ゴールデンカムイ網走襲撃編2026年03月20日

ゴールデンカムイ 網走監獄襲撃編
前作で感じた“日本映画にしては珍しく、アクションに真正面から向き合っている手応え”とアイヌ文化に深く触れたやり取りが忘れられず、今回も自然と期待が高まっていた。けれど、観終わってみると、その期待をもう一段上に連れていってくれる作品ではなかった、というのが正直なところだ。クライマックス、樺太へ向かう船に乗り込む場面で、「ああ、ここで終わるのか」とふと気づく。その瞬間、物語の余韻よりも先に、「山崎賢人、キングダム続編との掛け持ちはさすがに忙しすぎないか」という妙に現実的な感想が頭をよぎってしまった。次へ続く、という構造そのものに、水を差されたような感覚だった。

もちろん、本作が扱っているのは物語のど真ん中だ。原作18〜20巻にあたるこのパートでは、アシㇼパの記憶、のっぺら坊の正体、そして杉元・土方・鶴見という三つの勢力が正面からぶつかり合う。シリーズでも屈指の山場であり、ここを第2作に持ってきた判断は、よく考えられていると思う。実際、網走監獄という舞台は、物語としてもきれいな折り返し地点になっている。これまで積み重ねてきた謎が一気にほどけ、アシㇼパが“鍵”を取り戻すことで、各陣営の関係も組み替えられる。ここを越えた時点で、物語は明確に「終わりへ向かう段階」に入った、そんな感触がある。

ただ、その“うまさ”は、そのまま日本映画の事情も透けて見せてしまう。シリーズを長く続ければ続けるほど、コストも、スケジュールも、観客の熱も維持するのが難しくなる。山崎賢人が『キングダム』と並行していることを思えば、なおさらだ。もちろん、最初から三部作と決まっているわけではない。それでも、ここまでの流れを見ていると、結果的にそのくらいの規模に収まっていくのが一番自然なのだろう、と感じる。無理なく終わらせるには、それくらいがちょうどいい。

背景には、日本の映像産業の癖のようなものもある。人気漫画がアニメ化され、さらに実写へと展開される流れは、いまや半ば定型だ。リスクを抑える製作委員会方式の中で、成功しそうな題材と、すでに名前の通った俳優が組み合わされる。その結果として似た構造の作品が並ぶのも、ある意味では当然なのかもしれない。そう考えると、本作の立ち位置ははっきりしてくる。シリーズ前半の山場であり、同時にラストへ向けた助走でもある。次はおそらく、五稜郭での決戦へと向かうのだろう。

ただ、だからこそ少し物足りなさも残る。全体の流れとしては納得できるのに、一本の映画として観たときに、もう一段跳ねる瞬間がなかった。前作で感じた“知らない世界に触れる面白さ”や、“こんな見せ方をするのか”という驚きが、やや薄れていた気がする。

結局のところ、次でどう締めるかにすべてがかかっている。きれいに終わるだけでは足りない。その先に、ちゃんと「観てよかった」と思わせる何かがあるかどうか。とはいえ、その行方を見届けるつもりであることに変わりはない。むしろその前に、同じ山崎賢人が主演する『キングダム』の新作が、この“似た構造”をどう乗り越えてくるのか、そちらも楽しみにしている。

テミスの不確かな法廷2026年03月06日

テミスの不確かな法廷
一月からNHKドラマ10で始まった『テミスの不確かな法廷』は、従来のリーガルドラマの文法を静かに、しかし決定的に裏切った。ヒット作『宙わたる教室』の制作陣が再集結し、主演に松山ケンイチを迎えた本作が描くのは、ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如多動症)の特性を持つ裁判官という、かつてない主人公である。前橋地裁に異動してきた任官七年目の裁判官・安堂清春は、幼少期の診断を胸に秘め、「普通」を装いながら生きてきた人物だ。空気を読めない。感情の機微を瞬時に汲み取れない。細部に過剰なまでに固執する。社会生活においては軋轢の種となるそれらの特性が、しかし法廷という空間では思いがけない意味を帯びる。

