ストレンジャー・シングス ― 2026年01月03日
2016年の配信開始から、気づけば10年という歳月が流れた。2026年の元旦、ついに最終章となるシーズン5が配信され、私は「ああ、ここまで来たのか」と静かな感慨を抱きながら画面を見つめていた。年末にシーズン4までを一気に視聴し、ホーキンスの闇へ深く沈み込んだまま、その流れで最終シーズンに突入した。この物語を語るうえで、イレブン役のミリー・ボビー・ブラウンという存在を外すことはできない。
彼女は11歳でシリーズに参加し、最終章を迎えた今は21歳になった。子どもから大人へ――その不可逆な変化の時間そのものを、作品と共に生きた稀有な俳優である。日本で言えば『北の国から』の純と螢、海外なら『ハリー・ポッター』の三人組が思い浮かぶが、ここまで役柄と俳優自身の成長が分かちがたく重なった例は多くない。私たちはドラマを観ていたのではない。一人の少女が変貌していく10年間を、リアルタイムで目撃してきたのだ。
初期シーズンを振り返ると、シーズン1のイレブンは驚くほど言葉を持たなかった。丸刈りの頭に、サイズの合わないピンクのワンピース。社会から隔絶された彼女には、自らの意志を伝えるための「言語」が欠落していた。ゆえにミリーは、「目」「呼吸」「身体のこわばり」だけで感情を表現するという、極めて過酷な演技を課せられた。
未知への恐怖、拭いきれない孤独、ふと滲む優しさ。鼻血を流しながら世界を睨みつける、あの射抜くような視線。言葉がないからこそ、視聴者は彼女の瞳の揺らぎに神経を集中させてしまう。子役という枠を軽々と超えた、痛々しいほどに成熟した「沈黙の演技」。それこそがシリーズ初期の強烈な引力であり、本作に底知れぬ深みを与えていた最大の要因だった。そこには、技術を超えた「本物の異質感」が確かに宿っていた。
物語が進むにつれ、イレブンは単なる実験体ではなく、友情や恋、そして自分という存在の輪郭に悩む一人の少女へと変化していく。それに呼応するように、ミリーの演技もまた確かな広がりを見せた。怒りや悲しみだけでなく、思春期特有の戸惑い、大切な人を守ろうとする意志までもが、丁寧に表現されていく。シリーズ外でも『エノーラ・ホームズ』で主演を務め、彼女は着実にスターダムを駆け上がっていった。
しかし、「洗練されたスター」として成熟していく姿を目にするほど、言いようのない寂しさが胸に広がる。経験を積み、大人の俳優へと脱皮していく過程で、かつて彼女が放っていた唯一無二の輝きが、少しずつ遠ざかっていくように感じてしまうのだ。天才子役が成長と引き換えに初期の輝きを失う例は古今東西に枚挙にいとまがない。それでもなお、切なさは拭えない。
シーズン1のミリーには、説明不能な不気味さと、今にも壊れそうな脆さが同居する特異な磁力があった。あの異質感こそが、イレブンというキャラクターの魂だったはずだ。だが現在の彼女からは、そうした危うい輝きは後景に退き、どこか「完成された女優」という安定した場所に収まってしまった印象が否めない。整った表情、計算された身振り、プロフェッショナルな立ち居振る舞い。それは俳優としての正解である一方、かつて私が彼女に見ていた「奇跡」とは、微妙に異なる地点にある。
かつてのイレブンが放っていた、言葉にならないほど強烈な「個の光」は、社会性と技術を獲得する代償として、どこかに置き去りにされたのではないか。もちろんそれは、人としても俳優としても正しい成長だろう。それでも、あの凍えるような孤独の中で世界を睨みつけていた少女に心を奪われた者としては、その洗練を手放しで祝うことができない。あの圧倒的なカリスマ性は、あの年齢、あの瞬間にしか宿り得なかった、刹那の奇跡だったのかもしれない。
10年間の撮影を終え、ミリーは「卒業は安堵ではない。この作品は私を育ててくれた」と語ったという。このシリーズは、彼女にとってキャリアの出発点であると同時に、人生そのものを形作った聖域だったはずだ。脚本や演出、80年代ノスタルジーを喚起する世界観の完成度もさることながら、その中心に刻一刻と変化するミリー・ボビー・ブラウンという「生身の成長」があり続けたことこそが、本作を単なる人気ドラマではなく、一つの文化現象へと押し上げた最大の理由である。
