“断罪”していたからだ。そう、あの2007年。参院選で過半数を失った安倍政権に対し、石破氏は「責任も取らないようでは自民党が終わる」とまで言い切っていた。衆院327議席という鉄壁の多数を持っていた安倍政権に、である。今の石破政権は、その当時よりもはるかに足元がグラグラ。衆参ともに過半数を失い、制度的にも政局的にも不安定。なのに本人は「国政の停滞を防ぐ」などと抽象的な理屈だけで居座る気満々。記者会見でも「国民の声を真摯に受け止める」と言いながら、責任の取り方は語らず、再建策もゼロ。結局「しばらく様子を見る」とお茶を濁しただけだった。

これがあの“説明責任”を振りかざしていた石破氏か。都合が悪くなれば自分には甘い。政治家の言葉が軽くなるのは、こうした前言撤回の積み重ねからだ。とはいえ、石破氏ばかりを責めてもいられない。党内には「火中の栗は拾いたくない」という空気が蔓延し、誰も次を引き受けようとしない。野党も野党で、解散総選挙を迫る気概すら見せない。選挙の勝敗より、議席数の出入りより、もっと深刻なのはこの“無責任の連鎖”である。「続投は方便だ」「逃げ切りたいだけだ」という声は、もう街頭だけではない。政治家が言葉に責任を持たないなら、有権者がそのツケを払わされることになる。信頼なき政治は、やがて信任も失う。石破氏の“自分の発言に責任持たぬ続投”は、その象徴に見えてならない。

愛の、がっこう2025年07月22日

愛の、がっこう
旅から帰ると、いつもの儀式が待っている。録り溜めたドラマの一気見だ。ちょうど夏の新ドラマが出そろう時期と重なったこともあり、リモコン片手に夜な夜な録画リストとにらめっこをする。夏ドラマのラインナップは、相変わらず「刑事」「医者」「弁護士」「学校モノ」といったおなじみの顔ぶれだが、近年は登場人物の中に発達障害を抱えるキャラクターを配した作品が増えている。サヴァン症候群の天才が難事件を解決するタイプはもはや定番だが、今年は学習障害(LD)に焦点を当てたドラマも登場した。

面白そうなのはフジテレビの『愛の、がっこう』。真面目すぎる高校教師・愛実(木村文乃)と、夜の世界でNo.1を目指すホスト・カヲル(ラウール)という、いかにもドラマ的な組み合わせが織りなす恋物語である。禁断の恋、だがどこか真っ直ぐで純粋。そんな空気感が漂う。愛実は堅い家庭で育ち、親の言うまま教師という道を選んだ人物。生徒のホストクラブ通いをきっかけにカヲルと出会い、読み書きが苦手な彼に“個人授業”を始める。それを通して、互いに自分の孤独や不安に気づいていく。立場も境遇も違う2人が、格差や偏見、周囲の反発を乗り越えながら「愛とは何か」を学んでいくという筋書きだ。

脚本は『白い巨塔』や『昼顔』などで知られる井上由美子。いかにも漫画が原作かと思いきや、完全オリジナル。人間の業や社会のひずみに切り込む作風には定評があるだけに、今回の題材にもある種の真摯さを感じる。キャスティングも興味深い。木村文乃は相変わらず「可もなく不可もなく」の安定した芝居だが、驚いたのはホスト役のラウール。Snow Manのセンターというイメージが強いが、役者としての一面もなかなかどうして魅力的だ。ベネズエラ人の父と日本人の母を持つ22歳、小学3年で少年ダンス世界大会準優勝という経歴にも驚かされる。

とはいえ、ドラマの中での読み書き障害の描かれ方は今のところやや表層的で、指導場面が形式的に過ぎる印象も否めない。このあたり、今後の展開にもうひと掘りふた掘り、踏み込んだ描写を期待したい。そんなこんなで、旅の余韻もそこそこに、今は録画チェックが止まらない。眠気と闘いながら、夜更けのテレビ画面にまた今日も付き合うことになりそうだ。

