大阪出直しダブル選挙2026年01月17日

大阪出直しダブル選挙
総選挙と同日に実施される可能性がある大阪府知事・大阪市長の出直しダブル選挙をめぐり、自民党大阪府連は警戒感を強めている。日本維新の会が、選挙を通じて大阪都構想の是非を改めて争点化しようとしていることに対し、自民側は「国の制度として議論される副首都構想と、大阪市を廃止・再編する都構想は本来別次元の問題だ」と指摘する。そのうえで、過去2度にわたり住民投票で否決された経緯を踏まえ、「ダブル選挙という形で都構想の民意を改めて問うのは時期尚早だ」と牽制している。

もっとも、この「時期尚早」という言葉ほど、政治の世界で都合よく使われる表現もない。本当に議論の成熟を欠いているから早すぎるのか。それとも、今このタイミングで争点化されること自体が不都合なだけなのか。そこを意図的に曖昧にしたままでは、賛否の前提となる論点整理そのものが置き去りにされ、議論は容易に本質を外れてしまう。

そもそも今回の争点は、都構想という制度の細部を市民にもう一度“理解させる”ことではない。大阪ではすでに二度、住民投票という極めて重いプロセスを通じて賛否が問われ、その過程で制度論は出尽くしている。いま改めて問われているのは、「二度否決され、政治的に区切りをつけたテーマに、それでも再挑戦する覚悟があるのか」という政治の姿勢そのものだ。今回の選挙で市民が判断するのは、制度の設計図ではなく、再挑戦を引き受ける政治の腹の据わり方である。

結局のところ、副首都を名実ともに機能させようとすれば、現行の自治体制度の延長線上だけでは限界がある。府と市が並立し、それぞれが独立した権限を持つ現行制度のままでは、広域行政の意思決定は分散し、東京に匹敵する中枢機能を担う都市運営は現実的とは言い難い。その限界をどう突破するかという問題意識の中で積み上げられてきたのが、大阪都構想で議論された行政機構改革の考え方だ。基礎自治体の役割を明確にし、広域政策や都市戦略を一元的に担う――この発想は、住民投票で否決されたからといって無意味になったわけではない。副首都を本気で掲げる以上、避けて通れない論点だ。

副首都制度は、その入口としての枠組みにすぎない。実際に機能する副首都をつくるには、都構想で議論されたような権限整理や行政再編を、何らかの形で取り込まざるを得ない。制度としては別物でも、現実の都市運営という観点では、副首都と都構想は切り離せない関係にある。

この延長線上にあるのが、吉村洋文知事が繰り返し語ってきた「道州制まで見通した自治体再編論」だ。都構想はゴールではなく通過点にすぎず、最終的には国・道州・基礎自治体という三層構造へ移行し、中央集権型の国家運営から脱却する――この構想は、短期的な選挙対策というより、日本の統治機構そのものを問い直す長期ビジョンに近い。

この視点に立てば、「副首都制度と都構想は別だから、同時に問うのはおかしい」という自民府連の主張が出てくるのは、政党としての立場を考えれば理解できなくもない。だが、問題は、改革を旗印にしてきた維新の内部からも、同じ言葉をなぞるような異論や難癖が出ている点だ。制度の方向性を共有してきたはずの議員が、「時期尚早」という曖昧な言葉に逃げ込む姿は、率直に言って情けない。

住民投票には制度設計、条例整備、周知期間といった長い準備が必要で、最低でも1年から1年半はかかる。今回のダブル選挙は制度の是非を即断させる場ではなく、「再挑戦に踏み出すかどうか」を市民に問うための入口にすぎない。その前提を理解しながら腰が引けるのだとすれば、それは制度論ではなく、選挙日程への配慮にすぎない。

確かに、議員にとってダブル選挙は厄介だ。総選挙が迫れば地元活動は圧迫され、メディアの注目も首長選に奪われる。しかし、自治体再編や道州制は、目先の選挙事情とは別の時間軸で考えるべきテーマである。東京一極集中を是正し、複数の極を持つ国へと転換するには、現行制度のままでは限界がある。

ダブル選挙が突きつけているのは、制度の是非以上に、「この国の統治構造を変える覚悟があるのか」という問いだ。反対する自由はある。しかし、改革を掲げてきた側が曖昧な言葉で議論から退くなら、それは有権者への裏切りに近い。大阪で問われているのは、誰が本気で未来の構造改革に向き合うのか、その覚悟が問われている。

