PECS例会 ― 2022年09月04日
久しぶりに良い実践報告が聞けた。職場からの報告は組織で取り組んでいるという力強さがある。家庭の報告とは意味合いが違い、支援サービスとして提供している公共性が嬉しい。とはいうものの、そう言って20年以上前から学校で取り組んできたが、人でつなぐ実践は人がいなくなれば持続しない。学校はいつまでたっても一教師の力量にかかっている。せめて、管轄教委が共通メソッドに掲げぬ限りは、たまたまの人事がASDのコミュニケーションの可能性の運命を決めてしまう。それはPECSに限らない。応用行動分析しかり構造化しかりである。特別支援教育は教え方が大事なのに内容と目標しかない。それはASDの教育方法だけではなく、発達障害の教育方法全てに共通する。凸凹の子どもの指導に行動分析的アプローチが有効、読み書き困難の子どもにはドリル指導が有害なこと、すべては科学的なデータをもとに有効性無効性が示されているのに公的に取り組まれない。
これは行政の上へ行けば行くほど、優秀な専門家がいないことから起きている。厚労省関連の福祉行政も同じだが、民間委託している分縛りが緩く運営は行政の権力外にあるから施設のトップさえその気になればまだやりやすいのだ。公教育の行政機関は巨大すぎるだけに責任が大きすぎて動きが取れないのだ。あてにしても仕方がない。待っていたら100年たっても変わらない。
これは行政の上へ行けば行くほど、優秀な専門家がいないことから起きている。厚労省関連の福祉行政も同じだが、民間委託している分縛りが緩く運営は行政の権力外にあるから施設のトップさえその気になればまだやりやすいのだ。公教育の行政機関は巨大すぎるだけに責任が大きすぎて動きが取れないのだ。あてにしても仕方がない。待っていたら100年たっても変わらない。