石破退陣“茶番劇”2025年07月23日

石破退陣“茶番劇”
「石破首相、退陣へ」この速報が飛び交ったのは、朝だった。東京・大阪の駅前では号外が配られ、政界関係者は「ついに来たか」と色めき立った。選挙惨敗の責任を取る形で辞任の意向を固めた、というのが各社の報道だった。だが、そのわずか数時間後。石破茂首相は、麻生・菅・岸田という歴代首相との異例の会談を終え、記者団の前に姿を現すと、「出処進退については一切話していない」と、あっさり否定。号外まで出した報道各社は赤っ恥、首相官邸は苦笑、そして国民はあきれ顔。まさに前代未聞の“報道と現実の乖離”劇が繰り広げられた。急転直下の背景には、同日早朝に合意された日米関税交渉がある。日本は自動車関税を25%から15%に抑える成果を得たとされ、石破首相は「国民生活を守るため全力を尽くす」と続投の意欲をアピール。だが、それで幕引きとはいかなかった。自民党内では、「石破おろし」が一気に炎上。青年局や地方組織からは即時退陣を求める声が噴出し、神奈川県連は「責任の明確化を」との文書を提出。党内分裂の兆しがあちこちに顔を出している。

そもそも石破氏は、選挙直後に「関税交渉の見通しが立たない今は辞められない」と言っていたはず。ならば交渉が妥結した時点で「お役御免」となるのが筋ではないのか。それが今度は「細目の調整が残っている」と言い出し、引き続き居座る構え。こうなってくると、「またか」とため息をつく国民の姿すら想像に難くない。実際、石破氏の“言行不一致”はこれが初めてではない。過去の発言撤回や方針転換を重ねてきた彼に対し、党内では「信用できない」という声も根強い。国民ももはや驚かず、「どうせまた覆すんだろう」という冷笑ムードが漂う。首相の言葉が軽くなっているという点で、実に深刻な事態だ。

石破氏にしてみれば、もはや与党の空気も党内の不満も眼中になく、「ただただ総理でありたい」という執念だけが透けて見える。一部では「野党と手を組んででも政権維持を狙っているのでは」との見方もあるが、そこまで行けば、自民党全体が“節操なき政党”として国民に見限られるのは時間の問題だ。故・安倍晋三元総理は生前、石破氏に対しては「絶対に総理にしてはいけない」と周囲に漏らしていたのは有名な話。最近の政局を“あの世”から見て、さぞ眉をひそめているか、「ほら見たことか」と嘆いているかもしれない。混迷を極める政局、揺れる与党、そして“退陣否定”の怪文書劇。石破首相は「政治空白は許されない」と言い切るが、すでに空白どころか、「信頼の真空地帯」が広がっているように見える。

教育勅語と参政党2025年07月24日

教育勅語と参政党
通常国会で、文部科学省が教育勅語についてちょっと気になる発言をした。「もう法的な効力はないけれど、憲法や教育基本法に反しないなら、教材として使ってもいいですよ」と。え? 何の授業に使う気? と思わずつぶやきたくなる。この発言、実は最近じわじわと動き出している“教育勅語の再評価”と無関係ではない。参政党などは、「孝行」や「友愛」「修学習業」なんていうキーワードを、道徳の普遍的な価値として見直し、日本の教育にもう一度根づかせようとしている。たしかに、どれも一見すると悪くない言葉に見える。でも、それを「国家が教育として推す」となると、話は別だ。

道徳は、一人ひとりの価値観や経験、文化、宗教などに支えられているもので、「これが正しい」と一律に決めつけるものじゃない。そこに政治が首を突っ込むと、どうしても「これが“正しい道徳”です」という押しつけになりやすい。そうなると、教育の自由や多様性は、簡単に失われてしまう。こうした問題は、教育勅語に限らない。たとえば平和教育やLGBTQをめぐる教育も、右派と左派の間で意見が割れる中、「あるべき倫理観」を学校でどう教えるかが大きなテーマになっている。右でも左でも、「望ましい価値観」を学校で教えようとする流れは似ていて、どちらにも「これはほんとに教育の中立性を保ててるのか?」という疑問がついてまわる。

