女流棋士の出産規定2025年12月11日

女流棋士の出産規定
「妊娠したら、タイトルか出産かの二択を迫られる。第2子は不可能だと絶望した」。12月10日、大阪。照明に照らされた会見場で、福間香奈女流六冠(32)は、声を震わせながらもはっきりと言い切った。名実ともに現役女流棋界の絶対的エース。その彼女が、妊娠という自然な出来事をきっかけに“キャリアの死角”へ追い込まれるという事実は、将棋界にとって痛烈な一撃となった。前日、彼女が日本将棋連盟に提出した要望書は、遠慮も婉曲も一切ない。妊娠・出産を理由とした出場制限の撤回、タイトルや挑戦権の保護、復帰ルートの明確化──いずれも、世界のプロスポーツでは当たり前の仕組みばかりだ。連盟は慌てて「不安を抱かせ申し訳ない」とコメントを出したが、火消しのスピードは異例。裏側で泡を食った様子が目に浮かぶ。

“火薬庫”となったのは、2025年4月に施行された新規定だ。「出産予定日±14週にタイトル戦が重なれば、出場不可」。表向きは「母体の安全」「棋戦の公平性」。しかし実態は、妊娠した瞬間に王座から転落する構造そのもの。対局は体力勝負ではないと言われながら、制度は身体状況を理由に真っ先に締め出す。矛盾を抱えたまま導入された“乱暴なルール”だ。そもそも十四週の根拠も曖昧だ。医療ガイドラインを踏まえた形跡は乏しく、タイトル戦の年間スケジュールと衝突しないよう“事務的に”設定された気配が濃厚だ。だが棋士は人間だ。妊娠は予定調和の出来事ではない。

さらに言えば、将棋界にはスポーツ界で一般化している制度がほとんど存在しない。テニスでは産休時のランキング凍結(プロテクトランキング)。サッカーや卓球では地位保全と復帰支援。欧米なら契約書に出産時の待遇条項が当然のように盛り込まれる。対して将棋界はどうか。「休めばその瞬間に順位失効」という、アマチュア競技すら驚く“空白地帯”のままだった。

福間が突きつけた改善案は、その空白を一気に埋める内容だ。
1. 新規定の即時停止
2. 出場判断を本人の意思と医師の判断に委ねる仕組み
3. 椅子対局・会場温度・服装など環境整備
4. 暫定王者制度、挑戦権保護などの地位保全策
さらに「1か月以内に回答を」と期限まで切った。これは単なる要望ではなく、“制度改革への時限爆弾”だ。会見で福間は静かに語った。「これから将棋を志す女の子たちが、安心して頂点を目指せる環境にしてほしい」ここにあるのは、ひとりの棋士の叫びではない。将棋界全体が長年放置してきた“構造的な見落とし”への告発である。

不可解なのは、現在の連盟役員構成だ。女性初の会長・清水市代女流七段、理事の斎田晴子女流五段──女性の声が執行部に届く土壌はかつてより整っていたはずだ。それでもこの制度が導入されたのはなぜか。内部を見ると、タイトル戦の主催者やスポンサー、スケジュール調整の論理が優先され、女性棋士が制度設計に本質的に関与できる仕組みが整っていなかった可能性が浮かぶ。表面的には女性役員がいても、実質的な権限が伴わなければ「女性がいるのに何も変わらない」という矛盾だけが残る。

つまり今回の問題は、単なるルール不備ではない。“意思決定の場で、女性当事者が制度を左右できない”という根深い構造の露呈でもある。福間の告発は、長年の暗黙の了解「女流棋士は子どもを産むならキャリアを諦めろ」という不文律を、初めて公式の場で引きずり出した。

連盟は、もう逃げ場がない。1か月後の回答が曖昧なら、世界に向けて「将棋界は女性を守る気がない」と宣言するのと同じだ。少女たちが将棋盤に向かい、「いつか自分もタイトルを」と夢を見る未来を守れるのか。試されているのは制度ではない。この競技を支えてきた“大人たち”の成熟度そのものである。

