核兵器安上がり論争 ― 2025年08月24日
「核兵器って意外と安いんです」——ここ最近、新聞やテレビで耳にすることが増えたフレーズだ。ミサイル防衛や通常戦力に比べれば、核は“コスパ最強”。そんな調子で語られれば、「なるほど」と思う人も少なくないだろう。だが、この言葉には一つの仕掛けがある。それは安全保障論争を装いながら、実のところ憲法改正という重たいテーマから目をそらさせる“煙幕”なのだ。そもそも日本国憲法9条は「戦力の不保持」「交戦権の否認」を掲げている。非核三原則も長年の国是だ。つまり、核保有論は制度的にも倫理的にも筋が通らない。それを分かったうえで「安上がりだから持てばいい」と素人議論にメディアが花を咲かせるのは、現実的な政策論ではなく、むしろ「改憲には踏み込まず、国論を二分する核議論でやり過ごそう」という方便に近い。
実際、北朝鮮はミサイルを乱発し、中国は海空での威嚇を強め、ロシアは核をちらつかせる。脅威は目の前にある。だからこそ本来なら、「憲法を改正するのか、それとも現状を維持するのか」という根本的な問いを避けてはならないはずだ。ところがメディアは、その正面対決を避けるかのように「核兵器は安いから安心」という安直なフレーズで議論をすり替える。視聴率は稼げ、政治的な摩擦も少ない——実に都合のいい話である。だが、その安易さこそが危険だ。なぜなら、改憲という重い決断を国民が直視せず、「核さえ持てば大丈夫」と思い込む構図を生み出すからだ。現行憲法の下で核保有が成立する余地はなく、国内世論も核廃絶の歴史を経てそう簡単に傾くものではない。それにもかかわらず核武装を前面に押し出すのは、制度疲労という現実から目を逸らす方便にすぎない。言い換えれば、政治とメディアが結託した“逃げの議論”である。
新興の参政党なども、こうしたレトリックに乗るのではなく、「創憲」を掲げる以上は、具体的な改憲の道筋を明示すべきだ。安全保障を語るのであれば、現行憲法との整合性はもちろん、国際法との関係についても丁寧な説明が求められる。それを曖昧にしたまま「核の議論」に便乗しても、結局は空中戦に終始し、現実的な政策にはつながらない。結論は明快だ。「核は安い」という報道は、憲法改正という本丸の議論を避けるための方便であり、制度的な覚悟を欠いた虚構にすぎない。国民が本当に向き合うべきは、「憲法を改正するのか否か」、そして「目の前の危機に対して、安全保障をどう具体的に構築するのか」という現実的な選択である。安上がり論に惑わされて、制度の根幹を見失ってはならない。
実際、北朝鮮はミサイルを乱発し、中国は海空での威嚇を強め、ロシアは核をちらつかせる。脅威は目の前にある。だからこそ本来なら、「憲法を改正するのか、それとも現状を維持するのか」という根本的な問いを避けてはならないはずだ。ところがメディアは、その正面対決を避けるかのように「核兵器は安いから安心」という安直なフレーズで議論をすり替える。視聴率は稼げ、政治的な摩擦も少ない——実に都合のいい話である。だが、その安易さこそが危険だ。なぜなら、改憲という重い決断を国民が直視せず、「核さえ持てば大丈夫」と思い込む構図を生み出すからだ。現行憲法の下で核保有が成立する余地はなく、国内世論も核廃絶の歴史を経てそう簡単に傾くものではない。それにもかかわらず核武装を前面に押し出すのは、制度疲労という現実から目を逸らす方便にすぎない。言い換えれば、政治とメディアが結託した“逃げの議論”である。
新興の参政党なども、こうしたレトリックに乗るのではなく、「創憲」を掲げる以上は、具体的な改憲の道筋を明示すべきだ。安全保障を語るのであれば、現行憲法との整合性はもちろん、国際法との関係についても丁寧な説明が求められる。それを曖昧にしたまま「核の議論」に便乗しても、結局は空中戦に終始し、現実的な政策にはつながらない。結論は明快だ。「核は安い」という報道は、憲法改正という本丸の議論を避けるための方便であり、制度的な覚悟を欠いた虚構にすぎない。国民が本当に向き合うべきは、「憲法を改正するのか否か」、そして「目の前の危機に対して、安全保障をどう具体的に構築するのか」という現実的な選択である。安上がり論に惑わされて、制度の根幹を見失ってはならない。