スクールバスで交通空白解消 ― 2026年01月07日
山間の集落で一人暮らしをする高齢者は、月に一度の通院のため、前夜から段取りを考える。かつて走っていた路線バスは廃止され、タクシーは予約がなかなか取れない。家の前を毎朝決まった時間に通り過ぎるのは、孫世代を乗せたスクールバスだけだ。「あれに乗れたら、どれだけ楽か」。地方の「交通空白」は、すでに生活の細部を侵食している。政府がこの問題にようやく本腰を入れた。過疎化や人口減少で移動手段の確保が難しくなった地域を救うとして、スクールバスや福祉施設の送迎車など、地域に存在するあらゆる車両を一般住民の移動にも活用できるよう、地域公共交通活性化再生法(地域交通法)の改正案を次期通常国会に提出する方針だ。
自治体が交通、教育、医療、福祉といった関係者を横断的に調整し、地域の実情に応じた旅客運送サービスを構築する役割を担うことを明確化する。国は新サービス導入に財政支援を行う。学校や病院の統廃合が進む一方、バスやタクシーの運転手不足が深刻化し、既存の交通網だけでは住民の移動需要を支えきれなくなっている現実が、ようやく政策を動かした格好だ。
だが、切り札とされるスクールバスの活用には、以前から指摘されてきた構造的な歪みがある。多くの自治体で運行は民間委託され、朝夕の登下校と学校行事以外はほとんど稼働しない。土日や長期休暇中は完全停止。年間を通せば、車両と運転手の多くが長時間「止まったまま」だ。
特別支援学校では、この非効率がさらに際立つ。下校時には放課後等デイサービス事業所の車が児童を迎えに来るため、スクールバスはほとんど乗客を乗せないまま走る。「空気を運ぶバス」が日常化しているのである。教育委員会と福祉部局の縦割り、委託契約の硬直性、送迎加算をめぐる制度設計――現場では長年、改善不能な前提条件として扱われてきた。
今回の法改正案は、こうした“空白時間”を地域交通に転用しようという試みだ。デイサービス車両を非営業日に有料送迎として活用する、スクールバスを空き時間に予約制のデマンド交通として走らせる。事業認可の簡略化、車両や運転手の共同活用、運行データの標準化も盛り込まれる。制度設計としては、確かに前進である。
しかし冷静に見れば、これは地方交通の延命措置に過ぎない。車両のやり繰りで危機をしのげる段階は、すでに通り過ぎている。世界に目を向ければ、一般ドライバーが有償で乗客を運ぶUberやLyftが、都市部だけでなく郊外や地方の移動を支えている。保険、GPS監視、評価システムといったプラットフォーム管理によって安全性を担保するのが、いまや国際標準だ。
一方、日本では一般ドライバーによる有償運送は依然として原則禁止のままだ。導入された「日本版ライドシェア」も、タクシー会社が主体となり、二種免許を必須とするなど強い制約が課されている。「安全性」を理由に規制は維持されているが、その裏側で、移動手段を失った高齢者や通院が困難な人々が生まれている現実は、制度の外側に置き去りにされている。
わが町でもライドシェア制度を活用した町内バスが運行されるようになった。しかし、バス停までは自力で移動する必要があるし、使用されている大型ワゴン車はステップの段差が高く、足の弱い高齢者や障害のある人は利用しづらい。運転者が介助を行わないという取り決めもあり、実質的に対象外となっている。こうした状況は、指定した場所に来てくれるUberやLyftのように柔軟で利用者層の広い海外のライドシェアと比べると、到底同じ仕組みとは言えないほど不便だ。
地方の交通空白を本質的に解消するには、スクールバスの遊休活用だけでは不十分だ。二種免許要件の見直しや地域限定での規制緩和、さらにはプラットフォーム側に安全管理責任を負わせる制度設計など、誰がハンドルを握れるのかという「資格の壁」を、時代に合わせて引き直す覚悟が問われている。また、既存の路線に自動運転を導入する構想もあるが、道路交通法をはじめとする厳しい規制が立ちはだかり、実現の時期は依然として見通せない。
今回の法改正は、確かに重要な一歩だ。だが本当の焦点は、走らないバスをどう動かすかではない。動かせない制度を、いつまで守り続けるのか。地方交通の再生は、日本社会が規制と現実のどちらを選ぶのかを映す、静かな踏み絵になりつつある。
自治体が交通、教育、医療、福祉といった関係者を横断的に調整し、地域の実情に応じた旅客運送サービスを構築する役割を担うことを明確化する。国は新サービス導入に財政支援を行う。学校や病院の統廃合が進む一方、バスやタクシーの運転手不足が深刻化し、既存の交通網だけでは住民の移動需要を支えきれなくなっている現実が、ようやく政策を動かした格好だ。
だが、切り札とされるスクールバスの活用には、以前から指摘されてきた構造的な歪みがある。多くの自治体で運行は民間委託され、朝夕の登下校と学校行事以外はほとんど稼働しない。土日や長期休暇中は完全停止。年間を通せば、車両と運転手の多くが長時間「止まったまま」だ。
特別支援学校では、この非効率がさらに際立つ。下校時には放課後等デイサービス事業所の車が児童を迎えに来るため、スクールバスはほとんど乗客を乗せないまま走る。「空気を運ぶバス」が日常化しているのである。教育委員会と福祉部局の縦割り、委託契約の硬直性、送迎加算をめぐる制度設計――現場では長年、改善不能な前提条件として扱われてきた。
今回の法改正案は、こうした“空白時間”を地域交通に転用しようという試みだ。デイサービス車両を非営業日に有料送迎として活用する、スクールバスを空き時間に予約制のデマンド交通として走らせる。事業認可の簡略化、車両や運転手の共同活用、運行データの標準化も盛り込まれる。制度設計としては、確かに前進である。
しかし冷静に見れば、これは地方交通の延命措置に過ぎない。車両のやり繰りで危機をしのげる段階は、すでに通り過ぎている。世界に目を向ければ、一般ドライバーが有償で乗客を運ぶUberやLyftが、都市部だけでなく郊外や地方の移動を支えている。保険、GPS監視、評価システムといったプラットフォーム管理によって安全性を担保するのが、いまや国際標準だ。
一方、日本では一般ドライバーによる有償運送は依然として原則禁止のままだ。導入された「日本版ライドシェア」も、タクシー会社が主体となり、二種免許を必須とするなど強い制約が課されている。「安全性」を理由に規制は維持されているが、その裏側で、移動手段を失った高齢者や通院が困難な人々が生まれている現実は、制度の外側に置き去りにされている。
わが町でもライドシェア制度を活用した町内バスが運行されるようになった。しかし、バス停までは自力で移動する必要があるし、使用されている大型ワゴン車はステップの段差が高く、足の弱い高齢者や障害のある人は利用しづらい。運転者が介助を行わないという取り決めもあり、実質的に対象外となっている。こうした状況は、指定した場所に来てくれるUberやLyftのように柔軟で利用者層の広い海外のライドシェアと比べると、到底同じ仕組みとは言えないほど不便だ。
地方の交通空白を本質的に解消するには、スクールバスの遊休活用だけでは不十分だ。二種免許要件の見直しや地域限定での規制緩和、さらにはプラットフォーム側に安全管理責任を負わせる制度設計など、誰がハンドルを握れるのかという「資格の壁」を、時代に合わせて引き直す覚悟が問われている。また、既存の路線に自動運転を導入する構想もあるが、道路交通法をはじめとする厳しい規制が立ちはだかり、実現の時期は依然として見通せない。
