グリーンランド担当特使2025年12月25日

グリーンランド担当特使
北極圏に横たわる巨大な氷の島、グリーンランドがいま、国際政治の「ニューホットスポット」として異様な熱を帯びている。かつては極寒の辺境、あるいは地図の端に描かれる「白い空白」に過ぎなかったこの地を巡り、大国たちの剥き出しの野心と冷徹な計算が、音を立ててぶつかり合っているのだ。火をつけたのは、やはりあの男である。ドナルド・トランプ米大統領は、当選早々「国家安全保障のためにグリーンランドを手に入れる必要がある」とぶち上げ、あろうことかルイジアナ州知事のジェフ・ランドリー氏を「グリーンランド担当特使」という前代未聞の役職に任命した。不動産王としての「買収」への執念か、それとも資源戦争を見据えた高度な地政学的戦略か。いずれにせよ、この人事はデンマークとの間に決定的な外交摩擦という火種を撒き散らしている。

だが、この騒動を単なるトランプ流の突飛なパフォーマンスと笑い飛ばすのは、あまりに無知というものだろう。米国が関心を剥き出しにするその陰で、北極圏にはロシアと中国が静かに、しかし確実にその触手を伸ばしているからだ。温暖化で氷が溶け、出現した「北極航路」は、世界の物流を根本から変える可能性を秘めている。さらに、その地下にはハイテク産業に不可欠なレアアースや貴金属が眠る。もはやこの島は、二十一世紀の覇権を握るための「最後のフロンティア」なのだ。

中国は「近北極国家」という強引な新造語を掲げ、港湾や鉱山への巨額投資をちらつかせて食い込みを図り、ロシアは北極海沿岸の軍事基地を再編・強化して自国の「裏庭」であることを誇示する。対するデンマークやEUは、「国際法に基づく領土の不可侵」という理想主義を盾に、米国の強引な揺さぶりを苦々しく見守るばかりだ。その倫理観は確かに尊い。しかし、クリミア併合からウクライナ侵攻に至る「力による現状変更」を目の当たりにしてもなお、既存の制度とマナーに固執し続ける欧州の姿は、冷酷なパワーゲームの現場ではどこか現実味を欠いて映る。

グリーンランド自身の足元も、また危うい。人口わずか五万七千人。広大な面積を持ちながら、約3,000億円の財政の半分近くをデンマークからの補助金に依存しているのが実情だ。島内には独立を悲願とする声が根強いものの、経済的・軍事的な自立基盤を欠いたままでは、列強による「草刈り場」となるリスクは拭えない。グリーンランド首相が「我々の未来は我々が決める」と主権を強調したところで、大国のエゴが渦巻く大海原において、小舟のような主権がいつまで荒波を凌げるのか、という残酷な問いが突きつけられている。

結局のところ、グリーンランド問題が我々に突きつけているのは、「理念」と「現実」のどちらを優先するのかという、逃げ場のない選択肢だ。もし欧州が、国際法という聖域に閉じこもり、地政学的な現実から目を逸らし続ければ、NATOの結束は内側から崩れ、中露の影響力は氷を溶かすように浸透していくだろう。

二十一世紀の安全保障の縮図は、この極北の島に凝縮されている。トランプ氏が放った「特使任命」という一石は、静まりかえっていた北極圏の秩序に波紋を広げ、既存のルールを根底から揺さぶっている。これは単なる領土の売り買いの話ではない。我々が守るべき「主権」とは何か、そして「安全保障」の本質はどこにあるのか。氷の下に眠る資源よりも先に、我々の覚悟が試されているのである。トランプの王様気取りと揶揄しているだけでは権威主義国の野望が挫けるはずがない。

人権が紛争に化ける瞬間2025年12月20日

「明白な内政干渉」と抗議決議
中国が国連の場で沖縄の人々を「先住民族」と位置づける発言を繰り返すなか、沖縄県豊見城市議会は12月18日、こうした主張を「明白な内政干渉」と断じる抗議決議を賛成多数で可決した。決議では、中国の発言が日本の主権を侵害するものだと指摘し、玉城デニー知事に対しても「沖縄県民は日本国民である」との立場を明確に示すよう求める意見書を採択。同様の決議は石垣市議会でも可決されており、国連の先住民族勧告をめぐる問題が、地方自治体レベルで現実の政治課題として噴出している。

