Tシャツが乾くまで2026年09月14日

Tシャツが乾くまで
『Tシャツが乾くまで』は、不倫ミステリーの装いをまといながら、物語が進むほど“夫婦”や“家族”という枠組みが静かにほどけていく現代的なドラマである。瀬尾咲子(蒼井優)と瀬尾充(松山ケンイチ)は一見すると穏やかな夫婦。バス事故後、憔悴した咲子と園田樹生(中島歩)が、コインランドリーで出会うことで物語が始まる。キャスト陣が醸し出す静けさと絶妙な間合いが画面に独特の緊張を生み、パートナーを失った咲子と樹生の語らいは互いの心の避難場所となっていく。中盤までは、不倫の痕跡を拾い集める静かな心理サスペンスとして進行し、日常の隙間に潜む孤独が丁寧に描かれる。

樹生の妻・園田あずさ(夏帆)は高速バス事故で亡くなる。妻は家を出て充と行動を共にし、その直後に事故で亡くなり、充も同じバスに乗っていたと報じられたが、充の遺体だけは見つからないままだった。物語は充の突然の帰還によって大きく動き出す。この「蒸発直後のあずさの死亡」という事実が、樹生に決定的な誤解を生む。妻は充と行動を共にし、その直後に事故死し、充も同じバスに乗っていた──この外形が揃うことで、樹生の目には不倫の筋が成立してしまうのである。だが、あずさは充に誘われたのではなく、充の不可解な蒸発行動に興味を抱き、自発的に同行しただけだった。恋愛感情ではなく“他者の奇妙さへの関心”が彼女を動かしていたのであるが、この事実はドラマ後半まで明かされないので視聴者は樹生とともにずっともやもやする。

さらに物語は、帰宅した充の蒸発癖のカミングアウトによって咲子の大混乱へと進行する。意を決した咲子が充に明かす離婚歴“バツ4”によって、物語はもう一段ひっくり返る。咲子と充は価値観が真逆なのではなく、むしろ同じ“距離感リセット型”の人種であった。咲子は距離感がしっくりこなければ離婚してリセットし、充は距離感に疲れれば蒸発してリセットする。関係を修復するよりも、まずゼロに戻すことで自分の呼吸を取り戻す点で二人は一致している。だからこそ、充が蒸発という自分のリセットを終えて帰宅した直後に、咲子から離婚という“別方向のリセット”を突きつけられる展開は、充にとって強烈なカウンターパンチとなる。

一方で樹生は、最後まであずさの幻影を見続ける。彼が幻影を抱え続けるのは、あずさを深く愛していたからではなく、関係の終わり方を自分の中で整理できなかったからである。瀬尾夫婦との関わりの中で、樹生は自分が“あずさを知っているつもりで、実はほとんど知らなかった”ことに気づく。知らなさすぎることと、知りすぎることのどちらが幸せなのか──樹生はその狭間で揺れ続ける。この揺れは、距離感を軽やかにリセットする瀬尾夫婦の姿と鮮やかな対照を成し、夫婦であっても他人であっても“違って当然”という価値観へと樹生を導いていく。

物語は最終的に、「嘘はつかないが、言いたくないことは言わない」という瀬尾夫婦のルールへと伏線回収していく。すべてを共有することが誠実なのではなく、言わない自由が関係を軽くする。これは現代の夫婦像を象徴する“距離の哲学”であり、個人が自分の居場所を選び取る物語として描かれる。そして、この複雑な人間関係の湿度と距離感を、過度な説明なしに描き切った脚本家・生方美久の筆は見事だ。未婚の33歳という立場から、「結婚するかどうかは個人の自由であり、どちらの選択も尊重されるべきだ」と語る彼女のスタンスは、劇中で描かれた「縛り合わない距離感の肯定」とも重なっている。当たり前の価値観だがそれを恐れずに当たり前として提示する、その率直さにこそ確かな共感が宿る。『Tシャツが乾くまで』が展開の面白さで観る者を引っ張るのは、生方美久の本音への共感だろう。エンディングのスピッツ「見知らぬ糸」が心地よい。

間違う糸はほどけて また焦がれて
明かされないならペテンでも構わない
ありのままになる 少し強くなれる

健保料は下げられる2026年09月13日

健保料は下げられる
日本の医療保険制度をめぐる議論は、長らく「高齢者医療費の増大をどう賄うか」という一点に収れんしてきた。医療費が増える以上、現役世代の保険料を上げるか、高齢者の窓口負担を増やすか――この二者択一の構図が、あたかも制度設計上の選択肢がその二枚しか存在しないかのように語られてきた。しかし、この議論は人口構造の変化や名目成長率という制度の基礎条件を十分に踏まえておらず、「負担をどちらに寄せるか」という不毛な押し付け合いに陥っている。医療費の増減は単なる世代間対立ではなく、人口動態と名目成長率を軸に再評価されるべき制度的課題である。

