大川原化工機事件 ― 2025年06月21日
「事件は捏造だった」。その言葉は、傍聴席にいた人々の静寂を一瞬で破った。大川原化工機事件。日本の公安警察がある中小企業を外為法違反で摘発し、検察が起訴、拘束は311日間に及んだ。だが、経産省の見解も専門家の証言も歪められていたことが明らかとなり、最終的に「冤罪」として幕を下ろした。しかし、これはただの一企業の悲劇ではない。この事件が暴いたのは、日本における国家安全保障と法制度の“空白”という、より深刻な構造的欠陥である。そもそも日本には、諸外国のような「スパイ防止法」が存在しない。1985年に提出された法案は、表現の自由を脅かすという市民の激しい反発により廃案となり、その後も同様の立法はなされてこなかった。結果として、公安警察は外為法や不正競争防止法などを“代用的”に使い、国家安全保障関連の案件に対応してきた。だが、それは本来の法の趣旨とは乖離した運用を生み出す。国家の名のもとに、企業や個人の自由が不当に制限される危険性が、常に潜んでいる。
公安の仕事は「未然防止」。つまり、“起きなかったこと”が成果となる。しかし、起きなかったことは可視化されない。そこで発生するのが、「成果を見せるための立件」という組織的バイアスである。実際、大川原事件では、現職の警部補が法廷で“事件は捏造だった”と証言し、録音記録には幹部による情報の隠蔽や独断的な判断が克明に残されていた。密室の論理と、現場の暴走。それはもはや一警察官の判断ミスではなく、制度不在によって歪んだ権力構造の結果である。
NHKは、この証言と音声記録をもとに特集番組を制作し、公安の内部構造を初めて映像化することに成功した。その点で意義は大きい。だが、報道は“現場の逸脱”という枠内にとどまり、「なぜそんな逸脱が可能になるのか」という制度的視点に踏み込むものではなかった。多くのメディアも同様である。冤罪や捜査の暴走は糾弾されるが、それを可能にした法制度の不在、あるいは「制度のなさを制度として許容してきた社会の合意」には、ほとんど目が向けられていない。欧米では、たとえばFBIやMI5といった治安機関が、明確な法的根拠と議会の監視のもとに活動している。そこで問題が起きれば、制度の中で是正が可能だ。ところが日本では、公安の法的位置づけが曖昧で、責任の所在も不明確。しかも、その曖昧さゆえに、市民的自由を制限しうる強大な権限だけが“密かに”運用されている。この構図を変えないかぎり、同じことはまた起きる。
象徴的だったのが、岩屋毅元外務大臣の議員宿舎に不審者が侵入した事件だ。国家要人の安全に関わる重大事案でありながら、警察による明確な調査も、制度的な改善も見られなかった。この事件でも、スパイ防止法や要人警護体制の不備があらわとなった。「人権を守るために、あえて制度を作らない」という日本的発想は、一見リベラルに見えて、実は極めて危うい幻想である。制度がなければ人権は守れない。逆にいえば、制度こそが権力の暴走を制御し、自由を保障する装置なのである。大川原化工機事件は、それを日本社会に突きつけた。そして今、私たちはその問いに、制度をつくるのか、曖昧さに甘んじるのか、答えるべき時にきている。
公安の仕事は「未然防止」。つまり、“起きなかったこと”が成果となる。しかし、起きなかったことは可視化されない。そこで発生するのが、「成果を見せるための立件」という組織的バイアスである。実際、大川原事件では、現職の警部補が法廷で“事件は捏造だった”と証言し、録音記録には幹部による情報の隠蔽や独断的な判断が克明に残されていた。密室の論理と、現場の暴走。それはもはや一警察官の判断ミスではなく、制度不在によって歪んだ権力構造の結果である。
NHKは、この証言と音声記録をもとに特集番組を制作し、公安の内部構造を初めて映像化することに成功した。その点で意義は大きい。だが、報道は“現場の逸脱”という枠内にとどまり、「なぜそんな逸脱が可能になるのか」という制度的視点に踏み込むものではなかった。多くのメディアも同様である。冤罪や捜査の暴走は糾弾されるが、それを可能にした法制度の不在、あるいは「制度のなさを制度として許容してきた社会の合意」には、ほとんど目が向けられていない。欧米では、たとえばFBIやMI5といった治安機関が、明確な法的根拠と議会の監視のもとに活動している。そこで問題が起きれば、制度の中で是正が可能だ。ところが日本では、公安の法的位置づけが曖昧で、責任の所在も不明確。しかも、その曖昧さゆえに、市民的自由を制限しうる強大な権限だけが“密かに”運用されている。この構図を変えないかぎり、同じことはまた起きる。
象徴的だったのが、岩屋毅元外務大臣の議員宿舎に不審者が侵入した事件だ。国家要人の安全に関わる重大事案でありながら、警察による明確な調査も、制度的な改善も見られなかった。この事件でも、スパイ防止法や要人警護体制の不備があらわとなった。「人権を守るために、あえて制度を作らない」という日本的発想は、一見リベラルに見えて、実は極めて危うい幻想である。制度がなければ人権は守れない。逆にいえば、制度こそが権力の暴走を制御し、自由を保障する装置なのである。大川原化工機事件は、それを日本社会に突きつけた。そして今、私たちはその問いに、制度をつくるのか、曖昧さに甘んじるのか、答えるべき時にきている。