がんを食い殺す細菌 ― 2026年01月11日
「がんを食い殺す細菌が見つかった」。そう聞けば眉に唾をつけたくなるが、これは眉唾でも怪談でもない。ニホンアマガエルの腸内から、がん組織にだけ選択的に集まり、腫瘍を破壊する細菌が発見されたのだ。北陸先端科学技術大学院大学の都英次郎教授らによる報告は、がん治療の常識を静かに、しかし確実に揺さぶっている。この細菌は、マウスに静脈注射すると腫瘍内部の低酸素環境に集積し、正常な臓器にはほとんど定着しない。腫瘍内で直接細胞を破壊するだけでなく、免疫を活性化するという“二段構え”の攻撃を仕掛ける点も特徴だ。副作用が問題になりがちな抗がん剤や免疫療法と比べ、安全性の高さが示唆されているのは大きい。忘れられかけていた「細菌療法」が、再び現実の治療選択肢として浮上してきた瞬間である。
実は、細菌をがん治療に使う試みは150年以上前にまで遡る。だが近年、腫瘍にだけ集まる天然細菌の存在が相次いで明らかになり、研究は机上の空論から実装フェーズへと移りつつある。海洋細菌フォトバクテリウム・アングスタムに続く今回の成果は、日本の生物多様性が医療資源として持つ潜在力を端的に示す象徴的な例だ。
もっとも、ここからが日本の「いつもの問題」である。世界級の発見が、そのまま世界を変える治療法になるとは限らない。日本は基礎研究では強いが、臨床応用へ橋渡しするトランスレーショナル研究が決定的に弱い。生きた細菌を医薬品として扱うには、GMP準拠の製造設備、厳格な毒性試験、環境影響評価、そして規制当局との継続的な対話が不可欠だ。しかし国内には、これらを一貫して担える拠点が限られている。資金調達力も乏しく、数百億円規模の投資が前提となる細菌療法では、研究成果が海外に流出しやすい構造が温存されてきた。
対照的なのが米国である。腫瘍選択性細菌や腫瘍溶解ウイルスの臨床試験はすでに複数進行し、FDAは前例がなくとも科学的合理性があれば早期臨床入りを認める。大学、ベンチャー、投資家が迅速に連携し、「まず試す」文化が根付いている。その結果、「発見は日本、開発と利益は海外」という構図が、何度も繰り返されてきた。
では、今回も同じ道を辿るのか。必ずしも、そうとは言い切れない。アマガエルの腸内細菌は、腫瘍選択性と安全性を兼ね備えた天然細菌であり、過度な遺伝子改変を施さずとも、弱毒化処理によって早期臨床入りが視野に入る。これは、日本が主導権を握れる数少ない条件が揃ったケースでもある。生菌医薬に特化した研究・製造拠点を整備し、PMDAが明確な早期承認ルートを示せば、基礎研究の成果を国内で育てる道は開ける。日米共同で臨床試験を進め、日本は菌株、製造技術、知的財産で主導権を確保する――そんな現実的な戦略も描ける。
がん治療は、もはや万能薬を探す時代ではない。患者ごとに異なる病態に、異なる武器をどう組み合わせるかの時代である。ウイルスや細菌という「生きた薬」を社会にどう実装するかは、日本の医療技術力だけでなく、制度設計力そのものを映し出す。アマガエルの腹の中に眠っていた細菌は、単なる生物学的発見ではない。それは、日本が再び「発見するだけの国」で終わるのか、それとも治療を生み出す国へ踏み出せるのかを問いかけている。
実は、細菌をがん治療に使う試みは150年以上前にまで遡る。だが近年、腫瘍にだけ集まる天然細菌の存在が相次いで明らかになり、研究は机上の空論から実装フェーズへと移りつつある。海洋細菌フォトバクテリウム・アングスタムに続く今回の成果は、日本の生物多様性が医療資源として持つ潜在力を端的に示す象徴的な例だ。
もっとも、ここからが日本の「いつもの問題」である。世界級の発見が、そのまま世界を変える治療法になるとは限らない。日本は基礎研究では強いが、臨床応用へ橋渡しするトランスレーショナル研究が決定的に弱い。生きた細菌を医薬品として扱うには、GMP準拠の製造設備、厳格な毒性試験、環境影響評価、そして規制当局との継続的な対話が不可欠だ。しかし国内には、これらを一貫して担える拠点が限られている。資金調達力も乏しく、数百億円規模の投資が前提となる細菌療法では、研究成果が海外に流出しやすい構造が温存されてきた。
対照的なのが米国である。腫瘍選択性細菌や腫瘍溶解ウイルスの臨床試験はすでに複数進行し、FDAは前例がなくとも科学的合理性があれば早期臨床入りを認める。大学、ベンチャー、投資家が迅速に連携し、「まず試す」文化が根付いている。その結果、「発見は日本、開発と利益は海外」という構図が、何度も繰り返されてきた。
では、今回も同じ道を辿るのか。必ずしも、そうとは言い切れない。アマガエルの腸内細菌は、腫瘍選択性と安全性を兼ね備えた天然細菌であり、過度な遺伝子改変を施さずとも、弱毒化処理によって早期臨床入りが視野に入る。これは、日本が主導権を握れる数少ない条件が揃ったケースでもある。生菌医薬に特化した研究・製造拠点を整備し、PMDAが明確な早期承認ルートを示せば、基礎研究の成果を国内で育てる道は開ける。日米共同で臨床試験を進め、日本は菌株、製造技術、知的財産で主導権を確保する――そんな現実的な戦略も描ける。
がん治療は、もはや万能薬を探す時代ではない。患者ごとに異なる病態に、異なる武器をどう組み合わせるかの時代である。ウイルスや細菌という「生きた薬」を社会にどう実装するかは、日本の医療技術力だけでなく、制度設計力そのものを映し出す。アマガエルの腹の中に眠っていた細菌は、単なる生物学的発見ではない。それは、日本が再び「発見するだけの国」で終わるのか、それとも治療を生み出す国へ踏み出せるのかを問いかけている。
『グッド・ドクター』シーズン6 ― 2026年01月12日
2年ぶりにアメリカ版『グッド・ドクター 名医の条件』シーズン6(全22話)を一気見した。このシーズンはシリーズ全体における決定的な「転換点」となっている。本国では2024年にシーズン7をもって惜しまれつつ完結したが、日本ではいまだ最新シーズンの見放題配信を待つファンも少なくないだろう。医療技術の進化に加え、友人や家族との関係性を丹念に描き込み、毎話スリリングなクリフハンガーで締めくくる構成は、一度再生を始めれば止まらない中毒性を持つ。シーズン6は、その中毒性が物語的必然として最も強かった章である。
物語は、シーズン5を震撼させた刺傷事件の直後から幕を開ける。病院封鎖という極限状況のなか、ショーンは医師として、そして一人の人間として深いトラウマと向き合うことを余儀なくされる。本シーズンで彼は新レジデントを指導する立場となり、ついに「教えられる側」から「判断を背負う側」へと移行する。同時にリアとの新婚生活では、理念や愛情だけでは乗り越えられない現実的な摩擦が浮き彫りになり、本作は医療ドラマの枠を超えて、一組の夫婦が成熟していく過程を冷静に描き始める。
最大の緊張点となるのが、リムの下半身麻痺をめぐる確執だ。自らの判断を悔い続けるショーンと、その判断に疑念を向けるリム。ここでは「正しかったか否か」という単純な二分法は成立しない。医療的決断の重さと、その余波として生じる人間関係の亀裂が容赦なく描かれ、シリーズ屈指の心理的緊張感を生んでいる。フレディ・ハイモアは、声を荒げることなく、指先の震えや視線の揺らぎだけでショーンの動揺を表現し、この役における演技の到達点を更新した。
2013年の韓国版を原案とする本作だが、もはや両者を単純に「リメイク」という言葉で括ることはできない。全20話で完結する韓国版は、主人公パク・シオンの純粋さと天才性を軸に、職場での受容や恋愛成就を濃密に描いたヒューマンドラマである。一方、全126話という長大なスケールで再構築されたアメリカ版は、医療格差や自閉症スペクトラムに対する多様性への問いを内包する“医療プロシージャル”へと進化した。『Hawaii Five-0』のダニエル・デイ・キムが製作を主導し、『Dr.HOUSE』のデイヴィッド・ショアによる脚本が、情緒性を保ちながらもテンポと重層性を兼ね備えた秀逸なドラマ構造を成立させている。