給与カット条例「再々継続審議」2025年12月12日

給与カット条例「再々継続審議」
兵庫県の斎藤元彦知事が告発文書問題の情報漏えいに対する管理責任を認めて自ら提出した給与減額条例改正案は、12月定例会でも三度目の継続審議に回された。10日の総務常任委員会で決まり、12日の本会議で正式に採決が見送られる。県民の目には、もうただの不毛な時間稼ぎにしか映らない。当初は3か月30%カットという穏やかな案だった。議会側の「もっと重く」「責任を明確に」という声に知事が素直に応じ、50%カットに引き上げ、「情報が適切に管理されなかったことに対する責任を明確にする」という文言まで入れた修正案を再提出した。主要会派の自民・維新・公明も当初は賛成ムードだった。ところが知事が記者会見で「技術的な修正で実質は変わらない」とポロリと漏らした途端に風向きが一変。「思いが届いていない」「説明が不十分」との声が噴出し、継続審議が決まった。

第三者委員会は「知事らが指示した可能性が高い」と推認したが、直接証拠はゼロ。百条委員会の調査では告発文書の多くが「存在せず」、法的・制度的に知事の関与は否定された。それでも議会は「事実解明が不十分」「判断材料が足りない」と繰り返し、減額幅や文言のニュアンスにこだわり続ける。谷口自民幹事長は「我々の思いが知事に届いっていない」と漏らすが、具体的に何を追加で求めているのかは誰も明かさない。

本来、議会が今やるべきことは物価高対策や防災予算、子育て支援の議論のはずだ。なのに最大の関心は「知事の給与を50%にするか」「責任という言葉をどう書くか」に集中している。知事の説明が事務的でそっけないのは確かだが、議会の要望に二度にわたって修正で応じたのは明らかに歩み寄りだった。それを「不十分」と切り捨てて審議を凍結するのは、健全なチェック機能と言えるのか。

しかも騒動の火種となった告発文書は、反知事勢力とされた故・中島幸彦元局長が深く関与した疑いが週刊誌で報じられている。疑惑の出どころ自体に大きな疑問符がついているのに、議会はそちらを追及することもなく、知事側への圧力だけを強めている。給与を50%カットしようが100%にしようが、亡くなった人は戻らず、県民の生活が良くなるわけでもない。制度的に疑惑がほぼ晴れた今、議会は潔く決着をつけて信頼回復に動くべき場面だった。なのに三度も継続審議を繰り返す姿は、監視の名の下に県政を停滞させているとしか言いようがない。

民意によってダブルスコアで再選された知事と、制度に縛られた議会の溝は深まるばかり。このままでは県民の政治不信がさらに広がるだけだ。いい加減、この不毛な堂々巡りを終わらせて、県民のための政治に戻ってほしい。それが今、兵庫県で最も求められていることである。

ふつうの子ども2025年12月13日

ふつうの子ども
ドラマ『こんばんは、朝山家です。』でヘナチョコ小学生を好演した嶋田鉄太くんが、この映画にも出演していると知りサブスクで観た。期待は裏切られない。相変わらずの“ヘナチョコぶり”が全開で、「これ演技なの?それとも地なの?」と思うほど自然体だ。いわゆる“天才子役”のキラキラ路線とは別次元で、むしろ“ダメな感じがリアルな新種の子役”というジャンルを確立しつつある。

監督は『そこのみにて光輝く』『きみはいい子』の呉美保、脚本は高田亮。名コンビが再び組み、令和の小学4年生たちの“ふつう”の日常を描く。主人公・唯士(嶋田鉄太)は、環境問題に熱心な心愛(瑠璃)に片思い。しかし心愛が想いを寄せるのはクラスの問題児・陽斗(味元耀大)。3人が始めた小さな環境活動は、親や教師を巻き込みながら次第に過激化していく。クラスメイトはオーディションで選ばれた実際の子どもたち。母親役に蒼井優、ダメ教師に風間俊介、毒親に瀧内公美と、大人陣も盤石だ。

率直に言えば、「これが本当に“ふつうの子ども”なのか?」と驚かされる。もしこれが現代の小学4年生のリアルだとしたら、自分の頃よりずっとませている。好きな子に好かれようと、興味のないテーマに急にのめり込む姿は昔も今も変わらない。ただ、昔はロックやスポーツが憧れの対象だったのに、今は「環境問題」なのだという点に時代を感じる。