沖縄をめぐる「先住民族認定」ほど、耳触りのいい言葉がこれほど不穏な影を引きずるテーマは、そう多くないだろう。「国際人権」。この魔法の言葉が掲げられた瞬間、異論はたちまち「差別」や「時代遅れ」として封じ込められる。だが、その思考停止こそが、沖縄を静かに、しかし確実に“大国の外交カード”へと変質させていく。

中国は近年、国連人権理事会などの国際舞台で、沖縄の人々を「先住民族」と強調する発言を繰り返してきた。2023年の会合では、中国外交当局者が「琉球の人々は独自の歴史と文化を有し、その権利は十分に尊重されるべきだ」と名指しで言及している。一見すれば人権尊重の美辞麗句だ。しかし、その背後で尖閣諸島をめぐる日中対立が激化している現実を、見ないふりはできない。

沖縄の「特殊性」を国際社会に刷り込むことは、日本の主権を相対化し、領土問題を曖昧にするうえで、極めて有効な手法だ。人権の仮面をかぶった地政学――そう呼ぶほかない。

そもそも国家の成立史が清廉潔白な国など存在しない。侵略、併合、服従。その積み重ねの上に、現在の国境線がある。それをすべて民族問題として再定義すればどうなるか。世界地図は過去にさかのぼるたび、何度でも塗り替え可能になる。日本国内ですら、文化や方言の差異を突き詰めれば、「民族」は無限に分裂するだろう。そんな議論が社会の安定に資するはずがない。

だからこそ、民族的権利と文化的多様性は切り分けねばならない。国家とは、単一民族の“純度”を競う装置ではない。多様な出自を包摂するための現実的な枠組みであるべきだ。沖縄の歴史と文化が独自であることは疑いようがない。しかし、それを「固有の民族国家」として国際政治の文脈で強調する行為は、沖縄を守るどころか、不安定化させる。

第二次世界大戦後、国際法は明確な線を引いた。「武力による領土変更は違法」。民族自決権も、植民地支配や戦後の不当な併合といった限定的状況にのみ適用されてきた。もし大戦前にまで遡って民族自決を全面解禁すれば、過去の歴史を理由にした領土要求が噴出し、新たな侵略を正当化する世界が到来する。

国連が琉球人を先住民族と位置づけた勧告も、あくまで人権文脈の延長線上にある。だが現実を見れば、沖縄県議会や県内自治体が公式に「先住民族宣言」を出した例は一度もない。県内自治体関係者の言葉が象徴的だ。「文化は大事だが、“民族国家”なんて言われ方をされると、話は別になる」

比較されがちなアイヌ民族も同様である。自治体が固有民族認定を求めたのではなく、国連勧告と国会決議によって位置づけが定まった。一方、沖縄は県全体が琉球文化圏に属する。それでも踏み込まなかったのは、「日本人であり、琉球人でもある」という重層的アイデンティティを尊重し、分断を避けるという現実的判断だったのだろう。

それにもかかわらず、沖縄を「固有民族国家」として国際社会に売り込む動きがあるとすれば、その目的は文化保護ではない。政治利用だ。豊見城市や石垣市の議会が抗議決議に踏み切ったのは、その危うさを直感的に理解しているからにほかならない。民族問題を過去へ過去へと無制限に持ち込めば、世界は再び「力が正義」の時代へと逆戻りする。その入口に、沖縄を立たせてはならない。

結論は明快だ。沖縄の文化的権利は最大限尊重されるべきだが、それを「民族国家」として政治的に消費することは、日本の安定と国際秩序の双方を損なう。国際社会の勧告をどう受け止めるか。その最終判断を下すのは、外からの声ではない。民主的手続きと、住民自身の意思だ。

ルンバよお前もか2025年12月17日

ルンバよお前もか
先日、家庭用ロボット掃除機「ルンバ」で知られる米アイロボット社が、米デラウェア州の連邦破産裁判所にチャプター11(米連邦破産法11条)を申請したというニュースが世界を駆け巡った。パンデミック期には“巣ごもり特需”に沸き、時価総額が一時40億ドルを超えた企業が、わずか数年で経営破綻。テクノロジー産業の栄枯盛衰を象徴する出来事である。

転落の最大要因は、中国メーカーの急伸だ。RoborockやECOVACSといった中国勢は、圧倒的な量産力と改良スピードを武器に価格を切り下げ、世界市場を席巻した。高価格帯モデルに依存してきたiRobotは、この“消耗戦”に耐え切れなかった。追い打ちをかけたのが、Amazonによる買収計画の破談である。欧州規制当局は「家庭内データの独占につながる」と難色を示し、GDPRや環境規制を盾にストップをかけた。資金調達の道を断たれた同社に、もはや立て直す余力は残されていなかった。

