降圧剤副作用か?自動車事故2025年07月01日

降圧剤副作用か?自動車事故
高齢ドライバーによる交通事故が増加している。これまで「年齢のせい」と片付けられてきたが、薬の副作用が関係している可能性がある。特に注目されているのが、血圧を下げる薬、いわゆる「降圧剤」である。めまいやふらつき、注意力の低下などの副作用が運転に影響し、事故のリスクを高めているかもしれない。実際、降圧剤が関わると思われる事故が報告されている。大阪市では69歳の男性が交差点で歩行者をはねた。男性は血圧の薬を服用し、「最近ふらつきが増えていた」と話している。福岡市では67歳の女性がスーパーの駐車場で誤って車を突っ込み、複数の薬を服用していた。神奈川県では70歳の男性が一方通行を逆走し、複数の降圧剤を使用していたことが明らかとなっている。

降圧剤は血圧を下げて心臓や血管の負担を軽減する薬である。しかし、急激に血圧を下げすぎると、脳への血流が不足し、ふらつきや立ちくらみを引き起こすことがある。高齢者は薬の影響を受けやすく、視力やバランス感覚の衰えも重なるため、些細なミスが重大事故につながりやすい。こうした降圧剤の使用増加には、高血圧学会の治療ガイドラインの変遷が大きく影響している。かつては140/90mmHgを超えたら積極的に治療するのが一般的であったが、2014年に130/80mmHg以上でも治療対象とされ、対象患者が大幅に増えた。その後、高齢者には慎重な治療を推奨する方向に修正されたものの、処方数は増え続けている。

降圧剤の売り上げはこの20年でほぼ倍増し、日本国内の市場規模は2000年の約280億円から2020年代には約520億円に達した。しかし、この急激な使用拡大に伴い、主要な心疾患や脳卒中の死亡率、再入院率が劇的に改善したという統計的な裏付けは乏しい。むしろ副作用による転倒や入院が増えており、薬の効果とリスクのバランスが問われている。さらに、製薬会社が医師や学会に資金提供を行い自社薬の推進を図る一方で、診療報酬制度が薬の処方量を増やすインセンティブとなっているため、医療機関は薬を多く処方する傾向にある。こうした制度的な背景も、市場拡大の一因とされている。

一方、イギリスの大規模研究「OPTiMISE試験」では、80歳以上の高齢者を対象に、降圧剤を減らしたグループと継続したグループを比較した。その結果、死亡率に有意差はなく、薬を減らした方が転倒や入院の発生率が低下したことが明らかになっている。これは、血圧を無理に下げるより、自然な体の状態を保つ方が安全である場合があることを示唆するものである。この知見は、加齢による生理機能の変化が始まる前期高齢者(65〜74歳)にも十分当てはまる可能性がある。特に薬の副作用や過度な降圧による脳血流低下は、年齢を問わず注意が必要であり、年齢で一律に治療方針を分けるのではなく、個々の体調や生活状況に応じた柔軟な薬剤管理が求められている。

それでも現実には減薬は進んでいない。事故を「年のせい」と済ませる社会の仕組みが続いているのである。薬は命を守るが、誤った使い方は命を脅かすことにもなる。事故を減らすには、「この薬は本当に必要か」「副作用は出ていないか」を社会全体で問い、現行の「一律に高齢者に運転免許返納を求める」方式から、「降圧剤を服用している人は運転を控えるべき」とする明確な基準や法整備への転換が望まれる。これにより、副作用リスクを踏まえた合理的な運転管理が可能となるだろう。事故の裏にある真実に目を向けること。それが高齢者事故の本質に迫る第一歩になると考える。

フェンタニル密輸2025年07月02日

フェンタニル密輸
名古屋港から米国へ発送された国際郵便が、世界規模の麻薬密輸ネットワークの“日本回廊化”を暴露した。荷物の中身は電子部品や化学試薬に見せかけたフェンタニル前駆体。送り主は中国系企業「Firsky株式会社」。そしてこの事件は、日本の法制度や監視体制の“空白”が、いかに巧妙に突かれたかを浮き彫りにした。フェンタニル——本来はがん性疼痛などに用いられる強力な鎮痛薬。その致死量はわずか2mg。闇市場では1錠あたり1〜10ドルという安さで流通し、その依存性はヘロイン以上。闇市場で流通しているフェンタニル錠剤の含有量は極めて不安定かつ危険であり、1錠あたり0.5mg〜5mg以上のフェンタニルが含まれているケースが確認されている。アメリカでは年間7万人以上がこれにより命を落とし、フェンタニルはもはや「社会毒」と化している。その影響は“ゾンビ”という言葉に象徴される。都市部では中毒者が意識を失い、背を曲げ、ふらつきながら歩く姿が日常風景となった。

