子育て まち育て 石見銀山物語 ― 2025年04月01日

教室監視カメラ導入の是非について、「希望と信頼のあるところに教育は醸成する」と書いたものの、ずっとモヤモヤしていた。たまたまこのドキュメンタリー番組を見て気持ちが晴れた。『子育て まち育て 石見銀山物語』は、世界遺産・石見銀山を抱える島根県大田市大森町を舞台に、かつて世界屈指の銀山の下町だったこの地域が、閉山後に限界集落へと衰退したものの、地域全体で子どもを育て、町を活性化させる取り組みを描いたNHKのドキュメンタリー番組である。番組では、四季折々の町の風景とともに、移住者や地元住民約400人が協力しながら子育てを行う姿が映し出される。本作は2022年から2023年にかけて春・夏・秋・冬の4回にわたって放送され、2023年1月には全話一挙再放送も実施。その後、2024年6月には特別編が放送され、2025年2月に再放送された。特別編では、大森町がどのようにして過疎地域から子どもの笑顔あふれる町へと変化したのかが改めて紹介された。制作にあたり、制作者が具体的に何からインスピレーションを受けたかは明言されていないが、大森町での地域ぐるみの子育てや移住支援、仕事と生活の一体化などの情報が影響を与えたと考えられる。例えば、町の活性化に関する書籍『過疎再生 奇跡を起こすまちづくり』(松場登美著)では、大森町の事例を通じて地方創生の可能性が示されており、本番組の背景とも共鳴する内容となっている。『子育て まち育て 石見銀山物語』は、地域コミュニティの力や移住者と地元住民の協働による町おこしの成功例を広く伝え、多くの視聴者に感動を与えた作品だ。
圧巻は、たった一人で小学校を卒業していく男子が答辞でお礼を述べる際、集落の人々への感謝を語りながら涙ぐむシーンだ。全校20数人の児童たちは、低学年までもらい泣きをする。帰り道では、集落の人たちが皆「おめでとう」と声をかけ、「泣かんかったか?」「泣いてしまいました」と正直に語るシーンも温かい。こんな地域の学校には、監視カメラは必要がない。「学校づくりは地域づくり」。かつて与謝の海養護学校の初代校長となった青木嗣夫氏の言葉を思い出す。この言葉は、障害児のための地域づくりを念頭に置いたものだが、大切なのは、教育と地域づくりは切り離してはならないという思想だ。確かに、小さな集落の学校だからといって、いじめや体罰がまったくないとは言えない。しかし、地域全体が文字通り子どもを見守り、学校を支えていれば、深刻な事態は避けられる。もちろん、その反面、集落の同調圧力は強いのかもしれないが、大森町に志を持って移り住む若い世代が、それを柔らかなものに変えていく可能性も感じる。コンビニはないが、持ち寄りの食事会がメンバーを変えて家々で開かれ、僻地のプロパンガス代は都会の3倍の値段だが、地域はさらに温かい。新入生は昨年度8名に増え、保育所の園児数も一桁増えた。その理由は、大森町の人的環境にあるのだろう。自分も子育て時代、「親子共育ち」として民間学童保育を支援してきたが、地域づくりには足がかりがなかった。大森町の幸運は、2つの中規模企業が集落への貢献も意識して存続していること、そして2007年に石見銀山が世界遺産に登録され、町ぐるみで穏やかな街を目指す地域づくりの経験を積んできたことだ。どこの地域でも同じ条件あるとはいえないが、地域の絆を深めるための努力が、子どもを育てる環境をつくるのだと言える。
圧巻は、たった一人で小学校を卒業していく男子が答辞でお礼を述べる際、集落の人々への感謝を語りながら涙ぐむシーンだ。全校20数人の児童たちは、低学年までもらい泣きをする。帰り道では、集落の人たちが皆「おめでとう」と声をかけ、「泣かんかったか?」「泣いてしまいました」と正直に語るシーンも温かい。こんな地域の学校には、監視カメラは必要がない。「学校づくりは地域づくり」。かつて与謝の海養護学校の初代校長となった青木嗣夫氏の言葉を思い出す。この言葉は、障害児のための地域づくりを念頭に置いたものだが、大切なのは、教育と地域づくりは切り離してはならないという思想だ。確かに、小さな集落の学校だからといって、いじめや体罰がまったくないとは言えない。しかし、地域全体が文字通り子どもを見守り、学校を支えていれば、深刻な事態は避けられる。もちろん、その反面、集落の同調圧力は強いのかもしれないが、大森町に志を持って移り住む若い世代が、それを柔らかなものに変えていく可能性も感じる。コンビニはないが、持ち寄りの食事会がメンバーを変えて家々で開かれ、僻地のプロパンガス代は都会の3倍の値段だが、地域はさらに温かい。新入生は昨年度8名に増え、保育所の園児数も一桁増えた。その理由は、大森町の人的環境にあるのだろう。自分も子育て時代、「親子共育ち」として民間学童保育を支援してきたが、地域づくりには足がかりがなかった。大森町の幸運は、2つの中規模企業が集落への貢献も意識して存続していること、そして2007年に石見銀山が世界遺産に登録され、町ぐるみで穏やかな街を目指す地域づくりの経験を積んできたことだ。どこの地域でも同じ条件あるとはいえないが、地域の絆を深めるための努力が、子どもを育てる環境をつくるのだと言える。