では、何を教えるべきなのか。今の日本で一番足りていないのは「政治教育」だと思う。制度の仕組みや社会の動き、自分の意見をどう表現するか。他者とどう議論し、折り合いをつけるか。そういった力を身につけることこそ、これからの社会を生きる子どもたちにとって本当に必要なことじゃないだろうか。ところが実際には、政治教育はあまり真剣に扱われていない。教育基本法には「良識ある公民として必要な政治的教養は尊重されるべきだ」ときちんと書かれているのに、現場では「政治的中立」という言葉が大きな壁になる。教師が少しでも“政治的”な話をすると、「偏っている」と非難されるのを恐れて、踏み込めない。

それに比べると、教育勅語を使って道徳を語ることには、なぜか肯定的な空気がある。個人の内面に踏み込む道徳教育が容認される一方で、社会の制度やしくみを学ぶ政治教育が敬遠される――このバランスの悪さには違和感を覚える。おかしくないだろうか。本来なら、道徳も政治も教育の一部であるはずなのに、なぜか政治教育だけが「避けるべきもの」とされがちだ。そもそも道徳をどう教えるかは、とても難しい問題だ。だからこそ、政治家がこのテーマに触れる際には、どの立場であれ、慎重であってほしい。自分たちの思想を押し付けるのではなく、子どもたちが多様な考え方に触れ、自ら思考できる環境を整えることが何より重要だと思う。

その意味で、「考える力」を育てる教育こそが、道徳教育よりも優先されるべきではないか。今回の文部科学省の答弁は、教育勅語をどう扱うかという問題を超えて、「そもそも教育とは何か」という問いを私たちに投げかけているように思える。「自分の頭で考える力」を育てる政治教育を、本気で見直すべき時ではないか。参政党による教育勅語に関する国会質問も、政治教育が十分に行われなかった公教育のツケだと考えれば、その背景は見えてくる。道徳とは、社会の鏡である。なのに、一貫性を欠いた言動を繰り返す国のリーダーの姿勢が、教育の場にまで幼稚な議論を呼び込んでいるのだとしたら、その影響力は無視できない。価値の押し付けではなく、思考の自由を尊重する教育へ。この議論はその一歩として、極めて重要な意味を持つのではないだろうか。

IMFの財政「忠告」の本音2025年07月25日

IMFの財政「忠告」の本音
「減税や補助金はやめとけ」――そんな“お達し”が、7月24日に国際通貨基金(IMF)から日本に飛んできた。一見するとこれは、財政の健全化を求める真っ当な助言のように見える。しかし、その中身は財政運営の技術論を超え、国民生活と民主主義の根幹にかかわるものである。IMFの報道官は「財政支出はもっと絞るべき」「支援するなら、ほんの一部の人に限定して」と発言した。だが、タイミングが妙である。ちょうど参院選で減税を掲げる野党が伸びた直後であり、選挙結果を受けた日本の方向転換に、国際機関が“待った”をかけた形といえる。こうした発言の裏には、単なる財政論を超えた政治的含意が見え隠れする。「的を絞れ」という言い回しは、支援する人を選別する余地を残す。つまり、どこまでが“支援に値する人”かを誰が決めるのか、という問題が出てくるのである。生活に困っている人たちへの支援が後回しにされる――そんな未来が想像される。

さらに忘れてはならないのは、日本政府自身がこれまで概ねIMFの方針に従い、消費税を引き上げ、社会保険料を増やし、財政支出の抑制に努めてきたという事実である。その結果が何であったかといえば、「失われた30年」と呼ばれる長期停滞である。実質賃金は上がらず、家計の負担は重くなり、将来不安ばかりが積み上がっていった。財政の健全化が経済の健全化を必ずしも保証しないという歴史的教訓を、私たちはすでに経験済みなのである。しかも、これは日本だけの話ではない。韓国、アルゼンチン、ギリシャ…。過去にもIMFの“アドバイス”は、緊縮政策を押しつけることで失業や社会不安を招いてきた。なかには、国の制度や企業が外資に牛耳られるようになった例もある。つまり、IMFの助言は時に“経済のお医者さん”というより“外資の営業マン”の顔をのぞかせることがあるのである。