最終章を見届けながら、かつてあどけなくも圧倒的な存在感を放っていたイレブンの残像を今も画面の隅々に探している。ミリーの10年間と、それを見守ってきた私たちの10年間。物語の終わりとともに、あの奇跡のような「子役時代の輝き」が完全に過去へと沈んでいく。その切なさを噛み締めながら、この壮大なフィナーレを最後まで見届けたいと思う。
彼女は11歳でシリーズに参加し、最終章を迎えた今は21歳になった。子どもから大人へ――その不可逆な変化の時間そのものを、作品と共に生きた稀有な俳優である。日本で言えば『北の国から』の純と螢、海外なら『ハリー・ポッター』の三人組が思い浮かぶが、ここまで役柄と俳優自身の成長が分かちがたく重なった例は多くない。私たちはドラマを観ていたのではない。一人の少女が変貌していく10年間を、リアルタイムで目撃してきたのだ。
初期シーズンを振り返ると、シーズン1のイレブンは驚くほど言葉を持たなかった。丸刈りの頭に、サイズの合わないピンクのワンピース。社会から隔絶された彼女には、自らの意志を伝えるための「言語」が欠落していた。ゆえにミリーは、「目」「呼吸」「身体のこわばり」だけで感情を表現するという、極めて過酷な演技を課せられた。
未知への恐怖、拭いきれない孤独、ふと滲む優しさ。鼻血を流しながら世界を睨みつける、あの射抜くような視線。言葉がないからこそ、視聴者は彼女の瞳の揺らぎに神経を集中させてしまう。子役という枠を軽々と超えた、痛々しいほどに成熟した「沈黙の演技」。それこそがシリーズ初期の強烈な引力であり、本作に底知れぬ深みを与えていた最大の要因だった。そこには、技術を超えた「本物の異質感」が確かに宿っていた。
物語が進むにつれ、イレブンは単なる実験体ではなく、友情や恋、そして自分という存在の輪郭に悩む一人の少女へと変化していく。それに呼応するように、ミリーの演技もまた確かな広がりを見せた。怒りや悲しみだけでなく、思春期特有の戸惑い、大切な人を守ろうとする意志までもが、丁寧に表現されていく。シリーズ外でも『エノーラ・ホームズ』で主演を務め、彼女は着実にスターダムを駆け上がっていった。
しかし、「洗練されたスター」として成熟していく姿を目にするほど、言いようのない寂しさが胸に広がる。経験を積み、大人の俳優へと脱皮していく過程で、かつて彼女が放っていた唯一無二の輝きが、少しずつ遠ざかっていくように感じてしまうのだ。天才子役が成長と引き換えに初期の輝きを失う例は古今東西に枚挙にいとまがない。それでもなお、切なさは拭えない。
シーズン1のミリーには、説明不能な不気味さと、今にも壊れそうな脆さが同居する特異な磁力があった。あの異質感こそが、イレブンというキャラクターの魂だったはずだ。だが現在の彼女からは、そうした危うい輝きは後景に退き、どこか「完成された女優」という安定した場所に収まってしまった印象が否めない。整った表情、計算された身振り、プロフェッショナルな立ち居振る舞い。それは俳優としての正解である一方、かつて私が彼女に見ていた「奇跡」とは、微妙に異なる地点にある。
かつてのイレブンが放っていた、言葉にならないほど強烈な「個の光」は、社会性と技術を獲得する代償として、どこかに置き去りにされたのではないか。もちろんそれは、人としても俳優としても正しい成長だろう。それでも、あの凍えるような孤独の中で世界を睨みつけていた少女に心を奪われた者としては、その洗練を手放しで祝うことができない。あの圧倒的なカリスマ性は、あの年齢、あの瞬間にしか宿り得なかった、刹那の奇跡だったのかもしれない。
10年間の撮影を終え、ミリーは「卒業は安堵ではない。この作品は私を育ててくれた」と語ったという。このシリーズは、彼女にとってキャリアの出発点であると同時に、人生そのものを形作った聖域だったはずだ。脚本や演出、80年代ノスタルジーを喚起する世界観の完成度もさることながら、その中心に刻一刻と変化するミリー・ボビー・ブラウンという「生身の成長」があり続けたことこそが、本作を単なる人気ドラマではなく、一つの文化現象へと押し上げた最大の理由である。
最終章を見届けながら、かつてあどけなくも圧倒的な存在感を放っていたイレブンの残像を今も画面の隅々に探している。ミリーの10年間と、それを見守ってきた私たちの10年間。物語の終わりとともに、あの奇跡のような「子役時代の輝き」が完全に過去へと沈んでいく。その切なさを噛み締めながら、この壮大なフィナーレを最後まで見届けたいと思う。