ようやく観た 映画『国宝』2026年01月16日

映画『国宝』
近頃めっきり「観たい映画」が見当たらず、ロングラン上映が続く『国宝』をようやく選んだ。3時間近い上映時間の長さに、正直なところ生理現象を気にして二の足を踏んでいたが、覚悟を決めて劇場へ足を運んだ。結論から言えば、本作がなぜこれほどの社会現象となったのか、その理由がしっかり腑に落ちる体験となった。『国宝』は、吉田修一が歌舞伎の裏方として得た経験をもとに描いた原作を、李相日監督が50年にわたる一代記として映画化した作品だ。公開後、邦画実写のひとつの到達点と言われるほど記録を更新し続けている。伝統芸能という、ともすれば敷居の高いテーマを扱いながら、これほど広い層の観客を惹きつけた例は極めて稀だろう。

本作の成功を支えた大きな要因は、映画音楽と古典音曲の絶妙なバランスにある。原摩利彦による劇伴は、歌舞伎特有の「間」を大切にしながら、ストリングスの柔らかな響きで観客の感情をそっと導いてくれる。もし音楽が純粋な歌舞伎音曲だけで構成されていたなら、作品はよりストイックで、どこか近寄りがたいものになっていたはずだ。音楽が一種の「通訳」として機能したことで、歌舞伎に馴染みのない観客にも、登場人物たちの心の揺れがまっすぐ届いている。

一方で、映画の構造にははっきりとした光と影がある。舞台シーンの完成度は圧倒的だ。役者の所作、音楽、張り詰めた緊張感が一体となり、観る者の集中力を一気に引き上げる。しかしその反動で、舞台外の日常描写(ヤクザのカチコミや観客に絡まれる場面など)は、相対的に少し間延びして感じられた。長い原作を175分に凝縮した結果、どうしても説明的なエピソードが増え、映画としての勢いが削がれてしまう箇所があるのは否めない。舞台表現が突出しているからこそ、それ以外の場面の平板さが目立ってしまう構造なのだ。

役者の「言葉」も、没入感を左右する興味深い要素だった。主演の吉沢亮の関西弁は、相当な訓練を感じさせる自然さで、物語の世界にうまく溶け込んでいる。一方で、渡辺謙や横浜流星の台詞にふと標準語のアクセントが混じると、関西出身の人間としては少し引っかかりを覚えてしまう。さらに、春江役の高畑充希は、自身が関西ネイティブであるゆえの流暢さが、かえって劇中のバランスを揺らしているようにも見えた。長崎から来た喜久雄が時間をかけて関西に染まっていくのに対し、成人してから関西へ来たはずの春江が最初から完璧な関西弁を話す様は、役柄の背景よりも演者本人の素顔を連想させてしまうからだ。

劇中劇として挿入される『曽根崎心中』は、物語を象徴する見事な装置だ。春江が俊介と共に舞台を去る選択は、古典の悲劇をなぞると同時に、喜久雄を芸の道で大成させるための、彼女なりの献身とも受け取れる。こうした多義的な解釈を観客に委ねる余白がある点に、この作品の懐の深さを感じた。

総じて『国宝』は、伝統芸能の映画化という難題を、音楽・演技・構成の力で乗り越えた意欲作といえる。細かな課題はあるものの、その音楽的な美しさと解釈の奥行きこそが、歴史的なヒットを支えた最大の理由なのだろう。

「SNS告発」に追い込まれる学校2026年01月15日

「SNS告発」に追い込まれる学校
学校で起きた暴行が、教師でも校長でもなく、SNSによって発覚する。この異様な光景が、いまや珍しくなくなった。栃木県と大分県の学校で、生徒が別の生徒に暴行する様子を撮影した動画がSNSで拡散した問題を受け、文部科学省は教育長らを集めた緊急会議を開き、「いじめの見過ごしがなかったかの点検」や「情報モラル教育の徹底」「警察との連携強化」を呼びかけた。だが、こうした対応を聞くたびに思う。論点がズレてはいないか。問題の本質は、SNS時代のトラブルでも、生徒の倫理観の低下でもない。むしろ、学校という組織が長年抱えてきた「内部告発の仕組み不在」こそが、暴行の黙殺とSNS拡散という両極端な事態を同時に生み出している。

