グラスハート ― 2025年08月17日
Netflix音楽ドラマ『グラスハート』が、視聴者の心を二分した。天才ミュージシャン藤谷直季と仲間たちのセッションは、まさに極上のライブを覗き見するような臨場感。バンド「TENBLANK」が生み出す即興の波、その上を藤谷と朱音が言葉ではなく音で会話する――これこそ音楽ドラマの醍醐味だと絶賛する声がネットに溢れた。ここまでは、間違いなく傑作の域である。だが、その興奮を一瞬で冷ます展開がやって来た。藤谷の脳腫瘍。そして医師の口から放たれる「音楽を続ければ命に関わる」という一言。病名も症状も不明。唐突すぎる宣告だ。まるで台本の都合で強引に物語を曲げたかのような印象を残す。
医学的に見ても、これは首をかしげざるを得ない。脳腫瘍で音楽活動が全面禁止になるケースは考えられない。制限がかかるのは、てんかん発作、感覚過敏、集中力障害といった症状が出た場合であり、それも環境や活動時間を調整する方法が優先され医学的に「全面禁止」はエビデンスがない。視聴者の多くが「そんなことあるのか?」と疑問を抱いたのも無理はない。物語的にも惜しい。あれほど丁寧に描いたセッションの喜びから、主人公が突然音楽を続けるならばと死を宣告される。周りのメンバーがオドオドするだけで、主人公の葛藤も経過も描かれない。人物像の厚みは失われ、音楽そのものが物語の犠牲になってしまった感がある。もし制作陣が本当に「命と音楽の狭間」を描くつもりだったのなら、そのプロセスこそ物語の核に据えるべきだったのだ。改善の余地は大きい。セッション中に指先の震えが走る、幻聴が混ざる、譜面に書きかけのフレーズが増えていく――そうした小さな兆候を積み重ねれば、藤谷の決断は必然性を帯びたはずだ。朱音に未完のメロディを託す場面など、音楽で別れを語る展開も考えられる。
では、なぜこうなったのか。制作現場に近い関係者は「放送枠や脚本尺の制約があったのでは」と語るがNetflix制作だけに考えにくい。脚本家が医学情報に乏しく、感情的インパクトだけを優先する演出判断かもしれないが結果としてテーマの深みを削ぎ、作品全体の完成度を下げたことは否めない。『グラスハート』は、音楽描写では間違いなく今年屈指のドラマだ。それだけに、病による転換の描き方が甘かったことが悔やまれる。音楽と命の葛藤――本来なら普遍的で心を揺さぶるテーマが、説明不足と唐突さで台無しになる。もし続編や再編集の機会があるなら、この核心をどう描くかが、真の傑作への分水嶺となるだろう。
医学的に見ても、これは首をかしげざるを得ない。脳腫瘍で音楽活動が全面禁止になるケースは考えられない。制限がかかるのは、てんかん発作、感覚過敏、集中力障害といった症状が出た場合であり、それも環境や活動時間を調整する方法が優先され医学的に「全面禁止」はエビデンスがない。視聴者の多くが「そんなことあるのか?」と疑問を抱いたのも無理はない。物語的にも惜しい。あれほど丁寧に描いたセッションの喜びから、主人公が突然音楽を続けるならばと死を宣告される。周りのメンバーがオドオドするだけで、主人公の葛藤も経過も描かれない。人物像の厚みは失われ、音楽そのものが物語の犠牲になってしまった感がある。もし制作陣が本当に「命と音楽の狭間」を描くつもりだったのなら、そのプロセスこそ物語の核に据えるべきだったのだ。改善の余地は大きい。セッション中に指先の震えが走る、幻聴が混ざる、譜面に書きかけのフレーズが増えていく――そうした小さな兆候を積み重ねれば、藤谷の決断は必然性を帯びたはずだ。朱音に未完のメロディを託す場面など、音楽で別れを語る展開も考えられる。
では、なぜこうなったのか。制作現場に近い関係者は「放送枠や脚本尺の制約があったのでは」と語るがNetflix制作だけに考えにくい。脚本家が医学情報に乏しく、感情的インパクトだけを優先する演出判断かもしれないが結果としてテーマの深みを削ぎ、作品全体の完成度を下げたことは否めない。『グラスハート』は、音楽描写では間違いなく今年屈指のドラマだ。それだけに、病による転換の描き方が甘かったことが悔やまれる。音楽と命の葛藤――本来なら普遍的で心を揺さぶるテーマが、説明不足と唐突さで台無しになる。もし続編や再編集の機会があるなら、この核心をどう描くかが、真の傑作への分水嶺となるだろう。