ギリシャよりもよろしくない ― 2025年05月25日

石破茂首相が5月19日の国会答弁で「日本の財政状況はギリシャよりもよろしくない」と発言し、ちょっとした騒ぎになっている。これは、減税を求めた国民民主党議員への答弁の中で出た一言だが、同党の玉木雄一郎代表は「市場に影響を与えかねない」として問題視。実際にその日の国債市場では長期金利が上昇し、石破発言の影響があったのではという見方も出ている。石破首相は、「日本の財政は厳しい。税収は増えているが、社会保障費も増えており、減税を国債で賄うという考えには賛同できない」と説明した。玉木代表は翌日の会見で「総理の発言は市場に影響を及ぼす可能性がある」と改めて批判。SNSでも「わざわざ国会で言う必要があるのか」といった声が多く見られた。
この話を聞いて思い出すのが、2010年、当時の菅直人首相が参院選の最中に「このままだと1年か2年でギリシャみたいになる」と言って物議をかもした件だ。あのときも「反自民かと思ったら結局増税か」と失望した人も多かったはずだ。その後、民主党政権では2011年に野田佳彦首相がG20で「2010年代半ばまでに消費税率を10%に引き上げる」と表明し、実際に2014年に8%、2015年に10%への増税が決まった。これには自民・公明との「三党合意」も絡んでいた。つまり、どの党が政権を取っても、結局は増税路線なのだ。今回の石破発言は、「ギリシャみたいに」ではなく「ギリシャよりも」と言ってしまった。以前の菅発言も批判されたが、その理由は「日本とギリシャの財政状況は根本的に違う」という点だった。日本の国債の約95%は国内で保有されているのに対し、ギリシャは海外投資家の保有比率が高く、国外からの資金が引き上げられたことで危機に陥った。日本の国債利回りは低く、財政赤字は国内資金で賄われている。ギリシャは慢性的な財政赤字で、税収も安定せず、海外から高金利で資金を調達していた。だから同列に語るのは無理がある。
最新のIMFのデータで見ると、日本の政府債務残高はGDP比234.9%、ギリシャは142.2%と、確かに日本の方が高い。ただし、それだけで財政の健全性は語れない。たとえば、年収500万円で1000万円の借金があっても、1000万円の資産があれば問題ない。ギリシャの負債は約4000億ユーロ、公的資産は約1200億ユーロしかなく、バランスが悪すぎる。日本は借金は多いが資産も同程度あるため、財政が破綻する状況ではない。もちろん、日本の財政が健全だと楽観していいわけではない。しかし、今のところは100兆円程度の追加債務があっても大丈夫だという見方もある。問題なのは、まともな議論をせず、「国債の利率が上がって利払いだけで国家が破綻する」といった不安を煽る声が多すぎることだ。ましてや一国の首相が、根拠の薄い例えで「ギリシャよりもよろしくない」と発言するのは、世界に向けて日本の政治家の水準の低さを示しているようなものだ。恥ずかしいから、そういうことは本当にやめてほしい。
この話を聞いて思い出すのが、2010年、当時の菅直人首相が参院選の最中に「このままだと1年か2年でギリシャみたいになる」と言って物議をかもした件だ。あのときも「反自民かと思ったら結局増税か」と失望した人も多かったはずだ。その後、民主党政権では2011年に野田佳彦首相がG20で「2010年代半ばまでに消費税率を10%に引き上げる」と表明し、実際に2014年に8%、2015年に10%への増税が決まった。これには自民・公明との「三党合意」も絡んでいた。つまり、どの党が政権を取っても、結局は増税路線なのだ。今回の石破発言は、「ギリシャみたいに」ではなく「ギリシャよりも」と言ってしまった。以前の菅発言も批判されたが、その理由は「日本とギリシャの財政状況は根本的に違う」という点だった。日本の国債の約95%は国内で保有されているのに対し、ギリシャは海外投資家の保有比率が高く、国外からの資金が引き上げられたことで危機に陥った。日本の国債利回りは低く、財政赤字は国内資金で賄われている。ギリシャは慢性的な財政赤字で、税収も安定せず、海外から高金利で資金を調達していた。だから同列に語るのは無理がある。
最新のIMFのデータで見ると、日本の政府債務残高はGDP比234.9%、ギリシャは142.2%と、確かに日本の方が高い。ただし、それだけで財政の健全性は語れない。たとえば、年収500万円で1000万円の借金があっても、1000万円の資産があれば問題ない。ギリシャの負債は約4000億ユーロ、公的資産は約1200億ユーロしかなく、バランスが悪すぎる。日本は借金は多いが資産も同程度あるため、財政が破綻する状況ではない。もちろん、日本の財政が健全だと楽観していいわけではない。しかし、今のところは100兆円程度の追加債務があっても大丈夫だという見方もある。問題なのは、まともな議論をせず、「国債の利率が上がって利払いだけで国家が破綻する」といった不安を煽る声が多すぎることだ。ましてや一国の首相が、根拠の薄い例えで「ギリシャよりもよろしくない」と発言するのは、世界に向けて日本の政治家の水準の低さを示しているようなものだ。恥ずかしいから、そういうことは本当にやめてほしい。
生活習慣病管理料の見直し ― 2025年05月24日

3カ月に一度の定期受診。今回も体重測定があり、電子カルテのチェックリスト形式の問診を受ける。今回は主治医が交代していたため、「また一から質問されるのか」と思っていたが、どうやらこれは医師が変わったからではないらしい。実は、2024年度の診療報酬改定によって導入された、新しい制度の一環だという。今回の改定では、「生活習慣病管理料」という仕組みが見直され、患者ごとに療養計画書を作成し、毎回の診察でチェックリストに沿って生活習慣の確認や指導を行うことが求められるようになった。目的は、重症化を防ぐことと、患者の自己管理を促すこと。確かに、生活習慣を定期的に見直すことで、健康への意識は高まるかもしれない。医師との会話も増え、治療のモチベーションにつながるという評価もある。
