「よしもと祇園花月」閉館2025年05月19日

「よしもと祇園花月」閉館
最近はお笑いを見る機会がめっきり減った。テレビでもたまに吉本新喜劇を目にする程度で、漫才番組はほとんど姿を消してしまった。漫才番組が減少した主な要因としては、制作コストの高さ、芸人のトーク重視へのシフト、そしてYouTubeなど配信媒体の台頭が挙げられる。視聴者の関心はネタよりも芸人の人間性やエピソードトークに向かっており、テレビ局側も安価で制作しやすい番組を選ぶ傾向にある。また、漫才は年に一度の大型特番(M-1など)で注目を集める形式へと移行し、定期的な放送の必要性が薄れてきたという背景もある。そんな中、2025年8月に「よしもと祇園花月」が閉館するというニュースが報じられた。これにより、京都から再び吉本の常設劇場が姿を消すことになる。京都花月劇場から祇園花月へと続いた吉本劇場の歴史は、関西の笑いを育んできた重要な存在であり、その終焉は惜しまれる。

京都花月劇場は、吉本興業が1936年に新京極の中座を買収し、演芸場として開業したのが始まりである。漫才や演芸を中心に関西の笑いを支える拠点となり、戦後の一時休館を経て、1962年に再開。吉本新喜劇の舞台中継なども行われていた。しかし、建物の老朽化や興行の統合を受け、1987年に閉館。京都における吉本の常設劇場は一時的に姿を消すこととなった。その後、2011年に「よしもと祇園花月」が開場。かつて映画館だった祇園会館の劇場スペースを改装し、吉本が京都の笑いの文化を再興させた。漫才や新喜劇に加え、週末には東京吉本の芸人も出演し、多彩な演目が披露された。祇園花月は、再び京都に演芸文化を根付かせる重要な拠点として、多くの観客を魅了してきた。わずか15年での閉館は、漫才や落語といった伝統芸能の衰退を感じさせる出来事でもある。

祇園花月の前身である祇園会館は、かつて映画館として親しまれていた。京都の蒸し暑い夏の夜、涼を求めて3本立ての映画を観に行ったことを思い出す。古い映画やポルノ作品が多く、ほとんど眠ってしまっていたため内容の記憶はあまりないが、涼しい館内で過ごした時間が懐かしい。そんな思い出の場所に吉本が20年ぶりに戻ってきたとき、京都の人々は大いに盛り上がった。ただ、祇園花月は河原町や四条駅からやや離れており、近年ではインバウンドの観光客も多く、八坂神社前にたどり着くのも一苦労だ。外国人観光客にとっては漫才の魅力が伝わりづらいかもしれないが、立地としては最高の観光地にあることから、今後はそれを活かした再開発が進められる可能性もある。結果として、漫才が犠牲になった印象は否めない。今では漫才を見る機会は動画配信が中心になったが、ベテラン芸人の味わい深い芸はアップされない。漫才も落語も、芸人が老年期に入ってからの渋さが面白いのだが、そうした舞台を生で観られる機会は、今後さらに減っていくだろうと思うと、寂しさを感じざるを得ない。

しあわせは食べて寝て待て2025年05月18日

しあわせは食べて寝て待て
NHKドラマ10の新作『しあわせは食べて寝て待て』は、桜井ユキ主演のドラマで、同名漫画を原作とし、4月に放送が開始された。38歳独身の麦巻さとこが主人公で、彼女は膠原病を患い、キャリアウーマンの道を諦め、週4日のパート勤務に切り替えざるを得なくなる。収入減により引っ越しを決めた彼女は、団地の内見で美山鈴(加賀まりこ)や、薬膳料理が得意な羽白司(宮沢氷魚)と出会い、物語が展開していく。このドラマはSNSで大きな話題となり、第1話の「NHKプラス」視聴数が、大河ドラマや朝ドラを除くNHKドラマ史上最高を記録した。派手な演出こそないものの、等身大の主人公の姿をリアルに描き、多くの視聴者の共感を集めている。病気を抱えながらも日常を受け入れる姿勢や、お金の問題で思うような生活ができない現実がリアルに描かれ、視聴者は物語に引き込まれる。リアリティと共感を呼ぶストーリー展開が、多くのファンを生み、ドラマの人気を高めている。