まず、名目賃金が年3%伸びる場合を考える。2023年度の国民医療費48.1兆円に対し、保険料財源は約24.1兆円である。賃金総額の伸びに応じて保険料収入が増加すると仮定すれば、名目賃金3%の上昇は約0.72兆円の増収をもたらす。一方、支出面では、賃金・物価上昇に伴う医療単価の上昇(診療報酬・薬剤費等)を考慮し、医療費が年2〜2.5%増加すると仮定すれば、増加額は約0.96〜1.20兆円となる。この2〜2.5%という数字は将来試算上の前提であり、確定的な伸び率ではない。また、高齢者人口は当面増加するものの、その伸びは次第に鈍化し、長期的には減少局面に入るため、人口動態による「構造的自然増」のペースも落ち着いていく。名目成長による増収分(約0.72兆円)を活用すれば、インフレ下での医療費増加に対する現役世代の追加負担圧力を大幅に緩和できる。

ここに国庫負担を年1兆円恒久的に拡大する政策を組み合わせると、制度財源はさらに安定する。賃金上昇による増収(約0.72兆円)と国庫の追加投入(1兆円)を合わせれば、制度全体で約1.72兆円の財源補強となる。医療費の増加分を前段のレンジ(0.96〜1.20兆円)に沿って約1兆円と置けば、制度には約0.72兆円の余力が生じる計算となる。従来のように医療費自然増の全額が現役世代の保険料増額へ直結する構造から脱却し、国庫の追加投入によって制度収支を安定化させる余地が生まれる。

創出された制度余力を保険料負担の軽減に充てれば、被用者保険や国民健康保険の保険料率の上昇を抑制し、段階的な引き下げも視野に入る。これにより、家計と企業の可処分所得が増加し、消費や投資の拡大を通じた経済循環が生まれる。さらに、可処分所得や企業収益の拡大は、所得税・法人税・消費税などの自然増収につながる可能性があるため、国庫が投入した1兆円の一部が税収として還流することも考えられる。結果として、経済活動の拡大による税収効果まで考慮すれば、国の実質的な財政負担は当初の1兆円より低く抑えられる可能性があり、財政と社会保障の双方に好循環を生み出す政策となり得る。

名目成長率・名目賃金上昇率・国庫負担拡大の三点を組み合わせることで、医療保険制度は「現役世代への際限のない負担増」から「保険料率の維持・安定化」へと舵を切ることができる。名目成長を前提とした制度構築と適切な国庫投入を組み合わせることで、制度の持続可能性確保と家計・企業の負担軽減を同時に目指す政策設計が可能となる。医療費増大をめぐる二者択一から脱し、制度の成長余力と人口動態を基礎に据えた新しい議論へ踏み出すことが求められている。

年金保険料は半額にできる2026年09月12日

年金保険料は半額にできる
新聞やニュースでは、社会保障費の増大によって日本の財政が危機的状況にあるかのように語られることが多い。予算要求額や国債費といった名目の大口数字だけが強調されれば、読者は「増えていて危険だ」と直感してしまう。しかし、こうした報道は制度の本質を欠いており、単年度の名目額だけで将来の持続性を判断することはできない。制度の可否を評価するには、名目成長率、年金基金の規模、高齢者人口の推移という三つの要素を統合して考える必要がある。名目額の増減だけを見て危機を語る構造そのものが、制度理解を妨げているのである。

第一に重要なのは人口構造の推移である。国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、65歳以上人口は2040年代半ばに約3,950万人でピークを迎え、その後は減少に転じる。つまり、高齢者人口は永遠に増え続けるわけではなく、一定時点で頭打ちとなり、負担圧力が和らぐ局面に入る。社会保障費の将来像を語るには、この人口構造の転換点を踏まえることが不可欠である。高齢化が続くという印象だけで制度の未来を語れば、実態とは異なる危機感を生むことになる。第二に、約318兆円規模に達する世界最大の年金積立金(GPIF)の存在がある。巨額の資産と長期的な運用収益は制度の安定性を支える強力な基盤であり、単なる「使えば消える金」ではなく、負担軽減に活用し得る資産である。

