人権が紛争に化ける瞬間 ― 2025年12月20日
中国が国連の場で沖縄の人々を「先住民族」と位置づける発言を繰り返すなか、沖縄県豊見城市議会は12月18日、こうした主張を「明白な内政干渉」と断じる抗議決議を賛成多数で可決した。決議では、中国の発言が日本の主権を侵害するものだと指摘し、玉城デニー知事に対しても「沖縄県民は日本国民である」との立場を明確に示すよう求める意見書を採択。同様の決議は石垣市議会でも可決されており、国連の先住民族勧告をめぐる問題が、地方自治体レベルで現実の政治課題として噴出している。
沖縄をめぐる「先住民族認定」ほど、耳触りのいい言葉がこれほど不穏な影を引きずるテーマは、そう多くないだろう。「国際人権」。この魔法の言葉が掲げられた瞬間、異論はたちまち「差別」や「時代遅れ」として封じ込められる。だが、その思考停止こそが、沖縄を静かに、しかし確実に“大国の外交カード”へと変質させていく。
中国は近年、国連人権理事会などの国際舞台で、沖縄の人々を「先住民族」と強調する発言を繰り返してきた。2023年の会合では、中国外交当局者が「琉球の人々は独自の歴史と文化を有し、その権利は十分に尊重されるべきだ」と名指しで言及している。一見すれば人権尊重の美辞麗句だ。しかし、その背後で尖閣諸島をめぐる日中対立が激化している現実を、見ないふりはできない。
沖縄の「特殊性」を国際社会に刷り込むことは、日本の主権を相対化し、領土問題を曖昧にするうえで、極めて有効な手法だ。人権の仮面をかぶった地政学――そう呼ぶほかない。
そもそも国家の成立史が清廉潔白な国など存在しない。侵略、併合、服従。その積み重ねの上に、現在の国境線がある。それをすべて民族問題として再定義すればどうなるか。世界地図は過去にさかのぼるたび、何度でも塗り替え可能になる。日本国内ですら、文化や方言の差異を突き詰めれば、「民族」は無限に分裂するだろう。そんな議論が社会の安定に資するはずがない。
だからこそ、民族的権利と文化的多様性は切り分けねばならない。国家とは、単一民族の“純度”を競う装置ではない。多様な出自を包摂するための現実的な枠組みであるべきだ。沖縄の歴史と文化が独自であることは疑いようがない。しかし、それを「固有の民族国家」として国際政治の文脈で強調する行為は、沖縄を守るどころか、不安定化させる。
第二次世界大戦後、国際法は明確な線を引いた。「武力による領土変更は違法」。民族自決権も、植民地支配や戦後の不当な併合といった限定的状況にのみ適用されてきた。もし大戦前にまで遡って民族自決を全面解禁すれば、過去の歴史を理由にした領土要求が噴出し、新たな侵略を正当化する世界が到来する。
国連が琉球人を先住民族と位置づけた勧告も、あくまで人権文脈の延長線上にある。だが現実を見れば、沖縄県議会や県内自治体が公式に「先住民族宣言」を出した例は一度もない。県内自治体関係者の言葉が象徴的だ。「文化は大事だが、“民族国家”なんて言われ方をされると、話は別になる」
比較されがちなアイヌ民族も同様である。自治体が固有民族認定を求めたのではなく、国連勧告と国会決議によって位置づけが定まった。一方、沖縄は県全体が琉球文化圏に属する。それでも踏み込まなかったのは、「日本人であり、琉球人でもある」という重層的アイデンティティを尊重し、分断を避けるという現実的判断だったのだろう。
それにもかかわらず、沖縄を「固有民族国家」として国際社会に売り込む動きがあるとすれば、その目的は文化保護ではない。政治利用だ。豊見城市や石垣市の議会が抗議決議に踏み切ったのは、その危うさを直感的に理解しているからにほかならない。民族問題を過去へ過去へと無制限に持ち込めば、世界は再び「力が正義」の時代へと逆戻りする。その入口に、沖縄を立たせてはならない。
