広島県初の女性知事誕生 ― 2025年11月19日
広島県政に、久々の“地殻変動”が走った。2025年11月、広島県知事選で横田美香氏が初当選。女性として初の県知事誕生という華やかなニュースは、見出しとしては文句なしだ。本人も「ここからが新たなスタートライン」と語り、行政の硬い壁を破る意気込みをにじませた。しかし、祝福ムードの裏側で、静かだが深く沈んだ“数字”がすべてを物語る。投票率30.09%──過去2番目の低さである。この一票の軽さは、県政への無関心ではない。むしろ「地方政治は何を変えてくれるのか」という、深い諦念の表れだ。
広島の人口規模は270万人の中位ランク。行政能力も人材も、決して劣る県ではない。それでも実態は、中央官庁が引いた“レールの上”を走るほかない。財源の7割は国の枠組みに縛られ、制度は細部まで中央設計。知事といえど、政策的な“フリーハンド”は限られ、地方創生も結局は「国が決めたメニューの選択制」にとどまる。これでは、若者や女性の声を吸い上げようにも、政策に“裁量”として反映できる余白が少ない。地方自治という看板の下で、実態は「制度の執行機関」。この構図が変わらぬ限り、誰が知事になろうと、刷新はプログラムの上書き程度の話で終わる。
さらに深刻なのは、小規模自治体だ。日本の知事のうち約4割強が、有権者数100万人未満の自治体を統治している。有権者数が50万人を切る(4県)と、政策立案チームをつくる余力は乏しく、専門職は流出し、財政運営は火の車。自治を名乗りながら、実態は“キーボードで国の書式を書き写すだけ”という役所すら珍しくない。こうなると住民は行政に期待しなくなり、行政は住民に説明しなくなる。負のスパイラルが固定化されるのだ。
ではどうするか。この国が避けてきたが、いずれ正面から向き合わざるを得ないのが隣接自治体との自動合併制度である。人口規模を再編し、行政コストを抑え、専門人材を面的に配置するためには、もはや自治体境界線という“昭和の線引き”にこだわっている余裕はない。もちろん、地域アイデンティティの毀損という副作用は重い。地名が消えることへの抵抗感、歴史の連続性が途切れる不安──そうした“心の領域”も丁寧に扱わなければならない。だからこそ段階的導入と地域自治区制度の併用が現実的だ。行政効率と文化的継承を“分けて処理”する戦略である。
しかし、自治体の境界線を動かしただけでは、本質的な改革にはならない。必要なのは、制度・人材・財源・住民参加・政治評価軸の五要素を、同時並行でアップデートする「同時多発的刷新」だ。財源の自由度を高め、人材の広域流動性を確保し、デジタル参加型制度で住民の声を可視化し、地方行政を第三者が評価する仕組みを整える──これらを一つでも欠けば、改革は“形だけの自治”に逆戻りする。
そして忘れてならないのが、「知事という役割の再設計」である。知事はもはや“官僚の出先機関長”では務まらない。地域社会の調停者であり、民間・大学・行政を束ねるハブであり、中央官庁と対等に交渉する政治家であるべきだ。横田氏の当選は、この新しい知事像への期待も背負っている。だが、その期待に応えるには、「制度の壁」を破る知恵と胆力が問われる。行政の慣性、中央の指示系統、住民の無関心──三つの壁はいずれも高い。
結局、今回の知事選は、刷新への希望であると同時に、地方政治の疲弊を突きつける“鏡”でもあった。広島の一票は、静かにこう訴えているように見える。『地方自治という古い装置を、このまま延命させるだけでいいのか?』地方が変わらなければ、国は変わらない。だが、地方を変えるのは、中央でもなく、制度でもなく、最終的には“住民の意思”である。その意思を再び呼び覚ますまで、時計の針は残酷なほど待ってはくれない。
広島の人口規模は270万人の中位ランク。行政能力も人材も、決して劣る県ではない。それでも実態は、中央官庁が引いた“レールの上”を走るほかない。財源の7割は国の枠組みに縛られ、制度は細部まで中央設計。知事といえど、政策的な“フリーハンド”は限られ、地方創生も結局は「国が決めたメニューの選択制」にとどまる。これでは、若者や女性の声を吸い上げようにも、政策に“裁量”として反映できる余白が少ない。地方自治という看板の下で、実態は「制度の執行機関」。この構図が変わらぬ限り、誰が知事になろうと、刷新はプログラムの上書き程度の話で終わる。
さらに深刻なのは、小規模自治体だ。日本の知事のうち約4割強が、有権者数100万人未満の自治体を統治している。有権者数が50万人を切る(4県)と、政策立案チームをつくる余力は乏しく、専門職は流出し、財政運営は火の車。自治を名乗りながら、実態は“キーボードで国の書式を書き写すだけ”という役所すら珍しくない。こうなると住民は行政に期待しなくなり、行政は住民に説明しなくなる。負のスパイラルが固定化されるのだ。
ではどうするか。この国が避けてきたが、いずれ正面から向き合わざるを得ないのが隣接自治体との自動合併制度である。人口規模を再編し、行政コストを抑え、専門人材を面的に配置するためには、もはや自治体境界線という“昭和の線引き”にこだわっている余裕はない。もちろん、地域アイデンティティの毀損という副作用は重い。地名が消えることへの抵抗感、歴史の連続性が途切れる不安──そうした“心の領域”も丁寧に扱わなければならない。だからこそ段階的導入と地域自治区制度の併用が現実的だ。行政効率と文化的継承を“分けて処理”する戦略である。
しかし、自治体の境界線を動かしただけでは、本質的な改革にはならない。必要なのは、制度・人材・財源・住民参加・政治評価軸の五要素を、同時並行でアップデートする「同時多発的刷新」だ。財源の自由度を高め、人材の広域流動性を確保し、デジタル参加型制度で住民の声を可視化し、地方行政を第三者が評価する仕組みを整える──これらを一つでも欠けば、改革は“形だけの自治”に逆戻りする。
そして忘れてならないのが、「知事という役割の再設計」である。知事はもはや“官僚の出先機関長”では務まらない。地域社会の調停者であり、民間・大学・行政を束ねるハブであり、中央官庁と対等に交渉する政治家であるべきだ。横田氏の当選は、この新しい知事像への期待も背負っている。だが、その期待に応えるには、「制度の壁」を破る知恵と胆力が問われる。行政の慣性、中央の指示系統、住民の無関心──三つの壁はいずれも高い。
結局、今回の知事選は、刷新への希望であると同時に、地方政治の疲弊を突きつける“鏡”でもあった。広島の一票は、静かにこう訴えているように見える。『地方自治という古い装置を、このまま延命させるだけでいいのか?』地方が変わらなければ、国は変わらない。だが、地方を変えるのは、中央でもなく、制度でもなく、最終的には“住民の意思”である。その意思を再び呼び覚ますまで、時計の針は残酷なほど待ってはくれない。