今回の法改正は、確かに重要な一歩だ。だが本当の焦点は、走らないバスをどう動かすかではない。動かせない制度を、いつまで守り続けるのか。地方交通の再生は、日本社会が規制と現実のどちらを選ぶのかを映す、静かな踏み絵になりつつある。
維新議員ら“国保逃れ”疑惑 ― 2025年12月22日
「制度は守った。だが、信頼はすり抜けた」——。
維新所属の地方議員らによる“国保逃れ”疑惑は、そんな言葉がぴたりと当てはまる後味の悪さを残している。一般社団法人の理事に就任し、国民健康保険ではなく社会保険に加入する。理事報酬は最低等級、労務提供の実態は乏しい。形式上は適法だが、実態としては社保加入資格を得るための装置ではないか、というのが疑惑の核心だ。報道では「年間86万円の負担減」と派手に打たれたが、実際には理事側が法人に協力金(会費)を支払っており、差し引きの軽減額は年13万円程度、節税率にして約15%にとどまるとみられる。金額だけを見れば、決定的な“不正蓄財”と断じるのは難しい。
それでも、この問題が軽く扱えないのは、「制度の抜け道として再現性が高い」からだ。このスキームは、特別な権力を持つ議員でなくとも、知識さえあれば誰でも使える。つまり、問題は個人のモラルではなく、制度の設計そのものにある。
国民健康保険は、自営業者や非正規労働者、高齢者など、医療リスクの高い層が多く加入する制度だ。財源を安定させるには、高所得者の負担が不可欠である。しかし現実には、国保は所得比例に加えて均等割・平等割が重く、保険料上限も高い。一方、社会保険は報酬比例で、頭打ちは早い。結果として、「稼げば稼ぐほど国保から逃げたくなる」構造が温存されてきた。今回の疑惑は、逆選択が制度に内蔵されていることを可視化したにすぎない。
ここで看過できないのが、維新という政党の看板との乖離である。維新はこれまで、歳出削減と「身を切る改革」を前面に掲げてきた。だが、その足元で、議員による“国保逃れ”のような歳入面の不公平や制度の抜け道が放置されていたのだとすれば、改革の説得力そのものが揺らぐ。歳出だけを削っても、歳入が不透明で不公平なままでは財政は安定しない。それは企業会計でも国家財政でも同じ話だ。
制度改正として、まず必要なのは「実態のない役員による社保加入」の厳格化だろう。労務提供の実態確認や、極端に低い役員報酬での加入審査強化など、このスキームを直接封じる対応は難しくない。しかし、それはあくまで対症療法に過ぎない。本質は、国保と社保の負担格差という構造問題にある。国保の上限引き下げか、社保の上限引き上げか。あるいは国保財源を税方式に近づけるのか。「逃げたくなる制度」を放置したままでは、同じ抜け道は形を変えて必ず復活する。
さらに深刻なのは、制度運営の“縦割り”だ。個人事業主の所得は自己申告が基本で、税務署、国保、社会保険のデータは分断されたまま。だからこそ、制度の隙間が温存される。税務署が把握する所得データと社会保険の加入情報を、国保側に自動連携させるだけで、歳入の合理化は大きく進むはずだ。マイナンバーと電子申請が整った今、それすらできていない現状で「身を切る改革」と言われても、臍が茶を沸かすというものだ。
歳出改革は、歳入の透明化と徴収の公平性があって初めて意味を持つ。今回の“国保逃れ”疑惑は、誰かを吊し上げて終わる話ではない。制度を守っても、制度への信頼が壊れれば、社会保障は立ち行かない。問われているのは、個々の議員の行動以上に、「正直者が損をする設計」をいつまで放置するのかという、日本の社会保障システムそのものの覚悟なのだ。改革を名乗る政党が、歳入の不透明さから目を背ける限り、その改革は看板倒れで終わる。
維新所属の地方議員らによる“国保逃れ”疑惑は、そんな言葉がぴたりと当てはまる後味の悪さを残している。一般社団法人の理事に就任し、国民健康保険ではなく社会保険に加入する。理事報酬は最低等級、労務提供の実態は乏しい。形式上は適法だが、実態としては社保加入資格を得るための装置ではないか、というのが疑惑の核心だ。報道では「年間86万円の負担減」と派手に打たれたが、実際には理事側が法人に協力金(会費)を支払っており、差し引きの軽減額は年13万円程度、節税率にして約15%にとどまるとみられる。金額だけを見れば、決定的な“不正蓄財”と断じるのは難しい。
それでも、この問題が軽く扱えないのは、「制度の抜け道として再現性が高い」からだ。このスキームは、特別な権力を持つ議員でなくとも、知識さえあれば誰でも使える。つまり、問題は個人のモラルではなく、制度の設計そのものにある。
国民健康保険は、自営業者や非正規労働者、高齢者など、医療リスクの高い層が多く加入する制度だ。財源を安定させるには、高所得者の負担が不可欠である。しかし現実には、国保は所得比例に加えて均等割・平等割が重く、保険料上限も高い。一方、社会保険は報酬比例で、頭打ちは早い。結果として、「稼げば稼ぐほど国保から逃げたくなる」構造が温存されてきた。今回の疑惑は、逆選択が制度に内蔵されていることを可視化したにすぎない。
ここで看過できないのが、維新という政党の看板との乖離である。維新はこれまで、歳出削減と「身を切る改革」を前面に掲げてきた。だが、その足元で、議員による“国保逃れ”のような歳入面の不公平や制度の抜け道が放置されていたのだとすれば、改革の説得力そのものが揺らぐ。歳出だけを削っても、歳入が不透明で不公平なままでは財政は安定しない。それは企業会計でも国家財政でも同じ話だ。
制度改正として、まず必要なのは「実態のない役員による社保加入」の厳格化だろう。労務提供の実態確認や、極端に低い役員報酬での加入審査強化など、このスキームを直接封じる対応は難しくない。しかし、それはあくまで対症療法に過ぎない。本質は、国保と社保の負担格差という構造問題にある。国保の上限引き下げか、社保の上限引き上げか。あるいは国保財源を税方式に近づけるのか。「逃げたくなる制度」を放置したままでは、同じ抜け道は形を変えて必ず復活する。
さらに深刻なのは、制度運営の“縦割り”だ。個人事業主の所得は自己申告が基本で、税務署、国保、社会保険のデータは分断されたまま。だからこそ、制度の隙間が温存される。税務署が把握する所得データと社会保険の加入情報を、国保側に自動連携させるだけで、歳入の合理化は大きく進むはずだ。マイナンバーと電子申請が整った今、それすらできていない現状で「身を切る改革」と言われても、臍が茶を沸かすというものだ。
歳出改革は、歳入の透明化と徴収の公平性があって初めて意味を持つ。今回の“国保逃れ”疑惑は、誰かを吊し上げて終わる話ではない。制度を守っても、制度への信頼が壊れれば、社会保障は立ち行かない。問われているのは、個々の議員の行動以上に、「正直者が損をする設計」をいつまで放置するのかという、日本の社会保障システムそのものの覚悟なのだ。改革を名乗る政党が、歳入の不透明さから目を背ける限り、その改革は看板倒れで終わる。
PECS京都大阪合同会 ― 2025年12月15日
