Nスぺ 難民たちの“ゲーム”2025年06月23日

Nスぺ 難民たちの“ゲーム”
先日再放送のNHKスペシャル『臨界世界 -ON THE EDGE- 生か死か 難民たちの“ゲーム”』を観た。難民問題をめぐる日本社会の認識に鋭い問いを投げかける。番組で取材された人々は、自らの越境行為を「ゲーム」と呼んでいた。運び屋に金を払い、命がけで国境を越える、勝てば庇護、負ければ死。あまりに過酷な“ルール”のもとで、彼らは今日も移動を続ける。この構図の中で、単に「難民は気の毒だ」と共感するだけでは、何も解決しない。むしろ問うべきは、なぜ人々は国を捨てて逃げざるを得ないのか、誰がその構造をつくり出しているのかという視点である。現代の難民問題は、人道的課題であると同時に、国家間の権力政治が生み出す“副作用”でもある。その最たる例がロシアである。旧ソ連によるアフガニスタン侵攻に始まり、シリア内戦ではアサド政権を支援して空爆を繰り返し、市民を国外へと追い出した。そして決定打となったのが、2022年に始まったウクライナへの全面侵攻である。

この戦争によって、1,200万人以上のウクライナ人が国外に避難。ポーランド、ドイツ、バルト諸国を中心に、ヨーロッパ全体が深刻な人道対応を迫られる事態となった。注目すべきは、ロシアが難民の発生を「戦略の一部」として意図していた可能性である。病院や学校、水道施設など、軍事的価値の乏しいインフラが繰り返し標的となったことは、住民の生活基盤を破壊し、住み続けられない環境を意図的に作っていた証左ともいえる。さらに、難民の大量流出はEUの結束を揺るがし、受け入れ国間の分断を生み出す。この現象はロシアが得意とする「ハイブリッド戦」の一環であり、兵器と同時に人の流れそのものを武器化するという冷徹な戦術である。

一方、中東に目を転じると、そこにもまた難民の地政学的な“結節点”が存在する。イランである。イランは、アフガニスタン、イラク、シリアなど政情不安の続く国々に囲まれており、中東難民の“中継地”として機能してきた。とりわけアフガニスタンからの難民については、2021年のタリバン復権以降、その流入は急増。イラン国内にはおよそ400万人以上のアフガン難民が滞在しているとされ、そのうち多くが正式な保護を受けず、不安定な立場に置かれている。また、シリアから逃れた難民の一部もイランを経由してトルコ・欧州へと向かうルートをたどっており、イランは単なる「通過点」ではなく、難民政策において明確な政治的立場を持つようになっている。宗派的な関係や地政学的な影響力の維持も相まって、難民の受け入れと締め出しを“外交カード”として使う場面も散見される。

つまり、ロシアが「難民を生み出す国家」であるとすれば、イランは「難民を抱え、かつ通過させる国家」であり、この二国はそれぞれ異なる形で難民地図の中核を担っている。両国に共通するのは、難民を単なる人道的課題ではなく、「国家戦略の文脈」で捉えているという点だ。にもかかわらず、国際報道の多くは「受け入れ側」の連帯や支援にばかり焦点を当て、「生み出す側」や「滞留させる側」の責任にはなかなか光が当たらない。主権の壁、取材の困難、外交的配慮など、理由は多々あるだろう。だが、そうした沈黙こそが、難民の構造的な再生産を許す温床となってはいないか。こうした報道の偏りは、難民とはほとんど無縁とされる我が国の移民問題においても、「人道問題」へと単純化・矮小化する傾向を助長している。難民の語られ方を問い直すことは、他人事ではない私たち自身の社会認識を見直す第一歩でもある。

いま必要なのは、「難民を救う」報道だけではなく、「難民を生まない構造」を可視化する報道である。戦争や弾圧によって人々が家を追われる背景にこそ、報道は焦点を当てるべきだ。NHKが映し出した人々の表情の奥に潜む“構造的暴力”を見逃さないこと。それこそが、私たちがこの混迷する世界で果たすべき責任であり、メディアが担うべき倫理ではないか。このような視点を持つことによって、ロシアの覇権主義やイランのイスラム原理主義がアラブやアフリカ各地にテロ組織を生み出してきた構造的連鎖を問い直すことが可能となる。つつましく生きていた無辜の人々に故郷を捨てさせたのは誰か。世界大戦の引き金を引きやすくしているのは誰なのか。その輪郭は、自ずと浮かび上がってくるはずである。

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