教員わいせつ処分歴 ― 2025年12月18日
福岡地裁で開かれた初公判は、一地方の不祥事というより、日本の行政が「使える制度を使わない」ことで招いた必然の事件だった。須恵町の町立中学校採用試験で、岐阜県教委の印影が押された偽造教員免許状の写しを提出した補助教員が、偽造有印公文書行使罪に問われた。被告は起訴内容を認め、検察側は「免許失効後に三度姓を変え、偽造免許を使い続けた」と指摘した。巧妙だったのは犯人ではない。杜撰だったのは制度の側だ。
教員免許が失効するのは、懲戒免職や禁錮以上の刑など、教育者としての信用を根底から失う重大事案だけでなく有罪にならなくとも類似事案は教委が独自に判断できる。免許とは資格証明である以前に、子どもを預かる者としての「信頼の証」である。その免許を失った人物が、偽造という手段で教壇に戻れた事実は、教育現場への裏切りであると同時に、制度の敗北を意味する。
なぜ防げなかったのか。答えは単純だ。免許状の写しを原本と突き合わせない。教育委員会同士で処分歴を共有しない。人手不足を理由に確認作業を形式化する。そして改姓や養子縁組があれば、過去は簡単に消える。これは「想定外」ではない。「想定しないことを選び続けた」結果である。
2021年から「教員わいせつ処分歴データベース」が運用され、一定の抑止効果は生まれた。しかし、私学での活用は鈍く、改姓による照合漏れという致命的欠陥も残った。ここで決定的に欠けているのが、マイナンバーの本格活用だ。
マイナンバー制度は、氏名変更や転籍を経ても個人を一意に識別できるよう設計されており、今回のような事件を未然に防ぐためにも使える仕組みである。それにもかかわらず、「プライバシーへの懸念」や「番号法による利用制限」が繰り返し持ち出され、最も必要とされる採用チェックの場面で活用されることがない。
だが考えてみてほしい。子どもの前に立つ教職員は、最も高い公共性と信頼性を求められる職種だ。そこに最低限の身元確認を適用しない理由があるだろうか。災害時に個人情報を理由に避難名簿を作らない自治体がないように、リスク管理と人権保護は本来、対立しない。
要するに、この事件は「免許制度の透明性を高めよう」といった抽象論で処理すべき話ではない。すでに存在するマイナンバー制度を、学校職員に適用すれば済む話なのだ。問題は技術でも法律でもない。制度を“使わない”という行政の選択である。
子どもへの人権侵害は、個人不祥事ではなく社会的災害だ。災害対策に必要なのは、新しい看板ではない。実効性のある仕組みを、例外なく運用する覚悟である。この事件が示したのは、倫理が崩れたからではない。守れるはずの子どもを、制度が守らなかったという現実だ。
改革に必要なのは新制度ではない。「使える制度を、使う決断」だけである。
教員免許が失効するのは、懲戒免職や禁錮以上の刑など、教育者としての信用を根底から失う重大事案だけでなく有罪にならなくとも類似事案は教委が独自に判断できる。免許とは資格証明である以前に、子どもを預かる者としての「信頼の証」である。その免許を失った人物が、偽造という手段で教壇に戻れた事実は、教育現場への裏切りであると同時に、制度の敗北を意味する。
なぜ防げなかったのか。答えは単純だ。免許状の写しを原本と突き合わせない。教育委員会同士で処分歴を共有しない。人手不足を理由に確認作業を形式化する。そして改姓や養子縁組があれば、過去は簡単に消える。これは「想定外」ではない。「想定しないことを選び続けた」結果である。
2021年から「教員わいせつ処分歴データベース」が運用され、一定の抑止効果は生まれた。しかし、私学での活用は鈍く、改姓による照合漏れという致命的欠陥も残った。ここで決定的に欠けているのが、マイナンバーの本格活用だ。
マイナンバー制度は、氏名変更や転籍を経ても個人を一意に識別できるよう設計されており、今回のような事件を未然に防ぐためにも使える仕組みである。それにもかかわらず、「プライバシーへの懸念」や「番号法による利用制限」が繰り返し持ち出され、最も必要とされる採用チェックの場面で活用されることがない。
だが考えてみてほしい。子どもの前に立つ教職員は、最も高い公共性と信頼性を求められる職種だ。そこに最低限の身元確認を適用しない理由があるだろうか。災害時に個人情報を理由に避難名簿を作らない自治体がないように、リスク管理と人権保護は本来、対立しない。
要するに、この事件は「免許制度の透明性を高めよう」といった抽象論で処理すべき話ではない。すでに存在するマイナンバー制度を、学校職員に適用すれば済む話なのだ。問題は技術でも法律でもない。制度を“使わない”という行政の選択である。
子どもへの人権侵害は、個人不祥事ではなく社会的災害だ。災害対策に必要なのは、新しい看板ではない。実効性のある仕組みを、例外なく運用する覚悟である。この事件が示したのは、倫理が崩れたからではない。守れるはずの子どもを、制度が守らなかったという現実だ。
改革に必要なのは新制度ではない。「使える制度を、使う決断」だけである。