ムスリム対応の給食2025年10月14日

ムスリム対応の給食
「ムスリム対応の給食が始まったらしい」──そんな誤情報がSNSで拡散され、北九州市教育委員会が火消しに追われたのは今年9月のこと。実際には、アレルギー対応として豚肉など28品目を除いた給食を一日だけ提供しただけだった。だが、そこに「宗教配慮」と読み取った人々が「日本人が我慢させられている」と抗議を始め、千件を超える苦情が市に殺到した。この騒動、単なる誤解では済まされない。背景には、制度の限界を理解せずに「すべてに応えるべき」とする過剰な期待がある。公共制度は万能ではない。限られた財源と人員の中で、命に関わるアレルギー対応すら綱渡りで行われている現場に、宗教的禁忌への対応まで求めるのは、現場の実情を無視した善意の押しつけとなりかねない。

そもそも、アレルギー対応と宗教対応はまったく別物だ。前者は医学的リスクに基づく安全配慮であり、学校側には法的義務がある。後者は信仰や文化的価値観の尊重であり、政教分離原則や予算制約のもと、制度的には任意対応にとどまる。これを混同して「なぜアレルギーに配慮するのにムスリム食はないのか」というのは、制度の設計意図を理解していない証左だ。例えるなら、うどん屋に入って「スパゲッティを出せ」と言うようなものだ。出てこないのは差別ではない。単なる入店者の錯誤である。制度には提供可能な範囲があり、それを超えた要求は「拒絶」ではなく「不適合」なのだ。

では、どうすればよいのか。まずは制度の限界を明示し、対応可能な範囲を丁寧に説明することが必要である。そして、「みんなで同じものを食べる」ことを善とする発想から脱却し、「違っていても共にある」ことを前提に制度を設計すべきである。一律対応ではなく、選択肢のある柔軟な枠組みへと移行すること。それこそが、真の多文化共生の姿である。

限られた財政状況のもとでは、最低限の給食サービスの内容を明示し、それを超える個別のニーズについては、弁当持参という選択肢を認めることで対応すべきである。さらに高度な個別的なサービスを求める場合には、現場に負担を強いるのではなく、民主的な手続きを通じて制度改善に取り組めばよい。北九州市の事例は、制度設計と市民理解の間に存在する深い溝を浮き彫りにした。今後の公共対応において求められるのは、感情的な包摂ではなく、構造的公正を基盤とした冷静かつ持続可能な制度設計である。

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