語るべきを語る国に2025年08月21日

中国大使館
「日本では治安が悪化し、中国人への襲撃事件が各地で発生している」——そんな物騒な文言が、中国大使館の公式サイトに掲載された。富士登山の服装から交通ルールの遵守まで、一見すると観光客向けの注意喚起のように見えるが、実際には日本社会への不信と警戒が露骨に滲む内容だった。しかし、挙げられた事例を精査すれば、その構図は容易に崩れる。大使館が根拠とする3件の中国人被害はいずれも、日本人によるヘイトクライムとは無関係だ。京都の事件は中国人同士のトラブルで、加害者は不法滞在者。先日には殺人目的が疑われ、殺人未遂罪で再逮捕されている。大阪の強盗事件では加害者こそ日本人だが、動機は金品目的であり、特定の国籍を狙ったものではない。東京の事件では、中国人旅行者が鉄パイプで襲われたが、加害者の国籍も動機も不明のままだ。これらを「中国人への襲撃事件」として一括りにするのは、事実の誤認というより、意図的な印象操作に近い。

それにもかかわらず、日本政府は沈黙を貫いた。抗議も訂正要求もなく、例によって「冷静に対応する」と繰り返すばかりだ。だが、中国は「沈黙=承認」と解釈する国である。1972年の日中国交正常化以来、日本が曖昧な態度を取るたびに、中国は根拠の乏しい主張を繰り返し、あたかもそれが事実であるかのように積み上げてきた。“言った者勝ち”の構図が、沈黙によって加速されている。

石破政権の外交は、この“沈黙病”が深刻化した象徴と言える。日米交渉では共同文書すら作成されず、アポなし訪米を「成功率100%」と自賛したものの、肝心の関税引き下げの時期すら米国に明示させることができなかった。これでは、成果の伴わない自己満足に過ぎず、無責任外交と呼ばれても仕方がない。外務大臣に至っては、他国による誤った発信に対して是正を求める姿勢すら見せず、国会で問われても「外交上、答弁を差し控える」と逃げるばかり。毅然とした態度を示さないことで、日本は国際社会から「押せば引く国」と見なされ、外交的な主導権を自ら手放している。沈黙は慎重さの表れではない。もはや、責任の放棄に近い。

メディアもまた、沈黙の共犯者である。政府の発言を垂れ流すだけで、構造的な検証も批判もない。報道機関としての責任を放棄し、「報じない自由」を行使することで、国民の知る権利は損なわれている。中国大使館の注意喚起に対しても、文脈を省略した報道が目立ち、誤った印象が放置されたままだ。外交も報道も、沈黙によって守られるものは何もない。むしろ沈黙は、他国に誤った認識を与え、誤情報の拡散を許す構造を生む。誤った情報には、事実で応じるしかない。語るべきことを語らない国に、信頼も尊厳も宿るはずがない。