たくろうがM-1を制す2025年12月23日

たくろうがM-1優勝
お笑いコンビ・たくろうがM-1を制した。その瞬間、会場を包んだ拍手と同時に、テレビの前には微妙な違和感が残った。「新しい王道が生まれた」と喝采するには、輪郭があまりに曖昧だったからだ。今回の優勝が突きつけたのは、新王者の誕生というよりも、「漫才とは何か」という共通認識が、もはや成立しなくなっているという現実だった。たくろうの優勝ネタは、観客の理解を導くことを最初から目的としていない。ニッチな題材と感覚的なズレを重ね、たくろうが予測不能な方向へボケを放つたび、ツッコミは必死に整合性を回収しようとする。だが、その修復作業は追いつかず、ズレは舞台上で増殖していく。笑いは起きるが、それは「腑に落ちた笑い」ではない。「分からないが、なぜか笑ってしまう」という、半ば置き去りにされたままの反応に近い。

この不安定さこそが、今の時代に受け入れられた理由でもある。説明過多や正解を嫌い、空気や感覚で消費することに慣れた観客にとって、「分からなさ」は欠点ではなく、むしろ参加条件になっている。たくろうの漫才は、笑いの意味を理解することより、場に身を委ねることを要求する。その姿勢が、2020年代の感性と噛み合った。

だが、ここで思い出すべき存在がある。今年、結成50年を迎えるオール阪神・巨人だ。たくろうとは対極に位置する存在である。題材は日常の些事、構造は予定調和、役割分担は絶対に崩れない。巨人が怒鳴り、阪神が受け止める。その繰り返しだ。驚きはなく、裏切りもない。それでも半世紀にわたり、第一線で客を笑わせ続けてきた。

阪神・巨人の漫才は、「分からせる」ことへの執念で成り立っている。誰が見ても、今どこで笑えばいいかが分かる。怒鳴りはツッコミであり、誇張は説明であり、反復は確認だ。観客を置き去りにしないことを最優先に設計されたこの構造は、漫才が本来、大衆芸能であったことを雄弁に物語る。

長寿の漫才師には、必ず枯れない資源がある。中川家なら観察力、NON STYLEなら関係性、ミルクボーイならフォーマット。そして阪神・巨人の場合、その資源はネタ以前の「構造」そのものだ。中身が多少古びても、構造が機能し続ける限り、笑いは再生産される。50年続いた理由は、才能よりも設計にある。

一方で、たくろうの資源は極めて個人的だ。「感覚のズレ」という再現性の低い領域に賭けており、刺さる人には深く刺さるが、刺さらない人には永遠に届かない。普遍性よりもカルト性を選び取った漫才と言っていい。今回の優勝は、そのカルト性が、偶然にも時代の空気と一致した結果だろう。

2020年代のM-1は、形式破壊(マヂカルラブリー)、原点回帰(錦鯉)、言葉の攻撃性(ウエストランド)、技巧の洗練(令和ロマン)と、「王道」の定義を更新し続けてきた。たくろうの優勝は、その更新が限界点を越えたことを示している。もはやM-1は、誰もが納得する王道を決める装置ではない。時代の気分と偶然を映す、極めて不安定な鏡になった。

その変化を、阪神・巨人の50年は静かに照らし返す。分かりやすさを捨てず、予定調和を磨き続けることでしか辿り着けない場所があることを、彼らは証明してきた。たくろうが「今」という瞬間を切り取る芸だとすれば、阪神・巨人は「続くこと」そのものを芸にしてきた存在だ。

たくろうの漫才が、50年後も語られているかどうかは分からない。ただ一つ確かなのは、今年、漫才の地図がまた一歩、分かりにくい方向へ進んだということ。そして、その地図の外縁で半世紀立ち続ける阪神・巨人の存在が、いまなお漫才の基準線を示し続けているという事実だ。