そして今、日本にもその波が改めて押し寄せている。補助金の廃止、消費税の単一税率化と引き上げ、所得控除の見直し――どれも、生活に直結する制度をじわじわと削る話ばかりである。さらにIMFは「補正予算は大きな危機のときだけ」と言い、平時の景気対策には冷淡な姿勢を取っている。要するに、IMFが持ち込むのは「お金を使わない国づくり」である。しかし、それが果たして国民にとって“健全”なのか。過去の日本がIMF型の財政運営を続けてきたにもかかわらず経済再生に失敗したという現実を前に、今一度立ち止まって考える必要がある。

そもそも国の財政をどう使うかは、国民の選択で決めるべき問題である。選挙で示された声を、外から「それはダメ」と遮られるのは本末転倒である。IMFの言う「中立的なアドバイス」には、それが誰のための“中立”なのかという問いを投げかける必要がある。経済も民主主義も、私たちの暮らしに直結する問題である。声を上げるのをやめたとき、“外からの声”がどんどん大きくなる。また、国連機関だからと何でも信用しがちなのは戦後日本の悪い癖だが、自主独立で他人任せにしない姿勢が今ほど求められている時はない。

日米片務関税協定2025年07月26日

日米片務関税協定
日米関税交渉が妥結し、政府は「対等な経済パートナーシップの新時代」などと胸を張った。だが、その“対等”の中身を見れば、これは日本がカネと制度と未来を差し出し、アメリカが利益と戦略とGDPをしっかり持ち帰るという、見事なまでの「片務協定」。外交の皮をかぶった経済献上策に他ならない。まず自動車関税。アメリカが25%から15%に“下げてくれた”と政府は大喜びだが、そもそも25%という異常な関税はトランプ政権時代の恫喝まがいの政治的上乗せ。その“異常”をちょっと戻しただけで「成果」と言われても、白けるだけだ。しかも鉄鋼やアルミは「国家安全保障」の名の下に交渉対象から除外され、50%の高関税はそのまま居座る。これで自由貿易を語るのは、もはやブラックジョークの域だろう。

さらに目を引くのは、日本からアメリカへの「85兆円規模の対米投資」。対象は半導体やAI、量子技術など“成長分野”ばかり。ところが利益の9割はアメリカの取り分で、日本が元を取れるのは15年後――という算段だという。いや、元が取れればまだマシ。その間に政権交代でもあれば「契約見直し」という名のちゃぶ台返しも現実味を帯びる。他方、農業・防衛・エネルギーも“アメリカファースト”の宴。日本は米国産コメや大豆など約1.2兆円分の農産物を購入し、さらに米製航空機100機(2.4兆円)、防衛装備品(4,400億円)、LNG契約の拡充まで。総額6兆円を超える“爆買いリスト”は、まるで防衛と経済の福袋。レジ袋はもちろん日本持ちだ。

こうして輸出は2.2兆円減少、輸入は6兆円増加。差し引き8.2兆円もの貿易黒字が吹き飛ぶ見通しとなった。財務省や日銀が誇った“健全な経常収支”にも、急速に皺が寄り始めている。政府は「2025年度の名目GDP成長率1.2%」と楽観的な数字を並べるが、内訳を見ればその実態は、海外投資と公的支出による“見かけ倒し”。国内消費はほぼ横ばい、実質個人所得はマイナス。庶民に景気回復の実感などあるはずがない。一部のエコノミストは、資本流出と産業空洞化によって「2026年にはGDP成長率が0.5%を割り込む」とリセッション入りを警告する。世界に目を向ければ、日本の名目GDPは2026年にインドに抜かれ、世界4位へ転落。2030年にはドイツ、さらにはインドネシアにも抜かれる可能性すらあるという。国際協調は結構だが、自国の衰退を見過ごしてまで“協調”するのは単なる自己犠牲に過ぎない。

一方、アメリカは今回の合意をテコに「投資利益・雇用増・GDP押上げ・税収増」の4本柱で潤う設計。年10兆円以上の恒常的利益がアメリカにもたらされる試算もある。これで「対等」などと言われて納得するのは、もはや政府広報だけだろう。要するに、日本が一生懸命稼いだ金と技術が、巡り巡ってアメリカの利益になるように、経済の仕組みそのものが“アメリカ受け”に改造されているのだ。簡単に言えば、日本は経済でアメリカに勝たせることで外交を買っている構図である。この合意のツケを払うのは誰か。いま支出しているのは政府だが、その原資は税金。つまり、負担を背負わされるのは「これからを生きる世代」だ。景気対策を語る前に、「誰の景気を良くする合意だったのか」を見極めるべきである。少なくとも、メディアが持ち上げるような石破政権と赤沢大臣が“国益を守った”などとは、到底言えたものではない。

