尾道2023年05月31日

朝9時に出て13時に尾道に着いた。雨は上がり日が差して、尾道水道の海が明るく輝く。展望台から千光寺に向かう。途中、文学の道とかがあって尾道を題材にした歌や詩句が大岩に刻まれている。尾道を詠ったものもあるが、松尾芭蕉の「うき我をさびしがらせよかんこ鳥」の石碑は1792年当時尾道に庵を結んでいた俳人らが松尾芭蕉の100年忌祭を営んだ際に建立されたものでこの地に因んだものではない。『奥の細道』の旅を大垣で終え、伊勢神社遷宮に向かう途中、三重県長島町の大智院で「憂きわれを寂しがらせよ秋の寺」を詠んだ芭蕉は、京都嵯峨の落柿舎に滞在した時の嵯峨日記にした時に秋の寺から閑古鳥=カッコウにしたという。

寺は崖の岩石にへばりつくように建てられており、眼下に尾道水道と向島のドックのクレーンが見える。小型のフェリーが行き来しのんびりした風景だ。ゲストハウスではハンターとパドルボードでガイドをしている方と話した。オーナーは気さくな方で夜遅くまで家族連れと談笑していた。いい宿だ。

葵祭2023年05月16日

京都の三大祭りを京都に住みながら一つも見ていなかったので昨年から足を運んでいる。細かな関連儀式までは見ていないが、今回の葵祭見学で一応全て見たことになる。昨日の雨で延期のお知らせはツイッターやフェースブックでは発信していたらしいが、利用していない人にとっては意味がない。しかも有料席振込完了後はメールで座席の指定をしてくるのに、何故延期のお知らせはメールが出せないのだろう。もちろん自由に見学する人は検索なりするだろうが、座席を買った人まで同じように検索をしろということか。さすが京都の上から目線ぼったくり商法だ。今日は暑かった。隣のご老人は干からびそうで辛そうだった。今日は上皇陛下も観覧されているらしく特別席の警備は昨今のテロ事件で一層厳しくなっているようだ。

時代祭とは違いふんだんに馬や牛が出てきて、おしろいを塗った女官も多い。平安の装いだけで1時間近く煌びやかな路頭の儀を観ることができた。葵祭の起源は約1400年前の五穀豊穣祈願の行事が始まりだ。819年に国家的な行事となった。「枕草子」や「源氏物語」にも登場し、もともとは「賀茂祭」と呼ばれていたが、応仁の乱から復活した江戸時代に、二葉葵を飾ったことから葵祭と呼ばれるようになった。応仁の乱など3度の長期中断もあったがその度に力強く復活しているところが偉い。

初詣2023年01月03日

小倉神社に初詣に行く。1300年前の創建で式内社ということもあり結構遠くからバスに乗って参拝にくる人もいる。小倉神社は森の中なので境内は少し暗い。神殿の前で焚火をしていて木の焼けるいいにおいがする。いつもはひっそりとした境内だが、この日ばかりは巫女さんもおみくじやら破魔矢の販売に大忙しだ。破魔矢の由来は、古代の正月に行われていた弓の技を試す「射来」という年占いにあると言われている。地区ごとに射来を競い、勝った地区は豊作に恵まれるという占いだ。使われる的を「ハマ」、使われる矢を「ハマ矢」、弓を「ハマ弓」という。「ハマ」に「破魔」の字を当て、「魔を破る」という意味を重ねるようになったらしい。小倉神社をお参りしたあとに長岡天満宮まで足を延ばした。菅原道真公が太宰府左遷の時立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜んだ縁故で、道真公自作の木像を祀ったと言われる。応仁の乱後の再建からは500年以上経つ。

小倉神社とは比べ物にならないほどの大勢の人出だった。神社に上がる階段にずらりとげんを担ごうとする参拝客が並んでいたのでお参りは遠慮した。げんを担ぐという由来は「縁起を担ぐ」だが、江戸時代に流行った逆さ言葉で縁起を「ぎえん」と言うようになり、それが徐々に「げん」に変化したとされる。当て字に使う 「験」には「仏教の修行を積んだ効果」や「効き目」などの意味がある。