最近のNHKドラマは、派手な起伏が少ないからこそ共感を呼ぶ。いわゆる昔のドタバタ風ホームドラマへの回帰ではなく、誰もが体験し得る、日常の中のちょっとした変化を丁寧に描く。団地と老人が登場するのもお決まりで、そこに若者や中年が混じり込んでいく展開が、安心感をもたらし、リラックスして視聴できるのが魅力だ。昨年のドラマ『団地のふたり』も今回と同じく、東久留米の「滝山団地」で撮影され、小泉今日子と小林聡美演じる幼馴染のアラフィフ独身女性を中心に、ほっこりとした物語が展開する。こちらは二人を取り巻く高齢化問題が主軸となるが、基本的には団地という空間の心地よさを描く。団地暮らしの視聴者にとっては、共感できる部分が多い。

『しあわせは食べて寝て待て』では、中年独身女性の生活が描かれ、団地では住民同士が気軽に声をかけ合う姿が、都会のマンション暮らしの孤独との対比として表現され、「幸せ」の在り方を暗示している。高齢化率30%以上の団地の割合は、全体では3割程度だが、滝山団地のように入居開始から40年以上経過した団地では、60%近くが高齢者となっている(国土交通省「持続可能なまちづくりに向けた住宅団地再生の手引き/2022年」より)。今回のドラマでは、住民が12年に1回の大規模改修を経て、「次は建て替えか」と考え始める様子が描かれている。12年後には生きているかどうかもわからない高齢者にとって、建て替え問題は深刻だ。それでも一人で生きていこうとする次世代の団地住民にとって、「幸せとは何か」という問いが投げかけられる点が、作品の大きな魅力だ。

「くら寿司」万博店予約席を転売2025年05月17日

「くら寿司」万博店予約席を転売
回転寿司チェーンの「くら寿司」は16日、公式アプリ上で「大阪・関西万博店」の予約が不正転売されている事例を確認したとして、利用者に注意を呼びかけた。問題となっているのは、万博会場内に新設された「くら寿司 大阪・関西万博店」の予約枠だ。同店は約135メートルの回転レーンを備え、世界70の国や地域の料理を楽しめるとあって人気が高い。このため、SNSやフリマアプリで予約情報が転売されるケースが相次いでいる。くら寿司は公式アプリで「予約の不正な転売について」と題した声明を発表し、転売行為は利用規約に違反すると強調。「予約の取消し」「アカウント停止・強制退会」「法的措置」などのペナルティを科す可能性があるとして、正規ルートでの予約を呼びかけた。同店は西ゲートの端に位置しており、来場者が足を運びにくい場所だが、依然として大人気だ。ウェブサイトでは1週間前から予約可能だが、公式アプリでは1か月前から予約できる。以前は15日前だったが、予約殺到を受けて枠を拡大したとみられる。しかし、現時点では1か月先まで予約がすべて埋まっている(△表示は当日枠があることを示す)。

報道によれば、転売ヤーが予約番号を取得し、数千円から1万円で転売しているという。正規に予約するだけでもかなりの手間がかかり、午前0時を待ち構えて空き枠を狙う必要がある。昼食・夕食の時間帯は特に人気で、転売価格も高騰しがちだ。転売ヤーは予約確定画面のスクリーンショットをフリマアプリで販売しているが、1万円でも需要があるため、成立してしまうのが実情だ。くら寿司が本格的に対策を強化すれば、同じアカウントで何度も万博店を予約するユーザーの特定は容易だと思われるが、現時点では警告にとどめているようだ。これに対し、スシロー万博店はリング内コモンズパビリオン近くにあり、店頭の予約機でのみ予約を受け付けている。午前中にはすべての予約が埋まるのが現状だ。
くら寿司の「8時間待ち」という報道は当日予約の場合で、実際に8時間並んでいるわけではない。当日入店しようとした客が8時間先ならと諦めて帰るケースが多いと思う。世界各国の料理を注文できるという魅力はあるものの、そこまで苦労して会場内の回転寿司を体験したいとは思わない。