今回の動画の経路は象徴的だ。栃木県のケースは学校不祥事を扱う“告発系アカウント”に投稿され、大分県ではSNS拡散によって半年も経て学校が事態を把握した。ここから読み取れるのは、単なる悪意の晒しではない。「学校に言っても動かない」という現場の諦念が、外部への告発を選ばせた可能性である。もちろん、告発目的であっても被害者の映像が拡散されれば、プライバシー侵害や二次被害の危険は避けられない。だが、そこにこそ学校制度の致命的な矛盾がある。校内暴力やいじめは何十年も前から繰り返されてきたにもかかわらず、学校は「体面」や「評判」を優先し、問題を矮小化し、時に黙殺してきた。教員の多忙と専門性不足、閉鎖的な人間関係、第三者が介入しづらい制度設計、こうした条件が重なり、暴力は見えなくされ、声は封じられてきた。

その結果、生徒にとってSNSが唯一の告発ルートになってしまった。校内に安全で信頼できる通報制度が存在しない以上、正当な問題提起であっても、ネットに投げれば「晒し」と受け取られ、被害者も加害者も、そして学校自身も傷つく。今回の二つの事例は、まさにこの構造的欠陥が表面化したものだ。

この悪循環を断ち切るために必要なのは、精神論でもモラル教育の唱和でもない。学校に実効性ある内部告発制度を制度として組み込むことである。生徒や教職員が匿名で安全に通報でき、暴行動画などの証拠は第三者委員会が適切に保全する。委員会には弁護士や司法関係者を参加させ、中立性と専門性を担保する。制度内では身元確認を行い虚偽通報を抑止しつつ、外部には匿名性を守る。さらに、学校側や委員会が隠蔽や不正を行った場合に限り、外部発信を「正当な公益通報」として保護すれば、SNSは“暴走する告発装置”ではなく最後の安全弁に戻る。

学校は「秩序」を守るという名目で、子どもたちに沈黙を強いてきたのではないか。その結果として、最も危険な告発手段――SNSでの拡散――を子どもたちに選ばせてしまったのではないか。栃木と大分で拡散した暴行動画は、制度改革を先送りにしてきた大人たちに、この問いを突きつけている。それにもかかわらず、制度そのものの欠陥を議論の俎上に載せようとしない文部科学省の姿勢は、あまりに心許ない。

「推しだから許す」前橋市長選2026年01月14日

「推しだから許す」前橋市長選
前橋市長選は、不祥事を起こした政治家が再選されたという一点だけでも異例だが、その内側には、地方政治の現在地を象徴する二つの相反する力が同時に働いていた。既婚の市職員とのホテル面会問題で辞職した前市長・小川晶氏は、出直し選挙で再び市長の座に返り咲いた。説明は一貫せず、事実関係についても疑念は残ったままだ。それでも得票率は前回と大きく変わらなかった。しかし、市民が「騙されていた」わけではないという点である。多くの有権者は、小川氏の説明に嘘やごまかしが含まれている可能性を理解していた。SNSでも街頭でも、「本当のことは言っていないだろう」という認識は広く共有されていた。それでも票は入った。この選挙は、納得の結果ではない。承知のうえでの選択だった。

この構図は、兵庫県知事選で斎藤元彦氏が勝利した際の空気とよく似ている。兵庫では、斎藤氏への批判が次第に人格攻撃へと傾き、叩いている側がメディア、県議会、既存政治勢力であることが可視化された。その瞬間、有権者の関心は「何が問題か」から「誰が叩いているのか」へと移った。問題の中身よりも、攻撃の構図そのものへの反発が勝ったのである。

前橋でも同じことが起きた。不祥事後、小川氏を激しく追及したのは、地元メディア、県知事、そして自民党系を中心とする政治勢力だった。倫理を掲げた追及であっても、それが権力側が一斉に叩いている構図に見えた瞬間、市民の感情は反転する。「市長は嘘をついているかもしれない。だが、叩いているのがこの顔ぶれなら話は別だ」。ラブホ問題の是非よりも、メディアと県知事、自民党が一体となって市役所を握り直そうとする姿への拒否感が、投票行動を方向づけた。これは道徳の選択ではなく、力関係への警戒である。