泉涌寺・東福寺2022年11月17日

東福寺界隈は紅葉の時期にまた行こうと思っていた。泉涌寺方面にも足を延ばしてみる。日赤病院の北側を入っていくと今熊野観音寺がある。ここの紅葉が今日拝観した中では一番紅葉が整っていた気がする。ボケ封じの観音様なので良くお願いしてきた。そこから裏道に入ると、大石内蔵助が身を寄せたという来迎院がある。観光客は誰もいないし寺の職員も誰もおらず紅葉が真っ盛りの寺の庭には入れなかった。裏道を抜けると泉涌寺の仏殿の横に出てくる。仏殿は1668年徳川家綱によって再建され、須弥壇には運慶作の阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏が安置されている。今日は御座所と霊明殿が特別公開されていた。重要文化財施設の公開業務を支えるのは寺の僧侶だけではなく繁忙期は観光協会や古文化保存協会がアルバイトを募集して学生を雇い入れするようだ。質問されるとうまく応えられずに四苦八苦している学生もいた。

天皇陵の並ぶ山道に入って雲龍院でくつろぎ、昼過ぎに東福寺に向かう。東福寺はさすがに紅葉狩りの観光客で混雑していたが、多いのは通天橋の周辺だけだった。三門が特別公開されていたのでこれも1000円払って急な梯子階段を上がらせてもらう。室町時代再建の三門は、禅宗三門としては日本最古で最大の門。 高さ約22m、市内一望の楼上には宝冠釈迦如来像や十六羅漢像が安置されていた。 明兆(兆殿司)らによる極彩色の飛龍や天女などが描かれた荘厳な空間が広がっていた。色褪せてはいるが室町時代の彩色ならば保存状態は良いと感じる。そのあと虹の苔寺の異名を持つ光明院でほっこりして家路につく。

高雄・高山寺2022年11月10日

冬タイヤ用ナットを袋ナットに車屋で交換したついでに高雄までドライブ。高雄はバスで京都駅から30分間隔で運行しているが紅葉の季節は下手をすると50分立ちっぱなしになる。坂道続きのお寺に上がる余力を残すには車で行く方が安心だ。高山寺・西明寺・神護寺と下流に向かって並んでいるが、山間の日暮れは早いので西明寺はパスすることにした。下調べをしないで来たので、高雄のバス停横の駐車場に入れてしまった。ここは神護寺に近いバス停だが、尾根付近に道が通っており、一度清滝川まで降りてさらに神護寺まで登るという場所だった。神護寺まで喘ぎながら登った道を降り上流に向かって高山寺まで上がるとまた降りて元の駐車場まで登り返すと言う超ハードコースになってしまった。

高山寺と神護寺の中間点の駐車場なら1回上りが節約できたが仕方がない。トレーニングだと思って汗だくで坂を上る。汗は山の冷気で一気に冷えるので、シャツの替えをもってきて助かった。高雄は紅葉の色づきが早く神護寺では真っ赤な紅葉に出会えた。その後、嵐山-高雄パークウエイに入り、ほとんど車が走っていない夕暮れの紅葉ロードを快適にドライブして家路についた。

瑠璃光院2022年10月25日

拝観料が高い割には見るところがないと敬遠していた八瀬の瑠璃光院に行った。河原町から1時間に2本京都バスが出ている。八瀬というと遠い印象があるが河原町から半時間で着く。叡電でも出町柳から15分だ。バス停から高野川に沿って左岸を行くと10分程で瑠璃光院だ。さすが2000円も拝観料をとるだけあって従業員がやたらに多い。紅葉の時期の待ち列用のロープが張り巡らされてその端に従業員がいて、フラッシュは使うなだの足が滑るぞだの拝観料は山門の向こうで払えだのとお世話をしてくれるが看板を見たらわかる。

大正時代に作られた数寄屋造りの2階に上がると雑誌に良く載っている床板や机の天板に景色が映りこんでいる座敷になる。ワックスか何かを塗っている感じだ。11月から1カ月間ほどはネットで予約制限をするほど人が来るらしい。もともとは岐阜の光明寺の分院という位置づけだが、その土地に叡電の創始者の別荘を建てたもので寺院の趣はあまりない。寺の一角にあるイカール美術館は、瑠璃光院の管主が蒐集したイカール作品を展示している。絵画の蒐集の結果、高い拝観料になっているのではと疑うと素直に鑑賞できなかった。

時代祭2022年10月22日

時代祭に行く。座席チケットは平安神宮前は売り切れだったが御所席は前日にとれた。座席は日よけがなく直射日光でかなり暑いので皆開始まで木陰で待機。トイレは満員で10分待ちだった。正午に行列が始まる。合奏あり踊りありの楽しい2時間だ。簡単に言えば明治時代に始まった京都のコスプレ行事と言える。ハローウィンは個人が好きなように自発的に参加するものだが、時代祭は京都中が力を合わせて衣装などを時代考証して緻密に計算された行列だ。まぁ行列運営は今日のように、時代行列の順番を間違えたりするがそこはお愛嬌だ。