研究開発費は削られ、人員の約3割が整理される。縮小均衡の経営は、結果として技術革新の停滞を招き、競合との差をさらに広げた。そして最終局面で選ばれたのが、中国・深センのPICEA Roboticsへの全株式売却である。最大債権者でもあった同社に身売りする形で、ルンバというブランドは生き残ったが、その所有権は中国資本に移った。アメリカ発の象徴的スマート家電ブランドが、競争と規制の狭間で飲み込まれた瞬間だった。

興味深いのは日本市場だ。ルンバは2004年の上陸以来、「お掃除ロボットの代名詞」として定着し、累計出荷台数600万台、世帯普及率10%超という圧倒的な地位を築いてきた。世界で中国勢が猛威を振るう一方、日本では「中国製IoT機器への不安感」が根強く、価格よりも“安心と信頼”が選好されてきた。家庭内データを扱うIoT製品だけに、「安いが怖い」という感情は軽視できない。日本は、ルンバにとって最後の牙城だったのである。

だが、そのルンバも今や中国企業の所有物だ。「日本ではルンバが強い」と言っても、実態は中国資本の製品を使っている構図になる。安心感の象徴だったブランドが、知らぬ間にグローバル資本の再編に組み込まれていた――この事実は、消費者にとってなかなかに複雑だ。技術史的にも文化的にも、寂しさが残る結末である。

我が家にルンバがやって来たのは7年ほど前だ。段差を越えられず、部屋の隅で立ち往生する姿はどこか愛嬌があった。タイヤが擦り切れればゴムを替え、電池がへたれば互換品を探し、今も家中を健気に走り回っている。購入当時、半額の中国製もあったが、セキュリティが怖くて敢えてルンバを選んだ。「高くても安心を買う」つもりだったのだ。

それが中国資本の傘下に入ったと知ると、家の中まで“監視”されているような、理屈ではない不安がよぎる。今回の倒産劇は、「中国以外に掃除ロボットはほぼ存在しない」という現実を白日の下にさらした。安心感を重視する日本市場と、価格競争に支配された世界市場。その対比を、これほど鮮烈に示した出来事も珍しい。ルンバの迷走は、IoT時代の消費者が何を信じ、何を選ぶのかを、静かに、しかし鋭く問いかけている。

中国軍が自衛隊機にロックオン2025年12月08日

中国軍が自衛隊機にロックオン
沖縄本島南東の公海上空でまたやられた。12月6日、中国空母「遼寧」から発進したJ-15戦闘機が、領空侵犯対処に当たっていた航空自衛隊F-15に対し、断続的に火器管制レーダーを照射した。火器管制レーダーと聞けば日本語的には曖昧だが、要は銃の安全装置を外して相手に向けたわけで、引き金を引けば銃撃される。戦闘機は相手からレーダー波を感知して自機が攻撃されるという警告灯が点灯し警告音が鳴る。防衛省が照射事案を公式に公表した以上、発生そのものは疑いようのない事実である。日本政府は即座に北京へ厳重抗議を叩きつけた。これに対し中国海軍は「自衛隊機が安全を脅かした」と一方的に主張し、肝心のレーダー照射そのものには触れなかった。否定も弁明もなく、事実への言及を避ける態度こそが最も雄弁な答えだ。

同じ手口は米軍に対しても繰り返されている。南シナ海、東シナ海、西太平洋のどこを飛ぼうが、中国軍機は米軍偵察機に数十メートルまで異常接近し、時には機体を逆さにして威嚇する。米国防総省が「unsafe and unprofessional」と名指しで非難しても、中国外務省の返事はいつも決まっている。「米側が先に挑発した」という責任転嫁の常套句だけだ。危険行為そのものを否定する材料は、いつまで経っても出てこない。否定できないから、黙るか、あるいは今回のように論点をすり替えるしかない。この「やっておいて黙る/すり替える」戦法が積み重なるたびに、国際社会に残るのは「中国軍がやった」という事実だけになる。否定できない事実は、やがて「常習犯」という評価に変わる。

ここで最も不気味なのは、中国共産党の中央統制が明らかに機能不全に陥っていることだ。習近平体制に入ってから、軍の高級幹部は次々と失脚し、更迭されている。ロケット軍はほぼ全幹部が入れ替わり、海軍・空軍でも「腐敗摘発」の名の下に粛清が続いている。中央が必死に締め付けている証左である。それなのに現場は止まらない。むしろエスカレートしている。独裁体制の鉄則は、中央の意思が絶対に末端まで貫徹されることだ。それが崩れるとどうなるか。現場の軍人が中央の意向を超えて行動し始めたとき、偶発的衝突は一気に全面戦争へと突き進む。歴史が証明している。1931年の満州事変も、関東軍の独走が引き金だった。

