職員室に封印された「禁書」 ― 2026年01月02日
防衛省が小学生向けに作成した「こども防衛白書」が全国の学校に配布され、教育現場がざわついている。なかでも長崎市では「職員室で保管」との対応まで取られたというが、これは事実上の“封印”に等しい。報道の多くは「政府が一方的な政治教材を送りつけ、現場が迷惑している」という、お決まりの被害者構図でこの騒動を描く。しかし、それはあまりに浅い理解だ。問題の核心は、“押し付け”か否かではない。日本の学校教育が、長年にわたって意図的に空白にしてきた領域が、ついに露呈したという点にある。
民主主義とは何か。自由はどのように守られているのか。国家は何のために存在するのか。多くの民主主義国家では、これらは市民教育の出発点として教えられる。民主主義は自然に与えられたギフトではなく、歴史的な闘争と犠牲の上に成立し、不断の努力なしには容易に崩れうる制度であること。国家が国民の生命や領土を守る役割を持つことも、特定の政治思想ではなく、社会を成り立たせる前提として共有されている。
ところが日本では、戦前教育への強烈なアレルギーと「政治的中立性」という言葉の誤用が絡み合い、国家や安全保障を語ること自体が“危険思想”のように忌避されてきた。その象徴が、学習指導要領における安全保障分野の極端な抽象化であり、教員養成課程で国防や国際安全保障を正面から扱わない構造である。結果として、教師自身が「教え方を知らない」まま現場に立たされ、扱いづらいテーマから距離を取ることが常態化した。
その帰結として、子どもたちは民主主義の脆さも、自由を支える制度設計も十分に学ばないまま社会に送り出される。そこへ突然、防衛省名義の白書が届けば、内容の是非以前に“異物”として拒絶反応が起きるのは当然だ。今回の混乱は、白書の出来が良いか悪いかの問題ではない。これまで「教えるべきことを教えてこなかった」教育行政のツケが、一気に噴き出したに過ぎない。
皮肉なのは、現代の子どもたちが学校の外では、スマートフォンを通じて戦争や軍事衝突の生々しい映像に日常的に触れているという現実だ。それらは断片的で、感情を刺激する一方、文脈や検証を欠くものが多い。学校が「中立」を盾に安全保障から目を背け続ければ、子どもたちは最初に出会った過激な言説に思考を“ハック”されるだけである。教えないことは中立ではない。ただの無防備な放置であり、教育の放棄に近い。
本来必要なのは、特定の政策を刷り込むことではない。事実と意見を区別し、国家間の力関係や国際秩序を理解するための「安全保障リテラシー」を育てることだ。これは思想教育ではなく、現代社会を生き抜くための思考の基礎体力である。にもかかわらず、一部メディアは「迷惑がる現場」という表層だけを強調し、防衛省の配布行為を単純な悪役に仕立てる。その結果、なぜ現場がここまで脆弱なのかという制度的欠陥は、都合よく不可視化されていく。これは批判ではなく、論点のすり替えだ。
中立性とは、国家の役割を曖昧にすることではない。複数の視点を示し、考える材料を与えることだ。国家が存在し、国を守る仕組みがあることを教えるのは、民主主義と何ら矛盾しない。むしろ、市民意識は教育によって耕されるものであり、自然発生するものではない。
「こども防衛白書」をめぐるドタバタ劇は、日本の教育が長年放置してきた巨大な空白を白日の下にさらした。問うべきは白書の是非ではない。民主主義と自由、国家の役割を土台に、現実の安全保障を多面的に考える力を、いつまで教育現場から締め出し続けるのかという点だ。問われているのは子どもでも教師でもない。学習指導要領を定め、教員養成の枠組みを設計しながら、その責任から逃げ続けてきた文部科学省と教育行政が、いつこの空白を自らの責任として引き受けるのか。その覚悟の欠如こそが、今回の騒動の「真の原因」ではないか。
民主主義とは何か。自由はどのように守られているのか。国家は何のために存在するのか。多くの民主主義国家では、これらは市民教育の出発点として教えられる。民主主義は自然に与えられたギフトではなく、歴史的な闘争と犠牲の上に成立し、不断の努力なしには容易に崩れうる制度であること。国家が国民の生命や領土を守る役割を持つことも、特定の政治思想ではなく、社会を成り立たせる前提として共有されている。
ところが日本では、戦前教育への強烈なアレルギーと「政治的中立性」という言葉の誤用が絡み合い、国家や安全保障を語ること自体が“危険思想”のように忌避されてきた。その象徴が、学習指導要領における安全保障分野の極端な抽象化であり、教員養成課程で国防や国際安全保障を正面から扱わない構造である。結果として、教師自身が「教え方を知らない」まま現場に立たされ、扱いづらいテーマから距離を取ることが常態化した。
その帰結として、子どもたちは民主主義の脆さも、自由を支える制度設計も十分に学ばないまま社会に送り出される。そこへ突然、防衛省名義の白書が届けば、内容の是非以前に“異物”として拒絶反応が起きるのは当然だ。今回の混乱は、白書の出来が良いか悪いかの問題ではない。これまで「教えるべきことを教えてこなかった」教育行政のツケが、一気に噴き出したに過ぎない。
皮肉なのは、現代の子どもたちが学校の外では、スマートフォンを通じて戦争や軍事衝突の生々しい映像に日常的に触れているという現実だ。それらは断片的で、感情を刺激する一方、文脈や検証を欠くものが多い。学校が「中立」を盾に安全保障から目を背け続ければ、子どもたちは最初に出会った過激な言説に思考を“ハック”されるだけである。教えないことは中立ではない。ただの無防備な放置であり、教育の放棄に近い。
本来必要なのは、特定の政策を刷り込むことではない。事実と意見を区別し、国家間の力関係や国際秩序を理解するための「安全保障リテラシー」を育てることだ。これは思想教育ではなく、現代社会を生き抜くための思考の基礎体力である。にもかかわらず、一部メディアは「迷惑がる現場」という表層だけを強調し、防衛省の配布行為を単純な悪役に仕立てる。その結果、なぜ現場がここまで脆弱なのかという制度的欠陥は、都合よく不可視化されていく。これは批判ではなく、論点のすり替えだ。
中立性とは、国家の役割を曖昧にすることではない。複数の視点を示し、考える材料を与えることだ。国家が存在し、国を守る仕組みがあることを教えるのは、民主主義と何ら矛盾しない。むしろ、市民意識は教育によって耕されるものであり、自然発生するものではない。
「こども防衛白書」をめぐるドタバタ劇は、日本の教育が長年放置してきた巨大な空白を白日の下にさらした。問うべきは白書の是非ではない。民主主義と自由、国家の役割を土台に、現実の安全保障を多面的に考える力を、いつまで教育現場から締め出し続けるのかという点だ。問われているのは子どもでも教師でもない。学習指導要領を定め、教員養成の枠組みを設計しながら、その責任から逃げ続けてきた文部科学省と教育行政が、いつこの空白を自らの責任として引き受けるのか。その覚悟の欠如こそが、今回の騒動の「真の原因」ではないか。