トランプ政権のベネズエラ攻撃 ― 2026年01月05日
トランプ政権がベネズエラ国内の軍事施設を攻撃したと米メディアが報じた。この動きを、日本では「大統領の暴走」や「石油利権を狙った軍事行動」といった分かりやすい物語で消費する論調が目立つ。しかし、賛否を語る前に、なぜ米国でこの問題が安全保障の議題として浮上するのか、その前提を確認する必要がある。
米国では毎年10万人以上が麻薬の過剰摂取で死亡している。これは個人の嗜好や自己責任の問題を超え、社会基盤を侵食する国家的危機である。ベネズエラが米国の脅威認識の俎上に載る理由は、単に麻薬カルテルが存在するからではない。米国政府は長年、同国の政権高官が麻薬密輸ネットワークと結びついている疑いを公にしてきた。つまり問題は、「国家が犯罪を抑えられない」ことではなく、「国家が犯罪の一部になっている可能性がある」という点にある。
この違いは、しばしば比較されるメキシコとの関係を見ると明確だ。メキシコも治安は不安定でカルテルの影響力は強いが、民主的正統性を有する政府が存在し、米国と治安協力を行っている。対照的に、ベネズエラは選挙の公正性が疑われ、司法や議会が政権に従属する体制にあり、国家と犯罪の境界が曖昧だと見なされている。米国にとって両国は同一視できない存在なのである。
もちろん、こうした事情が直ちに軍事行動を正当化するわけではない。主権侵害や国際法違反の懸念は、当然に慎重に検証されるべきだ。軍事行動が新たな混乱や犠牲を生む危険性も否定できない。むしろ、安易な武力行使が事態を悪化させてきた歴史は、世界各地で繰り返し確認されてきた。
それでもなお、この問題が「最後の手段」として議論される背景には、国家の第一義的責務が国民の生命を守ることにあるという現実がある。水源に毒が流し込まれている状況で、水質基準の解釈論だけを続けても被害は止まらない。外交、制裁、司法手続きといった手段を尽くしてもなお、国民が日々命を落とし続けるなら、国家がより踏み込んだ対応を検討すること自体を「異常」と断じるのは現実的ではない。
問題は、日本の報道がこの前提をほとんど共有していない点にある。米国の麻薬危機の規模も、ベネズエラ政権と犯罪ネットワークをめぐる疑惑も、国際法が想定していない現代的脅威も、十分に説明されない。その結果、議論は政策の是非ではなく、人物評価や感情的反発へと矮小化される。
問われているのは、トランプ政権を支持するか否かではない。国民が「見えない戦争」で命を落とし続ける現実を前に、国家はいかなる責任を負うのか――その問いを提示せず、単純な善悪二元論に回収する言説こそが、最も議論を貧しくしている。
米国では毎年10万人以上が麻薬の過剰摂取で死亡している。これは個人の嗜好や自己責任の問題を超え、社会基盤を侵食する国家的危機である。ベネズエラが米国の脅威認識の俎上に載る理由は、単に麻薬カルテルが存在するからではない。米国政府は長年、同国の政権高官が麻薬密輸ネットワークと結びついている疑いを公にしてきた。つまり問題は、「国家が犯罪を抑えられない」ことではなく、「国家が犯罪の一部になっている可能性がある」という点にある。
この違いは、しばしば比較されるメキシコとの関係を見ると明確だ。メキシコも治安は不安定でカルテルの影響力は強いが、民主的正統性を有する政府が存在し、米国と治安協力を行っている。対照的に、ベネズエラは選挙の公正性が疑われ、司法や議会が政権に従属する体制にあり、国家と犯罪の境界が曖昧だと見なされている。米国にとって両国は同一視できない存在なのである。
もちろん、こうした事情が直ちに軍事行動を正当化するわけではない。主権侵害や国際法違反の懸念は、当然に慎重に検証されるべきだ。軍事行動が新たな混乱や犠牲を生む危険性も否定できない。むしろ、安易な武力行使が事態を悪化させてきた歴史は、世界各地で繰り返し確認されてきた。
それでもなお、この問題が「最後の手段」として議論される背景には、国家の第一義的責務が国民の生命を守ることにあるという現実がある。水源に毒が流し込まれている状況で、水質基準の解釈論だけを続けても被害は止まらない。外交、制裁、司法手続きといった手段を尽くしてもなお、国民が日々命を落とし続けるなら、国家がより踏み込んだ対応を検討すること自体を「異常」と断じるのは現実的ではない。
問題は、日本の報道がこの前提をほとんど共有していない点にある。米国の麻薬危機の規模も、ベネズエラ政権と犯罪ネットワークをめぐる疑惑も、国際法が想定していない現代的脅威も、十分に説明されない。その結果、議論は政策の是非ではなく、人物評価や感情的反発へと矮小化される。
問われているのは、トランプ政権を支持するか否かではない。国民が「見えない戦争」で命を落とし続ける現実を前に、国家はいかなる責任を負うのか――その問いを提示せず、単純な善悪二元論に回収する言説こそが、最も議論を貧しくしている。