主人公の立ち位置の違いも象徴的だ。実習生から始まる韓国版に対し、アメリカ版のショーンは当初から正式なレジデントとして、制度的制約と責任の渦中に置かれる。パートナー像も、同業者として支える韓国版とは異なり、リアは非医療従事者としてショーンの人生全体を引き受ける存在だ。そしてアメリカ版の核を成すのが、父代わりであるグラスマンの存在である。友人でも上司でもないこの特異な関係性が、ショーンの成長と失敗、そして和解を長期にわたって支え続けてきた。
医師として、夫として、やがて父として――多層的な関係性のなかで成熟していくショーンの姿は、短期シリーズでは決して描けなかった軌跡だ。シーズン6は、その成熟が最も痛みを伴う形で結実した章であり、同時にシリーズ全体の倫理的重心が定まった瞬間でもある。完結編となるシーズン7は、その答え合わせに過ぎないのか、それとも新たな問いを突きつけるのか。いまはただ、その配信を静かに待ちたい。
物語は、シーズン5を震撼させた刺傷事件の直後から幕を開ける。病院封鎖という極限状況のなか、ショーンは医師として、そして一人の人間として深いトラウマと向き合うことを余儀なくされる。本シーズンで彼は新レジデントを指導する立場となり、ついに「教えられる側」から「判断を背負う側」へと移行する。同時にリアとの新婚生活では、理念や愛情だけでは乗り越えられない現実的な摩擦が浮き彫りになり、本作は医療ドラマの枠を超えて、一組の夫婦が成熟していく過程を冷静に描き始める。
最大の緊張点となるのが、リムの下半身麻痺をめぐる確執だ。自らの判断を悔い続けるショーンと、その判断に疑念を向けるリム。ここでは「正しかったか否か」という単純な二分法は成立しない。医療的決断の重さと、その余波として生じる人間関係の亀裂が容赦なく描かれ、シリーズ屈指の心理的緊張感を生んでいる。フレディ・ハイモアは、声を荒げることなく、指先の震えや視線の揺らぎだけでショーンの動揺を表現し、この役における演技の到達点を更新した。
2013年の韓国版を原案とする本作だが、もはや両者を単純に「リメイク」という言葉で括ることはできない。全20話で完結する韓国版は、主人公パク・シオンの純粋さと天才性を軸に、職場での受容や恋愛成就を濃密に描いたヒューマンドラマである。一方、全126話という長大なスケールで再構築されたアメリカ版は、医療格差や自閉症スペクトラムに対する多様性への問いを内包する“医療プロシージャル”へと進化した。『Hawaii Five-0』のダニエル・デイ・キムが製作を主導し、『Dr.HOUSE』のデイヴィッド・ショアによる脚本が、情緒性を保ちながらもテンポと重層性を兼ね備えた秀逸なドラマ構造を成立させている。
主人公の立ち位置の違いも象徴的だ。実習生から始まる韓国版に対し、アメリカ版のショーンは当初から正式なレジデントとして、制度的制約と責任の渦中に置かれる。パートナー像も、同業者として支える韓国版とは異なり、リアは非医療従事者としてショーンの人生全体を引き受ける存在だ。そしてアメリカ版の核を成すのが、父代わりであるグラスマンの存在である。友人でも上司でもないこの特異な関係性が、ショーンの成長と失敗、そして和解を長期にわたって支え続けてきた。
医師として、夫として、やがて父として――多層的な関係性のなかで成熟していくショーンの姿は、短期シリーズでは決して描けなかった軌跡だ。シーズン6は、その成熟が最も痛みを伴う形で結実した章であり、同時にシリーズ全体の倫理的重心が定まった瞬間でもある。完結編となるシーズン7は、その答え合わせに過ぎないのか、それとも新たな問いを突きつけるのか。いまはただ、その配信を静かに待ちたい。
探査船レアアース求め出航 ― 2026年01月13日
地球深部探査船「ちきゅう」が、清水港を静かに離れた。向かう先は南鳥島沖、日本の排他的経済水域(EEZ)。水深6000メートルの海底に眠る「レアアース泥」を試験的に掘削するためだ。日本が十年以上温めてきた“切り札”が、ついに実海域で試される段階に入った。今回検証されるのは、船上から海水を送り込み、泥を流動化させて吸い上げる新方式である。仕組み自体は単純だが、世界最深クラスの水深で安定運用できる国は存在しない。成功すれば、日本は「深海採鉱」という未踏領域で、事実上の先行者となる。
南鳥島のレアアース泥は、世界的に見ても突出した高品位を誇る。1トンの泥に含まれるレアアース酸化物は1〜4キロ。濃集層では4キロ超も確認されている。しかし、現実は厳しい。水深6000メートル級での採泥コストは1トンあたり3〜6万円、精製まで含めれば7〜12万円に達する。NdPr酸化物の市況価格を基準にすれば、泥1トンの資源価値は1.2〜4.7万円。つまり、濃集層をピンポイントで狙えなければ、赤字は避けられない。
それでも日本がこの計画を進める理由は中国である。中国は世界のレアアース生産・精製の7〜9割を握り、供給を外交カードとして使ってきた。近年も米中対立の激化を背景に、輸出管理強化や供給制限をちらつかせている。半導体、EV、風力発電、さらには兵器システムまで、現代国家の中枢はレアアース抜きでは成り立たない。その供給を他国の判断に委ね続けること自体が、戦略的リスクなのである。
南鳥島プロジェクトの本質は、採算性ではない。これは民間企業が単独で挑める事業ではない。初期投資は巨額、技術リスクは世界最高水準、立ち上がりの数年間は赤字が確実だ。だからこそ、国が基盤技術と初期投資を引き受け、民間が運用と効率化を担う――航空・宇宙産業と同じ二段構えが不可欠となる。
ただし、ここで一つ、決定的な教訓がある。国産旅客機計画(MRJ/SpaceJet)の撤退である。MRJでは、「国産初のジェット旅客機」という政治的看板が先行し、技術と市場の判断に過度な介入が重なった。仕様変更は迷走し、認証戦略は後手に回り、現場の技術者は疲弊した。結果として、商業機に不可欠な顧客信頼を失い、撤退という最悪の結末を迎えた。これは、政治と技術現場の距離感を誤った国家プロジェクトが、いかに脆いかを示す典型例だ。
南鳥島のレアアース泥で、同じ過ちを繰り返してはならない。国家戦略として支える覚悟は必要だが、現場の技術判断と失敗を許容する余地を奪ってはならない。問われているのは、「儲かるかどうか」ではなく、「採算が取れる日まで、国家として耐えられるか」である。
中国依存を減らし、海洋国家としての主権と技術力を積み上げる。その価値は、単年度の収支表には載らない。世界最深クラスの採鉱技術を手にするのか。それともまた、看板だけが先行した“宝の持ち腐れ”に終わるのか。南鳥島の海底に眠る泥は、日本の覚悟そのものを静かに問いかけている。
南鳥島のレアアース泥は、世界的に見ても突出した高品位を誇る。1トンの泥に含まれるレアアース酸化物は1〜4キロ。濃集層では4キロ超も確認されている。しかし、現実は厳しい。水深6000メートル級での採泥コストは1トンあたり3〜6万円、精製まで含めれば7〜12万円に達する。NdPr酸化物の市況価格を基準にすれば、泥1トンの資源価値は1.2〜4.7万円。つまり、濃集層をピンポイントで狙えなければ、赤字は避けられない。
それでも日本がこの計画を進める理由は中国である。中国は世界のレアアース生産・精製の7〜9割を握り、供給を外交カードとして使ってきた。近年も米中対立の激化を背景に、輸出管理強化や供給制限をちらつかせている。半導体、EV、風力発電、さらには兵器システムまで、現代国家の中枢はレアアース抜きでは成り立たない。その供給を他国の判断に委ね続けること自体が、戦略的リスクなのである。
南鳥島プロジェクトの本質は、採算性ではない。これは民間企業が単独で挑める事業ではない。初期投資は巨額、技術リスクは世界最高水準、立ち上がりの数年間は赤字が確実だ。だからこそ、国が基盤技術と初期投資を引き受け、民間が運用と効率化を担う――航空・宇宙産業と同じ二段構えが不可欠となる。