けれども、現場で感じるのは少し違う空気だ。毎回、同じ質問。診察室で繰り返される問診は、正直なところ形ばかりになりつつある。医療スタッフの負担も増え、診察時間は長くなる一方。症状のない患者からすれば、なぜ毎回同じことを聞かれるのかと疑問もわく。実際、私も血圧は自宅で毎日測り体重も体組成計で測定し、万歩計で歩数も自動記録。スマホのグラフ表示を診察室で見せれば、医師がつけるチェックリストとほぼ同じ内容がそこにある。それでもマニュアルに従って問診が続く。この制度のせいか、診察の待ち時間もずいぶん長くなった。丁寧な対応と評価する人もいるだろうが、急いでいるときには正直しんどい。ましてや、家庭でこまめに記録し、グラフまで作って見せるような患者にとっては、同じ話を繰り返すのは非効率に感じる。
今回も医師に「毎月2キロ落としましょう」と言われたので、「水飲んでも太るんで難しいです」と笑って返したら、「スマホで食事を撮ってアプリでカロリー計算してみましょう」と、真顔で返された。以前の3分診療が、気づけば10分に。待っている人たちにはちょっと申し訳ない。丁寧であることは悪くない。でも、親切すぎるとちょっと重たい。そんな不思議な気持ちを抱えながら、1,440円を払って病院を後にした。制度の趣旨は立派だ。でも本当に活かすには、現場に合わせた柔軟な運用と、臨機応変な対応が必要なんじゃないかと思う。
けれども、現場で感じるのは少し違う空気だ。毎回、同じ質問。診察室で繰り返される問診は、正直なところ形ばかりになりつつある。医療スタッフの負担も増え、診察時間は長くなる一方。症状のない患者からすれば、なぜ毎回同じことを聞かれるのかと疑問もわく。実際、私も血圧は自宅で毎日測り体重も体組成計で測定し、万歩計で歩数も自動記録。スマホのグラフ表示を診察室で見せれば、医師がつけるチェックリストとほぼ同じ内容がそこにある。それでもマニュアルに従って問診が続く。この制度のせいか、診察の待ち時間もずいぶん長くなった。丁寧な対応と評価する人もいるだろうが、急いでいるときには正直しんどい。ましてや、家庭でこまめに記録し、グラフまで作って見せるような患者にとっては、同じ話を繰り返すのは非効率に感じる。
今回も医師に「毎月2キロ落としましょう」と言われたので、「水飲んでも太るんで難しいです」と笑って返したら、「スマホで食事を撮ってアプリでカロリー計算してみましょう」と、真顔で返された。以前の3分診療が、気づけば10分に。待っている人たちにはちょっと申し訳ない。丁寧であることは悪くない。でも、親切すぎるとちょっと重たい。そんな不思議な気持ちを抱えながら、1,440円を払って病院を後にした。制度の趣旨は立派だ。でも本当に活かすには、現場に合わせた柔軟な運用と、臨機応変な対応が必要なんじゃないかと思う。
大阪歴史博物館 ― 2025年05月23日

大阪歴史博物館を訪れた。特別展「-全日本刀匠会50周年記念-日本刀1000年の軌跡」が開催されていた。日本刀の美しい姿が完成したのは平安時代とされ、先の大戦後の一時期を除き、約1000年にわたり製作が続けられてきた。その背景には、時代ごとに活躍する刀匠の存在がある。現在の国宝や重要文化財も、当初は新作刀だったように、現代の新作刀から未来の国宝が生まれる可能性がある。本展は、国内最大の刀匠団体「全日本刀匠会」設立50周年を記念し、1000年にわたる日本刀の歴史とその継承の姿を紹介している。外国人を含め多くの来館者が見学していたが、その価値がいまいち理解できなかった。確かに、1000年の歴史を持つ日本刀の制作技術が現代まで受け継がれていることは価値がある。しかし、ケースに飾られた日本刀の前でじっくりと刀を眺める来館者と自分とは異なる価値観があることは分かるが、どれも同じように見える刀の陳列を前に、唸るほどの感銘を受ける感覚がわからなかったのが残念だ。
常設展の難波京の説明のほうが、自分には興味深かった。難波京(なにわきょう)は、古代日本における都城の一つである。飛鳥時代の孝徳天皇が645年の大化の改新後に遷都し、難波長柄豊埼宮(なにわのながらのとよさきのみや)を造営したことが始まりとされる。その後、奈良時代の聖武天皇が744年に再び難波京へ遷都し、後期難波宮が建設された。難波京は瀬戸内海の東端に位置し、外交や物流の拠点として重要な役割を果たした。遣唐使の出発地としても知られ、海上交通の要衝であった。奈良時代には条坊制が導入され、都市計画が整備されたことが発掘調査によって確認されている。しかし、聖武天皇は翌年には平城京へ戻り、難波京は副都として存続した。8世紀末には摂津職が廃止され、難波京は都城としての役割を終えた。現在、大阪市中央区の法円坂周辺で難波宮跡が発掘されており、古代都市の姿が徐々に明らかになっている。難波京は上町台地の北端に位置し、淀川や大和川の流れ込む河内湖の沿岸に広がる一角にあった。近隣には難波津という港が存在し、外交や物流の拠点として重要な役割を果たしたという。大阪北部が「湖」だったというのは初めて知った。
この経緯をボランティアの方が端的に説明していたのが面白かった。権力者・蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、天皇中心の政治体制を構築するため、飛鳥の田舎を離れ、大阪に国際都市を作ろうとした。しかし、孝徳天皇と仲違いした中大兄皇子も奈良へ戻っており、天皇の崩御を契機にオピニオンリーダーを失った人々も奈良へ戻った。その90年後、聖武天皇の時代には権力闘争が激化し、首都・奈良だけでなく副都心の必要性が高まり、恭仁京や紫香楽宮への遷都を繰り返した。そして、貿易の拠点として再び難波京が重要視され、第二次難波京が成立した。しかし、財政的に維持できず、奈良へ戻ることになった。その後も仏教勢力との対立が続き、桓武天皇が長岡京へ遷都する際に難波京を解体し、その資材をリユースしたという。この解説は非常に分かりやすく、感心した。1日2回ほど説明を行っているとのことだが、自分の好きなことを語りながら老後を過ごすというのは、とても楽しそうでうらやましく思った。