第三に、保険料率を半額に引き下げた場合の財政構造である。保険料収入との間に差額は生じるが、現行の国庫負担や財政調整の枠組みを整理し、保険料収入と運用益、そして計画的な取り崩しで届かない不足分を国庫補助金で確実に補填する仕組みを位置づければ、2050年代にも200兆円規模の基金を残して財政を安定させる計算が成り立つ。給付人口が減少局面に入ることや名目成長の効果を踏まえれば、積立金の運用と国の調整機能を組み合わせることで、永続可能で負担の軽い年金モデルへの転換が可能となる。

第四に、保険料負担の軽減がもたらす経済効果である。現在の年金保険料収入は年間約40兆円であり、これを半額にすれば約20兆円の負担が軽減される。厚生年金は労使折半であるため、約10兆円は企業負担の軽減となり、賃上げや設備投資の原資となる。残り約10兆円は個人の手取り増となり、家計の消費拡大につながる。企業の投資と家計の消費が組み合わされば、名目3%成長の達成も現実的となり、税収や基金運用環境にも好循環が生まれる。保険料を高水準で維持することだけが安定化の道ではなく、負担軽減がむしろ制度の安定性を高める可能性がある。

にもかかわらず、政府は依然として高い年金保険料を維持し、国民の消費の弱さを放置している。莫大な基金と長期的な運用収益があり、高齢者人口もいずれ減少に転じる以上、保険料を高水準のまま徴収し続けることが最善とは言えない。国内の知能と専門性が最も集まるはずの政府中枢が、この構造的な改善余地を理解していないとは考えにくい。むしろ、理解していながら制度の慣性に押し流されているのだとすれば、皮肉にも日本で最も頭の良い場所が、最も大胆な改革を躊躇していることになる。制度を守るだけでなく、国民負担を減らし経済を活性化させる方向へとより良く変えることこそ、本来の知性の役割ではないだろうか。

イコールアース図法採択2026年09月11日

イコールアース図法の国連採択
国連総会が「イコールアース図法」を推奨する決議を採択した。地図の話である。地図はただ広げられて、世界の形を淡々と描いていればいいのに、今回はやけに熱を帯びている。メルカトル図法は欧米を大きく、アフリカを小さく描く――そんな「体型の偏差値」を正すべきだとアフリカ諸国が声を上げ、日本を含む164か国が賛成した。ところが米国は反対し、「急進的イデオロギー」などと、地図が政治活動でも始めたかのような言い方をした。地図は描かない。描くのは地図会社である。急進的になる理由は特にない。

そもそも地図は、地球を一定のルールで平面に表すための道具だ。アフリカが大きく見えようが小さく見えようが、地球は今日も丸い。もちろん、地図には万能の「正しい図法」があるわけではない。面積を比較したいなら等積図法が適し、航海ではメルカトル図法が大きな役割を果たす。目的によって使い分ければいい話である。ニッポンなどはどっちでも豆粒なので、とやかく言わない。しいて言えば、腰がさらに折れて日本海がやや広がったようにも見えるが、大したことではない。ところが国連の壇上に上がると、地図は急に政治の衣装を着せられ、まるで舞台俳優のように「歴史的瞬間」だの「急進的イデオロギー」だのと、聞き慣れないセリフを言わされる。棚の上で静かに積まれている地図は、「え、私そんな大役なの」とでも言いたげに、少し反り返っている。

こうなると、地図は地図でなくなる。アフリカは「過小評価されてきた歴史の是正」を語り、米国は「政治的意味づけへの反発」を語る。科学的には、「何を正確に表したいのか」を決め、その目的に合った図法を使えばいい。それなのに両者が政治語彙を持ち出した瞬間、議論は地球儀からふわりと浮き上がり、どこか別の惑星へ旅立ってしまう。地図は宇宙旅行など望んでいないし、各国の胸の張り合いは推進力にもならない。なのに勝手に打ち上げられてしまうあたりが、なんとも気の毒である。せめて発射前に一言くらい、地図の都合も聞いてほしい。

さらに票の内訳を眺めると、今回の採決には各国の“政治的事情”が透けて見える。アフリカ諸国は図法の象徴性を掲げながらも、いざ採決となると半数が欠席した。国境線が歴史的に不安定で、地図が政治の火種になり得ることを本能的に知っているからだろう。旧ソ連諸国はさらに慎重で、ウクライナの領土問題への配慮から棄権に回った。つまり、領土問題が政治化する危険性を、彼らはしっかり嗅ぎ取っていたのである。それに引き換え、世界で唯一、領土問題が国際的に認知されている日本は、「図法の話だから」「科学の話なら」安全だろうと信じてしまうあたり、やはりお人好しにもほどがある。