明治に御所は京都から東京に移り、寂れた京都をなんとしたかったというのが時代祭の動機だ。興味深いのはそのプロジェクトに京都中の市民が参加したことだ。葵祭はまだ見ていないが、そこからヒントを得て時代祭が始まっている。京都人の古都への愛着が伝わってくるイベントだ。

大原三千院2022年10月12日

大原に行った。地図を見ると比叡山の麓だ。琵琶湖から北に比叡山を越えて大原、鞍馬、貴船と谷が並んでいる。大原は高野川が流れ比較的広い谷間だ。その谷間の南の斜面に大原三千院、北側に寂光院がある。京都バスのバスターミナルを中継地点にして散策するようにガイドブックに書かれている。ゆっくり両方を徒歩で往復すると3時間半ほどかかった。三千院は最澄が比叡山延暦寺を建立する際に作った草庵“円融房”が起源。『青蓮院門跡』、『妙法院門跡』とあわせ“天台三門跡”と呼ばれる格式の高い寺院。比叡山坂本の穴太衆による石垣がその格式の高さを感じさせる。有名な「わらべ地蔵」は、往生極楽院南側、弁天池の脇に苔と同化してたたずんでいる。彫刻家・杉村孝氏によって彫られ30年程前に置かれたそうだ。どうりで現代風な地蔵さんなわけだ。

北側の寂光院は聖徳太子が用明天皇の菩提を弔うために1400年前に創建。800年ほど前平清盛の娘・建礼門院が壇ノ浦の戦いで助けられ、都に戻され出家。その後、寂光院の傍らに小さな庵をむすび、滅亡した平家一門と、子の安徳天皇の菩提を弔う日々を過ごしたと平家物語にあるらしい。読んでみようかと思う。

鞍馬寺2022年09月28日

鞍馬寺は山門から九十九折りを標高差100mほど登ったところにあるので往路は日本で一番短いケーブルカーに乗っていく。日本でただ一つの宗教法人が所有するケーブルカーでもあるらしい。乗車時間は2分で運賃は200円だった。ここから10分程階段を上っていくと鞍馬寺だ。本堂自身はコンクリート製であまり見るものはないが、創設は平安時代で枕草子や源氏物語に出てくるそうだ。本堂の両側には阿吽の虎がいる。片方は口を開けもう一方は閉じて、これで阿吽だそうだ。本堂の裏側に山道が続いており奥の院と書いてある。登っていくと鞍馬山にある海底生物の化石を含む砂岩の標本や、鞍馬山に生息する昆虫標本、源義経を育てた修行僧(天狗)の山由縁の刀やら甲冑の展示、本物?ならかなり保存程度の良い毘沙門天立像がやたらに並んでいたりの霊宝殿(鞍馬山博物館)がある。以前の宗主が博識だった証のような霊宝殿だ。

その前には與謝野晶子書斎として使われた冬柏亭がある。なんでこんな山奥の奥に女流作家の書斎をたてたのかわからないけど、冬柏とは椿のことらしい。夫の與謝野鉄幹がこの名にこだわっていたようだ。鉄幹は前妻と離婚して12人の子どもを晶子ともうけ、その間にも他の女性に手出しをしている。鉄幹は名プロデューサーにはよくある超絶倫男なんだろうと想像する。

石山寺2022年09月12日

近江八景「石山の秋月」で知られる大津市の石山寺の秋月祭の記事が出ていた。紫式部が月を眺めて源氏物語の構想を練ったとされる寺で一度は行こうと思っていた。日中に行くと昨夜の盛り上がりの気配は微塵もなく、静かな巨石の中にある山寺だった。本殿に行く石段の手前に、岩穴をくぐると願いが叶うというパワースポット「くぐり岩」がある。この辺りの岩は全て大理石で足元は少し滑る。リュックを担いでいるとやや窮屈だがくぐることができた。

石山寺は、聖武天皇(724年)の勅願によって良弁が開き東大寺との関りが深い寺院だ。日本最古といわれる国宝の多宝塔は、源頼朝の寄進と伝えられる。その多宝塔まで上り詰めると、右手に瀬田川を見下ろす月見台がある。昨日は真東から月が上がるので木立の中から月が上がったのだろう。木立が大きくなりすぎている感があるが、剪定するかどうか寺も悩みどころなのだろう。昨日行った広沢池と並ぶ観月場所かと聞かれるとやや首をかしげたくなるが、紫式部の執筆場所としてアドバンテージがあるのだろう。
Google
www Blog