非核の美学か核抑止力か2025年07月05日

非核の美学か核抑止力か
世界は今、「力の空白」が戦火を呼び込む時代に突入している。先月のアメリカがイランのフォルドゥ核施設に対して行った精密爆撃は、地下深くに隠された核開発拠点を標的とした大規模かつ象徴的な軍事行動だった。しかしその余波は、単なる対イラン戦略にとどまらなかった。「核を持たない国家こそが脆弱である」そんな逆説的な教訓を、権威主義国家やテロ武装勢力に突きつける結果となった。この構図は、北朝鮮の核完成以降に見られるアメリカの“抑制姿勢”とも重なって見える。かつては圧力と制裁で非核化を目指していたアメリカは、ICBMと核弾頭を実戦配備した北朝鮮に対して、「現状維持と封じ込め」に戦略を転換した。これは明らかに、「核さえ完成させれば攻撃されない」という危険な成功例を世界に示してしまっている。

問題は、こうした「成功例」に続こうとする国家や組織が、今後さらに増えていく可能性が高いことだ。特に懸念されるのが、ロシアと中国の動きである。両国とも国際的な非難や制裁に対して無感覚になりつつあり、政治的・経済的利益のために、核関連技術や物資を“共有”することへのハードルが下がっている。すでにウクライナ戦争を通じて、ロシアは「核の脅し」を常態化させ、中国も南シナ海や台湾海峡で戦略的圧力を強めているが、今後、これらの国が友好関係にある政権や武装勢力に核技術を流出させる事態は、もはや空想ではない。現代の戦術核は、こうした流出リスクを一段と高めている。かつての「都市ごと破壊する核」から、「使える核兵器」への小型化が進み、0.5キロトン規模の低出力核であれば、通常兵器と見分けがつきにくい。それは、限定的な戦場使用を可能にするだけでなく、非国家主体が手にした場合、どこで、いつ、誰に向けて使われるかわからない不確実性を世界にもたらす。核抑止は今や崩れかけた秩序の支柱に過ぎず、誰がどこで引き金を引くか分からない時代に突入している。

こうした現実を前に、かつての核廃絶運動の理念は、すでに限界を迎えている。「持たず、作らず、持ち込ませず」という日本の非核三原則も、理想としては尊重されるべきだが、それが安全保障の現実から目をそらす手段になってしまっている側面は否めない。特に「持ち込ませず」を固守することで、米国との戦略的連携や、最先端の原子力潜水艦との協力すら議論から排除されている状況は、時代錯誤とも言える。すでにオーストラリアは、米英とのAUKUSを通じて、非核保有国のまま原子力潜水艦を導入しようとしている。核兵器を持たずに、事実上の抑止力を得るというこのモデルは、日本にとっても現実的な参考例となる。さらに近年では、アメリカの原潜を“リース”する形で抑止力を補完する案が取り沙汰されており、これは核兵器の直接保有を避けつつ、非核三原則の精神も完全には破らない「現実主義的解決策」として注目されている。

重要なのは、核を持つか否かという抽象的な問いではない。問われているのは、国家が国民の命をどう守るのか、そしてそのためにいかなる覚悟を持ちうるのかという現実の決断である。理想だけで国を守れる時代はすでに終わった。目の前にあるのは、美学か覚悟かという二択ではなく、「生き延びるかどうか」という極めてシンプルな問いだ。抑止力とは、戦争をするための装置ではない。戦争を未然に防ぎ、国民の暮らしと生命を守るための“静かな盾”である。ロシアや中国、あるいはそれに連なる勢力が核の秩序を崩そうとしている今、日本がどこまで現実に目を向ける覚悟があるのかが、参院選挙でも問われている。