さらに見逃せない動きがある。中国は先日、国連憲章に残る「敵国条項」を外交の場でちらつかせ始めた。第二次大戦の旧枢軸国に対する特別措置で、国際社会ではすでに死文化したと見なされている規定だ。それをわざわざ持ち出すこと自体、現場の軍人に「日本に対しては特別に強硬で構わない」という暗黙のメッセージを送っているようにも読める。そう考えると、今回のレーダー照射は単なる偶発的な現場の暴走ではなく、中央の覇権主義的な言及の間隙を突いた軍事行動の一環だった可能性がある。もしそうなら、これは危険なエスカレーションの兆候だ。外交的な沈黙や論点すり替えの裏で、軍が独自に行動を拡大しているとすれば、独裁体制の統制不全を示すだけでなく、国際社会にとって予測不能なリスクを孕む。

結局、残されたファクトはこれだけだ。防衛省が発表したこと、日本政府が抗議したこと、そして中国側が照射事実に触れず責任転嫁を繰り返していること。これに米軍への度重なる危険接近、軍内部の異常な人事異動、敵国条項の再提起が重なると、見えてくる構図は一つしかない。独裁国家の軍が、中央のコントロールを失いつつある、という現実だ。軍の統制が利かない独裁ほど怖いものはない。挑発は単なる威嚇ではなく、体制そのものの綻びをさらけ出す警告灯である。そしてそのロックオン警告灯は、今、赤く点滅し続けている。

中国の情報工作2025年12月07日

中国の傅聡(ふ・そう)国連大使が山崎和之国連大使に対し、高市早苗首相の国会答弁の撤回を迫る書簡を立て続けに送り、日本側も反論書簡で応じる——いま国連では、異例の応酬が続いている。だが、これは単なる意見の食い違いではない。北京が長期的に展開してきた「日本=危険国家」キャンペーンの最前線であり、日本を地域の不安定要因と印象づけるための計画的な情報作戦にほかならない。

その一端はすでに露骨に表れている。薛剣・駐大阪総領事はSNS上で、当時の高市早苗首相を暗に指して「その汚い首はためらわず斬るしかない」と書き込み、世界から強い非難を浴びた。しかし中国側は謝罪するどころか「日本の挑発が原因だ」と逆ギレのような責任転嫁に終始した。この一連の振る舞いは、国際社会に「あの危険な国・日本が中国を刺激している」という物語を植え付けるための、“作り物の危機”の演出にほかならない。

そして驚くべきことに、この危険な物語の“種火”となったのは、日本国内メディアの報道だった。発端は国会で、立憲民主党の岡田克也議員らが台湾有事を巡り「存立危機事態の認定はあり得るか」と問うた場面。高市首相は従来の政府答弁を繰り返しただけで、政策変更でも断定的発言でもない。しかし朝日新聞は、このやり取りをあたかも「日本政府が台湾有事への軍事関与を決めた」かのように報じ、中国語圏SNSで瞬く間に拡散した。結果として日本の国内メディアの“誤射”が、そのまま北京にとっての絶好の外交カードとなったのである。

その後の国連での書簡応酬は、冷戦期のプロパガンダ戦を思わせる激しさを帯びている。12月1日、傅聡大使はグテーレス国連事務総長に2度目の書簡を提出し、高市氏の答弁を「誤った発言」と断定。さらに「中国への武力行使を示唆しており、専守防衛を逸脱している」と決めつけ、「撤回しなければあらゆる結果の責任を負う」と威嚇した。一方、日本側も即応し、山崎大使が反論書簡で「日本の防衛政策は受動的な専守防衛であり、中国側の主張は事実に反する」と明確に否定した。

――そしてここからがより深刻だ。近年、中国政府・国営メディアは旧敵国条項の“復活”や、サンフランシスコ平和条約そのものの否定論まで持ち出し始めている。「日本は旧敵国であり、安保理決議なしに武力行使できる」「サンフランシスコ条約は無効で、日本の戦後地位も台湾の地位も根拠を失う」。これらは国際法の基礎を覆す暴論であり、戦後秩序への正面からの挑発である。半世紀を超えて認知されてきた国際協定の否定は、まさに“ルールを書き換える覇権国家の論理”であり、これがまかり通ればどんな講和条約も気まぐれに無効化されてしまう。