「D加群」理論アーベル賞 ― 2025年03月31日

京都大学の柏原正樹特任教授が、数学の最高権威「アーベル賞」を日本人として初めて受賞した。柏原氏は代数解析学の発展に寄与する「D加群」理論を構築した功績を評価され、「共同研究者の助けが受賞につながった」と喜びを語った。東京大学在学中に佐藤幹夫氏に師事し、50年以上数学の難題に取り組んできた柏原氏は、「創造的であることの重要性」を佐藤氏から学んだという。研究成果は物理学などにも応用され、今回の受賞が研究全体への評価となったことに満足感を示した。会見では京大関係者からも賞賛され、柏原氏の業績が次世代の研究者を鼓舞すると期待された。アーベル賞は2002年の創設以来、毎年数学の発展に寄与する研究者に贈られている。これだけでは内容がよく分からないので、「D加群」理論とは何かとAIに聞いてみた。『微分方程式は、自然現象や工学的システムを記述する上で欠かせないが、その解を求めるのは非常に難しい。まるで巨大なジグソーパズルを解くようなもので、ピース(解)が揃っていないと全体像が見えず、どこに何があるのかすら分からない。さらに、似たようなピースが多すぎて(無数の解があり得る場合)、本当に正しい解を見つけられるのかすら不明なこともある。ここで登場するのがD加群(D-Module)という数学的な枠組みである。これは「微分を文字のように扱う」という発想を導入し、微分方程式を代数的に整理することで、解の存在や性質を計算せずに把握するための強力なツールとなる。たとえば、楽譜(D加群)があれば、実際に演奏しなくても曲の特徴(リズム・メロディ・和音など)が分かるように、D加群を使うことで微分方程式を解かなくても、その本質が分かるのだ。普通の方程式なら、因数分解すれば、解がすぐに分かる。しかし、微分方程式はそうはいかない。D加群では、微分を操作できる「数」とみなすことで、方程式の持つ性質をより深く理解できるようにする。これは、楽譜を解析して曲の特徴を把握することに似ている。柏原正樹氏は、このD加群の理論を発展させ、微分方程式の「見えない情報」まで分析できるようにした。特に「超局所解析」という手法を使い、特異点の詳細な構造を解明し、代数幾何・表現論・物理学に応用できるようにした。たとえば、これはまるで、楽譜の細かい音符の配置から「どんな楽器で演奏されるのか」「どの部分が特に難しいのか」まで推測できるようなものである。』
この説明を読んでも、なんとなく理解できたが、深くは分からなかった。そもそも微積分は高校数学でギブアップしたままで、解があるのかないのか以前に「分からない」という壁が立ちはだかっている。楽譜の例えを聞いても、知らない曲を楽譜で想像するのは分かるが、知らない曲と微積分の例えがいまいちつながらず「ふーん」としか思えなかったのが正直なところだ。柏原氏の理論によって、数学のみならず、物理学や工学でも微分方程式の解析が劇的に進歩し、彼の業績は数学界に計り知れない影響を与え、アーベル賞という最高峰の賞を受賞するに至ったのだということしか理解できなかった自分が悲しい。もっと数学をまじめに勉強しておけばよかったと、今さらながら後悔している。
この説明を読んでも、なんとなく理解できたが、深くは分からなかった。そもそも微積分は高校数学でギブアップしたままで、解があるのかないのか以前に「分からない」という壁が立ちはだかっている。楽譜の例えを聞いても、知らない曲を楽譜で想像するのは分かるが、知らない曲と微積分の例えがいまいちつながらず「ふーん」としか思えなかったのが正直なところだ。柏原氏の理論によって、数学のみならず、物理学や工学でも微分方程式の解析が劇的に進歩し、彼の業績は数学界に計り知れない影響を与え、アーベル賞という最高峰の賞を受賞するに至ったのだということしか理解できなかった自分が悲しい。もっと数学をまじめに勉強しておけばよかったと、今さらながら後悔している。
校内監視カメラ ― 2025年03月30日

熊本市教育行政審議会は、いじめや体罰の抑止策として、学校内にカメラを設置する提案をまとめ、市教育委員会に提出した。この提案では、監視カメラの導入が事実確認を容易にし、教職員の意識向上や保護者の不適切な要求の抑止にも寄与すると期待されている。また、被害児童から寄せられた「記録を残してほしい」という声も反映されている。一方で、カメラ設置には慎重な意見もあるため、まずはモデル校での先行実施が提案され、設置場所の検討や子どもの意見を尊重する方針が示された。さらに、相談窓口の設置やスクールカウンセラーの増員・常勤化も提案され、より包括的な教育環境の改善が目指されている。カメラ設置による透明性や抑止効果は一定の期待が持てるものの、教育現場の信頼関係を損なうリスクも指摘されている。生徒や教師に心理的ストレスや不信感を与えかねず、教育理念との相反も懸念される。監視強化が根本的な問題解決につながるかどうかは、慎重に検討しなければならない。いじめや体罰を抑止するためには、監視の強化よりも、対話や信頼関係の構築が重要である。例えば、副担任制の導入は、生徒へのケアを充実させるだけでなく、教師の負担を軽減し、問題行動を多角的に捉える上で有効な手段となる。教育現場で信頼を深めるためには、カメラの設置をあくまで補助的な手段にとどめ、カウンセリング体制の整備や教師と生徒の対話を重視することが求められる。最終的に、教育現場の文化を改善し、問題行動の根本的解決を図る努力が不可欠であり、技術的な監視に頼らず、多角的なアプローチを取ることが重要である。