大阪で、PECSサークルの合同会が開かれた。京都との共同開催で、会場参加が37名、リモート参加が25名。合わせて60名余という数字は、いまの状況を思えばなかなかのものだ。会場に30人以上が集まる光景を見るのは久しぶりで、門医師が大阪まで足を運ばれたことも大きかったのだろう。かつて京都で研究会が勢いを持っていた頃の空気がふっとよみがえり、胸の奥に懐かしさが広がった。
今回、何より印象に残ったのは若い世代の多さだった。参加者の多くは施設職員で、大阪ではNPOピュアを中心に若手がしっかり組織されているという。熱心に耳を傾ける姿を見ながら、かつて自分も若手教員をまとめ、参加者を増やすことに奔走していた時代を思い出した。だが今はどうだろう。影響力のあるリーダーを育てきれず、研究会はじりじりと先細っている。その現実を突きつけられるようでもあった。
報告では、子どもや成人の利用者がPECSやABAを通じて、少しずつ生活を整えていく様子が動画で紹介された。画面越しに伝わってくる笑顔に触れ、「やってきてよかったな」と、心から思えた瞬間だった。研究会のあとには20人余りが居酒屋に集まり、懇親会は遅くまで賑やかに続いた。初めてPECSに取り組みながら、思うような評価を得られなかった支援者も参加し、率直な語り合いができた。できるだけ“老害”にならないよう気をつけたつもりだが、振り返れば少し厳しい言葉を投げてしまったかもしれない、と反省も残る。
PECSは、要求と契約から始まる機能的コミュニケーションだ。トークン使用は、要求したものの「待って」カードから、やがてはトークンエコノミーという、少し長い契約関係を学んでいく。すぐに要求に応えるのではなく、条件を示し、何回指示に応えれば約束が成立するのかを伝える。言ってみれば、出来高給制度を理解してもらうような仕組みだ。その教え方に対して「おかしいのではないか」という指摘も出た。大阪の事務局は事前にレポートを把握していたはずだが、成果よりも方法の誤りをどう扱うかは、組織や世代で考え方が分かれる。事前に修正を促すのか、あえて発表させ、批判を受けて再挑戦を促すのか。その違いに、年齢差というものを感じずにはいられなかった。
最近は、自分が組織してきた研究団体がじり貧になり、正直、投げ出したくなることもある。それでも、未来を楽しそうに語る若手の姿を見ると、「続けてきてよかった」と素直に思える。20年前、京都から始めたあの研究会がなければ、いまのつながりはなかっただろう。淡々と研究会を重ね、懇親会を続けてきた、その積み重ねの先に、今夜の光景がある。
投げ出すのは簡単だ。けれど、もう少しだけ頑張ってみよう。そんな気持ちを、静かに背中から押してくれる夜だった。
今回、何より印象に残ったのは若い世代の多さだった。参加者の多くは施設職員で、大阪ではNPOピュアを中心に若手がしっかり組織されているという。熱心に耳を傾ける姿を見ながら、かつて自分も若手教員をまとめ、参加者を増やすことに奔走していた時代を思い出した。だが今はどうだろう。影響力のあるリーダーを育てきれず、研究会はじりじりと先細っている。その現実を突きつけられるようでもあった。
報告では、子どもや成人の利用者がPECSやABAを通じて、少しずつ生活を整えていく様子が動画で紹介された。画面越しに伝わってくる笑顔に触れ、「やってきてよかったな」と、心から思えた瞬間だった。研究会のあとには20人余りが居酒屋に集まり、懇親会は遅くまで賑やかに続いた。初めてPECSに取り組みながら、思うような評価を得られなかった支援者も参加し、率直な語り合いができた。できるだけ“老害”にならないよう気をつけたつもりだが、振り返れば少し厳しい言葉を投げてしまったかもしれない、と反省も残る。
PECSは、要求と契約から始まる機能的コミュニケーションだ。トークン使用は、要求したものの「待って」カードから、やがてはトークンエコノミーという、少し長い契約関係を学んでいく。すぐに要求に応えるのではなく、条件を示し、何回指示に応えれば約束が成立するのかを伝える。言ってみれば、出来高給制度を理解してもらうような仕組みだ。その教え方に対して「おかしいのではないか」という指摘も出た。大阪の事務局は事前にレポートを把握していたはずだが、成果よりも方法の誤りをどう扱うかは、組織や世代で考え方が分かれる。事前に修正を促すのか、あえて発表させ、批判を受けて再挑戦を促すのか。その違いに、年齢差というものを感じずにはいられなかった。
最近は、自分が組織してきた研究団体がじり貧になり、正直、投げ出したくなることもある。それでも、未来を楽しそうに語る若手の姿を見ると、「続けてきてよかった」と素直に思える。20年前、京都から始めたあの研究会がなければ、いまのつながりはなかっただろう。淡々と研究会を重ね、懇親会を続けてきた、その積み重ねの先に、今夜の光景がある。
投げ出すのは簡単だ。けれど、もう少しだけ頑張ってみよう。そんな気持ちを、静かに背中から押してくれる夜だった。
NPOフローレンス公金問題 ― 2025年11月19日
子育て支援の旗を掲げてきた認定NPO法人フローレンスが、思わぬ形で世間の“監視の目”にさらされることになった。東京都の補助金で建設した施設に、創業者・駒崎弘樹氏名義の根抵当権が設定されていたのだ。発火点はX(旧Twitter)。登記簿を読み込んだ市民が「おかしいぞ」と呟いた一文が、いわば“善意の象徴”として扱われてきたNPO界隈の暗部を照らすことになった。渋谷区議の照会で補助金要綱との齟齬が確認されると、さらにスキャンダラスな情報が飛び出した。これは昨年の参議院での質問主意書で明らかになっていたことだが、役員名簿に存在しない「会長職」で年額2040万円超の報酬——。これが企業なら株主総会レベルの大騒ぎだが、非営利法人では「報告書に書いてあればOK」という、驚くほど緩い世界がまかり通ってきた。今回の件は、その“緩さ”を世間が一気に知るきっかけとなったと言っていい。
なぜそんなことが平然と起きるのか。答えは簡単で、NPOを取り巻く監査体制が穴だらけだからだ。税務署は収益事業を行わないかぎり法人税を課さず、当然調査しない。所轄庁である都道府県や政令市は、提出された書類を形式的にチェックするだけ。会計検査院も国の直轄補助金以外は守備範囲外。要するに「誰も本気で監査していない」のである。
では、この“無人地帯”でどれだけ公金が消えているのか。全国のNPO約5万件のうち1割が補助金を受け取り、平均年額500万〜1000万円と仮定すると、総額は3000億〜7500億円。もしその5〜10%が不正・不適正に流れているとしたら、年間150億〜750億円が煙のように消えている計算になる。数字を眺めているだけで、背筋が冷える。
制度の根本原因は、NPO法の“性善説設計”にある。市民による公益活動を前提にした結果、役員報酬の上限も基準もなく、補助金の実地監査も義務にしてこなかった。公益社団・財団なら細かく縛られている点が、NPOは“自己申告”で通ってしまう。善意を信じる制度は美しい——だが、現実はそこまで美しくない。
今回のフローレンス問題は、“氷山の一角”というより、“氷山の入り口”だろう。この先には、ひっそりと積み重ねられた“公金の積雪”が広がっている可能性すらある。必要なのは、制度の大幅な作り直しだ。役員報酬の上限明記や補助金交付時の実地監査の義務化、税務署と所轄庁の情報連携、NPO向けの第三者監査機関の新設、市民通報制度の法定化。改革メニューはすでに揃っている。あとは、やる気の問題だけだ。