しかし、ここで見落としてはならないのが、もう一つの支持層の存在だ。反権力的な計算とは別に、小川氏をアイドルのように無条件で支持する層が、確実に存在していた。彼らにとって重要なのは、説明の整合性でも倫理でもない。「市長が好きかどうか」だけである。「叩かれていて可哀想」「人柄はいい」「ちいかわ市長だから応援したい」。こうした感情は、批判をすべてアンチの攻撃として処理し、事実確認や検証そのものを拒む。嘘の指摘は足の引っ張りに、説明不足は重箱の隅にすり替えられる。

この妄信的支持は、反権力の投票とは似て非なるものだ。前者が「より嫌な未来を避けるための消極的選択」だとすれば、後者は政治を推し活に変えてしまう危うい態度である。小川氏の親しみやすいキャラクターや、給食費無償化といった分かりやすい政策は、この妄信を強化する装置として機能した。政策は評価ではなく応援材料となり、疑惑は「それでも応援する理由」を固める燃料に変わる。

だが、政治において最も危険なのは、嘘を許すことそのものより、嘘を問わなくなることだ。今回の再選は白紙委任ではない。得票率が伸びていないことが示す通り、多くの市民は条件付きで市長を選んだにすぎない。だが妄信的支持層は、その条件を外そうとする。「勝ったのだから正しかった」「もう蒸し返すな」という圧力が、次の不祥事の芽を摘み取る。

前橋市政はいま二つの視線にさらされている。一つは、嘘を承知で選んだという自覚を持つ冷めた視線。もう一つは、推しを守るという熱に浮かされた視線だ。前者が機能すれば市政は辛うじて緊張感を保つ。後者が支配すれば政治は劣化する。兵庫と前橋が同時に示したのは、権力に反発する民主主義の健全さと、妄信が民主主義を壊す危うさが、同じ選挙に同居しうるという現実である。嘘を見抜いたうえで選ぶことと、嘘をなかったことにすることは、似ているようで決定的に違う。前橋が次に試されるのは、市長ではなく市民自身だ。

探査船レアアース求め出航2026年01月13日

探査船レアアース求め出航
地球深部探査船「ちきゅう」が、清水港を静かに離れた。向かう先は南鳥島沖、日本の排他的経済水域(EEZ)。水深6000メートルの海底に眠る「レアアース泥」を試験的に掘削するためだ。日本が十年以上温めてきた“切り札”が、ついに実海域で試される段階に入った。今回検証されるのは、船上から海水を送り込み、泥を流動化させて吸い上げる新方式である。仕組み自体は単純だが、世界最深クラスの水深で安定運用できる国は存在しない。成功すれば、日本は「深海採鉱」という未踏領域で、事実上の先行者となる。

南鳥島のレアアース泥は、世界的に見ても突出した高品位を誇る。1トンの泥に含まれるレアアース酸化物は1〜4キロ。濃集層では4キロ超も確認されている。しかし、現実は厳しい。水深6000メートル級での採泥コストは1トンあたり3〜6万円、精製まで含めれば7〜12万円に達する。NdPr酸化物の市況価格を基準にすれば、泥1トンの資源価値は1.2〜4.7万円。つまり、濃集層をピンポイントで狙えなければ、赤字は避けられない。

それでも日本がこの計画を進める理由は中国である。中国は世界のレアアース生産・精製の7〜9割を握り、供給を外交カードとして使ってきた。近年も米中対立の激化を背景に、輸出管理強化や供給制限をちらつかせている。半導体、EV、風力発電、さらには兵器システムまで、現代国家の中枢はレアアース抜きでは成り立たない。その供給を他国の判断に委ね続けること自体が、戦略的リスクなのである。

南鳥島プロジェクトの本質は、採算性ではない。これは民間企業が単独で挑める事業ではない。初期投資は巨額、技術リスクは世界最高水準、立ち上がりの数年間は赤字が確実だ。だからこそ、国が基盤技術と初期投資を引き受け、民間が運用と効率化を担う――航空・宇宙産業と同じ二段構えが不可欠となる。

ただし、ここで一つ、決定的な教訓がある。国産旅客機計画(MRJ/SpaceJet)の撤退である。MRJでは、「国産初のジェット旅客機」という政治的看板が先行し、技術と市場の判断に過度な介入が重なった。仕様変更は迷走し、認証戦略は後手に回り、現場の技術者は疲弊した。結果として、商業機に不可欠な顧客信頼を失い、撤退という最悪の結末を迎えた。これは、政治と技術現場の距離感を誤った国家プロジェクトが、いかに脆いかを示す典型例だ。

