決められない自民党 ― 2025年08月09日
「総裁選を前倒しすべきだ」、自民党の議員総会では、まさに蜂の巣をつついたような展開となった。選挙大敗を受け、「信任は失われた」との声が議場を埋め尽くし、議長は総裁選挙管理委員会(総裁選管)に前倒しの検討を求めると表明。多くの議員がこれに拍手を送り、総会は“前倒し”の方向性を確認したかに見えた。しかし、総会終了直後、森山裕幹事長は報道陣に向かってこう釘を刺した。「これは決定ではない」と。議員の大半が賛成しても、それは“決議”ではない──。要するに、「何も変わらない」のだ。制度疲労? いや、これはもはや制度崩壊である。総裁選管は単なる事務機関にすぎず、議決権もなし。総務会も「追認機関」と化し、党の意思決定は総裁と幹部数名が握る。地方党員や無派閥議員の声は制度的に封じられ、党内民主主義の“形骸化”は極まっている。総裁辞任を求める声があっても、それを制度に落とし込むパイプが存在しないのだ。
ここに透けて見えるのは、政党と国民の断絶という深刻な構図である。選挙で「NO」を突きつけられても総裁は辞めない。党の制度も止められない。もはや自民党は、国民の意思を反映する「媒介装置」ではなく、権力の温存装置と化している。この断絶がもたらす政治的リスクは計り知れない。「投票しても変わらない」「声を上げても無意味」。こうした感情が広がれば、政治不信は一気に加速する。若年層や無党派層の政治離れは進み、やがては民主主義そのものへの信頼が損なわれる。本来、近代政党とは「参加・透明性・説明責任・牽制」が制度の柱である。だが今の自民党に、これらの要素は見当たらない。執行部が人事を支配し、執行部は閉ざされたまま。総裁の続投が既定路線のように押し通されるなら、それは制度的に正統性を欠いた権力維持のゲームにすぎない。
議員総会で多数の賛同が得られたにもかかわらず、「決定ではない」と退ける。この矛盾こそ、自民党が内包する制度的危機の象徴である。確かに、時の流れに応じて安易に首相(総裁)を交代させることは、国政の不安定化を招くとの懸念から、現行の党則を支持する意見もあるだろう。しかし一方で、選挙によって国民の意思が明確に示されたにもかかわらず、速やかに首相を交代できないとなれば、党は次第に国民との乖離を深め、やがて国民的孤立に陥る。国民との対話を失った政党は、選挙のたびに「見限られる」宿命を背負うことになる。総裁の進退をめぐる今回の騒動は、単なる人事問題ではない。政党がどこまで民主主義に忠実でいられるか。その覚悟が問われた「踏み絵」であった。そして自民党は、またしてもその一歩を踏み出すことができなかった。確かに、恥ずべきは潔く退陣しない石破氏かもしれない。しかし、政権にしがみつく総理を速やかに退かせることができない制度的構造は自民党の責任である。「恥の上塗り」とは、まさにこのことを言う。
ここに透けて見えるのは、政党と国民の断絶という深刻な構図である。選挙で「NO」を突きつけられても総裁は辞めない。党の制度も止められない。もはや自民党は、国民の意思を反映する「媒介装置」ではなく、権力の温存装置と化している。この断絶がもたらす政治的リスクは計り知れない。「投票しても変わらない」「声を上げても無意味」。こうした感情が広がれば、政治不信は一気に加速する。若年層や無党派層の政治離れは進み、やがては民主主義そのものへの信頼が損なわれる。本来、近代政党とは「参加・透明性・説明責任・牽制」が制度の柱である。だが今の自民党に、これらの要素は見当たらない。執行部が人事を支配し、執行部は閉ざされたまま。総裁の続投が既定路線のように押し通されるなら、それは制度的に正統性を欠いた権力維持のゲームにすぎない。
議員総会で多数の賛同が得られたにもかかわらず、「決定ではない」と退ける。この矛盾こそ、自民党が内包する制度的危機の象徴である。確かに、時の流れに応じて安易に首相(総裁)を交代させることは、国政の不安定化を招くとの懸念から、現行の党則を支持する意見もあるだろう。しかし一方で、選挙によって国民の意思が明確に示されたにもかかわらず、速やかに首相を交代できないとなれば、党は次第に国民との乖離を深め、やがて国民的孤立に陥る。国民との対話を失った政党は、選挙のたびに「見限られる」宿命を背負うことになる。総裁の進退をめぐる今回の騒動は、単なる人事問題ではない。政党がどこまで民主主義に忠実でいられるか。その覚悟が問われた「踏み絵」であった。そして自民党は、またしてもその一歩を踏み出すことができなかった。確かに、恥ずべきは潔く退陣しない石破氏かもしれない。しかし、政権にしがみつく総理を速やかに退かせることができない制度的構造は自民党の責任である。「恥の上塗り」とは、まさにこのことを言う。