国債=「未来のつけ」神話2025年12月04日

国債=「未来のつけ」神話
毎年のように年末になると、「国債が増えすぎて、子や孫にツケを回す!」という決まり文句が、週刊誌やワイドショーで繰り返される。2009年、財務省の啓発ポスターに「子や孫にツケを回すな!」のキャッチコピーが誇らしげに踊り、信じた人は多い。だが、立ち止まって考えてみたい。本当に“ツケ”なのか。結論を先に言えば、この論法は事実の一部だけを切り取り、国民に誤解を植え付ける典型的な政治レトリックだ。

国債の構造は単純である。政府が今お金を使うために、民間や日銀から借りる「借金」であり、利払いは税収から行われる。しかし元本は満期ごとに「借換債」で返済され、事実上ロールオーバーされ続ける。主要国の多くもこの方式を採用し、国債の借換えのタイミングを安定させるように設計して財政運営している。したがって、将来世代が確実に負うのは「利払い負担」であって、元本そのものではない。そしてその国債は、最終的に国民の金融資産として保有される。「国の借金=国民の資産」という会計構造を踏まえずに「ツケ」という言葉だけを使えば、それはもはや説明ではなく、印象操作だ。

大騒ぎしている国債金利の上昇も、先に同じく政府の負担が増える一方で国民の資産が増える構造である。ローンや投資の借入には不利だが、景気が上向けば金利が上昇するのは自然な流れだ。にもかかわらず、国債信用の下落を金利上昇の原因とする主張もあるが、その根拠は乏しく風説に近い。議論すべきは、金利を上回る成長を実現できるか、そしてその成長の果実を適切に分配できるかどうかだろう。

事実、日本の家計金融資産約2,100兆円のうち、直接・間接を含め国債や日銀当座預金に紐付く部分は半分以上に達する。国債は国民の富の裏返しであり、「借金が増えるほど国が貧しくなる」という発想はミスリーディング以外の何物でもない。本当の問題は、政府が国債で調達した資金を「何に使い」、そこで生まれた利益を「誰に配分するか」に尽きる。

高速道路を作れば物流が改善し、企業収益が増え、税収も増える。教育や科学技術への投資は、将来の労働生産性を底上げする。これらは明らかに「投資」である。一方、政治的な便宜で生まれる業界向け補助金や、使途が曖昧なバラマキは、単なる「浪費」だ。さらに、投資で生まれた成果が賃金として国民全体に還元されるのか、それとも一部企業の利益や資産家のキャピタルゲインに偏るのか──ここが本来の政治的対立軸である。ところが、議論が本質に向かう直前で「国債=悪」という単純化に引き戻されてしまう。“議論の幼稚化”が起きているのだ。

インフレ論も同じ構造にある。「国債を増やすとインフレになる!」との声は根強いが、日本はこの30年、物価がほぼ動かないデフレ経済に苦しんできた。適度なインフレ(年間2%前後)は、企業収益・設備投資・賃金を押し上げる“成長の潤滑油”だ。高度成長期の日本は、3〜6%のインフレを伴いながらも力強い経済拡大を続け、実質債務はむしろ相対的に軽くなっていった。インフレは確かに「政府への実質的な財政移転(借金軽減)」という側面があるが、過度でなければむしろ健全である。問題は“どの水準までを許容するか”のルール設計にある。

「円の信任が失われる」という脅し文句も、背景が省略されている。通貨の信任とは対外的な相対比較で決まるもので、一国のみが一方的に紙くずになるような事態は、主要通貨では想定しにくい。日本は経常収支が長期にわたり黒字で、外貨建て債務も極めて少ない。さらに最終的には日銀が国債市場を安定化させる“総合ディーラー”として機能する。こうした制度的な支えを踏まえたうえで議論しなければ、「信任が落ちるかも」という発言は、実態より恐怖を煽る“恐怖マーケティング”の色が濃くなる。

結局のところ、「未来のツケ」「ハイパーインフレ」「通貨信認の崩壊」という三点セットは、財政議論の核心 『国債を何に投じ、どのような形で国民に還元するのか』を覆い隠してしまう非常に都合の良いレトリックだ。国債は包丁と同じく、使い方次第で価値も害も生む。危険だからといって台所から包丁を追放する家庭がないように、「国債は危険だから極力使うな」という議論も、国の運営としてはあまりに稚拙だ。

恐れるべきは国債の残高ではない。無意味な支出と、果実の偏った分配である。日本に欠けているのは、財政の規模よりも、その“質”を議論する成熟した政治とメディアなのだ。

コメント

トラックバック