映画の中の子どもたちは「車に乗るな」「電気を使うな」と違法ポスターを貼り、「メタンガスを出す牛はだめだ」と精肉店にロケット花火を打ち込み、牛舎の扉を壊す。いたずらの域を超えた立派な“環境テロ”だ。見ていて頭に浮かんだのは「左翼小児病」だった。 子供だから当然だけど。

劇中ではグレタ・トゥーンベリの国連スピーチ「How dare you!」が効果的に使われる。最初は作文発表で担任に軽くあしらわれ、心愛が激怒。やがて“環境テロ”が発覚し、大人たちの前で弁明する場面ではグレタの英語をぶつぶつ呟く。そしてラスト、“環境テロ”の理由を心愛が好きだったからと弁明した唯士に、心愛が口パクで「How dare you!(よくもまぁ)」とほほ笑む。唯士はポカーンとして意味も分からないままエンドロール。皮肉で、可愛くて、そして空恐ろしい。

観終わって思った。自分も子どもの頃、同じように社会問題に憤り、「将来は記者になって告発する!」と息巻いていた。あの熱病のような正義感は、結局は先生が教えた中途半端な知識と、大人が与えた断片的な情報から生まれたものだった。 今、米国ではトランスジェンダー教育の影響で「性否認」をする女子が急増し社会問題になっているという。環境問題も同じ構図かもしれない。大人が都合よく切り取った“正義”を、子どもは純粋に、時に暴走しながら信じてしまう。

唯士を見ればわかる。子どもたちの動機の9割は「好きな子と一緒にいたい」「目立ちたい」「認められたい」。残りの1割が純粋な正義感だとしても、それは十分に危うい。だからこそ、この映画は妙にリアルで、妙に怖い。「ふつうの子ども」って、こんなに過激で、こんなに脆くて、こんなに危なっかしいものだったのか――。観終わったあと、しばらく立てなかった。考えさせられるというより、「How dare you!」な一作だった。

司馬遼太郎記念館2025年12月14日

司馬遼太郎記念館
近鉄奈良線・八戸ノ里駅を降りて、住宅街を歩くと突然現れるモダンな建物。それが司馬遼太郎記念館だ。安藤忠雄設計の打ちっぱなしのコンクリートは一見冷ややかだが、中に入ると空気が柔らかく変わる。目の前に立ちはだかるのは高さ11メートルの大書架。約2万冊の蔵書がずらりと並び、まるで知の壁に囲まれたような感覚になる。窓越しに覗ける司馬の書斎は、机の上に原稿用紙や万年筆が置かれ、今にも執筆が始まりそうな雰囲気を漂わせている。庭は雑木林風に造られ、雑多な街中とは思えない静けさ。ここに立つと、司馬が歴史を「人間の物語」として描いた理由が少しわかる気がする。

司馬史観と呼ばれる彼の歴史の見方は、幕末から明治期の近代化を「青春の物語」として描き、日本人の成長を肯定的に捉えた。坂本龍馬や秋山兄弟といった人物を通じて歴史を語り、多くの人に歴史の面白さを伝えた。しかし「近代化を美化しすぎている」「英雄中心主義だ」と批判も受けてきた。学術的には「歴史修正主義」とのレッテルを貼られることもある。だが記念館の静謐な空間に身を置くと、司馬が晩年にたどり着いた究極の人間観が浮かび上がる。彼が本当に伝えたかったのは、江戸期の商人の先見性でも富国強兵時代の軍人の戦略性でもなく、その基盤にある「思いやり」と「義侠心」だった。

書架の壁に貼られた『二十一世紀に生きる君たちへ』で司馬は、未来を生きる子どもたちに「歴史を友とし、他者をいたわり、支え合う心を持ってほしい」と語りかけている。戦後民主化の中で制度や権利は語られても、人間的な徳が欠落していることへの危惧を込めて。つまり司馬は民主化そのものを否定したのではなく、「民主化を人間的徳で支えなければ空洞化する」と警告した。批判者は近代化美化や英雄中心主義を問題視することはできても、この人間観には反しきれない。むしろ「歴史を学ぶことは人間性を育てること」という司馬のテーゼは、教育や社会において普遍的な価値を持ち続けている。