司法の象徴たる女神テミスは、目隠しをして天秤を掲げる。貧富や権力、情実といった視覚的ノイズを排し、法と証拠のみに基づいて裁くという理念の具現だ。安堂の特性は、まさにその「目隠し」を身体化している。世俗的な空気に流されず、他者の表情に左右されず、「一ミリの齟齬」「一秒の空白」に執着する姿勢は、感情の温度差を切り捨てる冷酷さと引き換えに、証拠の純度を極限まで高めていく。彼にとってそれは欠陥ではない。むしろ、司法が理想としながら人間には到達困難だった客観性への、危うい接近なのである。

物語後半、次長検事である父の死がすべてを反転させる。かつて「普通」であることを強いた父は、国家の正義そのものを体現する存在だった。その父が、自らの過去の過ちを問い直す再審請求のさなかに命を奪われる。息子としての情と、裁判官としての責務が鋭くねじれる瞬間だ。視聴者が期待したであろう父子の法廷対決は、死によって断ち切られる。だがその不在こそが、本作を通俗的な復讐譚から救っている。安堂が向き合うのは父という個人ではなく、父が遺した膨大な記録、そこに潜む微細な違和感だ。彼は感情ではなく事実を積み上げることでしか父に近づけない。愛する者の無実すら、情ではなく証拠によって証明しなければならないという残酷な倫理。そこに、法の冷たさと尊厳が同時に浮かび上がる。

劇中で繰り返される再審を求める原告娘の「父は法律に殺された」という言葉は重い。法は秩序を守る盾であると同時に、時として刃ともなる。完璧であるはずの天秤は、ほんのわずかな傾きで誰かを奈落へと落とす。では、その揺らぎを誰が正すのか。安堂清春という風変わりな裁判官がその答えを示している。社会が「普通」という名で排除してきた特性こそが、硬直した正義を再検証する力になりうるのではないか、と。彼が最後に見出す正義は、多数派が安心するための結論ではない。感情の合意でもない。ただ、証拠の光に照らされた、誰にも媚びない事実の形である。

本作が問いかけているのは、発達特性の理解にとどまらない。私たちが信じて疑わない「正義」や「普通」という基準は、本当に普遍なのか。あるいは、それ自体が見えないバイアスの産物ではないのか。天秤は常に揺れている。そして、その揺れを直視できる者だけが、正義に触れる資格を持つのかもしれない。最終回が楽しみだ。

ワーナー買収合戦2026年02月25日

ワーナー買収合戦
ワーナーをめぐる買収合戦は、ストリーミングが「青春期」から「大人の時代」へ移ったことを告げる騒ぎである。青春期は拡大と夢の時代だった。どの会社も利用者を増やすために金を投じ、花火のようにサービスを打ち上げた。だが花火は続かない。夜が明ければ残るのは灰で、視聴者は財布に優しい契約だけを選ぶ。サービスは増えすぎ、利用者は複数契約をやめ、広告も伸びにくい。結果として投資は回収できず、業界は再編に向かう。

ワーナーもParamountも強い作品を持つ。DCヒーロー、Harry Potter、HBOのドラマ、CBSの安定感――宝の山に見える。しかし家計簿を開けば負債が積み上がり、テレビ部門は縮小傾向にある。昔は金のなる木だったテレビは、今や手入れの難しい庭木だ。切れば現金は得られるが庭は寂しくなる。売りたくても買い手が少なく、身動きが取れない。合併しても問題が一緒になるだけなら、魅力が増す保証はない。

対照的なのがNetflixである。ここは作品そのものを主役に置く珍しい企業だ。世界190カ国の視聴データを解析し、当たるか外れるか分からない企画を大量に走らせる。失敗は前提、成功は宝。だから挑戦的な作品も生まれる。ワーナーを取り込めばHBOの重厚さとNetflixのデータ力が混ざり、世界向けの新スタジオが誕生する可能性はある。ただしテレビ部門の処遇という長い宿題が残る。短期維持、中期切り出し、長期縮小――料理でいえば下ごしらえから時間がかかる。

この舞台の外側にいるのがAmazonだ。買収戦争に加わらないのは弱いからではなく、配信を本業にしていないからである。Prime Videoの目的は作品で覇権を取ることではなく、Prime会員を囲い込みEC売上を増やすことにある。さらに多くの配信会社がAWSというインフラを使うため、競争が激しくなるほどAmazonは裏方でサーバー利用の利益を得る。戦場の外側から稼ぐ静かな勝者と言える。