ただし、ここで一つ、決定的な教訓がある。国産旅客機計画(MRJ/SpaceJet)の撤退である。MRJでは、「国産初のジェット旅客機」という政治的看板が先行し、技術と市場の判断に過度な介入が重なった。仕様変更は迷走し、認証戦略は後手に回り、現場の技術者は疲弊した。結果として、商業機に不可欠な顧客信頼を失い、撤退という最悪の結末を迎えた。これは、政治と技術現場の距離感を誤った国家プロジェクトが、いかに脆いかを示す典型例だ。
南鳥島のレアアース泥で、同じ過ちを繰り返してはならない。国家戦略として支える覚悟は必要だが、現場の技術判断と失敗を許容する余地を奪ってはならない。問われているのは、「儲かるかどうか」ではなく、「採算が取れる日まで、国家として耐えられるか」である。
中国依存を減らし、海洋国家としての主権と技術力を積み上げる。その価値は、単年度の収支表には載らない。世界最深クラスの採鉱技術を手にするのか。それともまた、看板だけが先行した“宝の持ち腐れ”に終わるのか。南鳥島の海底に眠る泥は、日本の覚悟そのものを静かに問いかけている。
「推しだから許す」前橋市長選 ― 2026年01月14日
前橋市長選は、不祥事を起こした政治家が再選されたという一点だけでも異例だが、その内側には、地方政治の現在地を象徴する二つの相反する力が同時に働いていた。既婚の市職員とのホテル面会問題で辞職した前市長・小川晶氏は、出直し選挙で再び市長の座に返り咲いた。説明は一貫せず、事実関係についても疑念は残ったままだ。それでも得票率は前回と大きく変わらなかった。しかし、市民が「騙されていた」わけではないという点である。多くの有権者は、小川氏の説明に嘘やごまかしが含まれている可能性を理解していた。SNSでも街頭でも、「本当のことは言っていないだろう」という認識は広く共有されていた。それでも票は入った。この選挙は、納得の結果ではない。承知のうえでの選択だった。
この構図は、兵庫県知事選で斎藤元彦氏が勝利した際の空気とよく似ている。兵庫では、斎藤氏への批判が次第に人格攻撃へと傾き、叩いている側がメディア、県議会、既存政治勢力であることが可視化された。その瞬間、有権者の関心は「何が問題か」から「誰が叩いているのか」へと移った。問題の中身よりも、攻撃の構図そのものへの反発が勝ったのである。
前橋でも同じことが起きた。不祥事後、小川氏を激しく追及したのは、地元メディア、県知事、そして自民党系を中心とする政治勢力だった。倫理を掲げた追及であっても、それが権力側が一斉に叩いている構図に見えた瞬間、市民の感情は反転する。「市長は嘘をついているかもしれない。だが、叩いているのがこの顔ぶれなら話は別だ」。ラブホ問題の是非よりも、メディアと県知事、自民党が一体となって市役所を握り直そうとする姿への拒否感が、投票行動を方向づけた。これは道徳の選択ではなく、力関係への警戒である。
しかし、ここで見落としてはならないのが、もう一つの支持層の存在だ。反権力的な計算とは別に、小川氏をアイドルのように無条件で支持する層が、確実に存在していた。彼らにとって重要なのは、説明の整合性でも倫理でもない。「市長が好きかどうか」だけである。「叩かれていて可哀想」「人柄はいい」「ちいかわ市長だから応援したい」。こうした感情は、批判をすべてアンチの攻撃として処理し、事実確認や検証そのものを拒む。嘘の指摘は足の引っ張りに、説明不足は重箱の隅にすり替えられる。
この妄信的支持は、反権力の投票とは似て非なるものだ。前者が「より嫌な未来を避けるための消極的選択」だとすれば、後者は政治を推し活に変えてしまう危うい態度である。小川氏の親しみやすいキャラクターや、給食費無償化といった分かりやすい政策は、この妄信を強化する装置として機能した。政策は評価ではなく応援材料となり、疑惑は「それでも応援する理由」を固める燃料に変わる。
だが、政治において最も危険なのは、嘘を許すことそのものより、嘘を問わなくなることだ。今回の再選は白紙委任ではない。得票率が伸びていないことが示す通り、多くの市民は条件付きで市長を選んだにすぎない。だが妄信的支持層は、その条件を外そうとする。「勝ったのだから正しかった」「もう蒸し返すな」という圧力が、次の不祥事の芽を摘み取る。
前橋市政はいま二つの視線にさらされている。一つは、嘘を承知で選んだという自覚を持つ冷めた視線。もう一つは、推しを守るという熱に浮かされた視線だ。前者が機能すれば市政は辛うじて緊張感を保つ。後者が支配すれば政治は劣化する。兵庫と前橋が同時に示したのは、権力に反発する民主主義の健全さと、妄信が民主主義を壊す危うさが、同じ選挙に同居しうるという現実である。嘘を見抜いたうえで選ぶことと、嘘をなかったことにすることは、似ているようで決定的に違う。前橋が次に試されるのは、市長ではなく市民自身だ。
この構図は、兵庫県知事選で斎藤元彦氏が勝利した際の空気とよく似ている。兵庫では、斎藤氏への批判が次第に人格攻撃へと傾き、叩いている側がメディア、県議会、既存政治勢力であることが可視化された。その瞬間、有権者の関心は「何が問題か」から「誰が叩いているのか」へと移った。問題の中身よりも、攻撃の構図そのものへの反発が勝ったのである。
前橋でも同じことが起きた。不祥事後、小川氏を激しく追及したのは、地元メディア、県知事、そして自民党系を中心とする政治勢力だった。倫理を掲げた追及であっても、それが権力側が一斉に叩いている構図に見えた瞬間、市民の感情は反転する。「市長は嘘をついているかもしれない。だが、叩いているのがこの顔ぶれなら話は別だ」。ラブホ問題の是非よりも、メディアと県知事、自民党が一体となって市役所を握り直そうとする姿への拒否感が、投票行動を方向づけた。これは道徳の選択ではなく、力関係への警戒である。
しかし、ここで見落としてはならないのが、もう一つの支持層の存在だ。反権力的な計算とは別に、小川氏をアイドルのように無条件で支持する層が、確実に存在していた。彼らにとって重要なのは、説明の整合性でも倫理でもない。「市長が好きかどうか」だけである。「叩かれていて可哀想」「人柄はいい」「ちいかわ市長だから応援したい」。こうした感情は、批判をすべてアンチの攻撃として処理し、事実確認や検証そのものを拒む。嘘の指摘は足の引っ張りに、説明不足は重箱の隅にすり替えられる。
この妄信的支持は、反権力の投票とは似て非なるものだ。前者が「より嫌な未来を避けるための消極的選択」だとすれば、後者は政治を推し活に変えてしまう危うい態度である。小川氏の親しみやすいキャラクターや、給食費無償化といった分かりやすい政策は、この妄信を強化する装置として機能した。政策は評価ではなく応援材料となり、疑惑は「それでも応援する理由」を固める燃料に変わる。
だが、政治において最も危険なのは、嘘を許すことそのものより、嘘を問わなくなることだ。今回の再選は白紙委任ではない。得票率が伸びていないことが示す通り、多くの市民は条件付きで市長を選んだにすぎない。だが妄信的支持層は、その条件を外そうとする。「勝ったのだから正しかった」「もう蒸し返すな」という圧力が、次の不祥事の芽を摘み取る。
前橋市政はいま二つの視線にさらされている。一つは、嘘を承知で選んだという自覚を持つ冷めた視線。もう一つは、推しを守るという熱に浮かされた視線だ。前者が機能すれば市政は辛うじて緊張感を保つ。後者が支配すれば政治は劣化する。兵庫と前橋が同時に示したのは、権力に反発する民主主義の健全さと、妄信が民主主義を壊す危うさが、同じ選挙に同居しうるという現実である。嘘を見抜いたうえで選ぶことと、嘘をなかったことにすることは、似ているようで決定的に違う。前橋が次に試されるのは、市長ではなく市民自身だ。
「SNS告発」に追い込まれる学校 ― 2026年01月15日