そしてその“ゾンビ現象”は、静かに日本にも入り込んでいる。大阪・西成地区では2025年春以降、フェンタニル中毒者と思しき人物の「ゾンビ歩き」がSNS上で報告され、地元警察も警戒を強めている。薬物名は「ケタペン」。摂取後に全身の力が抜け、虚ろな目で街を徘徊する姿は、もはや他人事ではない。なぜ、この猛毒が“日本で”動き始めたのか。第一に、通関制度や法人設立の“善意設計”が逆手に取られた。日本は清潔で信頼される国だが、その“クリーンな中継地”としてのブランドが、かえって犯罪組織にとって理想的なルートを提供してしまった。第二に、政治的な危機意識の欠如。政府の対応は「発覚後」の強化策が中心であり、制度全体の再設計には踏み込めていない。

アメリカがこの問題を「新アヘン戦争」と呼ぶのは、決して過剰表現ではない。かつてアヘンによって主権を蹂躙された中国が、今度は化学物質によって他国を蝕んでいるとの批判は、陰謀論を超えて地政学的リアリズムの中にある。名古屋事件を警鐘と捉えるなら、今こそ必要なのは、“見えない感染”への想像力だ。中毒者が統計に現れるときには、すでに流通網が根付いている。ゾンビたちは、目に見える最終形にすぎない。今の日本に求められるのは、法と制度、そして市民の眼が「まだ見えていないもの」に気づくことではないだろうか。政府は「注視」している場合ではなく厳格な捜査をして水際で防がねばあっという間に広がる。
毒はもう、足元にある。

チベット亡国の魂2025年07月03日

チベット亡国の魂
2025年、ダライ・ラマ14世は90歳を迎えた。穏やかな微笑みの奥に、70年以上にわたる弾圧と亡命の記憶を宿す老僧は、自らの死後も転生制度を継承する意志を明言し、こう語った。「中国政府には、私の後継者を選ぶ資格などない」。それは単なる宗教的な表明ではない。信仰を“管理”しようとする無信仰国家・中国への、静かなる抗いの言葉である。チベットは、はるか7世紀の吐蕃王朝以来、仏教を核とした独自の文化を築いてきた。17世紀にはダライ・ラマ5世のもとで政教一致の統治体制「ガンデンポタン」が成立。清朝を含む列強と一定の距離を保ちながらも、1912年の清朝崩壊後にはダライ・ラマ13世が独立を宣言し、国家としての自治を主張した。

だが、1949年の中華人民共和国成立で風向きは一変する。1950年、人民解放軍がチベットへ侵攻。翌年の「十七か条協定」により、チベットは事実上の併合を受け入れさせられた。1959年、首都ラサで民衆が蜂起すると、ダライ・ラマ14世はインドへと亡命。ダラムサラに設立された亡命政府はいまも活動を続けている。この支配の根底には、毛沢東が打ち出した宗教観がある。宗教は“迷信”に過ぎないという唯物論思想。文化大革命期には、チベット仏教の僧院が破壊され、僧侶たちは還俗を強いられた。信仰の場は蹂躙され、魂の居場所は奪われた。

そしてその思想は、現在の中国にも脈々と受け継がれている。2007年、中国政府は「活仏転生管理弁法」を施行し、転生という宗教的概念にまで“国家承認”の枠をはめたのだ。これに対し、ダライ・ラマは皮肉交じりに語った。「もし本当に転生を語るなら、まずは毛沢東や鄧小平の生まれ変わりを探すべきではないか」。宗教性を持たぬ政権が、宗教の神聖を掌握しようとする矛盾。これは一宗派の問題にとどまらない。中国の信仰への介入は、チベットのみならず、イスラム教やキリスト教にも及んでいる。

新疆ウイグル自治区では、100万人を超えるイスラム教徒が“再教育”と称して拘束され、言語や信仰、家族まで分断されている。かつてモスクだった建物が、いまや無人のまま瓦礫と化している現実は、国際社会にとっても痛ましい象徴だ。カトリックも例外ではない。1951年にバチカンと断交した中国は、政府公認の「愛国カトリック協会」により教会を運営し、ローマ教皇の権威を排除してきた。2018年に司教任命をめぐってバチカンとの暫定合意が成立したが、司教の任命には依然として国家の“承認”が必要とされる。中国は“信仰の国家化”という道を、着実に歩み続けている。