近年、教員の不適切な行動が報じられることが増えており、学校や行政が問題を隠蔽する体制に対する批判も強まっている。そのため、監視カメラの設置を求める保護者の気持ちは理解できる。しかし、その一方で、子どもの気持ちが置き去りにされているのではないかという懸念もある。カメラの設置は、「先生も子どもも信用できない」という暗黙のメッセージを教育現場に送り続けることになりかねない。他国において学校への監視カメラ設置が進んでいる国として、中国やアメリカが挙げられる。アメリカでは地域ごとに学校の判断で設置され、プライバシー保護のためのアクセス権やセキュリティが確立されているケースもある。一方、中国では全体主義的な管理社会のもと、教育的な理念が入り込む余地はほとんどないと考えられる。懸念されるのは、監視カメラの設置が進んだ先に、倫理や道徳までが管理される社会が待ち受けている可能性である。管理社会は独裁国家だけで起こるものではない。市民の不安を煽ることで、結果として市民自身が管理を求め、最終的に独裁的な体制が成立した歴史もある。教育は、不安や不信のもとでは成立しない。子どもや教員の希望と信頼の中で育まれるものであり、本来、管理社会とは無縁であるべきだ。カメラの設置は一律に行わず、学校が子どもや教員、保護者が時間をかけて議論して、学校が主体的に選択すべきものである。
近年、教員の不適切な行動が報じられることが増えており、学校や行政が問題を隠蔽する体制に対する批判も強まっている。そのため、監視カメラの設置を求める保護者の気持ちは理解できる。しかし、その一方で、子どもの気持ちが置き去りにされているのではないかという懸念もある。カメラの設置は、「先生も子どもも信用できない」という暗黙のメッセージを教育現場に送り続けることになりかねない。他国において学校への監視カメラ設置が進んでいる国として、中国やアメリカが挙げられる。アメリカでは地域ごとに学校の判断で設置され、プライバシー保護のためのアクセス権やセキュリティが確立されているケースもある。一方、中国では全体主義的な管理社会のもと、教育的な理念が入り込む余地はほとんどないと考えられる。懸念されるのは、監視カメラの設置が進んだ先に、倫理や道徳までが管理される社会が待ち受けている可能性である。管理社会は独裁国家だけで起こるものではない。市民の不安を煽ることで、結果として市民自身が管理を求め、最終的に独裁的な体制が成立した歴史もある。教育は、不安や不信のもとでは成立しない。子どもや教員の希望と信頼の中で育まれるものであり、本来、管理社会とは無縁であるべきだ。カメラの設置は一律に行わず、学校が子どもや教員、保護者が時間をかけて議論して、学校が主体的に選択すべきものである。
リーチャー〜正義のアウトロー〜 ― 2025年03月29日

久しぶりにアメリカのドラマを24話一気見した。Amazon Prime Videoのドラマシリーズ『リーチャー 〜正義のアウトロー〜』だ。主人公は、軍警察の特別捜査官として数々の功績を挙げたジャック・リーチャー。退役後は自由を求め、愛用の歯ブラシと少量の現金だけを携えて旅を続けている。しかし、その旅の途中、身に覚えのない殺人容疑をかけられ逮捕されるという予期せぬ事態に巻き込まれる。誰にも迷惑をかけることなく静かに旅を続けていたリーチャーだが、行く先々で思いもよらぬ事件に巻き込まれていく。その受難と困難に立ち向かう姿を、多彩なエピソードを通じて描き出すドラマだ。トム・クルーズ主演の映画版も面白かったが、こちらの方が断然面白い。何しろ、リーチャーの無双ぶりが半端なく、肉体美も素晴らしい。絶対に死なないリーチャーは、どんな危機でも蘇るロボコップのような存在だ。元軍警察の仲間たちも、リーチャー少佐を心から信頼し、命を顧みずに援助する姿が、浪花節的で好感が持てる。米国人の軍人に対する敬意も感じられる。軍警察でも何でもない放浪者となった彼は、巨悪に対しては、一切容赦しない。正義とはいえ、殺戮や違法行為を辞さないヒーロー像は、日本映画では時代劇に限られ、現代劇ではなかなか描きにくい領域かもしれない。
本作は、英作家リー・チャイルドによる小説『ジャック・リーチャー』シリーズを原作としており、世界的に高い人気を誇る。アラン・リッチソン主演のテレビドラマ版は、Prime Videoで最も視聴された作品のひとつとなり、批評家からも高評価を得ている。映画版『アウトロー』(2012年)および『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』(2016年)はトム・クルーズ主演で公開されたが、原作の主人公像との違いから賛否が分かれ、現在はドラマ版がシリーズの主軸となった経緯がある。リー・チャイルドは映画化された作品への再訪にも意欲を示しているが、同時に配信ドラマの「尺の長さ」を高く評価し、「原作を忠実に映像化するにはテレビシリーズが最適」と語っている。複数エピソードで構成される配信シリーズでは、小説の細部や感情表現をより深く掘り下げることが可能であり、チャイルド自身、「これからは映画より配信シリーズを選ぶ作家が多くなるだろう」と述べている。『リーチャー 〜正義のアウトロー〜』は、すでにシーズン4の制作が進行中で、今後の展開が楽しみだ。