学校で起きた暴行が、教師でも校長でもなく、SNSによって発覚する。この異様な光景が、いまや珍しくなくなった。栃木県と大分県の学校で、生徒が別の生徒に暴行する様子を撮影した動画がSNSで拡散した問題を受け、文部科学省は教育長らを集めた緊急会議を開き、「いじめの見過ごしがなかったかの点検」や「情報モラル教育の徹底」「警察との連携強化」を呼びかけた。だが、こうした対応を聞くたびに思う。論点がズレてはいないか。問題の本質は、SNS時代のトラブルでも、生徒の倫理観の低下でもない。むしろ、学校という組織が長年抱えてきた「内部告発の仕組み不在」こそが、暴行の黙殺とSNS拡散という両極端な事態を同時に生み出している。
今回の動画の経路は象徴的だ。栃木県のケースは学校不祥事を扱う“告発系アカウント”に投稿され、大分県ではSNS拡散によって半年も経て学校が事態を把握した。ここから読み取れるのは、単なる悪意の晒しではない。「学校に言っても動かない」という現場の諦念が、外部への告発を選ばせた可能性である。もちろん、告発目的であっても被害者の映像が拡散されれば、プライバシー侵害や二次被害の危険は避けられない。だが、そこにこそ学校制度の致命的な矛盾がある。校内暴力やいじめは何十年も前から繰り返されてきたにもかかわらず、学校は「体面」や「評判」を優先し、問題を矮小化し、時に黙殺してきた。教員の多忙と専門性不足、閉鎖的な人間関係、第三者が介入しづらい制度設計、こうした条件が重なり、暴力は見えなくされ、声は封じられてきた。
その結果、生徒にとってSNSが唯一の告発ルートになってしまった。校内に安全で信頼できる通報制度が存在しない以上、正当な問題提起であっても、ネットに投げれば「晒し」と受け取られ、被害者も加害者も、そして学校自身も傷つく。今回の二つの事例は、まさにこの構造的欠陥が表面化したものだ。
この悪循環を断ち切るために必要なのは、精神論でもモラル教育の唱和でもない。学校に実効性ある内部告発制度を制度として組み込むことである。生徒や教職員が匿名で安全に通報でき、暴行動画などの証拠は第三者委員会が適切に保全する。委員会には弁護士や司法関係者を参加させ、中立性と専門性を担保する。制度内では身元確認を行い虚偽通報を抑止しつつ、外部には匿名性を守る。さらに、学校側や委員会が隠蔽や不正を行った場合に限り、外部発信を「正当な公益通報」として保護すれば、SNSは“暴走する告発装置”ではなく最後の安全弁に戻る。
学校は「秩序」を守るという名目で、子どもたちに沈黙を強いてきたのではないか。その結果として、最も危険な告発手段――SNSでの拡散――を子どもたちに選ばせてしまったのではないか。栃木と大分で拡散した暴行動画は、制度改革を先送りにしてきた大人たちに、この問いを突きつけている。それにもかかわらず、制度そのものの欠陥を議論の俎上に載せようとしない文部科学省の姿勢は、あまりに心許ない。
今回の動画の経路は象徴的だ。栃木県のケースは学校不祥事を扱う“告発系アカウント”に投稿され、大分県ではSNS拡散によって半年も経て学校が事態を把握した。ここから読み取れるのは、単なる悪意の晒しではない。「学校に言っても動かない」という現場の諦念が、外部への告発を選ばせた可能性である。もちろん、告発目的であっても被害者の映像が拡散されれば、プライバシー侵害や二次被害の危険は避けられない。だが、そこにこそ学校制度の致命的な矛盾がある。校内暴力やいじめは何十年も前から繰り返されてきたにもかかわらず、学校は「体面」や「評判」を優先し、問題を矮小化し、時に黙殺してきた。教員の多忙と専門性不足、閉鎖的な人間関係、第三者が介入しづらい制度設計、こうした条件が重なり、暴力は見えなくされ、声は封じられてきた。
その結果、生徒にとってSNSが唯一の告発ルートになってしまった。校内に安全で信頼できる通報制度が存在しない以上、正当な問題提起であっても、ネットに投げれば「晒し」と受け取られ、被害者も加害者も、そして学校自身も傷つく。今回の二つの事例は、まさにこの構造的欠陥が表面化したものだ。
この悪循環を断ち切るために必要なのは、精神論でもモラル教育の唱和でもない。学校に実効性ある内部告発制度を制度として組み込むことである。生徒や教職員が匿名で安全に通報でき、暴行動画などの証拠は第三者委員会が適切に保全する。委員会には弁護士や司法関係者を参加させ、中立性と専門性を担保する。制度内では身元確認を行い虚偽通報を抑止しつつ、外部には匿名性を守る。さらに、学校側や委員会が隠蔽や不正を行った場合に限り、外部発信を「正当な公益通報」として保護すれば、SNSは“暴走する告発装置”ではなく最後の安全弁に戻る。
学校は「秩序」を守るという名目で、子どもたちに沈黙を強いてきたのではないか。その結果として、最も危険な告発手段――SNSでの拡散――を子どもたちに選ばせてしまったのではないか。栃木と大分で拡散した暴行動画は、制度改革を先送りにしてきた大人たちに、この問いを突きつけている。それにもかかわらず、制度そのものの欠陥を議論の俎上に載せようとしない文部科学省の姿勢は、あまりに心許ない。
ようやく観た 映画『国宝』 ― 2026年01月16日
近頃めっきり「観たい映画」が見当たらず、ロングラン上映が続く『国宝』をようやく選んだ。3時間近い上映時間の長さに、正直なところ生理現象を気にして二の足を踏んでいたが、覚悟を決めて劇場へ足を運んだ。結論から言えば、本作がなぜこれほどの社会現象となったのか、その理由がしっかり腑に落ちる体験となった。『国宝』は、吉田修一が歌舞伎の裏方として得た経験をもとに描いた原作を、李相日監督が50年にわたる一代記として映画化した作品だ。公開後、邦画実写のひとつの到達点と言われるほど記録を更新し続けている。伝統芸能という、ともすれば敷居の高いテーマを扱いながら、これほど広い層の観客を惹きつけた例は極めて稀だろう。
本作の成功を支えた大きな要因は、映画音楽と古典音曲の絶妙なバランスにある。原摩利彦による劇伴は、歌舞伎特有の「間」を大切にしながら、ストリングスの柔らかな響きで観客の感情をそっと導いてくれる。もし音楽が純粋な歌舞伎音曲だけで構成されていたなら、作品はよりストイックで、どこか近寄りがたいものになっていたはずだ。音楽が一種の「通訳」として機能したことで、歌舞伎に馴染みのない観客にも、登場人物たちの心の揺れがまっすぐ届いている。
一方で、映画の構造にははっきりとした光と影がある。舞台シーンの完成度は圧倒的だ。役者の所作、音楽、張り詰めた緊張感が一体となり、観る者の集中力を一気に引き上げる。しかしその反動で、舞台外の日常描写(ヤクザのカチコミや観客に絡まれる場面など)は、相対的に少し間延びして感じられた。長い原作を175分に凝縮した結果、どうしても説明的なエピソードが増え、映画としての勢いが削がれてしまう箇所があるのは否めない。舞台表現が突出しているからこそ、それ以外の場面の平板さが目立ってしまう構造なのだ。
役者の「言葉」も、没入感を左右する興味深い要素だった。主演の吉沢亮の関西弁は、相当な訓練を感じさせる自然さで、物語の世界にうまく溶け込んでいる。一方で、渡辺謙や横浜流星の台詞にふと標準語のアクセントが混じると、関西出身の人間としては少し引っかかりを覚えてしまう。さらに、春江役の高畑充希は、自身が関西ネイティブであるゆえの流暢さが、かえって劇中のバランスを揺らしているようにも見えた。長崎から来た喜久雄が時間をかけて関西に染まっていくのに対し、成人してから関西へ来たはずの春江が最初から完璧な関西弁を話す様は、役柄の背景よりも演者本人の素顔を連想させてしまうからだ。
劇中劇として挿入される『曽根崎心中』は、物語を象徴する見事な装置だ。春江が俊介と共に舞台を去る選択は、古典の悲劇をなぞると同時に、喜久雄を芸の道で大成させるための、彼女なりの献身とも受け取れる。こうした多義的な解釈を観客に委ねる余白がある点に、この作品の懐の深さを感じた。
総じて『国宝』は、伝統芸能の映画化という難題を、音楽・演技・構成の力で乗り越えた意欲作といえる。細かな課題はあるものの、その音楽的な美しさと解釈の奥行きこそが、歴史的なヒットを支えた最大の理由なのだろう。