しかし静かな勝者にも課題はある。Prime Videoの作品はアルゴリズムに基づいた安全志向になりがちで、尖った魅力が薄いと指摘される。多角経営ゆえにリスクを取る必然がなく、無難な企画が増えるからだ。配信市場では勝者でも、物語の世界では挑戦者とは限らない。作品に命を懸けなくても利益が出る構造が、結果として作品の面白さを制約する。

結局のところ、今回の買収競争はストリーミングが次の段階に進むための通過点である。規模を取るのか、作品を取るのか。安定を取るのか、挑戦を取るのか。ワーナーとパラマウントの統合は延命色が強く、未来の再設計とは限らない。Netflix型の統合は作品とデータを軸に再編する可能性を秘めるが簡単ではない。Amazonは外側から利益を得るが、物語の中心にはいない。

スクリーンの未来は数字だけで決まらない。視聴者が何を見たいのか、どんな物語に心を動かされるのか。その問いに答えられる企業だけが、次の時代の勝者になる。買収合戦はその序章にすぎない。配信中にCMが流れたり課金を促されるAmazonは最近鬱陶しくて観なくなった。ストリーミング漬けの爺さんにとっては面白くてリーズナブルの一択だ。

『グッド・ドクター』シーズン62026年01月12日

『グッド・ドクター』シーズン6
2年ぶりにアメリカ版『グッド・ドクター 名医の条件』シーズン6(全22話)を一気見した。このシーズンはシリーズ全体における決定的な「転換点」となっている。本国では2024年にシーズン7をもって惜しまれつつ完結したが、日本ではいまだ最新シーズンの見放題配信を待つファンも少なくないだろう。医療技術の進化に加え、友人や家族との関係性を丹念に描き込み、毎話スリリングなクリフハンガーで締めくくる構成は、一度再生を始めれば止まらない中毒性を持つ。シーズン6は、その中毒性が物語的必然として最も強かった章である。

物語は、シーズン5を震撼させた刺傷事件の直後から幕を開ける。病院封鎖という極限状況のなか、ショーンは医師として、そして一人の人間として深いトラウマと向き合うことを余儀なくされる。本シーズンで彼は新レジデントを指導する立場となり、ついに「教えられる側」から「判断を背負う側」へと移行する。同時にリアとの新婚生活では、理念や愛情だけでは乗り越えられない現実的な摩擦が浮き彫りになり、本作は医療ドラマの枠を超えて、一組の夫婦が成熟していく過程を冷静に描き始める。

最大の緊張点となるのが、リムの下半身麻痺をめぐる確執だ。自らの判断を悔い続けるショーンと、その判断に疑念を向けるリム。ここでは「正しかったか否か」という単純な二分法は成立しない。医療的決断の重さと、その余波として生じる人間関係の亀裂が容赦なく描かれ、シリーズ屈指の心理的緊張感を生んでいる。フレディ・ハイモアは、声を荒げることなく、指先の震えや視線の揺らぎだけでショーンの動揺を表現し、この役における演技の到達点を更新した。

2013年の韓国版を原案とする本作だが、もはや両者を単純に「リメイク」という言葉で括ることはできない。全20話で完結する韓国版は、主人公パク・シオンの純粋さと天才性を軸に、職場での受容や恋愛成就を濃密に描いたヒューマンドラマである。一方、全126話という長大なスケールで再構築されたアメリカ版は、医療格差や自閉症スペクトラムに対する多様性への問いを内包する“医療プロシージャル”へと進化した。『Hawaii Five-0』のダニエル・デイ・キムが製作を主導し、『Dr.HOUSE』のデイヴィッド・ショアによる脚本が、情緒性を保ちながらもテンポと重層性を兼ね備えた秀逸なドラマ構造を成立させている。

主人公の立ち位置の違いも象徴的だ。実習生から始まる韓国版に対し、アメリカ版のショーンは当初から正式なレジデントとして、制度的制約と責任の渦中に置かれる。パートナー像も、同業者として支える韓国版とは異なり、リアは非医療従事者としてショーンの人生全体を引き受ける存在だ。そしてアメリカ版の核を成すのが、父代わりであるグラスマンの存在である。友人でも上司でもないこの特異な関係性が、ショーンの成長と失敗、そして和解を長期にわたって支え続けてきた。