本作は、英作家リー・チャイルドによる小説『ジャック・リーチャー』シリーズを原作としており、世界的に高い人気を誇る。アラン・リッチソン主演のテレビドラマ版は、Prime Videoで最も視聴された作品のひとつとなり、批評家からも高評価を得ている。映画版『アウトロー』(2012年)および『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』(2016年)はトム・クルーズ主演で公開されたが、原作の主人公像との違いから賛否が分かれ、現在はドラマ版がシリーズの主軸となった経緯がある。リー・チャイルドは映画化された作品への再訪にも意欲を示しているが、同時に配信ドラマの「尺の長さ」を高く評価し、「原作を忠実に映像化するにはテレビシリーズが最適」と語っている。複数エピソードで構成される配信シリーズでは、小説の細部や感情表現をより深く掘り下げることが可能であり、チャイルド自身、「これからは映画より配信シリーズを選ぶ作家が多くなるだろう」と述べている。『リーチャー 〜正義のアウトロー〜』は、すでにシーズン4の制作が進行中で、今後の展開が楽しみだ。
NHK「緑なき島」の謝罪 ― 2025年03月28日

NHKの稲葉延雄会長が頭を下げた。長崎市の端島炭坑、通称・軍艦島を扱った1955年放送の番組「緑なき島」で、元島民たちの名誉を傷つけたとして謝罪したのだ。番組内で使用された坑内映像は、後に韓国メディアによって無断転用され、「軍艦島=地獄島」というデタラメなイメージが世界に広がるきっかけとなった。元島民たちは4年以上にわたり、NHKに訂正と謝罪を求めてきた。ようやく実現したのが26日の面談。稲葉会長は「名誉を傷つけた」と謝罪し、報道陣が多数詰めかけた。だが驚くべきはそのあとだ。当事者であるNHKが、この謝罪を自ら報じていないのである。なぜだろう。他局の不祥事は嬉々として取り上げ、自局のニュース枠でもトップ扱いするNHKが、自らの誤りは一切報じない。翌日には、フジテレビの日枝取締役相談役退任の幹部会見を動画付きで丁寧に報じておきながら、自局の謝罪はニュースにもならない。このダブルスタンダードには呆れるしかない。2014年、朝日新聞は慰安婦報道の誤りを認め、紙面で謝罪し、訂正記事を出した。民放各局も、誤報があれば幹部が頭を下げ、その様子を自ら放送してきた。それがメディアの最低限の責任というものだ。一方で、NHKは過ちを認めても、報道しない。なかったことにする。その態度こそ、公共放送として最も恥ずべき振る舞いではないか。
「緑なき島」は70年前の番組で、当時の制作者はほとんど鬼籍に入っている。軍艦島の実態を知るのは、島で少年期や青年期を過ごした元住民たちだけだ。炭鉱は立坑式で海底下に掘り進む。映像で流されたような褌一丁の作業など、あり得なかった。2015年、軍艦島が世界遺産登録された際、韓国は「朝鮮人労働者が差別され、劣悪な環境で働かされた」と主張した。そのプロパガンダの材料として、NHKの映像が利用されていたことが判明している。つまり、NHKは70年前に捏造されたイメージを、今日に至るまで世界にばらまき、その謝罪すら視聴者には知らせていない。これは朝日新聞の慰安婦誤報と同じ構図だ。それなのに、NHKは謝罪会見をしても、報道しない自由を行使している。フジテレビはスポンサー離れを機に経営方針を変えた。広告収入が命綱の民放は、視聴者やスポンサーの声を無視できない。しかしNHKは違う。国民から強制的に徴収する受信料がある限り、視聴者の声など痛くもかゆくもない。これが公共放送のやり方か。自分たちが報じられる側になると、報道しない。自己検証もしない。批判も取り上げない。それでいて他局や民間企業の不祥事には容赦なく切り込む。こんなNHKに、視聴者の信頼などあろうはずがない。この体質を改めさせるには、視聴者が「見る」「見ない」を選べるスクランブル方式に移行するしかない。少なくとも、好き放題やっておいて「受信料を払え」と言われる筋合いは、もうどこにもない。