本作の成功を支えた大きな要因は、映画音楽と古典音曲の絶妙なバランスにある。原摩利彦による劇伴は、歌舞伎特有の「間」を大切にしながら、ストリングスの柔らかな響きで観客の感情をそっと導いてくれる。もし音楽が純粋な歌舞伎音曲だけで構成されていたなら、作品はよりストイックで、どこか近寄りがたいものになっていたはずだ。音楽が一種の「通訳」として機能したことで、歌舞伎に馴染みのない観客にも、登場人物たちの心の揺れがまっすぐ届いている。
一方で、映画の構造にははっきりとした光と影がある。舞台シーンの完成度は圧倒的だ。役者の所作、音楽、張り詰めた緊張感が一体となり、観る者の集中力を一気に引き上げる。しかしその反動で、舞台外の日常描写(ヤクザのカチコミや観客に絡まれる場面など)は、相対的に少し間延びして感じられた。長い原作を175分に凝縮した結果、どうしても説明的なエピソードが増え、映画としての勢いが削がれてしまう箇所があるのは否めない。舞台表現が突出しているからこそ、それ以外の場面の平板さが目立ってしまう構造なのだ。
役者の「言葉」も、没入感を左右する興味深い要素だった。主演の吉沢亮の関西弁は、相当な訓練を感じさせる自然さで、物語の世界にうまく溶け込んでいる。一方で、渡辺謙や横浜流星の台詞にふと標準語のアクセントが混じると、関西出身の人間としては少し引っかかりを覚えてしまう。さらに、春江役の高畑充希は、自身が関西ネイティブであるゆえの流暢さが、かえって劇中のバランスを揺らしているようにも見えた。長崎から来た喜久雄が時間をかけて関西に染まっていくのに対し、成人してから関西へ来たはずの春江が最初から完璧な関西弁を話す様は、役柄の背景よりも演者本人の素顔を連想させてしまうからだ。
劇中劇として挿入される『曽根崎心中』は、物語を象徴する見事な装置だ。春江が俊介と共に舞台を去る選択は、古典の悲劇をなぞると同時に、喜久雄を芸の道で大成させるための、彼女なりの献身とも受け取れる。こうした多義的な解釈を観客に委ねる余白がある点に、この作品の懐の深さを感じた。
総じて『国宝』は、伝統芸能の映画化という難題を、音楽・演技・構成の力で乗り越えた意欲作といえる。細かな課題はあるものの、その音楽的な美しさと解釈の奥行きこそが、歴史的なヒットを支えた最大の理由なのだろう。
大阪出直しダブル選挙 ― 2026年01月17日
総選挙と同日に実施される可能性がある大阪府知事・大阪市長の出直しダブル選挙をめぐり、自民党大阪府連は警戒感を強めている。日本維新の会が、選挙を通じて大阪都構想の是非を改めて争点化しようとしていることに対し、自民側は「国の制度として議論される副首都構想と、大阪市を廃止・再編する都構想は本来別次元の問題だ」と指摘する。そのうえで、過去2度にわたり住民投票で否決された経緯を踏まえ、「ダブル選挙という形で都構想の民意を改めて問うのは時期尚早だ」と牽制している。
もっとも、この「時期尚早」という言葉ほど、政治の世界で都合よく使われる表現もない。本当に議論の成熟を欠いているから早すぎるのか。それとも、今このタイミングで争点化されること自体が不都合なだけなのか。そこを意図的に曖昧にしたままでは、賛否の前提となる論点整理そのものが置き去りにされ、議論は容易に本質を外れてしまう。
そもそも今回の争点は、都構想という制度の細部を市民にもう一度“理解させる”ことではない。大阪ではすでに二度、住民投票という極めて重いプロセスを通じて賛否が問われ、その過程で制度論は出尽くしている。いま改めて問われているのは、「二度否決され、政治的に区切りをつけたテーマに、それでも再挑戦する覚悟があるのか」という政治の姿勢そのものだ。今回の選挙で市民が判断するのは、制度の設計図ではなく、再挑戦を引き受ける政治の腹の据わり方である。
結局のところ、副首都を名実ともに機能させようとすれば、現行の自治体制度の延長線上だけでは限界がある。府と市が並立し、それぞれが独立した権限を持つ現行制度のままでは、広域行政の意思決定は分散し、東京に匹敵する中枢機能を担う都市運営は現実的とは言い難い。その限界をどう突破するかという問題意識の中で積み上げられてきたのが、大阪都構想で議論された行政機構改革の考え方だ。基礎自治体の役割を明確にし、広域政策や都市戦略を一元的に担う――この発想は、住民投票で否決されたからといって無意味になったわけではない。副首都を本気で掲げる以上、避けて通れない論点だ。
副首都制度は、その入口としての枠組みにすぎない。実際に機能する副首都をつくるには、都構想で議論されたような権限整理や行政再編を、何らかの形で取り込まざるを得ない。制度としては別物でも、現実の都市運営という観点では、副首都と都構想は切り離せない関係にある。
この延長線上にあるのが、吉村洋文知事が繰り返し語ってきた「道州制まで見通した自治体再編論」だ。都構想はゴールではなく通過点にすぎず、最終的には国・道州・基礎自治体という三層構造へ移行し、中央集権型の国家運営から脱却する――この構想は、短期的な選挙対策というより、日本の統治機構そのものを問い直す長期ビジョンに近い。
この視点に立てば、「副首都制度と都構想は別だから、同時に問うのはおかしい」という自民府連の主張が出てくるのは、政党としての立場を考えれば理解できなくもない。だが、問題は、改革を旗印にしてきた維新の内部からも、同じ言葉をなぞるような異論や難癖が出ている点だ。制度の方向性を共有してきたはずの議員が、「時期尚早」という曖昧な言葉に逃げ込む姿は、率直に言って情けない。
住民投票には制度設計、条例整備、周知期間といった長い準備が必要で、最低でも1年から1年半はかかる。今回のダブル選挙は制度の是非を即断させる場ではなく、「再挑戦に踏み出すかどうか」を市民に問うための入口にすぎない。その前提を理解しながら腰が引けるのだとすれば、それは制度論ではなく、選挙日程への配慮にすぎない。
確かに、議員にとってダブル選挙は厄介だ。総選挙が迫れば地元活動は圧迫され、メディアの注目も首長選に奪われる。しかし、自治体再編や道州制は、目先の選挙事情とは別の時間軸で考えるべきテーマである。東京一極集中を是正し、複数の極を持つ国へと転換するには、現行制度のままでは限界がある。
ダブル選挙が突きつけているのは、制度の是非以上に、「この国の統治構造を変える覚悟があるのか」という問いだ。反対する自由はある。しかし、改革を掲げてきた側が曖昧な言葉で議論から退くなら、それは有権者への裏切りに近い。大阪で問われているのは、誰が本気で未来の構造改革に向き合うのか、その覚悟が問われている。
もっとも、この「時期尚早」という言葉ほど、政治の世界で都合よく使われる表現もない。本当に議論の成熟を欠いているから早すぎるのか。それとも、今このタイミングで争点化されること自体が不都合なだけなのか。そこを意図的に曖昧にしたままでは、賛否の前提となる論点整理そのものが置き去りにされ、議論は容易に本質を外れてしまう。
そもそも今回の争点は、都構想という制度の細部を市民にもう一度“理解させる”ことではない。大阪ではすでに二度、住民投票という極めて重いプロセスを通じて賛否が問われ、その過程で制度論は出尽くしている。いま改めて問われているのは、「二度否決され、政治的に区切りをつけたテーマに、それでも再挑戦する覚悟があるのか」という政治の姿勢そのものだ。今回の選挙で市民が判断するのは、制度の設計図ではなく、再挑戦を引き受ける政治の腹の据わり方である。
結局のところ、副首都を名実ともに機能させようとすれば、現行の自治体制度の延長線上だけでは限界がある。府と市が並立し、それぞれが独立した権限を持つ現行制度のままでは、広域行政の意思決定は分散し、東京に匹敵する中枢機能を担う都市運営は現実的とは言い難い。その限界をどう突破するかという問題意識の中で積み上げられてきたのが、大阪都構想で議論された行政機構改革の考え方だ。基礎自治体の役割を明確にし、広域政策や都市戦略を一元的に担う――この発想は、住民投票で否決されたからといって無意味になったわけではない。副首都を本気で掲げる以上、避けて通れない論点だ。