医師として、夫として、やがて父として――多層的な関係性のなかで成熟していくショーンの姿は、短期シリーズでは決して描けなかった軌跡だ。シーズン6は、その成熟が最も痛みを伴う形で結実した章であり、同時にシリーズ全体の倫理的重心が定まった瞬間でもある。完結編となるシーズン7は、その答え合わせに過ぎないのか、それとも新たな問いを突きつけるのか。いまはただ、その配信を静かに待ちたい。

ストレンジャー・シングス2026年01月03日

ストレンジャー・シングス
2016年の配信開始から、気づけば10年という歳月が流れた。2026年の元旦、ついに最終章となるシーズン5が配信され、私は「ああ、ここまで来たのか」と静かな感慨を抱きながら画面を見つめていた。年末にシーズン4までを一気に視聴し、ホーキンスの闇へ深く沈み込んだまま、その流れで最終シーズンに突入した。この物語を語るうえで、イレブン役のミリー・ボビー・ブラウンという存在を外すことはできない。

彼女は11歳でシリーズに参加し、最終章を迎えた今は21歳になった。子どもから大人へ――その不可逆な変化の時間そのものを、作品と共に生きた稀有な俳優である。日本で言えば『北の国から』の純と螢、海外なら『ハリー・ポッター』の三人組が思い浮かぶが、ここまで役柄と俳優自身の成長が分かちがたく重なった例は多くない。私たちはドラマを観ていたのではない。一人の少女が変貌していく10年間を、リアルタイムで目撃してきたのだ。

初期シーズンを振り返ると、シーズン1のイレブンは驚くほど言葉を持たなかった。丸刈りの頭に、サイズの合わないピンクのワンピース。社会から隔絶された彼女には、自らの意志を伝えるための「言語」が欠落していた。ゆえにミリーは、「目」「呼吸」「身体のこわばり」だけで感情を表現するという、極めて過酷な演技を課せられた。

未知への恐怖、拭いきれない孤独、ふと滲む優しさ。鼻血を流しながら世界を睨みつける、あの射抜くような視線。言葉がないからこそ、視聴者は彼女の瞳の揺らぎに神経を集中させてしまう。子役という枠を軽々と超えた、痛々しいほどに成熟した「沈黙の演技」。それこそがシリーズ初期の強烈な引力であり、本作に底知れぬ深みを与えていた最大の要因だった。そこには、技術を超えた「本物の異質感」が確かに宿っていた。

物語が進むにつれ、イレブンは単なる実験体ではなく、友情や恋、そして自分という存在の輪郭に悩む一人の少女へと変化していく。それに呼応するように、ミリーの演技もまた確かな広がりを見せた。怒りや悲しみだけでなく、思春期特有の戸惑い、大切な人を守ろうとする意志までもが、丁寧に表現されていく。シリーズ外でも『エノーラ・ホームズ』で主演を務め、彼女は着実にスターダムを駆け上がっていった。

しかし、「洗練されたスター」として成熟していく姿を目にするほど、言いようのない寂しさが胸に広がる。経験を積み、大人の俳優へと脱皮していく過程で、かつて彼女が放っていた唯一無二の輝きが、少しずつ遠ざかっていくように感じてしまうのだ。天才子役が成長と引き換えに初期の輝きを失う例は古今東西に枚挙にいとまがない。それでもなお、切なさは拭えない。

シーズン1のミリーには、説明不能な不気味さと、今にも壊れそうな脆さが同居する特異な磁力があった。あの異質感こそが、イレブンというキャラクターの魂だったはずだ。だが現在の彼女からは、そうした危うい輝きは後景に退き、どこか「完成された女優」という安定した場所に収まってしまった印象が否めない。整った表情、計算された身振り、プロフェッショナルな立ち居振る舞い。それは俳優としての正解である一方、かつて私が彼女に見ていた「奇跡」とは、微妙に異なる地点にある。

かつてのイレブンが放っていた、言葉にならないほど強烈な「個の光」は、社会性と技術を獲得する代償として、どこかに置き去りにされたのではないか。もちろんそれは、人としても俳優としても正しい成長だろう。それでも、あの凍えるような孤独の中で世界を睨みつけていた少女に心を奪われた者としては、その洗練を手放しで祝うことができない。あの圧倒的なカリスマ性は、あの年齢、あの瞬間にしか宿り得なかった、刹那の奇跡だったのかもしれない。