台湾「大罷免」騒動2025年07月27日

大罷免運動
台湾で巻き起こった「大罷免運動」は、単なる市民運動ではない。制度と市民の政治参加、その摩擦と限界を浮き彫りにする、一種の民主主義ショーだった。発端は総統選。民進党が勝利し、総統府は安泰かと思いきや、立法院(国会)では国民党が多数を占める“ねじれ”状態に突入。すると野党主導で法改正がゴリゴリ進み、与党も市民団体もブチ切れ。ここに登場したのが「大罷免」と呼ばれるリコールの嵐だった。台湾のリコール制度は実に三段階の関門つき。まず発議に有権者の1%、続いて署名で10%、最後は投票で反対票を上回りかつ有効投票の25%以上の賛成が必要だ。小選挙区の有権者数は平均20万人ほどだが、郡部では10万人未満の選挙区も存在する。その場合、発議の1%(1000筆未満)は容易でも、連署の10%(1万筆前後)を得たり、一度選挙で結果の出た勝敗結果を覆す賛成票を得るのは至難の業だ。制度としては市民参加を保障しているように見えて、実際にはリコール成立のハードルは極めて高い。しかも議員就任から1年間はリコール不可という、なかなかにガードが堅い。制度としては“市民の声をカタチに”と耳ざわりはいいが、実際に成功したケースは稀。今回も案の定、全部否決され、制度のハードルの高さと、政治勢力の壁の厚さが証明された格好だ。

とはいえ、ここでふと日本に目を向けてみると、台湾がむしろうらやましく見えてくる。たとえば石破茂氏のように、「なんだかんだでまだ居座ってるな…」と国民の不満がくすぶる政治家がいたとしても、我々にはリコールの手段がない。日本ではリコールはあくまで地方限定。国会議員に関しては、選挙で落とすか、世論で圧をかけるかの二択しかない。もちろん日本には「伝家の宝刀」総選挙があるじゃないか、という声もあるだろう。だがそれとて、最終的には政党内の力学と、首相の胸三寸。市民が任期途中の議員に「ちょっと待った!」を突きつける術は、制度上まるで用意されていないのだ。

台湾のリコール運動は、その成否以前に、「市民の政治的エージェンシー(自らの意思で政治に関与する力)」を制度がどこまで保証しているか、という問いを突きつける。声を上げる自由はある。だが、それが実際に政治を動かす構造になっているかは、また別の話だ。民主主義とは果たして“選挙の頻度”か、“参加の濃度”か。台湾と日本、大統領制か議院内閣制か制度の対比が、政治意識の差として浮かび上がってくる。

人の生活圏に住み始めたクマ2025年07月28日

“人の生活圏”に住み始めたクマ
かつてない「クマ出没時代」を迎えている。7月下旬、観光地や住宅街での目撃情報が後を絶たず、東北から北海道にかけての“人間のテリトリー”に、黒い影が静かに、しかし確実に入り込んできている。秋田では畑作業中の男性が襲われて重傷。山形では住宅街に現れたクマがドローンで追われ、新潟では親子連れのクマが堂々と街を闊歩。北海道・斜里町ではヒグマがシカを捕食する衝撃映像が撮影された。そして青森では、住宅地やバス停付近といった“完全なる生活空間”での目撃が続発。もはや「クマが山から下りてきた」などという牧歌的な表現では済まされない。現実は「定住化」だ。