公益を名乗るなら、まずは自分たちの足元を照らすこと。フローレンスが突きつけたのは、そんな当たり前の原点である。善意の物語の裏側に潜む“複雑な現実”を、私たちはそろそろ直視すべき時期に来ている。
なぜそんなことが平然と起きるのか。答えは簡単で、NPOを取り巻く監査体制が穴だらけだからだ。税務署は収益事業を行わないかぎり法人税を課さず、当然調査しない。所轄庁である都道府県や政令市は、提出された書類を形式的にチェックするだけ。会計検査院も国の直轄補助金以外は守備範囲外。要するに「誰も本気で監査していない」のである。
では、この“無人地帯”でどれだけ公金が消えているのか。全国のNPO約5万件のうち1割が補助金を受け取り、平均年額500万〜1000万円と仮定すると、総額は3000億〜7500億円。もしその5〜10%が不正・不適正に流れているとしたら、年間150億〜750億円が煙のように消えている計算になる。数字を眺めているだけで、背筋が冷える。
制度の根本原因は、NPO法の“性善説設計”にある。市民による公益活動を前提にした結果、役員報酬の上限も基準もなく、補助金の実地監査も義務にしてこなかった。公益社団・財団なら細かく縛られている点が、NPOは“自己申告”で通ってしまう。善意を信じる制度は美しい——だが、現実はそこまで美しくない。
今回のフローレンス問題は、“氷山の一角”というより、“氷山の入り口”だろう。この先には、ひっそりと積み重ねられた“公金の積雪”が広がっている可能性すらある。必要なのは、制度の大幅な作り直しだ。役員報酬の上限明記や補助金交付時の実地監査の義務化、税務署と所轄庁の情報連携、NPO向けの第三者監査機関の新設、市民通報制度の法定化。改革メニューはすでに揃っている。あとは、やる気の問題だけだ。
公益を名乗るなら、まずは自分たちの足元を照らすこと。フローレンスが突きつけたのは、そんな当たり前の原点である。善意の物語の裏側に潜む“複雑な現実”を、私たちはそろそろ直視すべき時期に来ている。
票の強奪・施設が人権を壊す ― 2025年11月14日
2025年7月の参院選。その裏側で見過ごせない事件が起きていた。大阪府八尾市と泉大津市の高齢者施設で、不在者投票35人分が虚偽に行われていたのである。施設運営会社の関係者が入所者になりすまし、特定候補の名を記入した投票用紙を選管に提出したという。
つまり、他人の票を“盗んだ”のだ。不在者投票制度は、投票所に行けない高齢者や障害者が政治参加できるように設けられた仕組みだ。本来ならば「本人の意思」がすべての前提になる。しかし、現実にはその“本人”が確認されていない。立会人制度は形だけ、監視カメラもなし。制度は「性善説」に頼り切っており、職員の誠実さにすべてを委ねる設計だ。だが、その善意が通用しない現場が、いま全国に静かに広がっている。
同様の事件は過去にも何度も起きている。2013年の北九州市議選では、特養の施設長が認知症の入所者3人分の票を偽造し、有罪判決を受けた。2016年の鹿児島・奄美大島「虹の園」事件では、施設長らが意思表示困難な8人の投票を操作。2022年の熊本では、職員が知的障害者に特定候補の名刺を持たせ投票を誘導し、9人が書類送検。2024年の藤沢市長選でも、職員2人が票を偽造し、罰金刑で幕引きとなった。
要するに、「介助」と「操作」の境目が、完全に溶けている。しかも厄介なのは、この手の不正が制度の“中”で起きることだ。外見上はすべて合法的手続きに見え、本人の「意思確認」をしたという一筆で事実が塗り替えられてしまう。支援の名を借りた支配。介護現場が、人の尊厳を奪う装置へと変わる瞬間である。
選挙不正と聞くと、政治家の買収や票の水増しを思い浮かべがちだ。しかし、ここで起きているのはもっと陰湿で、もっと静かな暴力だ。投票用紙一枚の重みを知らないまま、入所者の手を握り、候補者名を代筆する。暴力ではない。けれど、尊厳を踏みにじるという意味では、虐待と何も変わらない。
背景には、介護職員の疲弊や人手不足があるという“常套句”がある。だが、それは言い訳だ。人権意識があれば、どんなに過酷な現場でも「してはならないこと」は分かる。問題は、施設運営者がその意識を持たず、監督機関も“現場任せ”を放置してきたことにある。これは個人の逸脱ではなく、制度の腐食である。いま求められるのは、単なる罰則強化ではない。外部立会人の義務化、意思確認支援の専門職制度、投票過程の記録・監査、そして施設ごとの人権評価制度の導入。最低限、これらを整えなければ、制度は「不正を温める箱」にしかならない。
介護施設は、人の最期の時間を守る場所であるはずだ。だが、そこで人権が軽んじられ、票まで奪われるなら、もはや「施設」ではなく「囲い」だ。投票の自由とは、民主主義の根幹である。その最も弱い場所──病床や車椅子のそばで、その自由が消されている。選挙違反? そんな生ぬるい言葉では済まされない。これは、社会全体の怠慢が生んだ“集団的人権侵害”である。
私たちは、票の数ではなく、一票の尊厳を守る覚悟があるのか。その問いが、いま静かに突きつけられている。
つまり、他人の票を“盗んだ”のだ。不在者投票制度は、投票所に行けない高齢者や障害者が政治参加できるように設けられた仕組みだ。本来ならば「本人の意思」がすべての前提になる。しかし、現実にはその“本人”が確認されていない。立会人制度は形だけ、監視カメラもなし。制度は「性善説」に頼り切っており、職員の誠実さにすべてを委ねる設計だ。だが、その善意が通用しない現場が、いま全国に静かに広がっている。
同様の事件は過去にも何度も起きている。2013年の北九州市議選では、特養の施設長が認知症の入所者3人分の票を偽造し、有罪判決を受けた。2016年の鹿児島・奄美大島「虹の園」事件では、施設長らが意思表示困難な8人の投票を操作。2022年の熊本では、職員が知的障害者に特定候補の名刺を持たせ投票を誘導し、9人が書類送検。2024年の藤沢市長選でも、職員2人が票を偽造し、罰金刑で幕引きとなった。
要するに、「介助」と「操作」の境目が、完全に溶けている。しかも厄介なのは、この手の不正が制度の“中”で起きることだ。外見上はすべて合法的手続きに見え、本人の「意思確認」をしたという一筆で事実が塗り替えられてしまう。支援の名を借りた支配。介護現場が、人の尊厳を奪う装置へと変わる瞬間である。
選挙不正と聞くと、政治家の買収や票の水増しを思い浮かべがちだ。しかし、ここで起きているのはもっと陰湿で、もっと静かな暴力だ。投票用紙一枚の重みを知らないまま、入所者の手を握り、候補者名を代筆する。暴力ではない。けれど、尊厳を踏みにじるという意味では、虐待と何も変わらない。
背景には、介護職員の疲弊や人手不足があるという“常套句”がある。だが、それは言い訳だ。人権意識があれば、どんなに過酷な現場でも「してはならないこと」は分かる。問題は、施設運営者がその意識を持たず、監督機関も“現場任せ”を放置してきたことにある。これは個人の逸脱ではなく、制度の腐食である。いま求められるのは、単なる罰則強化ではない。外部立会人の義務化、意思確認支援の専門職制度、投票過程の記録・監査、そして施設ごとの人権評価制度の導入。最低限、これらを整えなければ、制度は「不正を温める箱」にしかならない。