10年間の撮影を終え、ミリーは「卒業は安堵ではない。この作品は私を育ててくれた」と語ったという。このシリーズは、彼女にとってキャリアの出発点であると同時に、人生そのものを形作った聖域だったはずだ。脚本や演出、80年代ノスタルジーを喚起する世界観の完成度もさることながら、その中心に刻一刻と変化するミリー・ボビー・ブラウンという「生身の成長」があり続けたことこそが、本作を単なる人気ドラマではなく、一つの文化現象へと押し上げた最大の理由である。

最終章を見届けながら、かつてあどけなくも圧倒的な存在感を放っていたイレブンの残像を今も画面の隅々に探している。ミリーの10年間と、それを見守ってきた私たちの10年間。物語の終わりとともに、あの奇跡のような「子役時代の輝き」が完全に過去へと沈んでいく。その切なさを噛み締めながら、この壮大なフィナーレを最後まで見届けたいと思う。

『べらぼう』最終回2025年12月16日

 『べらぼう』最終回
ドラマ『べらぼう』最終回は、蔦屋重三郎の死と再生をめぐる場面を中心に、江戸文化の軽妙さと人間的な温かさが交錯する幕引きとなった。枕元に現れた狐様のお告げで、「午の刻に拍子木の音が鳴れば、この世の幕引きだ」と告げられる。翌朝、蔦重は事切れたようにていの身体に寄りかかり、臨終の場面を迎える。そこへ吉原の仲間たちが駆けつけ、一同は悲しみに暮れる。やがて町に午の刻を知らせる鐘が響くと、南畝が「呼び戻すぞ」と立ち上がり、涙ながらに「俺たちは屁だーっ!」と絶叫する。仲間たちは輪になり、「屁!屁!屁!」と唱えながら踊り続け、蔦重を励まし続ける。すると蔦重がゆっくり目を開き、少しうんざりした表情で「拍子木…聞こえねえんだけど」とつぶやく。仲間たちが「へ?」と驚いた瞬間、拍子木が鳴り響き、幕が下りる。

この「拍子木」とは、江戸芝居で幕引きに打たれる合図であり、同時に蔦重の死期を告げる象徴でもある。つまり、彼が「拍子木が聞こえない」と言うのは、死を回避し、芝居的にもまだ終わらないという二重の意味を持つユーモラスな仕掛けだ。

この演出は、史実に残る蔦重の最期の逸話──昼時に死ぬと予告した──を踏まえつつ、ドラマ的に戯けた締め方をしたという。脚本家・森下佳子が語るように「嘘かホントかわからない死にざま」を描く意図がここに表れている。蔦重は江戸出版界の「メディア王」として、歌麿や写楽を世に送り出した文化の仕掛け人であり、反骨の出版人でもあった。最終回ではその歴史的評価を踏まえつつ、仲間たちの「屁!」の合唱による蘇生劇が描かれ、庶民文化の明るさと連帯感が強調された。

さらに劇中では、写楽の正体をめぐる謎も洒落として演出された。写楽の号「東洲斎」を逆さにもじって「斎東洲」とし、そこから「斎藤十郎兵衛」へと結びつける仕掛けである。これは史実の有力説──写楽=徳島藩お抱えの能役者斎藤十郎兵衛──を視聴者に分かりやすく示すためのフィクションであり、江戸的な言葉遊びの妙を活かしたものだ。実際には「逆さ読み」で完全に「写楽」になるわけではないが、音や字をもじることで「しゃらく」と読めるように仕掛けられている。江戸文化における狂歌や洒落本の伝統を踏まえた遊び心であり、写楽の正体をめぐる最大の美術ミステリーをドラマ的に印象づける工夫だ。

総じて最終回は、死と再生、史実とフィクション、悲劇と笑いを巧みに織り交ぜた構成であった。蔦重の「拍子木…聞こえねえんだけど」というセリフは、死の合図を拒むと同時に芝居の終幕をずらすメタ的な仕掛けであり、観客に「まだ終わらない」という余韻を残す。仲間たちの「屁!」の合唱は、庶民文化の明るさと連帯を象徴し、蔦重の生き様を軽妙に讃える。写楽の正体をめぐる言葉遊びは、江戸文化の洒落と謎を重ね、視聴者に文化史的な奥行きを感じさせる。