旅人としてこの記念館を訪れると、単なる文学館以上のものを感じる。歴史を物語として描いた作家の姿と、未来に託された「人間の心のあり方」が重なり合い、静かに問いかけてくる。君の旅の基盤にも、思いやりと義侠心はあるだろうか。司馬遼太郎記念館は、旅人に静かな問いを投げかけ続けている。

PECS京都大阪合同会2025年12月15日

PECS京都大阪合同会
大阪で、PECSサークルの合同会が開かれた。京都との共同開催で、会場参加が37名、リモート参加が25名。合わせて60名余という数字は、いまの状況を思えばなかなかのものだ。会場に30人以上が集まる光景を見るのは久しぶりで、門医師が大阪まで足を運ばれたことも大きかったのだろう。かつて京都で研究会が勢いを持っていた頃の空気がふっとよみがえり、胸の奥に懐かしさが広がった。

今回、何より印象に残ったのは若い世代の多さだった。参加者の多くは施設職員で、大阪ではNPOピュアを中心に若手がしっかり組織されているという。熱心に耳を傾ける姿を見ながら、かつて自分も若手教員をまとめ、参加者を増やすことに奔走していた時代を思い出した。だが今はどうだろう。影響力のあるリーダーを育てきれず、研究会はじりじりと先細っている。その現実を突きつけられるようでもあった。

報告では、子どもや成人の利用者がPECSやABAを通じて、少しずつ生活を整えていく様子が動画で紹介された。画面越しに伝わってくる笑顔に触れ、「やってきてよかったな」と、心から思えた瞬間だった。研究会のあとには20人余りが居酒屋に集まり、懇親会は遅くまで賑やかに続いた。初めてPECSに取り組みながら、思うような評価を得られなかった支援者も参加し、率直な語り合いができた。できるだけ“老害”にならないよう気をつけたつもりだが、振り返れば少し厳しい言葉を投げてしまったかもしれない、と反省も残る。

PECSは、要求と契約から始まる機能的コミュニケーションだ。トークン使用は、要求したものの「待って」カードから、やがてはトークンエコノミーという、少し長い契約関係を学んでいく。すぐに要求に応えるのではなく、条件を示し、何回指示に応えれば約束が成立するのかを伝える。言ってみれば、出来高給制度を理解してもらうような仕組みだ。その教え方に対して「おかしいのではないか」という指摘も出た。大阪の事務局は事前にレポートを把握していたはずだが、成果よりも方法の誤りをどう扱うかは、組織や世代で考え方が分かれる。事前に修正を促すのか、あえて発表させ、批判を受けて再挑戦を促すのか。その違いに、年齢差というものを感じずにはいられなかった。

最近は、自分が組織してきた研究団体がじり貧になり、正直、投げ出したくなることもある。それでも、未来を楽しそうに語る若手の姿を見ると、「続けてきてよかった」と素直に思える。20年前、京都から始めたあの研究会がなければ、いまのつながりはなかっただろう。淡々と研究会を重ね、懇親会を続けてきた、その積み重ねの先に、今夜の光景がある。

投げ出すのは簡単だ。けれど、もう少しだけ頑張ってみよう。そんな気持ちを、静かに背中から押してくれる夜だった。

『べらぼう』最終回2025年12月16日

 『べらぼう』最終回
ドラマ『べらぼう』最終回は、蔦屋重三郎の死と再生をめぐる場面を中心に、江戸文化の軽妙さと人間的な温かさが交錯する幕引きとなった。枕元に現れた狐様のお告げで、「午の刻に拍子木の音が鳴れば、この世の幕引きだ」と告げられる。翌朝、蔦重は事切れたようにていの身体に寄りかかり、臨終の場面を迎える。そこへ吉原の仲間たちが駆けつけ、一同は悲しみに暮れる。やがて町に午の刻を知らせる鐘が響くと、南畝が「呼び戻すぞ」と立ち上がり、涙ながらに「俺たちは屁だーっ!」と絶叫する。仲間たちは輪になり、「屁!屁!屁!」と唱えながら踊り続け、蔦重を励まし続ける。すると蔦重がゆっくり目を開き、少しうんざりした表情で「拍子木…聞こえねえんだけど」とつぶやく。仲間たちが「へ?」と驚いた瞬間、拍子木が鳴り響き、幕が下りる。