南鳥島のレアアース泥で、同じ過ちを繰り返してはならない。国家戦略として支える覚悟は必要だが、現場の技術判断と失敗を許容する余地を奪ってはならない。問われているのは、「儲かるかどうか」ではなく、「採算が取れる日まで、国家として耐えられるか」である。

中国依存を減らし、海洋国家としての主権と技術力を積み上げる。その価値は、単年度の収支表には載らない。世界最深クラスの採鉱技術を手にするのか。それともまた、看板だけが先行した“宝の持ち腐れ”に終わるのか。南鳥島の海底に眠る泥は、日本の覚悟そのものを静かに問いかけている。

『グッド・ドクター』シーズン62026年01月12日

『グッド・ドクター』シーズン6
2年ぶりにアメリカ版『グッド・ドクター 名医の条件』シーズン6(全22話)を一気見した。このシーズンはシリーズ全体における決定的な「転換点」となっている。本国では2024年にシーズン7をもって惜しまれつつ完結したが、日本ではいまだ最新シーズンの見放題配信を待つファンも少なくないだろう。医療技術の進化に加え、友人や家族との関係性を丹念に描き込み、毎話スリリングなクリフハンガーで締めくくる構成は、一度再生を始めれば止まらない中毒性を持つ。シーズン6は、その中毒性が物語的必然として最も強かった章である。

物語は、シーズン5を震撼させた刺傷事件の直後から幕を開ける。病院封鎖という極限状況のなか、ショーンは医師として、そして一人の人間として深いトラウマと向き合うことを余儀なくされる。本シーズンで彼は新レジデントを指導する立場となり、ついに「教えられる側」から「判断を背負う側」へと移行する。同時にリアとの新婚生活では、理念や愛情だけでは乗り越えられない現実的な摩擦が浮き彫りになり、本作は医療ドラマの枠を超えて、一組の夫婦が成熟していく過程を冷静に描き始める。

最大の緊張点となるのが、リムの下半身麻痺をめぐる確執だ。自らの判断を悔い続けるショーンと、その判断に疑念を向けるリム。ここでは「正しかったか否か」という単純な二分法は成立しない。医療的決断の重さと、その余波として生じる人間関係の亀裂が容赦なく描かれ、シリーズ屈指の心理的緊張感を生んでいる。フレディ・ハイモアは、声を荒げることなく、指先の震えや視線の揺らぎだけでショーンの動揺を表現し、この役における演技の到達点を更新した。

2013年の韓国版を原案とする本作だが、もはや両者を単純に「リメイク」という言葉で括ることはできない。全20話で完結する韓国版は、主人公パク・シオンの純粋さと天才性を軸に、職場での受容や恋愛成就を濃密に描いたヒューマンドラマである。一方、全126話という長大なスケールで再構築されたアメリカ版は、医療格差や自閉症スペクトラムに対する多様性への問いを内包する“医療プロシージャル”へと進化した。『Hawaii Five-0』のダニエル・デイ・キムが製作を主導し、『Dr.HOUSE』のデイヴィッド・ショアによる脚本が、情緒性を保ちながらもテンポと重層性を兼ね備えた秀逸なドラマ構造を成立させている。

主人公の立ち位置の違いも象徴的だ。実習生から始まる韓国版に対し、アメリカ版のショーンは当初から正式なレジデントとして、制度的制約と責任の渦中に置かれる。パートナー像も、同業者として支える韓国版とは異なり、リアは非医療従事者としてショーンの人生全体を引き受ける存在だ。そしてアメリカ版の核を成すのが、父代わりであるグラスマンの存在である。友人でも上司でもないこの特異な関係性が、ショーンの成長と失敗、そして和解を長期にわたって支え続けてきた。

医師として、夫として、やがて父として――多層的な関係性のなかで成熟していくショーンの姿は、短期シリーズでは決して描けなかった軌跡だ。シーズン6は、その成熟が最も痛みを伴う形で結実した章であり、同時にシリーズ全体の倫理的重心が定まった瞬間でもある。完結編となるシーズン7は、その答え合わせに過ぎないのか、それとも新たな問いを突きつけるのか。いまはただ、その配信を静かに待ちたい。