こうして『べらぼう』は、史実の蔦屋重三郎の功績──歌麿や写楽を世に送り出した文化の仕掛け人、反骨の出版人、そして「江戸のメディア王」──を踏まえながら、ドラマならではの戯けたユーモアで締めくくった。最終回は、蔦重の死を描きつつも「まだ終わらない」という余韻を残し、江戸文化の軽妙さと人間的な温かさを観客に強く印象づけた。その演出は同時に、血の通わぬ現代メディアへの痛烈な批評としても響いている。

ひらやすみ2025年11月28日

ひらやすみ
NHKの夜ドラ『団地のふたり』や『しあわせは食べて寝て待て』など、いわゆる“団地ドラマ”は、観る者にほっこりとした癒しを届けてきた。大きな事件は起こらず、せいぜい知り合い同士の勘違いから生まれる小さないざこざが、ドラマの終わりまで延々と続く――その圧倒的な平和感こそが魅力だ。団地に暮らした経験のある人なら「そうなんだよな」と共感を覚え、納得させられるテーマが随所に散りばめられている。根底に流れるのは「みんな仲良く」という姿勢である。

今回の舞台は、団地からワンランク上の“ひらやすみ”、すなわち平屋暮らしだ。実家のようにほっこり温かい場所でありながら、家族に縛られず、友人や隣人たちとの穏やかな共生を描く物語である。そして何より重要なのは「二階建てではない平屋」である点だ。昭和世代にとって、庭付き平屋建ての記憶は少なくない。団地やアパートから郊外のささやかな一軒家へ――その多くは平屋で、玄関から廊下が続き、客間・居間・台所で完結する。居間の縁側には物干しのテラスと小さな庭があり、家族の声がどこにいても聞こえる。プライベートという言葉が入り込む余地のない濃密な関係性の中で、喜びも悲しみも共有される。平屋には絆と思い出が凝縮されているのだ。

その昭和の平屋が令和のドラマに登場すると、今度は「ゆったりと時間が流れる舞台」として描かれる。原作は真造圭伍の漫画『ひらやすみ』。阿佐ヶ谷の平屋一戸建てに暮らす主人公といとこ、そして周囲の人々の姿を優しく描き出す。温かく、ほっとする、それでいてどこか切なさを含んだ世界観は、読者の心に残り、幅広い世代から愛されている。2023年には「手塚治虫文化賞」マンガ大賞にノミネート、さらに2024年にはイタリアの欧州最大ポップカルチャー祭典「ルッカコミックス&ゲームズ」で最優秀連載コミック賞を受賞するなど、国内外で高く評価された作品だ。

ドラマ版は米内山陽子の脚本で、まったりと進んでいく。主人公・生田ヒロト(岡山天音)は29歳のフリーター。釣り堀のバイトで生計を立て、恋人もなく、将来への不安も抱かないお気楽な自由人だ。そんな彼は、人柄の良さだけで近所のおばあちゃん・和田はなえから平屋を譲り受ける。そして山形から上京してきた18歳のいとこ・小林なつみ(森七菜)と二人暮らしを始める。彼の周囲には、生きづらさや悩みを抱えた人々が自然と集まり、なぜか和んでしまう。

特筆すべきは、森七菜の“ふにゃふにゃ感”と岡山天音の“のほほん感”の絶妙なキャスティングだ。マンガ家を目指すなつみは、ギラギラした野心はなく、ただ好きで描いている程度。確固たる理想もない。俳優をやめたヒロトも、挫折感を引きずることなく「今日なつみと何を食べるか」が最大の悩み。ふにゃふにゃとのほほんが平屋の下で共鳴し合い、独特の平和感を醸し出す。寝る前に観るヒーリングドラマとして、これ以上の作品はないだろう。