介護施設は、人の最期の時間を守る場所であるはずだ。だが、そこで人権が軽んじられ、票まで奪われるなら、もはや「施設」ではなく「囲い」だ。投票の自由とは、民主主義の根幹である。その最も弱い場所──病床や車椅子のそばで、その自由が消されている。選挙違反? そんな生ぬるい言葉では済まされない。これは、社会全体の怠慢が生んだ“集団的人権侵害”である。
私たちは、票の数ではなく、一票の尊厳を守る覚悟があるのか。その問いが、いま静かに突きつけられている。
PECSと日本行政の歪み ― 2025年09月30日
言葉が出にくい子どもが「欲しい」「やりたい」を伝えられるようにするPECS(絵カード交換式コミュニケーション)。海外では教育や福祉制度に組み込まれ、公的文書のガイドラインにも明記され、専門職研修や研究と連動して広く普及している。ところが日本では、文科省や厚労省の資料に名前が載る程度で、制度的裏付けはない。現場では熱心な支援者が導入する例もあるが、継続性は属人的努力に頼るしかないという問題について昨日触れた。
例えば、保険医療制度では、エビデンスのある診療や手技は点数化され、制度として評価される。教育や福祉でも同様に、科学的根拠に基づく指導法は公文書で示されるべきだが、PECSに限らず、エビデンスのある支援法が指導法として正式に書かれない傾向は、日本独自の行政的歪みともいえる。
では、制度化すれば解決するのか。議論の軸は、安定性と柔軟性、公平性と現場裁量、中央集権と地方分権にある。
制度に明記すれば、全国どこでも同水準の支援が受けられる。現場の支援者も「制度で保証された技法」として安心して使えるし、支援の質と公平性も担保される。さらに、医療保険制度の点数制のように、研修や実践を評価する仕組みを導入すれば、現場のモチベーションも高められる可能性がある。ただ、公平性を担保する質を維持するには専門的研修や資格制度を確立する必要も出てくる。要は金がかかる。
一方で、慎重論もある。支援は子ども一人ひとりに応じて柔軟に選ぶべきで、特定の技法を制度に固定化すると、現場の自由度や工夫が制約されるリスクがある。もちろん教育・福祉には保護者同意の支援計画があるため、完全に自由が奪われるわけではないが、制度運用次第では柔軟な対応が難しくなる場面も想定される。さらに、日本の中央集権的な制度構造では、全国一律のルールが現場に合わないこともある。逆に地方に権限を委ねると、地域間で支援の質に差が出かねない。ここが制度化の難しさの核心だ。
しかし、政府が丸く収めていれば事態は遅々として進まない。地方行政同士が競い合うという構図も民主主義の発展には必要なことという意見もある。
結局、PECS制度化の議論は単純な「導入する/しない」を超える。重要なのは、理念と現場をどうつなぎ、支援の安定性と柔軟性を両立させるかである。制度の中でPECSを必須技法とせず、複数の選択肢の一つとして位置づけ、研修や評価の仕組みで現場のモチベーションを引き出す――こうした折衷案が現実的だろう。子どもたちにとって大切なのは、PECSの名前ではなく、「自分の気持ちを安心して伝えられる環境」が整っていることだ。行政が科学的根拠に基づく支援法を公文書で明記し、現場の判断と組み合わせて活用できる社会こそ、本来目指すべき姿である。
日本の行政だけが現場の方法論に無関心でいる現状は、制度設計のあり方そのものを問う警鐘と言えるだろう。
例えば、保険医療制度では、エビデンスのある診療や手技は点数化され、制度として評価される。教育や福祉でも同様に、科学的根拠に基づく指導法は公文書で示されるべきだが、PECSに限らず、エビデンスのある支援法が指導法として正式に書かれない傾向は、日本独自の行政的歪みともいえる。
では、制度化すれば解決するのか。議論の軸は、安定性と柔軟性、公平性と現場裁量、中央集権と地方分権にある。
制度に明記すれば、全国どこでも同水準の支援が受けられる。現場の支援者も「制度で保証された技法」として安心して使えるし、支援の質と公平性も担保される。さらに、医療保険制度の点数制のように、研修や実践を評価する仕組みを導入すれば、現場のモチベーションも高められる可能性がある。ただ、公平性を担保する質を維持するには専門的研修や資格制度を確立する必要も出てくる。要は金がかかる。
一方で、慎重論もある。支援は子ども一人ひとりに応じて柔軟に選ぶべきで、特定の技法を制度に固定化すると、現場の自由度や工夫が制約されるリスクがある。もちろん教育・福祉には保護者同意の支援計画があるため、完全に自由が奪われるわけではないが、制度運用次第では柔軟な対応が難しくなる場面も想定される。さらに、日本の中央集権的な制度構造では、全国一律のルールが現場に合わないこともある。逆に地方に権限を委ねると、地域間で支援の質に差が出かねない。ここが制度化の難しさの核心だ。
しかし、政府が丸く収めていれば事態は遅々として進まない。地方行政同士が競い合うという構図も民主主義の発展には必要なことという意見もある。
結局、PECS制度化の議論は単純な「導入する/しない」を超える。重要なのは、理念と現場をどうつなぎ、支援の安定性と柔軟性を両立させるかである。制度の中でPECSを必須技法とせず、複数の選択肢の一つとして位置づけ、研修や評価の仕組みで現場のモチベーションを引き出す――こうした折衷案が現実的だろう。子どもたちにとって大切なのは、PECSの名前ではなく、「自分の気持ちを安心して伝えられる環境」が整っていることだ。行政が科学的根拠に基づく支援法を公文書で明記し、現場の判断と組み合わせて活用できる社会こそ、本来目指すべき姿である。
日本の行政だけが現場の方法論に無関心でいる現状は、制度設計のあり方そのものを問う警鐘と言えるだろう。
PECS40周年 ― 2025年09月29日
Picture Exchange Communication System、通称PECS。絵カードを使って自閉症児が自分の意思を相手に伝えるための支援技法は、1985年に米国で生まれた。今年で40周年を迎えたこの仕組みは、いまや単なる補助ツールを越え、世界の自閉症教育と福祉を揺さぶり続けている。 PECSの核心は、子どもが「自ら意思を表す権利」を持つという点にある。支援者が子どもの声をどう引き出すのか、その姿勢を根底から変えてしまうのだ。だからこそPECSは単なる技術ではなく、制度と理念のあり方を問い直す「鏡」となってきた。
その象徴が香港である。国家安全法の導入で教育は徹底的に再編され、愛国教育が義務化される一方、2023年の教育局ガイドライン(日本の学習指導要領にあたる)にはPECSの名前が堂々と残っている。理念の部分は中国本土の色に染まっても、現場は実用的な技術を手放さない。「制度的二重性」と呼ぶべきこの現象は、政治がどれだけ理念を押し付けても、現場が生き残るための技術を確保しようとするリアリズムを物語る。
欧米もまたPECSを“当たり前”にしている。アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、イタリア——いずれも教育行政文書に明記し、専門職制度と実証研究に基づいて制度化してきた。PECSはAAC(補助・代替コミュニケーション)の中心的技法として「制度のお墨付き」を得ているのである。