今回の騒動で露わになったのは、日本の国会質疑 → 国内メディア報道 → 中国の情報戦という経路が、あまりに脆弱で、あまりに無防備だという冷徹な現実である。一つの誤解が国境を越え、プロパガンダと結びついた瞬間、それは外交の“火種”どころか、国際的な対立の燃料として一気に拡散していく。

国際政治の主戦場が、会議室からSNS・メディア空間へ完全に移ったいま、報道の精度は国家安全保障の一部になった。誤情報は“武器”となり、拡散速度はミサイルより速い。大国の恣意的な歴史改ざんに対抗する上でも、事実に基づく言論の堅牢さこそ、最も重要な防衛装置である。

もっとも、中国の荒唐無稽な論理に真顔で向き合う国は、結局、同じ体制の“独裁三兄弟”くらいだろう。ここまでくると、過剰な反応より、むしろ乾いた笑いで受け流すくらいの余裕が、国際世論を味方にする最も効果的な術なのかもしれない。

子どもを奪う国2025年12月05日

子どもを奪う国
戦争の残虐さを最も如実に物語るのは、いつも子どもたちの姿だ。先週、国連総会は異例の明確さでロシアを糾弾した。ウクライナから数万人の子どもたちが「保護」という名目でロシア国内へ強制移送されている問題で、「即時・無条件での帰還」を求める決議を採択したのである。賛成は91、反対はわずか12。表向きには「これは許されない」と圧倒的多数が意思表示した形だ。だが裏を返せば、棄権を含めて69か国が賛成に回らなかったことになる。つまり国際社会の足並みは完全には揃っておらず、ロシアに対する圧力の限界と、なお権威主義国家に迎合する勢力の存在を浮き彫りにした。ロシア側はいつものように「人道的な避難措置だ」「虚偽のプロパガンダだ」と鼻で笑う。しかし、国際刑事裁判所(ICC)はすでにプーチン大統領とロシア子どもの権利委員マリア・リョヴォワ=ベロワに逮捕状を出している。罪状は「戦争犯罪としての子どもの強制移送」。もはや「人道的」と言い張る余地は、国際法上、どこにもない。

現地で子どもたちを救出しているNGO「Save Ukraine」の報告は目を覆うばかりだ。連れ去られた子どもたちはロシア国内の施設で「あなたたちはこれからロシア人になるのよ」と告げられ、ウクライナ語を話すと罰せられ、ロシア国歌を歌わされ、軍事訓練まで強いられているという。養子縁組も急ピッチで進められ、戸籍上も「ロシア人」にされてしまう。まさに民族の根こそぎ同化政策である。

歴史を紐解けば、こういう手口は権威主義のお家芸だ。ナチス・ドイツは占領地から「アーリア血統に見える」子どもを連れ去り、ドイツ人家庭に養子に出した。ソ連は戦後の東欧で孤児を「共産主義教育」を施した。どちらも「未来の敵」を育たないようにするための、冷徹な人口戦略だった。ロシアが今やっていることは、その現代版に他ならない。

そしてこれは、決して遠いヨーロッパの話ではない。北朝鮮による日本人拉致被害者のなかには、13歳だった横田めぐみさんをはじめ、未成年も含まれていた。中国は新疆ウイグルやチベットで親元から子どもを引き離し、全寮制学校にぶち込む政策を大々的に展開している。内モンゴルではモンゴル語教育が事実上禁止され、子どもたちは漢語だけで育つことを強いられている。

つまり日本を囲む三つの権威主義国家は、揃いも揃って「子どもの連れ去り」を国家戦略に据えているのだ。親の気持ちなど、想像するまでもない。わが子を奪われた母親の絶望は、どれほどのものか。獣でさえ必死に子を守るというのに、人間はわざと子を奪い、親の心を抉り、民族の未来を根こそぎにする。それを「政策」と呼んで憚らない冷血さ。これが人間の所業と言えるのか。

国連決議に法的拘束力はない。しかし「世界の常識」を示す力はある。ロシアがどれだけ「でっち上げだ」と喚こうが、救出された子どもたちの証言は積み重なり、国際世論は動く。動けば制裁は強まり、ロシアの孤立は深まる。子どもを奪うことは、未来を奪うことだ。この蛮行を「戦争犯罪」として明確に認定し、国際法で縛ることは、今後の紛争抑止にも直結する。日本にできることは多い。拉致被害者奪還への執念を決して手放さず、ウクライナの子どもたちの声に耳を傾け、周辺国の同化政策を決して看過しないことだ。