年金制度改革関連法案提出2025年05月16日

年金制度改革関連法案提出
政府は、短時間労働者が厚生年金に加入しやすくなるよう、「年収106万円の壁」の撤廃を含む年金制度改革関連法案を閣議決定した。法案では、厚生年金の加入要件である賃金基準や、従業員51人以上という企業規模要件を廃止し、パートなど非正規労働者の年金額の増加を図る。また、「在職老齢年金」の基準額を月額50万円から62万円に引き上げ、働く高齢者の年金減額を緩和する措置も盛り込まれた。さらに、所得の高い人の厚生年金保険料を段階的に引き上げ、負担を増やす一方で、将来的な給付を手厚くする制度も導入される。しかし、自民党内の反対意見により「基礎年金の底上げ案」は法案に盛り込まれず、野党はこれに反発。今後の国会審議では調整の難航が予想される。

2004年、小泉政権下で「年金100年安心」とうたわれた年金制度改革が実施され、2007年には「消えた年金問題」として約5095万件の記録ミスが発覚した。そこから今日に至るまで制度は複雑化する一方だが、なぜもっとシンプルでわかりやすい制度にできないのだろうか。今回の「106万円の壁」撤廃も、本質的には基礎年金(月額上限約7万円)では生活が成り立たないという懸念に端を発したものである。パート勤務でも厚生年金を10年間納付すれば、月1万円程度の上乗せが見込まれるというが、月8千円程度の納付が必要となり、手取りは減少する。納付と給付は現在と未来のトレードオフであり、単純な損得では語れないが、それでも将来月8万円で一人暮らしをするのは心もとない。

一方、高所得者の保険料上限は月収75万円で約7万円に設定されるというが、逆に言えば年収1000万円を超える層でも、月7万円以上の負担にはならないままだ。税制であれ年金であれ仕組みは異なるが、根底にあるのは所得の多い者が少ない者を支える「所得の再分配」機能である。税金や年金を損得の視点で見るべきではなく、唯一「公平」と言える基準は、能力に応じた負担が実施されているかどうかである。「少子高齢化の中で、少ない勤労者が高齢者をどう支えるか」という議論が当然のように語られているが、これは誤った前提に基づいている。所得の再分配という観点からすれば、国民全体で生み出した富をいかに公平に分配するかを問うべきであり、生産と消費によって成り立つ富を誰が担っているかという視点が不可欠だ。

議論の中心となるべきは国民年金である。基礎年金が月額2万円弱の定額制であること自体、公平の原則からすれば不自然だ。厚生年金の加入者は所得の約9%を納付しているのだから、国民年金も同様に所得比例で納付するのが公平である。厚生年金では企業がもう9%を負担しているため、国民年金では政府が同率を負担すれば、受給額を厚生年金並みに引き上げることも理論上は可能である。政府は、自営業者の所得を把握できないことや、収入の変動を理由に比例負担にできないと説明するが、同じ政府が徴税では正確に所得を捕捉しているのは明らかだ。現在はマイナンバーにより所得情報と個人が紐づけられており、理論上は全ての所得を正確に把握できるはずである。こうした仕組みを活用せず、国民年金受給者の生活困難をあたかも「貧困問題」として扱うのは筋が違う。

