日弁連問題を国会で告発2025年11月24日

日弁連問題を国会で告発
日本保守党の北村晴男参院議員が国会初質疑で放った一言は、霞が関でも永田町でも静かな波紋を広げた。「強制加入団体が政治的声明を繰り返す現状は、会員の思想・良心の自由を侵害している」。矛先は、言わずと知れた日本弁護士連合会(日弁連)である。弁護士は日弁連と単位弁護士会に加入しなければ業務ができない。つまり団体の声明は、たとえ自分の思想信条と真逆であっても、事実上“弁護士全体の意見”として外部に流通する。たとえば2016年、日弁連が組織として死刑廃止を「宣言」した際には、内部から「なぜこの立場が全弁護士の総意になるのか」と反発が噴出した。この一件は、執行部の判断が自動的に“総意”として扱われる構造的問題を象徴している。

歴代執行部の方針によって、政治色の強弱や重点テーマが大きく揺れることは珍しくない。ある年度は死刑制度が前面に出され、別の年度には憲法論、さらには社会福祉や外国人支援が主題になる。方針の“振れ幅”が会員にそのまま乗る構造に対し、「なぜ自分の思想とは別の立場に自動的に組み込まれるのか」という違和感は、以前から弁護士界の深層に積み重なってきた。しかし法務省は「業務改善の範囲内」と慎重姿勢を崩さず、強制加入制度の根本的な見直しに踏み込む気配は薄い。北村氏が弁護士法改正により政治活動禁止を明文化すべきだと主張するのも、制度の“設計思想”と“実際の運用”が乖離している現実を見据えた問題提起といえる。

他の士業団体を見れば、日弁連の特異性は一層浮き彫りになる。税理士会、公認会計士協会、司法書士会も強制加入制だが、政治的争点に踏み込むことはほとんどない。税制改正や登記制度など、あくまで業務に直結する改善提言に限定し、思想信条の自由との衝突を極力避けて運営している。強制加入団体としての“中立性”を守るための自制が機能しているのである。

国際比較も興味深い。米国では1990年の連邦最高裁 *Keller v. State Bar of California* 判決が、強制加入団体の活動を「職務関連の範囲に限定すべき」と明確に示し、政治的主張は任意団体に委ねる二層構造が定着している。欧州でも、司法制度や人権に関する発言は行われるものの、政権批判や安全保障政策など政治的分断が生じる領域には踏み込まないのが一般的だ。

こうした国際比較の中に置くと、日本の制度が抱える一つの“逆説”が浮上する。本来、全体主義を否定するために設計された民主主義が、強制加入団体の政治的声明を通じて、少数意見を包摂しない“全体主義的構造”を結果的に生み出してしまっているのではないか。組織の多数派的判断が自動的に「弁護士全体の立場」として社会に流通し、異議を唱える会員は沈黙によって参加を強いられる。これは制度の理念と実態が逆転する典型的な構図である。

本来、強制加入団体は公共的使命と職能規律に専念すべき存在だ。政治的主張があるなら、任意団体をつくり、そこで自由にやればよい。北村議員の問題提起は、長年“曖昧な慣行”の下で済まされてきた矛盾を正面から突き、制度の再設計を促す意味を持つ。

民主主義とは、多様な意見を保護する仕組みであるはずだ。だがその民主主義が、制度の隙間から“多数派の声だけが総意として固定される”構造を生み出していないか。日弁連問題は、その根源的な問いを突きつけている。これを機に、制度の公正さと中立性をどこまで守るべきか、社会全体が再考する時期に来ているのではないか。

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