では日本はどうか。答えは痛烈だ。文科省の特別支援教育文書には「合理的配慮」「個別の教育支援計画」といった耳障りのよい理念が並ぶものの、PECSやABAなど具体的な技法は一切出てこない。理念に酔い、抽象に逃げ、具体を避ける——これが日本の行政の体質だ。その結果、2010年代に熱心な教師たちが現場で導入したPECSは、異動や管理職の無理解で継承されず、いまや火種は消えかけている。
しかも問題は文科省だけにとどまらない。幼児療育を所管する厚労省も同じ穴のムジナだ。理念の看板は掲げるが、技術の制度化は避ける。現場は補助金の枠組みと書類作成に縛られ、肝心の支援技法は「現場次第」。その結果、PECSの波及はきわめて低調であり、日本の自閉症児療育は、支援者個人の努力と裁量に過度に依存する危うい構造のまま放置されている。制度が子どもを支えるどころか、制度が子どもを見捨てているのだ。
PECS40周年は、一つの技術が制度を越えて生き残り、制度を逆に変えていく力を持つことを雄弁に示している。香港に見る「政治と技術のねじれ」、欧米における「制度化の成功」、そして日本に漂う「理念偏重と制度不全」——この三者を並べると、日本の遅れがどれほど深刻かが浮き彫りになる。
理念を振りかざすだけの空疎な行政から、実証的技術を制度として位置づける本物の改革へと踏み出せるかどうか。PECSの歩みは、教育と福祉の制度的成熟を測るリトマス試験紙である。そして日本の現状は、その試験紙に「制度不全の象徴」として鮮烈に記録されてしまっている。
その象徴が香港である。国家安全法の導入で教育は徹底的に再編され、愛国教育が義務化される一方、2023年の教育局ガイドライン(日本の学習指導要領にあたる)にはPECSの名前が堂々と残っている。理念の部分は中国本土の色に染まっても、現場は実用的な技術を手放さない。「制度的二重性」と呼ぶべきこの現象は、政治がどれだけ理念を押し付けても、現場が生き残るための技術を確保しようとするリアリズムを物語る。
欧米もまたPECSを“当たり前”にしている。アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、イタリア——いずれも教育行政文書に明記し、専門職制度と実証研究に基づいて制度化してきた。PECSはAAC(補助・代替コミュニケーション)の中心的技法として「制度のお墨付き」を得ているのである。
では日本はどうか。答えは痛烈だ。文科省の特別支援教育文書には「合理的配慮」「個別の教育支援計画」といった耳障りのよい理念が並ぶものの、PECSやABAなど具体的な技法は一切出てこない。理念に酔い、抽象に逃げ、具体を避ける——これが日本の行政の体質だ。その結果、2010年代に熱心な教師たちが現場で導入したPECSは、異動や管理職の無理解で継承されず、いまや火種は消えかけている。
しかも問題は文科省だけにとどまらない。幼児療育を所管する厚労省も同じ穴のムジナだ。理念の看板は掲げるが、技術の制度化は避ける。現場は補助金の枠組みと書類作成に縛られ、肝心の支援技法は「現場次第」。その結果、PECSの波及はきわめて低調であり、日本の自閉症児療育は、支援者個人の努力と裁量に過度に依存する危うい構造のまま放置されている。制度が子どもを支えるどころか、制度が子どもを見捨てているのだ。
PECS40周年は、一つの技術が制度を越えて生き残り、制度を逆に変えていく力を持つことを雄弁に示している。香港に見る「政治と技術のねじれ」、欧米における「制度化の成功」、そして日本に漂う「理念偏重と制度不全」——この三者を並べると、日本の遅れがどれほど深刻かが浮き彫りになる。
理念を振りかざすだけの空疎な行政から、実証的技術を制度として位置づける本物の改革へと踏み出せるかどうか。PECSの歩みは、教育と福祉の制度的成熟を測るリトマス試験紙である。そして日本の現状は、その試験紙に「制度不全の象徴」として鮮烈に記録されてしまっている。
病的要求回避(PDA) ― 2025年09月28日
エリザベス・ニューソンは1960年代から、発達に特性のある子どもに対して、診断名にとらわれず、その子の実際の様子に応じた柔軟な支援を重視する考え方を提唱した。親との協力を大切にしながら、一人ひとりに合った支援を組み立てることを目指していた。彼女は「病的要求回避(PDA=Pathological Demand Avoidance)」という特徴的な行動パターンに注目し、概念として紹介したが、それを特定の診断名として固定することには慎重だった。
ニューソンを調べるきっかけは、知人が自分の子どもはPDAではないかと疑ったことにある。近年では、インターネットを通じて情報を集める保護者が増え、PDAの説明に子どもの様子が似ていると感じて、自己判断で「PDAかもしれない」と考えるケースがあるようだ。これは支援を求める切実な思いから生まれているが、この診断名にこだわることで、かえってASDの専門的な対応が受けにくくなる危険もある。
PDAは、現在の理解では自閉スペクトラム症(ASD)の一つの表現型とされている。ASD支援の基本は、環境の見える化(構造化)と、自発的なコミュニケーション手段の獲得であり、これはASDの特性の強弱や知的水準、年齢・性別に関係なく共通して必要とされる支援である。PDAという別の診断名を与えることで「ASDではない」と誤解されれば、支援の機会が遠のく可能性がある。
現在、PDAは国際的な診断基準には含まれておらず、イギリスでも医療ガイドラインでは診断名として推奨されていない。それにもかかわらず、一部の団体や支援者がPDAを独立した診断名として扱い、特別な支援を求める動きが広がっている。これは、ニューソンが本来大切にしていた「診断名に縛られず、実際の困りごとに向き合う支援」という考え方とは、まったく逆の方向に進んでしまっている。
また、1960年代からのニューソンの考え方は、後の1990年代半ばにイギリス自閉症協会(NAS)が整理した支援の枠組み「SPELL」にも通じる部分があるが、両者の間に制度的なつながりはなく、NASからニューソンへの言及もほとんど見られない。その結果、ニューソンの柔軟な支援の考え方は広く共有されることなく、1980年代に彼女が発表したPDAという言葉だけが一人歩きしてしまっている。
ニューソンの本来の立場は「診断名ではなく、子どもの実態に合わせた支援を考えること」であり、現在のようにPDAを診断名として扱う風潮は、彼女の考え方とは正反対である。支援はラベルではなく、目の前の子どもの様子と必要に応じて柔軟に組み立てるべきであり、ニューソンの思想を今の支援のあり方にどう生かすかが問われている。
ニューソンを調べるきっかけは、知人が自分の子どもはPDAではないかと疑ったことにある。近年では、インターネットを通じて情報を集める保護者が増え、PDAの説明に子どもの様子が似ていると感じて、自己判断で「PDAかもしれない」と考えるケースがあるようだ。これは支援を求める切実な思いから生まれているが、この診断名にこだわることで、かえってASDの専門的な対応が受けにくくなる危険もある。