「緑なき島」は70年前の番組で、当時の制作者はほとんど鬼籍に入っている。軍艦島の実態を知るのは、島で少年期や青年期を過ごした元住民たちだけだ。炭鉱は立坑式で海底下に掘り進む。映像で流されたような褌一丁の作業など、あり得なかった。2015年、軍艦島が世界遺産登録された際、韓国は「朝鮮人労働者が差別され、劣悪な環境で働かされた」と主張した。そのプロパガンダの材料として、NHKの映像が利用されていたことが判明している。つまり、NHKは70年前に捏造されたイメージを、今日に至るまで世界にばらまき、その謝罪すら視聴者には知らせていない。これは朝日新聞の慰安婦誤報と同じ構図だ。それなのに、NHKは謝罪会見をしても、報道しない自由を行使している。フジテレビはスポンサー離れを機に経営方針を変えた。広告収入が命綱の民放は、視聴者やスポンサーの声を無視できない。しかしNHKは違う。国民から強制的に徴収する受信料がある限り、視聴者の声など痛くもかゆくもない。これが公共放送のやり方か。自分たちが報じられる側になると、報道しない。自己検証もしない。批判も取り上げない。それでいて他局や民間企業の不祥事には容赦なく切り込む。こんなNHKに、視聴者の信頼などあろうはずがない。この体質を改めさせるには、視聴者が「見る」「見ない」を選べるスクランブル方式に移行するしかない。少なくとも、好き放題やっておいて「受信料を払え」と言われる筋合いは、もうどこにもない。
BDの生産終了 ― 2025年03月27日

ブルーレイディスク(BD)市場は急速に縮小し、録画文化の終焉が迫っている。今年1月、ソニーグループがBDの生産終了を発表し、業界に大きな影響を与えた。背景には、動画配信サービスやクラウド保存の普及があり、手間のかかる光ディスクへの保存は敬遠される傾向にある。台湾のバーベイタムジャパンは生産継続を表明したものの、需要の減少は深刻で、BDやレコーダーの未来は不透明だ。録画機器の需要も減少しており、BDレコーダーの出荷台数はピーク時の15%程度まで落ち込んでいる。業界内ではさらなる撤退が懸念され、新製品の開発も抑制されている。一方で、動画配信では見られないコンテンツを保存したい「推し活」需要が一定の市場を維持しており、録画機器を重宝するユーザーも多い。BDやレコーダーが完全に消えるかは不明だが、「推し活」市場が最後の希望となっている。メーカーは現行製品の販売を継続しつつ、長期的な動向を注視する必要がある。録画文化の未来は、進化する消費者ニーズにどれだけ対応できるかにかかっている。光ディスク技術は、1980年代にアナログ映像・音声を記録するレーザーディスク(LD)から始まり進化を遂げてきた。1982年にはコンパクトディスク(CD)が登場し、音楽市場に革新をもたらした。その後、1995年にはDVDが映像記録媒体として普及し、4.7GBの容量を提供。2003年には高解像度映像に対応したブルーレイディスク(BD)が登場し、さらに大容量化が進んだ。
LDは昭和のカラオケスナックで使われ始め、当時はスナックのママが8トラックのカセットをガチャガチャと入れ替えていたが、ある日、大きな光ディスクを大事そうにプレーヤーに入れていたのを思い出す。映像が妙に艶めかしかったことが印象的だ。音楽CDの思い出といえば、MD(ミニディスク)に録音してお気に入りを作っていたが、再生汎用性の高いCD-Rに取って代わられ、MDはあっという間にお蔵入りした。平成に入るとMP3録音が主流となり、ディスクを持ち歩くこともなくなった。DVDは、レンタルビデオ店で映画を借りるのが流行した時代が最盛期だったが、これも10年ほどでネット配信に取って代わられた。パソコンはDVDやBDレコーダーが標準装備されているモデルを好んで購入していたが、最近はBDレコーダーを使う機会もなくなった。先日、隣人がBDを再生したいと言ってきたが、液晶テレビには留守録HDDしか接続されていなかった。しかし、プレイステーションがBD対応だったことを思い出し、試してみることに。作動音はするが映らない。原因はBDの裏表を逆に入れていたことだった。久しぶりに使うあまり、光ディスクの入れ方すら忘れていたのだ。光ディスクには、その変遷とともにたくさんの思い出が詰まっている。
LDは昭和のカラオケスナックで使われ始め、当時はスナックのママが8トラックのカセットをガチャガチャと入れ替えていたが、ある日、大きな光ディスクを大事そうにプレーヤーに入れていたのを思い出す。映像が妙に艶めかしかったことが印象的だ。音楽CDの思い出といえば、MD(ミニディスク)に録音してお気に入りを作っていたが、再生汎用性の高いCD-Rに取って代わられ、MDはあっという間にお蔵入りした。平成に入るとMP3録音が主流となり、ディスクを持ち歩くこともなくなった。DVDは、レンタルビデオ店で映画を借りるのが流行した時代が最盛期だったが、これも10年ほどでネット配信に取って代わられた。パソコンはDVDやBDレコーダーが標準装備されているモデルを好んで購入していたが、最近はBDレコーダーを使う機会もなくなった。先日、隣人がBDを再生したいと言ってきたが、液晶テレビには留守録HDDしか接続されていなかった。しかし、プレイステーションがBD対応だったことを思い出し、試してみることに。作動音はするが映らない。原因はBDの裏表を逆に入れていたことだった。久しぶりに使うあまり、光ディスクの入れ方すら忘れていたのだ。光ディスクには、その変遷とともにたくさんの思い出が詰まっている。
兵庫県第三者委員会 ― 2025年03月26日