その結果が、採択直後に北方領土がロシア色で塗られ、島名もロシア語由来で記された公式地図の拡散である。日本政府は「決議は図法に関するもので領土問題とは無関係」と泡を食って反論しているが、どうなることか。科学のレイヤーで判断した日本が、政治のレイヤーで動く世界に足をすくわれた格好だ。提唱者パターソン氏は米政府地図を参考にしたとするが、米政府は北方領土を日本領として注記しており、氏の政治的な動きを感じる。ここまで来ると、米国の反対は単なる反発ではなく、図法採択が地図の政治化を誘発する未来を先の先まで読んだ“したたかな判断”だったと言わざるを得ない。日本が割を食ったのは、まさにそのしたたかさを米国の爪の垢ほども持っていなかったことだ。

地図は舞台装置でも照明でもなく、棚の上で静かにしていたかったはずだ。地図は世界を描く道具であって、世界観そのものを決める道具ではない。面積は面積であり、歴史は歴史である。両者を混ぜれば途端に味が濁る。地図は今日も棚の上で黙って積まれ、何も言わず世界を描いている。地図は役に立ってこそ価値がある。

付記:
トム・パターソン氏が10日、産経新聞の独占インタビューに応じ、各国版は抗議した国の事情に合わせて色を変える方針を示した。日本語版は修正されるが、ロシア語版や他国版は従来の主張どおりで据え置かれるという意味である。そして世界標準の英語版は「実効支配を重視する原則を変えない」と明言され、北方領土はロシア色のまま固定される。つまり修正は各国向けの“ローカル対応”にすぎず、国際社会が参照する地図は一切動かない。日本が求めた変更は世界の認知構造には届かない。不公平にもほどがある。

付記2:9/11 英語版はどちらでもない薄い灰色に変更された。ここまでかな。原状復帰は望めないみたいだ。

日本OECDでPISA1位2026年09月10日

日本OECDでPISA1位
日本がOECDで1位になった、と聞くと、つい「日本、やるじゃないの」と言いたくなるのだが、今回のPISAの結果は、どうもその“お祝いの赤飯”を炊飯中に、鍋のフタをそっと開けて中を確認したくなるような内容である。文科省の霞が関の廊下あたりで、担当者が湯気の出ないお茶をすすりながら、眉をひそめている気配がある。読解力・数学・科学の三分野すべてで、最低限の学力に達していない「レベル2未満」の割合が、読解力18.6%、数学16.1%、科学11.3%に達した。OECD平均よりは低いものの、前回より悪化している。上位層が健闘する一方で、下の層が沈む。まるで学力の鍋の底が焦げつき、上の具材だけがふわっと浮いているような状態である。

とりわけ気になるのが「読みの流暢性」である。短い文章を次々と読み、「飛行機は犬でできている」といった文章の真偽を判断する課題で正答率が下がった。SNSで短文を浴び続けているはずなのに、なぜか“読む力”が落ちている。犬でできた飛行機を見抜けない。これはなかなかの事態だ。犬でできた飛行機が空を飛ぶなら、もう世の中なんでもアリである。ついでに犬が操縦していても驚かない。読解力の低下は、単なるテストの点数ではなく、社会の基礎体力のほころびを示すサインでもある。

ここで話は国際比較に飛ぶ。日本の順位が高いのは、日本の教育が優れているという側面だけでなく、他国の成績が低下したことも影響している。欧州では移民比率の上昇に伴い、多言語化や低所得層の集中、都市部の学校への負荷など、教育現場が新たに背負う課題が増えた国が多い。もちろん、移民の増加だけでPISAの低下を説明できるわけではない。しかし、人口構成が変われば、学校が対応すべき課題も変わる。日本は欧州ほど移民比率が高くないため、少なくともこうした人口構成の変化による教育負荷は一部を除けば比較的小さい。いわば、隣の家が大雨で床下まで水浸しになっているのに、自分の家だけ高台にあって難を逃れたようなものだ。雨が降らなかったのではなく、たまたま地形に助けられた面もある。高台に住んでいれば、同じ雨でも被害の出方が違う。

では、日本はどうするか。移民を無条件に増やせば、欧州の一部で見られたように、低所得層の流入や多言語化によって教育負荷が跳ね上がる可能性がある。逆に、カナダや豪州、ニュージーランドのように、高所得・高技能の移民を選抜する仕組みを強めれば、企業の生産性を高め、賃金の上限を押し上げる可能性がある。高度人材が入れば、国内人材との補完関係によって、エッセンシャルワーカーの賃金まで押し上げ国内労働力で賄える余地がある。これは労働経済学の“だし”である。いいだしが入れば、具材の味まで引き上がる。だしが薄いと、どれだけ具材を増やしても味が決まらない。だしの質は、具材の量より大事なのである。