がんを食い殺す細菌2026年01月11日

がんを食い殺す細菌
「がんを食い殺す細菌が見つかった」。そう聞けば眉に唾をつけたくなるが、これは眉唾でも怪談でもない。ニホンアマガエルの腸内から、がん組織にだけ選択的に集まり、腫瘍を破壊する細菌が発見されたのだ。北陸先端科学技術大学院大学の都英次郎教授らによる報告は、がん治療の常識を静かに、しかし確実に揺さぶっている。この細菌は、マウスに静脈注射すると腫瘍内部の低酸素環境に集積し、正常な臓器にはほとんど定着しない。腫瘍内で直接細胞を破壊するだけでなく、免疫を活性化するという“二段構え”の攻撃を仕掛ける点も特徴だ。副作用が問題になりがちな抗がん剤や免疫療法と比べ、安全性の高さが示唆されているのは大きい。忘れられかけていた「細菌療法」が、再び現実の治療選択肢として浮上してきた瞬間である。

実は、細菌をがん治療に使う試みは150年以上前にまで遡る。だが近年、腫瘍にだけ集まる天然細菌の存在が相次いで明らかになり、研究は机上の空論から実装フェーズへと移りつつある。海洋細菌フォトバクテリウム・アングスタムに続く今回の成果は、日本の生物多様性が医療資源として持つ潜在力を端的に示す象徴的な例だ。

もっとも、ここからが日本の「いつもの問題」である。世界級の発見が、そのまま世界を変える治療法になるとは限らない。日本は基礎研究では強いが、臨床応用へ橋渡しするトランスレーショナル研究が決定的に弱い。生きた細菌を医薬品として扱うには、GMP準拠の製造設備、厳格な毒性試験、環境影響評価、そして規制当局との継続的な対話が不可欠だ。しかし国内には、これらを一貫して担える拠点が限られている。資金調達力も乏しく、数百億円規模の投資が前提となる細菌療法では、研究成果が海外に流出しやすい構造が温存されてきた。

対照的なのが米国である。腫瘍選択性細菌や腫瘍溶解ウイルスの臨床試験はすでに複数進行し、FDAは前例がなくとも科学的合理性があれば早期臨床入りを認める。大学、ベンチャー、投資家が迅速に連携し、「まず試す」文化が根付いている。その結果、「発見は日本、開発と利益は海外」という構図が、何度も繰り返されてきた。

では、今回も同じ道を辿るのか。必ずしも、そうとは言い切れない。アマガエルの腸内細菌は、腫瘍選択性と安全性を兼ね備えた天然細菌であり、過度な遺伝子改変を施さずとも、弱毒化処理によって早期臨床入りが視野に入る。これは、日本が主導権を握れる数少ない条件が揃ったケースでもある。生菌医薬に特化した研究・製造拠点を整備し、PMDAが明確な早期承認ルートを示せば、基礎研究の成果を国内で育てる道は開ける。日米共同で臨床試験を進め、日本は菌株、製造技術、知的財産で主導権を確保する――そんな現実的な戦略も描ける。

がん治療は、もはや万能薬を探す時代ではない。患者ごとに異なる病態に、異なる武器をどう組み合わせるかの時代である。ウイルスや細菌という「生きた薬」を社会にどう実装するかは、日本の医療技術力だけでなく、制度設計力そのものを映し出す。アマガエルの腹の中に眠っていた細菌は、単なる生物学的発見ではない。それは、日本が再び「発見するだけの国」で終わるのか、それとも治療を生み出す国へ踏み出せるのかを問いかけている。

ベネズエラの政治犯釈放2026年01月10日

ベネズエラの政治犯釈放
ベネズエラの国会議長が、政治犯の釈放に言及したと報じられた。マドゥロ政権下で野党支持者の拘束が続き、「独裁国家」の代名詞のように語られてきた同国に、久々に聞こえた柔らかな言葉である。だが、このニュースをもって「民主化の兆し」と受け取るのは早計だ。ベネズエラの危機は、善政か悪政かという単純な物語では説明できない。

この国の民主主義は、壊されたというより、もともと強くなかった。チャベス以前のベネズエラは、南米で最も安定した民主国家の一つと称されてきたが、実態は二大政党が石油利権を分け合う“閉じたエリート民主主義”にすぎなかった。司法は弱く、メディアは政党と癒着し、市民社会は育たなかった。国家財政の中心が石油収入である以上、政府は国民から税を取らずに済み、説明責任や制度改革への圧力も生まれなかった。「税を取らない国家は、制度を鍛える必要がない」からだ。