兵庫県の第三者委員会は、斎藤元彦知事に関する告発文書問題の報告書を公表した。報道によると、同委員会は、告発者への対応が公益通報者保護法に明らかに違反しており、元県幹部男性を懲戒処分とした行為を裁量権の乱用として無効と指摘した。また、職員への叱責など10件をパワハラと認定し、斎藤氏が昨年3月の記者会見で「公務員失格」「嘘八百」と非難した行為もパワハラに該当すると評価した。斎藤氏は記者会見で、問題の文書を「誹謗中傷性が高い」と述べる一方、県議会では「政策推進の過程で至らない点があった」と認め、職員に負担をかけたことを謝罪した。この問題は知事の対応や県政の透明性への批判を浮き彫りにし、県政運営における改善が求められている。メディアは斎藤知事批判一色だが、これらの報道は偏りがある。第三者委員会の報告の概要は、告発文の内容とされる7項目のうち、公益通報と認められるものはパワハラの1項目だけだが、公益通報内容が一つでも含まれているなら、誹謗中傷部分とまとめて懲戒処分してはならないというものだ。パワハラは労働環境に関わる問題であり、その告発は社会的に有益な内容だ。パワハラに関する問題は内部告発として保護されるべきであり、県は透明性を持ってその対応を行う必要がある。他の6項目については、もしそれらが事実に基づかない誹謗中傷であると判断される場合、懲戒理由として説明することは可能である。ただし、誹謗中傷として懲戒を行うには、その内容が虚偽であることを証明しなければならない。告発内容が事実に基づいていない場合、名誉毀損や虚偽告発として懲戒処分を行うことが適法となる。懲戒処分を行う場合、その理由が法的に適切であることを証明することが求められる。告発内容が業務と無関係であり、虚偽または不正な内容である場合、それに基づく懲戒処分は正当とされる。告発者保護も重要な要素で、公益通報に該当する部分については報復を避け、告発者が不利益を被らないようにする必要がある。
知事の「不満があるからといって、業務時間中に、嘘八百含めて、文書を作って流す行為は公務員としては失格」発言は、業務時間中に私的な文書を作成し流布する行為を公務員として不適切だと指摘した。また、「嘘八百を含めて」という表現から、告発内容が虚偽であることを強調している。この発言は、公益通報に該当する内容(パワハラ問題)を含めて懲戒理由として扱われた可能性がある。知事の発言はその全体を一緒に問題視しており、公益通報の部分まで懲戒対象とした可能性がある。つまり告発文書がばらまかれた時点で、県はパワハラの問題は公益通報にあたると判断して内容に触れず、それ以外の中傷文書が勤務時間中の作成で中傷内容を県庁外部にばらまいたことは県の信用失墜にあたるとして懲戒処分を分けて行えばよかったということだ。メディアは「告発文書の犯人捜しをした」と斎藤知事を第三者委員会が全面的に悪と断罪したかのように触れ回るが、これは正しい報道姿勢とは言えない。とはあれ、斎藤知事の釈明を見ているとなんとも稚拙でぎこちない。揚げ足を取られまいと大事な説明を端折ってしまっては、ごまかしていると人には映るということが未だに理解できていないようだ。まじめに県政を進めようとしているのは分かるが、この態度が政治家の器ではないなと思われてしまうのが残念である。べらべらねばねば説明しても結論のない石破氏と比較すればはるかにましなのだが・・・。
知事の「不満があるからといって、業務時間中に、嘘八百含めて、文書を作って流す行為は公務員としては失格」発言は、業務時間中に私的な文書を作成し流布する行為を公務員として不適切だと指摘した。また、「嘘八百を含めて」という表現から、告発内容が虚偽であることを強調している。この発言は、公益通報に該当する内容(パワハラ問題)を含めて懲戒理由として扱われた可能性がある。知事の発言はその全体を一緒に問題視しており、公益通報の部分まで懲戒対象とした可能性がある。つまり告発文書がばらまかれた時点で、県はパワハラの問題は公益通報にあたると判断して内容に触れず、それ以外の中傷文書が勤務時間中の作成で中傷内容を県庁外部にばらまいたことは県の信用失墜にあたるとして懲戒処分を分けて行えばよかったということだ。メディアは「告発文書の犯人捜しをした」と斎藤知事を第三者委員会が全面的に悪と断罪したかのように触れ回るが、これは正しい報道姿勢とは言えない。とはあれ、斎藤知事の釈明を見ているとなんとも稚拙でぎこちない。揚げ足を取られまいと大事な説明を端折ってしまっては、ごまかしていると人には映るということが未だに理解できていないようだ。まじめに県政を進めようとしているのは分かるが、この態度が政治家の器ではないなと思われてしまうのが残念である。べらべらねばねば説明しても結論のない石破氏と比較すればはるかにましなのだが・・・。
非核神戸方式 ― 2025年03月25日