PDAは、現在の理解では自閉スペクトラム症(ASD)の一つの表現型とされている。ASD支援の基本は、環境の見える化(構造化)と、自発的なコミュニケーション手段の獲得であり、これはASDの特性の強弱や知的水準、年齢・性別に関係なく共通して必要とされる支援である。PDAという別の診断名を与えることで「ASDではない」と誤解されれば、支援の機会が遠のく可能性がある。
現在、PDAは国際的な診断基準には含まれておらず、イギリスでも医療ガイドラインでは診断名として推奨されていない。それにもかかわらず、一部の団体や支援者がPDAを独立した診断名として扱い、特別な支援を求める動きが広がっている。これは、ニューソンが本来大切にしていた「診断名に縛られず、実際の困りごとに向き合う支援」という考え方とは、まったく逆の方向に進んでしまっている。
また、1960年代からのニューソンの考え方は、後の1990年代半ばにイギリス自閉症協会(NAS)が整理した支援の枠組み「SPELL」にも通じる部分があるが、両者の間に制度的なつながりはなく、NASからニューソンへの言及もほとんど見られない。その結果、ニューソンの柔軟な支援の考え方は広く共有されることなく、1980年代に彼女が発表したPDAという言葉だけが一人歩きしてしまっている。
ニューソンの本来の立場は「診断名ではなく、子どもの実態に合わせた支援を考えること」であり、現在のようにPDAを診断名として扱う風潮は、彼女の考え方とは正反対である。支援はラベルではなく、目の前の子どもの様子と必要に応じて柔軟に組み立てるべきであり、ニューソンの思想を今の支援のあり方にどう生かすかが問われている。
「年金が危ない」は本当か ― 2025年06月17日
政府やメディアはこれまで、「年金が危ない」と、まるで“オオカミ少年”のように繰り返し警鐘を鳴らしてきた。だが、本当に年金制度は危機的な状況にあるのだろうか。たしかに、少子化によって子どもの数が減ることを理由に、制度の将来に不安を抱く声は多い。しかし、視点を変えてみれば、今の高齢者世代も時間とともに確実に減っていくこともまた事実である。しかも年金制度は、出生率や平均寿命など、ある程度予測できる人口の動きをもとに設計されており、突然破綻するような仕組みにはなっていない。むしろ、長期的な見通しに立って安定的に運用されている制度と言える。日本の公的年金制度は、「賦課方式」という仕組みを採用している。これは、本来なら積立金を必要とせず、今働いている世代が、今の高齢者世代を支えるという、助け合いの精神に基づいた制度だ。しかし実際には、制度の運用の中で現在、およそ300兆円にも及ぶ積立金が存在している。その大部分は厚生年金からのもので、年間の給付額の約8倍という規模にまで膨れ上がっている。この状態は、制度設計上の「余剰資金」と見なしても問題ないだろう。
一方で、基礎年金にあたる国民年金の給付水準は、年におよそ80万円程度と非常に低く、生活保護の基準に近い水準となっている。特に、自営業者や非正規雇用で働く人たちにとっては、老後の暮らしを組み立てることが極めて難しいのが現状だ。こうした中で、「これだけの積立金があるのに、それを使わずに給付を抑えている」という構図に、疑問や不信感を持つ人も少なくない。政府が制度の将来を見通すために行っている財政検証では、経済成長率や物価上昇率を0%と仮定するなど、極端に悲観的な前提が使われている。そのため、制度がすぐに持たなくなるような印象を与え、給付の改善や再分配といった前向きな議論が進みにくくなっている。しかし、仮に年1%の保守的な運用利回りを続けたとしても、積立金は100年後に800兆円近くまで増えるという試算もある。これほどの資産を、ただ「将来のために」と眠らせておくことが、本当に賢いやり方なのだろうか。
むしろ、まずは国民年金の積立金を優先的に使い、その後に厚生年金の余剰分を段階的に活用することで、基礎年金の水準を引き上げるべきではないだろうか。そうすれば、年金制度全体の信頼性や納得感は大きく向上するはずだ。こうした積立金の活用は、単に年金制度の改善にとどまらず、経済全体にも良い影響を与える可能性がある。たとえば、給付額の増加や保険料の負担軽減によって、手取り収入が増えれば、消費が活発になり、内需を支える力になる。特に、年金受給者の多くは、もらった年金をほとんど消費に使う傾向が強いため、その経済効果は小さくない。長い目で見れば、国内総生産(GDP)を押し上げ、税収の増加につながることも期待できる。
つまり、積立金を使うことは「減るからダメ」という単純な話ではなく、「うまく使えば循環し、かえって制度が強くなる」ことに目を向けるべきだ。この視点に立てば、年金制度は単なる社会保障の仕組みにとどまらず、経済政策や成長戦略の中核として再評価されるべき存在となるだろう。もちろん、積立金を一気に使い切るようなことを求めているわけではない。大切なのは、「何のために、どんな優先順位で使っていくのか」という、制度全体の設計思想である。たとえば、最低保障年金の創設や、所得が少ない人への重点的な支援、あるいは若い世代への保険料免除枠の拡大など、将来の社会に合った多様な使い方が考えられる。
積立金を「漠然とした将来不安に備える資産」として抱え込むのではなく、「今の暮らしを支え、制度への信頼を取り戻す共通の財産」として使っていくことこそが、制度の成熟と言えるだろう。節約一辺倒でもなく、無理な給付拡大でもない。「使いながら守る」年金制度、そんな柔軟で力強い構想が、政治と社会に求められている。
一方で、基礎年金にあたる国民年金の給付水準は、年におよそ80万円程度と非常に低く、生活保護の基準に近い水準となっている。特に、自営業者や非正規雇用で働く人たちにとっては、老後の暮らしを組み立てることが極めて難しいのが現状だ。こうした中で、「これだけの積立金があるのに、それを使わずに給付を抑えている」という構図に、疑問や不信感を持つ人も少なくない。政府が制度の将来を見通すために行っている財政検証では、経済成長率や物価上昇率を0%と仮定するなど、極端に悲観的な前提が使われている。そのため、制度がすぐに持たなくなるような印象を与え、給付の改善や再分配といった前向きな議論が進みにくくなっている。しかし、仮に年1%の保守的な運用利回りを続けたとしても、積立金は100年後に800兆円近くまで増えるという試算もある。これほどの資産を、ただ「将来のために」と眠らせておくことが、本当に賢いやり方なのだろうか。
むしろ、まずは国民年金の積立金を優先的に使い、その後に厚生年金の余剰分を段階的に活用することで、基礎年金の水準を引き上げるべきではないだろうか。そうすれば、年金制度全体の信頼性や納得感は大きく向上するはずだ。こうした積立金の活用は、単に年金制度の改善にとどまらず、経済全体にも良い影響を与える可能性がある。たとえば、給付額の増加や保険料の負担軽減によって、手取り収入が増えれば、消費が活発になり、内需を支える力になる。特に、年金受給者の多くは、もらった年金をほとんど消費に使う傾向が強いため、その経済効果は小さくない。長い目で見れば、国内総生産(GDP)を押し上げ、税収の増加につながることも期待できる。