この「拍子木」とは、江戸芝居で幕引きに打たれる合図であり、同時に蔦重の死期を告げる象徴でもある。つまり、彼が「拍子木が聞こえない」と言うのは、死を回避し、芝居的にもまだ終わらないという二重の意味を持つユーモラスな仕掛けだ。

この演出は、史実に残る蔦重の最期の逸話──昼時に死ぬと予告した──を踏まえつつ、ドラマ的に戯けた締め方をしたという。脚本家・森下佳子が語るように「嘘かホントかわからない死にざま」を描く意図がここに表れている。蔦重は江戸出版界の「メディア王」として、歌麿や写楽を世に送り出した文化の仕掛け人であり、反骨の出版人でもあった。最終回ではその歴史的評価を踏まえつつ、仲間たちの「屁!」の合唱による蘇生劇が描かれ、庶民文化の明るさと連帯感が強調された。

さらに劇中では、写楽の正体をめぐる謎も洒落として演出された。写楽の号「東洲斎」を逆さにもじって「斎東洲」とし、そこから「斎藤十郎兵衛」へと結びつける仕掛けである。これは史実の有力説──写楽=徳島藩お抱えの能役者斎藤十郎兵衛──を視聴者に分かりやすく示すためのフィクションであり、江戸的な言葉遊びの妙を活かしたものだ。実際には「逆さ読み」で完全に「写楽」になるわけではないが、音や字をもじることで「しゃらく」と読めるように仕掛けられている。江戸文化における狂歌や洒落本の伝統を踏まえた遊び心であり、写楽の正体をめぐる最大の美術ミステリーをドラマ的に印象づける工夫だ。

総じて最終回は、死と再生、史実とフィクション、悲劇と笑いを巧みに織り交ぜた構成であった。蔦重の「拍子木…聞こえねえんだけど」というセリフは、死の合図を拒むと同時に芝居の終幕をずらすメタ的な仕掛けであり、観客に「まだ終わらない」という余韻を残す。仲間たちの「屁!」の合唱は、庶民文化の明るさと連帯を象徴し、蔦重の生き様を軽妙に讃える。写楽の正体をめぐる言葉遊びは、江戸文化の洒落と謎を重ね、視聴者に文化史的な奥行きを感じさせる。

こうして『べらぼう』は、史実の蔦屋重三郎の功績──歌麿や写楽を世に送り出した文化の仕掛け人、反骨の出版人、そして「江戸のメディア王」──を踏まえながら、ドラマならではの戯けたユーモアで締めくくった。最終回は、蔦重の死を描きつつも「まだ終わらない」という余韻を残し、江戸文化の軽妙さと人間的な温かさを観客に強く印象づけた。その演出は同時に、血の通わぬ現代メディアへの痛烈な批評としても響いている。

ルンバよお前もか2025年12月17日

ルンバよお前もか
先日、家庭用ロボット掃除機「ルンバ」で知られる米アイロボット社が、米デラウェア州の連邦破産裁判所にチャプター11(米連邦破産法11条)を申請したというニュースが世界を駆け巡った。パンデミック期には“巣ごもり特需”に沸き、時価総額が一時40億ドルを超えた企業が、わずか数年で経営破綻。テクノロジー産業の栄枯盛衰を象徴する出来事である。

転落の最大要因は、中国メーカーの急伸だ。RoborockやECOVACSといった中国勢は、圧倒的な量産力と改良スピードを武器に価格を切り下げ、世界市場を席巻した。高価格帯モデルに依存してきたiRobotは、この“消耗戦”に耐え切れなかった。追い打ちをかけたのが、Amazonによる買収計画の破談である。欧州規制当局は「家庭内データの独占につながる」と難色を示し、GDPRや環境規制を盾にストップをかけた。資金調達の道を断たれた同社に、もはや立て直す余力は残されていなかった。

研究開発費は削られ、人員の約3割が整理される。縮小均衡の経営は、結果として技術革新の停滞を招き、競合との差をさらに広げた。そして最終局面で選ばれたのが、中国・深センのPICEA Roboticsへの全株式売却である。最大債権者でもあった同社に身売りする形で、ルンバというブランドは生き残ったが、その所有権は中国資本に移った。アメリカ発の象徴的スマート家電ブランドが、競争と規制の狭間で飲み込まれた瞬間だった。