宗教は国家に従属すべきもの。中国政府の根本的な立場は、仏教・イスラム・キリスト教といった宗派の違いを超えて、一貫している。だがその発想は、国家と宗教が一体化し、核開発の名のもとに聖戦を掲げるイランの原理主義と、ある種の共鳴を見せる。危うさは国家の形を問わず共通しているのだ。しかし本来、信仰とは国家の外側にあるもの。権力の支配を超えたところに根を下ろすものだ。ダライ・ラマが語る「魂は誰にも征服できない」という言葉は、ウイグル人の祈り、地下教会の沈黙、そしてチベット高原に響く読経と重なり合う。そこには、信仰を通じた抵抗の姿がある。転生をめぐる物語は、単なる宗教的議論ではない。いま、世界の見えない場所で繰り広げられている――国家と信仰の、静かな戦争なのだ。高原の仏塔から、ウルムチの収容所、そしてバチカンの回廊まで。魂の自由をめぐる闘いは、まだ終わっていない。

悪石島地震と「予言漫画」2025年07月04日

悪石島地震と「予言漫画」
かつてなく群発地震を繰り返していた鹿児島県・悪石島で震度6弱の地震が発生した。プレート境界の歪みが原因とされつつも、地下の火山性流体の関与も指摘される複雑なタイプ。インフラの脆弱な離島にとっては、地震の揺れそのもの以上に「情報の遅れ」と「孤立リスク」が深刻だ。ところがこの地震、もう一つ“意外な余震”を呼んだ。震源からはるか彼方、SNS上で突如再燃したのが、「あの漫画、また当たったのでは?」という声だった。話題に上がったのは、漫画家・たつき諒氏の『私が見た未来』。1999年刊のエッセイ漫画で、東日本大震災を“予見”していたと再評価され、2021年に加筆・再刊された完全版が再び注目の的になっている。

問題の記述はこうだ。「2025年7月5日、日本とフィリピンの間の海底が破裂し、巨大津波が発生する夢を見た」。この文言と悪石島地震の日付が近かったことから、「やっぱり当たった」「7月5日に何かが起きるのでは」と憶測が飛び交った。なかには「気象庁より当たる」と真顔でつぶやく投稿すらあった。だが、これは明らかな“勘違い”である。まず、『私が見た未来』は未来予知の書ではなく、作者が過去に見た夢の記録をエッセイ形式で描いた作品。たつき氏自身、「夢を見た日が災害発生日とは限らない」と一貫して語っており、占いや予知を信じてほしいとは言っていない。そもそも今回の悪石島地震は津波を伴っておらず、「日本とフィリピンの間の海底が破裂」という記述とも大きくかけ離れている。しかも、この作品では“当たった”とされる夢の他に、“外れた”夢も多数紹介されている。それらが黙殺され、「当たった部分」だけが拡散されるのは典型的な“確証バイアス”の現れだ。

では、なぜ人々はそこまで「予言」にすがりたがるのか。その背景には、「科学的予測が信用されていない」という構造的な問題がある。たとえば、能登半島地震では評価対象外の断層が動いた。多くの自治体が信頼してきた「地震確率マップ」は、結果として機能しなかった。能登半島全体の平均的な評価はおおむね3%未満で、全国平均(6〜26%)と比べてかなり低い水準にあり、「地震リスクの低い地域」と誤解されやすい数値だった。さらに、気象庁と地震学会との関係があまりにも密接で、政策決定・研究資金・学術評価が“身内で完結している”との批判も根強い。外部からの異論が入りづらく、失敗を反省するメカニズムも十分に機能していない。こうした不信感が、“夢の予言”にまで人々の目を向けさせているのかもしれない。

とはいえ、地震予知が完全に無駄というわけではない。観測網の整備や、AIを活用した地殻解析は、緊急地震速報や津波警報の精度向上に寄与している。ただし、政府の方針はすでに「予知より備え」へと大きく転換している。予知関連の研究費は現在、年間およそ70億円。30年間で半減し、防災インフラ整備費のおよそ3分の1以下にとどまっている。いまや「地震は起きるもの」として備えることが、防災の主流となっている。実際、悪石島のような離島では、「いつ起きるか」よりも「どこに逃げるか」「何メートルの津波に備えるか」が現実的な関心事だ。日付よりもシナリオ。予知よりも行動。そうした切り替えがすでに現場では始まっている。結局、予言が当たったかどうかよりも大事なのは、「明日、自分が助かる行動をしているか」だ。災害の本質は、予知の成否ではなく、被害を最小限にできるかどうか。夢の内容に一喜一憂しても、避難所は準備してくれない。備えるべきは予言の“日付”ではなく、最悪の“想定”である。