副首都制度は、その入口としての枠組みにすぎない。実際に機能する副首都をつくるには、都構想で議論されたような権限整理や行政再編を、何らかの形で取り込まざるを得ない。制度としては別物でも、現実の都市運営という観点では、副首都と都構想は切り離せない関係にある。
この延長線上にあるのが、吉村洋文知事が繰り返し語ってきた「道州制まで見通した自治体再編論」だ。都構想はゴールではなく通過点にすぎず、最終的には国・道州・基礎自治体という三層構造へ移行し、中央集権型の国家運営から脱却する――この構想は、短期的な選挙対策というより、日本の統治機構そのものを問い直す長期ビジョンに近い。
この視点に立てば、「副首都制度と都構想は別だから、同時に問うのはおかしい」という自民府連の主張が出てくるのは、政党としての立場を考えれば理解できなくもない。だが、問題は、改革を旗印にしてきた維新の内部からも、同じ言葉をなぞるような異論や難癖が出ている点だ。制度の方向性を共有してきたはずの議員が、「時期尚早」という曖昧な言葉に逃げ込む姿は、率直に言って情けない。
住民投票には制度設計、条例整備、周知期間といった長い準備が必要で、最低でも1年から1年半はかかる。今回のダブル選挙は制度の是非を即断させる場ではなく、「再挑戦に踏み出すかどうか」を市民に問うための入口にすぎない。その前提を理解しながら腰が引けるのだとすれば、それは制度論ではなく、選挙日程への配慮にすぎない。
確かに、議員にとってダブル選挙は厄介だ。総選挙が迫れば地元活動は圧迫され、メディアの注目も首長選に奪われる。しかし、自治体再編や道州制は、目先の選挙事情とは別の時間軸で考えるべきテーマである。東京一極集中を是正し、複数の極を持つ国へと転換するには、現行制度のままでは限界がある。
ダブル選挙が突きつけているのは、制度の是非以上に、「この国の統治構造を変える覚悟があるのか」という問いだ。反対する自由はある。しかし、改革を掲げてきた側が曖昧な言葉で議論から退くなら、それは有権者への裏切りに近い。大阪で問われているのは、誰が本気で未来の構造改革に向き合うのか、その覚悟が問われている。
中道改革連合の計算式 ― 2026年01月18日
政界ではしばしば、実体よりも言葉が先行する。「中道改革連合」も、その典型と言ってよい。立憲民主党と公明党が手を組み、高市政権に対抗する――構図だけを見れば分かりやすい。だが、総選挙を数字と制度、そして現場の空気まで含めて検証していくと、この構想は勝利の戦略というより、敗北を先送りするための仮設物に近いことが見えてくる。
まず高市政権下の自民党である。石破政権期に四散した支持層を、「分かりやすい保守」の旗印で一定程度回収しつつあるのは事実だ。参政党に流れていた票は小選挙区では徐々に戻すだろう。一方で、比例区において自民党と書く有権者が急増しているわけではない。結果として、自民は小選挙区で取り戻し、比例では大きく伸びず参院選の参政票がそのまま残って数議席上積むだろう。比例投票先ベースの各種世論調査と青木率を踏まえれば、自民党の議席は、単独過半数233には届き、概ね240台から260前後に収れんする可能性が高い。
問題は、対抗軸とされる中道改革連合だ。立民と公明が組めば票は足し算になる――そうした期待が語られる。たしかに、自民が勝ち、立民が次点につけていた選挙区では、公明票が自民から外れ立民に回れば逆転が起きうる。基礎票を自民5、立民5、公明1とすれば6対5が5対6に転じ、基礎票差が2でも理論上は逆転が成立する。
こうした単純化したモデルを全国に当てはめれば、条件が理想的にそろった場合、最大で数十選挙区規模の逆転が理論上は想定できる。だが、ここには重大な前提抜けがある。共産党との選挙協力が外れる点だ。立民が次点につけていた多くの選挙区は、共産票を含めて初めて「接戦」になっていた。これを差し引けば、逆転の射程に入るのは、多く見積もっても30前後、場合によってはそれ以下にとどまる。式にすれば、
(立民得票+公明由来票)− 共産票 > 自民得票 − 公明由来票
という条件を満たす必要がある。
さらに見落とされがちなのが、公明票の「移動率」である。自公連立時ですら、公明支持層の票が自民候補に100%流れていたわけではない。与党が好調な局面で7割前後、支持率が低迷すれば5割にも届かなかった。まして急造の選挙互助体制において、立民候補に自民時代並みの公明票が安定的に流れると見るのは、現実的とは言い難い。
「半年前まで仏敵としてきた立民を応援し、20数年も連れ添ってきた自民を袖にする。理屈では分かっても、心がついていかない」。学会員の中には、こうした違和感を率直に語る声も少なくない。これは反乱ではない。長年積み重ねてきた価値観が、簡単には上書きできないという、ごく自然な反応である。
過去の投票行動や現場の声を踏まえれば、立民候補に安定的に移動する公明票は、楽観的に見ても過半には届かず、状況次第では3割前後にとどまる可能性が高い。その結果、小選挙区での逆転可能数は当初想定の半分以下に縮む。中道改革連合の成否を左右するのは小選挙区だが、その条件は整っていない。
比例区について立民と公明が現在保有する比例議席は合計でおよそ60台半ばだ。比例投票先ベースの支持率を見る限り、両党が連合を組んだからといって、この総量が増える兆しはなく、現状の支持率ではむしろ減らす方向だ。内部の変動は、公明の現有議席分を確保する約束ならば、元立民議員が割を食うという構図が予想される。
つまり、中道改革連合が議席を伸ばせるかどうかは、比例ではなく小選挙区の競り合いに尽きる。しかし、政権支持率が高止まりし、接戦区そのものが減少する局面では、その勝負どころ自体が限られる。描かれた「逆転の連鎖」は、現実の選挙地図では再現されにくい。
公明党にとって最優先事項は、小選挙区の勝敗以上に比例での現有議席維持だ。これは合理的な判断だが、その分、立民側が小選挙区で大胆に踏み込める余地は狭まる。条件が重なれば、中道連合としての求心力が維持できない130議席台まで後退するシナリオも、確率論としては排除できない。
一方で、静かに存在感を増しているのが国民民主党である。ガソリン減税と所得税減税を掲げ、それを実際に通した点は大きい。比例投票先ベースの支持率は立民に肉薄し、維新を上回る調査もある。この水準が維持され、候補者擁立が進めば、30台半ばの議席規模が視野に入る局面にある。
維新は比例で国民民主への中間層流出が響く一方、大阪の小選挙区を死守し大きくは動かないが、与党内で選挙調整をしないのなら高市人気に何人か跳ね飛ばされる可能性がある。共産党は立民との協力がなく、小選挙区での見せ場は乏しく、比例でも支持層の高齢化とれいわへの流出が進み、数議席規模にとどまる可能性が高い。ただ、中道連合に失望した立民比例票が流れ込み議席数を維持する可能性もゼロではない。
結局、中道改革連合は「再編の結果」ではなく、「再編を先送りするための仮設ステージ」にすぎない。比例は減らし、小選挙区で勝ち切る条件も乏しい。選挙が終われば仮設は撤去され、残るのは次の再編圧力だ。立民にかかる解体圧力、労働界の再編、そして国民民主を軸とした次の勢力配置――本当の勝負は、そこから始まる。
数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも物語のほうである。
まず高市政権下の自民党である。石破政権期に四散した支持層を、「分かりやすい保守」の旗印で一定程度回収しつつあるのは事実だ。参政党に流れていた票は小選挙区では徐々に戻すだろう。一方で、比例区において自民党と書く有権者が急増しているわけではない。結果として、自民は小選挙区で取り戻し、比例では大きく伸びず参院選の参政票がそのまま残って数議席上積むだろう。比例投票先ベースの各種世論調査と青木率を踏まえれば、自民党の議席は、単独過半数233には届き、概ね240台から260前後に収れんする可能性が高い。