興味深いのは日本市場だ。ルンバは2004年の上陸以来、「お掃除ロボットの代名詞」として定着し、累計出荷台数600万台、世帯普及率10%超という圧倒的な地位を築いてきた。世界で中国勢が猛威を振るう一方、日本では「中国製IoT機器への不安感」が根強く、価格よりも“安心と信頼”が選好されてきた。家庭内データを扱うIoT製品だけに、「安いが怖い」という感情は軽視できない。日本は、ルンバにとって最後の牙城だったのである。

だが、そのルンバも今や中国企業の所有物だ。「日本ではルンバが強い」と言っても、実態は中国資本の製品を使っている構図になる。安心感の象徴だったブランドが、知らぬ間にグローバル資本の再編に組み込まれていた――この事実は、消費者にとってなかなかに複雑だ。技術史的にも文化的にも、寂しさが残る結末である。

我が家にルンバがやって来たのは7年ほど前だ。段差を越えられず、部屋の隅で立ち往生する姿はどこか愛嬌があった。タイヤが擦り切れればゴムを替え、電池がへたれば互換品を探し、今も家中を健気に走り回っている。購入当時、半額の中国製もあったが、セキュリティが怖くて敢えてルンバを選んだ。「高くても安心を買う」つもりだったのだ。

それが中国資本の傘下に入ったと知ると、家の中まで“監視”されているような、理屈ではない不安がよぎる。今回の倒産劇は、「中国以外に掃除ロボットはほぼ存在しない」という現実を白日の下にさらした。安心感を重視する日本市場と、価格競争に支配された世界市場。その対比を、これほど鮮烈に示した出来事も珍しい。ルンバの迷走は、IoT時代の消費者が何を信じ、何を選ぶのかを、静かに、しかし鋭く問いかけている。

教員わいせつ処分歴2025年12月18日

教員わいせつ処分歴データベース
福岡地裁で開かれた初公判は、一地方の不祥事というより、日本の行政が「使える制度を使わない」ことで招いた必然の事件だった。須恵町の町立中学校採用試験で、岐阜県教委の印影が押された偽造教員免許状の写しを提出した補助教員が、偽造有印公文書行使罪に問われた。被告は起訴内容を認め、検察側は「免許失効後に三度姓を変え、偽造免許を使い続けた」と指摘した。巧妙だったのは犯人ではない。杜撰だったのは制度の側だ。

教員免許が失効するのは、懲戒免職や禁錮以上の刑など、教育者としての信用を根底から失う重大事案だけでなく有罪にならなくとも類似事案は教委が独自に判断できる。免許とは資格証明である以前に、子どもを預かる者としての「信頼の証」である。その免許を失った人物が、偽造という手段で教壇に戻れた事実は、教育現場への裏切りであると同時に、制度の敗北を意味する。

なぜ防げなかったのか。答えは単純だ。免許状の写しを原本と突き合わせない。教育委員会同士で処分歴を共有しない。人手不足を理由に確認作業を形式化する。そして改姓や養子縁組があれば、過去は簡単に消える。これは「想定外」ではない。「想定しないことを選び続けた」結果である。

2021年から「教員わいせつ処分歴データベース」が運用され、一定の抑止効果は生まれた。しかし、私学での活用は鈍く、改姓による照合漏れという致命的欠陥も残った。ここで決定的に欠けているのが、マイナンバーの本格活用だ。

マイナンバー制度は、氏名変更や転籍を経ても個人を一意に識別できるよう設計されており、今回のような事件を未然に防ぐためにも使える仕組みである。それにもかかわらず、「プライバシーへの懸念」や「番号法による利用制限」が繰り返し持ち出され、最も必要とされる採用チェックの場面で活用されることがない。

だが考えてみてほしい。子どもの前に立つ教職員は、最も高い公共性と信頼性を求められる職種だ。そこに最低限の身元確認を適用しない理由があるだろうか。災害時に個人情報を理由に避難名簿を作らない自治体がないように、リスク管理と人権保護は本来、対立しない。

要するに、この事件は「免許制度の透明性を高めよう」といった抽象論で処理すべき話ではない。すでに存在するマイナンバー制度を、学校職員に適用すれば済む話なのだ。問題は技術でも法律でもない。制度を“使わない”という行政の選択である。

