ガソリン減税反対の知事 ― 2025年08月06日
ガソリン税の暫定税率を廃止すべきかどうか。政治の季節がくるたびに繰り返されるこの論争が、またぞろ再燃している。与野党協議が本格化する中で、最も神経を尖らせているのは、霞が関でも永田町でもなく、実は地方の知事たちだ。「減税を言うのは簡単。でもそれで財源が減ったら、道路整備も、公共交通も、誰がどうするのか?」と、山梨県の長崎幸太郎知事は定例会見で苦言炸裂。現行の国政議論を「ふまじめ」と切って捨て、「要請じゃなくて抗議です」と語気を強めた。もっともな主張ではある。地方自治体にしてみれば、国の“気前のいい減税”のツケを背負わされるのはたまったものじゃない。だが一歩引いて見ると、この構図そのものが、実はもっと根深い問題をはらんでいる。
というのも、ガソリン税や消費税の一部が「地方税化」されて久しいが、その決定権は地方にはない。国が減税を決めれば、地方の取り分も自動的に減る。これでは、地方はまるで“財布を握られた共同経営者”。なのに経営方針には口出しできない。いわば「無責任な親分と無力な子分」の関係が制度として固定されているのだ。本来、民主主義の鉄則は「決めた者が責任を取る」こと。しかし今の制度は、「決めるのは国」「責任を取るのは地方」という、見事なまでの責任転嫁スキーム。住民サービスが削られれば怒るのは地元住民、矢面に立たされるのは知事や市長。その陰で、減税の美味しい看板を掲げる国会議員は涼しい顔というわけだ。
この“ねじれ構造”を解きほぐすには、制度そのものの抜本改革が必要だ。まずは国税の一部を地方に振り分ける現在の仕組みを見直し、地方の財政支援は地方交付税制度一本にすべきだろう。人口や地理、インフラの状況に応じて公平に配分される交付税こそ、本来あるべき「制度的なセーフティネット」だ。そして地方も、ただ「カネが足りない」と叫ぶだけでは不十分。代替財源の提案や事業の優先順位の見直しなど、より能動的な関与が求められる。「何に、いくら、なぜ使うのか」を住民に説明する責任があるのは、地方も同じだ。
今回のガソリン税論争は、単なる“ガソリンの値段が上がる・下がる”といった家計の話ではない。その奥には、税と政治の主導権をめぐる複雑な制度の迷路が横たわっている。現行の税制。とりわけガソリン税のような国税と地方財源の関係は、財務省が長年かけて精巧に設計してきた「制度の迷宮」だ。表向きは地方に配分される仕組みになっているが、その舵を握っているのは常に中央。国が減税の決断をすれば、地方の財政は連動して削られる。だが、地方にはその決定に関与する術がない。要するに、国が地図を描き、地方がその地図通りに歩かされている制度だ。
しかし、これでは減税の美名のもとに、責任だけが地方に押しつけられる構図が続く。民主主義の原則に照らせば、決定権と責任はセットであるべきだ。その原則すら霞んでしまうこの制度こそ、いまこそ見直されるべきなのではないか。この迷路から抜け出すには、誰かが最初に地図を書き直さなければならない。国会議員の責務は大きい。
というのも、ガソリン税や消費税の一部が「地方税化」されて久しいが、その決定権は地方にはない。国が減税を決めれば、地方の取り分も自動的に減る。これでは、地方はまるで“財布を握られた共同経営者”。なのに経営方針には口出しできない。いわば「無責任な親分と無力な子分」の関係が制度として固定されているのだ。本来、民主主義の鉄則は「決めた者が責任を取る」こと。しかし今の制度は、「決めるのは国」「責任を取るのは地方」という、見事なまでの責任転嫁スキーム。住民サービスが削られれば怒るのは地元住民、矢面に立たされるのは知事や市長。その陰で、減税の美味しい看板を掲げる国会議員は涼しい顔というわけだ。
この“ねじれ構造”を解きほぐすには、制度そのものの抜本改革が必要だ。まずは国税の一部を地方に振り分ける現在の仕組みを見直し、地方の財政支援は地方交付税制度一本にすべきだろう。人口や地理、インフラの状況に応じて公平に配分される交付税こそ、本来あるべき「制度的なセーフティネット」だ。そして地方も、ただ「カネが足りない」と叫ぶだけでは不十分。代替財源の提案や事業の優先順位の見直しなど、より能動的な関与が求められる。「何に、いくら、なぜ使うのか」を住民に説明する責任があるのは、地方も同じだ。
今回のガソリン税論争は、単なる“ガソリンの値段が上がる・下がる”といった家計の話ではない。その奥には、税と政治の主導権をめぐる複雑な制度の迷路が横たわっている。現行の税制。とりわけガソリン税のような国税と地方財源の関係は、財務省が長年かけて精巧に設計してきた「制度の迷宮」だ。表向きは地方に配分される仕組みになっているが、その舵を握っているのは常に中央。国が減税の決断をすれば、地方の財政は連動して削られる。だが、地方にはその決定に関与する術がない。要するに、国が地図を描き、地方がその地図通りに歩かされている制度だ。
しかし、これでは減税の美名のもとに、責任だけが地方に押しつけられる構図が続く。民主主義の原則に照らせば、決定権と責任はセットであるべきだ。その原則すら霞んでしまうこの制度こそ、いまこそ見直されるべきなのではないか。この迷路から抜け出すには、誰かが最初に地図を書き直さなければならない。国会議員の責務は大きい。