そして忘れてはならないのは、日本は昔から、庶民が本を読める国だったということである。読み書きは、おにぎりの海苔のようなものだ。なくても握れなくはないが、あると形が崩れにくい。海苔が薄くなってきたなら、まず補強するのが筋である。いま起きているのは、5人に1人が社会参加に必要な最低限の読解力を欠くという状況だ。今回のPISAは、日本が世界のトップグループにいることを喜ぶだけでなく、その足元で何が起きているのかを確かめよ、という“警告灯”である。海苔が破れたおにぎりは、食べられなくはない。しかし、手に持ったときの不安がどうにも拭えないのである。

遺伝的要因のおそろしさ-22026年09月09日

知能と遺伝
現代社会では「遺伝的要因のおそろしさ」という言葉を出しただけで空気がピリッとする。まるで会議室で誰かが突然「昔はよかった」と言い出したときの、あの扱いづらい沈黙に似ている。昭和の生活圏で普通に交わされていた「やっぱり血なのかしら」という素朴な観察は、現代では禁句に近い。遺伝という言葉を口にした瞬間、「それは危険です」という空気が立ち上がる。空気の方が先に走り、科学が後ろから「いや、そこまで言ってない」と声をかけているような妙なねじれがある。空気は軽いのに扱いだけは妙に重い。

その一方で、ゲノム研究は静かに進んでいる。知能や才能の個人差には遺伝的要因が関係することが双生児研究や大規模解析で繰り返し示されている。知能の遺伝率は成人で高まり、後期成人では80%程度に達するとの報告もある(プロミン・ディアリー、2015)。教育達成についても遺伝的要因との関連が確認され、100万人規模の研究ではポリジェニックスコアによって学業成績の一部が統計的に予測できることが示された(リーら、2018)。音楽的能力にも数十%から70%台の遺伝率が報告されている(フロント・イン・サイコロジー、2014)。ただし遺伝率は「能力の何%が遺伝で決まるか」という数字ではなく、集団内の個人差がどの程度遺伝的差異と関連するかを示す指標である。それでも知能や認知能力に遺伝的個人差が存在すること自体は揺らがない。昭和のおばちゃんの「なんとなくの観察」が分子レベルで検証されていくという妙な時代だ。

とはいえ、遺伝は結果を決定しない。遺伝は傾向を与え、環境がそれを増幅したり抑えたり別方向に曲げたりする。遺伝は初期値であり、環境はその初期値をどう料理するかを決める更新過程である。だから遺伝的傾向を理由に本人が望まぬことを強要するのは誤りであり、遺伝的傾向を無視して強制するのも誤りだ。どちらに転んでも本人の自由を奪う。理由が雑なときほど、なぜか声だけは大きい。

さらに、本人が「望む・望まない」という欲求にも遺伝的影響がある。外向性、協調性、開放性などの性格特性では40~60%程度の遺伝率が報告されている(ジャングら、1996)。ここから「選別志向も遺伝する」とは言えないが、他者を選別したり優劣をつけたりする傾向にも生得的個人差が関係する可能性はある。ただしこれは「優生思想そのものが遺伝する」という話ではない。選別志向を抑える倫理が弱まったとき、それが社会思想や制度として固定化される可能性があるという話である。個人の傾向に遺伝的影響があることと、それを制度として固定化することは別だ。前者は生物学、後者は文化である。文化は時に「自分の癖」を制度にしてしまう。癖が制度になると扱いづらい。

才能の発見と差別は本質的に別物である。才能の発見は選択肢を広げ、差別は選択肢を狭める。危険なのは遺伝そのものではなく、遺伝を価値判断や制度評価に短絡させる構造である。遺伝率を個人の運命を決める数字として扱うこともその一つだ。一方で誤解を恐れて遺伝率を語らなければ、科学的に確認されている遺伝的影響まで見えなくなる。社会は遺伝の話を危険視し、科学は遺伝の影響を淡々と示し続けている。このねじれこそが私たちが直面している問題である。制度は空気ではなく事実に合わせて設計されるべきだ。空気は軽いが制度は重い。重いものは軽いものに振り回されるべきではない。

