低学年の通知表を廃止 ― 2025年05月12日

岐阜県美濃市では、来年度から市内の五つの小学校で1・2年生の通知表が廃止されるという。校長同士の合意により、子どもたちが「序列化」されず、のびのびと育ってほしいという思いが背景にあるそうだ。これまで通知表は3段階で評価されていたが、その代わりに修了証が渡され、保護者懇談を通して子どもの様子を伝えていく方針らしい。こう聞くと、一見、子どもを思いやる温かい改革のようにも感じられる。しかし、この方針にはいくつか立ち止まって考えるべき点がある。まず、通知表には法的義務はないが、指導要録には法的な作成義務がある。実際には、小学1年生の年度末から成績評価が行われ、3年生以降は3段階、そして中学校では5段階での評定が求められている。通知表はその成績をわかりやすく保護者に伝える「説明書」にすぎない。つまり、通知表をなくしても、子どもが評価されないわけではないのだ。今回の美濃市の方針は、「通知表という説明書をなくせば、子どもはのびのびと育つ」と言っているように聞こえる。だが、年2回の保護者懇談は全国の多くの学校ですでに行われており、それが通知表の有無と直接関係しているとは言えない。通知表だけを取り除いて、子どもの育ち方が大きく変わるとも考えにくい。
私たちは「評価されること=序列化=子どもへの悪影響」という単純な構図に陥ってはいないだろうか。現実の子どもたちは、学校生活のなかでさまざまな違いを自然と感じ取っている。運動の得意不得意、おしゃべりの上手下手、絵がうまい子、手先の器用な子。そうした違いは、通知表がなくても日々の生活のなかで明らかだ。むしろ教育は、そうした「違い」を否定するのではなく、それを認め、共に生きていくことの大切さを教えていく営みのはずだ。他者との違いを知り、そこから自分の価値に気づいていくことこそ、成長のプロセスである。通知表を廃止したからといって、子どもが他者との違いに気づかなくなるわけではない。
もちろん、学力だけがすべてではないことを伝える努力は必要だ。しかし現実には、教科学習が学校生活の大部分を占めている。低学年期は月齢による認知発達の差が大きく、一律の基準で評価することには無理があるという指摘ももっともだ。その意味では、指導要録に記された評価自体が、正確とは言い切れない。一般的に、10歳前後になると認知発達の個人差は小さくなる傾向がある。つまり、全員が10歳を超える5年生あたりから、共通の目標設定や評価基準が理にかなってくるという考え方もあるだろう。
また、生活年齢だけでなく、生まれつきの得手不得手もある。特に読み書きの力は、生涯にわたって必要な基本的スキルである。4年生程度の読み書き能力は、知的な遅れがない限り、最低限身につけさせる必要がある。それでも困難がある場合は、ICT機器を活用するなどして、知的情報へのアクセスを補完した上で学力評価を行うべきだ。こうして見ていくと、子どもが「のびのびと育てない」原因は、通知表や成績そのものではない。むしろ、それぞれの子どもに合った目標設定や評価がなされておらず、「やればできる」という実感を持てる学習環境が整っていないことが根本にあるのではないか。学校が目を向けるべきは、通知表の廃止ではなく、個々の子どもに応じた柔軟な学習指導の在り方だろう。通知表をなくすことで子どもがのびのび育つ、という考えは、残念ながら大人の自己満足にすぎないように思える。
私たちは「評価されること=序列化=子どもへの悪影響」という単純な構図に陥ってはいないだろうか。現実の子どもたちは、学校生活のなかでさまざまな違いを自然と感じ取っている。運動の得意不得意、おしゃべりの上手下手、絵がうまい子、手先の器用な子。そうした違いは、通知表がなくても日々の生活のなかで明らかだ。むしろ教育は、そうした「違い」を否定するのではなく、それを認め、共に生きていくことの大切さを教えていく営みのはずだ。他者との違いを知り、そこから自分の価値に気づいていくことこそ、成長のプロセスである。通知表を廃止したからといって、子どもが他者との違いに気づかなくなるわけではない。
もちろん、学力だけがすべてではないことを伝える努力は必要だ。しかし現実には、教科学習が学校生活の大部分を占めている。低学年期は月齢による認知発達の差が大きく、一律の基準で評価することには無理があるという指摘ももっともだ。その意味では、指導要録に記された評価自体が、正確とは言い切れない。一般的に、10歳前後になると認知発達の個人差は小さくなる傾向がある。つまり、全員が10歳を超える5年生あたりから、共通の目標設定や評価基準が理にかなってくるという考え方もあるだろう。
また、生活年齢だけでなく、生まれつきの得手不得手もある。特に読み書きの力は、生涯にわたって必要な基本的スキルである。4年生程度の読み書き能力は、知的な遅れがない限り、最低限身につけさせる必要がある。それでも困難がある場合は、ICT機器を活用するなどして、知的情報へのアクセスを補完した上で学力評価を行うべきだ。こうして見ていくと、子どもが「のびのびと育てない」原因は、通知表や成績そのものではない。むしろ、それぞれの子どもに合った目標設定や評価がなされておらず、「やればできる」という実感を持てる学習環境が整っていないことが根本にあるのではないか。学校が目を向けるべきは、通知表の廃止ではなく、個々の子どもに応じた柔軟な学習指導の在り方だろう。通知表をなくすことで子どもがのびのび育つ、という考えは、残念ながら大人の自己満足にすぎないように思える。