非核の美学か核抑止力か2025年07月05日

非核の美学か核抑止力か
世界は今、「力の空白」が戦火を呼び込む時代に突入している。先月のアメリカがイランのフォルドゥ核施設に対して行った精密爆撃は、地下深くに隠された核開発拠点を標的とした大規模かつ象徴的な軍事行動だった。しかしその余波は、単なる対イラン戦略にとどまらなかった。「核を持たない国家こそが脆弱である」そんな逆説的な教訓を、権威主義国家やテロ武装勢力に突きつける結果となった。この構図は、北朝鮮の核完成以降に見られるアメリカの“抑制姿勢”とも重なって見える。かつては圧力と制裁で非核化を目指していたアメリカは、ICBMと核弾頭を実戦配備した北朝鮮に対して、「現状維持と封じ込め」に戦略を転換した。これは明らかに、「核さえ完成させれば攻撃されない」という危険な成功例を世界に示してしまっている。

問題は、こうした「成功例」に続こうとする国家や組織が、今後さらに増えていく可能性が高いことだ。特に懸念されるのが、ロシアと中国の動きである。両国とも国際的な非難や制裁に対して無感覚になりつつあり、政治的・経済的利益のために、核関連技術や物資を“共有”することへのハードルが下がっている。すでにウクライナ戦争を通じて、ロシアは「核の脅し」を常態化させ、中国も南シナ海や台湾海峡で戦略的圧力を強めているが、今後、これらの国が友好関係にある政権や武装勢力に核技術を流出させる事態は、もはや空想ではない。現代の戦術核は、こうした流出リスクを一段と高めている。かつての「都市ごと破壊する核」から、「使える核兵器」への小型化が進み、0.5キロトン規模の低出力核であれば、通常兵器と見分けがつきにくい。それは、限定的な戦場使用を可能にするだけでなく、非国家主体が手にした場合、どこで、いつ、誰に向けて使われるかわからない不確実性を世界にもたらす。核抑止は今や崩れかけた秩序の支柱に過ぎず、誰がどこで引き金を引くか分からない時代に突入している。

こうした現実を前に、かつての核廃絶運動の理念は、すでに限界を迎えている。「持たず、作らず、持ち込ませず」という日本の非核三原則も、理想としては尊重されるべきだが、それが安全保障の現実から目をそらす手段になってしまっている側面は否めない。特に「持ち込ませず」を固守することで、米国との戦略的連携や、最先端の原子力潜水艦との協力すら議論から排除されている状況は、時代錯誤とも言える。すでにオーストラリアは、米英とのAUKUSを通じて、非核保有国のまま原子力潜水艦を導入しようとしている。核兵器を持たずに、事実上の抑止力を得るというこのモデルは、日本にとっても現実的な参考例となる。さらに近年では、アメリカの原潜を“リース”する形で抑止力を補完する案が取り沙汰されており、これは核兵器の直接保有を避けつつ、非核三原則の精神も完全には破らない「現実主義的解決策」として注目されている。

重要なのは、核を持つか否かという抽象的な問いではない。問われているのは、国家が国民の命をどう守るのか、そしてそのためにいかなる覚悟を持ちうるのかという現実の決断である。理想だけで国を守れる時代はすでに終わった。目の前にあるのは、美学か覚悟かという二択ではなく、「生き延びるかどうか」という極めてシンプルな問いだ。抑止力とは、戦争をするための装置ではない。戦争を未然に防ぎ、国民の暮らしと生命を守るための“静かな盾”である。ロシアや中国、あるいはそれに連なる勢力が核の秩序を崩そうとしている今、日本がどこまで現実に目を向ける覚悟があるのかが、参院選挙でも問われている。

敦賀 気比神社2025年07月06日

敦賀 気比神社
半年ぶりに、やっと旅に出た。明朝早く秋田行きのフェリーに乗るため、昼に出発して敦賀で一泊する。敦賀ではいつも夜発のフェリー乗り場に直行するため、これまでレンガ倉庫のあたりしか見たことがなかった。今日は時間があるので、気比神社と金ヶ崎城址に寄ることにした。

気比神社は紫式部と直接の関係はないが、父・藤原為時が越前守に任命された長徳2年(996年)ごろ、若き紫式部が越前国へ同行した際に立ち寄った可能性が高い。越前での暮らしは、都育ちの彼女にとって厳しく、『紫式部集』に詠まれた和歌にもその苦悩がにじんでいる。滞在は現在の武生あたりで約1〜2年とされるが、この地での静かな時間が、自然や人間の感情への洞察を深める契機となった。この越前での経験が、後の『源氏物語』における繊細な心理描写や情景表現に生かされたとされる。