戦争は大人のエゴで始まる。しかし一番苦しむのは、いつも子どもたちである。権威主義が十八番とする「子どもの未来を奪う手法」に対し、文明社会がどこまで毅然と立ち向かえるか。今回の国連決議は、まさにその試金石だ。反対や棄権に回った国には権威主義国3兄弟が顔をそろえている。子供を奪う国は必ず亡びるという歴史を学ぶ気はないらしい。

ウナギ交渉の行方2025年12月02日

ウナギ交渉の行方
ニホンウナギをめぐる国際交渉で、日本は“逃げ切った”ように見える。だが、この勝利は賞味期限が短い。ウズベキスタン・サマルカンドで開かれたワシントン条約第20回締約国会議(CoP20)で、EUとパナマが推したウナギ属全種の規制案は否決。日本、韓国、中国、米国が反対に回り、票決では押し切った形だ。しかし、会議場の空気は明らかに逆風だった。「今回は引くが、3年後の次回は譲らない」。各国の代表から漏れた言葉は、そのまま国際社会の総意に近い。理由は単純だ。資源が減っており、しかも減り続けている。

ニホンウナギはマリアナ諸島西方で産卵し、黒潮に乗って日本へ回遊する“海の旅人”だ。だが近年は黒潮の大蛇行が長期化し、海水温も上昇。稚魚(シラスウナギ)の来遊量は、豊漁と不漁が乱高下する“ジェットコースター状態”に陥っている。統計上の“豊漁年”がまれに現れても、それは資源回復ではなく、単なる揺らぎである。

そして、日本にとって最も厄介なのが、中国・台湾の漁獲報告の不透明さだ。国際調査では、報告量と市場に出回る数量が著しく乖離し、「捕れていないはずの稚魚」が大量に流通している事例が確認されている。高値で取引される稚魚は、密漁・横流し・無報告のインセンティブが消えない。結果、合法性の証明ができないシラスウナギがアジアの闇ルートを経て市場に流れ込み、日本は“透明性の低い供給網”に組み込まれたままだ。これこそが、国際社会が日本に規制強化を迫る最大の論拠である。

資源悪化の原因は、環境変動、河川改修、沿岸乱獲──複数の要因が積み重なった複合災害だ。“そのうち自然が回復する”という楽観論は、すでに科学的にはほぼ否定されている。必要なのは、逃げ続けてきた資源管理体制そのものの刷新である。そして、その唯一の突破口となり得るのが完全養殖だ。

2010年の世界初成功以来、技術は急速に進歩し、民間企業も本格参入。現在は2028年までに商業化を狙い、大量生産とコストダウンが進む。初期価格は1尾1000〜1500円。味も従来の養殖と遜色ないという。だが、完全養殖はまだ“夢の量産技術”ではない。孵化から稚魚期までの歩留まり、生産ラインの自動化、餌のコスト──課題は山積だ。特にシラスサイズへの到達率は、技術的な壁として依然高く、量産化への最大のネックになっている。

それでも、国際交渉の場で効力を持つのは、「代替手段を確保している国」だという厳然たる現実がある。完全養殖の商業化が近い国と、いつまでも天然稚魚に依存する国では、交渉の“発言権の重さ”がまるで違う。

CoP20の否決は、日本にとって勝利ではない。むしろ、次の大会へ向けた最後の猶予だ。このタイムリミットを使い切れなければ、次に突きつけられるのは「規制強化不可避」という冷徹な判決である。そして、その審判台に立たされるのは──ウナギではなく、日本の覚悟そのものだ。

香港大火災と報道2025年11月29日

香港大火災と報道
防災の世界では、分かっていても動かない——香港・新界大埔で発生した高層住宅火災は、その現実を痛烈に示した。竹足場と建設ネットなど可燃資材が延焼を助長し、83人が死亡、数千人が避難する未曾有の惨事となった。火災の要因は技術的に明確だが、背後には都市制度や政治体制の影響も透けて見える。日本の報道は、竹足場の延焼や消防活動の困難、工事会社幹部の逮捕など事実中心に終始する傾向が強い。一方、欧米メディアの一部は火災を「都市計画や制度の不備が引き起こした災害」と位置づけ、透明性や市民参加の欠如に触れた。例えば英国ガーディアン紙は「防火規制の遅れと官僚の情報伝達の停滞が、悲劇を増幅させた可能性がある」と指摘し、米ニューヨーク・タイムズは「統制優先の政治文化が市民安全の改善を妨げている」と分析している。こうした比較から、日本報道が政治体制や制度的要因に踏み込む視点をほとんど提供していないことが際立つ。