常設展の難波京の説明のほうが、自分には興味深かった。難波京(なにわきょう)は、古代日本における都城の一つである。飛鳥時代の孝徳天皇が645年の大化の改新後に遷都し、難波長柄豊埼宮(なにわのながらのとよさきのみや)を造営したことが始まりとされる。その後、奈良時代の聖武天皇が744年に再び難波京へ遷都し、後期難波宮が建設された。難波京は瀬戸内海の東端に位置し、外交や物流の拠点として重要な役割を果たした。遣唐使の出発地としても知られ、海上交通の要衝であった。奈良時代には条坊制が導入され、都市計画が整備されたことが発掘調査によって確認されている。しかし、聖武天皇は翌年には平城京へ戻り、難波京は副都として存続した。8世紀末には摂津職が廃止され、難波京は都城としての役割を終えた。現在、大阪市中央区の法円坂周辺で難波宮跡が発掘されており、古代都市の姿が徐々に明らかになっている。難波京は上町台地の北端に位置し、淀川や大和川の流れ込む河内湖の沿岸に広がる一角にあった。近隣には難波津という港が存在し、外交や物流の拠点として重要な役割を果たしたという。大阪北部が「湖」だったというのは初めて知った。
この経緯をボランティアの方が端的に説明していたのが面白かった。権力者・蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、天皇中心の政治体制を構築するため、飛鳥の田舎を離れ、大阪に国際都市を作ろうとした。しかし、孝徳天皇と仲違いした中大兄皇子も奈良へ戻っており、天皇の崩御を契機にオピニオンリーダーを失った人々も奈良へ戻った。その90年後、聖武天皇の時代には権力闘争が激化し、首都・奈良だけでなく副都心の必要性が高まり、恭仁京や紫香楽宮への遷都を繰り返した。そして、貿易の拠点として再び難波京が重要視され、第二次難波京が成立した。しかし、財政的に維持できず、奈良へ戻ることになった。その後も仏教勢力との対立が続き、桓武天皇が長岡京へ遷都する際に難波京を解体し、その資材をリユースしたという。この解説は非常に分かりやすく、感心した。1日2回ほど説明を行っているとのことだが、自分の好きなことを語りながら老後を過ごすというのは、とても楽しそうでうらやましく思った。
令和の米騒動は続く ― 2025年05月22日

2025年春、コメ価格の高騰が社会問題となる中、「コメを買ったことがない」との失言で江藤拓農林水産相が更迭され、後任に小泉進次郎元環境相が就任した。小泉氏は2016年に自民党農林部会長として農協改革を主導し、JA全農の販売手数料や流通構造の見直しを求めてJA側と対立した経緯がある。今回の米価高騰では、備蓄米の9割超をJA全農が落札しながらも小売店への流通はごく一部にとどまり、JA側の流通調整や手数料収入維持への消極姿勢が問題視されている。小泉氏の農水相就任で、再びJA全農への改革圧力が強まる可能性が高い。過去にはJA全農の株式会社化も模索したが、農水族議員の抵抗で骨抜きに終わった経緯があり、今回の人事は農水族の弱体化と農政改革の転機ともなり得る。JA側も「コメは高くない」との発言や消費者感情を逆なでする広告で批判を浴びており、小泉新大臣には消費者目線での流通改革とコメ価格安定化が強く期待されている。
米価高騰の背景には、2023年産米の減反政策と猛暑による不作が重なり、需給ギャップが発生したことにある。さらに、2024年産米を本来の消費時期よりも早く消費する「先食い」が起き、2024年10月時点で既に40万トンの不足が生じていた。その後も在庫は回復せず、消費量に対する供給不足が深刻化し、米価は上昇を続けた。政府は事態を受けて備蓄米の放出に踏み切ったが、21万トンの放出量は需給ギャップを埋めるには明らかに不足しており、消費者価格の抑制効果は限定的だった。専門家や流通現場からは「昨年度の価格水準に戻すには少なくとも60万トン以上の備蓄米放出が必要」との指摘が相次ぎ、政府も最終的には追加放出を決定した。
こうした対応の遅れや不十分さの背景には、農林水産省とJA(農協)との長年にわたる癒着構造が大きく影響している。農水省は米価の下落を嫌うJAの意向を強く受け、農家の所得維持を名目に米価維持を最優先する政策を続けてきた。そのため、備蓄米の大量放出には消極的で、需給見通しも現場実態より過小評価される傾向があった。実際、農水省は「コメは不足していない」「流通業者が在庫を抱え込んでいる」と説明し、現場の新米完売や在庫消滅といった実態を十分に反映しなかった。さらに、農水省からJA関連団体への天下りが常態化しており、2009年以降だけでも28人が天下っている。元次官や元官房長クラスも含まれ、官僚のポスト確保や既得権益の維持が政策判断に影響しているとの指摘がある。こうした構造的な癒着が、農水省の政策決定に大きな影響を及ぼしている。
法制度上も、備蓄米放出の要件が厳しく、価格高騰のみでは大量放出が難しい仕組みとなっていた。農水省は制度の枠内で慎重な対応を続けたが、現場の需給逼迫や価格高騰に即応できなかった。結果として、消費者や外食産業は深刻なコメ不足と価格高騰に直面し、政府の対応の遅れや不十分さが強く批判されている。総じて、農水省が必要な備蓄米放出量を過小に見積もったのは、単なる需給見通しの甘さではなく、JAとの癒着や天下りといった構造的な要因が大きく影響している。農水省とJAの利害関係が消費者や市場全体の利益よりも優先される構造が、今回のコメ不足と米価高騰の長期化を招いた。今後は、透明性の高い需給見通しと、利害関係から独立した政策決定が不可欠である。同じことはメディアにも言える。メディアは最近まで農水省の見解をそのまま伝えるか、スーパーの店頭での取材程度で農協への直接取材はほとんどなかった。巨大な広告主である農協に配慮し、問題の本質に切り込まない姿勢が、供給不足の実態把握を遅らせた一因でもある。大臣の失言を叩いて満足するのではなく、メディアもまた問題の核心に迫る姿勢と勇気が求められている。
米価高騰の背景には、2023年産米の減反政策と猛暑による不作が重なり、需給ギャップが発生したことにある。さらに、2024年産米を本来の消費時期よりも早く消費する「先食い」が起き、2024年10月時点で既に40万トンの不足が生じていた。その後も在庫は回復せず、消費量に対する供給不足が深刻化し、米価は上昇を続けた。政府は事態を受けて備蓄米の放出に踏み切ったが、21万トンの放出量は需給ギャップを埋めるには明らかに不足しており、消費者価格の抑制効果は限定的だった。専門家や流通現場からは「昨年度の価格水準に戻すには少なくとも60万トン以上の備蓄米放出が必要」との指摘が相次ぎ、政府も最終的には追加放出を決定した。