つまり、積立金を使うことは「減るからダメ」という単純な話ではなく、「うまく使えば循環し、かえって制度が強くなる」ことに目を向けるべきだ。この視点に立てば、年金制度は単なる社会保障の仕組みにとどまらず、経済政策や成長戦略の中核として再評価されるべき存在となるだろう。もちろん、積立金を一気に使い切るようなことを求めているわけではない。大切なのは、「何のために、どんな優先順位で使っていくのか」という、制度全体の設計思想である。たとえば、最低保障年金の創設や、所得が少ない人への重点的な支援、あるいは若い世代への保険料免除枠の拡大など、将来の社会に合った多様な使い方が考えられる。
積立金を「漠然とした将来不安に備える資産」として抱え込むのではなく、「今の暮らしを支え、制度への信頼を取り戻す共通の財産」として使っていくことこそが、制度の成熟と言えるだろう。節約一辺倒でもなく、無理な給付拡大でもない。「使いながら守る」年金制度、そんな柔軟で力強い構想が、政治と社会に求められている。
年金制度改革関連法案提出 ― 2025年05月16日
政府は、短時間労働者が厚生年金に加入しやすくなるよう、「年収106万円の壁」の撤廃を含む年金制度改革関連法案を閣議決定した。法案では、厚生年金の加入要件である賃金基準や、従業員51人以上という企業規模要件を廃止し、パートなど非正規労働者の年金額の増加を図る。また、「在職老齢年金」の基準額を月額50万円から62万円に引き上げ、働く高齢者の年金減額を緩和する措置も盛り込まれた。さらに、所得の高い人の厚生年金保険料を段階的に引き上げ、負担を増やす一方で、将来的な給付を手厚くする制度も導入される。しかし、自民党内の反対意見により「基礎年金の底上げ案」は法案に盛り込まれず、野党はこれに反発。今後の国会審議では調整の難航が予想される。
2004年、小泉政権下で「年金100年安心」とうたわれた年金制度改革が実施され、2007年には「消えた年金問題」として約5095万件の記録ミスが発覚した。そこから今日に至るまで制度は複雑化する一方だが、なぜもっとシンプルでわかりやすい制度にできないのだろうか。今回の「106万円の壁」撤廃も、本質的には基礎年金(月額上限約7万円)では生活が成り立たないという懸念に端を発したものである。パート勤務でも厚生年金を10年間納付すれば、月1万円程度の上乗せが見込まれるというが、月8千円程度の納付が必要となり、手取りは減少する。納付と給付は現在と未来のトレードオフであり、単純な損得では語れないが、それでも将来月8万円で一人暮らしをするのは心もとない。
一方、高所得者の保険料上限は月収75万円で約7万円に設定されるというが、逆に言えば年収1000万円を超える層でも、月7万円以上の負担にはならないままだ。税制であれ年金であれ仕組みは異なるが、根底にあるのは所得の多い者が少ない者を支える「所得の再分配」機能である。税金や年金を損得の視点で見るべきではなく、唯一「公平」と言える基準は、能力に応じた負担が実施されているかどうかである。「少子高齢化の中で、少ない勤労者が高齢者をどう支えるか」という議論が当然のように語られているが、これは誤った前提に基づいている。所得の再分配という観点からすれば、国民全体で生み出した富をいかに公平に分配するかを問うべきであり、生産と消費によって成り立つ富を誰が担っているかという視点が不可欠だ。
議論の中心となるべきは国民年金である。基礎年金が月額2万円弱の定額制であること自体、公平の原則からすれば不自然だ。厚生年金の加入者は所得の約9%を納付しているのだから、国民年金も同様に所得比例で納付するのが公平である。厚生年金では企業がもう9%を負担しているため、国民年金では政府が同率を負担すれば、受給額を厚生年金並みに引き上げることも理論上は可能である。政府は、自営業者の所得を把握できないことや、収入の変動を理由に比例負担にできないと説明するが、同じ政府が徴税では正確に所得を捕捉しているのは明らかだ。現在はマイナンバーにより所得情報と個人が紐づけられており、理論上は全ての所得を正確に把握できるはずである。こうした仕組みを活用せず、国民年金受給者の生活困難をあたかも「貧困問題」として扱うのは筋が違う。
もちろん、働けない人や障害のある人への対応には、セーフティネットとしての別建ての制度設計が必要だ。しかし、厚生年金についても、所得比例の「同率負担」ではなく、税と同じような累進構造を取り入れ、低所得者の負担率を下げる仕組みにすることは可能だろう。年金は「個人の財産」ではなく、「国家のあり方」を体現する制度である。これを民間保険のような視点で捉えていること自体が、根本的な誤解なのではないだろうか。
2004年、小泉政権下で「年金100年安心」とうたわれた年金制度改革が実施され、2007年には「消えた年金問題」として約5095万件の記録ミスが発覚した。そこから今日に至るまで制度は複雑化する一方だが、なぜもっとシンプルでわかりやすい制度にできないのだろうか。今回の「106万円の壁」撤廃も、本質的には基礎年金(月額上限約7万円)では生活が成り立たないという懸念に端を発したものである。パート勤務でも厚生年金を10年間納付すれば、月1万円程度の上乗せが見込まれるというが、月8千円程度の納付が必要となり、手取りは減少する。納付と給付は現在と未来のトレードオフであり、単純な損得では語れないが、それでも将来月8万円で一人暮らしをするのは心もとない。
一方、高所得者の保険料上限は月収75万円で約7万円に設定されるというが、逆に言えば年収1000万円を超える層でも、月7万円以上の負担にはならないままだ。税制であれ年金であれ仕組みは異なるが、根底にあるのは所得の多い者が少ない者を支える「所得の再分配」機能である。税金や年金を損得の視点で見るべきではなく、唯一「公平」と言える基準は、能力に応じた負担が実施されているかどうかである。「少子高齢化の中で、少ない勤労者が高齢者をどう支えるか」という議論が当然のように語られているが、これは誤った前提に基づいている。所得の再分配という観点からすれば、国民全体で生み出した富をいかに公平に分配するかを問うべきであり、生産と消費によって成り立つ富を誰が担っているかという視点が不可欠だ。
議論の中心となるべきは国民年金である。基礎年金が月額2万円弱の定額制であること自体、公平の原則からすれば不自然だ。厚生年金の加入者は所得の約9%を納付しているのだから、国民年金も同様に所得比例で納付するのが公平である。厚生年金では企業がもう9%を負担しているため、国民年金では政府が同率を負担すれば、受給額を厚生年金並みに引き上げることも理論上は可能である。政府は、自営業者の所得を把握できないことや、収入の変動を理由に比例負担にできないと説明するが、同じ政府が徴税では正確に所得を捕捉しているのは明らかだ。現在はマイナンバーにより所得情報と個人が紐づけられており、理論上は全ての所得を正確に把握できるはずである。こうした仕組みを活用せず、国民年金受給者の生活困難をあたかも「貧困問題」として扱うのは筋が違う。
もちろん、働けない人や障害のある人への対応には、セーフティネットとしての別建ての制度設計が必要だ。しかし、厚生年金についても、所得比例の「同率負担」ではなく、税と同じような累進構造を取り入れ、低所得者の負担率を下げる仕組みにすることは可能だろう。年金は「個人の財産」ではなく、「国家のあり方」を体現する制度である。これを民間保険のような視点で捉えていること自体が、根本的な誤解なのではないだろうか。