神戸港では「非核神戸方式」に基づき、外国艦艇に核兵器不積載証明書の提出を求めてきたが、証明書を提出していない米海軍掃海艦「ウォーリア」が入港した。1975年に同方式が採択されて以来、米艦が寄港するのは初めてのことだ。市は外務省や米国政府との調整を経て、核兵器を積載していないとの確認を受け、入港を許可したが、市民団体が反発している。証明書未提出での入港は1998年のカナダ軍艦艇以来2例目である。市議会は1975年に核兵器搭載艦の入港拒否を決議し、以後50年間で外国艦艇22隻が入港し、そのうち21隻が証明書を提出した。しかし、今回の市の決定に対して原水爆禁止兵庫県協議会や市民団体が抗議し、「非核神戸方式を裏切る」と非難する声が上がっている。世界には約5,000の商業港があるが、外国艦艇に核兵器不積載証明書の提出を正式に求める港はごく少数である。日本では神戸港、広島港、長崎港、またニュージーランドではオークランド港やウェリントン港が証明書の提出を求めている。世界ではこれらの港を合わせても数十港程度にとどまり、全港数の中では極めて少数である。多くの国では核兵器の存在を曖昧にする政策を採用しており、証明書提出を求める制度は限定的だ。外国艦艇に核兵器不積載証明書の提出を求めない港が圧倒的に多いのは、主に安全保障上の配慮、同盟関係、経済的・軍事的関係、検証の困難さが理由だ。核保有国は敵対国への抑止力を維持するため、核兵器の有無を明確にしない曖昧戦略を取っており、証明書の要求は外交的に困難である。また、核の傘の提供を受ける国々では核抑止力を重視し、証明書提出を求めることを避ける傾向がある。さらに、港湾を運営する国や都市は貿易や軍事協力の重要性から関係悪化を懸念し、証明書提出を要求しないことが多い。加えて、核兵器の有無を実際に確認することは技術的・政治的にも困難だ。
自治体が核兵器を拒否して宣言するものは非核平和都市宣言で、その採択割合は日本の自治体の半分程度と言われている。これは1971年に衆議院で非核三原則を支持する決議に沿ったもので、政府の公式見解に異を唱えたものではない。ただ、実際には米軍基地に核兵器が持ち込まれていることは公然の秘密となっており、非核平和都市宣言は政府の曖昧な姿勢に対する抗議の意味もある。神戸市の施策もこれに属したものだ。今回、市が証明書提出を不問にしたのは、掃海艦が機雷を除去する船で核兵器を搭載する装備は通常ないことが知られているからかもしれない。しかし、軍隊が他国に兵器の内容を示すことは手の内を見せることに等しく、抑止の観点からも安全保障上はあり得ないことだ。米国の同盟国である日本がそれを求めることは国益にもつながらないのは自明である。非核三原則の「持ち込ませず」は、中露北に核兵器を向けられた現在の日本の安全保障情勢では国益に沿わない原則と言える。自国が他国には手を出さないと言っても、勝手に侵攻してくる他国には関係のないことだ。相手国に手の内を見せず、どんな兵器があるか分からないという抑止力は必要だ。責められるのは神戸市ではなく、時代に沿わない議決を放置している国会の毅然としない姿勢である。
自治体が核兵器を拒否して宣言するものは非核平和都市宣言で、その採択割合は日本の自治体の半分程度と言われている。これは1971年に衆議院で非核三原則を支持する決議に沿ったもので、政府の公式見解に異を唱えたものではない。ただ、実際には米軍基地に核兵器が持ち込まれていることは公然の秘密となっており、非核平和都市宣言は政府の曖昧な姿勢に対する抗議の意味もある。神戸市の施策もこれに属したものだ。今回、市が証明書提出を不問にしたのは、掃海艦が機雷を除去する船で核兵器を搭載する装備は通常ないことが知られているからかもしれない。しかし、軍隊が他国に兵器の内容を示すことは手の内を見せることに等しく、抑止の観点からも安全保障上はあり得ないことだ。米国の同盟国である日本がそれを求めることは国益にもつながらないのは自明である。非核三原則の「持ち込ませず」は、中露北に核兵器を向けられた現在の日本の安全保障情勢では国益に沿わない原則と言える。自国が他国には手を出さないと言っても、勝手に侵攻してくる他国には関係のないことだ。相手国に手の内を見せず、どんな兵器があるか分からないという抑止力は必要だ。責められるのは神戸市ではなく、時代に沿わない議決を放置している国会の毅然としない姿勢である。
議会行政の懇親会廃止 ― 2025年03月24日

長野県山ノ内町は、町議会3月定例会後に毎年開催してきた町幹部と町議の懇親会を本年度から廃止した。懇親会は町側が新年度予算案を可決した議会側に感謝し、議会側が退職する町幹部職員を慰労する目的で長年続いてきた。しかし、町職員にとっては勤務時間外に自費で参加する半ば公務のような負担が生じており、「時代に合わない慣例」として見直しが求められていた。懇親会は3月の定例会に加え、議会の決算認定後の9月定例会後にも町内の温泉旅館で開催されていた。町長や課長級職員、町議が参加し、1人あたり5千円から6千円を自己負担していた。参加は任意とはいえ、事実上「全員出席が原則」とされ、負担に感じる職員も少なくなかった。町長はこうした背景から「懇親会を否定するわけではないが、働き方改革が進む中、慣例だからといって続けるのはいかがなものか」と述べ、議会側に中止を提案した。町議会議長は「町主催のため開催の判断は町に委ねるしかないが、町議の中には率直に話せる場がなくなることを惜しむ声もある」とコメントした。廃止の趣旨は働き方改革だが、石破首相の新人議員懇親会での商品券渡しの問題に便乗した廃止かもしれない。行政と議会には適度な緊張関係が必要だ。たとえ自腹であっても、公務外に仕事の関係性を持ち込む必要はない。また、その関係性は「センセイ」や「与党」が優越的なので対等ではない。その優越的な関係性で半ば強制となる懇親会を廃止した町長の判断は適切だったと思う。