遺伝的要因のおそろしさ2026年09月08日

本田由紀氏「遺伝的要因」炎上
東京大学の本田由紀教授がXで「遺伝的要因のおそろしさを感じる」と投稿した。これが大きな反響を呼んだのは、皇族費という制度的な支給を、生物学的な遺伝と結びつけた点にある。発端は、彬子さまの皇族費増額を麻生家の血筋と関連づけ、「さもしい」「皇籍離脱させるべきでは?」「麻生の血筋から天皇を出すんですか?」と書いた一般ユーザーの投稿である。本田氏はこれに賛同し、「遺伝的要因のおそろしさを感じる」と書いた。しかし、皇族費は制度上の措置であり、個人の能力や性質とは無関係である。制度的事柄を遺伝と結びつける比喩は、教育学研究者として本来求められる慎重さから外れていた。

「血筋」とは本来、家系や親族関係を指す語であり、遺伝的能力を意味するものではない。昭和のおばちゃん同士の噂話では、この二つがしばしば混同された。「お父さんが立派だから、息子さんもしっかりしてるのよねえ」と言いながら、「やっぱり遺伝なのねえ」と家系の話を遺伝の話にすり替えてしまう。逆に「父親はだらしないのに息子さんはしっかりしてるのよ」と言いながら、「あれはお母さんの血なのかしらねえ」と遺伝の話にすり替える場合もある。家系の話が遺伝の話に聞こえ、遺伝の話が能力の固定化に見える。この“昭和の噂話の三段跳び”は、現代では禁句になっている。差別の再生産につながる危険な構造として、日常会話でさえ避けられるようになった。

ところが本田氏の投稿は、「遺伝的」という現代的で学術的な語句を使いながら、その実は昭和のおばちゃん噂話で典型的だった“家系→遺伝→能力”の短絡的な連鎖を制度論の場で再現してしまった。制度的支給を遺伝と結びつけるなら、極端な話、東大教授の給与が上がったときに「優秀な家系だから賃上げなのね」と説明できてしまう。もちろんそんなことを言う人はいない。教授の給与は制度に基づく処遇であり、家系や遺伝とは無関係である。こうした極端な例を持ち出すことで、制度と遺伝を混同する比喩の不適切さがより鮮明になる。昭和の井戸端会議なら笑い話で済んだ構造が、専門家の発言として出れば強い反発が起きるのは当然である。

本田氏の表現が批判されたのは、制度と遺伝の距離を一気に詰めてしまったからである。教育学者の発言なら、そこに敏感な反応が起きるのは当然だろう。ただし、ここで勢い余って「差別者だ」と本人の人格まで断罪してしまうと、昭和の噂話でも「まあまあ、そこまで言わなくても」と誰かが止めるように、話が別の方向へ転がっていく。発言の誤りを指摘することと、発言者を属性で固定してしまうことは別である。レッテルで相手を縛れば、差別の構図を自分たちで再生産することになる。批判すべき発言があったなら、何が問題なのかを示し、説明や訂正を求めればよい。それを飛び越えて人格全体を裁いてしまえば、議論は言葉の適否から人間の善悪を決めるゲームへと変質してしまう。

本田氏の「遺伝」という表現は、教育学者として慎重さを欠いたと言われても仕方がない。皇室制度を批判すること自体は自由だが、制度的事柄を遺伝と結びつける比喩は誤解を招く。しかし、それを理由に人格まで断罪する態度もまた慎重さを欠いている。重要なのは、誰が言ったかではなく、その言葉が何を意味するものとして使われたのかを検証することである。制度的血統と生物学的遺伝を混同しないこと。そして、誤った表現を批判すると同時に、その批判によって人間そのものを固定化しないことである。「差別をなくす」という目的を掲げるなら、言葉の誤りを正すことと、人を属性で分類し排除することを混同してはならない。差別を批判する社会だからこそ、節度が求められるのである。

ICCを国連に戻す正義と力2026年09月07日

ICCを国連に戻す正義と力
国際刑事裁判所(ICC)の赤根智子所長は、東京裁判の判事レーリンクが示した「勝者の裁きへの抵抗」を評価し、政治的圧力に左右されない公平な裁判の重要性を強調した。欧州は人権外交を掲げICCを強く支持してきたが、赤根氏は「ICCを欧州の法廷にさせない」と述べ、アジアの加盟拡大を目標に掲げた。日本人所長の誕生は国際司法の公平性を高める象徴とも受け止められた。しかし、米国がICCに制裁を科すなど、民主主義国の内部でも制度への警戒が強まっている。問われているのは個々の判決ではない。国際司法の正当性を、いかに国際社会の中で成立させるかという課題である。