もちろん、働けない人や障害のある人への対応には、セーフティネットとしての別建ての制度設計が必要だ。しかし、厚生年金についても、所得比例の「同率負担」ではなく、税と同じような累進構造を取り入れ、低所得者の負担率を下げる仕組みにすることは可能だろう。年金は「個人の財産」ではなく、「国家のあり方」を体現する制度である。これを民間保険のような視点で捉えていること自体が、根本的な誤解なのではないだろうか。

映画「教皇選挙」2025年05月15日

映画「教皇選挙」
映画『教皇選挙(コンクラーベ)』をようやく観てきた。実際の教皇選挙の後だったこともあり、興味深く鑑賞できた。ただ、対話シーンが延々と続き、英語の中に時折イタリア語・スペイン語・ラテン語が混じるため、字幕を追う頻度が高くなり、集中しづらかった。爆破テロによって礼拝堂の窓が吹き飛ぶシーンがなければ、疲れて寝てしまっていたかもしれない。映画は、ローマ教皇の死去を受けて、世界中の枢機卿たちがバチカンのシスティーナ礼拝堂に集い、新教皇を選出する極秘選挙「コンクラーベ」の内幕を描いたミステリードラマである。外部から完全に遮断された環境下で、投票が進むたびに情勢が激変し、聖職者たちが政治家のように権力闘争を繰り広げる。スキャンダルや陰謀が渦巻く中、信仰と組織、伝統と変革のはざまで葛藤する枢機卿たちの姿を通じて、現代社会の分断や人間の本質を浮き彫りにしていく。「密室のベールに包まれた選挙戦の行方と予測不能なサプライズが見どころ」との触れ込みだったが、要するに宗教の世界も政治と同じく、人間の営みである以上、権力闘争は避けられないということを描いている。

教皇選挙は、80歳未満の枢機卿(各地区代表)がシスティーナ礼拝堂に集まり、秘密投票を行う。3分の2以上の票を得た候補が現れるまで、1日に4回の選挙が繰り返される。結果は礼拝堂の煙突から出る煙の色で市民に伝えられ、黒煙は未決定、白煙は決定を意味する。選ばれた枢機卿が教皇の座を受諾すると、「Habemus Papam(ラテン語で“新教皇が誕生した”)」と発表される。映画の展開では、当初は黒人教皇の誕生が有力視されていたが、彼の不倫歴と隠し子の存在が発覚し支持を失う。次の候補である中間派の枢機卿も票の買収を行っていたことが明るみに出て失脚。爆破テロ騒動の混乱の中、保守派の枢機卿は「世界的リベラル運動は神をも恐れぬ」と煽り立てて支持を集めようとする。しかし、聖職者でありながら政治家のような熾烈な駆け引きが展開される中、戦場地域を巡回してきた無名のアフガニスタン出身の枢機卿が「我々は神の子だ」と正論を述べ、圧倒的な支持を得て新教皇に選出される。だが、最後にその新教皇がインターセックスの男性であったことが明かされ、幕が下りる。

どこか、今回のレオ14世誕生の教皇選挙とも似た展開だったので驚いた。脚本はピーター・ストローハンが手がけ、ロバート・ハリスの小説『Conclave』(2016年発表)を原作に脚色されたという。今回の実際の教皇選挙でも、当初は地元バチカンの枢機卿が優位と見られていたが、フランシスコ前教皇と同様にリベラル路線で、中国政府との距離が近すぎるとの批判が高まり、失速したとされる。中国ではカトリック司教の選出に政府の影響が強く、2018年にバチカンと中国政府の間で暫定合意が結ばれ、中国側が候補を選び、バチカンが承認するという枠組みができた。中国政府は国内のカトリック教会の統制を強化し、地下教会への弾圧も続けている。司教の選出には共産党支持者が選ばれる傾向があるという。この状況を容認してきたのが、フランシスコ前教皇および今回のバチカンの枢機卿とされる。一方、レオ14世教皇はシカゴ出身で、南米の貧困層を支えてきた実績が評価され、白羽の矢が立ったという。もちろん映画の脚本は昨年以前に完成していたわけだが、ストローハンの先見の明には驚嘆せざるを得ない。