子どもへの人権侵害は、個人不祥事ではなく社会的災害だ。災害対策に必要なのは、新しい看板ではない。実効性のある仕組みを、例外なく運用する覚悟である。この事件が示したのは、倫理が崩れたからではない。守れるはずの子どもを、制度が守らなかったという現実だ。

改革に必要なのは新制度ではない。「使える制度を、使う決断」だけである。

無償化は「持ち出し」か「投資」か2025年12月19日

給食無償化の地方負担に批判噴出
政府が小中学校の給食費と高校授業料の無償化を打ち出した瞬間、全国知事会が一斉にブレーキを踏んだ。「自治体の財政負担が過大だ」。地方行政の世界では、聞き慣れすぎた台詞である。無理もない。自治体予算は常に余白がない。教育費が数%増えるだけで、福祉やインフラ、地域サービスのどこかを削らざるを得ない。「予算の1%増でも重い」という知事会の訴えは、現場を知る者ほど現実味をもって響く。

だが、この議論は致命的な欠陥を抱えている。支出を“今の帳簿”でしか見ていないのだ。教育への公的支出は、地方への押し付けでも、選挙向けのバラマキでもない。将来、税収として回収される投資である。ここを見誤れば、どんな政策も「高すぎる」の一言で葬られる。

数字は感情よりも正直だ。小中学校給食費の無償化では、対象児童は約650万人。保護者が年間約6万円負担してきた費用が消え、全国で約4,832億円が家計に戻る。高校授業料の無償化では、公立で年間11万8,800円、私立でも平均14〜15万円の負担が軽減され、規模は約4,048億円に達する。両者を合わせれば、約8,880億円が子育て世帯の可処分所得となる。

一世帯あたりにすれば、年20万円前後の余裕だ。この金が貯金だけに回ると考えるのは非現実的だろう。食費、学用品、日用品へと流れ、消費を押し上げる。では、その結果はどうなるか。

日本の過去データでは、GDPが1%増えると税収は約3%増える。税収弾性値は近年の実績で2.8〜3.2程度とされ、3前後が妥当だ。仮に7,000億円の支出がGDPを約0.12%押し上げれば、税収は0.35%以上増える。金額にして年間約3,500億円。国税で約2,500億円、地方税でも約1,000億円が戻る計算になる。

投入額のほぼ半分が、数年以内に回収される。これをなお「持ち出し」と呼ぶなら、将来の税収という概念自体を否定することになる。政府は長年、税収弾性値を1.1程度と低く見積もり、「どうせ税収は増えない」と財政出動を渋ってきた。その結果が「失われた30年」だ。需要を恐れ、投資を避け、成長の芽を摘み続けた。その失敗を、教育分野でまで繰り返す理由はない。

もちろん、知事会の懸念を切り捨てる話ではない。自治体の裁量経費が乏しいのは事実だ。だからこそ、支援の線引きが重要になる。

公立の給食費や授業料は、基礎教育という公共財そのものであり、ここは国が正面から負担すべき領域である。一方、私立の給食費や授業料は「選択的サービス」の性格が強く、公共投資としての優先順位は明らかに低い。支援は義務教育とそれに準じる普遍的部分に絞り、私学への過度な肩代わりは避ける――それが最も公平で現実的な整理である。

維新がしばしば唱える「私学と公立の条件を公平にして競争させ、質の向上を目指す」という主張は、聞こえは良い。しかし実際には財政力があり意思決定の速い有名私学が優位に立つことは明らかであり、「公平」という言葉は弱小公立校を切り捨てるためのレトリックにすぎない。従って私学の無償化は弊害が大きくほとんど意味がない。

結論は明白だ。知事会の反対は、目先の痛みを訴える声として尊重されるべきだ。しかし、国全体で見れば、教育無償化は確かな経済投資であり、税収還元効果も十分に見込める。

政府はこれを「子育て支援」という情緒的な言葉で済ませてはならない。
家計を下支えし、成長を呼び込む投資だと、正面から語るべきだ。未来への投資を「高い」と言い続けた国に、成長は訪れない。日本はいま、教育をコストと呼ぶ癖そのものを、改める時代に入っている。