結論は明快だ。沖縄の文化的権利は最大限尊重されるべきだが、それを「民族国家」として政治的に消費することは、日本の安定と国際秩序の双方を損なう。国際社会の勧告をどう受け止めるか。その最終判断を下すのは、外からの声ではない。民主的手続きと、住民自身の意思だ。
沖縄をめぐる「先住民族認定」ほど、耳触りのいい言葉がこれほど不穏な影を引きずるテーマは、そう多くないだろう。「国際人権」。この魔法の言葉が掲げられた瞬間、異論はたちまち「差別」や「時代遅れ」として封じ込められる。だが、その思考停止こそが、沖縄を静かに、しかし確実に“大国の外交カード”へと変質させていく。
中国は近年、国連人権理事会などの国際舞台で、沖縄の人々を「先住民族」と強調する発言を繰り返してきた。2023年の会合では、中国外交当局者が「琉球の人々は独自の歴史と文化を有し、その権利は十分に尊重されるべきだ」と名指しで言及している。一見すれば人権尊重の美辞麗句だ。しかし、その背後で尖閣諸島をめぐる日中対立が激化している現実を、見ないふりはできない。
沖縄の「特殊性」を国際社会に刷り込むことは、日本の主権を相対化し、領土問題を曖昧にするうえで、極めて有効な手法だ。人権の仮面をかぶった地政学――そう呼ぶほかない。
そもそも国家の成立史が清廉潔白な国など存在しない。侵略、併合、服従。その積み重ねの上に、現在の国境線がある。それをすべて民族問題として再定義すればどうなるか。世界地図は過去にさかのぼるたび、何度でも塗り替え可能になる。日本国内ですら、文化や方言の差異を突き詰めれば、「民族」は無限に分裂するだろう。そんな議論が社会の安定に資するはずがない。
だからこそ、民族的権利と文化的多様性は切り分けねばならない。国家とは、単一民族の“純度”を競う装置ではない。多様な出自を包摂するための現実的な枠組みであるべきだ。沖縄の歴史と文化が独自であることは疑いようがない。しかし、それを「固有の民族国家」として国際政治の文脈で強調する行為は、沖縄を守るどころか、不安定化させる。
第二次世界大戦後、国際法は明確な線を引いた。「武力による領土変更は違法」。民族自決権も、植民地支配や戦後の不当な併合といった限定的状況にのみ適用されてきた。もし大戦前にまで遡って民族自決を全面解禁すれば、過去の歴史を理由にした領土要求が噴出し、新たな侵略を正当化する世界が到来する。
国連が琉球人を先住民族と位置づけた勧告も、あくまで人権文脈の延長線上にある。だが現実を見れば、沖縄県議会や県内自治体が公式に「先住民族宣言」を出した例は一度もない。県内自治体関係者の言葉が象徴的だ。「文化は大事だが、“民族国家”なんて言われ方をされると、話は別になる」
比較されがちなアイヌ民族も同様である。自治体が固有民族認定を求めたのではなく、国連勧告と国会決議によって位置づけが定まった。一方、沖縄は県全体が琉球文化圏に属する。それでも踏み込まなかったのは、「日本人であり、琉球人でもある」という重層的アイデンティティを尊重し、分断を避けるという現実的判断だったのだろう。
それにもかかわらず、沖縄を「固有民族国家」として国際社会に売り込む動きがあるとすれば、その目的は文化保護ではない。政治利用だ。豊見城市や石垣市の議会が抗議決議に踏み切ったのは、その危うさを直感的に理解しているからにほかならない。民族問題を過去へ過去へと無制限に持ち込めば、世界は再び「力が正義」の時代へと逆戻りする。その入口に、沖縄を立たせてはならない。
結論は明快だ。沖縄の文化的権利は最大限尊重されるべきだが、それを「民族国家」として政治的に消費することは、日本の安定と国際秩序の双方を損なう。国際社会の勧告をどう受け止めるか。その最終判断を下すのは、外からの声ではない。民主的手続きと、住民自身の意思だ。