境内には夏越の茅の輪が設けられ、参拝者がそれをくぐっていた。夏越の祓の神事で用いられる茅の輪は、半年間の穢れを祓い、残りの半年の無病息災を願うためのものだ。参拝者は左・右・左の順に八の字を描くようにくぐり、身を清める。この風習はスサノオノミコトの伝承に由来し、茅の輪を身に着けていた者が疫病から守られたことにちなむという。

その後、金ヶ崎宮へ向かった。ここは、織田信長が越前の朝倉義景を攻めた際、同盟を結んでいた浅井長政の裏切りにより挟撃の危機に陥り、撤退を余儀なくされた「金ヶ崎の退き口」の舞台である。妹・お市の方が小豆を両端を縛った袋に入れて送り、挟撃の危険を暗示したという逸話が有名だ。信長は即座に撤退を決断し、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が殿を務めて見事に脱出した。この戦いは、信長の決断力と秀吉の軍才が光る名撤退戦として語り継がれている。

階段をあえぎながら登ると、金ヶ崎城址と、その先にある月見御殿跡にたどり着いた。そこは展望台になっており、敦賀湾を一望できる。かつて戦国武将たちがここで月を眺めたという。戦の地でありながら、月を愛でる教養の高さもうかがえる。

暑い一日だったが、海沿いには風があり、木陰は涼しかった。気比松原の海岸では海水浴客がにぎわっていたが、昔に比べると数はずいぶん減ったように感じる。ドローンを上げて、松原と海岸線を撮影した。途中でホームセンターに立ち寄り、薪を少し買った。広葉樹が4キロで三千円近くもして驚いた。以前の倍近い価格だが、年金は2%弱しか上がっておらず、虚しさが残る。明日は約20時間、フェリーの中で過ごす予定だ。何をして時間を潰そうか、少し悩んでいる。

見渡す限り海と見渡せない税2025年07月07日

見渡す限りの海と見渡しづらい税
船に乗っていると、当たり前だけど見渡す限り海ばかりで、紀行文でも書こうかという気にはなかなかなれない。そういうときは、むしろ全然関係ないことのほうが筆が進む。たとえば最近話題の「食品の消費税を下げよう」論争なんていうのは、海上の風よりはよほど複雑で落ち着かない話だ。

立憲民主党、日本維新の会、日本保守党――ここ最近、これらの野党を中心に「せめて食料品の消費税だけでも軽くしよう」という声が高まっている。確かに、物価高の折、食費が少しでも軽くなるならありがたい、という気持ちは多くの人が共有しているはずだ。しかし税制度というものは、単に「負担が減ってラッキー」で済むほど単純ではない。特に、消費税は「付加価値税(VAT)」として、世界的にもスタンダードな設計がなされている。事業者が売上に消費税を上乗せし、仕入れにかかった消費税は控除する。この仕組みによって、どの取引段階でも“二重課税”が起こらず、最終的に消費者だけが税を負担する「中立的な税」が実現されるわけだ。

ところが、ここに「食品だけ0%に」といった軽減税率を導入すると、この整然とした仕組みがたちまち歪む。たとえば、飲食店が食品を仕入れる際に消費税がかからなくなっても、その売上には従来通り10%の税が課せられる。すると帳簿上、仕入税額控除がゼロになり、結果的に納税額が増えたように見える。こういう構造だけを取り出して「飲食店が損をする」と言われるのだけれど、実際のところ、それも少し違う。なぜなら、そもそも消費税は「預り金」的な性質が強く、事業者は自らの利益から税を払っているわけではない。キャッシュフローで見れば、損しているわけでもない。問題はむしろ、制度変更がもたらす“見えづらい副作用”にある。

たとえば、仕入れ価格が下がったとしても、インフレ下でその分を小売価格に反映させる義務はない。でも、消費者からすれば「税が下がったんだから、値下げして当然でしょ?」という圧力はかかる。また、仕入れ先も物価高の煽りで税が下がった分の価格を必ず下げるとは限らない。交渉力の弱い飲食店にすれば、泣きっ面に蜂だ。加えて、食品が軽減されれば、同じ料理でも「自宅で作れば安い」という心理が強まり、外食離れに拍車がかかる。消費税という制度は中立でも、実社会ではこうした“行動変容”を通じて業界に痛手を与える可能性がある。つまり、数字のうえでは中立でも、現実には不公平が生じる。

