悪石島地震と「予言漫画」 ― 2025年07月04日

かつてなく群発地震を繰り返していた鹿児島県・悪石島で震度6弱の地震が発生した。プレート境界の歪みが原因とされつつも、地下の火山性流体の関与も指摘される複雑なタイプ。インフラの脆弱な離島にとっては、地震の揺れそのもの以上に「情報の遅れ」と「孤立リスク」が深刻だ。ところがこの地震、もう一つ“意外な余震”を呼んだ。震源からはるか彼方、SNS上で突如再燃したのが、「あの漫画、また当たったのでは?」という声だった。話題に上がったのは、漫画家・たつき諒氏の『私が見た未来』。1999年刊のエッセイ漫画で、東日本大震災を“予見”していたと再評価され、2021年に加筆・再刊された完全版が再び注目の的になっている。
問題の記述はこうだ。「2025年7月5日、日本とフィリピンの間の海底が破裂し、巨大津波が発生する夢を見た」。この文言と悪石島地震の日付が近かったことから、「やっぱり当たった」「7月5日に何かが起きるのでは」と憶測が飛び交った。なかには「気象庁より当たる」と真顔でつぶやく投稿すらあった。だが、これは明らかな“勘違い”である。まず、『私が見た未来』は未来予知の書ではなく、作者が過去に見た夢の記録をエッセイ形式で描いた作品。たつき氏自身、「夢を見た日が災害発生日とは限らない」と一貫して語っており、占いや予知を信じてほしいとは言っていない。そもそも今回の悪石島地震は津波を伴っておらず、「日本とフィリピンの間の海底が破裂」という記述とも大きくかけ離れている。しかも、この作品では“当たった”とされる夢の他に、“外れた”夢も多数紹介されている。それらが黙殺され、「当たった部分」だけが拡散されるのは典型的な“確証バイアス”の現れだ。
では、なぜ人々はそこまで「予言」にすがりたがるのか。その背景には、「科学的予測が信用されていない」という構造的な問題がある。たとえば、能登半島地震では評価対象外の断層が動いた。多くの自治体が信頼してきた「地震確率マップ」は、結果として機能しなかった。能登半島全体の平均的な評価はおおむね3%未満で、全国平均(6〜26%)と比べてかなり低い水準にあり、「地震リスクの低い地域」と誤解されやすい数値だった。さらに、気象庁と地震学会との関係があまりにも密接で、政策決定・研究資金・学術評価が“身内で完結している”との批判も根強い。外部からの異論が入りづらく、失敗を反省するメカニズムも十分に機能していない。こうした不信感が、“夢の予言”にまで人々の目を向けさせているのかもしれない。
とはいえ、地震予知が完全に無駄というわけではない。観測網の整備や、AIを活用した地殻解析は、緊急地震速報や津波警報の精度向上に寄与している。ただし、政府の方針はすでに「予知より備え」へと大きく転換している。予知関連の研究費は現在、年間およそ70億円。30年間で半減し、防災インフラ整備費のおよそ3分の1以下にとどまっている。いまや「地震は起きるもの」として備えることが、防災の主流となっている。実際、悪石島のような離島では、「いつ起きるか」よりも「どこに逃げるか」「何メートルの津波に備えるか」が現実的な関心事だ。日付よりもシナリオ。予知よりも行動。そうした切り替えがすでに現場では始まっている。結局、予言が当たったかどうかよりも大事なのは、「明日、自分が助かる行動をしているか」だ。災害の本質は、予知の成否ではなく、被害を最小限にできるかどうか。夢の内容に一喜一憂しても、避難所は準備してくれない。備えるべきは予言の“日付”ではなく、最悪の“想定”である。
問題の記述はこうだ。「2025年7月5日、日本とフィリピンの間の海底が破裂し、巨大津波が発生する夢を見た」。この文言と悪石島地震の日付が近かったことから、「やっぱり当たった」「7月5日に何かが起きるのでは」と憶測が飛び交った。なかには「気象庁より当たる」と真顔でつぶやく投稿すらあった。だが、これは明らかな“勘違い”である。まず、『私が見た未来』は未来予知の書ではなく、作者が過去に見た夢の記録をエッセイ形式で描いた作品。たつき氏自身、「夢を見た日が災害発生日とは限らない」と一貫して語っており、占いや予知を信じてほしいとは言っていない。そもそも今回の悪石島地震は津波を伴っておらず、「日本とフィリピンの間の海底が破裂」という記述とも大きくかけ離れている。しかも、この作品では“当たった”とされる夢の他に、“外れた”夢も多数紹介されている。それらが黙殺され、「当たった部分」だけが拡散されるのは典型的な“確証バイアス”の現れだ。
では、なぜ人々はそこまで「予言」にすがりたがるのか。その背景には、「科学的予測が信用されていない」という構造的な問題がある。たとえば、能登半島地震では評価対象外の断層が動いた。多くの自治体が信頼してきた「地震確率マップ」は、結果として機能しなかった。能登半島全体の平均的な評価はおおむね3%未満で、全国平均(6〜26%)と比べてかなり低い水準にあり、「地震リスクの低い地域」と誤解されやすい数値だった。さらに、気象庁と地震学会との関係があまりにも密接で、政策決定・研究資金・学術評価が“身内で完結している”との批判も根強い。外部からの異論が入りづらく、失敗を反省するメカニズムも十分に機能していない。こうした不信感が、“夢の予言”にまで人々の目を向けさせているのかもしれない。
とはいえ、地震予知が完全に無駄というわけではない。観測網の整備や、AIを活用した地殻解析は、緊急地震速報や津波警報の精度向上に寄与している。ただし、政府の方針はすでに「予知より備え」へと大きく転換している。予知関連の研究費は現在、年間およそ70億円。30年間で半減し、防災インフラ整備費のおよそ3分の1以下にとどまっている。いまや「地震は起きるもの」として備えることが、防災の主流となっている。実際、悪石島のような離島では、「いつ起きるか」よりも「どこに逃げるか」「何メートルの津波に備えるか」が現実的な関心事だ。日付よりもシナリオ。予知よりも行動。そうした切り替えがすでに現場では始まっている。結局、予言が当たったかどうかよりも大事なのは、「明日、自分が助かる行動をしているか」だ。災害の本質は、予知の成否ではなく、被害を最小限にできるかどうか。夢の内容に一喜一憂しても、避難所は準備してくれない。備えるべきは予言の“日付”ではなく、最悪の“想定”である。