修学旅行費を全額無償化2026年02月16日

修学旅行費を全額無償化
鳴門市が今年度から、市内の小中学生の修学旅行費を全額無償化する方針を打ち出した。小学生は約3万5千円、中学生は約8万円相当。市は789人分、総額で約4611万円を計上したという。表向きは「教育の機会均等」を掲げる施策だが、どこか違和感が残る。そもそも修学旅行は義務ではない。学校教育法で位置付けられる「特別活動」の一部に過ぎず、やらなくても教育的義務は果たせる。しかし日本の多くの学校では、伝統的に小6・中3に組み込まれ、卒業前の一大イベントとして固定されてきた。近年は海外旅行も珍しくなく、費用は数十万円単位に跳ね上がる。自治体が公費で補助する場合、小さな町でも数百万円、大都市では億単位に膨らむこともある。

教育的意義としては、集団生活での協調性や自立性、歴史・文化体験などが挙げられる。しかし実際の旅程を見ると、スケジュールの大半は教員主導で、生徒の自由な意思決定は限定的である。自立性を育てるというより、集団行動への順応を求められる場面が多いのが現状だ。むしろ修学旅行は「卒業前の通過儀礼」としての性格が強く、思い出作りや学級の結束、学校文化の象徴といった役割が前面に出ている。

多様性と伝統性の両立を図るには、子ども一人ひとりの興味や体験の幅を保障すると同時に、学校行事の歴史や地域文化も尊重される必要がある。宿泊学習や修学旅行は、現場の工夫次第でその両者を結び付ける機会になり得る。ただし、教育的意義や伝統を固定的に捉えすぎれば、集団行動が生理的に苦痛な子どもが少数ながら増えているという事実を見落としてしまう。

そして、全員無償化となれば状況は変わる。公費で費用が保証されれば、学校は「全員参加で問題なし」と判断しやすくなる。教育的意図を深く考えず、義務的な形式だけの儀式として固定化されるリスクが高まる。さらに、今でも課題を抱える修学旅行前提の学校文化を見直すチャンスまで失われる。改善の余地がある活動を、慣習に従って続ける圧力が強まるのだ。

海外まで足を伸ばす必要性も、ほとんどない。欧米の修学旅行事情を見れば明らかだ。イギリスやドイツでは国内の日帰り・宿泊学習が中心で、海外遠征は例外。費用の大半は保護者負担で、自治体が全額公費で支援することはほとんどない。自由度も高く、生徒が活動を選べる形式が一般的だ。短期の海外旅行で得られる経験など限定的で、教育効果も薄い。

公費投入の観点でも疑問は残る。小規模自治体なら数百万円で済む費用も、都市部では数千万円〜億円規模。教育投資の効率を考えれば、ICT教育や学習支援、教材整備など、より確実に学習効果の見込める分野に振り向けた方が理にかなっている。

東京の金持ち自治体の修学旅行無償化では金余り自治体の愚策とこき下ろすだけで済んだが、普通の自治体である鳴門市となると話が違う。このニュースは、単なる所得の再分配という子育て支援策ではなく、日本の修学旅行文化そのものを問う契機となる。「義務化」された全員参加の儀式──無償化は形式の固定化を助長し、教育の多様性を押し込めるだけでなく、学校文化を変える可能性を奪う危険性もある。教育とは思い出作りではなく、学びと成長の機会を確実に保障しつつ、多様な経験を尊重することが本質なのだ。教育議論もすっ飛ばした市長の点数稼ぎに利用しないでほしいと思う。