欺瞞のガソリン税制2025年05月14日

欺瞞のガソリン税制
経済産業省が発表した12日時点の全国平均レギュラーガソリン価格は、前回より1円50銭安い183円となった。調査が実施されなかった大型連休を除けば、これで3週連続の値下がりとなる。政府はガソリン価格を185円程度に抑えるため、石油元売り各社に補助金を支給しており、5月前半には1リットルあたり1円10銭の補助を実施していた。しかし原油価格の下落を受け、5月15日〜21日は補助金なしでも185円を下回る見通しで、制度開始以来2度目の「補助金ゼロ」となるという。だが、たった数円の変動で「値下がり」と強調する政府の姿勢には疑問を禁じ得ない。そもそも、2020年のコロナ禍では原油価格が前年の140円台から130円台に急落し、2021年には経済回復の兆しとともに150円台に。2022年にはウクライナ危機を受けて一気に170円台へと高騰した。これに対し政府は、「燃料油価格激変緩和補助金」により、1リットルあたり14〜20円程度の補助を行い、かろうじて160円台を維持してきた。しかし2024年4月、政府は突然この補助制度を打ち切り、ガソリン価格は180円台を突破、200円に迫る勢いを見せた。

5月からは、補助金の上限を10円に制限し、1円単位で段階的に調整するという、実質的な“改悪”とも言える新制度が始まった。4月の打ち切り時、政府は「財政負担の軽減」「脱炭素政策との整合性」「市場の正常化」「原油価格の下落による安定見通し」などを掲げていたが、そうした理屈を並べたわずか1カ月後に、あっさりと補助金を復活させた。市場原理や正常化を口実にした政策の一貫性のなさには呆れるしかない。結局、目前に迫る参議院選挙を意識した「人気取り政策」にすぎないという見方が強まるのも当然である。だが、185円のガソリン価格で有権者の支持を得られるとは到底思えないし、円安がさらに進めば185円すら維持できなくなる可能性もある。

より深刻なのは、ガソリン価格の約4割が税金で構成されているという、異常とも言える現実だ。具体的には、国税の揮発油税(24.3円/L)、地方揮発油税(5.2円/L)、そして「暫定措置」の名のもとで50年以上継続されている上乗せ分(25.1円/L)、石油石炭税(2.8円/L)が課され、さらにそれらに消費税(10%)が上乗せされる。つまり、1リットル185円のガソリンのうち、実に約70円が税金であり、実質的な本体価格は115円程度にすぎない。なかでも特に問題なのが、「暫定税率」の存在である。本来は1974年、道路整備の財源確保を目的とした一時的措置として導入されたが、半世紀にわたり延命され続けている。2008年に一度廃止されたものの、2009年に民主党政権下で「特例税率」として復活し、以降は一般財源化されてしまった。また、ガソリン価格が3か月連続で160円を超えた場合に暫定税率を停止するという「トリガー条項」も制度として存在するが、導入以来一度も発動されたことがない。震災復興財源として民主党政権が「トリガー条項」を凍結したのは14年も前の話で、野党が過半数を占める今も政権攻撃の材料にするばかりで、野党第1党の立憲は凍結解除法案を出す気配すらない。

政府は2026年に暫定税率の廃止を議論するとしているが、これまで繰り返されてきた説明の食い違いや約束の反故を考えれば、ずるずると引き延ばすのは目に見えており実現性は極めて低いと言わざるを得ない。そもそも、同一商品に対して5種類もの税を課し、さらにその税金に消費税をかけるという「二重課税」的構造そのものが、徴税の基本原則を著しく逸脱している。税制には本来、「公平」「中立」「簡素」という3原則がある。だが、現在のガソリン税制はそのいずれも満たしていない。複雑で不透明、所得の少ない者に過剰に重い負担となっているこの仕組みは、早急に抜本的な見直しが求められる。

