審議拒否の理由 ― 2026年07月04日
小川党首の記者会見を聞いていると、論理というものは必ずしも階段のように一段ずつ上へ積み上がるものではないらしい、という妙な感慨を覚える。党首はまず「動画作成疑惑には証拠がない」と断言し、続いて「証拠を探すのはわれわれの仕事だ」と胸を張る。さらに「首相が否定しているからといって、否定の証拠を探さなくてよいわけではない」と話を進める。しかし政府は「疑惑の集中審議」について、「証拠のない疑惑を審議しても意味がない」として拒否した。制度運営としては当然の判断である。ところが野党は、この政府の拒否をそのまま自らの全面審議拒否の理由に仕立て上げた。論理の綱は途中までは張られていたのに、最後の支柱だけが別の手で外され、全体がそのまま倒れてしまったような印象を受ける。冷蔵庫にプリンがあった証拠がないのに、食べていないという証拠を出せとは誰でも面を食らう。
さすがにこれだけでは審議拒否の理由として心許なかったのだろう。衆院比例代表の定数削減も「民主主義の危機」として加えられ、捏造疑惑と比例削減という二枚看板を掲げて、衆参の野党はそろって審議拒否へ入った。政治家の言葉というものは、ときに立派な舞台装置のように見える。しかし幕の裏へ回ると、肝心の支柱が一本足りないこともある。
日本の選挙制度というものも、どうやら長いあいだ日本人の政治的気質と、どこか噛み合わぬまま今日まで来てしまったようである。制度とは既製服に似ている。外国で見事に似合ったからといって、日本人にそのまま着せれば寸法まで合うとは限らない。ところが政治家も学者も、ときに仕立屋より既製服屋を信用する癖があるらしい。
小選挙区制が導入された当時、識者も新聞も、これで二大政党制が育ち、日本政治も成熟した民主主義国家らしい姿になる、と景気のよい話をしていた。制度を変えれば政治文化まで変わると信じたのであろう。しかし制度は人間の性分まで作り替えてはくれない。蓋を開けてみれば、政権交代より地域ボスの固定化や死票の増加が目立ち、比例代表は激変緩和のための補助装置だったはずが、いつしか小政党の避難所となった。避難所というものは非常時のために設けられる。しかし居心地がよければ、人はなかなか出ていかない。
もちろん、国民が与党を全面的に支持しているわけではない。経済も社会保障も物価も、注文はいくらでもある。それでも野党に政権を託そうという機運が高まらないのは、制度だけの責任ではあるまい。政策より政局を優先し、選挙のたびに離合集散を繰り返し、国会では審議より対決の構図づくりが前面へ出る。そうした光景を繰り返し見せられれば、有権者が「本当に政権を任せられるのか」「審議を拒否して議員と言えるのか」と首をかしげるのも無理はない。政治とは結局、信頼という目に見えない資本を積み重ねる仕事なのである。
比例代表は少数意見を国政へ反映させる制度であると同時に、小選挙区で議席を得にくい政党にとっては生命線でもある。だから削減論が持ち上がるたび「民主主義への攻撃だ」という声が上がる。しかし、議論すべき当事者が審議そのものを拒めば、有権者は説明を聞く機会を失う。説明を欠いた制度は理解より疑念を生み、疑念は支持より不信を育てる。制度とは舞台にすぎない。観客が見ているのは舞台装置ではなく、その上でどんな芝居が演じられているかである。いま有権者の目に映っているのは制度ではない。そこでどのように振る舞っているかという政治家たちの姿なのだ。
さすがにこれだけでは審議拒否の理由として心許なかったのだろう。衆院比例代表の定数削減も「民主主義の危機」として加えられ、捏造疑惑と比例削減という二枚看板を掲げて、衆参の野党はそろって審議拒否へ入った。政治家の言葉というものは、ときに立派な舞台装置のように見える。しかし幕の裏へ回ると、肝心の支柱が一本足りないこともある。
日本の選挙制度というものも、どうやら長いあいだ日本人の政治的気質と、どこか噛み合わぬまま今日まで来てしまったようである。制度とは既製服に似ている。外国で見事に似合ったからといって、日本人にそのまま着せれば寸法まで合うとは限らない。ところが政治家も学者も、ときに仕立屋より既製服屋を信用する癖があるらしい。
小選挙区制が導入された当時、識者も新聞も、これで二大政党制が育ち、日本政治も成熟した民主主義国家らしい姿になる、と景気のよい話をしていた。制度を変えれば政治文化まで変わると信じたのであろう。しかし制度は人間の性分まで作り替えてはくれない。蓋を開けてみれば、政権交代より地域ボスの固定化や死票の増加が目立ち、比例代表は激変緩和のための補助装置だったはずが、いつしか小政党の避難所となった。避難所というものは非常時のために設けられる。しかし居心地がよければ、人はなかなか出ていかない。
もちろん、国民が与党を全面的に支持しているわけではない。経済も社会保障も物価も、注文はいくらでもある。それでも野党に政権を託そうという機運が高まらないのは、制度だけの責任ではあるまい。政策より政局を優先し、選挙のたびに離合集散を繰り返し、国会では審議より対決の構図づくりが前面へ出る。そうした光景を繰り返し見せられれば、有権者が「本当に政権を任せられるのか」「審議を拒否して議員と言えるのか」と首をかしげるのも無理はない。政治とは結局、信頼という目に見えない資本を積み重ねる仕事なのである。
比例代表は少数意見を国政へ反映させる制度であると同時に、小選挙区で議席を得にくい政党にとっては生命線でもある。だから削減論が持ち上がるたび「民主主義への攻撃だ」という声が上がる。しかし、議論すべき当事者が審議そのものを拒めば、有権者は説明を聞く機会を失う。説明を欠いた制度は理解より疑念を生み、疑念は支持より不信を育てる。制度とは舞台にすぎない。観客が見ているのは舞台装置ではなく、その上でどんな芝居が演じられているかである。いま有権者の目に映っているのは制度ではない。そこでどのように振る舞っているかという政治家たちの姿なのだ。