ここで重要なのは、自国の政策や安全保障に関して批判的に報道するのであれば、他国で市民の安全が政治・制度の制約によって脅かされる事例も同じ視点で扱うべきだ、という点である。香港大火はまさにその格好の対象であり、制度や政治体制の影響を見落とすことは、市民の安全や公共利益の観点から不十分な報道と言える。

竹足場の延焼リスクは専門家の間でも認識されていた。それでも制度改善は十分に進まなかった。危険性が意図的に封じられたわけではなく、制度上扱われにくい構造が背景にあると考えられる。特に一党独裁の体制下では、情報は上意下達型で、現場の警告や問題報告が上層部に届きにくく、秩序や統制を優先する文化の下では、危険の公表より現状維持や迅速な初動対応が重視されがちだ。この構造が、潜在的な危険を放置する要因となっていた可能性がある。社会心理も災害対応の遅れに影響する。危険地域の改善や建物更新は、効果が数十年単位でしか現れず、制度改善の優先度は低くなりがちだ。市民や住民の反発、予算制約、調整の複雑さも加わり、現場レベルでの危険軽減策は後回しになりやすい。

現状の報道では、事実の積み上げに終始する傾向が強く、政治体制や制度上の課題を照らし出す視点は十分に提供されていない。市民の安全や公共利益の観点からは、制度や政治体制の構造的問題を可視化する報道が不可欠である。中国では都市開発や高層住宅改修で、防火基準や検査体制が不十分なことが繰り返し指摘されてきた。火災時には消防より警察や軍が優先動員される傾向があり、制度的課題が顕在化する構造となっている。今回の火災は、危険な資材の使用、密集住宅、制度不備が重なり、悲劇を増幅させた。防災を文化や職人技の問題に矮小化すると、根本的な制度課題の議論が覆い隠されることにもなる。

市民の安全を守るには、防災を技術論や文化論だけで語るのではなく、制度設計、透明性、参加の仕組み、政治体制が防災に与える影響という観点から論じる必要がある。香港大火は、その必要性を残酷なまでに突きつけた。報道は単なる事実列挙にとどまらず、制度や都市設計、政治体制の課題に光を当てる役割を問われている。

議員外交は非公式チャネルか?2025年11月22日

議員外交は非公式チャネルか?
立憲民主党の岡田克也幹事長が中国共産党幹部と会談したという報道は、当初は小規模な政治ニュースに過ぎなかった。しかし、NHK党の浜田聡前議員が「スパイ行為ではないか」と批判したことで、事態は一変。ネット世論が沸騰し、与野党の立場が交錯、さらには台湾問題にまで波及した。この騒動は単なる岡田氏個人の是非を超え、政党外交の透明性、台湾をめぐる国内政治のねじれ、そして非公式チャネルの制度的リスクという三層の問題を一挙に露呈させた。

発端は、岡田克也氏が国会で台湾有事に関する質問を行い、高市早苗総理が「台湾有事が存立危機事態に該当する可能性がある」と答弁した場面である。これは従来の日本政府が避けてきた「台湾有事=日本有事」という直接的な言及に一歩踏み込むものであり、外交的には重い意味を持つ。中国にとっては看過できないメッセージであり、当然ながら反応は鋭くなる。

しかし、この発言は国内政局に吸収され、政党間の攻防材料として消費されていく。公明党の一部は発言の撤回を求め、共産党は挑発だと批判。台湾問題が「外交」から「内政の素材」へと急速に転落する様は、宗教政党として中国との関係維持を重視する公明党や、反安保を掲げる共産党の立場が色濃く反映されたものだ。こうした政党間の温度差こそ、中国が最も注視する“内部データ”であり、国内の分断は相手国にとって格好の攻撃材料となる。

外交政策が政党間のパワーゲームに変質した瞬間、国家の判断は曖昧になり、相手国はそこに付け込む。総理の発言に各党が横槍を入れ、それがメディアで過剰に消費される構図は、まさに中国が長年磨いてきた情報戦の成果である。日本は気づかぬうちに「台湾をめぐる内政分断」という罠に足を踏み入れてしまった。