このあたり、制度設計と現実のギャップはいつも悩ましい。軽減税率のような“部分的な調整”は一見耳ざわりがいいが、消費税の本来の設計思想と合わない。減税をやるなら、税率全体を一律に変えるか、そもそも売上時点だけに課税する「売上税型」に移行するしかない。どちらも一長一短あるが、少なくとも整合性は取れる。一律減税は制度の簡素さと中立性を守れるし、売上税型は小売段階だけで完結する分、軽減措置との相性もいい。ただし後者は、日本が今進めているインボイス制度や多段階課税との整合を取るには、制度そのものを根本から作り直さなければならない。要するに、軽々しく「食品だけ0%に」と言って済む話ではないのだ。

もっとも、そうした制度的リスクや実務の煩雑さを置き去りにして、「減税します」と言うほうが政治的には簡単だ。そして簡単な言葉ほど、人々に届きやすい。だから、政治家の口から安易な軽減税率論が出てくるのは、ある意味で当然なのかもしれない。だが、制度の土台を揺るがしてまで人気取りをするようでは、結果として国民の信頼も制度の安定性も損なわれてしまう。もちろん、野党がすべて夢見がちというわけではない。たとえば国民民主党は、一律減税を提案しており、これは制度全体の整合性を重視した現実的なアプローチだ。これはやはり、税制に明るい党首の存在が大きいのだろう。ただし、彼らは理屈が立ちすぎるためか政治的には相手のロジックにはまって策に溺れやすいのが、玉に瑕だ。

海の上では水平線しか見えないけれど、地上ではこうした制度の歪みが見えにくいまま、じわじわと暮らしに影響してくる。風は強く、波も高い。税の話もまた、簡単には波を鎮めてくれそうにない。

乳頭温泉朝霧と湯けむりの里2025年07月08日

乳頭温泉
フェリーは予定より30分早く、静かに秋田港へ滑り込んだ。まだ朝の5時。角館までは車でおよそ90分。空いた時間をどう過ごすかとAIに尋ねると、角館温泉が朝7時から朝風呂を開いているとの答えが返ってきた。早朝の町並み散策という案も提示されたが、武家屋敷の黒塀だけを外から眺めても興がないので、朝風呂を選ぶ。ところがこの湯、やたらと熱い。腕時計の温度計では44度。多少高めに出るのけど43度はあろう。足だけ浸けていても、じきに額から汗が噴き出す。風呂上がりにロビーで休もうとしたが、ここにはエアコンがない。汗まみれになり、せっかくの湯浴みも台無しだ。やむなく冷房の効いた脱衣所に戻り、しばし汗が引くのを待つ。

国道沿いの駐車場に500円払って受付のおばちゃんに所要時間を聞く。「ぐるっと回って2時間くらい」とのこと。まだ朝9時前、100台は入りそうな広い駐車場も、停まっているのはわずか。まずは石黒家、次に青柳家、そして河原田家と三軒をめぐる。どれも同じような構えで、秋田だけに“飽きた”とつぶやきたくなる。館内ではスタッフが10分ほどかけて説明してくれるところもあるのだが、どこも定型のセリフばかりでつまらない。せっかくの対面説明なのに、自動音声ガイドのような真面目口上では興ざめする。「他の屋敷を見た方はどこも同じと思ってないか?」とか、「京都人に向かって“小京都”と説明されても微妙か」など、ちょっとしたユーモアなど会話の引き出しがほしい。青柳家の小田野直武と平賀源内との関係には興味を惹かれた。『解体新書』の挿絵を手がけた直武と、その才を見出した源内。たしかに面白い話ではあるが、それも青柳家の親戚という少々こじつけ気味の縁ではある。どこを見ても武家屋敷は武家屋敷。重厚な構えに違いはないのだが、三軒目でお腹いっぱい。どこも500円の入館料だが、打ち止めとした。

気を取り直して、本日の主目的・乳頭温泉へ向かう前に、田沢湖畔に立つタツ子像をドローンで撮影しようと立ち寄った。だが、使用しているDJIのリモコンアプリが録画開始と同時にクラッシュしてしまう。以前にも起きた不具合で、アプリの再インストールで一時的に回復したが、今回も調子が悪い。タツ子像は、田沢湖のほとりに静かに立つ金色の女性像である。伝説によれば、辰子という美しい娘が永遠の若さを願い、仏に祈った末に霊水を飲み、龍となって湖の主になったという。その深さ423メートルの湖は、まさに龍の住むにふさわしい深淵である。像は1968年、彫刻家・舟越保武によって制作された。青銅製に金箔を施されたその姿は、永遠の美と人間の欲望、そして自然との調和を象徴すると言われるが、実際には駒ヶ岳を背に、金ピカの裸婦像が静かに立っている――というのが率直な印象だ。