日本の安全保障は国際法だけで守られてきたわけではない。日本が国際法の枠内で行動できたのは、米国の軍事力という後ろ盾があったからである。国際法は国家の行動を律する重要な規範だが、それ自体が武力による現状変更を阻止するわけではない。ウクライナが国際法に基づく立場を維持していてもロシアの侵攻を防げなかったことは、その限界を示している。イランをめぐる問題でも、国際法だけで国家の行動を抑止することは容易ではない。国際法が現実に機能するには、外交的圧力や経済制裁、そして究極的には、それを支える現実の力が必要である。この現実を踏まえると、日本が依拠すべきなのは理念だけではない。国際秩序を支える正当性そのものを、より強固なものにする必要がある。

その重要な舞台が国連総会である。国連総会では、強国も小国も原則として一国一票を持ち、幅広い国々が意思を表明することで国際社会の方向性を示してきた。総会決議に一般的な法的拘束力はない。しかし、多数の主権国家が共通の意思を示すこと自体が、国際秩序の正当性を支える。日本は超大国ではないからこそ、この主権国家の平等を基礎とする外交空間を活用してきたのである。力だけで国際秩序をつくれば、強国の都合がそのまま秩序になる。だからこそ、幅広い国々が認める正当性を確保することが、日本のような国にとって重要なのである。

一方、ICCは国連の機関ではなく、ローマ規程という条約によって設立された独立した裁判所である。ICCは個人を裁くため、締約国の領域で発生した犯罪については、非締約国の国籍を持つ個人にも管轄が及ぶ。また、非締約国についても国連安全保障理事会の付託によって管轄が及ぶ場合がある。しかし、米国、中国、ロシアなどの大国はローマ規程の締約国ではなく、自国領域における犯罪については、締約国の場合のように当然にICCの管轄を受けるわけではない。さらに安保理付託には常任理事国の拒否権という政治的制約がある。こうして、大国と他国との間には、国際司法への関与と責任をめぐる非対称性が生じやすい。また、ICCは欧州諸国から強い政治的・財政的支援を受けて発展してきたため、非欧州諸国から欧州的価値観を帯びた制度と見られる余地もある。普遍的司法を掲げながら、その正当性の基盤が偏って見えることこそ、ICCが抱える構造的な問題である。国際司法の正当性を確保するには、制度の原点に立ち返り、急がば回れの姿勢が求められる。

「まんじゅうや」票無効2026年09月06日

「まんじゅうや」票無効
茨城県神栖市長選で木内敏之氏と石田進氏が同数票となり、くじ引きで木内氏が当選した。ところが県選管は「まんじゅうや」「だんごさん」と書かれた票を無効とし、木内氏の当選を取り消した。現市長の木内氏が県選管の裁決取り消しを求めて提訴した東京高裁は、9月3日、県選管の判断を支持した。

高裁が選管の判断を追認したというニュースが流れても、こちらは「まだ饅頭屋の話をやっているのか」とうんざりするだけだ。誰が逆立ちしたって「まんじゅうや」の二票が木内氏を指すことにはならない。常識で考えれば結果は最初から分かっているのに、選挙から一年が見えている今も制度の都合でこの不毛な状態が続いている。上級審への不服申立てがあれば、さらに決着は延びる。饅頭の話が長引くにもほどがある。選挙制度は本来、非常識な行為によって結果が歪められないようにするための仕組みのはずなのに、争いが続けば疑義を指摘された当選状態がそのまま続く。小学生の学級委員長選挙なら先生がすぐに「はい、やり直し」と言う場面でも、大人の選挙では裁判にまで発展し、その間は現状維持。この時点で漫画のコマ割りが見えてくる。

選挙訴訟は本来スピード勝負だ。選挙の当否を何年も引きずれば、その間に当選者は首長として活動し、議会も行政も動いてしまう。だからこそ迅速な審理が求められる。それなのに、高裁で「当選無効」と判断されても、判決が確定するまでは在職が続く。法的手続きの慎重さには理由があるとしても、選挙のように時間そのものが政治的価値を持つ場面では制度上のねじれが生じる。教育現場なら「間違いは分かったら直す」が当たり前なのに、選挙制度は「確定するまでは現状維持」で動いてしまう。これでは子どもに説明がつかない。

今回の問題で本当に問いたいのは、二票そのものだけではない。学級委員長選挙で「パン屋の子」「魚屋の子」といった票が通れば、先生は「誰のことですか」と眉をひそめるだろう。ところが大人の選挙では、その一票一票が当落を左右する。二人の得票が同数だったからこそ、たった二票の扱いが選挙結果を動かした。ここまでは制度上の当然の帰結である。しかし、元をたどれば問題は別にある。選挙の公正を守るべき選管が、投票後になって「まんじゅうや」を通称として認定してしまったことだ。候補者の非常識よりも、選管の非常識の方がはるかに重い。そして、その判断を現場で決めた委員長の責任は大きい。