特に世間を震撼させたのは、岩手県北上市の惨劇。7月4日、81歳の女性が自宅の居間でクマに襲われ、命を落とした。民家の玄関を突き破り、居間まで入り込んでの襲撃。もはやホラー映画のワンシーンだ。翌週、近隣で駆除されたクマのDNAが一致。人間の“安全地帯”は、紙一重でしかなかったことが証明された。さらに道南・福島町では、7月12日早朝、新聞配達中の男性がヒグマに襲われ死亡。このクマ、4年前に同じ町で別の女性を襲った“前科持ち”の個体であることがDNAで判明した。駆除後には「かわいそうだ」「殺すな」と道内外から抗議が殺到。だが道庁は毅然と「人命の方が大切」と声明を出す事態に。クマと共生できる理想論と、現場の現実が激しくぶつかり合った。

環境省の統計によれば、2025年上半期だけで全国で約5,000頭が補殺されている。この10年間で累計約3万頭。にもかかわらず出没件数は増えるばかり。推定生息数は2万〜5万頭とされるが、補殺数との辻褄が合わない。実数はもっと多いのでは、という見方も出始めている。「補殺は有効、だが数が追いついていない」。そう指摘する専門家も少なくない。もし“年間1万頭”を目標に管理するなら、猟友会の若返り、自衛隊OBの活用、AIや赤外線ドローンによる個体追跡、そして出没予測モデルの構築など、制度の大改革が必要になる。親子グマや繁殖期への配慮、国費による安定予算の整備、情報公開と住民合意の仕組みも欠かせない。

いま、クマは「山の住人」ではなく、「都市に隣接する野生」として再定義されつつある。「保護か駆除か」の二項対立では、もはやこの問題は乗り越えられない。都市化する自然に、どう向き合うか。それは感情論ではなく、制度と科学と倫理が交差する、極めて現代的な問いだ。次にクマが現れるのは、自分の住む町かもしれない。日本社会にその覚悟ができているかと言えば心許ない。

女子大最後の砦2025年07月29日

女子大最後の砦
先日、関西有数の名門女子大・武庫川女子大学が突如として発表した「2027年度からの共学化」──その波紋は、全国の女子大関係者を震撼させた。新たな名称は「武庫川大学」。看板から“女子”の二文字が消えるこの一大転換劇は、日本の女子大制度における“終わりの始まり”を象徴している。学生数は全国最多の約9600人。定員充足率は毎年ほぼ100%。財務も健全。そんな“安泰”のはずの武庫川が、なぜ今この決断を下したのか? 背景には、もはや見て見ぬふりができなくなった。「女子大離れ」と少子化のダブルパンチがある。大学側は、これは単なる経営戦略ではないと主張する。キーワードは「皆学(かいがく)」。“共学”ではなく、“すべての人に開かれた学び”を掲げた理念の転換だという。だが、こうした美辞麗句が学生や保護者の怒りを和らげるはずもなかった。実際、方針転換の発表後には5万件超の反対署名が集まり、「裏切られた」「女子大だから入学を決めたのに」といった声がSNSを埋め尽くした。特に医学・看護・教育といった“女性向け”とされてきた分野に進む学生ほど、女子大ならではの安心感や教育環境に期待していただけに、衝撃は大きい。

女子大学の危機は、今に始まったことではない。2020年代に入り、学習院女子大学や恵泉女学園大学は募集停止を決定し、京都ノートルダム女子大学は閉学を選択。2025年現在、日本の女子大は71校、学生数は13万人で、大学生全体のわずか4.4%。かつて「良妻賢母」の養成機関とされた女子大は、いまや存続自体が危うい。ただ、世界に目を向ければ、この状況がいかに“ガラパゴス”かがわかる。アメリカには女子大学は40校未満、韓国では数校、ヨーロッパに至っては制度上、女子大学というカテゴリすら存在しない。国際的には、ジェンダー分離の教育は時代遅れとされ、共学化が常識になりつつある。だが、女子大には女子大なりの“意味”があったはずだ。性別による区分ではなく、女性のエンパワーメントやジェンダーを批判的に問い直す場としての機能それは今後、共学の中でも必要とされる思想である。たとえば京都女子大学では「女子大学宣言」を掲げ、あえて“女子”という言葉の意味を再定義する動きも出ている。単なる制度の延命ではなく、「なぜ女子大なのか」という哲学的問いへの回答を模索する気配もある。