そして旅の締めくくりは、温泉ファンの聖地とも称される乳頭温泉・鶴の湯。乳頭温泉郷最古の湯宿であり、約380年の歴史を誇る。伝説によれば、傷を負った鶴が湯に浸かって癒やされたことからこの温泉が見つかり、「鶴の湯」と呼ばれるようになったという。藩主・佐竹義隆も湯治に訪れた記録があり、彼専用の「本陣」は今なお現存している。ここでは白濁の硫黄泉をはじめ、複数の源泉が楽しめる。茅葺き屋根の建物に囲まれた風情ある露天風呂は、温泉マニアならずとも心躍る光景だ。ちなみに「乳頭温泉」という名は、乳白色の湯の色に由来するわけではなく、近くにある“乳房の形”をした乳頭山から来ているという。

湯はややぬるめで、長湯にはちょうど良い。身体の芯からじんわりと温まる。明日は男鹿半島でキャンプの予定だが、「クマが出た」との話もちらほら。湯宿の人に聞けば、「そこらじゅうに出るから、気にしても仕方がない」とあっさり。旅先の不安も、こうして少し和らぐ。湯けむりと歴史の余韻に包まれながら、秋田の旅は続く。

完全ぼっちキャンプ2025年07月09日

完全ぼっちキャンプ
ホテルのバイキングコースは、やっぱり危険だ。あれもこれもと食べたくなってしまう。ステーキが目に入れば皿にのせ、寿司が美味しそうだと思えばつい追加。ケーキもいいかなと手が伸び、気がつけばお腹は限界。気分が悪くなった。朝こそはと心に誓い、クロワッサンとトースト、小岩井農場のヨーグルトにフルーツミックス。控えめな朝食…のはずが、ハム、スクランブルエッグ、ソーセージまでしっかり取った。自制心の崩壊に苦笑しつつ、最後はカプチーノで締める。

ところが、コーヒーメーカーの前で前に並んでいたおばさんが大混乱。欲しいのはお茶のお湯らしいのに、ボタンを押すたびコーヒーが次々と抽出されていく。「なんでだべ…」と呟きながら、出てくるコーヒーをカップで受け右へ左へ。思わず「キャンセルしないと…」と声をかけかけたそのとき、スタッフが飛んできて後ろに並ぶ私たちに軽く会釈。おばさんは「お待たせしました」の言葉とともに去っていった。自動サーバー、確かにわかりづらいよね。

ホテルを出て向かうのは、ナマハゲの里・男鹿半島。最初に訪れたのは、標高355メートルの寒風山だ。ちょうど京都の天王山と同じくらいの高さ。爆裂火口の山で、木は一本も生えておらず、一面が草原。荒々しさと穏やかさが同居する不思議な風景だ。この山は約3,000年前の火山活動によって生まれた。現在活動の確認されていない火山だが、玄武岩質の溶岩によって形成された山体は、男鹿半島の地質の歴史を今に伝えている。山頂は広く平坦で、噴火口の痕跡も見てとれる。眼下には秋田の海岸線が広がり、風は心地よく、雲がたなびく空はどこまでも高い。しばらくその風景に立ち尽くした。

次に向かったのは、海辺の奇岩「ゴジラ岩」。本当にゴジラの横顔に見えるから面白い。そこから入道崎灯台へと続く道は、空の青と木々の緑が鮮やかに交差する絶景のワインディングロードだった。アプリを入れ直して復活したドローンを飛ばし、灯台を空から撮影。久々に心が躍る瞬間だった。そして、男鹿の象徴ともいえる「なまはげ館」へ。ここはナマハゲをテーマにした民俗資料館で、男鹿市内の60以上の地区から集められた実物の面と衣装が、ずらりと展示されている。「なまはげ勢揃いコーナー」の迫力は圧巻で、あれほどのナマハゲに一度に囲まれる体験は、他にないだろう。ナマハゲの起源にはいくつかの説がある。一説には、古代中国から渡ってきた鬼神が男鹿の山に住みつき、村人を困らせていたという話。もう一説では、冬に手足にできる火斑(ナモミ)を剥ぐ「ナモミ剥ぎ」が語源とされる。どちらにしても、大晦日の夜、鬼の面をかぶり藁装束をまとった男たちが「怠け者はいねが」と叫びながら家々を回るこの風習は、怠け心を戒め、無病息災や豊作を祈る神聖な行事だった。とはいえ、現代では「子どもへのハラスメントではないか」という声もある。