飲み会は本来の懇親の意味では嫌いではないが、公務の上下関係が丸出しになるような懇親会は好まない。昔は何度か抵抗してきたが、同調圧力に負けて諦めた苦い記憶がある。こうした懇親会は支配と服従の下心が透けて見えてしまう。もちろん、参加して話してみれば人それぞれの人となりが見えて、その後の公務がスムーズになるという意見は理解できなくもない。しかし、結局は自分の仕事のために有益なのだから気にするなという発想には馴染めない。一堂に会する懇親会をなくすと、個別の誘い合いが横行したり、招待が不公平だと言われたりしてかえって面倒だというのは強者の理屈だ。私的な時間に自ら懇親会を開催し、気に入った人を呼ぶのは一向に問題がない。その際の経費が主催者持ちだろうが割り勘だろうが構わない。誘われた人の判断で参加すればよいだけだ。プライベートな関わりにも上下関係はあるが、それは双方が個人的に了解した契約だ。公私を混同するなと言うが、社会生活においてはなかなか難しい問題だ。しかし、同調圧力を用いた懇親会が公務に良い成果を生み出すというのは昭和の幻想でしかない。
飲み会は本来の懇親の意味では嫌いではないが、公務の上下関係が丸出しになるような懇親会は好まない。昔は何度か抵抗してきたが、同調圧力に負けて諦めた苦い記憶がある。こうした懇親会は支配と服従の下心が透けて見えてしまう。もちろん、参加して話してみれば人それぞれの人となりが見えて、その後の公務がスムーズになるという意見は理解できなくもない。しかし、結局は自分の仕事のために有益なのだから気にするなという発想には馴染めない。一堂に会する懇親会をなくすと、個別の誘い合いが横行したり、招待が不公平だと言われたりしてかえって面倒だというのは強者の理屈だ。私的な時間に自ら懇親会を開催し、気に入った人を呼ぶのは一向に問題がない。その際の経費が主催者持ちだろうが割り勘だろうが構わない。誘われた人の判断で参加すればよいだけだ。プライベートな関わりにも上下関係はあるが、それは双方が個人的に了解した契約だ。公私を混同するなと言うが、社会生活においてはなかなか難しい問題だ。しかし、同調圧力を用いた懇親会が公務に良い成果を生み出すというのは昭和の幻想でしかない。
ファタハとヨルダン川西岸 ― 2025年03月23日

パレスチナ自治政府のアッバス議長率いるファタハは22日、対立するハマスに対し、ガザ地区のパレスチナ人の存立を守るため権力を放棄するよう求めた。ファタハは、ハマスが統治を続ければパレスチナ人の存在が危機に直面すると警告。ハマスは2007年にガザの権力を掌握して以降、和解の試みは失敗している。2023年10月のハマスの越境攻撃に対するイスラエルの報復攻撃でガザは壊滅的な被害を受けた。ハマスは戦後にガザ支配を返上する用意があるものの、武力放棄は拒否。エジプトの提案する専門家らによる独立委員会の設置を支持しつつ、民族的合意を重視すると表明した。一方、アッバス議長は同委員会をパレスチナ自治政府に報告させるべきだと主張し、自治政府のガザ統治の正当性を強調しているが、イスラエル政府はこれを拒否している。パレスチナ問題は非常に複雑で、解決の糸口を見出すのは容易ではない。ガザをイスラエルに、ヨルダン川西岸をパレスチナにというような和平策が考えられるかもしれない。
1967年の六日戦争におけるヨルダン川西岸の占領も、ユダヤ人を排斥しようとするイスラム勢力のテロやアラブ諸国の挑発が契機となった。結果的にイスラエルを孤立させ、独立した民主国家が反撃したのは当然ともいえる。ただ、パレスチナ側もハマスの武力を排除して政権を統一するならば、イスラエルはヨルダン川西岸をパレスチナに一気に返還し、破壊し尽くしたガザはイスラエルに帰属させて復興を進める方法も考えられるのではないか。しかし、米国の軍事力を背景にしたイスラエルがパレスチナの要求に容易に応じることは考えにくい。イスラエルの占領地の割譲と引き換えに交渉を進めるのが現実的かもしれないが、中露寄りの立場を強めるイランの影響もあり、簡単には進展しないだろう。
1967年の六日戦争におけるヨルダン川西岸の占領も、ユダヤ人を排斥しようとするイスラム勢力のテロやアラブ諸国の挑発が契機となった。結果的にイスラエルを孤立させ、独立した民主国家が反撃したのは当然ともいえる。ただ、パレスチナ側もハマスの武力を排除して政権を統一するならば、イスラエルはヨルダン川西岸をパレスチナに一気に返還し、破壊し尽くしたガザはイスラエルに帰属させて復興を進める方法も考えられるのではないか。しかし、米国の軍事力を背景にしたイスラエルがパレスチナの要求に容易に応じることは考えにくい。イスラエルの占領地の割譲と引き換えに交渉を進めるのが現実的かもしれないが、中露寄りの立場を強めるイランの影響もあり、簡単には進展しないだろう。