こうした対応の遅れや不十分さの背景には、農林水産省とJA(農協)との長年にわたる癒着構造が大きく影響している。農水省は米価の下落を嫌うJAの意向を強く受け、農家の所得維持を名目に米価維持を最優先する政策を続けてきた。そのため、備蓄米の大量放出には消極的で、需給見通しも現場実態より過小評価される傾向があった。実際、農水省は「コメは不足していない」「流通業者が在庫を抱え込んでいる」と説明し、現場の新米完売や在庫消滅といった実態を十分に反映しなかった。さらに、農水省からJA関連団体への天下りが常態化しており、2009年以降だけでも28人が天下っている。元次官や元官房長クラスも含まれ、官僚のポスト確保や既得権益の維持が政策判断に影響しているとの指摘がある。こうした構造的な癒着が、農水省の政策決定に大きな影響を及ぼしている。
法制度上も、備蓄米放出の要件が厳しく、価格高騰のみでは大量放出が難しい仕組みとなっていた。農水省は制度の枠内で慎重な対応を続けたが、現場の需給逼迫や価格高騰に即応できなかった。結果として、消費者や外食産業は深刻なコメ不足と価格高騰に直面し、政府の対応の遅れや不十分さが強く批判されている。総じて、農水省が必要な備蓄米放出量を過小に見積もったのは、単なる需給見通しの甘さではなく、JAとの癒着や天下りといった構造的な要因が大きく影響している。農水省とJAの利害関係が消費者や市場全体の利益よりも優先される構造が、今回のコメ不足と米価高騰の長期化を招いた。今後は、透明性の高い需給見通しと、利害関係から独立した政策決定が不可欠である。同じことはメディアにも言える。メディアは最近まで農水省の見解をそのまま伝えるか、スーパーの店頭での取材程度で農協への直接取材はほとんどなかった。巨大な広告主である農協に配慮し、問題の本質に切り込まない姿勢が、供給不足の実態把握を遅らせた一因でもある。大臣の失言を叩いて満足するのではなく、メディアもまた問題の核心に迫る姿勢と勇気が求められている。
参院選京都選挙区(改選数2) ― 2025年05月21日

元京都府議の二之湯真士氏(46)が、今夏の参院選京都選挙区(改選数2)に無所属で立候補する意向を表明した。京都市内で記者会見を開き、「世代交代を実現しなければならない」と強調した。二之湯氏は京都市出身。父は元自民党参議院議員の二之湯智氏で、その秘書を務めた後、2007年の京都府議選で初当選。以後5期連続で務めた。昨年の京都市長選にも立候補したが、落選している。会見では、北陸新幹線の延伸計画について「京都にとって百害あって一利なし」と批判。府民が望まない事業に莫大な税金を投入することへの疑問を呈した。また、京都選挙区の現職議員に対しては「伝統的、歴史的な政党には制度疲労がある」と指摘し、若い世代へのバトンタッチの必要性を訴えた。若い世代への交代を目指す姿勢は評価でき、自民党を離れて信念を貫く姿勢も潔い。二之湯氏は、自民党府連会長や国家公安委員長などを歴任した父を持つ「二世議員」だが、府議時代から一貫して北陸新幹線の「小浜・京都ルート」に反対の立場をとってきた。2024年の京都市長選出馬にあたっては自民党に離党届を提出し、その後、自民党京都府連から除名処分を受けている。
京都選挙区では、自民の西田昌司氏(66)が前回選で得票率44%を獲得して圧勝しており、今回も再選を目指す。二之湯氏は、自民党という「地盤」や「看板」を捨てての立候補となり、その覚悟と勢いは注目に値する。西田氏と自民党の牙城を崩すのは容易ではないが、共産党(得票率約25%)と立憲民主党(同)による接戦に加え、令和新選組も候補者を擁立する見込みで、票が割れる可能性がある。前回の参院選では、自民党は全体で得票率3割にとどまり、残る7割を立憲・維新・共産が分け合っている。西田氏以外の候補はいずれも北陸新幹線延伸に反対しており、票が四分されれば、誰が2位に滑り込むかは予断を許さない。
興味深いのは、西田氏もまた父親から地盤を引き継いだ「二世議員」であり、今回の選挙が「新しい形の二世対決」となる点だ。また、仏教界や市民団体が北陸新幹線延伸に反対する中で、唯一インフラ投資の必要性を訴える西田氏が、人口減少が進む日本海側と関西圏の発展を結びつける重要性を説いている点には、一理あると言える。環境アセスメントの厳格な実施は大前提だが、「豆腐に縫い針ほどのストローを刺すようなシールド工法が水脈を断ち、地下水位を下げる」といった反対論には、説得力を欠く部分もある。京都では仏教界が反対に回ると事業が進まなくなる風土があり、それに違和感を抱く声も少なくない。過去に断念された拝観税についても、現在のインバウンド急増を踏まえれば、再検討の余地があったのではないか。仏教界が一種の“ディープステート”的に政治へ影響を及ぼしていると感じる人もおり、そうした京都の構造を変えたいという主張もある。そういう意味で言えば、積極財政を掲げる西田氏の一貫した主張にも、共感できる部分はある。
京都選挙区では、自民の西田昌司氏(66)が前回選で得票率44%を獲得して圧勝しており、今回も再選を目指す。二之湯氏は、自民党という「地盤」や「看板」を捨てての立候補となり、その覚悟と勢いは注目に値する。西田氏と自民党の牙城を崩すのは容易ではないが、共産党(得票率約25%)と立憲民主党(同)による接戦に加え、令和新選組も候補者を擁立する見込みで、票が割れる可能性がある。前回の参院選では、自民党は全体で得票率3割にとどまり、残る7割を立憲・維新・共産が分け合っている。西田氏以外の候補はいずれも北陸新幹線延伸に反対しており、票が四分されれば、誰が2位に滑り込むかは予断を許さない。