問題は、対抗軸とされる中道改革連合だ。立民と公明が組めば票は足し算になる――そうした期待が語られる。たしかに、自民が勝ち、立民が次点につけていた選挙区では、公明票が自民から外れ立民に回れば逆転が起きうる。基礎票を自民5、立民5、公明1とすれば6対5が5対6に転じ、基礎票差が2でも理論上は逆転が成立する。
こうした単純化したモデルを全国に当てはめれば、条件が理想的にそろった場合、最大で数十選挙区規模の逆転が理論上は想定できる。だが、ここには重大な前提抜けがある。共産党との選挙協力が外れる点だ。立民が次点につけていた多くの選挙区は、共産票を含めて初めて「接戦」になっていた。これを差し引けば、逆転の射程に入るのは、多く見積もっても30前後、場合によってはそれ以下にとどまる。式にすれば、
(立民得票+公明由来票)− 共産票 > 自民得票 − 公明由来票
という条件を満たす必要がある。
さらに見落とされがちなのが、公明票の「移動率」である。自公連立時ですら、公明支持層の票が自民候補に100%流れていたわけではない。与党が好調な局面で7割前後、支持率が低迷すれば5割にも届かなかった。まして急造の選挙互助体制において、立民候補に自民時代並みの公明票が安定的に流れると見るのは、現実的とは言い難い。
「半年前まで仏敵としてきた立民を応援し、20数年も連れ添ってきた自民を袖にする。理屈では分かっても、心がついていかない」。学会員の中には、こうした違和感を率直に語る声も少なくない。これは反乱ではない。長年積み重ねてきた価値観が、簡単には上書きできないという、ごく自然な反応である。
過去の投票行動や現場の声を踏まえれば、立民候補に安定的に移動する公明票は、楽観的に見ても過半には届かず、状況次第では3割前後にとどまる可能性が高い。その結果、小選挙区での逆転可能数は当初想定の半分以下に縮む。中道改革連合の成否を左右するのは小選挙区だが、その条件は整っていない。
比例区について立民と公明が現在保有する比例議席は合計でおよそ60台半ばだ。比例投票先ベースの支持率を見る限り、両党が連合を組んだからといって、この総量が増える兆しはなく、現状の支持率ではむしろ減らす方向だ。内部の変動は、公明の現有議席分を確保する約束ならば、元立民議員が割を食うという構図が予想される。
つまり、中道改革連合が議席を伸ばせるかどうかは、比例ではなく小選挙区の競り合いに尽きる。しかし、政権支持率が高止まりし、接戦区そのものが減少する局面では、その勝負どころ自体が限られる。描かれた「逆転の連鎖」は、現実の選挙地図では再現されにくい。
公明党にとって最優先事項は、小選挙区の勝敗以上に比例での現有議席維持だ。これは合理的な判断だが、その分、立民側が小選挙区で大胆に踏み込める余地は狭まる。条件が重なれば、中道連合としての求心力が維持できない130議席台まで後退するシナリオも、確率論としては排除できない。
一方で、静かに存在感を増しているのが国民民主党である。ガソリン減税と所得税減税を掲げ、それを実際に通した点は大きい。比例投票先ベースの支持率は立民に肉薄し、維新を上回る調査もある。この水準が維持され、候補者擁立が進めば、30台半ばの議席規模が視野に入る局面にある。
維新は比例で国民民主への中間層流出が響く一方、大阪の小選挙区を死守し大きくは動かないが、与党内で選挙調整をしないのなら高市人気に何人か跳ね飛ばされる可能性がある。共産党は立民との協力がなく、小選挙区での見せ場は乏しく、比例でも支持層の高齢化とれいわへの流出が進み、数議席規模にとどまる可能性が高い。ただ、中道連合に失望した立民比例票が流れ込み議席数を維持する可能性もゼロではない。
結局、中道改革連合は「再編の結果」ではなく、「再編を先送りするための仮設ステージ」にすぎない。比例は減らし、小選挙区で勝ち切る条件も乏しい。選挙が終われば仮設は撤去され、残るのは次の再編圧力だ。立民にかかる解体圧力、労働界の再編、そして国民民主を軸とした次の勢力配置――本当の勝負は、そこから始まる。
数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも物語のほうである。
グリーンランドは誰が守るのか ― 2026年01月19日
トランプ米大統領は、デンマーク自治領グリーンランドを米国の戦略的管理下に置く構想を本格化させ、反対するデンマークやドイツ、フランスなど欧州8カ国に対し、段階的な高関税を課すと発表した。2月から10%、6月から25%。露骨だが計算された「関税外交」である。トランプ氏は「中国とロシアがグリーンランドを狙っている。デンマークには対処できない。世界の平和がかかっている」と断じ、関税を交渉カードに安全保障最優先の姿勢を隠そうともしない。欧州側は「脅しは受け入れられない」と反発するが、米国は一歩も引かない。
この問題を、トランプ流の乱暴なディールや米欧対立として処理するのは危険だ。グリーンランドは北極圏と北大西洋の結節点に位置し、米国本土に最短距離で迫る戦略拠点である。いわば“北のキューバ”。ここに中ロが浸透すれば、極超音速兵器や原潜によって米国の北側防衛は一気に不安定化する。米国が北で縛られれば、NATO全体は自動的に弱体化し、バルト三国や北欧はロシアの既成事実化に抗えなくなる。グリーンランドの帰趨は、欧州の安全保障そのものを左右する。
にもかかわらず、欧州の議論は驚くほど観念的だ。「独立の権利」や「米国の横暴」が声高に語られる一方で、最も重要な問い――誰が、現実に守るのか――が巧妙に避けられている。デンマークは人口・軍事力ともに限られ、単独でグリーンランドを防衛する能力はない。NATOは合議体であり、危機時の決断は遅れる。この構図は、曖昧な安全保障が侵略を招いたウクライナで、すでに痛いほど示されたはずだ。
さらに見逃されているのが、欧州自身の過去の判断である。2010年代後半、中国が「一帯一路」を掲げて北極圏への関与を強めた時期、デンマークは米国の影響力拡大を警戒するあまり、グリーンランドへの関与を意図的に抑制した。その結果、米欧資本は慎重姿勢に転じ、同時期に積極姿勢を示した中国資本だけが入り込める環境を、欧州自らが作り出した。本土コペンハーゲンであれば拒否したであろう投資を、周縁と見なした地域では容認するという二重基準である。欧州メディアはこの経緯にほとんど触れず、米国批判へと論点をずらすことで、責任の所在を曖昧にしてきた。
議論をさらに歪めているのが、米国管理下に入った場合の現実的な利益が語られない点だ。ハワイやグアムは、米連邦政府から巨額の財政支援を受けており、一人当たりではデンマークがグリーンランドに拠出している支援の約2倍に達する。医療、教育、インフラ、防災、治安――自治体単独では不可能な分野を、米国は制度として支えている。一方、デンマークの補助金は年間約700億円にとどまり、将来投資を賄う余力は乏しい。
結局のところ、グリーンランド問題の本質は理想論ではない。北極圏の安全保障と、その莫大なコストを誰が引き受けるのかという冷酷な現実である。独立論の肥大化や米国批判の過剰は、結果として中ロの戦略的利益を押し広げるだけだ。最終的に判断するのはグリーンランドの市民だが、十分な情報が示されないままの選択は、再び取り返しのつかない結果を招きかねない。トランプの強硬さを笑う前に、欧州が直視すべき問いは、そこにある。
この問題を、トランプ流の乱暴なディールや米欧対立として処理するのは危険だ。グリーンランドは北極圏と北大西洋の結節点に位置し、米国本土に最短距離で迫る戦略拠点である。いわば“北のキューバ”。ここに中ロが浸透すれば、極超音速兵器や原潜によって米国の北側防衛は一気に不安定化する。米国が北で縛られれば、NATO全体は自動的に弱体化し、バルト三国や北欧はロシアの既成事実化に抗えなくなる。グリーンランドの帰趨は、欧州の安全保障そのものを左右する。