日産大規模リストラ発表2025年05月13日

日産大規模リストラ発表
日産自動車が2025年3月期に発表した業績は、業界に大きな衝撃を与えた。純損益は6708億円の赤字で、前期の4266億円の黒字から一転。この事態を受け、日産は全従業員の約15%にあたる2万人の人員削減と、世界17カ所の車両工場を10カ所に縮小する計画を示した。今回の赤字は同社史上3番目の規模であり、さらに通期赤字は最大7500億円に拡大する見込みである。販売台数の減少により人員・生産能力が過剰となり、収益確保が極めて困難な状況だ。国内では、数百人規模で主に事務系職種を対象とした早期退職制度の導入が見込まれている。

しかし、日本全体が人手不足に直面するなか、有能な人材の流出は日産の技術やノウハウを競合他社に渡すリスクを高める。短期的なコスト削減を目的とした人員整理は、中長期的には企業価値の毀損につながりかねない。必要なのは人員削減ではなく、成長分野への人材移行である。たとえばEVバッテリーの生産拠点や次世代モビリティ関連事業への配置転換は、地域経済の活性化にもつながる。しかし、日産は経営不振や初期投資の高さから国内での新規展開に慎重な姿勢を崩していない。過去の大規模リストラも一時しのぎに終わった事実を忘れてはならない。リストラは士気を低下させ、開発意欲を奪う。

こうした状況では、経済産業省の積極的な支援が欠かせない。同省はバッテリー産業を国家戦略と位置づけ、助成金や人材育成を進めてきたが、政策は限定的だった。今後は撤退・縮小された投資の再活用や、成長分野への人材再配置を促す政策が必要である。工場や設備は再建できても、熟練人材を取り戻すには膨大なコストと時間がかかる。人材育成は長年の積み重ねであり、競争力の源泉でもある。日産の国内における内部留保は約4.3兆円に上る。その1割を活用すれば、従業員1000人の給与を3年間維持するための約3000億円は十分に賄える。もちろん内部留保は将来の投資や財務安定のために必要だが、人材維持を「未来への投資」と捉えれば、長期的な競争力の確保にもつながる。

短期的なリストラは一時的な財務指標を改善するかもしれないが、企業の成長エンジンを弱めるリスクがある。今求められるのは、人材の流出を防ぎ、再教育と再配置を支援する戦略的な投資である。企業も国家も「人」を切り捨てるのではなく、「人」を活かす方向へと転換すべき時が来ている。今ある人材をどう守り、どう未来に活かすか――その答えが日産の今後、さらには日本の産業の命運を左右するだろう。

低学年の通知表を廃止2025年05月12日

低学年の通知表を廃止
岐阜県美濃市では、来年度から市内の五つの小学校で1・2年生の通知表が廃止されるという。校長同士の合意により、子どもたちが「序列化」されず、のびのびと育ってほしいという思いが背景にあるそうだ。これまで通知表は3段階で評価されていたが、その代わりに修了証が渡され、保護者懇談を通して子どもの様子を伝えていく方針らしい。こう聞くと、一見、子どもを思いやる温かい改革のようにも感じられる。しかし、この方針にはいくつか立ち止まって考えるべき点がある。まず、通知表には法的義務はないが、指導要録には法的な作成義務がある。実際には、小学1年生の年度末から成績評価が行われ、3年生以降は3段階、そして中学校では5段階での評定が求められている。通知表はその成績をわかりやすく保護者に伝える「説明書」にすぎない。つまり、通知表をなくしても、子どもが評価されないわけではないのだ。今回の美濃市の方針は、「通知表という説明書をなくせば、子どもはのびのびと育つ」と言っているように聞こえる。だが、年2回の保護者懇談は全国の多くの学校ですでに行われており、それが通知表の有無と直接関係しているとは言えない。通知表だけを取り除いて、子どもの育ち方が大きく変わるとも考えにくい。