興味深いのは、西田氏もまた父親から地盤を引き継いだ「二世議員」であり、今回の選挙が「新しい形の二世対決」となる点だ。また、仏教界や市民団体が北陸新幹線延伸に反対する中で、唯一インフラ投資の必要性を訴える西田氏が、人口減少が進む日本海側と関西圏の発展を結びつける重要性を説いている点には、一理あると言える。環境アセスメントの厳格な実施は大前提だが、「豆腐に縫い針ほどのストローを刺すようなシールド工法が水脈を断ち、地下水位を下げる」といった反対論には、説得力を欠く部分もある。京都では仏教界が反対に回ると事業が進まなくなる風土があり、それに違和感を抱く声も少なくない。過去に断念された拝観税についても、現在のインバウンド急増を踏まえれば、再検討の余地があったのではないか。仏教界が一種の“ディープステート”的に政治へ影響を及ぼしていると感じる人もおり、そうした京都の構造を変えたいという主張もある。そういう意味で言えば、積極財政を掲げる西田氏の一貫した主張にも、共感できる部分はある。
信用格付け ― 2025年05月20日

アメリカの信用格付けが引き下げられた背景には、財政赤字の拡大と債務増加がある。ムーディーズは米国の長期信用格付けを「Aaa」から「Aa1」に引き下げた。主因の一つは政府債務の急増であり、債務残高は36兆ドル、利払い費も急増している。2024年度の財政赤字は約1.8兆ドルと過去最大規模に達した。さらに、財政赤字の改善が見込めない点も影響している。議会の財政案では赤字削減が困難で、財政健全化への展望が立たないため、格付け会社は慎重な評価を下した。また、政治的要因も無視できない。ホワイトハウスはこの決定を政治的と批判したが、格付け会社は財政指標の悪化を根拠に挙げている。この格下げにより、米国債の信認低下や金利上昇が懸念され、世界経済への波及も予想される。
一方、日本の信用格付けは過去30年間で着実に下落してきた。かつて「AAA」だった日本は、1990年代のバブル崩壊以降、経済停滞と金融機関の不良債権問題に直面した。2000年代に入ると財政赤字が拡大し、2002年にムーディーズは日本の格付けを「Aa2」に引き下げた。さらに2008年のリーマン・ショック後、政府は財政支出を拡大。2011年にはS&Pが「AA-」に格下げした。2010年代以降は少子高齢化により社会保障費が増加し、経済成長率も低迷。2024年現在、日本の格付けはムーディーズ「A1」、S&P「A+」、フィッチ「A」にとどまり、ドイツやスイス、オーストラリアといった「AAA」を維持する国々との差が拡大している。これにより、日本は借入コストの上昇や市場での信頼低下を招いている。
財務省や政府が国債発行に慎重で減税にも後ろ向きなのは、この格付けが影響していると言える。ただ、他国と比較した場合、日本の格下げの背景にはより深刻な構造的要因がある。最大の要因は経済成長の鈍化だ。他の先進国がGDPや所得を伸ばしてきた一方、日本は長期的な停滞に陥った。特に1990年代以降、賃金の伸び悩みや生産性の低下が続き、政府の財政負担が増加。債務返済能力への懸念が格付けを押し下げた。この点は、経済成長ができなかったから財政赤字が拡大したのか、それとも財政赤字を恐れて投資を抑制した結果、経済成長が停滞したのかという「卵が先か鶏が先か」の議論にも似ている。
日本政府はこの30年間、財政健全化を最優先し、投資に消極的だった。バブル崩壊後は一時的に公共投資を拡大したが、1996年の橋本政権以降は緊縮財政へと転じた。2000年代には消費税引き上げや歳出抑制が進み、政府支出の伸び率は先進国中最低となった。この結果、企業の設備投資は伸びず、賃金も上がらなかった。「失われた30年」は経済産業省も認めており、国際競争力の低下が顕著だ。近年、政府は「資産運用立国」や「国内投資拡大」を掲げてはいるが、依然として減税や国債発行には慎重で、抜本的な投資拡大には至っていない。経済成長の停滞には政府の慎重すぎる財政運営が影響しているのは明らかだが、それを真に理解している官僚や政府首脳が極めて少ないことが、今後の日本経済にとって最大のリスクと言える。
一方、日本の信用格付けは過去30年間で着実に下落してきた。かつて「AAA」だった日本は、1990年代のバブル崩壊以降、経済停滞と金融機関の不良債権問題に直面した。2000年代に入ると財政赤字が拡大し、2002年にムーディーズは日本の格付けを「Aa2」に引き下げた。さらに2008年のリーマン・ショック後、政府は財政支出を拡大。2011年にはS&Pが「AA-」に格下げした。2010年代以降は少子高齢化により社会保障費が増加し、経済成長率も低迷。2024年現在、日本の格付けはムーディーズ「A1」、S&P「A+」、フィッチ「A」にとどまり、ドイツやスイス、オーストラリアといった「AAA」を維持する国々との差が拡大している。これにより、日本は借入コストの上昇や市場での信頼低下を招いている。
財務省や政府が国債発行に慎重で減税にも後ろ向きなのは、この格付けが影響していると言える。ただ、他国と比較した場合、日本の格下げの背景にはより深刻な構造的要因がある。最大の要因は経済成長の鈍化だ。他の先進国がGDPや所得を伸ばしてきた一方、日本は長期的な停滞に陥った。特に1990年代以降、賃金の伸び悩みや生産性の低下が続き、政府の財政負担が増加。債務返済能力への懸念が格付けを押し下げた。この点は、経済成長ができなかったから財政赤字が拡大したのか、それとも財政赤字を恐れて投資を抑制した結果、経済成長が停滞したのかという「卵が先か鶏が先か」の議論にも似ている。
日本政府はこの30年間、財政健全化を最優先し、投資に消極的だった。バブル崩壊後は一時的に公共投資を拡大したが、1996年の橋本政権以降は緊縮財政へと転じた。2000年代には消費税引き上げや歳出抑制が進み、政府支出の伸び率は先進国中最低となった。この結果、企業の設備投資は伸びず、賃金も上がらなかった。「失われた30年」は経済産業省も認めており、国際競争力の低下が顕著だ。近年、政府は「資産運用立国」や「国内投資拡大」を掲げてはいるが、依然として減税や国債発行には慎重で、抜本的な投資拡大には至っていない。経済成長の停滞には政府の慎重すぎる財政運営が影響しているのは明らかだが、それを真に理解している官僚や政府首脳が極めて少ないことが、今後の日本経済にとって最大のリスクと言える。
「よしもと祇園花月」閉館 ― 2025年05月19日