だからこそ、高裁で当選無効の判断が出た場合には、一定の条件の下でいったん交代させ、上級審で覆れば元に戻すといった暫定的な仕組みを検討してもよいのではないか。もちろん判断が覆れば政治的な混乱は生じる。しかし、誤った当選状態を長期間そのままにしておくことにも損失がある。重要なのは、裁判の慎重さを守りながら、選挙の時間的価値も守ることだ。

制度は非常識を抑止するためにあるはずなのに、現行制度では結果として制度の側が非常識に見える事態まで許してしまう。この矛盾が制度への信頼を削る。子どもには「正確に名前を書きなさい」と教えながら、大人の選挙では「パン屋の子」「魚屋の子」のような票をめぐって裁判を続ける。ここまで来れば、饅頭屋の包み紙を開けてみても、中に入っているのは「まんじゅうこわい」と笑える落語ではない。

ネパールへの支援2026年09月05日

ネパールへの支援
ネパールで8月26日、国境近くの山岳地帯で大規模な洪水・土砂災害が発生し、死者は1200人を超え、4200人以上が行方不明となった。復旧費は40億~50億ドル、GDPの約1割に達するというから、国の財政が深刻な打撃を受けたことは明らかである。ネパール政府が「気候補償」を求め、中米印の大排出国に支援を求めるのも理解できる。しかし、今回の災害を即座に「CO₂のせいだ」と断定することはできない。氷河の崩落を直接の引き金に、豪雨や地形など複数の要因が重なっているからだ。だからこそ、個別災害の因果関係を遡って責任を問うのではなく、将来に向けた負担のルールづくりが必要になる。

現在の損失・損害基金(FRLD)は、気候変動に脆弱な途上国を支援するための制度である。しかし、その設計思想は1990年代の国際構造を前提としており、いまの世界の現実とずれ始めている。先進国が拠出を主導し、その他の国は自主的拠出という構造は、UNFCCCの先進国・途上国区分を踏襲したものだ。だが、その後の世界では経済力も排出量も大きく変化した。古い区分を温存すれば、現在の大排出国や経済大国が十分な負担を求められないという歪みが生じる。制度の理念は妥当でも、現実に合わせて更新されなければ公平性は保てない。

この制度の隙間を最も巧みに利用しているのが、中国のような大国である。中国は世界最大のCO₂排出国で、経済規模も世界有数であるにもかかわらず、「途上国」の立場を維持し、それを国際的な負担を軽減する根拠としている。FRLDについても、UNFCCCが公表する拠出者一覧に中国の名前はない。一帯一路などを通じた途上国支援は行っているものの、それは自国の外交政策であり、国際的な共通ルールに基づく気候負担とは性質が異なる。ロシアもまた、巨大な排出規模と国力を持つ現実と、既存の国際制度が想定する国家区分との間に大きな隔たりがある。さらに、インドについては人口規模が中国と同等であるため、一人当たり排出量の観点から単純に非難することは筋違いである。問題は「豊かな国が貧しい国を助ける」という旧来の構図ではなく、大国が制度の隙間を抜けて負担の公平性をゆがめている点にある。

新しい国際ルールを設計するなら、過去の排出量を遡って責任を裁く方式ではなく、ルールを締結した時点を明確なスタートラインとすべきだ。そのうえで、総排出量、一人当たり排出量、所得水準、財政余力など複数の指標を組み合わせ、すべての国を同じ基準で評価する。要するに、国際協力の「割り勘」を、誰もが納得できる計算方法で決めるということである。もちろん、権威主義的な大国がこうした新しいルールに素直に従うとは限らない。むしろ、抵抗する姿が容易に想像できる。しかし、だからこそ国際社会が「それは非常識だ」と一貫して声を上げ続けることが抑止力になる。大国であっても例外を認めないという共通認識こそが、制度の実効性を支えるのである。

ネパールへの支援は当然必要である。しかし、それを「先進国が途上国に補償する」という古い構図に戻してしまえば、再び制度の隙間が生まれる。必要なのは、中国やロシアを含むすべての国が、現在の排出量と国力に応じて負担する仕組みである。気候変動対策に求められるのは、過去の罪を裁く国際裁判ではない。現在の現実を出発点として、全国家に同じ原則を適用し、大国にも例外を認めない新しい国際秩序なのである。世界政治では大国を名乗り覇権的に振る舞う一方、拠出の場面では途上国を名乗ってびた一文払わないという都合のよい“フリーライド”を許してはならない。