人権が紛争に化ける瞬間2025年12月20日

「明白な内政干渉」と抗議決議
中国が国連の場で沖縄の人々を「先住民族」と位置づける発言を繰り返すなか、沖縄県豊見城市議会は12月18日、こうした主張を「明白な内政干渉」と断じる抗議決議を賛成多数で可決した。決議では、中国の発言が日本の主権を侵害するものだと指摘し、玉城デニー知事に対しても「沖縄県民は日本国民である」との立場を明確に示すよう求める意見書を採択。同様の決議は石垣市議会でも可決されており、国連の先住民族勧告をめぐる問題が、地方自治体レベルで現実の政治課題として噴出している。

沖縄をめぐる「先住民族認定」ほど、耳触りのいい言葉がこれほど不穏な影を引きずるテーマは、そう多くないだろう。「国際人権」。この魔法の言葉が掲げられた瞬間、異論はたちまち「差別」や「時代遅れ」として封じ込められる。だが、その思考停止こそが、沖縄を静かに、しかし確実に“大国の外交カード”へと変質させていく。

中国は近年、国連人権理事会などの国際舞台で、沖縄の人々を「先住民族」と強調する発言を繰り返してきた。2023年の会合では、中国外交当局者が「琉球の人々は独自の歴史と文化を有し、その権利は十分に尊重されるべきだ」と名指しで言及している。一見すれば人権尊重の美辞麗句だ。しかし、その背後で尖閣諸島をめぐる日中対立が激化している現実を、見ないふりはできない。

沖縄の「特殊性」を国際社会に刷り込むことは、日本の主権を相対化し、領土問題を曖昧にするうえで、極めて有効な手法だ。人権の仮面をかぶった地政学――そう呼ぶほかない。

そもそも国家の成立史が清廉潔白な国など存在しない。侵略、併合、服従。その積み重ねの上に、現在の国境線がある。それをすべて民族問題として再定義すればどうなるか。世界地図は過去にさかのぼるたび、何度でも塗り替え可能になる。日本国内ですら、文化や方言の差異を突き詰めれば、「民族」は無限に分裂するだろう。そんな議論が社会の安定に資するはずがない。

だからこそ、民族的権利と文化的多様性は切り分けねばならない。国家とは、単一民族の“純度”を競う装置ではない。多様な出自を包摂するための現実的な枠組みであるべきだ。沖縄の歴史と文化が独自であることは疑いようがない。しかし、それを「固有の民族国家」として国際政治の文脈で強調する行為は、沖縄を守るどころか、不安定化させる。

第二次世界大戦後、国際法は明確な線を引いた。「武力による領土変更は違法」。民族自決権も、植民地支配や戦後の不当な併合といった限定的状況にのみ適用されてきた。もし大戦前にまで遡って民族自決を全面解禁すれば、過去の歴史を理由にした領土要求が噴出し、新たな侵略を正当化する世界が到来する。

国連が琉球人を先住民族と位置づけた勧告も、あくまで人権文脈の延長線上にある。だが現実を見れば、沖縄県議会や県内自治体が公式に「先住民族宣言」を出した例は一度もない。県内自治体関係者の言葉が象徴的だ。「文化は大事だが、“民族国家”なんて言われ方をされると、話は別になる」

比較されがちなアイヌ民族も同様である。自治体が固有民族認定を求めたのではなく、国連勧告と国会決議によって位置づけが定まった。一方、沖縄は県全体が琉球文化圏に属する。それでも踏み込まなかったのは、「日本人であり、琉球人でもある」という重層的アイデンティティを尊重し、分断を避けるという現実的判断だったのだろう。

それにもかかわらず、沖縄を「固有民族国家」として国際社会に売り込む動きがあるとすれば、その目的は文化保護ではない。政治利用だ。豊見城市や石垣市の議会が抗議決議に踏み切ったのは、その危うさを直感的に理解しているからにほかならない。民族問題を過去へ過去へと無制限に持ち込めば、世界は再び「力が正義」の時代へと逆戻りする。その入口に、沖縄を立たせてはならない。

結論は明快だ。沖縄の文化的権利は最大限尊重されるべきだが、それを「民族国家」として政治的に消費することは、日本の安定と国際秩序の双方を損なう。国際社会の勧告をどう受け止めるか。その最終判断を下すのは、外からの声ではない。民主的手続きと、住民自身の意思だ。