最近はお笑いを見る機会がめっきり減った。テレビでもたまに吉本新喜劇を目にする程度で、漫才番組はほとんど姿を消してしまった。漫才番組が減少した主な要因としては、制作コストの高さ、芸人のトーク重視へのシフト、そしてYouTubeなど配信媒体の台頭が挙げられる。視聴者の関心はネタよりも芸人の人間性やエピソードトークに向かっており、テレビ局側も安価で制作しやすい番組を選ぶ傾向にある。また、漫才は年に一度の大型特番(M-1など)で注目を集める形式へと移行し、定期的な放送の必要性が薄れてきたという背景もある。そんな中、2025年8月に「よしもと祇園花月」が閉館するというニュースが報じられた。これにより、京都から再び吉本の常設劇場が姿を消すことになる。京都花月劇場から祇園花月へと続いた吉本劇場の歴史は、関西の笑いを育んできた重要な存在であり、その終焉は惜しまれる。
京都花月劇場は、吉本興業が1936年に新京極の中座を買収し、演芸場として開業したのが始まりである。漫才や演芸を中心に関西の笑いを支える拠点となり、戦後の一時休館を経て、1962年に再開。吉本新喜劇の舞台中継なども行われていた。しかし、建物の老朽化や興行の統合を受け、1987年に閉館。京都における吉本の常設劇場は一時的に姿を消すこととなった。その後、2011年に「よしもと祇園花月」が開場。かつて映画館だった祇園会館の劇場スペースを改装し、吉本が京都の笑いの文化を再興させた。漫才や新喜劇に加え、週末には東京吉本の芸人も出演し、多彩な演目が披露された。祇園花月は、再び京都に演芸文化を根付かせる重要な拠点として、多くの観客を魅了してきた。わずか15年での閉館は、漫才や落語といった伝統芸能の衰退を感じさせる出来事でもある。
祇園花月の前身である祇園会館は、かつて映画館として親しまれていた。京都の蒸し暑い夏の夜、涼を求めて3本立ての映画を観に行ったことを思い出す。古い映画やポルノ作品が多く、ほとんど眠ってしまっていたため内容の記憶はあまりないが、涼しい館内で過ごした時間が懐かしい。そんな思い出の場所に吉本が20年ぶりに戻ってきたとき、京都の人々は大いに盛り上がった。ただ、祇園花月は河原町や四条駅からやや離れており、近年ではインバウンドの観光客も多く、八坂神社前にたどり着くのも一苦労だ。外国人観光客にとっては漫才の魅力が伝わりづらいかもしれないが、立地としては最高の観光地にあることから、今後はそれを活かした再開発が進められる可能性もある。結果として、漫才が犠牲になった印象は否めない。今では漫才を見る機会は動画配信が中心になったが、ベテラン芸人の味わい深い芸はアップされない。漫才も落語も、芸人が老年期に入ってからの渋さが面白いのだが、そうした舞台を生で観られる機会は、今後さらに減っていくだろうと思うと、寂しさを感じざるを得ない。
京都花月劇場は、吉本興業が1936年に新京極の中座を買収し、演芸場として開業したのが始まりである。漫才や演芸を中心に関西の笑いを支える拠点となり、戦後の一時休館を経て、1962年に再開。吉本新喜劇の舞台中継なども行われていた。しかし、建物の老朽化や興行の統合を受け、1987年に閉館。京都における吉本の常設劇場は一時的に姿を消すこととなった。その後、2011年に「よしもと祇園花月」が開場。かつて映画館だった祇園会館の劇場スペースを改装し、吉本が京都の笑いの文化を再興させた。漫才や新喜劇に加え、週末には東京吉本の芸人も出演し、多彩な演目が披露された。祇園花月は、再び京都に演芸文化を根付かせる重要な拠点として、多くの観客を魅了してきた。わずか15年での閉館は、漫才や落語といった伝統芸能の衰退を感じさせる出来事でもある。
祇園花月の前身である祇園会館は、かつて映画館として親しまれていた。京都の蒸し暑い夏の夜、涼を求めて3本立ての映画を観に行ったことを思い出す。古い映画やポルノ作品が多く、ほとんど眠ってしまっていたため内容の記憶はあまりないが、涼しい館内で過ごした時間が懐かしい。そんな思い出の場所に吉本が20年ぶりに戻ってきたとき、京都の人々は大いに盛り上がった。ただ、祇園花月は河原町や四条駅からやや離れており、近年ではインバウンドの観光客も多く、八坂神社前にたどり着くのも一苦労だ。外国人観光客にとっては漫才の魅力が伝わりづらいかもしれないが、立地としては最高の観光地にあることから、今後はそれを活かした再開発が進められる可能性もある。結果として、漫才が犠牲になった印象は否めない。今では漫才を見る機会は動画配信が中心になったが、ベテラン芸人の味わい深い芸はアップされない。漫才も落語も、芸人が老年期に入ってからの渋さが面白いのだが、そうした舞台を生で観られる機会は、今後さらに減っていくだろうと思うと、寂しさを感じざるを得ない。
しあわせは食べて寝て待て ― 2025年05月18日

NHKドラマ10の新作『しあわせは食べて寝て待て』は、桜井ユキ主演のドラマで、同名漫画を原作とし、4月に放送が開始された。38歳独身の麦巻さとこが主人公で、彼女は膠原病を患い、キャリアウーマンの道を諦め、週4日のパート勤務に切り替えざるを得なくなる。収入減により引っ越しを決めた彼女は、団地の内見で美山鈴(加賀まりこ)や、薬膳料理が得意な羽白司(宮沢氷魚)と出会い、物語が展開していく。このドラマはSNSで大きな話題となり、第1話の「NHKプラス」視聴数が、大河ドラマや朝ドラを除くNHKドラマ史上最高を記録した。派手な演出こそないものの、等身大の主人公の姿をリアルに描き、多くの視聴者の共感を集めている。病気を抱えながらも日常を受け入れる姿勢や、お金の問題で思うような生活ができない現実がリアルに描かれ、視聴者は物語に引き込まれる。リアリティと共感を呼ぶストーリー展開が、多くのファンを生み、ドラマの人気を高めている。
最近のNHKドラマは、派手な起伏が少ないからこそ共感を呼ぶ。いわゆる昔のドタバタ風ホームドラマへの回帰ではなく、誰もが体験し得る、日常の中のちょっとした変化を丁寧に描く。団地と老人が登場するのもお決まりで、そこに若者や中年が混じり込んでいく展開が、安心感をもたらし、リラックスして視聴できるのが魅力だ。昨年のドラマ『団地のふたり』も今回と同じく、東久留米の「滝山団地」で撮影され、小泉今日子と小林聡美演じる幼馴染のアラフィフ独身女性を中心に、ほっこりとした物語が展開する。こちらは二人を取り巻く高齢化問題が主軸となるが、基本的には団地という空間の心地よさを描く。団地暮らしの視聴者にとっては、共感できる部分が多い。