その歪みが露呈したのが、1980〜90年代の石油価格下落である。貧困は拡大し、汚職は常態化し、既存政党への信頼は瓦解した。国民が「この国は誰のものなのか」と問い始めたとき、その空白を埋めたのがチャベスだった。反エリート、反米を掲げ、石油マネーを使った大規模再分配で喝采を浴びる。しかしそれは、未来への投資ではなく、現在への動員だった。そしてベネズエラは独裁まで動員してしまった。

国有化、価格統制、外貨規制――革命の名の下で進められた社会主義政策は、民間投資を冷え込ませ、石油産業の技術基盤さえ蝕んだ。制度が脆弱な国家では、権力集中は驚くほど容易だ。司法も議会もメディアも、気づけば政権の延長線上に置かれ、民主主義の防波堤は静かに崩れていった。石油収入がある間は失政も制度破壊も覆い隠せたが、価格が下がった瞬間、そのツケは一気に噴き出す。

マドゥロ期に顕在化したハイパーインフレ、物資不足、国民の大量流出は、独裁の帰結であると同時に、制度を育てなかった資源国家の末路でもある。今回の政治犯釈放が象徴的な前進だとしても、それだけで民主主義が再生することはない。問題の核心は、石油という富を「成長の資産」ではなく「分配の道具」として使い続け、国家の足腰を鍛えなかった点にある。

制度なき民主主義は、危機に耐えられない。この病はベネズエラ固有のものではない。資源、財政余力、あるいは人気取りの政策によって説明責任が曖昧になった瞬間、どの国でも同じ空洞化は起こり得る。ベネズエラで問われているのは政権交代の有無ではなく、国家を支える制度を再建できるかどうかだ。その答えが示されない限り、釈放のニュースもまた、次の危機までの蜃気楼に終わるだろう。

セクハラ福井県政2026年01月09日

セクハラ福井県政
福井県が公表した特別調査委員会の報告書は、県政の深部に長年埋め込まれていた「静かな爆弾」を白日の下にさらした。前知事による複数の女性職員への不適切行為が、約20年という異様な長期間にわたり続いていたことを、行政自らが公式に認定したのである。しかも、この爆弾が露出したタイミングは偶然ではない。知事失職を受け、県政はこれから知事選に入ろうとしている。有権者が「次」を選ぼうとする直前、過去の闇が一気に照射された。

注目すべきは調査のスピードと踏み込みだ。調査期間はわずか1か月。それでも被害者4名の詳細な証言が集められ、前知事が送信した約1000件に及ぶメッセージが精査された。そこには、「キスしちゃう」「エッチなことは好き?」といった、業務とは無縁の露骨な性的表現が並ぶ。さらに、身体的接触行為も事実として明確に認定された。

調査委員会は一線を越えた。これらの行為を単なるセクハラにとどめず、ストーカー規制法や不同意わいせつ罪に抵触する可能性にまで言及。前知事が一部を否定した点については「信用できない」と断じ、事実上、反論の余地を封じた。地方行政の内部調査としては、異例の厳しさである。

会見で副知事は、「圧倒的に優位な地位にある知事からの行為で、被害者は長期間にわたり精神的苦痛を受けた。許されるものではない」と述べ、県として謝罪した。だが、この言葉はこれから始まる知事選で、重い問いとして跳ね返る。被害者が耐え続けたのは、前知事個人の言動だけではない。声を上げた瞬間に何を失うか分からない――その組織の空気そのものだ。

なぜ20年以上も問題は表に出なかったのか。短期間の調査で事実が一気に噴出したことは、「証拠がなかった」のではなく、「語らせない環境」が維持されていたことを物語る。幹部がトップの異常な言動をまったく把握していなかったと考える方が不自然だ。人事権が首長に集中する自治体では、幹部は不祥事に触れにくく、「見て見ぬふり」が慣行となる。これは管理能力の問題ではない。県政を包んできた組織文化そのものの問題である。