私たちは「評価されること=序列化=子どもへの悪影響」という単純な構図に陥ってはいないだろうか。現実の子どもたちは、学校生活のなかでさまざまな違いを自然と感じ取っている。運動の得意不得意、おしゃべりの上手下手、絵がうまい子、手先の器用な子。そうした違いは、通知表がなくても日々の生活のなかで明らかだ。むしろ教育は、そうした「違い」を否定するのではなく、それを認め、共に生きていくことの大切さを教えていく営みのはずだ。他者との違いを知り、そこから自分の価値に気づいていくことこそ、成長のプロセスである。通知表を廃止したからといって、子どもが他者との違いに気づかなくなるわけではない。

もちろん、学力だけがすべてではないことを伝える努力は必要だ。しかし現実には、教科学習が学校生活の大部分を占めている。低学年期は月齢による認知発達の差が大きく、一律の基準で評価することには無理があるという指摘ももっともだ。その意味では、指導要録に記された評価自体が、正確とは言い切れない。一般的に、10歳前後になると認知発達の個人差は小さくなる傾向がある。つまり、全員が10歳を超える5年生あたりから、共通の目標設定や評価基準が理にかなってくるという考え方もあるだろう。

また、生活年齢だけでなく、生まれつきの得手不得手もある。特に読み書きの力は、生涯にわたって必要な基本的スキルである。4年生程度の読み書き能力は、知的な遅れがない限り、最低限身につけさせる必要がある。それでも困難がある場合は、ICT機器を活用するなどして、知的情報へのアクセスを補完した上で学力評価を行うべきだ。こうして見ていくと、子どもが「のびのびと育てない」原因は、通知表や成績そのものではない。むしろ、それぞれの子どもに合った目標設定や評価がなされておらず、「やればできる」という実感を持てる学習環境が整っていないことが根本にあるのではないか。学校が目を向けるべきは、通知表の廃止ではなく、個々の子どもに応じた柔軟な学習指導の在り方だろう。通知表をなくすことで子どもがのびのび育つ、という考えは、残念ながら大人の自己満足にすぎないように思える。

レオ14世教皇2025年05月11日

レオ14世教皇
バチカンで行われたコンクラーベ(教皇選挙)において、ロバート・フランシス・プレボスト枢機卿(69)が第267代ローマ教皇に選出され、教皇レオ14世として即位した。米国出身の教皇は史上初であり、前教皇フランシスコの側近として教会改革を支えてきた人物である。コンクラーベでは4度目の投票でレオ14世が選出され、8日夕(日本時間9日未明)、システィーナ礼拝堂の煙突から白煙が上がり、新教皇の誕生が告げられた。その後、レオ14世はサンピエトロ大聖堂のバルコニーに姿を見せ、「あなた方に平和がありますように」とイタリア語で信者に語りかけた。レオ14世は教皇庁で司教省長官を務め、前教皇の外遊にも同行。教会内で論議の分かれる問題には慎重な姿勢をとり、教会の結束を重視してきた。一方で、今年2月にはバンス米副大統領が不法移民の大量送還を正当化した際、批判的な記事をSNSでシェアするなど、政治的発言も見られた。

シカゴ生まれのレオ14世は、フランス、イタリア、スペインにルーツを持ち、多言語に堪能。1985年から南米ペルーで活動し、2015~2023年には同国北部のチクラーヨ司教を務めた。教皇名は19世紀のレオ13世を継承し、労働者の権利擁護や資本主義への警鐘を鳴らした先代の精神を引き継ぐとみられる。今回のコンクラーベでは10人以上の候補が報道されていたが、プレボスト枢機卿の名前は有力候補として挙がっていなかった。今後の焦点は、前教皇フランシスコのリベラル路線の継承か、保守派の巻き返しかが注目されるという。カトリックのトップが誰であれ、指導者を持たない仏教や神道文化の日本では関心が薄いかもしれないが、世界的には注目の話題である。キリスト教は全世界で約24億人の信徒を擁し、その最大宗派であるカトリックは世界的な影響力を持つ。欧米各国の首脳も、フランシスコ前教皇の葬儀に参列した。