では、武庫川の「皆学」は前向きな未来像か、それとも静かなる撤退戦か。どちらにせよ、今回の共学化は単なる看板の掛け替えではなく、「制度」から「思想」への転換を志向したものには違いない。日本の高等教育が抱えるジェンダー構造の再編という難題に対し、武庫川女子大学は一つの“答え”を提示しようとしているように見える。だが、「女子大から共学へ」という動きを、ことさらジェンダー問題としてアピールする時点で、日本の教育がいまだに“発展途上”であると白状しているようにも映る。世界の教育界ではすでに“共学か否か”は論点ですらない。そこにこだわること自体が、日本の教育制度が“性別”という座標軸にとらわれている証左ではないか。

そもそも、私立大学がどのような属性の学生を集めるかは、建学の精神とセットで語られるべき問題である。つまり、「女子大であり続けたい」という理念も、「共学に移行したい」という判断も、本来なら外部がとやかく言う筋合いの話ではないはずだ。だが現実には、「女子大」であること自体が時代遅れとされ、共学化を“正義”のように語られる空気がある。そこにあるのは、教育理念への理解ではなく、制度の均質化を求める無言の圧力だ。武庫川の「皆学」がその圧力への創造的な応答であることを願いたい。そして、「誰でも入れる大学」ではなく、「誰にでも学びの場が開かれている大学」であってほしい。

津波避難指示のあり方2025年07月30日

津波避難指示のあり方
カムチャツカ沖でM8.8の巨大地震が発生し、日本列島にも津波警報が鳴り響いた。関西では潮位1メートル程度の予測ながら、自治体はこぞって「警戒レベル4」の避難指示を発令。防災無線が騒がしくなると、人々は一斉に避難所へと押し寄せた。だがその先に待っていたのは、“命を守る場所”とはほど遠い光景だった。猛暑の中、冷房は頼りなく、水も不十分。逃げ込んだ先が「避難所という名のサウナ」では、どこに安全があるのか。うちわ片手にぐったり座り込む高齢者と子どもたち。そんな光景を私たちは、すでにニュースで何度も見せられている。この既視感。コロナ禍真っ只中の2020年、台風と豪雨が重なったあの夏。感染症対策もままならぬ避難所に「行くのが怖い」「密になるくらいなら家にいる」と、住民たちは判断を迫られた。結果、自治体の想定を上回る“在宅避難”が発生。支援も連携も届かず、見えない被災者が増えていった。それから5年。学んだはずの教訓は、どうやら記憶の彼方に消えたらしい。冷房整備率は全国平均で2割程度。災害が来るたびに、「水がない」「エアコンがない」「密になる」の三拍子が繰り返されている。

そして忘れてはならないのが、2019年の台風19号。多摩川氾濫の危機が迫る中、都内の複数自治体が「出すべきか迷った末に避難指示を出した」が、肝心の避難所が開いていなかった。行く場所がない。住民はSNSで情報を探し、右往左往。なぜ、同じ過ちが繰り返されるのか。それはひとえに、「指示は出すが環境は整えない」という、自治体の構造的な欠陥。そしてそれを支えるのが、おなじみ“横並び行政”である。

「周りが出してるから、うちも出す」「万一があったら責任を問われる」――そうした空気に押され、市町村長たちはリスク評価より“保身の空気”を優先。中身のない避難指示が乱発され、暑さと混乱が避難所を襲う。制度的な歪みも深刻だ。津波は気象庁、熱中症は環境省と厚労省、避難所整備は地方自治体――縦割り行政の迷路のなかで、複合災害への一元対応など望むべくもない。いま必要なのは、「避難指示を出した」という既成事実をつくることではない。出したあとにどんな環境を用意できるか――その責任を明確にすることである。潮位とWBGT(暑さ指数)を組み合わせた複合リスク評価、冷房有無による避難所の分類、要支援者の優先導線、環境条件を明記した避難指示文書……、やるべきことは山ほどある。

だが現実はどうか。コロナの教訓も、台風の反省も風化し、「またか」の声すら聞こえなくなりつつある。政治家は口をそろえて「防災が重要」と言うが、今年に入って何が改善されたのか。「防災に力を入れる」と言っていた某首相は、この半年でこの問題に一体どれだけ取り組んだのか。記者会見の原稿には書かれていても、避難所の天井からは冷たい風はまだ吹いてこない。