『しあわせは食べて寝て待て』では、中年独身女性の生活が描かれ、団地では住民同士が気軽に声をかけ合う姿が、都会のマンション暮らしの孤独との対比として表現され、「幸せ」の在り方を暗示している。高齢化率30%以上の団地の割合は、全体では3割程度だが、滝山団地のように入居開始から40年以上経過した団地では、60%近くが高齢者となっている(国土交通省「持続可能なまちづくりに向けた住宅団地再生の手引き/2022年」より)。今回のドラマでは、住民が12年に1回の大規模改修を経て、「次は建て替えか」と考え始める様子が描かれている。12年後には生きているかどうかもわからない高齢者にとって、建て替え問題は深刻だ。それでも一人で生きていこうとする次世代の団地住民にとって、「幸せとは何か」という問いが投げかけられる点が、作品の大きな魅力だ。
最近のNHKドラマは、派手な起伏が少ないからこそ共感を呼ぶ。いわゆる昔のドタバタ風ホームドラマへの回帰ではなく、誰もが体験し得る、日常の中のちょっとした変化を丁寧に描く。団地と老人が登場するのもお決まりで、そこに若者や中年が混じり込んでいく展開が、安心感をもたらし、リラックスして視聴できるのが魅力だ。昨年のドラマ『団地のふたり』も今回と同じく、東久留米の「滝山団地」で撮影され、小泉今日子と小林聡美演じる幼馴染のアラフィフ独身女性を中心に、ほっこりとした物語が展開する。こちらは二人を取り巻く高齢化問題が主軸となるが、基本的には団地という空間の心地よさを描く。団地暮らしの視聴者にとっては、共感できる部分が多い。
『しあわせは食べて寝て待て』では、中年独身女性の生活が描かれ、団地では住民同士が気軽に声をかけ合う姿が、都会のマンション暮らしの孤独との対比として表現され、「幸せ」の在り方を暗示している。高齢化率30%以上の団地の割合は、全体では3割程度だが、滝山団地のように入居開始から40年以上経過した団地では、60%近くが高齢者となっている(国土交通省「持続可能なまちづくりに向けた住宅団地再生の手引き/2022年」より)。今回のドラマでは、住民が12年に1回の大規模改修を経て、「次は建て替えか」と考え始める様子が描かれている。12年後には生きているかどうかもわからない高齢者にとって、建て替え問題は深刻だ。それでも一人で生きていこうとする次世代の団地住民にとって、「幸せとは何か」という問いが投げかけられる点が、作品の大きな魅力だ。
「くら寿司」万博店予約席を転売 ― 2025年05月17日

回転寿司チェーンの「くら寿司」は16日、公式アプリ上で「大阪・関西万博店」の予約が不正転売されている事例を確認したとして、利用者に注意を呼びかけた。問題となっているのは、万博会場内に新設された「くら寿司 大阪・関西万博店」の予約枠だ。同店は約135メートルの回転レーンを備え、世界70の国や地域の料理を楽しめるとあって人気が高い。このため、SNSやフリマアプリで予約情報が転売されるケースが相次いでいる。くら寿司は公式アプリで「予約の不正な転売について」と題した声明を発表し、転売行為は利用規約に違反すると強調。「予約の取消し」「アカウント停止・強制退会」「法的措置」などのペナルティを科す可能性があるとして、正規ルートでの予約を呼びかけた。同店は西ゲートの端に位置しており、来場者が足を運びにくい場所だが、依然として大人気だ。ウェブサイトでは1週間前から予約可能だが、公式アプリでは1か月前から予約できる。以前は15日前だったが、予約殺到を受けて枠を拡大したとみられる。しかし、現時点では1か月先まで予約がすべて埋まっている(△表示は当日枠があることを示す)。
報道によれば、転売ヤーが予約番号を取得し、数千円から1万円で転売しているという。正規に予約するだけでもかなりの手間がかかり、午前0時を待ち構えて空き枠を狙う必要がある。昼食・夕食の時間帯は特に人気で、転売価格も高騰しがちだ。転売ヤーは予約確定画面のスクリーンショットをフリマアプリで販売しているが、1万円でも需要があるため、成立してしまうのが実情だ。くら寿司が本格的に対策を強化すれば、同じアカウントで何度も万博店を予約するユーザーの特定は容易だと思われるが、現時点では警告にとどめているようだ。これに対し、スシロー万博店はリング内コモンズパビリオン近くにあり、店頭の予約機でのみ予約を受け付けている。午前中にはすべての予約が埋まるのが現状だ。
くら寿司の「8時間待ち」という報道は当日予約の場合で、実際に8時間並んでいるわけではない。当日入店しようとした客が8時間先ならと諦めて帰るケースが多いと思う。世界各国の料理を注文できるという魅力はあるものの、そこまで苦労して会場内の回転寿司を体験したいとは思わない。
報道によれば、転売ヤーが予約番号を取得し、数千円から1万円で転売しているという。正規に予約するだけでもかなりの手間がかかり、午前0時を待ち構えて空き枠を狙う必要がある。昼食・夕食の時間帯は特に人気で、転売価格も高騰しがちだ。転売ヤーは予約確定画面のスクリーンショットをフリマアプリで販売しているが、1万円でも需要があるため、成立してしまうのが実情だ。くら寿司が本格的に対策を強化すれば、同じアカウントで何度も万博店を予約するユーザーの特定は容易だと思われるが、現時点では警告にとどめているようだ。これに対し、スシロー万博店はリング内コモンズパビリオン近くにあり、店頭の予約機でのみ予約を受け付けている。午前中にはすべての予約が埋まるのが現状だ。
くら寿司の「8時間待ち」という報道は当日予約の場合で、実際に8時間並んでいるわけではない。当日入店しようとした客が8時間先ならと諦めて帰るケースが多いと思う。世界各国の料理を注文できるという魅力はあるものの、そこまで苦労して会場内の回転寿司を体験したいとは思わない。
年金制度改革関連法案提出 ― 2025年05月16日