カトリックが世界的宗教組織となった背景には、ローマ帝国との結びつきと中央集権的な教会制度がある。帝国の国教化により行政ネットワークを通じて信仰が広まり、教皇を頂点とする組織構造が整えられた。中世以降は修道会や宣教師が教育・布教に尽力し、特に大航海時代にはスペインやポルトガルの植民地支配と共に世界各地へ拡大した。さらに、学校や病院といった社会インフラを通じて地域に根を下ろし、文化・教育面でも深い影響を及ぼした。カトリックは、大航海時代までの覇権国家とともに発展したともいえる。このような中央集権的権威に反発して分かれたのがプロテスタントであり、現代風に言えば、より民主的・ナショナリズム的な宗派である。封建的グローバリズムとも見られる旧来のカトリックに対し、現代のカトリックは民主的グローバリズムへと変化し、現代の政治勢力と新たな形で結びつきながら、世界に影響を与え続けている点は興味深いといえる。

財政破綻を懸念??2025年05月10日

政府の総負債が1323兆7155億円
財務省は2024年度末時点で、日本政府の総負債が1323兆7155億円に達し、前年より26兆円以上増加したと発表した。これは9年連続で過去最大を更新している。物価高対策などで歳出が膨らむ一方、税収では補えず、借金が拡大しているとの説明である。しかし、こうした報道にはいつも違和感が残る。というのも、財務省や多くのメディアが発信する「借金」には、政府が保有する資産が一切含まれていないからだ。これは企業会計では考えにくい。たとえば、トヨタの負債が54兆円であっても、資産が同程度あるため倒産リスクは問題にならない。日本政府も同様であり、財政を正しく評価するには、総債務(グロス)だけでなく、資産を差し引いた実質債務(ネット)で見る必要がある。

今回発表された1323兆円はグロス債務であり、国債や借入金などをすべて合計したものだ。これに対しネット債務とは、政府が保有する現金、預金、出資金、日銀が保有する国債などを差し引いた残高を指す。現在のネット債務は約544兆円とされており、グロスよりはるかに小さい。とくに注目すべきは、日本銀行が保有する国債の存在である。日銀は現在、約580兆円の国債を保有しており、これは一見、政府の借金としてカウントされている。しかし実態としては、日銀は政府の子会社に等しく、その保有国債の元本返済も利払いも、最終的に政府に還元される構造にある。よってこれらの債務は、市場から借りているものとは異なり、実質的な返済負担はないに等しい。

さらに、現在のインフレ率は2〜3%程度で推移しており、インフレは名目債務の実質的価値を減じる効果がある。たとえば500兆円規模の債務であれば、年2%のインフレにより年間約10兆円の実質負担が軽減される。また、長期金利が1%程度と低水準にとどまっていることで、政府は極めて低コストで資金調達が可能である。こうした状況を踏まえると、日本の財政は、表面的な数字ほど深刻な状況にはない。日銀保有分を除いたネット債務は、依然として管理可能な水準にあり、加えてインフレと低金利の環境が続く限り、実質的な返済負担は抑制される。財政破綻を懸念する声は根強いが、現時点においてそのリスクは極めて低い。それにもかかわらず、政府が「借金総額」のみを強調して発表すると、多くのメディアはその内訳や背景を解説することなく、大々的に報じる傾向にある。そして、そうした報道は、毎度のように増税議論へと結びついていく。これは、危機を煽りつつ政策誘導を図る、いわばマッチポンプ的な構図と言える。こうした一方的な情報の流布が続く限り、健全な財政議論の形成は難しい。報道には数字の意味を冷静に読み解く視点が求められている。
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