にもかかわらず、欧州の議論は驚くほど観念的だ。「独立の権利」や「米国の横暴」が声高に語られる一方で、最も重要な問い――誰が、現実に守るのか――が巧妙に避けられている。デンマークは人口・軍事力ともに限られ、単独でグリーンランドを防衛する能力はない。NATOは合議体であり、危機時の決断は遅れる。この構図は、曖昧な安全保障が侵略を招いたウクライナで、すでに痛いほど示されたはずだ。
さらに見逃されているのが、欧州自身の過去の判断である。2010年代後半、中国が「一帯一路」を掲げて北極圏への関与を強めた時期、デンマークは米国の影響力拡大を警戒するあまり、グリーンランドへの関与を意図的に抑制した。その結果、米欧資本は慎重姿勢に転じ、同時期に積極姿勢を示した中国資本だけが入り込める環境を、欧州自らが作り出した。本土コペンハーゲンであれば拒否したであろう投資を、周縁と見なした地域では容認するという二重基準である。欧州メディアはこの経緯にほとんど触れず、米国批判へと論点をずらすことで、責任の所在を曖昧にしてきた。
議論をさらに歪めているのが、米国管理下に入った場合の現実的な利益が語られない点だ。ハワイやグアムは、米連邦政府から巨額の財政支援を受けており、一人当たりではデンマークがグリーンランドに拠出している支援の約2倍に達する。医療、教育、インフラ、防災、治安――自治体単独では不可能な分野を、米国は制度として支えている。一方、デンマークの補助金は年間約700億円にとどまり、将来投資を賄う余力は乏しい。
結局のところ、グリーンランド問題の本質は理想論ではない。北極圏の安全保障と、その莫大なコストを誰が引き受けるのかという冷酷な現実である。独立論の肥大化や米国批判の過剰は、結果として中ロの戦略的利益を押し広げるだけだ。最終的に判断するのはグリーンランドの市民だが、十分な情報が示されないままの選択は、再び取り返しのつかない結果を招きかねない。トランプの強硬さを笑う前に、欧州が直視すべき問いは、そこにある。
食料品0%のチキンレース ― 2026年01月20日
高市首相が衆院解散に踏み切る構えを見せた瞬間、永田町の空気は一変した。合言葉は「消費税ゼロ」。この言葉ほど、政治家の判断力を一斉に鈍らせる魔法の呪文も珍しい。公明党は立憲民主党と組む新党「中道改革連合」で〈食料品の消費税・恒久ゼロ〉を掲げ、自民党も〈飲食料品0%を2年間限定〉で対抗。立民も「時限ゼロ」から恒久減税へと看板を掛け替え、各党が競うようにゼロを叫び始めた。だが冷静に見れば、その違いは「いつまでゼロにするか」という一点にすぎない。政策論争というより、期間設定をめぐるチキンレースである。そんな中で、かえって際立つのが国民民主党だ。彼らだけが一貫して「消費税5%」を掲げている。ゼロでもなければ、時限でもない。一見地味だが、この数字こそ最も現実的な選択肢ではないのか。
そもそも、食料品だけをゼロにして物価は本当に下がるのか。家計支出に占める食料品の割合は25%前後にすぎず、物価全体を押し下げる力は限定的だ。しかも食料品は価格弾力性が低い。減税しても消費が大きく伸びるわけではない。値札変更を嫌う小売現場、物流費や原材料費の高止まりを考えれば、減税分がそのまま価格に反映される保証はない。低所得層支援としての意味はあっても、物価対策としては「効いた気がする」程度にとどまる。
さらに問題なのが、各党が好む「期間限定減税」である。期限前には駆け込み需要が発生し、価格はむしろ上がる。終了後には反動減が起き、企業は利益確保のため値上げに動く。減税分の転嫁は不完全なまま、値上げだけが残る――そんな最悪の展開すら現実的だ。時限措置は政治的には派手だが、経済的には不安定要因でしかない。
議論を突き詰めれば、結論は単純だ。消費税全体を恒久的に5%へ戻す。それが最も合理的である。消費税はほぼすべての財・サービスにかかるため、CPI全体に直接作用し、物価抑制効果は最大だ。恒久措置なら企業も長期的な価格戦略を描け、減税分は価格に反映されやすい。逆進性の緩和効果も大きく、低所得層から中間層まで幅広く恩恵が及ぶ。ここで、国民民主が掲げる「5%」は、最も筋の通った減税案として浮かび上がる。
財務省は決まって「一度下げたら戻せない」と反対する。だが、その前提自体が誤っている。消費税は景気回復期であっても経済の重しにしかならず、本来、引き上げる必要のある税ではないからだ。1997年、2014年、2019年――消費税率引き上げのたびに、景気は腰折れし、賃金と消費の回復は途中で断ち切られてきた。これは偶然ではない。消費税は家計の可処分所得を直接削り、需要を冷やす性格を持つ。成長を促す局面でこの税を重くすれば、経済が失速するのは当然である。つまり「戻せない」のは制度の問題ではない。経済運営上、引き上げる合理性が乏しいという結論に、過去の経験が繰り返し行き着いているだけの話だ。
景気刺激は消費税減税で行い、財源調整は所得税と法人税で担う。この役割分担を明確にすれば、消費税5%の恒久減税は決して無謀ではない。それでも永田町は、分かりやすい「ゼロ」という言葉にすがり、小手先の時限策で票を取りに行く。だが本当に国民生活に寄り添うのは、派手なゼロではなく、地味だが確実に効く「消費税5%恒久減税」なのかもしれない。政治がその現実に正面から向き合う日は、まだ先のようである。
そもそも、食料品だけをゼロにして物価は本当に下がるのか。家計支出に占める食料品の割合は25%前後にすぎず、物価全体を押し下げる力は限定的だ。しかも食料品は価格弾力性が低い。減税しても消費が大きく伸びるわけではない。値札変更を嫌う小売現場、物流費や原材料費の高止まりを考えれば、減税分がそのまま価格に反映される保証はない。低所得層支援としての意味はあっても、物価対策としては「効いた気がする」程度にとどまる。
さらに問題なのが、各党が好む「期間限定減税」である。期限前には駆け込み需要が発生し、価格はむしろ上がる。終了後には反動減が起き、企業は利益確保のため値上げに動く。減税分の転嫁は不完全なまま、値上げだけが残る――そんな最悪の展開すら現実的だ。時限措置は政治的には派手だが、経済的には不安定要因でしかない。
議論を突き詰めれば、結論は単純だ。消費税全体を恒久的に5%へ戻す。それが最も合理的である。消費税はほぼすべての財・サービスにかかるため、CPI全体に直接作用し、物価抑制効果は最大だ。恒久措置なら企業も長期的な価格戦略を描け、減税分は価格に反映されやすい。逆進性の緩和効果も大きく、低所得層から中間層まで幅広く恩恵が及ぶ。ここで、国民民主が掲げる「5%」は、最も筋の通った減税案として浮かび上がる。
財務省は決まって「一度下げたら戻せない」と反対する。だが、その前提自体が誤っている。消費税は景気回復期であっても経済の重しにしかならず、本来、引き上げる必要のある税ではないからだ。1997年、2014年、2019年――消費税率引き上げのたびに、景気は腰折れし、賃金と消費の回復は途中で断ち切られてきた。これは偶然ではない。消費税は家計の可処分所得を直接削り、需要を冷やす性格を持つ。成長を促す局面でこの税を重くすれば、経済が失速するのは当然である。つまり「戻せない」のは制度の問題ではない。経済運営上、引き上げる合理性が乏しいという結論に、過去の経験が繰り返し行き着いているだけの話だ。
景気刺激は消費税減税で行い、財源調整は所得税と法人税で担う。この役割分担を明確にすれば、消費税5%の恒久減税は決して無謀ではない。それでも永田町は、分かりやすい「ゼロ」という言葉にすがり、小手先の時限策で票を取りに行く。だが本当に国民生活に寄り添うのは、派手なゼロではなく、地味だが確実に効く「消費税5%恒久減税」なのかもしれない。政治がその現実に正面から向き合う日は、まだ先のようである。