この文脈で浮上するのが「非公式チャネル」の扱いである。公式外交が機能しにくい時代において、政党や議員による裏ルートの活用は柔軟性をもたらすという主張もある。実際、政党外交が緊張緩和に貢献した事例も存在する。しかし、日本の問題は「非公式ルートの必要性」以前に、それを監視・透明化する制度がほぼ皆無である点にある。

欧米諸国では、非公式チャネルが暴走しないよう多層的な抑止装置が整備されている。たとえば米国のローガン法やFARA(外国エージェント登録法)では、外国の利益のために活動する者に登録と報告を義務付けており、違反すれば刑事罰の対象となる。また、情報機関による監視や議会報告義務も制度化されており、非公式外交が国家方針と乖離することを防いでいる。

一方、日本ではスパイ防止法すらなく政党や議員が独自の判断で外国勢力と接触しても、外務省は「聞いていない」で済んでしまう。情報機関には警告権限すらなく、事後のチェックも制度化されていない。このような環境で「複数の非公式ルートが必要だ」と主張しても、それは制度的に無防備なまま敵地に踏み込むようなものである。

今回の岡田氏の会談をめぐる騒動が示した最大の教訓は、日本が非公式チャネルを管理する制度も、透明化のルールも、監視のフレームも持たないまま、「必要だ」「危険だ」と議論だけを繰り返してきたという現実である。この無防備こそが、中国にとって最も都合の良い“構造的隙”であり、外交の柔軟性が制度の穴として機能した瞬間、国益は静かに侵食される。

台湾問題をめぐって国内が割れる構図は、まさに中国の思惑通りの展開である。非公式ルートを持つこと自体は否定されるべきではないが、その前提として制度的な担保が不可欠である。日本がこのまま“性善説外交”を続けるならば、影響工作の温室としての脆弱性を温存し続けることになる。今回の一件は、日本外交にとって制度整備の是非を問う最後通牒である。選択の猶予は、もはや多くは残されていない。

Cloudflare社の大事故2025年11月20日

Cloudflare社の大事故
昨夜、AIで調べ物をしようとコパイロットにつなぐと「現在使えない」。ならばとChatGPTを開いても沈黙のまま。おかしい、とXを覗けばこちらも読み込みエラー。唯一動いたのはGoogleのジェミニだけ。ネットの空気がざわついているのが、手に取るように分かった。原因は、米インターネット基盤企業 Cloudflare の“大事故”だった。世界のWebトラフィックの2割を握る巨大インフラがつまずけば、デジタル社会は一斉に転ぶ。引き金となったのは、同社のボット対策機能「Bot Management」の設定ファイルだ。通常なら一定サイズで管理されるはずのそれが、内部の仕様変更で肥大化し、システムがクラッシュ。正規の通信まで遮断され、各地で「500 Internal Server Error」が噴出した。被害の顔ぶれは、ChatGPT、X、Zoom、Spotify、Canva、Teams、Visa…と、ほぼ“現代生活の配管”と言っていいサービスばかり。蛇口をひねれば水が出るように、ネットがつながるのは当たり前――そんな常識が一瞬で崩れた。

Cloudflareのマシュー・プリンスCEOは「2019年以来で最悪の障害」と謝罪し、復旧に奔走。日本時間19日午前4時半頃、ようやく復旧のアナウンスが出た。サイバー攻撃ではなく“単なる設定ミス”。だが、その“単なる”が世界中の神経を逆なでした。今回の一件は、インターネットの“中央集権”がもたらす危うさを白日の下に晒した。医療、行政、金融――社会の根幹が外部インフラに寄りかかっている現実は、便利さの裏で危険な綱渡りでもある。幸い病院や警察などのコア業務に大規模な停止は報告されていないが、予約サイトや通知システムが一時的に揺らいだ可能性は否定できない。

制度面でいえば、外部インフラへの依存度を可視化し、監査可能性を確保することが急務だ。さらに、フェイルセーフ設計の徹底、最低限のサービス継続を担保する冗長化、障害時の情報公開ルールの標準化――いずれも“平時は見向きもされないが、ひとたび事故が起きれば命綱になる”仕組みである。公共部門や医療機関においては、CDNの多重化やAPIの冗長構成、通知手段の複線化(SMS、電話、院内掲示など)を含むBCPの再点検は待ったなしだ。

要するに今回の障害は、単なる技術トラブルなどではない。世界が便利さの代償として抱え込んだ“制度的な弱点”に、Cloudflareが赤信号をともした格好だ。再発防止には、技術修正だけでなく、インフラの契約構造や運用監督のあり方そのものを見直す覚悟が求められている。