ザ・ロイヤルファミリー2025年11月04日

『ザ・ロイヤルファミリー』
勝負もののドラマには、理屈抜きの胸の高鳴りがある。勝つか負けるか、その一点に人生のすべてが凝縮されるからだ。野球、将棋、ボクシング……舞台はいろいろあれど、競馬ほど人と動物の絆を描くにふさわしい勝負はないだろう。そんな競馬を真正面から扱ったドラマが、この秋のTBS日曜劇場『ザ・ロイヤルファミリー』だ。主人公・栗須栄治(妻夫木聡)は、税理士として安定した人生を歩んでいたが、人生の歯車が狂った瞬間に、名馬主・山王耕造(佐藤浩市)と出会う。そこから彼の運命は一変。競走馬「ロイヤルホープ」との出会いを通じて、20年にわたる家族の再生と夢への再挑戦が始まる──有馬記念という“日本一の舞台”を目指して。

物語は原作・早見和真の同名小説。『イノセント・デイズ』で知られる早見が描くのは、血と汗、そして「血統」に宿る宿命の物語だ。企画を立ち上げたのはプロデューサー・加藤章一。競馬に縁のなかったという彼が、「血統の継承」という言葉に人間社会の縮図を見たという。JRAの全面協力で実際の競馬場・トレセン撮影を敢行したが、コロナ禍で一時頓挫。それでも企画は息をつなぎ、数年の熟成を経てようやくこの秋、放送が実現した。

キャストには、妻夫木と佐藤を筆頭に、目黒蓮、松本若菜、沢村一樹、黒木瞳、小泉孝太郎といった実力派が並ぶ。いずれも「勝負」と「誇り」を背負う人間たちを、それぞれの流儀で演じている。脚本は『桐島、部活やめるってよ』の喜安浩平。青春群像の機微を知り尽くした筆致が、競馬界という閉ざされた世界に新たな風を吹き込む。主題歌は玉置浩二の「ファンファーレ」。その一節がレース前の高鳴りを象徴するように響く。演出を担うのは塚原あゆ子。『Nのために』『アンナチュラル』『最愛』と、近年のTBSドラマ黄金期を支えた名手だ。俳優の即興性を生かしながら、感情の微細な揺れを緻密に捉える──そんな彼女の演出が、本作でも遺憾なく発揮されている。芸術選奨新人賞や日本アカデミー賞優秀監督賞に輝いた手腕は伊達ではない。

競馬という専門的な題材を、血の通った人間ドラマへと昇華させた『ザ・ロイヤルファミリー』は、決して“馬の話”にとどまらない。これは、夢に敗れた者がもう一度、人生のターフに立つ物語である。勝敗ではなく、「挑むこと」にこそ人は心を打たれる──そんな原点を思い出させてくれる、今季屈指の注目作だ。ドラマの優秀さゆえか、あるいは歳のせいか、自分でも驚くほど目頭が熱くなる。

発達障害ネタのドラマ2025年09月23日

僕達はまだその星の校則を知らない
今期のテレビドラマがほぼ終了した。注目していたのは、発達障害を扱った二作品。ディスレクシア(読み書き障害)を扱った「愛の、がっこう。」と、ASD(自閉スペクトラム症)を題材にした「僕達はまだその星の校則を知らない」だ。

「愛の、がっこう。」は読み書き障害に触れてはいるものの、結局は障害の説明にとどまり、ホストと年上の女性教師との恋愛物語へと展開してしまった。読めなくても書けなくても、今はICTの活用が可能な時代なのに、そうした描写は皆無。代わりにドリル練習の場面ばかりで、正直うんざりした。ラストシーンでは、間違えた漢字「愛」を砂浜で練習し、「よくできました」の一言とともにキスシーン。なんじゃこれ? 結局、漢字の練習こそが大事だと言いたげな締めくくりに拍子抜けした。

それに比べて「僕達はまだその星の校則を知らない」は、高機能ASDの特性を前面に押し出した演出が印象的だった。学校内で起こる問題に対し、スクールロイヤーでもあるASDの主人公が、宮沢賢治風の造語「ポポス」(いい感じ)「ムムス」(嫌な感じ)を使って表現するのがとても面白い。彼の言葉は、いわゆる“正義”の言葉だが、必要悪を許容する社会とは摩擦を起こしてしまう。弁護士である以上、正義と悪の間にあるグレーゾーンを見極められなければ仕事にならない。その見極めの中で、彼は「ポポス」の重要性に気づいていく。何が正しいかではなく、何が「ポポス」なのかを考えるうちに、不登校で毛嫌いしていた学校生活の大切さにも気づいていく。