今夜の宿は「ナマハゲオートキャンプ場」。予約サイトでは比較的メジャーな場所だったのに、受付で言われたのは「今日はあなた一人だけです」とのひと言。クマが出ないよう賑やかなキャンプ場を選んだつもりだったが、まさかのソロ貸切。フリーサイト料金でオートサイトを提供してくれたのはありがたいが、心細さは隠せない。ビクビクしていると、後からライダーのグループが到着してテントを張り始めた。ほっと一息。時計を見るとまだ午後3時だが、すでに缶ビールを開けていた。秋田の風と酔いと静けさに包まれて、「クマが来るなら来い」と胸の内は妙に大きくなる。明日は青森へ向かう。

三内丸山遺跡と宇宙人2025年07月10日

遮光器土偶は宇宙人?
朝の5時に目がパチリと開いた。クマはいない。よかった〜と胸を撫で下ろして外を見ると、オートサイトの焚き火グリルの下の芝生が、あらら、丸く真っ黒に焼けているじゃないか。炭焼きステーキの下敷きかと思った。たぶん、伸びきった芝がカリッカリに乾いて、焚き火の熱で「ポンッ」といったのだろう。普通ならファイヤーシートってやつを敷く。ファイヤーシート、なんだか強そうな名前だ。でもそれを買いそびれていたのだ。すまないなぁと思いつつ、管理人さんに「ごめんなさいメモ」を残してキャンプ場を後にした。

今日の行き先は青森。これがまた遠い。おまけに最近、トイレが近くなった。寄るコンビニ、寄るコンビニで、コーヒーと休憩。コーヒーが休憩を呼び、休憩がまたトイレを呼ぶという、なんともはや無限ループ。途中、大潟村を通りかかった。ドーン!と広がる大規模農場。広い、広すぎる。まるで空港の滑走路に田んぼが生えてる。これならトラクターもコンバインも思う存分ブイブイ言わせて、採算も取れるというものだ。でも山間の田んぼはどうかというと、あれはあれで意味があるのだ。狭くて急で猫の額どころかネズミの額みたいな田んぼでも、水をたっぷり溜めて下流の災害を防ぐダムのような存在。そういう田んぼを、年配の農家さんが手放すと、そこから土砂災害がザザーンと始まる。結果、道が断たれ、物流が止まり、みんなで陸の孤島。田んぼは米を作るだけじゃなくて、山崩れを防ぐシステムでもあったのだ。つまり、農業の問題は、収支の問題だけじゃない、国土防衛の問題なのである。うーん、深い。

などとブツブツ考えていたら、青森に着いた。でかい。建物がでかい。でかすぎて、隣の県立美術館が小人に見える。三内丸山遺跡センター。2021年に世界遺産に登録されたというだけあって、威風堂々。敷地は東京ドーム8.5個分!そんなに歩けるかいな、ということでガイドツアーに参加したが、これがまた当たり。年配のボランティアガイドさんたちが、あったかくて手慣れていて、アレンジ自由自在。音声案内風の秋田の武家屋敷ガイドさんも少しは学んでほしいな。三内丸山遺跡はなんと4500年前から3000年前まで続いたという。ざっくり1500年。奈良時代から現代までより長いじゃないか。自分が小学生の頃は「縄文人は狩りと木の実でギリギリ生活してました」と教わったもんだが、今じゃ「交易して経済結構回ってました。栗も育ててました、燻製も作ってました」って言うじゃないか。そりゃ、弥生の稲作が津軽海峡を渡れなかったのも納得だ。縄文、案外やりおる。

それにしても、なんで滅びたのか。支配と私有が始まって文化が変わったのだというけれど、本当のところは縄文人に聞いてみないとわからない。個人的にはね、縄文人、ちょっと宇宙入ってると思っている。いや、真面目な話。青森の亀ヶ岡遺跡から出た遮光器土偶。あれ、どう見ても宇宙人。目がゴーグル。宇宙飛行士のアレ。よく「呪術目的で目を強調した」「女性のシャーマンを模した」と言われるけれど、いやいやいや、あれは宇宙服でしょう。宇宙から来た縄文人でしょう。だから進化したてのクロマニヨン人の農耕とか支配政治とか見て「ケッ!野蛮生物どもが」とか思っていたはず。だから宇宙人の血の濃さで日本人の政治や戦さ嫌いが決まるんんじゃないか。国防を考えない人のことを宇宙人て言うよなーなどと、勝手な妄想をしながらガイドの説明を聞いていたら、ほとんど頭に入っていなかった。だからこそ思う。夢想しても良い考古学は面白い。

後、ねぶた会館と源泉掛け流しの話があるけど、と長くなったので今日はここまで。また明日。