政府は、短時間労働者が厚生年金に加入しやすくなるよう、「年収106万円の壁」の撤廃を含む年金制度改革関連法案を閣議決定した。法案では、厚生年金の加入要件である賃金基準や、従業員51人以上という企業規模要件を廃止し、パートなど非正規労働者の年金額の増加を図る。また、「在職老齢年金」の基準額を月額50万円から62万円に引き上げ、働く高齢者の年金減額を緩和する措置も盛り込まれた。さらに、所得の高い人の厚生年金保険料を段階的に引き上げ、負担を増やす一方で、将来的な給付を手厚くする制度も導入される。しかし、自民党内の反対意見により「基礎年金の底上げ案」は法案に盛り込まれず、野党はこれに反発。今後の国会審議では調整の難航が予想される。
2004年、小泉政権下で「年金100年安心」とうたわれた年金制度改革が実施され、2007年には「消えた年金問題」として約5095万件の記録ミスが発覚した。そこから今日に至るまで制度は複雑化する一方だが、なぜもっとシンプルでわかりやすい制度にできないのだろうか。今回の「106万円の壁」撤廃も、本質的には基礎年金(月額上限約7万円)では生活が成り立たないという懸念に端を発したものである。パート勤務でも厚生年金を10年間納付すれば、月1万円程度の上乗せが見込まれるというが、月8千円程度の納付が必要となり、手取りは減少する。納付と給付は現在と未来のトレードオフであり、単純な損得では語れないが、それでも将来月8万円で一人暮らしをするのは心もとない。
一方、高所得者の保険料上限は月収75万円で約7万円に設定されるというが、逆に言えば年収1000万円を超える層でも、月7万円以上の負担にはならないままだ。税制であれ年金であれ仕組みは異なるが、根底にあるのは所得の多い者が少ない者を支える「所得の再分配」機能である。税金や年金を損得の視点で見るべきではなく、唯一「公平」と言える基準は、能力に応じた負担が実施されているかどうかである。「少子高齢化の中で、少ない勤労者が高齢者をどう支えるか」という議論が当然のように語られているが、これは誤った前提に基づいている。所得の再分配という観点からすれば、国民全体で生み出した富をいかに公平に分配するかを問うべきであり、生産と消費によって成り立つ富を誰が担っているかという視点が不可欠だ。
議論の中心となるべきは国民年金である。基礎年金が月額2万円弱の定額制であること自体、公平の原則からすれば不自然だ。厚生年金の加入者は所得の約9%を納付しているのだから、国民年金も同様に所得比例で納付するのが公平である。厚生年金では企業がもう9%を負担しているため、国民年金では政府が同率を負担すれば、受給額を厚生年金並みに引き上げることも理論上は可能である。政府は、自営業者の所得を把握できないことや、収入の変動を理由に比例負担にできないと説明するが、同じ政府が徴税では正確に所得を捕捉しているのは明らかだ。現在はマイナンバーにより所得情報と個人が紐づけられており、理論上は全ての所得を正確に把握できるはずである。こうした仕組みを活用せず、国民年金受給者の生活困難をあたかも「貧困問題」として扱うのは筋が違う。
もちろん、働けない人や障害のある人への対応には、セーフティネットとしての別建ての制度設計が必要だ。しかし、厚生年金についても、所得比例の「同率負担」ではなく、税と同じような累進構造を取り入れ、低所得者の負担率を下げる仕組みにすることは可能だろう。年金は「個人の財産」ではなく、「国家のあり方」を体現する制度である。これを民間保険のような視点で捉えていること自体が、根本的な誤解なのではないだろうか。
2004年、小泉政権下で「年金100年安心」とうたわれた年金制度改革が実施され、2007年には「消えた年金問題」として約5095万件の記録ミスが発覚した。そこから今日に至るまで制度は複雑化する一方だが、なぜもっとシンプルでわかりやすい制度にできないのだろうか。今回の「106万円の壁」撤廃も、本質的には基礎年金(月額上限約7万円)では生活が成り立たないという懸念に端を発したものである。パート勤務でも厚生年金を10年間納付すれば、月1万円程度の上乗せが見込まれるというが、月8千円程度の納付が必要となり、手取りは減少する。納付と給付は現在と未来のトレードオフであり、単純な損得では語れないが、それでも将来月8万円で一人暮らしをするのは心もとない。
一方、高所得者の保険料上限は月収75万円で約7万円に設定されるというが、逆に言えば年収1000万円を超える層でも、月7万円以上の負担にはならないままだ。税制であれ年金であれ仕組みは異なるが、根底にあるのは所得の多い者が少ない者を支える「所得の再分配」機能である。税金や年金を損得の視点で見るべきではなく、唯一「公平」と言える基準は、能力に応じた負担が実施されているかどうかである。「少子高齢化の中で、少ない勤労者が高齢者をどう支えるか」という議論が当然のように語られているが、これは誤った前提に基づいている。所得の再分配という観点からすれば、国民全体で生み出した富をいかに公平に分配するかを問うべきであり、生産と消費によって成り立つ富を誰が担っているかという視点が不可欠だ。
議論の中心となるべきは国民年金である。基礎年金が月額2万円弱の定額制であること自体、公平の原則からすれば不自然だ。厚生年金の加入者は所得の約9%を納付しているのだから、国民年金も同様に所得比例で納付するのが公平である。厚生年金では企業がもう9%を負担しているため、国民年金では政府が同率を負担すれば、受給額を厚生年金並みに引き上げることも理論上は可能である。政府は、自営業者の所得を把握できないことや、収入の変動を理由に比例負担にできないと説明するが、同じ政府が徴税では正確に所得を捕捉しているのは明らかだ。現在はマイナンバーにより所得情報と個人が紐づけられており、理論上は全ての所得を正確に把握できるはずである。こうした仕組みを活用せず、国民年金受給者の生活困難をあたかも「貧困問題」として扱うのは筋が違う。
もちろん、働けない人や障害のある人への対応には、セーフティネットとしての別建ての制度設計が必要だ。しかし、厚生年金についても、所得比例の「同率負担」ではなく、税と同じような累進構造を取り入れ、低所得者の負担率を下げる仕組みにすることは可能だろう。年金は「個人の財産」ではなく、「国家のあり方」を体現する制度である。これを民間保険のような視点で捉えていること自体が、根本的な誤解なのではないだろうか。