さらに深刻なのは、県議会の沈黙だ。行政が調査したからといって、議会が沈黙してよい理由にはならない。「行政が調べたのだから、議会は動かない」という構造が成立しているとすれば、それは県政の自律的統治がすでに崩壊していることを意味する。議会は行政の後追い機関ではなく、独立した監視装置のはずだからだ。

議会の沈黙は二つの可能性を示す。何も把握していなかったのか、把握しながら沈黙していたのか。どちらであっても、県政のガバナンスは深刻に損なわれていた。そしてもし今回も議会が動かないなら、次の知事は「何が起きても止められない県政」を引き継ぐことになる。

これから始まる知事選は、単なる後任選びではない。問われるのは、この沈黙の構造と決別できるのかという一点だ。その健全性を測る最大の試金石は、候補者の言葉ではない。県議会が自ら動くかどうかである。今回の問題は、前知事個人の資質に矮小化できない。行政と議会、その双方に横たわる沈黙の構造を可視化した事件である。これを「過去の不祥事」として処理すれば、同じ構造は必ず再生産される。選ばれるべきなのは、次の知事ではない。沈黙を断ち切る県政そのものだ。

司法の闇=プレサンス事件2026年01月08日

司法の闇プレサンス事件
大阪地検特捜部が主導したプレサンス事件をめぐり、違法な取り調べを受けたとして元主任検事を刑事告発していた山岸元・元社長。その告発について大阪高検は「不起訴処分を維持する」と判断した。無罪が確定してなお、捜査の誤りを問う声は今回も検察組織の分厚い壁にはね返された形であり、関係者に広がるのは驚きではなく、諦念に近い怒りである。プレサンス事件では、大阪地検特捜部が山岸氏を横領幇助容疑で逮捕・起訴した。しかし直接証拠は乏しく、供述の信用性も当初から揺らいでいた。それでも拘留は248日に及び、経営者としての社会的信用は深く損なわれた。公判が始まると検察が描いた「犯罪ストーリー」は次々と崩れ、最終的に無罪が確定。裁判所は特捜部が構築した犯罪構造そのものを否定した。

それでも、捜査を主導した元主任検事への刑事告発は大阪地検により「嫌疑なし」とされ、大阪高検の再検討でも覆らなかった。山岸氏側は付審判請求という最後の手段に踏み切ったが、検察は自らの判断の正当性を崩そうとしない。無罪判決よりも組織のメンツを優先しているように見える。

付審判請求の判断を下すのは大阪地裁であり、望みが完全に断たれたわけではないが、同事件の国家賠償訴訟では大阪地裁が原告の主張を退けており、楽観視はできない。一方で、この地裁判決は、高裁の刑事裁判が明確に示した「検察捜査の不当性」と整合せず、大阪高裁の判断を事実上脇に置いたものにも見える。こうした矛盾を踏まえれば、仮に付審判請求が却下されたとしても、国家賠償控訴審の大阪高裁で逆転勝訴となる可能性は残されている。

検察側の反論は定型的だ。「この事件は全面的な証拠開示義務が課される類型ではない。法の定める範囲で開示は尽くしている」と。しかし問題は、直接証拠に乏しく供述に依存した事件であるにもかかわらず、供述に至る経緯や変遷を示す「無罪に資する情報」が検察の裁量で十分に俎上に載せられなかった点にある。捜査の適否を外部が検証できない構造が温存されているのである。

この構図は大川原化工機事件と驚くほど似ている。警視庁公安部は輸出規制違反と誤認し、経営者らを逮捕、11カ月に及ぶ長期拘留を行った。後に装置が規制対象外であることが判明し、内部告発を契機に誤認捜査が明るみに出た。検察は起訴を取り消し、裁判所は逮捕・勾留を違法と認定。国と東京都に賠償を命じる異例の結末となった。

両事件を分けた最大の違いは、内部告発という“外圧”の有無である。大川原事件では偶然の内部告発が安全弁として機能したが、プレサンス事件にはそれがなかった。無罪は勝ち取ったものの、捜査手法の妥当性が正面から検証されることはなかった。

無罪は出た。だが、誰も責任を取らない。この現実こそ、両事件に共通する日本の刑事司法の「平常運転」ではないか。国会が行政と司法のあり方を正すべきだが、検察や裁判所を敵に回したくないという弱腰は今も続く。頼みの綱であるメディアですら、この闇を追及し続ける存在はごくわずかだ。これで権威主義国家を揶揄する資格があるのかと思う。