このドラマでは、宮沢賢治の言葉が随所にセリフとして使われており、心地よさを感じる。ASDの主人公と恋人役のヒロインがそれらの言葉に共感していくシーンも、心が洗われるようだった。ラストシーンも素晴らしい。「どう考えてもあなたのそばにいることが僕の幸いだから」という、普通なら引いてしまいそうなプロポーズの言葉が、ASDならではの純粋な表現としてキラキラと輝いていた。主人公の一つ一つの「ポポス」言葉に涙ぐむ堀田真由も、非常に良いキャストだった。

ということで、発達障害をテーマにしたドラマとしては、今期は圧倒的に「僕星」が勝っていたと思う。

こんばんは、朝山家です。2025年09月03日

こんばんは、朝山家です。
日曜の夜に放送中のドラマ『こんばんは、朝山家です。』。この作品は良い。主演は中村アンと小澤征悦。毒を吐く妻と、ぼやき続ける夫。反抗期の娘に、学校に馴染めない息子。どこかで見たことがあるようで、実際にはなかなか描かれてこなかった家族の姿が、ユーモアと痛みを織り交ぜてリアルに描かれている。中村アン演じる朝子。いわゆる“毒妻”だが、その毒はただのヒステリーではなく、家事も育児も仕事も背負いながら、夫の承認欲求や無責任さに振り回される中で積み重なった“生活の叫び”だ。ときに言葉の刃のように鋭く、ときにユーモアを帯びるその口調は、多くの視聴者に「わかる…」と共感させる。しかも彼女自身の美しさが、その毒をより切実で魅力的に見せてしまう。

一方、小澤征悦が演じる賢太は、ぼやきで自分を正当化する“残念な夫”。「言わなきゃいいのに…でもさー…だけどさー…」と繰り返す姿は、思わず笑ってしまうのに、どこか哀愁を漂わせる。マザコンぶりに呆れながらも「いるいる、こういう人」と思わせる妙な説得力がある。不器用で情けないのに、どこか憎めない存在感だ。子どもたちの演技も光っている。渡邉心結が演じる蝶子は、野球部の高校生。反抗期の真っ只中で母に反発しながらも、心の底では母を嫌いきれない複雑さを覗かせる。その微妙な心の揺れを自然に表現していて、観る側に切なさを残す。

そして注目すべきは、嶋田鉄太が演じる晴太。不登校気味で、学校ではなかなか周囲に馴染めない小学生という難しい役どころだ。彼のキャラクターは、ASD(自閉スペクトラム症)の一部のタイプをよく表現している。特別な才能や極端な個性を持っているわけではなく、「ちょっと変わっていて、集団の中で浮いてしまう」――そんな現実に即した姿だ。晴太は家庭や学校外ではよく喋る明るい子で、そのギャップがむしろ演技のリアリティを強めている。他のドラマでよく描かれるASD像は、空気を読まずに天才的な才能を発揮するキャラや、無表情で機械のように振る舞うキャラといった“ステレオタイプ”が多い。だが実際には、晴太のような「学校では不器用で浮いてしまうタイプ」のほうが多い。脚本家のリアルな観察眼には舌を巻く。

ドラマの面白さは、登場人物が“思ったことを全部口にする”ところにある。普通のホームドラマなら飲み込んでしまうような言葉が、朝山家では真正面からぶつけ合う。その衝突が痛快で、笑えて、そして少し胸に刺さる。さらに、激しいやり取りの中にもふとした優しさがのぞく。朝子がほんの少し柔らかくなる瞬間。賢太が子どもに寄り添おうとする不器用な仕草。そんな小さな揺らぎが「まだこの家族は壊れていない」と感じさせ、観ている側を安心させる。

『こんばんは、朝山家です。』は、笑いと痛みを同時に描くホームドラマの新しい形だ。毒やぼやきに込められた切実さを笑い飛ばしつつ、気づけば自分の家族や日常を重ねてしまう。キャストの熱演と脚本の緻密さがかみ合い、観終わった後にじんわり心に残る。今年のホームドラマの中でも異彩を放つ秀作だ。日曜の夜、テレビの前で自分の家族を少しだけ振り返ってみたくなる――そんな時間をくれる作品だ。